創価学会にはもちろん良いところもあります。
そしてそれこそが最大の罪悪です。
創価学会の土台たる一般信者の皆さんは極めて素朴で
正直で疑うことを知らない、隣人を愛し、社会関係を大事にする
ごくごく親切で真面目な人たちが多いです。
主婦や年配の女性が多いのもそれをよく物語っています。
ここが学会の良いところ。
池田会長全盛時代当時、徐々に近代化し都市化し、
旧来の隣人社会の構成が薄れていく中、
とりわけそういった隣人社会に主に居場所を保っていた主婦層や年配者は
「毎日仏様を拝むと良い」「悪いことをしてはいけない」(外形的には)
極めて素朴な信心という心の拠り所と、何より「人間関係」を、
社会を提供してくれる学会をまさに救いとして受け入れていった。
教義の良し悪しはともかくこうした社会と心の空白を埋めていったことは
宗教として極めて正しい行為であり本質であると僕は思う。
仏教であれキリスト教であれ広く流布した宗教の民衆への受け入れられ方とは概して
こういった形であり教義の詳細はあまり関係がない。
これも学会の良い点ではあった。
しかしその後の池田大作による教義自体の変質がこの「良い点」を
同時に「最悪な点」にしてしまった。
一般信徒にとって「毎日仏様を拝むと良い」「悪いことをしてはいけない」
という極めて「良い」教えを説く学会の本質は善である、という形が出来上がっている中で
徐々に教義の姿が変わっていっても、信徒は学会の本質えお「善」
と受け入れている以上全てを善と受け入れていった。
さらに最大の問題点としては「創価学会」という社会に大本の「居場所」を置いてしまった
彼らに教団を離れることは「社会」との接点を失うことであり、ありえない選択であった。
そんな彼らは「学会」という社会の中により一層のめり込み、
上層部の言われるがままに教義を信じ、寄付をし、その純真な信仰心から今日も
折伏を続けるのです。
全ての罪悪の根源は学会の組織体制を巧妙に利用してきた池田大作はじめとする上層部であり
一般の学会員はある意味極めて「良い人」であることを理解し、哀れみを持って
「創価学会」と「学会員」を混同して非難せず(あなたの傍の学会員がいかに迷惑な存在でも)
正しい糾弾をしていって欲しいです。
もちろん成人の会員は大人としてそれ相応の責任を有するので、
人に迷惑をかけた場合全く無罪、責任無しであるというつもりはありませんが。