日蓮の教えはブッタとは関係あるのか その2

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114春田の蛙
>>103 月影さん
と言うより、自然科学ではさらにその先、因果律として振る舞わない現象を、複雑系とか非線形科学と呼んで研究しています。
背景となる法則はあっても個々の現象の予測が不可能だったり、逆に個々の現象は単純に振る舞っていても、全体としては捉えきれない複雑さを見せるもの等を指します。

さして古い概念ではなくて、原型となる哲学的模索の痕跡は古代中国などにも見る事ができますし、
1920年代にはフランスの数学者アンリ・ポアンカレが、天候の長々期予報は不可能であると立証しています。

長々期予報が不可能と言うのは、来年や再来年の今月今夜が、月夜か雨か曇ってるかなんて分からないと言う事です。
ポアンカレの用いた手法は、今日カオス理論として発展していますね。

私個人は、こうしたレトリックはトンデモ本みたいで好みませんが、
試しにこの考えを宗教的な因果律の如く人生に当てはめ、用いてみましょう。

ここに交通事故で亡くなった方がいます。
交通事故増加の原因を分析する事は出来ても、『何故』『その人が』亡くなったのかは分かりません。

病に苦しむ方がいます。
何故『その人』が苦しむ必要があるのか?
それを答えられる人は、この世にいないでしょう。

にも関わらず、人は他人の不幸をとかく秤にかけようとします。
そんな時間に外を歩いていたのが悪い、不摂生の報いだ、日頃の行いが悪い等々…
そうして、だから自分は大丈夫と思いたがるさもしさを、心理学では犠牲者非難と呼んでいます。
115春田の蛙:03/12/22 17:03 ID:fjZDdHGS
こう考えると、因果の理法をこじつけるより、科学の概念の方が心の救いとしてふさわしいようです。
現代の宗教家がよく言う、「科学で人の心は救われない」との意見は、彼らがそれをよく知らないだけの事です。
他宗を知らないままに批判するのも、これと同じですから、
この点に限れば、日蓮のように罵詈雑言を用いるのは論外として、歴史に残る僧たちの多くも間違っています。

「法然上人行状絵図」通称四十八巻伝によれば、
「自宗の学者も他宗の学者も、他の宗旨を学ぶ事なしに、自分の宗旨に反するものはすべて誤りと決めつけるのはおかしな事だ。
それぞれが宗旨をたてているのは仏教理解が異なるからであり、諸宗の教えが同一であろうはずがない。
自宗と他宗の教えが異なるのは当然ではないか」
と法然は述べています(訳は佐々木正著「法然と親鸞」に拠る)。

学会系の出版物では、法然は念仏以外を禁じる排他的人物だったとされてますが、
実は望まれれば授戒などのまじないも行ったのが法然であり、それを念仏純粋の信仰へ深めたのが親鸞・一遍であったとするのが、
従来一般的な見解でした。
ちなみにこの観点から、親鸞を高く評価する見方は今なお多数派ですが、
師法然の姿勢をむしろ継承拡大して、仏教のみならず東国土着の信仰風習まで寛容した事が、
親鸞の幽霊済度・大蛇済度・餓鬼済度といった済度譚を生んだという指摘もあり、私はこちらの説を採る立場です。
浅薄な資料採用から、安易に断定して自説を固める人が多いのは残念ですね。
116春田の蛙:03/12/22 17:04 ID:fjZDdHGS
口伝鈔によると親鸞は、身内の死を嘆く門徒に対し
「極楽往生を嘆くのは何事か」と信心を勧めた僧侶を、叱っています。
慕わしい人が亡くなれば、悲嘆に暮れるのが当たり前ですからね。

親鸞はお酒でも勧めて慰め、心ほぐれるまで愚痴に付き合うのが
僧侶のとるべき道だったと述べ、仏法を説けとは言いませんでした。

『酒はこれ忘憂の名あり。これを勧め笑うほど慰めて去るべし』

今に残る親鸞の言葉です。

法然や親鸞が『かなしきかな、いかがせん』と吐露したその心情を、釈迦は『マイトレーヤ・カルナー』――苦への友愛と名付けました。
苦しみを悲、友愛を慈と漢訳して、悲嘆を慈しむこれを『慈悲』と呼びます。

慈悲の心からすれば、苦しむ相手に対して自分の信仰への同意を望み、まして自宗への入信を願うなど只の欲心に過ぎません。

『全て仏法に事をよせて、世間の欲心もある故に、同朋を言い脅さるるにや』――これは歎異抄の言葉です。
人の不幸につけこむのは単なる悪ですね。

『仏心とは大慈悲是なり』――にも関わらずこれを忘れては、他力浄土の教えとて只の妄言と成りはてます。
他宗の方も、よくよく心すべき事でしょう。
117春田の蛙:03/12/22 17:04 ID:fjZDdHGS
その上で日蓮の教えをどう解釈して信じようが、そんな事は個人の自由です。
良い点を取りあげて善意に解釈するのが、他ならぬ日蓮に対しての供養でしょう。

創価学会のいままでの行いこそが、日蓮の名を貶めてきた一因であると忘れてはなりません。
私はこの手の議論で、日蓮の人格を非難する事は避けてきましたが、
それは信仰に対する配慮であって、私が日蓮に嫌悪を抱いてないからではありません。


むしろ心情としては、そうしたレスに同意して、日蓮を思うさま罵りたいとさえ感じる事があります。

学会員の多くは日顕氏を憎悪しますが、その内何人の方が日顕氏本人から迷惑を被ったんでしょうか?
教え込まれた情報だけでそれだけ人を憎めるならば、
私たち学会に迷惑を被ったアンチや、信心を押し付けられた二世三世の憎悪がどれだけ深いか、
学会員が錦の御旗に用いる日蓮や法華経にどういう心情を抱くようになるか、少しは考えてみるべきでしょう。
創価学会の存在こそが、学会の言う謗法の原因です。

私たち浄土真宗を含め、どの宗教宗派にもカルトは存在します。
だから私は、その被害が原因で法然や親鸞に憎悪を抱く人を責めようとは思いません。
南無阿弥陀仏や帰命尽十方無碍光如来など、念仏の本尊を焼き捨てたいなら、私が手伝いたいとさえ思います。

自分が信心しているから、他の方にも開祖や教団を良く思って欲しいとか、
まして嫌になってやめる人に本尊を丁重に扱えなどと言うのは、心の弱い甘ったれの言う事だと思います。
あえて皮肉を言うなら、そういう方はきっと『信心が足りない』んですね。