682 :
乱:04/02/12 14:42 ID:WUJZ/dXt
春田の蛙さんレスありがとうございました。
思い立つと投稿せずにはいられない性分と.頭が悪く
どの本にどこに書いてあったか忘れてしまい.いいかげん
なことですみません。
貴方のレスまた使わせていただきますので御了承おねがいします。
>>678 >日蓮が現代の仏教に関する情報を入手すれば、まったく違った主張になるだろうと思いますよ。
乾さんの推論キボンヌ。
684 :
乾闥婆:04/02/12 23:49 ID:???
>>681 Sbさん。
>それが、道元さんの禅なんです。
で、それを周到することに意味はないのです
済みません、よく意味がわからないのでもう少し分かりやすく言って下さい。
「周到する」ということはどうすることなのですか? 周到とは「準備(注意)
がよく行き届いて、手落ちなどの無い様子」と辞書にあるますが、その語に「す
る」とつけるとどのような用法になるのでしょうか。ところで道元は経典に対
してもまさに「準備(注意)がよく行き届いて、手落ちなどの無い様子」であ
ったようですね。「知識はかならず経巻を通利す。通利すといふは、経巻を国
土とし、経巻を身心とす。経巻を為他の施設とせり、経巻を坐臥経行とせり。
経巻を父母とし、経巻を児孫とせり。経巻を行解とせるがゆゑに、これ知識の
経巻を参究せるなり。知識の洗面喫茶、これ古経なり。(中略)しかあればす
なはち、参学の一箇半箇、かならず仏経を伝持して仏子なるべし。いたづらに
外道の邪見をまなぶことなかれ。いま現成せる正法眼蔵はすなわち仏経なるが
ゆゑに、あらゆる仏経は正法眼蔵なり。」これは『正法眼蔵』の「仏経」の一
節です。これにつづいて経典を軽んじる輩が最近多いことに触れて、「外道天
魔の流類」と痛罵し、「仏祖の法むなしく狂顛の法となれり」と嘆き怒り、彼
らを「杜撰のやから」と罵倒するのでした。「あらゆる仏経は正法眼蔵」なの
ですから、それを大切に扱うのは当然のことではないでしょうか。月を差す指
もまた「正法眼蔵」なのではないのでしょうか。そのことを理解しなければ道
元から厳しい叱責をあなたは浴びることとなるのではないでしょうか。
685 :
Sb ◆SbSGI7AtEA :04/02/13 00:18 ID:ZwVm+YYS
>>684 >乾さん
すまない、漢字間違えていた
踏襲だです
なにやってんだかねぇ
それが、道元さんの禅なんです。
で、それを踏襲することに意味はないのです
踏襲すべきはそれこそ不立文字の部分
指を踏襲しても意味はない
月を踏襲しなければならないのです
で、よろしく
(あー恥ずかしい)
>>675 レスどうもでした。この問題はケンさんもなかなか譲りませんが、これは
ナンミョーホーレンゲーキョー問題の最大の論点だと思っています。
>体感の違いだけが問題であるなら、同じ発語行為である念仏と題目から命を
>賭けて一つを選び他を排斥するほどの違いを人間はどう知覚しうるのでしょうか。
この部分は世界最大の日蓮教団体である創価学会という宗教団体が唱える
根本主張であり、つまり現代では日蓮と名のつく信心者の最大多数がこの
問題で囚われになっているということをまず理解するべきだと思います。
つまり「人間はそれを知覚している」ということです。創価学会という
1000万人の日本人や外国のまれな人々が感じる日蓮の信心というものは
すなわちこれなのです。これらの多くの人々は(ただし一世さんのと限定した
方がいいのかもしれないですが)ほとんど皆この主張「仏界」感覚の虜(とりこ)
としてのナンミョーホーレンゲーキョー問題になっていると理解しなければ
なりません。つまり彼らはこのナンミョーホーレンゲーキョーのもたらす
体感にすべてを掛けて創価学会に入信したのです。
ここがわからないと創価学会の秘密は全然わかったとは言えません。それは
すなわち、創価学会という日蓮思想の具現者達である彼らを通じて日蓮が
どうしてこのナンミョーホーレンゲーキョーが世の根本だと主張してそして
それに賛同して人々がそれに同意を与えるようになったのかがわからないと
いうことだと思います。彼ら一世入信者の99%はこの「ナンミョーホー
レンゲーキョーが仏界をもたらす」から「日蓮の言ったことは正しかった」
のだと考え、「真理思想の体系」というものを「彼らなりに推論」した結果
「日蓮の名は広まった」のです。ですからカルトの根源はどこかはあなたの
指摘されている「宗教の部分」ではなく、日蓮がもたらした「秘教思想」で
あり、そこを破壊しないと全然彼らは救われない、ということを言っている
わけです。なので、「日蓮を否定」する必要があると言うことになるわけ
ですね。ここはまず第一の最重要の論点なのですがよろしいでしょうか。
チト長くてすみませんが、ここは重要な処なのであえて書きますが、
つまり「ナンミョーホーレンゲーキョーによる体感イコール仏界」であるから、
十界中の最高意識の状態である「仏」の状態を実現する手段は「これしかない」
そして「これが法華経のタイトルになっている」ことが「フシギなこの世の
因縁であり妙(思量の及ばないフシギ)なんだぞ」「これは仏(という名の
魔法の元神)の与えた最後の秘法であり宇宙の根源の秘法なんだぞ」→「これ
をこの世に花開かせたのはかの日蓮”大聖人”であり、日蓮こそは仏の顕現
であった」→「(この魔法呪術の元神であるところの)仏の慈悲でもたらされた
この最高の秘法ナンミョーホーレンゲーキョーは人が絶対に服従して唱えなけ
ればならない最後の法でこれを越える法は絶対に無い」→「それは(この魔法
の元神なる)仏の末法の最後の慈悲で出された救いだからだ」→「この秘法を
受け入れないでこれを広める我々に逆らうならそれは救いの最後の法を受け
入れなかったことになるのだ、それは最大の仏罰ものである!」「そうなら
おまえは仏に逆らう悪魔の輩だ!」→「徹底的に嫌がらせをして苦しめでやる」
「言いなりになるまで嫌がらせしてやっつけてやるぞ」「いいか逆らうとこう
いう目に合ってどんどん不幸になるのだ」→「不幸になりたくなければ我々に
従うのだ」「そうして我々の側につけばとにかく許してやろう」→「敵にさえ
ならなければまずはよしとしてやる」「嫌がらせがいやならナンミョーホー
レンゲーキョーを唱えて裳前もこの秘法を広めるのだ」「そうすれば裳前も
福運がついて救われるのだ」「そしてこれを広めている創価学会だけは唯一
日蓮の秘法を忠実に広めているので世界で唯一の正しい集団、現代の威音王仏
なのだ」「この威音王仏に従って誹謗せずに絶対の服従を誓って進まねばなら
ない」「逆らえば地獄に落ちるんだぞ!!」←「なぜならそうすれば日蓮に
逆らうことになり仏に逆らうことになるからなんだぞ」「わかったな」これが
日蓮カルトとなっているのです。
>その発語される言葉の背後に広がる意味世界があるから、さまざまな主張や争い
>が生じるのでしょう。後付であっても、問題は発語行為自体ではなくて、その
>背後に広がる意味世界にあるのですよ。
まさに、「日蓮」=「カルト」になっており、これはたまたま創価学会という
団体名で書いているが、創価学会でなくても日蓮の教説からすればどこがやって
もコウなるわけです。それは「日蓮」=「仏」=「絶対」=「逆らうな」=
「言いなりで働け」ということにそのまま繋がっていくわけですね。日蓮を
否定しなければならない理由はこれで完全に明らかであり、根本から破壊する
しかないのは議論の余地がありません。題目奇跡教としては本門仏立宗なども
そうで創価学会と瓜二つの教義でした。
そうした根源はあなたのおっしゃるこの「仏という言葉への異常なまでへの偏執」
があることも指摘できましょう。彼にとっては「仏」とは「従うべき神」と
ほとんど「同義」になっており、まさしく一神教の神格に該当する存在になって
いるわけです。つまり彼の仏とは「裁く神」であり、ユダヤ教やイスラム原理主義
と変わるところがないのです。だからこそ彼は「異宗連中の首を取れ」とまで
言ったわけです。本当の「仏」なるものがそんなことを言っているというのは
おかしな話なわけです。まさにカルトといわなければなりません。
彼が間違った根源はどこにあったのか、同じ仏教でも全然カルトにならなかった
禅に対しなぜ「呪文教」だけがカルトになったのか?それは皆わたしの主張して
いる通りに、それがもたらす「フシギ」にあったからであり、そのフシギを勝手
に「先付けとして説明した間違い」が起こしたからなのです。だからその「フシギ」
が「フシギ」でないことを「科学的に証明する」ことができれば「問題はすべて
解決することになるわけです。
日蓮は完全に先付けの説明としてこれを主張し、だから「仏の慈悲でこの呪文を
経のタイトルにつけておかれていたのを発見した!」という形で主張したという
ことはすでに述べていますから、私も「後付けで説明した」と言っていません。
彼にとっては先行して「そうなる理由があった」わけですが、それが「一世信者の
条件付け」として「取りこまれた」わけです。ですから科学的見識を持ちうる現代
では、彼らの目を覚まさせることはできるでしょう。彼らに「それが自身に植え付け
られてしまった動物虐待実験における条件付けのネタ」であったに過ぎないことを
自覚させることは可能でしょう。現代だからこそそれが可能になったはずでした。
ですからこれは100年前以前では不可能でしょう。
それは現代になってなぜ創価学会という「方式」で現代人が騙されたのかという観点
に立てばもっと明らかになります。それは科学の「方式」が力を持った現代だからこそ
「日蓮」は「信仰された」と言えるからです。つまりそれは「日蓮」とはこうした
「科学風の現代カルト」のネタとしてもってこいの風情を始めから主張の「構造として」
持っていたからですね。だからこそ過去にはなかった教勢の急速な拡大というものがあり
得たと考えられるのです。彼の教説はまさに「実験科学」的要素で構成されているわけで、
以前の現証理論はまさにそれでした。それを現代風に「奇跡の体験新聞」でばら撒いて
広めたのが創価学会でしたね。
法華経行者が叩かれるのも現証だという話ももちろん含みますが、それよりもむしろ多く
の人々を引きつけたのはその福運信心、仏罰信心でしたね。それらは「実験して体験可能
な科学」として創価学会は広めたのです。日蓮のナンミョーホーレンゲーキョーはまさに
この「体験科学」の実験の素材として提供され、人々はそのもたらす体感に依拠して
「幸せになった」「福運があった」と「体験」して「入信」すなわち「日蓮の教説は正し
かった」=「創価学会は絶対だ」となって「後は命令の言いなり」になるほかなかったの
です。つまりは日蓮こそが「カルト思想」そのものの素材を作り上げたことに他ならない
わけです。
そこでいかに当時の日蓮自身が現代の知識がなかったがためにその限定的な知識から
演繹して彼の教説が作られたのかを述べても、それだけでは現代人の日蓮絶対思想を壊す
ことはできないでしょう。それはあくまでも彼らの「体験科学に裏付けられてしまったもの」
であり、かつその体験は”条件付けである日蓮教”と不可分に結びついてしまっており、
そこに体に染みついて植え付けられた体感と切り離せない条件付けとなっているわけです。
それが彼らの宗教を「元の日蓮自身の誤読」を指摘しても崩れない「彼らの体の一部」に
なってしまっているからです。
そこを破壊するのは、彼らが依拠して信心するに至ったその「体験科学という構造」その
ものに拠るほかありません。そしてそれこそが現代では最も効果的に破壊するはずです。
同じ現代人でも二世以降の人々は一世の人々と違い冷静ですが、それはあなた方が一世の
人たちと同じような「無信心」状態からの「入信」者ではないからですね。それは自分の
困った状況をこのナンミョーホーレンゲーキョー理論で救われたという体験がなく、その
結果その「条件付け」が体に存在していないからです。その結果ナンミョーホーレンゲー
キョーが持つ体感を実感として感じる基礎がなかったためでしょう。だからこそ二世以降
の人々には、意味論としての日蓮が持つ「仏教」との接点の方が重要になっているのでしょう。
ケンさんが仏教に造詣が深いのはそのためでしょう。
691 :
名無しさん@お腹いっぱい。:04/02/14 02:31 ID:K04DSspt
ない。
直接関係あるのは、阿含経だけだろが!
>>676-678 道元の経文はあくまでも「バラモン教でない仏教を証する指」としての参考書でした
から、必要なものではあるものの、それは悟りを得るまでの「修行」の道しるべと
してのそれであることを強調し、学道のための入り口、指としての参考書として強調
されているに過ぎないでしょう。そこが日蓮にとっての法華経とはまた異なると思い
ます。それは服従するための経文ではなく学び思索するための便宜としてのみの価値
を持っているに過ぎなかったのでしょう。
「正法眼蔵」の「古仏心」には「いはゆる世界は、十方みな仏世界なり。非仏世界
いまだあらざるなり云々」とありますが、結局道元の禅の特徴とはここにあると思
われます。これはよく言われる魔などは彼にとっては無に等しいものであることを
意味していました。それは世界は自己と世界が無差別であるというのみならず、
世界はそのもの自体が仏であり良いことも悪いことも全部仏の世界なんだという
基本認識であり、それが世界の聖化ということでした。生臭の現代人には縁のない
ような話にも見えますが、それでも魔の認識は悟りにおいては存在しないのです。
すべてが聖となり、それを悟りの極致に置いていることが道元の悟りにおいて重要
でした。これは実際にはキリスト教の聖者などにも見られる思想で結局は仏教の極致
とキリスト教の極致は一致しているとは言えるとは思います。それは世界は神のもの
であり神そのものであるからこそ、自己は世界に悪をなさずすべて良いことしかでき
なくなる、ということでしょう。まあそのレベルの深浅はあるでしょうが。そこで修行
は続くことになるのでしょう。
少し追加すると、「ナムアミダブツ」はこれを普通に発音するだけですと、
ナンミョーホーレンゲーキョーのような効果効能は生まれません。それは「ナム
アミダブツ」は発音するためのマントラではなかったからです。
それは先に宗教パラダイムが必要な呪文でした。つまりこれは「信仰対象としての
阿弥陀様」が「想像上」に存在することを要求し、そうした世界観が先に必要な呪文
なのでした。その上で意識上の意味論が先に必要なマントラとして説かれたのが
この念仏というものであり、これはその意味で「宗教となり得るもの」だと言える。
一方、ナンミョーホーレンゲーキョーはそうではありません。誰でも「実験科学の
方法論」として「無意味状態」で「何も意識に意図的な作為をなさずに」ただ「口に
する」だけで「体感という効果効能がある」のがこのナンミョーホーレンゲーキョー
マントラでした。これは意味論を始めから持たない種類のものであることをそうした
原点が証明していると言えます。つまりこれは「宗教たり得ない」ものです、つまり
「先に意味なしに存在できる体操としてのみ本来ならば語られるべきもの」だったと
思われます。
その理解がそのまま続けば問題は無かった、つまり「日蓮教はただの体操教です、
このマントラは宗教概念の中に還元できません」「種類の発音だけが重要なマントラ
なのです」→「つまりそれは体操すれば健康になる、しかしやめればその効果効能は
減りますよ」という程度にしか教えられない種類のものだったわけです。そこを頭で
はっきりと「理解できれば」よいわけです。
「ナムアミダブツ」に似た効果効能を付加しようとするとですね、これを
たとえば、
「ナぁーム、、、ァーーアミダッブツ」
などのように工夫した夏おんが必要になります。そしていちいち阿弥陀様を
想像することをしないで「発音のみに没頭する」必要があります。こうすれば
ナンミョーホーレンゲーキョーのようになるでしょう。
ナンミョーホーレンゲーキョーはなぜ効果効能を持つのかというと、先日の
気を吐き出す意味があることは重要でした。つまりこれは体の筋肉や神経の
使い方に関係しているからです。長く伸ばす音韻は横隔膜を深く動かすのに
最適で、息が長くなるからでしょう。それが呼吸を自然に長くすることに
貢献するのです。
そして発音はそれが咽と口、顔面の神経を刺激する方法論に還元されるでしょう。
たとえば、先の「ゲキョゲキョゲキョ」ですが、これも確かに効能がありますね。
これは下っ腹の筋肉を刺激し、そこを強固にする働きがあるようです。つまり
これは下っ腹の気を吐き出すのに効果を持つのです。この音韻がつまりは
ナンミョーホーレンゲーキョーの一部に使われているということなのです。
下腹の筋肉を絞り、そこにある邪気(筋肉がチュウトハンパな状態にあって、神経電位
が定まらない状態みたいなものに還元されるのかもしれませんが)を吐き出し、筋肉の
神経の状態を「整理する」という働きがあることを、この
「ゲキョゲキョゲキョ・・・・・・・・・・ゲキョゲキョゲキョ」
が証明するでしょう。これも元気を与える体操なのです。そしてこれも禅の前体操として
有効になるでしょう。
みなさんへ
マントラは禅のための準備運動として捉えてください。経を「意味も考えずに」読経する
のには理由があります。それは禅の準備運動に適しているということで、要はその秘密は
結局は体操効果であることにほかならないのです。仏教が勤行を行なうのは瞑想の準備運動
です。
(チベット仏教の読経のリズムはまさにナンミョーホーレンゲーキョーの連続と同じリズム
にになっています。このように瞑想の準備としてのマントラ唱えが有効だというヨーガの
理論はこの意味なのです。ナンミョーホーレンゲーキョーもその一部であるにすぎないのです)
その意味ではチベット仏教の読経のほうが発達してるし効果的だと思ってるけどね。
より効果を発現しやすいという意味で発達していし、技法にも工夫が凝らされている。
で、いずれも効果があることは長い歴史的な経験の積み重ねの中でも十分に証明されてきていることで
効果自体を否定してもあまり意味がないよな。効果を否定せずにカルトを否定するというのは高等技術が必要な話だ。
>>696 しかしわからんやつだな、おまいは。
695までどう読むとそんなレスが返るのか?
どこに「効果効能がない」っていう文句が書いてあるのか?モマイは全然日本語が通じねい奴ってことでイイ?
オリは「効果効能」は科学的に「分解されて不思議な妙を破壊するべき」だと言ってんだろ?
タタコロスぞ、おんどら。
またちょっと追加です。すんません。これでまた休みます。
>>690 >であり、かつその体験は”条件付けである日蓮教”と不可分に結びついてしまっており、
>そこに体に染みついて植え付けられた体感と切り離せない条件付けとなっているわけです。
ですから、題目行が最高で最も優れているという体感を生み出した背景は、それまで
宗教に無関心で禅もしらずヨーガも知らず、キリスト教も知らない人々が始めて体感した
「仏界」と名づけられてしまったその感覚にすべての根源があったわけですが、
それが「最高のもの」だという理解は「十界論」の最高意識状態が「仏界」と名づけ
られていて、その最高の体感がこのナンミョーホーレンゲーキョーで生まれるものである
というロジックが信じられたからでした。
しかし私の提唱するところのこの「題目唱えを気の済むまでやってから、気が済んだら
そこでその姿勢のまま静かに深く呼吸する瞑想に入る(5分〜10分程度でよい)」という
方法によって、その観念は打破されるはずであるということをも言っているわけです。
つまり通常の題目マントラ唱え行はそれが終るとそのまま普通の生活に戻り、予後の効能
が本来現れるべき瞑想ではなく、生活上での呼吸でかすかにしか得られない状態で感ずる
ほかなかったからです。それで本質が「題目」という行そのものにあると考えられること
になったのでした。しかし本当はそれは準備運動であり、本番はその直後に行なう瞑想
状態にこそ意義があったのです。そこで得られる体感こそが、本来得るべき体感なのです。
そこで清浄になった後の気の充足が得られるべき場なのです。それが瞑想なのです。
準備運動は題目に限りません。ゲーキョーゲーキョーゲーキョー・・・・・・・・でも
構わないのです。その後の瞑想体感によって本当の意味がわかるようになるからです。
みなさんも体感を感じてみてください。それでは。
699 :
:04/02/15 01:06 ID:???
入門書で禅をやってる奴がいるけど、一応、危険性は指摘しておく。
かりに神秘体験を経験したとしても、それを勝手に解釈して、
麻原みたいにならないように注意すること。
禅僧を訪ねて、直に接心を受けなければ、第二の麻原の可能性もある。
仏門の師の大切さってのは、直に教えを請う師の有無だから。
ま、逆に言えば、ここのアホに教えを請わずに、
禅僧に教えを請えってことだ。
特に
>>622なんてのは、神秘体験=悟りとも読めるので要注意。
本人の意図とは別にね。
ちにみに禅寺には、禅宗に帰依しなくても、
座禅などの修行を一般人がができるところもある。
キリスト教徒が、キリスト教の信仰のために座禅をしたりする。
700 :
:04/02/15 01:30 ID:???
禅は、森田療法・内観療法など、臨床心理学に応用されてて、
使い方次第では、洗脳にも利用可能。
特に内観療法ってのは、半畳のスペースを衝立で囲い、
その中で丸一日中、誰とも話さず、何も読まず、
与えられたテーマについて考え続ける。
そのテーマは、家族の今昔が基本だけど、
悪用すれば、色々出来るわけ。
禅の目指すところと、禅の心理学的作用は別問題。
カルトが利用しようと思えば、使いやすい道具でもある。
701 :
:04/02/15 01:32 ID:???
話を戻して、日蓮が仏教か否かは、日本仏教を仏教と認めるか否かってこと。
インド〜日本までの仏教の変遷を認めるか否かってことね。
釈尊に忠実にってなら、日本仏教ではせいぜい奈良仏教あたりが、
なんとかってところで、それ以降のは駄目になる。
日本仏教を認めるなら、日蓮も仏教になる。
それに日蓮は故人だから、文献をどう解釈するかであって、
それは現代人の資質の問題。
日蓮宗のように法華経以外も学んだ上で解釈するなら仏教としても良い。
あくまでも天台にしたがって、最高の教えとするだけだから。
創価学会のように法華経以外を学ばずに解釈するなら、少々やばくなる。
戸田の生命論は、生命=仏と解釈し、
生命=仏性(仏となる可能性)とはならない。
ここで凡夫本仏論が出てきて、仏教ではなくなっていく。
何を仏教とするかで結論は違うと思う。
>>701 そうか? あくまで日蓮が仏教か否かに限定して論じるべきだと思うが。
なぜなら、日蓮は日本仏教の部分集合に過ぎないからで、部分集合の存在を持ってして、全体集合を論じるのは
適切ではない。適切ではないというより乱暴すぎる。
703 :
乾闥婆:04/02/15 02:28 ID:???
>>686 >つまり「人間はそれを知覚している」ということです。
ふたつの点であなたは私の文章を読み違えています。まず私は知覚の話に関し
ては日蓮の話をしているのであって創価学会員の話をしているのではない、ま
た創価学会員についてであるならば、彼らの多くはさまざまな発語行為を行法
として持つ宗教を遍歴して比較検討した後に題目を選び取っているわけではな
い、つまり彼らはそのらの発語行為の決定的な差異を経験的に知覚しえる状況
にないまま信仰している場合が圧倒的に多い、ということです。仮にさまざま
な発語行為を伴う宗教を遍歴した人間が判断を下すのであるとしたら、そこに
はすでに教義という意味に絡め取られた状況における発語行為となるのであっ
て、純粋な発語行為自体の比較はすでにできない状況になっている、またもし
仮に純粋行為としての発語行為が比較できうる状況であるとして、題目だけが
絶対であるという確信を持つことができるのであるとすれば、それは怖ろしい
ことであって、それは意味から切り離されたレベルで絶対性を確信できるとい
う点でもはや「事実」であり、まさに「正しい」こととなってしまう。そんな
ことはありえないので、ある種の宗教的な正しさの主張には教義という意味が
伴うと考えることが普通であると言ってよいでしょう。よってあなたの「人間
はそれを知覚している」以降の説明は無効です。
704 :
乾闥婆:04/02/15 02:29 ID:???
>>689 >私も「後付けで説明した」と言っていません。
ということは、
>意味論は、ニチレンの場合はあくまでも後から付いたものだと考えています。
は撤回と言いうことでよろしいでしょうか。
>>690 >そこでいかに当時の日蓮自身が現代の知識がなかったがためにその限定的な知識から
演繹して彼の教説が作られたのかを述べても、それだけでは現代人の日蓮絶対思想を壊す
ことはできないでしょう。
私自身の場合、壊すことができましたが。
>そこを破壊するのは、彼らが依拠して信心するに至ったその「体験科学という構造」その
ものに拠るほかありません。そしてそれこそが現代では最も効果的に破壊するはずです。
彼らの信仰しているものが「科学という構造」であれば、の話ですね。体験や
その実感というものは科学ではないと思うのですけれど。体験や実感は科学的
根拠を必要としないでしょう。もっと直裁的なものですよ。だから題目なんか
ただの体操だ、といってみても彼らの体験や実感は揺るがないし、宗教的な意
味づけがさらに彼らの体験や実感を保護し強化することでしょう。あなたは破
壊することばかりに気を取られているようですが、そんな必要はないと思いま
す。体験や実感を「正義」へと追い込んでゆく宗教的意味づけを相対化すれば、
それはただの体験や実感にとどまるのです。体験とは個人的なものですからね。
それだけならなんら脅威にはならないのですよ。
705 :
乾闥婆:04/02/15 02:30 ID:???
>>692 >それは服従するための経文ではなく学び思索するための便宜としてのみの価値
を持っているに過ぎなかったのでしょう。
そのように単純に割り切れるものでしょうか。仏経は道元にとって「いま現成
せる正法眼蔵はすなわち仏経なるがゆゑに、あらゆる仏経は正法眼蔵なり」(仏
経)なのであって、それは悟りを得るための便宜的な道具であって、悟り終わ
れば捨ててよい、というようなものではなかったはずです。「禅はフリュウモン
ジの世界でしたから、経も教もすべて最後は捨てられてしまい、まさに空のよ
うになる(w)のが面目でしたね」という言い方は間違っていると思います。
『正法眼蔵』の「仏教」にこうあります。「仏正法眼蔵を単伝する仏祖、いか
でか仏教を単伝せざらん。いはんや釈迦老漢、なにとしてか仏家の家業にある
べからざらん教法を施設することあらん。釈迦老漢すでに単伝の教法をあらし
めん、いづれの仏祖かなからしめん。このゆゑに、上乗一心といふは、三乗十
二分教これ也、大蔵小蔵これ也。(中略)しかあれども、教外別伝を道取する
漢、いまだこの意旨をしらず。かるがゆゑに教外別伝の謬説を信じて、仏教を
あやまることなかれ。もしなんぢがいふがごとくならば、教をば心外別伝とい
ふべきか。もし心外別伝といはば、一句半偈つたはるべからざる也。もし心外
別伝といはずは、教外別伝といふべからざる也。摩訶迦葉すでに釈尊の嫡子と
して法蔵の教主たり、正法眼蔵を正伝して仏道の住持也。しかありとも、仏教
は正伝すべからずといふは、学道の偏局なるべし。しるべし、一句を正伝すれ
ば、一法の正伝せらるるなり。一句を正伝すれば、山伝水伝あり。不能離却這
裡也。」道元にとって経典はまさにあなたの引用した「いはゆる世界は、十方
みな仏世界なり。非仏世界いまだあらざるなり云々」というところの「十方」
の「世界」であるのでしょう。「経も教もすべて最後は捨てられてしまい」は
大きな誤りではないでしょうか。
706 :
乾闥婆:04/02/15 02:31 ID:???
>>693 >一方、ナンミョーホーレンゲーキョーはそうではありません。
非常に恣意的な操作をされるのですね。なぜ念仏に関しては「そうした世界観
が先に必要な呪文なのでした。その上で意識上の意味論が先に必要なマントラ
として説かれたのがこの念仏というものであり」とその発語行為以外の部分に
意味を認めるのにもかかわらず、題目においても必要とされる法華経の「世界
観」や、「その上で意識上の意味論」を隠蔽するのですか。日蓮の曼荼羅自体
が法華経の虚空会の儀式を模すという意味の上に成り立っているのでしょう。
なぜ念仏にはそれにまつわる種々の意味を認めるのに、題目に関してそれを切
り捨てるのですか。恣意的に過ぎます。あなたがそのように解釈したいだけな
のでしょう。お話になりません。
707 :
小森谷:04/02/15 07:25 ID:EcnJ8+Qd
708 :
名無しさん@お腹いっぱい。:04/02/15 07:49 ID:PNj4BZxj
宇宙人開発は進んでるのかな。猫の恩返しは意思のないすなわち知覚神経が
あまりない宇宙人とのキャピタルシュミレーション組でしょ。今カルトで東京
は第三世界になっていてみんないいすぎやかいすぎあそびすぎは処刑で大量殺人
されるからこわくて宇宙人以外外を歩いていないよ^
709 :
Sb ◆SbSGI7AtEA :04/02/16 15:10 ID:iLzfGgFw
>>698 あなたは何に導こうとしているのですか?
もし禅に導こうとしているなら
瞑想なんかしちゃいけない
そんなことする必要はない
瞑想と禅は何の関係もない
只管只坐そのままただ坐ればいい
>>703 では簡単に少しだけ。
>ふたつの点であなたは私の文章を読み違えています。まず私は知覚の話に関し
>ては日蓮の話をしているのであって創価学会員の話をしているのではない、ま
>た創価学会員についてであるならば、彼らの多くはさまざまな発語行為を行法
>として持つ宗教を遍歴して比較検討した後に題目を選び取っているわけではな
>い、つまり彼らはそのらの発語行為の決定的な差異を経験的に知覚しえる状況
>にないまま信仰している場合が圧倒的に多い、ということです。
読み違えているのではなく、指摘したまでのことです。気がついていない点が
二世以降の人にはあるということです。
わたしの言ったことは「日蓮の宗教が日本で1000万人も広まった理由は、現代という
科学の時代で体験科学の方法で広まる素地があったということでしたね。よくお読み
ください。現代だからこそ日蓮の教えは広まった。これは現代に特徴的でしたね。
ということは日蓮の教えは現代にマッチしたということで、それは「創価学会と
いう方式」によってもたらされた、だからそれは体験科学方式にマッチした主張
であったということでした。
ですから日蓮という存在は創価学会によって花開き、そして現代という科学の時代に
受け入れられた存在であったことは疑うべくもないと思っています。現代で南無
阿弥陀仏が創価学会のように広まったでしょうか?いいえ、広まったのはあくまでも
日蓮であり、その具体的な例証が創価学会であったというにすぎません。
>>703 >仮にさまざまな発語行為を伴う宗教を遍歴した人間が判断を下すのであるとしたら、
>そこにはすでに教義という意味に絡め取られた状況における発語行為となるので
>あって、純粋な発語行為自体の比較はすでにできない状況になっている、また
>もし仮に純粋行為としての発語行為が比較できうる状況であるとして、題目だけ
>が絶対であるという確信を持つことができるのであるとすれば、それは怖ろしい
>ことであって、それは意味から切り離されたレベルで絶対性を確信できるという
>点でもはや「事実」であり、まさに「正しい」こととなってしまう。
そして実際に創価学会員の多くは、南無阿弥陀仏ではなく、ナンミョーホーレンゲー
キョーを選んだのです。それはその方が体の「体感がうれしかった」つまり快感だ
ったからです。事実こうした板でも現実に、ナンミョーホーレンゲーキョーは快感
を与える、意味は関係なく「ただ唱えるだけで」喜びを感じさせる薬なんだとという
発言が多いのはどうしてだと思いますか?それはそれが体に直接訴える種類のマントラ
だからであるからほかなりません。その事実をそうした多くの人の証言が物語って
いるわけです。人々は体験科学、つまり「やってみたら快感だった、やめられない
麻薬のような快感と喜びになる」と感じたから、それに引きつけられたのがまず第一
原因だったわけです。それを続けている要員の一つには日蓮のいう戒めがあったから
ということももちろんあるが、それが有効な脅しになるためには、それが現実に信者
に証があったからであると考えるのが妥当です。その証、つまり「仏界感覚」やそれ
に連なる何かの「フシギ」「福運(だと思われたこと)」「仏罰(だと思われたこと)」
がやがて「日蓮の言うことは本当なんじゃないのか」と思わせたのです。
これが正しくないと思われましたら、ご家族の方にでもお聞きになれば事実に近いと
知られるでしょう。つまり多くの日蓮信者は自分の体験から「信じ始め」、そして
やがて「日蓮の言葉で後付けして戒めを受け入れた」という順序であり、この順序
すなわち体験科学が日蓮を広めたこと、そして日蓮の主張はそういう順序でしか広ま
らなかったということを物語っているわけなのです。
>>703 >そんなことはありえないので、ある種の宗教的な正しさの主張には教義という
>意味が伴うと考えることが普通であると言ってよいでしょう。よってあなたの
>「人間はそれを知覚している」以降の説明は無効です。
で、繰り返し述べている通り、「それは意味から切り離されたレベルで絶対性を確信
できるという点でもはや事実であり、まさに正しいこととなってしまう」というふうに
考えること自体が”早計だ”ということをわたしは申し上げているわけです。「そう
じゃないんじゃないですか」と。
人がどんなに体感ですばらしい、快感だ、爽快だ、これは奇跡だ、と実感したとして
も、それで物事の真理性を証明したり保証したりするべきものではないはずだという
ことで、それには「科学的な理由があり」、かつ、「他の呪文でももっと快感を与える
呪文もある(唯一性の保証が崩れるということ)」のであれば、それは単に「いくつか
の法則に乗っ取った体内の生理学的変化で説明されてしまう」種類の純粋に科学的な現象
にすぎず、それが「そうした快感を与える原因である」と論理的に解明されてしまうに
すぎないということです。そうなると、それらの現象の根源はあくまでも「科学的な原因
に基づく当然あるべくして起こっている生理現象であり」、その「喜びは単なる体内変化
の法則に乗っ取ったもの」であり、その法則に乗っ取っていさえすれば「ナンミョーホー
レンゲーキョー」でなくてもよくなり、それはたまたま「そうした体内現象を引き起こす
音韻を含み、適度に連続して口をあけて唱えやすくできている順序にならんで出来あがっ
ていた」だけにすぎず、それがたまたまある経文のタイトルとしてついていただけだった、
ということが言えることになります。これは違うでしょうか?
これが「対内で感じる快感、気持ち良さ、さらに喜びとなる」ことの「完全な相対化」
となり、それが植え付けられた教義に依拠せずに、「意味を考えずに、ただ唱えるだけ
で感じる」ことができる「本当の原因であった」と言えるからです。なぜならそれは
いくらでも呪文は作れてしまい、それらのどれでも人は喜びに感じるようにできるから
でしたが、その呪文には発音方法、音韻の特徴に法則があればよいだけであった、と
いうことになるから、何でもいいわけではなかったわけで、その法則さえ守れば効果
効能のある呪文は作り出すことができ、それらでもナンミョーホーレンゲーキョーと
おなじ効果効能を生み出せるということを主張したわけです。よろしいでしょうか。
>>704 私の「日蓮は後から付けたものだと思う」という意味は、彼自身は道元と同じような
釈迦恋慕主義者であったからこそということもありますし、また同時に自分で題目マン
トラを体感し体験しつつあったからこそということもあるということで、彼自身はその
体験に基づきながら、その体感に気づき、瞑想の前段階としての体験を重ねる中で、
「先付けとしての説明」として「仏の慈悲による効果効能のあるタイトルが付いた
お経だったんだ」と考えたということだと申し上げているわけです。「後」から「先
付けの説明」に思い至り、「それが正しい」と後から「確信した」という構造だった
だろうということを言っているわけです。これでよろしいでしょうか。
>>705 あなたのこれらの引用は確かに道元の正法眼蔵にある通りでその見解は間違っていない
でしょう。しかしそれはあくまでも道元の受けた仏教であり、禅であったわけで、それ
が「真理」であるということではない。それが彼の理解した当時のやはり限定的な理解
であり、またそれは日蓮のそれでもあったでしょう。
(続き)
私も以前、日蓮は道元の書いたものを読んで影響されたのではないかと思うほど、道元は
「仏教命」の人でした。で法華経も好きだったようで、その意味では彼も時代の制限の中
で彼なりに理解したはずです。彼も輪廻転生の信者であり、現代の創価学会員の思う三世
の因果は彼の信条の一部でしたね。当時の仏教者の多くはそれが当然の理解だったので
しょう。
しかしそうではあったものの、彼の主張する悟りの内容とはまさにその序である
「ハン道話」に如実に表れている如く、バラモン教的理解を否定するまさに禅的なるもの
そのものが仏教なのであるということを伝えているでしょう。彼が「仏教」として伝えたい
としたものとは身心脱落の逆説的にして非カルト的悟りであったわけです。「ハン道話」
はその意味で強調されていて興味深いと思います。
禅がフリュウモンジであることは確かです。しかし道元的悟りはさらにそれのみならず
釈迦への強い恋慕があることに起因する「仏」の拡大する意識があり、それが「悉有仏性」
を「悉有=仏性」であると読ませることに特徴がありました。これは凡夫本仏論ではなく
(
>>701)、またバラモン教の梵天でもなく、ただ「悉有=仏性だと悟る悟りが仏性具足
の始まりである」という意味が含まれており、このような悟りは道元固有の悟りでした。
それが彼の悟りの面目でしたが、それを記載している本も巷にはありますね。同じ禅でも
彼はそうした伝統が自分の説く悟りを伝えているのが仏教なのだという教えであったわけ
です。釈迦がそう教えたはずはないのですが、精神としてそれは釈迦がバラモン教という
カルトに対して唱えた正論を論理として含みつつ、道元的特徴の「悟り」を禅の中で説い
たという意味ではそれは正統なる仏教であると言い得ると思うわけです。日蓮が結果とし
てカルト教義を内包したのに対し、道元は"非カルトである"「悉有=仏性」(これがわか
る人は道元を理解したと言える)の悟りに到達したといえると思います。
まずはここまでにします。
715 :
波木井坊竜尊@日蓮宗葵講@名前だけ仏所 ◆IByKs72gR2 :04/02/17 03:11 ID:5HN+DFsW
御祖様に”輪廻転生説”はねえよ。(笑)
>>715 学会よりも宗門よりも、自分には納得できてしまうぞ。
そのレス、まずいな。いや流石がだというべきか。
おやすみ。波木井坊竜尊さん。
717 :
乾闥婆:04/02/18 23:03 ID:???
>>710 >読み違えているのではなく、指摘したまでのことです。
読み違えています。私が指摘したのは、日蓮は題目の体感から絶対的な正義を
知覚し得るのか、という話をしているのに、それをあなたは創価学会の話にず
らしました、また、意味を伴わない純粋な発語行為の体感から、絶対的正義と
いう<意味>を取り出すことはできない、という論理をあなたは無視しました。
718 :
乾闥婆:04/02/18 23:04 ID:???
>>711 >そして実際に創価学会員の多くは、南無阿弥陀仏ではなく、ナンミョーホーレンゲー
キョーを選んだのです。それはその方が体の「体感がうれしかった」つまり快感だ
ったからです
そもそも題目の体感と念仏の体感を比較して彼らは学会に入ったのですか?
その体感の違いから題目が絶対的な正義であり念仏は地獄に堕ちると理解し得
たとでもいうのですか? 体感だけでそのような<意味>を形成することはで
きないでしょう? 彼らはただいろんな人間関係の中で創価学会に入ったので
あり、そののち題目の実践や体験をベースにして、<教義>という<意味>に
よって、その排他的な主張を形成していったのでしょう。たとえば彼らから教
義という意味を抜き取ってしまった状況を考えてみて下さい。題目の体感しか
ない状況で、念仏や禅を攻撃するという事態が発生し得るでしょうか。発生し
ないでしょう。批判する材料がありませんから。題目は気持ちがいいなあとい
う人と、念仏もなかなかいいいいぞという人がいるだけでしょう。だからあな
たのいわれる体感は、創価学会の排他性・カルト性の本質ではないのです。問
題は題目という発語行為にあるのではなくて、その教義にあるのです。
>これが正しくないと思われましたら、ご家族の方にでもお聞きになれば事実に近いと
知られるでしょう。
なぜ創価学会だけが正しくて他は間違っているというのかと訊ねたら、体感の
ことなど話さずに教義の話をはじめるはずです。それが彼らの行ってきた折伏
なのですから。まあ人によっては自分の体験を語ったりもするのでしょうが、
最後は幹部が出てきて教義の話をすることになるでしょうね。「謗法払い」も
しなければならないでしょうし。
ところでブツ理さん。あなたと創価学会の接点はどのようなものだったのでし
ょうか。ちょっと変わっているようなので、詳しくお聞きしたいですね。
719 :
乾闥婆:04/02/18 23:05 ID:???
>>712 >それがたまたまある経文のタイトルとしてついていただけだった、
ということが言えることになります。これは違うでしょうか?
そこがあなたの勘違いしているところで、彼らは発語行為そのものを信仰して
いるのではなくて、それに付随している<意味>を信仰しているのです。もし
題目がなんの意味もないただの音列であったなら、日蓮はありえないし、創価
学会も誕生しないし、学会員もいないでしょうね。
>>713 >彼自身はその体験に基づきながら、その体感に気づき、瞑想の前段階としての体験を重ねる中で、
「先付けとしての説明」として「仏の慈悲による効果効能のあるタイトルが付いた
お経だったんだ」と考えたということだと申し上げているわけです。
日蓮は題目を行法として位置づける前に天台教学を学んでいるわけですよね。
普通に考えて、その文脈の中から出てきている日蓮が法華経至上主義者である
前に、題目体感絶対主義者(?)であるはずはないでしょう。
720 :
乾闥婆:04/02/18 23:06 ID:???
>>714 >「ハン道話」に如実に表れている如く、バラモン教的理解を否定するまさに禅的なるもの
そのものが仏教なのであるということを伝えているでしょう。
道元が対決していたものはやはり天台本覚思想だと思うのですね。如来蔵思想
ですね。衆生がそのままに仏性を持つのであればなぜ修行する必要があるのか、
という問いです。そこで主張されるのは修証一如ということですね。「修証は
ひとつにあらずとおもへる、すなわち外道の見なり。仏法には、修証これ一等
なり」(弁道話)。悟りの証と修行とは切り離して表われるものではない、とい
うことですね。ゆえに道元においては悟り終わる、ということはないはずなの
です。「禅はフリュウモンジの世界でしたから、経も教もすべて最後は捨てら
れてしまい、まさに空のようになる(w)のが面目でしたね」をおかしいと指
摘したのは「経も教も」「捨てられ」るべき「最後」は道元においては来ない
はずだからです。だから道元は死の際まで『法華経』を書写し読誦したのでは
ないでしょうか。もっとも臨済系の禅ではどうなのか詳しくは知りませんが、
経典を軽んじる傾向はあるのでしょう。そういった傾向に対する道元の批判が
あったのでしょうね。禅内部の僧侶から「外道天魔」呼ばわりされてしまうよ
うな傾向が禅にはあったということなのでしょう。
721 :
乾闥婆:04/02/18 23:07 ID:???
>>714(続き)
また仏性を修行から切り離して実体として捉えることを徹底して嫌い、「仏性
の道理は、仏性は成仏よりさきに具足せるにあらず、成仏よりのちに具足する
なり、仏性かならず成仏と同参するなり」(仏性)と観じるのもまた道元の特
徴であり、それがあなたのいう「悉有=仏性」でもあるのですね。「無常仏性」
とすらいいます。この批判もまた天台本覚思想のみならず、見性成仏を主張す
る禅の傾向に対するものでもあったのではないでしょうか。ということは、あ
なたのいう「バラモン教的理解」とは当時の仏教の至るところにあったのであ
り、禅内部にすら認めうるところであったのではないでしょうか。
それにしても『正法眼蔵』を幾つか拾い読みながら、むしろ道元の方が日蓮な
どよりもずっと体感を重視しているように思えるのです。そしてカルトがその
禅から育たないというあなたの指摘に従うのであれば、やはり行法の体感がカ
ルトを作るのではなく、その教義こそがカルトを作るといえるのではないでし
ょうか。
凡夫本仏論ですがどうなのでしょうか。日蓮は末法において法華経を受持する
者を仏性の顕現している者と考えているのだと思うのですが、その意味では道
元のいう本証妙修に通じるものがあるのではないでしょうか。なにもしなくて
も人間には仏性が備わっているから大丈夫、といっているわけではないのです
から。
>>717 >読み違えています。私が指摘したのは、日蓮は題目の体感から絶対的な正義を
>知覚し得るのか、という話をしているのに、それをあなたは創価学会の話にず
>らしました、また、意味を伴わない純粋な発語行為の体感から、絶対的正義と
>いう<意味>を取り出すことはできない、という論理をあなたは無視しました。
まずこの点でだいぶ誤解、または曲解がある。だから話が噛み合っていないと
思う。
わたしは「無視」したのでなく、こちらの見解の意味を明確に伝える必要があった
ということです。もうすこしよく読んでくれたらわかると思いますが。ちゃんと
説明しているじゃないですか?あなたが頭にきて読み飛ばしているようにも見え
ますがどうでしょうか。
「意味を伴わない純粋な発語行為の体感から、絶対的正義という<意味>を取り
出すことはできない」のはもちろんその通りであり、だからこそ私はその本来の
「無意味」に足して「日蓮が説いた教えを信者に成りたての人々は自分の体験に
即して(福運や仏罰体験さえ基にしてあとからその教義を信じて)取り込んだ」
ことで「彼らが後付けの意味を植え付けられた」と述べたのですが。どうも伝わ
っていないかと。
>>718 比較したかどうかを事実として述べている記述はしていませんが、創価学会に
関わって少なからずそこに籍を置いた人々はそんな言い方をしているのを聞く
わけです。ナンミョーホーレンゲーキョーの方が、ナムアミダブツよりも
言いやすい、語呂がいい、とかです。で、そして。これを唱えると元気が出るんだ
よ、力が湧いてくるんだよ、とね。これは私が関わった創価学会関係の人みなが
口にする言葉でしたよ。彼らからは別段教義の言葉は聞かれず、みな一様に
「意味を持たないで」「ただ唱えるところの"ナンミョーホーレンゲーキョー"
の力で幸せになる」んだよ「仏界」が出てきて最高の心の状態になるんだよ、
「これは宇宙のリズムに合ってくるからなんだよ」と一様に言っていて、みな
「密教的」で「ヨーガ的」なエネルギー頂戴型の信仰を一様に示して行きました
ね。これは彼らが体験科学としてのマントラ行法の行をし、その体感から信仰に
後から移行したことを確実に証明しているでしょう。
私はこういう人しかほとんど遭ったことがありません。ごくごくたまにシャク
ブクする人の中には教義を言う人もいたものの、持ってきた教化用の本も「成仏」
は「大聖人の仏法では仏をひらく」と読ませて云々と書いたものを持ってきました
が、これは結局バラモン教ヨーガ的アートマンの放出的成仏だとやはり了解しました。
ですから彼らは結局「ヨーガマントラ」を教えている団体なんだという理解で
十分と自分の中で結論を出しました。そして日蓮も結局はそういう主張を結構して
いるでしょう。これは秘法なんだと。日蓮はやはり天台真言宗の僧侶として名を
連ねていたということですから、なるほどやっぱりそうだったのかと合点が行き
ました。ですから創価学会は日蓮の主張の肝心なところは伝えていると考えて
いいんじゃないでしょうか。そのマントラの体感=仏界、十界の最高意識状態と
いう教義で後付けされて、これが「手軽に簡単に得られるのであるから」これが
「最高の仏教」なんだと決めつけることが彼、および日蓮の「信仰」なんだと
了解したわけです。これはほとんどぴったり真実でしょう。
そして彼らは一様にこれは宇宙の秘法でとても偉大な教えなんだから従わなければ
ならないんだ、知らない人には口をあけてでも押し込んで飲ませなけりゃいかんのだ
という信念で固まっていったようでしたね。それが本人のためにも幸せなんだから、
策略に満ちた勧誘でもなんでもするんだってな理解だったようでしたね。
>>719 >そこがあなたの勘違いしているところで、彼らは発語行為そのものを信仰して
>いるのではなくて、それに付随している<意味>を信仰しているのです
だからなんども言うように、それは「体感」→「後付けロジックとしての日蓮
教義」=「彼らの信仰(信心)」だとしているわけです。始めの「仏界体感」
が無ければ彼らに「日蓮の教義の意義はあり得なかった」のです。始めの体感が
「すばらしいもの」だったからこそ、そこにその理由を求めるモーメントが生ま
れてそれを日蓮の教義が解答を用意されていたロジックが植え付けられたのだと
いうことでしょうと。その「信じる原因になった仏界体感」がなかったら、彼ら
はおそらく絶対にそれを「信心の対象として受け入れることはなかった」でしょう
と。まだ意味が伝わらないでしょうか。
>>720 >道元が対決していたものはやはり天台本覚思想だと思うのですね。如来蔵思想
>ですね
そういうことであり、そのホンガク思想なるものと日蓮のお題目行法はほぼ
ぴたりと一致しているわけですよ。その例証が創価学会員の信心にぴたりと
現れているわけであり、その「体験科学的(しかし真理の証明ではないそれである)
信心」とはそのまま「秘法の体験信心」であり、ヨーガの実践による超自然の
体験(奇跡、病気治癒、福運、仏罰などのそれ)による信仰、信心というもの
であったわけで、それは一神を奉じる「裁く神」の経綸の宗教よろしく、
「世界をその色に染めるための布教」「仏国土にするための宗教」となったわけで、
まさしくカルトの様相を日蓮の宗教は呈したわけでした。
で、道元は日蓮よりも1世代前の人でしたが、彼は先にこうした日蓮的なもの、
その基本にあった本有的というか、密教的、ホンガク的な「神、超人になる信仰」
ではない、「カルトでない」(
>>714)悟りに到達していたわけでした。
なので、道元は「見性成仏」には沿っていると思います。成仏とともに具足する
仏性でしたから。なのでこれ、
>それにしても『正法眼蔵』を幾つか拾い読みながら、むしろ道元の方が日蓮な
>どよりもずっと体感を重視しているように思えるのです。そしてカルトがその
>禅から育たないというあなたの指摘に従うのであれば、やはり行法の体感がカ
>ルトを作るのではなく、その教義こそがカルトを作るといえるのではないでし
>ょうか。
はちと違うかなと。そうではなく、「悉有=仏性」と見性する、見取する悟りを
説いているが故に、それは「体感」ではないのでした。そこを日蓮から入った人は
なかなか悟り(あるいは受け取り、道取、見取)しにくいものなのだと思います。
この悟り体験自体は実は体感とはナンの関係もなく、まさしく「悟り」として存在
しているものでした。なので道元の悟りはカルトになり得ない悟りなのですね。
それは開かれた悟り、密教的秘法的でない、開放された「ただ悟る」ことで得る
「悉有=仏性」だったのです。(仏性があるなら修行は不要じゃないかという疑義
を修行当初の道元が抱いたというのは確かで、それがホンガク思想云々との関係
はないわけではないでしょうが、むしろ霊知思想を常住ならずと批判しているので
直接の関係は薄いでしょう)
>凡夫本仏論ですがどうなのでしょうか。日蓮は末法において法華経を受持する
>者を仏性の顕現している者と考えているのだと思うのですが、その意味では道
>元のいう本証妙修に通じるものがあるのではないでしょうか。なにもしなくて
>も人間には仏性が備わっているから大丈夫、といっているわけではないのです
>から。(続く)
(続き)
なのでここも少し違うでしょうか。 ホンガク的なるものは、仏性という種が人間の
構造論として備わっているから何もせずともOKだというものというよりも、ニーチェ
の超人みたいな感じで、「超人」になればなんでもやっていい、オウム真理教みたい
に「信仰のためなら」殺人で犯罪でも何でも許される、世法は仏法の下にあるんだから、
というような思想に繋がるので、カルト思想なんだと言われるわけでしたね。
そして創価学会のような思想は池田大作がそうであったように、組織を立ち上げて
秘法であるナンミョーホーレンゲーキョーの経綸のためであるから、世法は破って
もよい、嫌がらせでもなんでもして、とにかく広めればいい、それが連中には
ちょうどいいんだ、それで結果としてこの秘法が広まるんだからすべて正義なんだ、
というような思想になっていったわけでしたね。道元的悟りに至ればそんな悪行に
及ばずとも開放された世界の聖化がむしろ「体験される」だろうにと思われたわけ
でした。
ちなみに私が瞑想を勧めるのは、マントラ行法だけしかせずにそうした日蓮的
あるいは創価学会的な理解しか持てていない人々に、それの体感ですらまだまだ
全然すべてではないことを知ってもらうために敢えて書かせて頂いたものです。
ひとしきりの題目連続称揚直後の深呼吸瞑想によって体は本当にリラックス状態
に入り、そこで「宇宙の神」の取り扱いを受けるようにさえ感じることでしょう。
そこには円融の状態に等しい本当の仏界的状態が待っているのです。そこを、
日蓮だけしか知らなかった人々であって体感するこができるだろう、それができ
れば日蓮カルト教で絞られていた状態が仏界ではなかったこと、むしろ仏界状態
はその後の瞑想においてゆったりと得られるものであることを本当に実感できる
だろうという意味で申し上げたわけでした。
しかし禅の悟りはその体感ではありません。それはすでに上記した通りのもので、
道元のものがいわゆる仏教的なるものを代表するであろうという意味で書かせて
頂いた次第です。それではまた。
727 :
乾闥婆:04/02/20 01:18 ID:???
>>722 >「意味を伴わない純粋な発語行為の体感から、絶対的正義という<意味>を取り
出すことはできない」のはもちろんその通りであり、
そうでうすか。その点について同意して頂けていたのですね。それは済みませ
んでした。では、あなたのいう題目の体感が、絶対的正義という<意味>を生
み出しているのではないということでよろしいですね?
>>723 >比較したかどうかを事実として述べている記述はしていませんが、創価学会に
関わって少なからずそこに籍を置いた人々はそんな言い方をしているのを聞く
わけです。
つまり日蓮が題目の体感をもとに自身の正統性を主張したとする根拠はないと
言うことですね。それはそうですよね。「意味を伴わない純粋な発語行為の体
感から、絶対的正義という<意味>を取り出すことはできない」という私の指
摘にあなたも同意していただいたわけですし。創価学会員の場合、教義による
確信が後付であることはすでに私も述べました。しかし私はその後付の教義こ
そが問題であるのだ、と言ってきたのです。体感は体感に過ぎません。それは
あなたも認めた通りです。体感だけでは絶対的正義という<意味>を取り出す
ことはできないのです。問題はそれに付随する<意味>にあるのです。
728 :
乾闥婆:04/02/20 01:20 ID:???
>>723(続き)
>持ってきた教化用の本も「成仏」は「大聖人の仏法では仏をひらく」と読ませて云々と書いたもの
ん? 分かりません。それはどのような内容のことを言っているのですか?
本の名前を覚えていますか? ブツ理さんが折伏を受けたのはいつ頃のことな
のでしょうか。
>そのマントラの体感=仏界、十界の最高意識状態と
いう教義で後付けされて、これが「手軽に簡単に得られるのであるから」これが
「最高の仏教」なんだと決めつけることが彼、および日蓮の「信仰」なんだと
了解したわけです。これはほとんどぴったり真実でしょう。
創価学会員はともかく日蓮は違うでしょう。私は
>>719 で
>日蓮は題目を行法として位置づける前に天台教学を学んでいるわけですよね。
普通に考えて、その文脈の中から出てきている日蓮が法華経至上主義者である
前に、題目体感絶対主義者(?)であるはずはないでしょう。
といったのですが、この点についてのご意見をうかがいたいのですが。
729 :
乾闥婆:04/02/20 01:21 ID:???
>>724 >始めの「仏界体感」が無ければ彼らに「日蓮の教義の意義はあり得なかった」のです。
ですので、私が言っていることはその体感を絶対化さえしなければ、その信仰
はなんら問題がないということす。それには体感に付随している教義を相対化
することです。ところがあなたはその教義の部分を見過ごしているように見え
るのです。題目の体感がすばらしいのでしたら、それでもかまわないのでしょ
う。彼らがその体感だけが絶対であるとするところの根拠、すなわち教義を相
対化さえ出来れば。
730 :
乾闥婆:04/02/20 01:22 ID:???
>>725 >なので、道元は「見性成仏」には沿っていると思います。成仏とともに具足する
仏性でしたから。
「見性成仏」とは見性を成仏となす、ということですね。「見性」とは自己の
本性であるところの仏性を見るということです。おそらく道元はそう考えたの
ではないと思うのです。彼は修行すること(坐禅)そのものが仏性の顕現であ
ると考えていたはずで、それは自身の中にある仏性を見る、などということで
はないと思うのです。道元は大慧から臨済宗に流れる公案禅・待悟禅の宗風を
嫌ったといいます。そこに表れる「見性」を嫌ったといえるのではないでしょ
うか。
>そうではなく、「悉有=仏性」と見性する、見取する悟りを
説いているが故に、それは「体感」ではないのでした。
ですので、「悉有=仏性」と見性するのではなくて、「まさにしるべし、悉有中
に衆生快便難逢なり。悉有を会取することかくのごとくなれば、悉有それ透体
脱落なり」(仏性)というように、坐禅という方法を持って身心脱落するほか
ないのだと、道元は言っているのではないでしょうか。確かに体感という言葉
はニュアンスが違うようにも思うのですが、坐禅という方法自体に仏性の顕現
を見る道元においては、尽きることのない「行持」こそが要請されるのだと思
うのでした。
>>726 >なのでここも少し違うでしょうか。
しかしおそらく本覚思想の究極は徹底的な現状肯定と修行の放棄であるでしょ
う。仏性常住はもちろんその過程としてあるのでしょうけれど。日蓮は法華経
受持とそれに伴って起きる難を受け止める生き方において仏性を見る点で、根
本的にはどちらにも組みしないと思うのです。微妙な問題を含むようにも思い
ますが。もちろん創価学会とは切り離して考えています。日蓮と創価学会はイ
コールではないと思います。
>乾さん
お久しぶりです。乾さんのことがよく判りません。
こんなことに何の意味があるのかと思ってしまうのです。
議論を楽しんでらっしゃるのでしょうか?
何か直接的でない動機がある気がしてなりません。
例えば、人と意見交換する事で、創価学会と自分との関係を整理しようとしているとか・・・。