みんな幸せに…なれるよ〆

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590会員X
池田氏の師弟不二論は御書の何処にもない個人崇拝のための我見であることは
すでに指摘致しました。これ以外にも彼は仏法上の大謗法を犯しています。
それは以下の2点に絞られます。
 尚、以下の文は創価学会の中の限定した意見ですので一般の方は読み飛ばして頂いて
構いません。また表現上、他宗の方を否定するような説明になりますがご容赦ください。
池田氏はよくこのような指導をされます

@−1  大宇宙を貫く絶対普遍の「法」それは同時に我が生命を貫く「法」でもある。
     その大法を現実の上から説ききったのが大聖人の仏法である。この妙法という宇宙を貫く
     生命の「法」に則り生きていくとき最大に価値ある人生が築くことが出来る。
@−2  大聖人は宇宙の根本法則を一幅の漫荼羅に御図顕されたそのお姿が御本尊である。

A生死を繰り返す主体は自身の我でありその我を仏界の大我と一体にするために仏道修行がある。
 
 この仏法が宇宙の法則、我という考え方は全くの誤りです。内外相対の外道の考え方です。
釈尊出現以前インドでは六師外道という集団がおりました。いわゆるバラモン集団です。
彼らは世の中に存在するあらゆる事物は独立しておりこの独立個性が集合しているのが
現実世界と説きました。その事物の(人間も含め)のなかに実体、我というもの、本質、を持っていると
考えます。変化する万象のなかに変化させるがそれ自体は変化しない恒常的で安定したもの
を志向します。池田氏と同じ考えです
 釈尊はこの外道思考を真っ向から否定し衆生救済を始めます。
釈尊は宇宙世界を個在の事物の集まりでないと覚り事象、出来事の集まりとします。森羅万象
(人間も含め)諸因所縁が寄り合って組み立てられた形として仮に存在して(仮有)いるという
縁起の法門を説きます。仮和合ともいいます。この縁起の法門を離れては仏法は成り立ちません。

日淳上人は「(大聖人の御本尊をゆるがせにするものが多い)このような考え方は南妙法蓮華経は
法であるとのみ考えるからでありまして宇宙に遍満する妙法の理が題目とするからであります。
これは大変な誤りであります。」と教示されています。
591会員X:04/01/03 00:28 ID:???
>>590の続き
仏法は宇宙根源のの法でもなければ哲学ではありません。陽子さんや池田氏が云うような
生命を説いたものでもありません。
仏法は仏知見(仏の覚り)を衆生に開き、示し。悟らしめ、入らしめんとする教法です
仏(1人称)と衆生(2人称)の関係でのみ成り立ち3人称の世界である宇宙という客観法の
中にはないのです。この成仏の直道を天台は一念三千、大聖人は文底独一本門の南妙法蓮華経と説かれ
三大秘法として完結されます

@については大聖人は「唯所詮一心法界のの旨を説き顕すを妙法と名ずく」
「妙法蓮華経を唱え持つと云うとも若し己心の他に法ありと思はば全く妙法にあらず一生成仏叶がたし」
と池田氏の妄説を否定されています。
Aに「我」については「外道は一切衆生に我有りと云い仏は無我と説き給う」391P
外道は常楽我道と立てしかば仏世にいでまさせ給いては苦、空、無常。無我と説かせ給う」
と明快に池田氏を否定されています。
 内外相対するどころか池田氏は外道の教え、バラモンを内道である仏法に混入し内外一致という大聖人の
教義上の大謗法を犯したというのはこういことです 師子身中の虫といってもいいでしょう。
 何故、学会員から尊敬を集める池田氏が気づかなかったのか。それは釈尊が予言をしています。
『涅槃経』に「是の諸の悪人・・・・・・如来の深密の要義(正法正理の正義)を滅除して(六師義の様な)
世間の荘厳の文飾(哲学や科学などの論にまぎれ)無義の語を安置す・・・・・・是れ魔の伴侶なり」と示されています
仏法は[実存]説なのに六師の様に[客観]を説く者が世間の荘厳の文飾(いかにも尊敬できるかのような言動を装い)
をもちいて出現すると明快に説かれています。
 池田氏率いる学会が様々な問題を引き起こす原因は誤った宗教にあったのは最大の皮肉です。

592会員X:04/01/03 00:38 ID:???
繰り返しになりますが
「妙法蓮華経を唱え持つと云うとも若し己心の外に法ありと思はば全く妙法にあらず一生成仏叶いがたし」の後には
次のように続きます。「故に妙法と唱え蓮華と読まんときは我が一念を指して妙法蓮華経と名ずくるぞと深く
信心を発すべきなり」と御指南です。学会に属する我々は深く信心を発し池田氏の過ちを改善する義務があると考えます。