1 :
Sb ◆SbSGI7AtEA :
2 :
Sb ◆SbSGI7AtEA :03/12/11 12:00 ID:hq4uxWuP
>>886 >857さん
>念仏を唱えるのと同じくらい当時の民衆には行い易いものだったでしょう。
だけで、と、だけしか、の違いだと思います。
法然は、だけしか、と教えていたようですが、親鸞は、だけで、と説いたのでしょう
>ということは別に坐らなくてもよいということでしょうか。たまたま坐禅であ
>っただけで、実際のところ道元にとっては方法論はなんでもいいのでしょうか。
倒折刹竿著
3 :
一仏子:03/12/11 12:40 ID:9bB6CQLZ
層化と日蓮上人とは、無関係。 層化学会、日蓮小宗の教義自体偽書の上に成り立つ
宗旨である。
例えば、折伏は不軽菩薩の行がお手本で、層化の折伏は何処やらの国の人たちがやる集団でやる威嚇行為。
日興氏は、日蓮上人は上行菩薩の生まれ変わりと、述べられています。
が、小宗、層化では本仏に変えられている。 日蓮御書には「父は釈迦仏、母は法華経、乳が題目」
とあります。(半島系)層化の邪義に化かされて、唯一の日本人宗祖日蓮上人批判派的外れです。
4 :
Sb ◆SbSGI7AtEA :03/12/11 13:40 ID:hq4uxWuP
>>894 >法孫悟空
>仮想現実じゃないよ現実の世界は
感覚器で受けた信号を脳が処理して見せていることを否定するのでしょうか?
>禅定と智慧、つまり経文は重要なんだよ
経文は大事だよ、でも、それに依存してちゃしょうがない
依存するなら、経文なんて無いほうがましだ。
>ご本尊に唱題をあげる行為はこの禅定の行為の日蓮的方法論である。
あなた的方法論は日蓮的方法論ではない、あなたはあなた、日蓮は日蓮
いくら九識を書こうと、日蓮に依存してたんじゃ、九識にはならないよ
>もしご本尊をあらわさなかったら、日蓮そのものを拝んでいたかも知れない、そのことを知っていたのだろう。
それが禅だよ、己と対峙すること無しに日蓮を頼るな
>>3 >日興氏は、日蓮上人は上行菩薩の生まれ変わりと、述べられています。
>が、小宗、層化では本仏に変えられている。
「日蓮は一閻浮提第一の聖人なり」 聖人知三世事
ご自身、自ら本地を明かしてるわ。
池田先生も、自ら日蓮大聖人の生まれ変わりにしたかったらしい。。。
>「日蓮は一閻浮提第一の聖人なり」
がなんで「オレが本仏だ」ってことになるの?
8 :
一仏子:03/12/12 00:21 ID:bavpCD8q
「一閻浮提第一の聖人」といわれて、本仏などと何処にもおっしゃっていませんよ。
勧心本尊抄に妙法蓮華経の左右には釈迦ムニ仏、多宝仏、、、
法華経にも宝塔に並ばれるのは釈迦、多宝仏の2尊。
また、観心本尊抄に曰く、仏過去にも滅せず、未来にも生ぜずと。
永遠だからこそ、久遠の本仏というのである。
経に曰く、常住不滅なりと。
勝手な解釈は、堕獄のもと。
晩年に聖人は、「日蓮、不軽があとを慕う」とおっしゃっています。
末法の仏道修行は不軽行。不軽菩薩は、人々を礼拝されました。
何処やらの名誉会長さんの様に、
人々を奴隷化するなどは、全く仏の教えとは無関係のもの。
まさに、天魔の所業と言わざる得ません。
上人は常行菩薩の生まれ変わりってのは自覚してたけど
生まれ変わり=仏ってことは言ってないな
仏ってのは自分で悟ってこそ仏になるわけだ
でないとオ○ムんとことのアー○ャリーみたいな
勘違いムスメが発生するわけだな
このスレだけなのか誤解発見
「光り物」は「光り物」とだけで具体的に雷だとかは書いてないヨ
個人的には彗星か何かだと思ってるけど 定かではない
あの時代は流れ星とか彗星は見ただけで死ぬという迷信があるから
赤い月も不吉だと言われていたし
あのタイミングでその自然現象があったせいで 上行菩薩の生まれかわりというだけでなく
末法の久遠元初のご本仏だという事になった とされている
>>10 へー×6っ
そっから勘違いが始まってんのか
13 :
名無しさん@お腹いっぱい。:03/12/12 14:58 ID:lvO0i77i
仏陀の教えは衆生救済。
信者も異教徒も無神論者も差別なし。
14 :
波木井坊竜尊@日蓮宗葵講名前だけ佛所 ◆IByKs72gR2 :03/12/12 15:19 ID:JfbfXRBV
すみませんねえ。日蓮宗が作り上げた御伽話に正宗も学会も騙されちゃってる
るんですよ。>火の玉
>日蓮宗が作り上げた御伽話に正宗も学会も騙されちゃってる
ホントは信じちゃいないだろさ。まさか。w
いや、わからんぞ、わからんぞ(w
おまじないで超能力の創価学会なら
ちょーじょー現証、かめはめ波くらい。ありです。
ささ、ハキリさんも
かめーはめぇーはっ!
17 :
お邪魔します ◆nH2G.RjIE2 :03/12/12 15:57 ID:ns40SVda
>>11 日蓮が自分で言いふらしたんだよ。
「九月十二日の丑の時に頚の座に引きすへられて候いき、いかがして候いけん月の如
くにをはせし物江の島より飛び出でて使の頭へかかり候いしかば、使おそれてきらず
・・」
妙法比丘尼御返事
「江のしまのかたより月のごとくひかりたる物まりのやうにて辰巳のかたより戌亥の
かたへひかりわたる、十二日の夜のあけぐれ人の面もみへざりしが物のひかり月よの
やうにて人人の面もみなみゆ、太刀取目くらみたふれ臥し兵共おぢ怖れけうさめて一
町計りはせのき、或は馬よりをりてかしこまり或は馬の上にてうずくまれるもあり・
・」
種種御振舞御書
「月天子は光物とあらはれ竜口の頚をたすけ・・」
四条金吾殿御消息
極めつけは
「太刀取り越智三郎左衛門既に持ちて日蓮の頸を開き打ちしに、太刀忽ちに折れ、
親(まのあ)たりに没落して、手足動かず」
法華本文宗要抄(偽御書とされている)
つーか「上行菩薩の生まれ変わり」などと自称している時点でキチガイだろ。
19 :
お邪魔します ◆nH2G.RjIE2 :03/12/13 01:22 ID:VztaqxND
道元や親鸞は法の中にすっぽり入り込んでいるが、日蓮は法と、法を説く自分は
別と考えていたのかな。けっきょく「我」にとらわれて、一番大切な「無我」が
分からなかったと思う。
言葉や理屈では分かっていたが、自分がそこに入っているとは考えなかったんだな。
日蓮や池田は仏陀でも菩薩でもない
仏陀であれば三十二相と八十種好相があるはずだ
菩薩であれば三十二相なくとも八十種好相が悉くあるはずだ
法華経にはそういう類のことが書いてないのか?
その1から総合するとブッダとはかなり離れてるという事が証明された。
ましてや外れてる集団からさらに破門団体だから別物扱いでよいと思う。
22 :
名無しさん@お腹いっぱい。:03/12/13 18:31 ID:Lb8SHfc+
仏陀の教えは衆生救済。
信者も異教徒も無神論者も差別なし。
23 :
名無しさん@お腹いっぱい。:03/12/13 20:32 ID:rzOeLbM4
衆生救済が目的の仏陀が、性別、財産、地位、宗教、等の違いで人々を差別する事は無い。
24 :
お邪魔します ◆nH2G.RjIE2 :03/12/13 20:46 ID:j7ZTZX3T
立正安国論で日蓮が浄土宗を非難した根拠は、浄土宗のみが正しく
ほかの宗派は皆地獄に行く、と言うものであった。
その浄土宗のために、いろいろな災難が起こり、やがて国内に謀反が
起こり、外国から侵略されるとしている。
でも日蓮も法華経だけが正しく、ほかの宗派は間違っているとしている。
自分も同じ事をやっているのに、気が付いていないか、自分は別と考えて
いるか、どちらにしても凄く自分勝手な人間である。
念仏に対して題目、対抗して真似しただけのように見えます。
密教曼荼羅に対抗して、本尊も神やし
>>14 波木井坊竜尊殿は日蓮宗だから、日蓮は上行菩薩の生まれ変わりとだけというという派だろ
だから光り物を御伽噺だと否定するのだろう
あれがないと時の権力に刑場まで連れて行かれたのに生き延びられた理由がないのだよね
御書も偽者とする理由ってな、日興上人が後継ぎだというのを否定したいためだろう
その日興上人を裏切った僧達の派だからさ
日興上人へ後継ぎとしてという内容の御書があったら困るからだろ
でもって
釈迦が法華経の中で当時の人々はじつは釈迦に前世で縁して成仏する種がある
だからこの法華経によって成仏が可能となると書かれていて
釈迦が滅して2千年経つと釈迦の法は捨てて 釈迦が前世に既に成仏した法で末法の人々は成仏できるとされる予言をする
それを行動する人が出て来ないと、釈迦の過去の法そのものが嘘になる
だから 誰がそれを行動したのか という所がポイントになる ということ
法華経にまつわる話は全てフィクションなんだがな・・・。
29 :
857:03/12/13 23:10 ID:???
>>19 お邪魔しますさん。
>けっきょく「我」にとらわれて、一番大切な「無我」が分からなかったと思う。
日蓮がとらわれていたのは自身の教相の拠り所とした天台教学なのであって、
「我」ではないと思います。むしろその教相に対して純粋であり過ぎるために
自身の「我」に対しては執着がなさ過ぎるくらいであったのではないでしょう
か。むしろ彼は「無我」の地点に立って闘っていたのではないでしょうか。
>>24 >自分も同じ事をやっているのに、気が付いていないか、自分は別と考えて
いるか、どちらにしても凄く自分勝手な人間である。
天台五時を事実と考えて行動していた日蓮にとって、法華経への道を閉ざす者
は「釈尊の本意」に反する存在だったことでしょう。彼は自分勝手だったので
はなく伝統宗教である天台の教相に照らし合わせて、法然の主張は間違ってい
ると言っただけのことでしょう。そしてそれは正法誹謗となるのであり、とき
の社会状況にかんがみて、ますますその念を深めていったのですね。そういっ
た時代の流れ・文脈を踏まえて考えるべきではないでしょうか。
>>27 法華経は釈迦が書いたんじゃないから予言も糞もない。
31 :
お邪魔します ◆nH2G.RjIE2 :03/12/14 12:30 ID:UShOyfoc
>>29 岩波文庫一遍上人語録上巻65ページにこのようなことが書かれています。
神戸の宝満寺での、法燈国師に参禅し、国師に歌を呈しました。
「となふれば仏もわれもなかりけり南無阿弥陀仏の声ばかりして」
国師はこの歌を聞いて「未徹在」(不充分)といいます。するとすぐに一遍は
「となふれば仏もわれもなかりけり南無阿弥陀仏なむあみだ仏」
国師はこの歌を聞いて、印可の信を表した、とあります。
はじめの歌がなぜいけないかというと、「南無阿弥陀仏の声ばかりして」と言
うところで自分を捨てきっていないんですよね。
同じように見えても題目と違い、念仏では自分の計らいを捨てる事によって
「無我」に自然と入るようになっている。この辺が法然はよく考えていると思
います。
その法然を批判した日蓮は、自力でお題目を唱え成仏しなくてはならない。
この辺で日蓮の場合は「我執」に囚われることになる。
もう一つ日蓮がよりどころにしている天台の教学について、「諸法実相」が
おかしいと思う。ブッダの唱えたのは「諸法無我」「諸行無常」であって、世
の中の全てのものは決まった形を持たず、常に移り変わっているものとしてい
る。「諸法実相」では、永遠不変の真理があり、それが天地間のありとあらゆ
るモノに備わっているとしている。これによって真理にこだわるようになる。
このようにして日蓮の唱えた教学は、正しさにこだわり、絶対にこだわり、唯
一にこだわることにより、何ものにもこだわらない「無我」の実践とは程遠いも
のになっている。
32 :
名無しさん@お腹いっぱい。:03/12/14 13:02 ID:xjeWVEyF
衆生救済が目的の仏陀が、性別、財産、地位、宗教、等の違いで人々を差別する事は無い。
>>31 すみません、質問ですが、
1.「私は極楽浄土に行きたい」というのは、我執ではないのですか?
2.「諸法実相」は法華経にある語句ですが、それより「諸行無常」が正しいとする理由は?
3.「念仏を唱えれば・・・」という教義自体は、真理を主張していないのでしょうか。
涅 諸 一 諸
槃 法 切 行
寂 無 皆 無
静 我 苦 常
創価学会と顕正会に掛け持ちで入りました。
どっちの会合にも誘われたら(かちあわない限り)参加しています。
両方とも私の事を優良会員だと思っているみたいです。
もうすぐ一ヶ月になります。
あとどれくらいで私が発狂するか、楽しみです。
36 :
857:03/12/14 14:12 ID:???
>>31 お邪魔しますさん。
>その法然を批判した日蓮は、自力でお題目を唱え成仏しなくてはならない。
この辺で日蓮の場合は「我執」に囚われることになる。
自力で題目を唱えることがなぜ「我執」にとらわれることになるのでしょうか。
念仏を唱えることも自力ではないのでしょうか。坐禅に臨むことも自身の意思
を前提としませんでしょうか。自灯明・法灯明の言葉からも分かるとおり、修
行する主体としての自我は仏教では否定されません。それは「我執」とはまっ
たく違うことです。
>もう一つ日蓮がよりどころにしている天台の教学について、「諸法実相」が
おかしいと思う。
私が言っていることは天台教学がおかしいかどうか、ということではありませ
ん。伝統的仏教として念仏や禅の流行する前に強い力を持っていた教学の文脈
に沿って日蓮は主張を展開しているのだから、それは彼の自分勝手な言い分で
はないといっているのです。お邪魔しますさんのその反論は論旨のすり替えに
あたると思います。日蓮を指して「凄く自分勝手な人間」といわれた、その反
論として申し上げたのです。
諸法実相の話をするということでしたらそれでも結構ですが、その前にあなた
が言い切った「自分勝手な人間」という判断について話したいと思います。
38 :
名無しさん@お腹いっぱい。:03/12/14 17:44 ID:zFepwwgR
衆生救済が目的の仏陀が、性別、財産、地位、宗教、等の違いで人々を差別する事は無い。
「信者にならなければバチが当る」とか、「脱会したら地獄に落ちる」とか言うのは仏陀に対する侮辱です。
俗物が信者獲得や脅しのために言っているだけです。
仏陀の教えではありません。
39 :
お邪魔します ◆nH2G.RjIE2 :03/12/14 17:58 ID:UShOyfoc
>>33 >1.「私は極楽浄土に行きたい」というのは、我執ではないのですか?
仏教は「欲を断っていく教えだ」としていますが、私は欲をいかにコントールする
か、その方向を教えているものとしています。人としてどう生きたらよいか、どうし
たら迷いのない悟りに近づけるか、このような思いを菩提心として、この菩提心を妨
げる欲の働きを煩悩と考えています。この煩悩の内、自分に対する執着心を我執とし
ています。
「我執」とは自分中心のエゴイズムであり、自分を利する心であり、頑固な見解を執
著し、自分のみが正しい、自分のみが可愛い、自分のみがすぐれている、とする頑固
な態度としています。。この「我見・我執」が物事の正しい観察を妨げ、他人を傷つ
け、結局は自分を苦悩に導くことになります。この「我執」は、本人には、自覚され
にくい。もちろん私にもあります。だから私の発言に対して、偏っているとのレスが
つくんだけどね。
40 :
お邪魔します ◆nH2G.RjIE2 :03/12/14 17:59 ID:UShOyfoc
>2.「諸法実相」は法華経にある語句ですが、それより「諸行無常」が正しいとする理由は?
たぶん法華経方便品の
「唯、仏と仏と、乃し能く諸法の実相を究尽したまえり。」
の言葉から来ていると思うが、ここでは「諸法の実相を窮め尽くした」と言って
いるのであって「諸法は実相である」とは言っていないとの立場をとっています。
「色即是空」が「諸行無常」とすると、「空即是色」が「諸法実相」に成ります。
「色」が「空」であることを理解して、はじめて「空」は「色」と同じと言えるの
です。「諸法無我」「諸行無常」とは世の中のものは全て移り変わり、生まれ変わ
り、そのもの独自で存在する実体を持たないことを意味します。このことを理解し
た上で「諸法実相」(世の中の全てのこと=実相は それ自身で成立する実体を持
たない=諸法)なら良いのですが、このことをわきまえず文字の上だけで、世の中
のこと(実相)がそのまま不変の真理(諸法)を表しているとしているのが、気に
なります。
こう言う訳で、「諸法実相」を使うのなら「諸行無常」「諸法無我」を理解した
上で使って下さい。そうじゃないと、何でもありの世界に入ってしまいます。
>3.「念仏を唱えれば・・・」という教義自体は、真理を主張していないのでしょうか。
念仏を唱えると、阿弥陀仏の居る極楽浄土に生まれ変わり、阿弥陀仏から直説法を
聞くことによって、悟りを開くことが出来るというのが本来の意味です。
ですから念仏を唱えることは、真理でなく、真理を得る(悟る)ための手段にすぎ
ません。
41 :
お邪魔します ◆nH2G.RjIE2 :03/12/14 18:39 ID:UShOyfoc
ごめん言葉の使い方を間違えていた。
(世の中の全てのこと=諸法は それ自身で成立する実体を持
たない=実相)なら良いのですが、このことをわきまえず文字の上だけで、世の中
のこと(諸法)がそのまま不変の真理(実相)を表しているとしているの
に直して下さい。
42 :
お邪魔します ◆nH2G.RjIE2 :03/12/14 21:54 ID:aWx/PfTk
>>29 857さんへ
親鸞にとって念仏とはどういうものか
歎異抄 第八条
念仏は行者のために、非行非善(ひぎょうひぜん)なり。わがはからいにて行ず
るにあらざれば、非行という。わがはからいにてつくる善にもあらざれば、非善と
いう。ひとえに他力にして、自力をはなれたるゆえに、行者のためには非行非善な
りと云々
(念仏はそれを唱えるものにとっては、修行でもなく、善行でもない。念仏は自分
の考えで行うものでないから、修行ではないという。また自分の考えで行う善事
でもないから、善行ではないというのである。念仏はただただ、弥陀の他力によ
るものであって、唱える者にとっては、修行ではなく、善行ではないのである。)
善根を積むのも、往生を願って念仏を唱えるのも、一種の努力であり、努力を伴う
限りそれは修行に他ならない。そうした自力で行う修行を全て排除し、阿弥陀仏の
本願を信じて往生を遂げようと言うのである。これを他力本願と言い、他力本願に
徹して、自力による修行を全て排除するのを絶対他力という。絶対他力の立場に
立てば、既に救われているのだから、念仏を唱えることも必要がない。
禅に対しては自力修行だからパス。
43 :
857:03/12/15 00:06 ID:???
>>42 お邪魔しますさん。
本当は日蓮に対する「自分勝手な人間」という批判を再度見直してもらいたか
ったのですが・・・回避されてしまったようなので、親鸞のお話に移るという
ことで。
絶対他力は私にはむしろ仏教というよりもキリスト教のような印象を受けます。
自灯明・法灯明の精神から離れてしまっているように思います。きょう歎異抄
を購入しました。手許にある親鸞に関する本とあわせて近々読んでみるつもり
です。
44 :
名無しさん@お腹いっぱい。:03/12/15 00:07 ID:UsoUANep
衆生救済が目的の仏陀が、性別、財産、地位、宗教、等の違いで人々を差別する事は無い。
「信者にならなければバチが当る」とか、「脱会したら地獄に落ちる」とか言うのは仏陀に対する侮辱です。
俗物が信者獲得や脅しのために言っているだけです。
仏陀の教えではありません。
>>44衆生さんへ。
あなたの考える「正しいブッダ」を伝えている文書・教典は何ですか?
よろしければ教えて下さい。法華経以外では、御書と、「ブッダの言葉」を読んだくらいの私です。
>>43 >絶対他力は私にはむしろ仏教というよりもキリスト教のような印象を受けます。
これに対してはほぼ同意
日蓮宗はイスラム教の原理主義に近くオウム真理教により近いカルト教団だということを認めろ。
47 :
33:03/12/15 01:02 ID:???
48 :
Sb ◆SbSGI7AtEA :03/12/15 10:02 ID:rJEQRGbK
>>36 >857さん
横スレするね
「我」と「己」の違いなんだと思うんだよ
「仏もわれもなかりけり」
「我」には自由はない、「己」は自由
「天上天下唯我独尊」には「我」は入っていない
この意味を考えてみてください。
あと、私の中にはあなたの答えはありませんよ。
日蓮にも、法華経にも、答えはありませんよ。
あなたの中にしか、あなたの答えはありません。
49 :
Sb ◆SbSGI7AtEA :03/12/15 10:07 ID:rJEQRGbK
>>42 >お邪魔しますさん
>禅に対しては自力修行だからパス。
只管只坐は他力本願と変わらず
禅に、自力も他力もなしです。
そして、自力であり、他力である。
すなわち、空即是色です。
だから、色即是空なのです。
あなたは知っているはずです
50 :
お邪魔します ◆nH2G.RjIE2 :03/12/15 11:41 ID:TQUiQfyl
そうですね。座禅は悟りを求めるための修行ではなくて、悟る悟らない関係なく
ただただ座禅だったよね。
51 :
名無しさん@お腹いっぱい。:03/12/15 12:42 ID:nMkAjTU9
45へ
仏陀の大慈悲は文盲の方も差別しません。
知識も大切ですが、それがすべてでしょうか?
他人が苦しむ様を見てあなたの心が痛むなら、それが答えではないでしょうか?
52 :
名無しさん@お腹いっぱい。:03/12/16 00:55 ID:vdS0Ftoh
衆生救済が目的の仏陀が、性別、財産、地位、宗教、等の違いで人々を差別する事は無い。
「信者にならなければバチが当る」とか、「脱会したら地獄に落ちる」とか言うのは仏陀に対する侮辱です。
俗物が信者獲得や脅しのために言っているだけです。
仏陀の教えではありません。
53 :
名無しさん@お腹いっぱい。:03/12/16 15:37 ID:dQvosZwj
思うんだけど、祈るというのは、仏道修行と関係あるのだろうか?
禅宗でも祈るのか?
54 :
:03/12/16 15:42 ID:v5YkwApe
test
56 :
857:03/12/17 00:03 ID:???
>>48 Sbさん。
>「我」と「己」の違いなんだと思うんだよ
修行する主体としての自我はもちろん固定的な実体として執着してしまうよう
な「我」ではないでしょう。それは日蓮とて同じことです。むしろ主体性の放
棄がもしあなたのいわれる禅やお邪魔しますさんのいわれる絶対他力にあるの
であれば、それこそブッダと関係のない宗教になってしまいませんでしょう
か? 「犀の角のようにただ独り歩め」といわれた、力強い修行主体としての
自我は見失われるべきではありません。
>あなたの中にしか、あなたの答えはありません。
答えとはなにを指していわれているのでしょうか。悟りかなにかのことでしょ
うか。私はそのような答えをめぐっての話はなにもしておりません。お邪魔し
ますさんが日蓮に対して「狂人」「異常」「自分勝手」といった批判を繰り返し
ておられるので、それに対して反論をしているだけです。
57 :
Sb ◆SbSGI7AtEA :03/12/17 10:42 ID:KE5NCoHq
>>56 >857さん
>むしろ主体性の放棄がもしあなたのいわれる禅やお邪魔しますさんのいわれる絶対他力にあるのであれば
>>49を読んでどう思う?
絶対であり、相対であり
絶対でなく、相対でもない
色即是空
日蓮さんの方向性と、仏陀の仏法を考えると
日蓮さんの方向性は間違っていたと感じるのです。
その奥にあるものは同じでも、導き方が強引では駄目な場合もある
人それぞれの生きることが仏道なのです。
日蓮さんの示した道を歩いてくだけというのは仏道ではないのです。
でも、それを日蓮さんはした。
自分の示した道以外は歩くなと
仏道を歩かせているつもりで、魔道を歩かせている
わたしにも「狂人」「異常」「自分勝手」と思えます。
「正しい」と「正しくない」は同じこと
その答えはあなたの中にしかないのです。
赤信号は止まれだろ、それを正しいとか正しくないとか判断するの?
それぞれの判断でしたらどうなるや、信号機なんかいらないだろ。
創価の信号機は狂ってるので、盗聴したり
子供の遺骨をコーヒーカップに詰め替えたりする。
60 :
名無しさん@お腹いっぱい。:03/12/17 14:17 ID:a2dVLDnO
いつの時代からか地球を含め動植物は、
人間の都合の良い形にされる。
宗教もその一つ。
いつまでも過去の人間やその妄想に踊らされるのが、幸せならそれでいい。
もう、戻れない所まで来てしまっている。
61 :
名無しさん@お腹いっぱい。:03/12/17 14:20 ID:WN60pLD5
衆生救済が目的の仏陀が、性別、財産、地位、宗教、等の違いで人々を差別する事は無い。
「信者にならなければバチが当る」とか、「脱会したら地獄に落ちる」とか言うのは仏陀に対する侮辱です。
俗物が信者獲得や脅しのために言っているだけです。
仏陀の教えではありません。
62 :
名無しさん@お腹いっぱい。:03/12/17 14:23 ID:WN60pLD5
宗教団体の維持拡大に奔走しても、衆生救済とは全く関係ない。
俗物の私腹を肥やすだけ。
例えばだが、計算するのに年々計算式がかわるのか。かわんないでしょ。
1+1=2でしょ。
例えばだが、計算するのにソロバンを使うのか。電卓が大半でしょ。
時代によって変わるでしょ。
計算は大体エクセルを使うね
あとは携帯かな
66 :
857:03/12/17 23:34 ID:???
>>57 Sbさん。
>
>>49を読んでどう思う?
自力・他力を問う主体性が放棄されていなければいいのですが。そのことを危
惧します。
>日蓮さんの方向性は間違っていたと感じるのです。
私は間違っているとか間違っていないとか、そういう話をしているのではあり
ません。歴史的文脈の中で読まなければ様々なことはよく分からないだろうと
言っているのです。そのような流れを無視して「狂人」「異常」「自分勝手」と
いった評価を安易にすることは危険だといっています。あなたやお邪魔します
さんのように現代の情報量を前提とした視点、もしくはそのような情報量に基
づいたあなた自身の主観的判断だけで見てしまえば、日蓮は「狂人」「異常」「自
分勝手」ということになってしまうのです。そこに欠落しているのは歴史的観
点でしょう。そこを私は批判し続けています。中世日本という時代のフィルタ
ーをかけて考えて欲しいのです。そうでなければ日蓮の生き来し方、その思い
というものは分かりません。
>「正しい」と「正しくない」は同じこと
その答えはあなたの中にしかないのです。
何度か繰り返しになりますが、私はそのような話はしていないし、関心もあり
ません。
>日蓮は「狂人」「異常」「自分勝手」ということになってしまうのです。
残念ながらそこに真実がある。精神医学用語にパラノイアというのがある。
一言で言えば、論理的な整合性のある基地外。
彼の場合、その倫理に非常な感情があった。ここがポイントだ。
感情は人を弾き付ける。論理的整合性を持った情熱家は人を大いに弾き付け
カリスマ性を発揮する。ヒトラーしかり。
>中世日本という時代のフィルターをかけて考えて欲しいのです。
確かに今の日本に生まれてきたら、ライフスペースと同じだろうな。
「法華経」を信じないと日本が滅ぶ。自分の宗教以外邪教だ。攻撃して、
自分の正しさを証明せよ。日本中を「法華経」一色に塗り替えろ!
うっすらと、日蓮が迫害された理由がわかるに違いない。
いくら洗脳されていようが、現在の尺度に合わせれば、「こんなやつ」
相手にする必要がないことぐらいわかるだろう。
テスト
69 :
名無しさん@お腹いっぱい。:03/12/18 00:38 ID:vaUgjq7A
一人を救うために創価を犠牲にするのは善。
創価を守る為に一人を犠牲にするのは悪。
宗教団体の維持拡大に奔走しても、衆生救済とは全く関係ない。
俗物の私腹を肥やすだけ。
行者のよからんともあしからんともおもわぬを
自然(じねん)ともうすぞとききてそうろう
71 :
お邪魔します ◆nH2G.RjIE2 :03/12/18 01:38 ID:ISrcWGXn
>>66 857さんへ
>歴史的文脈の中で読まなければ様々なことはよく分からない
とのことですが、自分の教義にこだわり、自分の教義のみが絶対正しいとする
考えは、ブッダの唱えた諸法無我、諸行無常に明らかに反すると思われます。日
蓮も仏教を修学されているのですから、当然このことは分かっているはず。分か
っていながら、なぜ自分だけが正しいと頑固に主張するのか、反対に私の方から
聞きたいぐらいです。
確かに法然も、浄土宗以外の教えだと地獄に堕ちると言いましたが、七個条制
戒で阿弥陀仏以外の仏菩薩をそしること、別の教えを行う人と好んで論争するこ
と、別の教えを行う人にそれを棄てさせようとすること、等を戒めている。
これに反し日蓮は自分の教えを絶対正しいとして、人々に押し広めることを、奨
励している。
857さんの言うとおり、絶対他力の場合は、阿弥陀仏に救われようとする、全て
の善行、修行を不必要なものとしている。全ての菩提心を否定して仏教と言えるかと
いうと、「?」の面もあるが、絶対正しい教義を打ち立てた時点で日蓮は仏教の基本
から外れていると思われる。
日蓮が幼い頃「日本一の智者」を望んだ時点で、宗教者としてのみちを誤ったとしか
思えない。
72 :
波木井坊竜尊@日蓮宗葵講 ◆IByKs72gR2 :03/12/18 01:43 ID:gb1i17pQ
そうは言っても浄土三部経は、中国で生まれた経典で、インドにはかけらもないジャン。(藁)
73 :
857:03/12/18 08:19 ID:???
>>71 お邪魔しますさん。
>自分の教義にこだわり、自分の教義のみが絶対正しいとする
考えは、ブッダの唱えた諸法無我、諸行無常に明らかに反すると思われます。
それを私は現代人における情報量から見た判断であって、当時の日蓮の置かれ
た状況を無視しているとして批判しているのです。日蓮にとって初期仏教の教
義ももちろんブッダの唱えたことですが、大乗仏教ももちろんブッダの唱えた
ことなのでした。そのようなある種矛盾すると思われる考え方の多量な経典を
どう整合性を持って一人の教主の説法として位置づけるのか、それが中国で行
われた教判なのです。最澄や日蓮は天台教判に基づいてものを考えたのです。
最澄もまた天台の教義に基づいて南都六宗を攻撃しました。佐渡以前の日蓮は
その最澄の正統な後継者を持って自身を任じていたことでしょう。そのような
日蓮にとって法華経が見失われてゆく当時の現状は、まさに「白法隠没」とい
ったものに見えたはずです。あなたには歴史的観点が欠如していると思うので
す。当時の日蓮が法華経こそ真にブッダが説きたかった究極の法なのであると、
それを「事実」であると信じて疑わなかった、その状況下に立って、その時代
を生きた日蓮を見たときに、なぜ初期仏教の教義に反するといった視点のみで、
日蓮のことを「狂人」「異常」「自分勝手」と非難できるのか、それではあまり
にも歴史的背景やその文脈を無視し過ぎるのではないか、ということをいいた
いのです。正直にいいましてあなたに歴史上の人物を読み解く際の誠実さを感
じることはできません。非常に恣意的なものを感じます。
74 :
Sb ◆SbSGI7AtEA :03/12/18 10:00 ID:rV+w9tJO
>>73 それは理解しているのです。
ですが、同時代、同門の道元、法然とは違ってしまった
悟るではなしに、わかることに重点をおいてしまった。
仏教において、仏を悟るということは当時でも同じでしょう
この部分は、初期も、小乗も、大乗も無いでしょう
公明党の遠山議員誰かににてないかなー?
昔のなんとか室長の若き日に不思議だなー。
>>75 遠山議員の母親が第一庶務勤務だったとか。
77 :
Sb ◆SbSGI7AtEA :03/12/18 15:41 ID:rV+w9tJO
>>66 >857さん
歴史的史観からすると、
>>74で書いたように
同時代の人物との比較で出てくる違いを指摘します。
そうすると、なぜ、違いが出るのか、
そこからは歴史的史観ではなくなるのではないでしょうか?
仏教の見方から見るべきだとおもいます。
仏教の見方といっても、日蓮宗の見方では正当化はされているでしょう
だとすると、他宗からの視点で見た日蓮さんを検証するのが、
このスレでは適当だと思います。
私は日蓮さんの人間性を評しているわけではありません。
78 :
857:03/12/18 15:50 ID:???
>>74 Sbさん。
>ですが、同時代、同門の道元、法然とは違ってしまった
悟るではなしに、わかることに重点をおいてしまった。
そのことについて私はなにも見解を述べるつもりはありません。ただしそのあ
なたの見解が日蓮のことを「狂人」「異常」「自分勝手」と非難することに繋が
り得るのでしょうか。私がこれまで述べてきたことは、悟りの話ではなくて、
「狂人」「異常」「自分勝手」といった非難は歴史的文脈の中で見るとあまりに
不当ではないか、ということだけなのです。
79 :
857:03/12/18 16:00 ID:???
>>77 Sbさん。
>私は日蓮さんの人間性を評しているわけではありません。
その言葉を聞いて安心いたしました。私が言いたいところはそこなのです。「狂
人」「異常」「自分勝手」といった蔑みは日蓮の人間性に対するものです。あな
たは確かにそのような表現はあまり用いられていませんね。お邪魔しますさん
に強く見られる傾向です。日蓮の考え方に間違いがあると思うのならば、「日
蓮はこのように間違っていた」と言えば済むことなのです。人間性を貶めるよ
うな表現は避けていただきたいと思うのです。
当時の人から見れば「狂人」「異常」という見方する人
けっこういたんじゃないかな。 なにせ開祖ですから
「自分勝手」には、師弟以外はそうでしょう。 なにせ開祖ですから
それとも。日蓮大聖人様は人間でなく超人神仏の崇拝対象なのですか?
日蓮は「狂人」「異常」「自分勝手」であることは事実です。
現在・過去・未来のあらゆる時代背景を考慮に入れたとしても
これは紛れも無い事実なのです。
日蓮信奉者もそれと同じくらい「狂人」「異常」「自分勝手」であることは
事実なのです。
大乗仏教は基本的にゴウタマ・シッダルダの説いたものではありません。
日蓮のような独善的で誹謗を好んで行うようなものは地獄に落ちるような
ことも言っています。
シャリープトラやマハーマウドリガナヤーヤナに対し、女性と一緒にいた。
邪な感情を抱いていた。とか謗り、ブッダに彼らを追放すべきだと
主張したコーカーリヤは地獄に堕ちました。
おそらく日蓮とよく似た人物にはダイバダッダなんかも挙げることが
できるでしよう。
相手を攻撃すればそれ以上の攻撃を受けるのは当然です。
ましてや自分だけが正しいだのとほざいて相手を口汚く罵るようなものに
どこに正しさなどあるのでしようか。
日蓮宗は日蓮独自の悪魔の思想であり、仏説と甚だしくかけ離れています。
ブッダは論争は基本的に嫌いです。苦行に対しても否定的です。
よく本来の意図を読みとれば平和主義者であり、反権威主義的です。
実はブッダはかなりアナーキストなのです。
盲信を戒めるようなことをよく説いているし、せんじつめれば自分自身を
盲目的に信じるようなことを厭うようなところまで見受けられます。
ブッダは「狂人」「異常」「自分勝手」ではないと考えるのが相当であり
妥当だと思われます。
従って、日蓮の教えはブッダとは関係ないと考えるのが相当であり
妥当だと思われます。
地球は動いてるって最初に言ったひとは、当時おバカ扱いされたんだろうね。
当時も今もかわらん香具師もいる罠
84 :
名無しさん@お腹いっぱい。:03/12/18 18:42 ID:4nET332I
この掲示板で学会員がバカにされているように。
日蓮さんの示した五重の相対について、
現代にあてはめることは可能なのだろうか?
矛盾は生じないの?
あっ!それと、、、
日蓮さんは釈迦本仏のはずだけど、
日蓮宗以外で勝手に本仏を変えている組織は
日蓮の教えを蔑ろにしてるのでしょうか?
>>86 創価は池田本仏だからな〜
日蓮なんて単なる道具。
釈尊が予言した事柄は法華経のどこの経だっけ?
89 :
ひゃっきまる ◆HyaKKidsI2 :03/12/19 20:43 ID:fySvpNBu
おひさしぶりです。
前の流れなどほとんど読んでいないのですが、話題に
少し興味をもったので書き込ませていただきます。
「歴史的文脈の中で読まなければ様々なことはよく分
からない」のは当然だし、それを踏まえなければ歴史的
人物の思想や信条、役割はよく理解できないと思いま
す。
しかし、結局それは現代に生きる我々には知りようが
ないのではないでしょうか。だから本当は、我々から見
て歴史人物が偉大であるとも狂人であるとも評価などで
きないはずです。(その意味でお邪魔しますさんには同
意できません)
問題は、日蓮が現代においてどのように信仰されてい
るか、ということだと思います。「いいとこ取り」「善
意的解釈」は僕は有りだと思っています。しかし、仏教
に対する最低限の歴史的理解なしに原理主義的な信仰を
することはよくないでしょう。
日蓮の教えが歴史上のブッダの教えと関係があるの
か、と問われれば、素直に答えれば「No」、部分的には
「Yes」、ということになりそうです。ブッダからの教え
の歴史的な変遷を踏まえた上でなら、日蓮を信仰する事
は責められるべきではないと思います。
おや、おひさしぶり。
そーいやー、乾闥婆さんやΣ( ̄□ ̄;)!!@はにわさんも見なくなったな
菩薩チャンやゆりも見かけないよ。
そういえば電波男さんもこっち来ないな〜。
92 :
波木井坊竜尊@日蓮宗葵講@名前だけ佛所 ◆IByKs72gR2 :03/12/19 23:30 ID:PifSYXP2
レベルが低すぎるからですよ。
結論
ブッダ>キリスト>>>>>>>>>>>>>>>>>>>麻原>>>>>日蓮>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>池田
94 :
波木井坊竜尊@日蓮宗葵講@名前だけ佛所 ◆IByKs72gR2 :03/12/19 23:33 ID:PifSYXP2
ブッダ>キリスト>>>>>>>>>>>>>>>>>>>麻原>>>>>日蓮>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>池田>>>>>>>>>>>>>>>>>>>93
ハキイさん電波男さんは二茶を卒業したんでつか?
ゆりとかちょくちょく、学会ババンや自称対アンチの
無教学コテきて乱すからだね
ブッダ>キリスト>>>>>>>>>>>>>>>>>>>麻原>>>>>日蓮>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>池田>>>>>>>>>>>>>>>>>>>93>>>>>>>>>>>>>>>>>>>
>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>ハゲ
ブッダ>キリスト>>>>>>>>>>>>>>>>>>>麻原>>>>>日蓮>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>池田>>>>>>>>>>>>>>>>>
>>93≧94
>>94 ほぉー、お前、麻原を日蓮の上に置くとは、大したもんだな。
低い高い関係無しに興味深いですよ。
素人には、低い内容は分かりやすいし
過去にdatに落ちた同じ内容であっても、
くるくる周りながら成長してる気がする。
dat読み直せないしね。
なにより、初めてみた人には新鮮
>99
政治家の暗殺などを画策し実行した青年将校は日蓮系が
多数を占めていたんじゃないのかな
国家神道の影に隠れているけどさきの大戦は
日蓮系の軍人が暴走した事がけっこう尾をひいてるんじゃないかい
アサハラよりたち悪くない?
102 :
波木井坊竜尊@日蓮宗葵講@名前だけ佛所 ◆IByKs72gR2 :03/12/20 00:02 ID:GY8wqWV2
電波男さんの詳しい学歴は知らない。
でも元学会員で創価大学に言ってそのまま正宗で出家得度して、大学2年の時に、
”馬鹿馬鹿しい”ってんで修験系に言った人だよ。
内外相対の説明がなんだか腑に落ちない。
日蓮が主張した内道とは仏教のことで、外道とは、かつてはインドのバラモン教や中国の儒教、道教のことを指していた。
また、今日では仏教以外のあらゆる宗教、哲学、道徳などの教説が含まれるような説明が創価ではなされるようです。
そして、内道の説明になると佛教は『縁起の法門』や『因果の理法』と主張する。縁起の法門とするのに異論はありませんが、
こんにちでは、自然科学など因果を冷静に見つめる学問や日常生活においても因果律は世界共通の概念で
日蓮さんや創価の専売特許とは言えないのではないですか。
つっこみ所満載だと思うのですがどうでしょうか。
言えてる罠。
創価の場合は、否定下げ済ましつつ引用しておいて、
他の宗教に対し真似したとか言いがかりつける。
教養のないどこかのお国の人のようです。
都合よく引用すると共に日蓮の教え以外のを
次から次へとくっつけ正統派であるなどど主張する
おかしな団体です。
105 :
Sb ◆SbSGI7AtEA :03/12/20 10:01 ID:aNnTZ2/b
>>79 私が問題にするのは人間性ではなくて
(合って話したことも、最低このように話したことも無い人の人間性を
どうこう言えるほど、電波じゃ在りませんので)
仏道の導者としての評価として「間違った」と思うのです。
106 :
お邪魔します ◆nH2G.RjIE2 :03/12/20 10:03 ID:s+y+Cx7b
>>105 それは日蓮からの伝統です。立正安国論で法華経の正しさを証明するのに「金光
明経」「大集経」「薬師経」「仁王経」を持ち出して、これら4つの経典に書かれ
た災難は法華経を信じないためであるという、変な理論展開を行っています。
あと法然の起こした浄土宗を元にして日蓮教学を固めたけど、念仏は邪宗の最た
るものとして、幕府に念仏の取り締まりを要求しています。
首切れとか、殺せとか、喧嘩売ってまわったのですから
師弟は正しいからいいのだと考えるでしょうが
相反する思想考えなら異常な行動おかしいと言われるのではないでしょうか?
ま、当時は現代のような資料ないですから天台宗の間違いや
経典作成の事実は知らなかったのでしょう。
108 :
お邪魔します ◆nH2G.RjIE2 :03/12/20 10:15 ID:s+y+Cx7b
ごめん106の文は
>>104の文に対する私の見方です。
>>105 そうですね。
>仏道の導者としての評価として「間違った」と思うのです。
というよりも、日蓮教学そのものが仏教ではないと思っています。
どちらかというと、ユダヤ教やキリスト教、イスラム教などの一神教に
近い考え方をしています。これはここ2・3日考えていますので、近い
内に纏めて書きます。
あと日蓮がさかんに「迫害された」「弾圧された」と言っていますが、
日蓮に対する罰は、日蓮の言動に対するものであって、法然の念仏停止の
罰のように、教義そのものに対する罰でないことは理解しておいて貰いた
いと思います。このことについてもあとで書きます。
日蓮がキチガイなのは百も承知だ。
だからって法然とか道元を持ち上げるなよ。
気持ち悪いよ。
111 :
109:03/12/21 01:55 ID:???
112 :
お邪魔します ◆nH2G.RjIE2 :03/12/21 17:35 ID:SA/rO8Dy
前は仕事が終わってから、資料を集め寝る前に投稿していたが、忘年会が続いて
間があいてしまった。
最初に857さんが言うとおり、日蓮は鎌倉時代の事物に対する認識の上でもの
を書いているのであって現代の認識の上で批判するのは間違いであるとの批判があ
ります。このことについて私は、鎌倉時代の思想で書かれた文書を現代でも正しい
として、他の宗派に対して攻撃している創価学会をはじめとする日蓮系の宗教団体
がある限り、おかしいものはおかしい、間違っているものは間違っているとして書
いていきます。
113 :
お邪魔します ◆nH2G.RjIE2 :03/12/21 17:35 ID:SA/rO8Dy
立正安国論の要旨は
「近年の災害続出の原因は人々が正法に背き、悪法に帰依したために国土を守護す
る善神が国を捨て去り、聖人は所を辞して還らないために悪魔・悪鬼が来たって災
害が起こったのである。正法とは法華経であり、悪法とは法然浄土数である。その
方策は悪法である浄土教への施を止め、法華経に帰することである。このまま放置
するならば三災七難のうち、いまだ現れていない薬師経などに説く他国侵逼難(た
こくしんぴつなん)・自界叛逆難(じかいほんぎゃくなん)が起こるであろう。も
し実乗の一善たる法華経に帰依するならば、この世界は仏国であり、その仏国に衰
亡はなく、十方ことごとく宝土であるから身心ともに安全となるであろう」
であります。最初に現在起こっているいろいろな災難をあげ不安をあおり立てて、
自分はその災難を避ける方法を知っているとしています。その方法は法華経を信じ、
法然の浄土教を取り締まることとしている。なぜ浄土教が悪いのか、きちんと述べ
ていない。
もし法華経に帰依しなければ、反乱や外国から侵略されて、日本が滅びるとして
います。たまたま起こった災害によって、人々の不安をあおり、終末論を振りかざ
し、法華経に帰依すれば災害や日本の滅亡を逃れることが出来るとしているのは、
現代におけるカルト教団と同じ教えです。
857さんの言うとおりこの考えは中世の末法思想がはやった時代独特のものと
したいが、創価学会では今でもこの考えを支持し、創価学会を母胎とする公明党が
与党の中に入っている限り、私はおかしいと言います。
だいたい大地震が起きたとき、学会員の家だけが揺れないとか、大火のときお題目
を唱えれば焼けないとかは、ブッダは言っていない。仏教を信じていようがいまいが
災害は関係なくやってくる。ただブッダの教えを正しく理解していれば、災害に打ち
勝ち早く立ち直れると言うことです。日蓮もこのことは理解している。ただ自分の教
義だけが正しいとするあまり、立正安国論のようなことを主張する。そしてそれが間
違えていることに気が付いていない。
114 :
春田の蛙:03/12/22 17:02 ID:fjZDdHGS
>>103 月影さん
と言うより、自然科学ではさらにその先、因果律として振る舞わない現象を、複雑系とか非線形科学と呼んで研究しています。
背景となる法則はあっても個々の現象の予測が不可能だったり、逆に個々の現象は単純に振る舞っていても、全体としては捉えきれない複雑さを見せるもの等を指します。
さして古い概念ではなくて、原型となる哲学的模索の痕跡は古代中国などにも見る事ができますし、
1920年代にはフランスの数学者アンリ・ポアンカレが、天候の長々期予報は不可能であると立証しています。
長々期予報が不可能と言うのは、来年や再来年の今月今夜が、月夜か雨か曇ってるかなんて分からないと言う事です。
ポアンカレの用いた手法は、今日カオス理論として発展していますね。
私個人は、こうしたレトリックはトンデモ本みたいで好みませんが、
試しにこの考えを宗教的な因果律の如く人生に当てはめ、用いてみましょう。
ここに交通事故で亡くなった方がいます。
交通事故増加の原因を分析する事は出来ても、『何故』『その人が』亡くなったのかは分かりません。
病に苦しむ方がいます。
何故『その人』が苦しむ必要があるのか?
それを答えられる人は、この世にいないでしょう。
にも関わらず、人は他人の不幸をとかく秤にかけようとします。
そんな時間に外を歩いていたのが悪い、不摂生の報いだ、日頃の行いが悪い等々…
そうして、だから自分は大丈夫と思いたがるさもしさを、心理学では犠牲者非難と呼んでいます。
115 :
春田の蛙:03/12/22 17:03 ID:fjZDdHGS
こう考えると、因果の理法をこじつけるより、科学の概念の方が心の救いとしてふさわしいようです。
現代の宗教家がよく言う、「科学で人の心は救われない」との意見は、彼らがそれをよく知らないだけの事です。
他宗を知らないままに批判するのも、これと同じですから、
この点に限れば、日蓮のように罵詈雑言を用いるのは論外として、歴史に残る僧たちの多くも間違っています。
「法然上人行状絵図」通称四十八巻伝によれば、
「自宗の学者も他宗の学者も、他の宗旨を学ぶ事なしに、自分の宗旨に反するものはすべて誤りと決めつけるのはおかしな事だ。
それぞれが宗旨をたてているのは仏教理解が異なるからであり、諸宗の教えが同一であろうはずがない。
自宗と他宗の教えが異なるのは当然ではないか」
と法然は述べています(訳は佐々木正著「法然と親鸞」に拠る)。
学会系の出版物では、法然は念仏以外を禁じる排他的人物だったとされてますが、
実は望まれれば授戒などのまじないも行ったのが法然であり、それを念仏純粋の信仰へ深めたのが親鸞・一遍であったとするのが、
従来一般的な見解でした。
ちなみにこの観点から、親鸞を高く評価する見方は今なお多数派ですが、
師法然の姿勢をむしろ継承拡大して、仏教のみならず東国土着の信仰風習まで寛容した事が、
親鸞の幽霊済度・大蛇済度・餓鬼済度といった済度譚を生んだという指摘もあり、私はこちらの説を採る立場です。
浅薄な資料採用から、安易に断定して自説を固める人が多いのは残念ですね。
116 :
春田の蛙:03/12/22 17:04 ID:fjZDdHGS
口伝鈔によると親鸞は、身内の死を嘆く門徒に対し
「極楽往生を嘆くのは何事か」と信心を勧めた僧侶を、叱っています。
慕わしい人が亡くなれば、悲嘆に暮れるのが当たり前ですからね。
親鸞はお酒でも勧めて慰め、心ほぐれるまで愚痴に付き合うのが
僧侶のとるべき道だったと述べ、仏法を説けとは言いませんでした。
『酒はこれ忘憂の名あり。これを勧め笑うほど慰めて去るべし』
今に残る親鸞の言葉です。
法然や親鸞が『かなしきかな、いかがせん』と吐露したその心情を、釈迦は『マイトレーヤ・カルナー』――苦への友愛と名付けました。
苦しみを悲、友愛を慈と漢訳して、悲嘆を慈しむこれを『慈悲』と呼びます。
慈悲の心からすれば、苦しむ相手に対して自分の信仰への同意を望み、まして自宗への入信を願うなど只の欲心に過ぎません。
『全て仏法に事をよせて、世間の欲心もある故に、同朋を言い脅さるるにや』――これは歎異抄の言葉です。
人の不幸につけこむのは単なる悪ですね。
『仏心とは大慈悲是なり』――にも関わらずこれを忘れては、他力浄土の教えとて只の妄言と成りはてます。
他宗の方も、よくよく心すべき事でしょう。
117 :
春田の蛙:03/12/22 17:04 ID:fjZDdHGS
その上で日蓮の教えをどう解釈して信じようが、そんな事は個人の自由です。
良い点を取りあげて善意に解釈するのが、他ならぬ日蓮に対しての供養でしょう。
創価学会のいままでの行いこそが、日蓮の名を貶めてきた一因であると忘れてはなりません。
私はこの手の議論で、日蓮の人格を非難する事は避けてきましたが、
それは信仰に対する配慮であって、私が日蓮に嫌悪を抱いてないからではありません。
むしろ心情としては、そうしたレスに同意して、日蓮を思うさま罵りたいとさえ感じる事があります。
学会員の多くは日顕氏を憎悪しますが、その内何人の方が日顕氏本人から迷惑を被ったんでしょうか?
教え込まれた情報だけでそれだけ人を憎めるならば、
私たち学会に迷惑を被ったアンチや、信心を押し付けられた二世三世の憎悪がどれだけ深いか、
学会員が錦の御旗に用いる日蓮や法華経にどういう心情を抱くようになるか、少しは考えてみるべきでしょう。
創価学会の存在こそが、学会の言う謗法の原因です。
私たち浄土真宗を含め、どの宗教宗派にもカルトは存在します。
だから私は、その被害が原因で法然や親鸞に憎悪を抱く人を責めようとは思いません。
南無阿弥陀仏や帰命尽十方無碍光如来など、念仏の本尊を焼き捨てたいなら、私が手伝いたいとさえ思います。
自分が信心しているから、他の方にも開祖や教団を良く思って欲しいとか、
まして嫌になってやめる人に本尊を丁重に扱えなどと言うのは、心の弱い甘ったれの言う事だと思います。
あえて皮肉を言うなら、そういう方はきっと『信心が足りない』んですね。
漏れは池田を憎悪するから創価・公明を憎悪する。
創価・公明を憎悪するから日蓮を憎悪する。
日蓮を憎悪するから法華経を憎悪する。
池田を内部から追放し、まともな教義をつくって出直せ。
どんな宗教でもドグマ主義はだめだ。
119 :
Sb ◆SbSGI7AtEA :03/12/22 18:39 ID:hdhAo3yQ
>>118 まぁ、もちつけ
とっくの昔に死んだ人に鞭打ってもせんなかるまいに
120 :
Sb ◆SbSGI7AtEA :03/12/22 18:54 ID:hdhAo3yQ
>>108 導者として間違ってしまえば、その教えは間違ってしまいますから
仏教には原理主義は存在できない
仏教は自由平等慈悲だからね
仏の下にではなくてね、当然、法華経の下にでもないよ
春田の蛙さんお久しぶりです。
>>114詳しい解説有難うございます。
>病に苦しむ方がいます。
>何故『その人』が苦しむ必要があるのか?
>それを答えられる人は、この世にいないでしょう。
その通りだと思います。ただこの科学の隙間を埋めて心理的安定をもたらす手段に呪術的な
手法と因果律が用いられているのかなと。
この様に理解した方がしっくりくる方もいるということでしょう。
122 :
通りすがりの浅薄非才:03/12/23 00:29 ID:JCCB2G5l
「なぜ、(不幸に会うのが)私なのですか?」という問いに対して、「私」があるからですという回答はとても有効に思えるのですがどうなんでしょうか?
しかしまあそれとても「じゃあどうすれば『私』を泣くセルのですか?」という問いにたいしては、あまり有効な答えはないみたいですけれども。
123 :
会員X:03/12/23 01:02 ID:???
>>116 :春田の蛙 さんへ
私は学会員ですがあなたの意見に大変、共感します。
以下は私が他のスレで書き込んだのですがこんなことがありました。
この時このお父さんや家族の方々ともっといろいろな話を聞いてあげれば良かったと
後悔しています。
信仰によって病が治るとは学会では日常的に今でも幹部の方は話されています。
これは私の友人の話ですがその方のお母さんが癌になり入院しました。一家揃って
古くから純真な信仰をされ地域の幹部の方でした。家族揃って題目をあげ続けましたが
数ヶ月して祈りも空しく亡くなられました。その直後悲しみにくれる家族に再び不幸が訪れます。
娘さんが全く同じ種類の癌になりました。若いせいかお母さんより早く亡くなりました。
そしてお葬式をあげた父親にも不幸がしばらくして襲います。不治の病になり
亡くなりました。一家は全滅したような状態です。
その時地域の会員はいろんなレスで学会員の方が説明するように
「生き甲斐を見つけた人の寿命が延びるという関連で、信仰を生き甲斐にするとか、
強い信仰や強靭な精神力で病を乗り越える」ことができるはずだと同じようなことを言っていた人と
本当は信心がおかしいのではなかったかという人に別れました。
私はその家族のそばで何度も話を聞き、悲しみに沈んだ姿を思い出し、その方々の当時の
精神状態に思いを馳せるときとうてい「強い信仰や強靭な精神力で病を乗り越える」等と
無責任なことは言えません。
学会のいうように信仰しても不幸な状態を脱することは出来ないことも結構あり、
逆に奇跡的に病が治っても信仰していない方にも同じことが起こっています。
友人の医師がいまして彼が担当している患者さんが最近、劇的に回復しました。
1000人に1人ぐらいの確率です。信仰はしていません。
このあたりになると統計的な手法で可能かどうかわかりませんが
ある程度数字的なデータで会員と一般の方の治癒率の比較をするしか
学会の信仰が信頼のおけるものかどうか判定できないと考えています。
物理的な治療は、未完成ですが遺伝子治療など
様々な治療法ができてくるでしょう。
信仰は、精神面での治療ではないかと思います。
>>123 釈迦の教えには病気が治るなんて無かったと思いますけど。
あなたは、創価の主張を検証したいのでしょうか?
私事ですが、心臓病(心室中隔欠損)だったけど手術しないで
放って置いたら自然に治ってしまいました。
(国立循環器病院でも誤診はあるかもw)
>>122 それさあ・・・どちらも有効な答えなんかないと思うよ
鰻詭弁のようなもので一時的にごまかそうとしても
納得できない自分というものがあるのが人間
それは単なる言葉遊びじゃないの?
127 :
会員X:03/12/23 09:52 ID:???
>>1251月影さんへ
そういうつもりで書いたのではないのですが文章が足らなかったようです。
学会の教義の根本に創価以外は全て邪宗で幸せにはなれないと教えられています。
不幸のどん底に落ち無間地獄になるとも説明されています。
その具体的な論拠に病気に奇跡的に打ち勝ったことが頻繁に機関誌である
聖教新聞に紹介されています。他宗の方が病気で治ったのは実態が全く変わらず
本人がそう思いこんでいるだけだと池田氏の『人間革命』のなかでも
紹介されています。そんな独善的なことが真実なのかでしょうか。
偶然からか本当に治ったのか分からないまま
病から回復した人は創価の教えを信じ込み強烈な折伏と称した非常識な布教活動を
始めます。そして組織の幹部になります。独自に調べたのですがある地域では学会
の幹部のなんと70%ぐらいが大なり小なりこういう病気の経験者でした。学会は病気
を組織運営に利用しているのではないか。こういう疑問を持っています。
私は子供の頃からの会員で他宗のかたを邪宗と教え込まされ育ちました。
今でも他宗の神社仏閣には生理的嫌悪感を持たざるを得ない教育を受けました。
しかし学会は世界で最も清浄な団体は日蓮正宗のみであとは全て邪教といいながら
最近はその宗門が実は世界で最も邪悪な団体だ、昔から腐っていたと豹変してしまいました。
連日のように罵倒を繰り返しています。以前言っていたことは嘘だったのです。
春田の蛙さんの書き込みを初めて読みましたがむしろ他宗の方の文章のほうが
心に響きました。あちこちのスレで学会員がアンチに反論していますが全く説得力が無く
、組織で教えられていることをオウム返しのように繰り返しているだけで正直失望しました。
そのような疑問からここに書き込みいたしました。
信仰は、空中浮遊したり、魔法のようなご利益ではなくて
心の支え、心のくすり、だとおもうがな
良い精神状態は、よい方向に向く場合がある。
それ以上でも、以下でもない
ガン→今週の週刊ポスト嫁!「免疫力でがんに勝つ」
病気の正体はストレスと免疫力です、特にガンはその典型です。
体のことで奇跡と考えられていたもののほとんどすべては、神経の緊張と弛緩、
それによる内分泌系、ホルモンバランスの復元によって起こるものでした。
様々な行法で治るということの意味するものは、要は精神的なモチベーションの
持ち方の変化で新たな身体的変化が起こることによっています。その動機づけを
体から誘引するための方法として行法があるのです。呼び水として精神に暗示を
与え、そのフィードバックとしてまた体に影響を与える。この連鎖により、身体に
それまでなかった状態を生じるようになる。
すべてはこのようにストレス医学の発達で説明され現実として証明されるように
なるのです。宗教は科学によって統べて説明されてしまうでしょう。
130 :
名無しさん@お腹いっぱい。:03/12/23 18:20 ID:BqvXAa1r
>129
だからといっても具体的にストレスから開放される術としての行法が否定されるわけではないでしょう?精神的モチベーションの持ち方の変化→身体的変化という論理で説明はつくにしても。
説明だけがそこにあってもじゃあどうやって精神的モチベーションの持ち方を変化させるのですか?という具体的方法に言及できないのならがんを治すという場面においては実効性ないわけじゃないですか?
131 :
会員X:03/12/23 19:42 ID:???
>>130 あなたのいわれることも一理あると思います。
宗教的な現証を全て精神的モチベーションで説明できるかどうかは別として
精神的モチベーションの持ち方を変化させるには様々なアプローチが考えられます。
催眠療法、カウンセリング、当然宗教も有効な方法になると思います。
従って創価学会のみが身体的変化を起こすのでなく多様な宗教や
その他の方法(笑いの効用や登山など千差万別な方法もあるでしょう)によって可能
となると私は考えます。
後は客観的な効果を判定することと個人がどの方法を選択するかの問題になると思います。
>>130 DAKARA → 今週の週刊ポスト嫁!「免疫力でがんに勝つ」
療法としての方法論はそこにあるものが参考になる。
漢方的鍼灸治療の原理は神経の刺激であるが、それがストレス学説と結びつく
原理がわかる。
お題目もいいが、それを「信仰の対象にする」という時点で蒙昧となり
科学とは峻別されることになる。
それはちょうど、雷を見て原始人はそれにひれ伏して拝み、神サマだ神様じゃ!
と叫ぶのと同様のことをしているのが創価学会や日蓮の行き方で、雷の原因を
論理的、物理学的に解明することをどこまでも追究する行き方と精神が科学の
方法であり精神だ。
創価学会は科学かそれとも宗教か?そして最終的に必要なのは宗教か科学か?
これについて真摯に思考せよ。
133 :
130:03/12/24 09:04 ID:TuOn+KJg
「科学」だって世界解釈の方法としてはいかなる迷信信仰とも等価であるといいたいところではあるけれども。
そういう批判の仕方は結局「おらんところの神様が一番だ」「いんやおらんところの仏様の方がありがてえ」という言い合いとさして変わらない気がするんですが?
創価学会は科学か宗教かって聞かれればこれはもう、明確に宗教ですよ。最終的に必要なのは、人によって違うだろうし。
最初で留保をつけたのは、「がんを治す」実効性の観点からすれば、そういう形での宗教批判にはあんまり意味がないと。ただその教義なり、宗教的行為が明らかに他人様の迷惑になっているか否かというところから、学会は批判されるべきではないかと。
それが、通用しない仕組みになってるから難
誹謗、法難、正しいから叩かれる。
御書に書いてある通りだ。嫉妬だ。魔だ。
となる
135 :
春田の蛙:03/12/24 17:02 ID:SrlY+RIN
>>129>>132 横から失礼。お言葉ですが、週間誌の浅薄な記事でガンの治療法や、まして科学とは何かなど解るとは思えないのですが。
ご指摘の記事も目を通しましたが、論理の飛躍と根拠の無い断定の目立つ記事でした。
元々そういう治療理論なのか、担当記者の不勉強が原因なのかは判りませんが。
一応基礎的な事を解説しますが、免疫系で外来坑原を識別するのは、リンパ細胞表層にある坑原レセプター分子です。
ひとつのリンパ細胞は一種類の坑原レセプターだけを持っていますので、無限とも言える種類の外来坑原を識別する必要に応えるため、
坑原レセプターは遺伝子の再編成や突然変異などによって多様性を表現できるようになっており、
結果存在するほとんどの坑原を認識できる坑原レセプターのセットを、私たちは持っています。
この落とし穴として、自らを構成している分子に反応してしまう坑原レセプターが発現しているのが、
膠原病やリウマチ、シェーグレン症候群といった自己免疫疾患の原因です。
この自己反応性細胞を取り除く事で、自己と非自己を区別し非自己のみを排除するのが、おおまかに言えば免疫系の仕組みです。
自己反応性細胞はアポトーシスによって除去され、他方ガン治療の化学療法、ホルモン療法、サイトカイン療法、
放射線療法、温熱療法なども、ガン細胞にアポトーシスを誘発させますが、
原理に共通の仕組みがあるからと両者を混同してはいませんか?
136 :
春田の蛙:03/12/24 17:03 ID:SrlY+RIN
よくTVなどで、マクロファージなどの食細胞によってガン細胞が貪食除去される映像が放映されますが、
アポトーシスは実行遺伝子の発現により、不回帰点を経てDNA断片化、核の凝縮、断裂と進行して、
細胞自身が断片化されアポトーシス小体が形成されます。
貪食除去はこのアポトーシス小体――いわば細胞の死骸の処理過程ですから、
何となく『からだの悪いものを退治屋細胞が食べている』というような理解では、幼稚過ぎますよ。
アポトーシスの誘発シグナルは多様であり、細胞周期によっても反応が異なります。
スレ違いの話題ですので、最低限の基礎知識の解説にとどめましたが、
この程度の事もよく解らずに科学とはなんぞやと語り、宗教に対する優越を説くのは、
学会員が仏教の知識も無いのに最高の法だと断言して、他宗を貶めるのと変わりありません。
あなたが言っているのは、世にありふれているオカルト的疑似科学のひとつであり、
単純な真理ひとつであれもこれも説明できるとする点で、何でも信心で説明しようとするのと本質は同じです。
その論理を元に、治る治らないは本人次第であるなどと言ったりするのは、信心次第と病人に責任を押し付けるのと変わりません。
あなたは創価のようなタイプのカルトには騙されないかも知れませんが、
ストレス医学を標榜するTMのようなカルトや、自己開発セミナーの類には、用心された方が良いでしょう。
最後に念を押しますが、私のしたような浅薄な解説を、得意気にガン患者に助言なさったりしないように。
それは、紙飛行機を作れるから戦闘機も設計できると思い上がるようなもの、知ったかは恥ずかしい振る舞いです。
137 :
春田の蛙:03/12/24 17:05 ID:SrlY+RIN
>>118さん
お気持ち分かる気がします…。
私も、自身が配慮を心掛けるからと言って、他の方にそれを強要する気にはなりません。
行き過ぎは何事もよくありませんが、やはり人間は感情の生き物ですから、自身の体験からいささか言葉が厳しくなるくらいは、避けられないと思います。
>>122さん
レスは嬉しいですし、スレの雰囲気から考えればけしてスレ違いではないのでしょうが、私も
>>126さんのご意見に同感です。
>>126さん、レスありがとうございました。
>>123>>127 会員Xさん
はじめまして。真摯なレスをありがとうございます。
あなたのような方と話し合えて、嬉しいです。
私は、普段は「脱会しました」スレに常駐している者です。
このスレに書き込むのは初めてですが、ここに参加されている方の幾人かとは、以前「日蓮って」というスレでご一緒させて頂きました。
月影さんが私をご記憶下さっていたのも、そのおかげかと思います。
会員Xさんの古傷をえぐるような書き込みをした事、まずはお詫び致します。
読ませて頂きましたが、あなたにとって辛い記憶である事、ずっとそれを背負っておられる事はよく解ります。
特定の方を意識して書いた内容ではありませんでしたが、もし配慮の足りない点などありましたらお詫びさせて下さい。
小さな教えひとつが、時に癒しにも刃にもなりますね。
誠意ある慰めの気持ちも無いのに、言葉遊びや自己満足な教えで、感謝されようなどと図るのは卑しい事です。
自分を相手に押し付けるのは、ただの欲です。
そういう批判をしたつもりでしたが、なかなか伝えるのは難しいようです。
私の文のつたなさもあるのでしょうが、そんな中ご理解下さってありがとうございました
>>135-137 おまえ嫌味な香具師だなあ。基礎知識が一番難しいことが分かっているのか?
それに自分なりに事物を理解しきっていないだろう。だから専門用語を散りばめて
一般人が理解し難いように書いているんだろ?
『反論を許可せず』といったような独善性が文章の節々から見え隠れするぜ。
結局は思い上がった恥ずかしい人間だということを晒していることがわからないんだな。
スレ違いとか言いながら、見栄や自慢話でも長々と打ちたいようにしか思えないぜ。
おまえは創価に嵌ったのもわかるし、脱会したのもわかる。
ただ一つだけ言えることは創価にいようがいまいがおまえみたいな人間は根本は
何一つ変っていないだろう。性根が腐れきっているということだ。
またその自覚性もない最低の人間。いうなれば池田タイプの人間だ。
大方学会内での出世ができないことに腹を立てて脱会しただけの糞野朗だろ。
いいか。俺は別に週刊誌なんかの肩を持つわけじゃない。自分だけが正しく
他の人間は何もわかっていないとでもいうような独善性を嫌うんだからな。
おまえの文章には人を小馬鹿にし自己の優位性を主張したいというのがわかる。
知識のひけらかしをして自己満足したいのならそういう専門家と議論しろ。
専門知識があるから論じてもよい。ないから論じてはいけないとでもいうような
考えがあるなら思い上がりも甚だしい。池田同様におまえは逝ってよし。
139 :
会員X:03/12/24 18:59 ID:???
>>137 春田の蛙 さんへ
古傷をえぐるようなことは全くありません。むしろ自分の過去の行動がどうであったのかという
理解が進みました。
友人のお母さんが亡くなったとき他の会員と違い私はその方たちをあまり励ますことが
出来ませんでした。学会員の方々はもっと題目をあげるようにもっと折伏をすることだ
と彼らに話していました。悲しみに沈む彼らにはそんな余裕が無いのではと私は判断し
せいぜい話を聞いてあげることしかできませんでした。
その結果3人の方が亡くなりました。もっと創価のいうような話をするべきであったのかと
心に残っていました。しかしあなたが書かれた慈悲についての「悲嘆を慈しむ」という文を
読んだとき自分がしたことは間違っていなかったのではと思いました。
一緒に悲しんであげることだけでも人として意味があったと思えたことは自分にとって
重荷を一つ下ろしたような気がします。できればもっと話を聞いてあげればと後悔したと
書いたのはそういう意味からです。
病気や大切な人の死といものを退会した人を脅す理論構築に使う創価学会の考え方は
私には理解できません。会員の親切な部分と学会以外は不幸になるという教義が一人の人間の中で
両立してしまうことが創価に対する私の最大の疑問になっています。
今後もあなたの書き込みを楽しみにしております。
140 :
乾闥婆:03/12/24 23:28 ID:???
>>117 >私たち浄土真宗を含め、どの宗教宗派にもカルトは存在します。
だから私は、その被害が原因で法然や親鸞に憎悪を抱く人を責めようとは思いません。
南無阿弥陀仏や帰命尽十方無碍光如来など、念仏の本尊を焼き捨てたいなら、私が手伝いたいとさえ思います。
春田の蛙さん。お久しぶりです。
以前も「日蓮って」スレで御同様の発言をされていて、戸惑いました。
カルトの被害が原因でその宗派や関連ある人物に憎悪を抱いた人が、
その憎悪を全人格にみなぎらせて、各祖師をあしざまに言ったり、
その本尊を焼き捨てるなどの行動に出ることを、
良しとするということは、ある意味で、その人をして、
その当のカルトの行動と同じ次元にとどめ置くということになりはしませんでしょうか。
それを押しとどめようとしないどころか手伝いたいとさえ思うということは、
結果として無慈悲とはならないでしょうか。
ちなみに857は私です。
>>140乾闥婆さんへ。横レス悪いね。
>カルトの被害が原因でその宗派や関連ある人物に憎悪を抱いた人が、
>その憎悪を全人格にみなぎらせて、各祖師をあしざまに言ったり、
>その本尊を焼き捨てるなどの行動に出ることを、
>良しとするということは、ある意味で、その人をして、
>その当のカルトの行動と同じ次元にとどめ置くということになりはしませんでしょうか。
ならない。無用の物を捨てるというのは大切なことだ。
無用な物を捨てることを恐れている人には「焼き捨て」て見せるというのも、
手法の一つだろう。上品だとは思わないが。
142 :
お邪魔します ◆nH2G.RjIE2 :03/12/24 23:44 ID:6z9duLY8
ある宗教を信じるとガンに罹らないと言うのではなくて、誰でもガンに罹る
ことがあるから、ガンになったときどうするかを教えるのがブッダの心だと
思うけどね。
>>135-136 >横から失礼。お言葉ですが、週間誌の浅薄な記事でガンの治療法や、
>まして科学とは何かなど解るとは思えないのですが。
確かに。
この先生の研究は著書でベストセラーにもなって書店の店頭には山積みで
ならんでいるものです。TMなどの本でもそうなったこともあるかもしれないが、
これはまともな医学の研究でかなり受け入れられつつある実験的実践的研究
となっているようですよ。
これまでの伝統的なガン治療は本人の生命力の正常な部分も潰してしまう
方法であるのに対し、こうした免疫治療は原因となっている身体的根源である
要因を除くものであるために副作用もほとんどなく、快癒に結びつく方法で
しょう。東洋医学がガンに効く場合が多々あることはすでに既知となりつつ
あったでしょう。代替医療という名で呼ばれる方法論もすでに注目を集めつつ
ありますのは知っておられますか?
お題目を唱えるとそれらで説明がつく効能と同様のメカニズムで神経の対応が
強化され、結果としてストレスに強くなり、ガンが消えて行くということだろう
ということを言っているだけです。すなわち、それを宗教として「フシギな奇跡」
だと崇めているだけでは創造性は無いに等しいという説明ですよ。それでは
さらなる発展性はなくなり、蒙昧の中で永久に進歩しない意識に隔離されてしまう
ことになる。雷を神様だああ!と言ってひれ伏す心理が日蓮の題目礼賛の心理と
同じだと言っているに過ぎません。
>>140乾さん
あなたの仰るとおりです。141など単なる煽り虫でつ。放置でよろしく。
学会の指導による正宗叩きは非常識と吐いた口で141の様なことを
平気で言えるのです。
いつも冷静で穏やかなあなたですから余計なお世話でしょうが・・・老婆心ながらのカキコでつ。
145 :
史実。:03/12/24 23:56 ID:???
日蓮は病死した。
史実だ。
始祖からして「病気治しは失敗」している。
「病気が治った」のは別の要因によるものと推測するのが良いを思われる。
新興宗教の特徴、生命と宇宙の言葉出てきたな
御書や法華経に書いてあるのか
某教団出身の誰かが言ったのではなかろうか
某教団の引用で
生命と宇宙か・・・。
唯一絶対の法則。真理。それを層化は主張する。
だが、唯一絶対の真理があったら、宇宙は一瞬にして消滅する。
原子の奥、素粒子の世界では波動関数の法則により、エネルギーが無秩序に生成し、
消滅する場が存在する。それが唯一の法則で支配されたら、動きが停止する。
つまり、存在そのものがなくなるんだよ。言っていることがわかるだろうか?
いみじくも、釈迦は「無常」を説かれた。それは「全てのものは移り変わる。
ゆえに絶対というものは存在しない」。唯一絶対の教え、真理など、
釈迦も否定しておられる。層化のありかたは釈迦に弓を引く邪悪なものといえる。
150 :
salam ◆.P18/mYapQ :03/12/25 03:59 ID:hbHYTwh7
>>138 反論にもなってない人格攻撃はやめましょう。
>>143のように内容で反論しましょう(143の反論が的確かどうかは
自分で考えるとして)。
>>143 横からで悪いんですが、
AERAの12/8号に癌の免疫治療の記事が特集されてました。
受け売りしかできませんが、それによると100年以上の研究の歴史がある
そうですが80年代以降、免疫細胞の働きが解明してきてから治療への応用が
繰り返され、効果が上がらずその理由が後に明らかになり、また新たな手法が
試みられる、その繰り返しの歴史であり、本や広告に溢れているように「そんなに
シンプルなら苦労はしない」(東大医科学研究所 田原教授)と書かれています。
最新のペプチド療法については臨床試験を始めた段階であり、効果の判定はこれから。
「夢の特効薬は簡単にはできない」、とのことですね。
ただ同時に、基本的な免疫力をあげる効能については肯定すべきもので、
その大敵は栄養不足や睡眠不足や精神的などのストレスだとしています。
いずれにせよ、研究はこれからであり、その視点の大切さは賛同するし、
>>143でいっていることは宗教の優位性を否定する内容だからわかるのだけど、
>.132のように、その記事を科学と宗教の優劣を語る根拠と提示するには甚だ
薄弱と思うのですが。蛙さんはそれを指摘しているのではないでしょうか。
俺個人としては、そもそも(宗教側からも)同列に語ることに非常な違和感を感じます。
信心による免疫強化に関しては、古くはクリスチャンサイエンスにも見られたし、
日本でも笑い講のように、笑いで免疫を高めるという手法もある。
ただし客観的なデータというのはない。
多くは信心しながら、同時に病院にも通ったり入院したりしているので、
因果関係の証明が出来ない。信じたいから信じる、ということしかないわけだね。
案外、2ちゃんねらーはカキコで発散しているので、
信心よりも病気が治る確率が高いかもしれない。
というか、免疫力が強くて病気にならないかもしれない。
いつか「2ちゃんねらーになると、病気が治る」ということが証明できるかもしれない・・・(冗談)。
2ちゃんねらーになると、病気が治るかもしれないが、
2ちゃんねるを見続けると、病気が悪化するひとのほうが断然多い(w
>>152 客観的なデータはないのだが、今年は特に、すこぶる調子が良かった(笑)。
自分だけの体験だけで書くと、
「2ちゃんねらーになると、病気しない」が真となる(苦笑)。
154 :
Sb ◆SbSGI7AtEA :03/12/25 16:52 ID:mbCGkvkA
>>150 138は反論になっていない人格攻撃だと思うが
よくよくみれば135-137は形を変えた人格攻撃だ
そんな香具師を擁護する異常さをおまえはわからないのか
慇懃無礼で独善的な態度でスレ違いなことをのうのうと
述べているのは滑稽だ。
問題は独善性に対してのものだ。論点のすり替えはやめろ。
いいか蛙の野郎のいけ好かない文章読んで何も思わない
ならおまえも同じ糞野朗だ。池田、蛙ともどもおまえも逝ってよし。
156 :
salam ◆.P18/mYapQ :03/12/25 21:28 ID:hbHYTwh7
>>155 申し訳ないが、わかりません。言われた当事者でないせいもあるので、そうなのかもしれませんが・・・。
たぶん、
>ストレス医学を標榜するTMのようなカルトや、自己開発セミナーの類には、用心された方が良いでしょう。
>最後に念を押しますが、私のしたような浅薄な解説を、得意気にガン患者に助言なさったりしないように。
>それは、紙飛行機を作れるから戦闘機も設計できると思い上がるようなもの、知ったかは恥ずかしい振る舞いです。
が該当する部分かと思いますが、それは
>>129や
>>132のように「証明された事実」のような提示の仕方について
の批判を込めた表現なのでしょうね。確かに、物言いはキツイ表現です。ただ、
>>138ははじめから終わりまで
御自身でも認めておられるように主張の反論ではなく、「専門用語を使うやつは鼻持ちならない」というメインメッセージ
しか読み取れなかったのでレスをしたのです。
貴方の「独善性が問題」というのはちょっとわからないのですが、「学会の主張」に対してのメインメッセージを発する意図
で
>>132を書いたのだ、というのであれば良くわかります。その本質を敢えて外した蛙さんの指摘ではないか、というので
あれば、その旨(例えば俺の理解では
>>150の通りです)を指摘して話を続けてください。
ただ、俺や蛙さんの「独善性」を問題とするなら理解できません。蛙さんの主張の内容にそって独善的な判断がある、
と思えばそれを指摘して根拠のなさを批判すれば良いし、俺に対してなら「メインメッセージがおかしいですよ」という
指摘に対してそれこそ何の反論も伝わってきません。
俺は
>>150でも書いたとおり、
>>132の意図は自分なりに理解していたつもりです。そのメインメッセージは賛成なのですが、
同時にそれを支える根拠としては「?」を感じてしまったので横スレをさせてもらいました。失礼しました。
157 :
salam ◆.P18/mYapQ :03/12/25 22:04 ID:hbHYTwh7
>>155 つづき
どうしても勘違いして欲しくないので、どうか読んでみてください。
俺は「宗教と科学を同じ土俵で語るのがおかしい」と書きましたが、
それは以下の意味です。
例えば、UFOは現代の科学でその存在を否定も肯定もできていません。
あるカルト思想がそれをもって科学により否定できない事実を示して
「だからUFOは存在しないとする理由はないし、科学の限界もそこにある」
として更に「私たちの考えなら説明ができる」と主張したとします。
それを否定するのに「いずれ科学で解明されるだろう」と主張する。
確かにその可能性は非常に大きいしその試行錯誤の過程で色々と明らかに
なりつつあるのですが、今の段階では決定的なことは言えず、水掛け論に
なってしまいます。
しかし、そもそも「説明できる=証明された」ではないわけで、カルト側の
説明の正しさを主張する根拠には本来なりえない。
ですから、科学をもって優位性を主張するのではなく、カルトの主張の
正しさに科学が明らかにできていないことををもってきているトリックを
指摘する方がよいと考えています。
ですから、宗教をすることで○○があろうがなかろうが関係なく、
科学と比較して宗教の優位性を主張する事自体に矛盾がある、ということです。
彼らは「現証」を元に一般化を主張しますが、そんなものはそれに反する事例を
一件提示するだけで否定できます。アンチのように、個別の事例を示して
その傾向を指摘するものと違い、法則として主張しているのですから。
もし確立云々と言うのなら、統計表を出さなければ根拠は示せないはずです。
俺はこのような考え方だったので、
>>150の話を出しました。
これは御理解いただきたいと思い、書かせてもらいました。
>salam氏殿
わたしはこれだけを言いたいので、意味を明確に捉えてほしい。
>すなわち、それを宗教として「フシギな奇跡」
>だと崇めているだけでは創造性は無いに等しいという説明ですよ。それでは
>さらなる発展性はなくなり、蒙昧の中で永久に進歩しない意識に隔離されてしまう
>ことになる。雷を神様だああ!と言ってひれ伏す心理が日蓮の題目礼賛の心理と
>同じだと言っているに過ぎません。
免疫力がガンへの予防となりガンが支配的になるのを防いでいるというのがもう
常識的な理解となりつつあるという認識において述べているのであって、細かい
ことは専門家に任せておけばよいでしょう。それは蛙さんが言ってくれてることも
含むでしょう。それはそれで結構ですよ。問題はそんなことではないのです。
すでに日蓮系の坊さん研究者のある人も「日蓮が題目でなんでも効く薬になる」という
見解だけで日蓮教を理解すれば事足りるとするならそれはおそらくはいわしの頭信心だけ
になって知的にもなれず蒙昧教となるだろう」という意味の論文も出してますね。
http://www5c.biglobe.ne.jp/~lotus/ など参照。
そこにある論文も、すでにわたしに言わせればそれもこじつけにすぎないものです。
そんなこじつけ教が日蓮教であって、音韻と呼吸の連鎖が効果を生んでいるだけのものを
漢字を当てて読みに勝手に意味をつけて効果の源がこれだからだなどとは片腹痛いわけで
すが、そういうウソの説明ではなく、科学的な説明が必ずつけられるはずだという理解の
側から研究すべきだということを主張しているわけです。そしてそこからしか真実の解明
は生まれないだろうということです。こじつけでない真実こそが我々に真の理解を与える
のです。よろしいですか?
たとえば天台のチギが昔法華経のすべてはこの題目=タイトルに含まれているのだ、
そこにブッダの教えのすべてが凝縮されているのだ、この五字にうんぬんなどと
のたまい、フシギ教の冠をこの法華経に冠したことからも日蓮教は影響されていて、
タイトルを崇める、タイトルのフシギな力にのめり込むという宗教に変質させて
しまったわけでしたね。
こうなってしまうと、仏教は完全に蒙昧教としての道をまっしぐらに進むしかなく、
すべては「我々はただひたすらこのタイトルに向ってタイトルを唱え続けていく姿勢
が重要なのです」となってドン詰まりとなるわけでした。つまりそこから先はもう
何も無い。麻薬に酔ったが最後、この麻薬に酔いつづけることが至上の行き方なのだ、
となるわけです。
しかしそれは要するに我々の知の死でしかありませんね。良くてそこからはこじつけ
漢字当て教しか生まれなくなるのです。これでは世界には全然認められることはない
でしょう。すべては完全に科学的理解の対象となるべきなのです。
昔は電気もすでに神の力でした。雷は神の怒りの象徴でした。神が怒るので雷を
ナラして地上に怒りをぶちまけているかのように、原始人は受け取ったのです。
創価学会員がバカにしているキリスト教の聖書には、雷が山で鳴り渡っている間に
神の十戒が板に書き記されたという奇跡があったと語られたりしていますが、あの
ような記述は、基本的には雷の荒れ狂いが神の脅しが現れたことを示す意味として
当時の人は「受け取った」でしょう。
創価学会員が題目の力を崇めるのも実はそれと大同小異なのだと私は主張している
のです。これでよろしいでしょうか。
日蓮さんの伝説は、オカルトぽぃよ。
天台の主張を鵜呑みにしたのが失敗だったね
無量義偽教だったし。
>>156 漏れは眺めていて見つけた文章が反吐がでるような虫の好かないものだったし
スレ違いなことを堂々と長文で述べる。しかも理解し難いような難しい内容を
自慢気に書いてることにむかついただけだ。
自分の書いていることが高度で博学だからどうせ理解できないだろうと思って
書いているのは間違いないぞ。当然あんな文章は専門知識がない漏れには
理解不能だ。こんなところで書くというのに人にわざわざわかりにくく書くことの
意図というのは何だ?蛙の文章が理解できないのはこのスレに参加するな。
意見を言うなと暗に示しているだけだろ?スレ違いなことを長々と述べて
しかもスレッドを仕切るようなことしてたら見ているものは気分悪い。
あのなあ。小手半はそれなりに小手半同士の親近感があるのはわかる。
だけど漏れのような小手半つけない人間は馴れ合うのが嫌いだってわかるよな?
意見云々でなくそいつが言ったから云々で自分の本来の意見を曲げてしまう
可能性があるんだよ。小手半同志の馴れ合いはそこが嫌いなんだよな。
163 :
162:03/12/26 01:25 ID:???
(続き)
漏れが独善性を問題にしたのは、日蓮や池田なんかもろに独善的だろ?
人の受け売りになるが『この世に絶対不変の正義などない』というのが
あるだろ。二イチェか?正義を振りかざして人を攻撃するような香具師くらい
危険なことはないぜ。そんな香具師は自分が正しいと信じて独善に嵌っている。
そんな香具師はこの言葉の意味を考えてみるといい。
『正義とは自分を利するものを助け、自分を害するものと戦う技術』と古代の
アテナイでは信じられていたとプラトンの国家論にも書かれていたな。
こんなもの自分にとっての利害を主として行動する人間の原理を書いたものに
過ぎないが、所詮は正しい正しくないは人により違うということを端的に示すものだ。
要は人間という下らない生き物は自分を善とおき、他者を悪とおいて物事を
考える基本的な原則があるわけだ。
そういう意味で人間本来持つているこの『独善性』に対して漏れは否定的に捉えたいね。
シッダルダ太子が『天上天下唯我独尊』というのもある意味問題発言だ。
人間と生まれた以上は後にブッダと名乗るような人間でもこの『独善性』が
人一倍強かったということだ。
漏れは長文が嫌いだからもう書きたくなくなったがこれも読む相手のことを
考えてないような気がするからだ。
要は独善性こそが人間の最も悪となすべきことであり、それが強いものがカルトを
つくったり嵌ったりするんだ。
まあ独善性は漏れ自身に対しても否定できないが、自己の独善性に疑問を抱き
否定的に捉えるようなことができるようなことが健全だと漏れは思うわけだ。
書いててそれにあまりにも気付いていないというのは如何なものかと思うわけ。
だから腹を立てて煽ってやつたんだよね。
164 :
お邪魔します ◆nH2G.RjIE2 :03/12/26 01:40 ID:sK2qE9uy
「精神腫瘍学」(サイコオンコロジー)という学問があって、精神心理的ストレスが、がんの
発生、憎悪に影響があるのを研究している。
精神的ストレスが、免疫力に影響して、がんの発生を抑制するとか、悪化を防止する力を弱
める事が分かってきました。名古屋市立大の小嶋雅代助手(健康増進予防医学)や名古屋大、藤
田保健衛生大などの研究グループが全国45市町村の男女8万1580人を対象に日常ストレス
が多いと感じているか、生活を楽しんでいるかなど生活態度を尋ね、その後約10年間の大腸が
んによる死亡(男性190人、女性157人)との関係を調べた。
「日常ストレスが多い」と答えた女性が結腸がん(大腸がんの一種)で死亡するリスクは、スト
レスを感じていない女性の1.7倍だった。(朝日新聞、9/20/2003)
またがん患者は、「うつ病」「適応障害」などの精神疾患を併発していることも多く、がん患者の
30−40%に抑うつがみられるという報告もあります。
このようなことから日頃精神を安定し、ストレスを無くすことが大切だと思われます。またガンに
罹ったときの精神的なケアも必要です。このようなことに宗教の果たす役割は大きいと感じます。
165 :
Sb ◆SbSGI7AtEA :03/12/26 11:42 ID:JyMmMSSi
私は、春田の蛙さんが怒った理由がよく分かります。
科学が科学として成立する前提を無視してはどうしようも無いのです。
ある条件の元にほぼ不変的な結果を検証できなければ、科学は科学足りえないのです
宗教は科学と張り合うものではなく、科学で宗教を紐解くことも出来ない
宗教と科学を同列に見てはならないのです
166 :
名無しさん@お腹いっぱい。:03/12/26 15:29 ID:zb30ImNV
信心、不信心は個人の自由。
強引な勧誘や引きとめをするな。
「創価は正しいから」というのは理由にならない。
他の組織も自分の所は正しいと主張している。
そして、その中で創価だけが正しいという根拠は無い。
信仰は個人の自由、信仰しないのも個人の自由。
この権利には憲法という根拠がある。
一人を救うために創価を犠牲にするのは善。
創価を守る為に一人を犠牲にするのは悪。
宗教団体の維持拡大に奔走しても、衆生救済とは全く関係ない。
俗物の私腹を肥やすだけ。
167 :
春田の蛙:03/12/26 15:48 ID:pSlhSkpb
>>165 Sb ◆SbSGI7AtEA さん
簡潔かつ明瞭な代弁を、本当にありがとうございます。
うっかり長文のレスを書きそうになっていた自分が、非常に恥ずかしいです。
ガンは『病は気から』で説明できるような、なまやさしい病気では断じてありません。
苦しむ多くの患者がおり、真摯に治療に携わる医師、
ホスピスやビハーラ運動の宗教者がおり、治療法を懸命に開発している研究者がいます。
…とは言え、スレを騒がせた結果については反省し、深くお詫びします。
レスをくれた皆さん、ありがとうございました。
>>143さん
冷静なご意見ありがとうございます。
ただ、既に私よりよほど公正な意見をsalamさんが述べて下さってますので…
salamさん、ありがとうございました。仰る通りですし、科学と宗教に関するご意見まで含めて同感です。
雷について言えば、すでに紀元前2世紀の准南子に「陰陽相せまり、感じて雷となる」とあり、
雷が正負の中和現象である事が述べられていますから、原始人も捨てたものではないですw
上のやりとりで、日蓮の時代性を考慮せよとの意見に対し、
考慮するが故に、同時代や前時代の他の思想に比べて、
問題点を指摘しているのだと反論が出ているのもこのためでしょう。
なのに多くの学会員が、日蓮の思想のみを金科玉条として、
科学的知識にさえ勝るかの如く喧伝するのはおかしいと言う事だと思います。
168 :
春田の蛙:03/12/26 15:50 ID:pSlhSkpb
>>140 乾闥婆さん
おひさしぶりです。「日蓮って」スレでのやりとり以来ですね。
ネットから足を洗われるかも知れないとの事でしたが、それでもどうされているか、ずっと気になっていました。
こうして明かして頂けた誠意、嬉しいです。
乾闥婆さん、私も古くからの真宗門徒の家に育った人間です。
深く敬愛する法然や親鸞の事を、悪く思われたいはずはないし、その教えが理解されれば嬉しいとは思います。
それが宗教を信じる者として、当たり前の欲でしょう。
ですが一方で、その宗教の名の元にカルトがどれほど迷惑な振る舞いをするか、どれほど人を傷付けてその人生を奪うかも、私は知っています。
その被害者が、怒りを吐き出し、本人の所有物をどういう方法で処分しようと、
そのぐらい許容できないで何が利他の精神、慈悲の心かと私は思います。
それで少しでも傷が癒えるなら、いくらかでも気が済んで過去を清算し、前向きになれるなら良いじゃありませんか。
私は何も、宗教をやめるなら本尊を焼けと勧めてるんじゃありません。
そうせざるを得ない人も中にはいるだろうし、心中いかばかりか察すればそれもやむなしと言っているのです。
そのように思うからこそ、その人にとって心の救いなら、日蓮の教えをいかに解釈して信じようと自由とも、私は言うのです。
私自身の率直な心情を言うなら、あんなもの信じる人の気が知れません。
しかし私の理解には、創価など日蓮系の宗教に被害を受けた故の、公正に欠けた面があるかも知れない。
ですから日蓮の事を述べる際は、きちんと著作を読み、配慮した意見を心掛けたつもりです。
だからこそこの間のレスで、乾闥婆さんも「自らが至り着いた心情によく合致する内容だった」と、言って下さったのではないでしょうか。
私が思うに、乾闥婆さんが抱かれている感情もまた、学会の事で長年悩まれた故の被害だと感じます。
学会の非常識な他宗排撃やヒステリーな振る舞いを見ているからこそ、
理由はどうあれ感情的な批判行動には、反射的に抵抗を感じるのではないでしょうか。
他人の思いを「こうするべき」と理で計るのは、難しい事です。
そうしているつもりの自分自身、実は感情に突き動かされているからです。
169 :
春田の蛙:03/12/26 16:00 ID:pSlhSkpb
>>139 会員Xさん
昔、近所に立正佼成会の熱心な信者の方がいて、よく会合に誘われました。
近所付き合いもあって母と一緒に行った事がありますが、その地域の教会長はよい方で、
別段入会を勧められる事もなく、会員非会員など考えず親切にされる方と言う印象でした。
その方がガンで亡くなられた時、新しい教会長氏の
「ガンになったのは、布教をおざなりにして人に親切にした報いだ。
前教会長は入会を熱心に勧める事もしなかった。これからは方針を改める」
との指導を聞いて、唖然とした事があります。
我が家もそれからは勧誘攻撃を受け、さらに創価学会との互いを邪教呼ばわりする
折伏合戦に巻き込まれて、ひどい目にあいました。
冗談みたいな話ですが、私は学会に迷惑して佼成会に入会した人と、
佼成会にうんざりして学会に入った人を両方知っています。
両方断った母は、責めたてられたものです。
私は自分が心の支えとして信仰するだけなら、別段何を信じてもかまわないと思うのですが、
上記の体験から日蓮系はいささか苦手です。
ですからそんな中、人としての温もりを失わなかったあなたを、本当に尊敬します。
会員Xさんのとった行動こそ、人としての振る舞いだと思います。
170 :
春田の蛙:03/12/26 16:00 ID:pSlhSkpb
>できればもっと話を聞いてあげればと後悔したと
>書いたのはそういう意味からです。
私も、よくそんな後悔をしますよ。
しかれども、思ふが如く助け遂ぐる事、極めて有り難し…
人の知恵や力の限界を嘆いた歎異抄の言葉が、そういうとき身にしみます。
脱会について悩まれる方にレスを書く時なども、いつもそうですね。
どういう死因で亡くなったかで、また臨終の様子だけで、
その人の人生を裁こうなど愚かの極みです。
念仏の信者にも、このような考え方はあったようで、歎異抄で批判されていますね。
> 念仏による滅罪の功によって往生するなら、人の犯す罪業に終わりはなく、
> 従って念仏に退転は許されない事になる。
> そして臨終のめでたさも期さねばならないだろう。
> しかし病苦のいかんによっては、それも期しがたいではないか。
> 真実の信心は、臨終の正念にあるのではない。
念仏にしろ題目にしろ、それを思い上がって人の生き死にを裁くような考えが、私は嫌いです。
会員Xさんのような思いにこそ、私は共感します。レスありがとうございました。
171 :
Sb ◆SbSGI7AtEA :03/12/26 18:30 ID:JyMmMSSi
>>170 >春田の蛙さん
> 念仏による滅罪の功によって往生するなら、人の犯す罪業に終わりはなく、
> 従って念仏に退転は許されない事になる。
> そして臨終のめでたさも期さねばならないだろう。
> しかし病苦のいかんによっては、それも期しがたいではないか。
> 真実の信心は、臨終の正念にあるのではない。
凄い言葉ですね、仏の言葉です
日蓮さんはこういう言葉への道筋を閉ざしてしまったのではないかとおもうのです。
学会の説く日蓮さんを見ていると、ちっぽけな人間に見えてくるんですよね
172 :
salam ◆.P18/mYapQ :03/12/26 19:39 ID:4aYRTTqJ
>>158さん
>>162さん
158さんと162さんにまず謝罪します。
てっきり
>>132と
>>138は同一人物だと勘違いしておりました。
主張を提示しておきながら、再反論せず人格批判に転じた、と
いう思い込みから勝手にひっかきまわしてしまいました。
>>163で指摘された独善性が、俺の場合すっぽりと当てはまっている
ようです・・・。申し訳なかったです。
158さんのメインメッセージは同意です。
それから
>>163の話、気をつけます。ただ、馴れ合って主張を曲げることは
一番気をつけているつもりでしたので、そのつもりはなかったことだけ言わせて
ください・・・。
改めて、申し訳ない。
>> 蛙さん
勝手に話をややこしくして、
>>158さんとの話の腰を折ってしまい申し訳
ありませんでした。
逝ってきます・・・。
173 :
乾闥婆:03/12/26 21:53 ID:???
>>168 春田の蛙さん。
私は現在日蓮に対して敬愛の情というものはさほど抱いていません。春田の蛙
さんが法然や親鸞に抱くような感情は持ちえていないと思います。ただ私は日
蓮が偏狭な態度を持って当時を生きたにせよ、それが「狂人」の振る舞いだと
は思わないし、「異常」とも「自分勝手」とも思うことはできません。そのよ
うに思えないということが敬愛の情であるというのなら、そうなのでしょうね。
いずれにしても日蓮を正しいと思わない私にはどちらでもいいことです。
春田の蛙さんが指摘されたとおり、私は「理由はどうあれ感情的な批判行動に
は、反射的に抵抗を感じる」人間です。しかし私はそのような視点に立たざる
を得ない自分を被害者であるとは思いません。創価学会は私を苦しめてきまし
たが、私はその中で生きてきたのです。そのような成長の痕跡を被害であると
いうのであれば、私はこの世にいない方がよいのです。それは私自身なのです
から。私はその一点において主体性を放棄するつもりはありません。
>その被害者が、怒りを吐き出し、本人の所有物をどういう方法で処分しようと、
そのぐらい許容できないで何が利他の精神、慈悲の心かと私は思います。
それで少しでも傷が癒えるなら、いくらかでも気が済んで過去を清算し、前向きになれるなら良いじゃありませんか。
もちろん本人の所有物をどう処理しようが勝手です。悪態をつきまくるのも勝
手です。でも、それで傷が癒えるとは思わないし、過去が清算できるとも思わ
ないし、前向きな姿勢の出発点となるとも思えません。むしろその罵っている
相手に当人がよく似てくるとは思われないでしょうか。気が静まるまで待とう
というのならまだしも、手伝いたいとさえ思うとは、私には問題ある発言に思
えてなりません。そのような悪態が一向に静まる気配もなく、むしろ慢性化す
るようであるならば(悪意は悪意を増幅するものです)、指摘すべきではない
でしょうか。
174 :
乾闥婆:03/12/26 21:54 ID:???
>>168(続き)
>私自身の率直な心情を言うなら、あんなもの信じる人の気が知れません。
私はいま増谷文雄氏の親鸞についての本を読んでいますが、正直よく分かりま
せん。しかし「あんなもの信じる人の気が知れません」などということは言わ
ないでしょうね。自分が浄土教の文脈に遠いところにいたから馴染めないだけ
だと思うだろうし、それでもそれを信仰する人々はいて、彼らは真摯に取り組
んでいるのだ、と思うことでしょう。
>乾闥婆さんも「自らが至り着いた心情によく合致する内容だった」と、言って下さったのではないでしょうか。
そうです。春田の蛙さんのホームページを見ました。そして創価学会はカルト
の要素を充分に持っているし、その根源に日蓮、日蓮正宗の教義があるという
ことについて、ほぼ私と同じ意見でした。しかしそれと日蓮を「狂人」呼ばわ
りすることとは別問題です。
>他人の思いを「こうするべき」と理で計るのは、難しい事です。
そうしているつもりの自分自身、実は感情に突き動かされているからです。
もちろんその通りです。しかし自分が傷つけられたからと言って他の人を傷つ
けてもいいとは心得違いも甚だしいと思います。それは言っていかなくてはな
らないのではないでしょうか。
>103の 内外相対の説明がなんだか腑に落ちない。のつづき
因果の理法・と科学は別物というニュアンスになってきました。
では、内道(日蓮の仏法)と外道(日蓮の仏法以外の佛教と思想・哲学)については
どうなのでしょうか。
日蓮さんはキリスト教を知らないし、強酸・社会・自由主義など知る由も無いわけです・・・
プラトン・ニーチェ・ハイデッガーなんて更々知らなかった。。。
176 :
名無しさん@お腹いっぱい。:03/12/26 22:10 ID:/4ot83+F
超重要文章・コピペ推奨
オウム真理教が可愛そうで仕方がありません。
公明党・社会保険庁焼き討ち掲示板
創価学会・公明党・厚生労働省・社会保険庁という「お化け」を退治せよ。
こいつが「お化け」の総大将 坂口力。
一揆だ、一揆だ、社会保険庁を焼き討ちだ。
焼き討ちしないと「社会保険料」というお布施を持っていかれるぞ。
こんなのと同じ「宗教団体」に分類されるオウム真理教・パナウェーブ研究所が可愛そうだ。
こいつを当選させた東海地区はまるで部落扱いされてしまう。
おばけ「坂口力」を退治せよ。
早く退治しないと、日本が潰れてしまう。
http://8014.teacup.com/2ch_ex/bbs
私も最初の頃、そのような心情を知らずに乾闥婆さん達の
会話に学会員=敵視して感情的書き込みをしたことがあります。
反省しております。
板覗くようになって2年あまりになりますが、問題の本質がどこにあるか、
最近やっと分かってきたかなという感じです。
みなさんの会話から教えられた点が多々ありました。
今後も、学会員とみるや見境無く感情的に言いたくなる新参の
アンチ創価学会が現れるかも知れませんが、
「日蓮スレ」「法華経スレ」教義や活動の悩みなどなど
有益なスレを見ることによって変わると思います。
同じ議題でも、過去スレは読まれないですし
新参者にとっては有益です。
178 :
お邪魔します ◆nH2G.RjIE2 :03/12/27 01:17 ID:pL06K5PK
>>175 諸法無我、諸行無常、全ては空であると説く仏教の教えに対して、普遍の真理を説く
法華経絶対の考え方をする日蓮は伝統的な仏教から外れている。
その日蓮教学の正しさを証明する五重の相対は、仏教から外れている外道の思想を
正当化するものであり、正統的な仏教を誹るものとしか言いようがない。
179 :
ひゃっきまる ◆HyaKKidsI2 :03/12/27 02:05 ID:wBdXcTDN
>乾さん
お久しぶりです。懐かしいですね。滝山さんはもうお
られないのでしょうか・・・。
「私は現在日蓮に対して敬愛の情というものはさほど
抱いていません。」とのことですが、以前に比べて少し
心境に変化があったということでしょうか。
不思議な事に、実は僕も、長らく創価学会から離れた
環境にいる内に、日蓮や創価学会に対しての感情が非常
に淡白になっていっているのを感じています。三唱だけ
は続けています。
創価学会に多くの重大な問題があり、また僕もそのこ
とに長い間苦しめられてきたことを認めつつも、それで
も僕は尊敬する創価学会員の友人が多くいます。彼等は
信仰に誇りを持ち、また信仰によって実際に幸せになっ
ていると感じます。
この「矛盾」は、僕を混乱させるし、また僕自身がア
ンチと創価学会の間でどのような立ち位置をとればいい
のかを迷わせます。コウモリと呼ばれても仕方ないので
しょうが、僕は創価学会員の生き方を否定したくない気
持ちがあります。
矛盾を抱えつつ生きていくことは、考え続けながら生
きていくということでもあり、そんな状態を意外と気に
いっています。
180 :
Sb ◆SbSGI7AtEA :03/12/27 10:50 ID:sdK73NiD
>>175 >月影さん
内道やら外道やら、不平等ではありませんか
仏道に内道も外道もなし、仏道から外れるから外道なんです
自らを内道と呼ぶ姿勢は外道そのものではないでしょうか
自由、平等、慈悲こそが仏道だと思います、もちろん何の下にでもありません
法華経の下にでも日蓮の下にでもありません
>177さん
そうですね♪此処(創価・公明板)に書き込まれておられる会員さんは
アンチと呼ばれる側の方々に直接的に害を及ぼしたとは考えにくいですね。
問題点を色んな立場から見て意見を言い合えるのはお互いに有益と思われます。
>178 お邪魔しますさん
私も「五重の相対というものがなんだか腑に落ちない」のです。
しかし、うまく説明できないのです。( ´∀`)テヘッ
>179 ひゃっきまるさん
大変懐かしいかたが来られてうれしいです。
ひゃっきさんや乾さんが「五重の相対」の説明をしてくれたらなぁ〜
自分の無知が恥ずかしいのでよく名無しでレスを付けてました。w
>180 Sbさん
レスをするのは始めてですがよろしく御願い致します。
「五重の相対」は入会を勧めるとき重要な役割を果たしていると思われますので
みんなで考えるのが吉と思います。
182 :
ひゃっきまる ◆HyaKKidsI2 :03/12/27 12:57 ID:wBdXcTDN
>>181 月影さん
こんにちわ。
五重の相対の説明とは、それそのものの説明のことでしょうか? それとも、
五重の相対が納得できないから納得のいくように説明してほしい、というこ
とでしょうか。
ちょっとぐぐってみたら学会員のページがありましたので、参考にしてください。
ttp://www.hm5.aitai.ne.jp/~imachan/5.html 仏教に対する理解が日蓮の時代と現代ではまるっきり違いますので、仏教と仏教
以外では仏教の方が優れているとか、大乗教の方が小乗教より優れているとか語
ること自体がナンセンスなのは言うまでもありません。しかし、大抵の日本人は
宗教にはほとんど無知なので、こういう仏教用語バリバリに折伏されると、ころっ
と信じてしまう人もいるのでしょう。
「これが唯一正しく、他の信仰をすると不幸になる」という主張自体が危険
であり、また仏教的ではない、ということを直感できればよいのですが。
183 :
ひゃっきまる ◆HyaKKidsI2 :03/12/27 13:17 ID:wBdXcTDN
ひゃっき、トリップが変わったな?
185 :
会員X:03/12/27 16:11 ID:???
>>169春田の蛙さんへ
私のような者に過分なお言葉をいただきかえって当惑致します。あなたをはじめ他宗
の方々に折伏と称して暴論ともいえる対話を過去に於いて私自身も行っておりました。
しかしある時こんなことがありました。幹部の方と真言宗のかた破折をしていたときのことでした。
その方が堂々と創価の幹部の方を論破されていました。誰が行っても負けて返ってくるのです。
人間革命などでは他宗に対し圧倒的に自分たちが正しいと説明しておきながら多数でかかっても
かなわないのです。相手はひとりでした。学会の方の悔しそうな顔を忘れられません。
彼らは長男が罰で死んでしまうはずだ、真言亡国といい後継者が続かない、と悔し紛れに意味不明のことを
言っていました。これが宗教人の振る舞いなのでしょうか。
組織の指示とはいえその場に立ち会った過去のある私としては今になっては慚愧の念に耐えません。
あなたが「心の支えとして信仰するだけなら、別段何を信じてもかまわない」と言われるように
信教の自由を保障している日本において互いの信仰を尊重しあうとことには至極納得致します。
掲示板上ではありますが今後ともよろしくお願い致します。
186 :
お邪魔します ◆nH2G.RjIE2 :03/12/27 16:11 ID:/VcVSYWd
この頃どうも、言葉が過激になって反省します。
どこで日蓮が間違ったか、私の考えを書いておきますね。
「法華経」は大乗仏教側から、部派仏教がアビダルマの研究に没頭して自己の悟りで満足
していることに対する抗議、反論の経典としてとらえている。だから「法華経」には悟りの
方法や理論は述べられていない。代わりに自分一人だけが悟ってもそれは本当の悟りではな
いとしている。自分の悟りを元として、悩んでいる人や、苦しんでいる人を救い、共に悟り
に至らせるように勧めている。「法華経」に書かれているいろいろなたとえ話、「三車火宅
の譬え」では、燃えさかっている家から方便を使って子供たちを助ける長者になれと教えて
いるし、「三草二木の譬え」では、より大きな草、より立派な樹になるように雨を降らせ続
けるように教えている。
法華経の教えを実践するためには、声聞・縁覚少なくとも阿羅漢まで行っていないと無理
ではないかと思う。日蓮が悟っているかというと、これは疑問です。道元から「禅」を除い
ても道元が悟っていることには変わりはないし、親鸞から「念仏」と「阿弥陀如来」を外し
ても、親鸞は大安心の境地を保っていける。でも日蓮から「題目」と「法華経」を離したら
何が残るか・・・・。
187 :
お邪魔します ◆nH2G.RjIE2 :03/12/27 16:11 ID:/VcVSYWd
高校の時森鴎外の「寒山・拾得」の話を読まされた。(ネットの青空文庫で読めます。10
分もあれば読めますので、興味のある人は
http://www.aozora.gr.jp/cards/000129/files/1071.html でどうぞ)
唐の官吏の閭丘胤が天台の国清寺(天台智ギの居た寺)でみすぼらしい寒山・拾得に会って
挨拶する場面
閭はこう見当をつけて二人のそばへ進み寄った。そして袖を掻(か)き合わせてうやう
やしく礼をして、「朝儀大夫、使持節、台州の主簿、上柱国、賜緋魚袋(しひぎょたい)、
閭丘胤(きゅういん)と申すものでございます」と名のった。
二人は同時に閭を一目見た。それから二人で顏を見合わせて腹の底からこみ上げて来る
ような笑い声を出したかと思うと、一しょに立ち上がって、厨を駆け出して逃げた。
なぜこの二人が、笑って逃げ出したか、その訳を書けと言われて難儀した思い出がある。
今になれば分かるんですけどね。日蓮もこの官吏と同じだと思います。全てを外したとき
一体この自分は何なのか、それが分かっていない。だから「法華経」を絶対としてそれに
頼ってしまう。法華の行者・上行菩薩と言い「法華経」と一体になっているから、「法華
経」を誹謗するものに対して、攻撃的になる。「法華経」が正しいから、自分の行動が正
しいとして、無茶をする。
部派仏教から大乗仏教に対する反論として、
「悟っていない人間が人を正しく導けるか」
と言うのがある。日蓮を見ているとこのことが当たっていると思う。学会では、恋人が学会
員で悩んだり、脱会したいけれど地獄に堕ちるのではないかと苦しんだりしていると、それ
は教義をきちんと理解していないからだと指導する。私は悩んだり、苦しんだりする人が出
る教義が間違っているとしている。
>>186 部派仏教は第一結集時に分裂した2つのものが元になっている。
テーラ・ヴァーダ(上座部) これは長老派=保守派と捉えられる。
マハーサンギカ(大衆部) これは多数派と捉えられる。意味的に大衆は多数の人びとを指すから。
大衆部から大乗仏教が興ったとの意見もあるが確立された意見ではなく、大衆部自体が
かなりの期間存続していた事実から否定的に捉えられている。
上座部、大衆部ともにそれぞれ分裂している。
上座部系は11部、大衆部系は9部に分裂したとされている。
上座部、大衆部に分裂した原因は金銭の布施を受けるかどうかの解釈を
めぐるもので、当然受けないとした側(長老側)に対し、それを認めることを主張した
側が大衆部と呼ばれるものをつくって出ていった。
これを根本分裂という。後のさまざまな分裂はし枝末分裂という。
後に大乗仏教側に最も攻撃対象とされた説一切有部は上座部系の分派である。
>>186(続)
有部が攻撃対象にされたのはその当時最も勢力があり、ヴァスバンドウ(世親)の
「倶舎論」で有部を批判的に捉えているからでもあると考えられる。
ヴァスバンドウは実は有部出身であり、後に経量部に転じて、大衆部の影響も
受けた後に大乗仏教に転じた。
唯識説は大乗仏教に転じた後に説かれたものである。
有部の教学思想として論蔵(アビダンマピタカ)としての発智論があり、それを発展させた
大毘婆沙論がある。
ヴァスバンドウは有部時代に阿毘達磨倶舎論を著し、これは当時は大毘婆沙論の
綱要書として有部の人びとからも信奉されていたが、後に有部に対し、批判的で
詳細である膨大な文章がこれに付け加えられたのである。
基本的に部派仏教側は攻撃される側であり、大乗仏教側の非難・批判に対し、一切の反論さえ
なかったのである。個人=自己の修行完成を目指す部派仏教に対し、大乗仏教側は
自他の救済を掲げ、部派仏教に対する優位性を繰り返し強調してきた。
基本的に大乗仏教に他派を非難し、自派の優越を説く教えが多いのは成立時の経緯からして
仕方のないものだと言えるかもしれない。
その中でも法華経信仰者は狂信的グループから成立したのは事実である。
詳しくは渡辺照宏の「日本の仏教」に述べてあり、岩波文庫、法華経の解題にも掲載されている。
190 :
お邪魔します ◆nH2G.RjIE2 :03/12/27 19:51 ID:vX7WaNeN
五重の相対について教学の基礎ではどう説明しているか
五重の相対とは、内外相対、大小相対、権実相対、本迹相対、種脱相対の五つの相
対(比較)をいいます。
これは、一切の思想、宗教、なかでも仏教の種々の教えを比較検討して、その浅深、
高低を判定していくものです。
その判定の基準は、人間に幸・不幸をもたらす生命の因果(原因と結果)をどう説
いているかにあります。
@内外相対
内外相対とは、内道と外道を比較相対して、内道が優れていることを明かすものです。
内道とは仏教のことです。外道とは、元来は古代インドの仏教以外の諸宗教を指す言葉で
すが、広く用いる場合は中国の儒教、道教なども含めて、仏教以外のあらゆる宗教を意味
しています。
日蓮大聖人は関目抄で、インド・中国における仏教以外の諸宗教の祖師(そし)たちに
ついて 「因果を弁(わきまえ)ざる事嬰児のごとし(因果を知らないことは赤ん坊のよ
うなものである)」(188n)と述べられています。この因果(原因と結果)とは、人
間に幸・不幸をもたらす因果であり、境涯を変革していくための因果です。この因果を的
確に説いているのが仏教(内道)で、仏教以外の諸宗教(外道)は人間変革の因果を説か
ないか、説いても偏った因果観にとどまっています。
儒教・道教は、現世だけを見て、過去世・現在世・未来世の三世の因果を説きません。
インドの諸宗教(バラモン教など)には三世の因果を説くものもありますが、それは過去
世の原因によって今世に得られる幸・不幸の結果(境涯)が決まっているという運命論・
決定論にとどまっており、今世における変革の可能性は説きません。わずかに神などの力
で、天に生まれ変わることができると説くに過ぎません。
仏教以外の教えには、このほかに因果そのものを否定する説なども含めて、さまぎまな
因果説がありますが、いずれも偏った因果観であると言わざるをえません。
それに対して仏教(内道)では、人間の内面に変革の可能性があることを洞察し、今世
の行いによって、苦悩を安心へ、不幸を幸福へと転換できることを説きます。
191 :
お邪魔します ◆nH2G.RjIE2 :03/12/27 19:52 ID:vX7WaNeN
開目抄より
習学すべき物三(みつ)あり、所謂(いわゆる)儒外内(じゅげない)これなり。
「学び修(おさ)めるべきものが三つある。いわゆる儒(じゅ)・外(げ)・内(ない)、すなわち
儒教(じゅきょう)等(とう)の中国諸教(しょきょう)、仏教以外のインド諸教、そして内道の
仏教である。」
ここで問題にしているのは、儒教等の中国諸教、仏教以外のインド諸教、仏教で、日本の神道
をはじめキリスト教、イスラム教、西洋哲学等は入っていない。
儒教等の中国諸教については
父母から生まれる前について、これらの教えではどう説いているかを調べてみると、「有の玄
(げん)」では、万物を生成する根源的な気から生じたと言い、「無の玄(げん)」では、貴いか
賤しいか、苦しいか楽しいか、正しいか誤りか、得るか失うかなどの違いがあるのは、皆おの
ずからそうなっているのであると言っている。
このように巧妙に理論を立ててはいるが、過去世(かこせ)・未来世については何も知らない。
玄(げん)とは深遠であり、また微妙であるゆえに玄(げん)といわれるのであるが、ただ現世のこ
とだけを知っているにすぎないようである。現せにおいて、仁・義などの道徳を立てて、身を守
り、国の安泰を図るのである。そして、この仁・義などに反すれは一族を滅ばし一家を滅ぼして
しまうなどという。 これらの智徳にすぐれた人々は、聖人(しょうにん)であるといっても、過
去世(かこせ)を知らないことは、人が自分の背中を見ることができないのと同じである。また未
来世も見通せないことは、目の見えない人が前を見ることができないようなものである。
192 :
お邪魔します ◆nH2G.RjIE2 :03/12/27 19:56 ID:vX7WaNeN
インドの外道の教えについては
その思想の深いこと、巧妙なさまは、儒教(じゅきょう)等(など)のとうてい及ぶところではな
かった。ある場合は過去世(かこせ)を二生・三生そして七生まで、さらには八万劫の過去までも
明らかに見、しかも八万劫の未来までも知ることができた。
彼らが説く法門の究極については、ある者は「因の中に果がある」といい、ある者は「困の中に
果はない」といい、ある者は「因の中にまたは果があり、または果がない」という。これらがイン
ド諸教における理論の究極である。
と誉めているが、
しかしながら、外道(げどう)の九十五派の法門は、善悪どの教えをもってしても、一人として生と
死の迷いから離れることはできない。善い師につかえては、二生、三生等を経て悪逆におち、悪い
師につかえては、次の生で悪逆におちる。
としている。
193 :
お邪魔します ◆nH2G.RjIE2 :03/12/27 19:58 ID:vX7WaNeN
仏教については
外典(げてん)すなわち中国諸教の四聖や、外道(げどう)すなわちインド諸教の三仙は、聖人(しょう
にん)と呼ばれていても、実際には三悪をいまだ断ち切っていない凡夫である。また賢人(けんじん)
と呼ばれていても、実際には因果の道理を知らないことは赤ん坊のようである。
それに対して、我らの偉大な師・釈尊は、二乗(にじょう)・菩薩の生死さえ越えられている。まして
六道の生死は言うまでもない。元品の無明(むみょう)という根本の迷いさえ覆(くつが)えされている。
まして見思惑という枚葉(しよう)の迷いは言うまでもない。
としてさらに
しかしながら、仏教の中に入って、五十年余りの間に説かれたあらゆる教え、すなわち八万法蔵(ほ
うぞう)について見比べてみると、小乗(しょうじょう)もあれば、大乗もある。権経もあれば、実教
(じっきょう)もある。また顕教もあれば、密教もある。丁寧な言葉に、粗雑な言葉。真実の言葉に、
偽りの言葉。正しい見方に、誤った見方など、種々の区別がある。その中では、ただ法華経だけが教
主釈尊のまことの言葉であり、三世十方(じっぽう)の諸仏の真実の言葉である。
と結んでいる。
194 :
乾闥婆:03/12/27 21:42 ID:???
>>179 ひゃっきまるさん。お久しぶりです。
>以前に比べて少し心境に変化があったということでしょうか。
そうですね・・・ネットの中でいろいろな人と話してきて、その中で自分なり
の姿勢が固まってきて、結果として自身の信仰心自体が薄くなってしまいまし
た。しばらくネット掲示板からも身を引いていて、関心そのものが宗教から離
れていたのですが、そのあいだにますます信仰心を失っていったと思います。
最近またこのスレッドを読み始めて、書き込みをしはじめたのですが、どうも
やはり前のようにはならないようです。
確かに創価学会の中にいると自分が引き裂かれるような心境には陥ります。創
価学会の中にあって信仰を保ち力強く生きている人たちは私のまわりにも多く
います。そしてそういった人たちによって非常に不愉快な思いをしている人た
ちがいることも分かるわけです。
日蓮には相変わらず関心はあります。でもそれだけではやはりバランスが悪い
と言いますか、真言や浄土、禅といったものをもっと知らないと、結局日蓮の
こともよく分からないのではないかと思い始めています。この前空海に関する
本を読んだのですが、主張していることはそれほど日蓮から遠いようには思え
ませんでした。そういうふうにして日蓮が排撃した他宗を一つ一つ自分の中で
了解してゆくことで、自分の中の日蓮的なものを克服できるのではないかと考
えています。
195 :
乾闥婆:03/12/27 21:43 ID:???
>>181 月影さん。
五重の相対についてお邪魔しますさんが開目抄をもとに説明して下さいました
ね。大小相対以降が略されていますが、結局は法華経を中心に据えた展開であ
り、その前提がない限り虚しいものであると思います。
>>186 お邪魔しますさん。
>日蓮が悟っているかというと、これは疑問です。道元から「禅」を除い
ても道元が悟っていることには変わりはないし、親鸞から「念仏」と「阿弥陀如来」を外し
ても、親鸞は大安心の境地を保っていける。でも日蓮から「題目」と「法華経」を離したら
何が残るか・・・・。
悟りと言うことがどういうことなのか、私にはよく分かりませんが、たとえば
親鸞から「念仏」と「阿弥陀如来」を外すという仮定自体は無理があると思い
ます。阿弥陀如来や浄土を賛嘆する和讃を多く残した親鸞から、それらを除い
てどうするのでしょうか。他力とは阿弥陀如来がいるから他力なのではないで
しょうか。人間は様々な文脈の積み重ねの中で思想を形成します。それらを外
すという仮定はその人の思想形成自体を否定するに等しいものです。
>>187 >「悟っていない人間が人を正しく導けるか」
あなたがよく引き合いに出される親鸞はこのような言葉をどのように受け止め
ることでしょうか。諸行往生ではなく選択本願の念仏ではそのまま正定聚のく
らいに定まると説きますね。おそらく門徒の方々はそのままのありようで安心
して念仏を勧めて多くの人々を「正しく」導いたことでしょう。
196 :
お邪魔します ◆nH2G.RjIE2 :03/12/27 22:53 ID:vX7WaNeN
日蓮にとっては、「法華経」の正しさを証明するための五重の相対ではなく、「
法華経」が正しいと言うために五重の相対を唱えたとみている。
基準は因果を正しく説いているかどうかですけど、因果の法則に関しては、現代科
学は十分応えていると思います。原子・分子の運動から宇宙の成り立ちまできっちり
と数式に則って表しています。
また人間の心については心理学や精神医学の進歩により、カウンセリングや薬物療
法により苦しみを和らげるようになりました。
”儒教・道教は、現世だけを見て、過去世・現在世・未来世の三世の因果を説きません。”
とあるが、誰か自分の前世を覚えている人がいるかな。来世にどこどこに生まれると
解っている人がいるかな。だいたい前世や来世のことは、初期仏教では「無記」とさ
れている。
たとえ「法華経」が正しいとしても、「法華経」は真理(悟り)に導くガイドブッ
クであって、「法華経」自体は悟りではない。
人が月を指さしたとき、月を見ないで指を見る人がいる。悟りはこちらだと導いて
いるとき、人々の救いはこちらにあると経典で述べているとき、実際に悟らず、人を
救わず経典の正しさを論じる人がいる。日蓮は大乗のアビダルマを唱えているのでは
ないか。
197 :
お邪魔します ◆nH2G.RjIE2 :03/12/27 22:54 ID:vX7WaNeN
開目抄で日蓮は法華の行者として正しいことをしているのに、なぜ人々から迫害さ
れなければならないか悩んでいる。しかし人々をして迫害するような行動をとらせた
のが、自分の言動だとは思っていない。さらに「法華経」を誹謗するつもりのない人
々までを「法華経」の敵にしてしまったことに気が付いていない。日蓮は自分自身で
「法華経」の敵を沢山作りだしているのである。この人たちを攻撃できるだろうか。
多くの人に「法華経」は恐ろしいと思わせたことは、罪にならないのだろうか。
でも日蓮は開目抄で
我れ無始よりこのかた悪王と生れて法華経の行者の衣食・田畠等を奪いとりせ
しこと・かずしらず、当世・日本国の諸人の法華経の山寺をたうすがごとし、又
法華経の行者の頸を刎(はねん)こと其の数をしらず此等の重罪(じゅうざい)は
たせるもあり・いまだ・はたさざるも・あるらん、果すも余残いまだ・つきず生
死を離るる時は必ず此の重罪(じゅうざい)をけしはてて出離すべし、
自分が迫害されるのは、前世で法華経の行者を迫害した罪を受けているとしている。
決して自分が現世で罪を作りだしているとは、思っていない。日蓮の言動は常に正し
いのである。
198 :
乾闥婆:03/12/27 23:28 ID:???
>>196 お邪魔しますさん。
悟りとはなんですか?
>>197 >しかし人々をして迫害するような行動をとらせたのが、自分の言動だとは思っていない。
法華最勝を言い立てることが迫害される原因だと自覚していると思います。
>さらに「法華経」を誹謗するつもりのない人々までを「法華経」の敵にしてしまったことに気が付いていない。
法華経を釈尊の説きたかった究極の経典と位置づけなければ謗法だと考えてい
たのでしょう。気が付くも気が付かないもないと思います。彼の抱えていた原
理がそうであるに過ぎないでしょう。
>多くの人に「法華経」は恐ろしいと思わせたことは、罪にならないのだろうか。
当時の多くの人たちは日蓮を見て法華経を怖ろしいと思ったのですか?
道元もまた法華経をとても大切な経と見ていたようですが。
>決して自分が現世で罪を作りだしているとは、思っていない。
転重軽受していると考えていますからね。真面目な人です。
>日蓮の言動は常に正しいのである。
それが日蓮の法華経身読であったということです。
別に正しくもなんともありません。
199 :
ひゃっきまる ◆HyaKKidsI2 :03/12/28 01:14 ID:wH50E3Tr
>>194 乾さん
乾さんと僕は立場や考え方が似ているところもあると思っていましたが、
やはり乾さんは何かにつけ僕よりも遥かに真面目で真摯な方なのだと思い
ました。乾さんの様な方がいると安心します。(自分がそこまで勉強でき
ないことを代わりにやってもらっているような気持ちになって)
議論は大変でしょうから、ほどほどにしてくださいね。ご自分のHPなど
立ち上げて、そこにまとめて意見を書いておくのも手だと思います。その
ようなページがあったら僕もとても有り難いですし・・・。
200 :
お邪魔します ◆nH2G.RjIE2 :03/12/28 02:46 ID:pcBj3Kft
乾闥婆さんへ
まず親鸞と念仏の関係から行きます。この辺は春田の蛙さんが来てくれ
ると助かるのですが。私の理解している範囲で答えますね。
何も出来ない私であっても、どうぞ助けて欲しいと、「南無阿弥陀仏」を称える。
称名念仏すれば阿弥陀様が助けてくれると言うのは、他力ではないんです。助けて欲
しいという自分の心、その見返り、またはその願いのために念仏を唱えるのならそれは
一種の自力修行なんです。
親鸞は仏教で初めて妻帯を宣言した人です。僧侶は還俗しない限り一生独身で過ごす
のが、釈迦以来の決まりだった。親鸞はそれを破ったのです。法然はそんな親鸞を受け
入れた。親鸞にとって「自分を信じるものは必ず極楽浄土に生まれ変わらせる」との阿
弥陀仏の本願を信じるしか、道はなかったのである。
「善人なほもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや。」
有名な言葉ですよね。ここで言う善人とは、ただの善い人ではなく、自力修行で仏に
なれると信じている人のことです。別の言い方をすると「自分は善人だと固く信じてい
る人」「常に正しいことをして、悪いことは行わないと確信している人」です。
しかし人間が本当の意味で「善」を行うことが出来るか。自分は「善」だと信じても
他人にとっては「悪」になっているかもしれない。真の善悪は人間には決められないの
ではないか。
また自分は善人であるとして、他人を悪人と見ていないだろうか。自分はこれだけ善
いことをしたのだから、当然極楽浄土にいけるとして思い上がり、他人を見下していな
いだろうか。
それに対して悪人は全ての人を救うという阿弥陀如来の言葉を信じるしかないので、
極楽浄土に確定しているのです。
201 :
お邪魔します ◆nH2G.RjIE2 :03/12/28 02:47 ID:pcBj3Kft
念仏は行者のために、非行非善なり。
わがはからいにて行ずるにあらざれば、非行という。
わがはからいにてつくる善にもあらざれば、非善という。
ひとえに他力にして、自力をはなれたるゆえに、行者のた
めには非行非善なりと云々
念仏は、それを行ずる者の行為でもなければ、それを行ずる者にとっての善でもありません。
なぜなら、本当の念仏とは自分自身のはからいで行ずるものではなく、自らのはからいを捨
て、阿弥陀如来の本願に全ておまかせする中で、如来のはたらきによって自然と口から出させ
ていただく南無阿弥陀仏だから、自分の行ではないのです。
また、念仏は至上の善ですけれども、自分自身のはからいでする善行ではないのですから、
自分のための善ではありません。
つまり念仏をあげるから救われる、と言うのではなくて阿弥陀如来に救われたうれしさに称
えずにおれないのが念仏であるとしている。
でも極楽浄土に行くことが決まっても、いつまた地獄に堕ちるかも知れないと言う不安がある。
親鸞の代表的な著書である歎異抄の中には、「地獄は一定すみかぞかし」という、たとえ地獄に
落ちても悔いない、という章があります。信心が確定していれば、たとえ地獄に落ちようが何の
不安も無い、という大安心を会得したことを言います。
ここにいたって親鸞は、念仏も阿弥陀如来も離れることの出来る自由の境地に達したのではな
いかと思う。
202 :
お邪魔します ◆nH2G.RjIE2 :03/12/28 02:54 ID:pcBj3Kft
>>198の件についてはあとで返事を書きますが、こちらから一つ聞きたいのですがなぜ日蓮は
「勧持品第十三」ばかり重視して「安楽行品第十四」を無視しているのですか。「安楽行品第十
四」のとおり布教すれば無用な摩擦は防げると思うのですが。
>>183 ひゃっきまるさん
ご紹介頂いたページを見た感想です。
1、内外相対
求道の精神からすれば最初から佛教に限定するのはおかしいと思います。
例)善財童子
2.大小相対
これも求道の仕方の違いであって日蓮さんも機根のある人には
上座部から教えを説くように伝えているはず。無理から他人に教え
を説くから問題が出てくるように感じる。歌は悪趣味だとおもわれ。w
3.権実相対
悪人・女人は浄土でも・・・
教判はそれぞれの宗派が主張するものですからね。
5.種脱相対
釈迦が永遠の生命なら我々も同様でしょうから
この説明はへんですな。
少なくとも日蓮の時代より現代の人の方が
経典等にも触れられますし。
>>195 乾闥婆さん
上に書いた感想になってしまいました。
乾さんに言われたとおりかもです。
>>196 お邪魔しますさん
> 日蓮にとっては、「法華経」の正しさを証明するための五重の相対ではなく、「
> 法華経」が正しいと言うために五重の相対を唱えたとみている。
日蓮は真面目に考えをまとめただけだと私は思います。(好みは別にして)
今日の日蓮宗の有り様と創価の有り様の差はその主張を
受け取り行動する側の問題と思いますた。
寝る前にレスがたくさん付いていてビックリしますた。ヽ(´ー`)ノ
205 :
ひゃっきまる ◆HyaKKidsI2 :03/12/28 10:16 ID:wH50E3Tr
>>203 月影さん
まず、月影さんがどのようなスタンスで五重の相対を知りたいのかわからないと
答えにくいです。僕は創価学会の側に立って五重の相対の正しさを語ろうなどとは
思っていませんし。
「日蓮が当時の時代において説いた五重の相対」と、「現在、創価学会が説いて
いる五重の相対」ではまた違うと思います。前者の場合だったら、時代状況を踏ま
えて、日蓮の真意はどこにあったのか、という教義解釈が必要になってきます。
簡単にレスしておきます。
>1、内外相対
>2.大小相対
五重の相対は最終的に「この教えだけを信じればよい」という事を述べるための
ものです。つまり、もともと限定が目的ということです(我々が教えに迷わないよ
うに)。また、限定する根拠となるのが優劣の説明です。(その説明で納得できる
かは別ですが)
>3.権実相対
五重の相対が日蓮流の教判というわけです。
>5.種脱相対
日蓮教学(特に日興派)においてはここが一番重要な部分ですが、末法思想に
大きく関係しています。末法は日蓮だけでなく、当時一般的に信じられていまし
た。
ちょっと家を空けますので、あまりお返事できなくなると思いますが、おそらく
他の方が説明してくれることと思います。
仏教教団はシャキャムニの存命以前にも分裂している。
シャキャムニと戒律の遵守に対して対立し分裂した
ダイバダッダ派の存在である。
シャキャムニをブッダだと認めない教団であるが、この
集団は後世まで存在し、もちろん大乗仏教運動が興った
後も存在していた。
法華経には提婆達多品があるがその内容は
シャキャムニは王の位を棄て、偉大な聖仙ダイバダッダの
奴隷となり、法華経を教えてもらったとある。
これからも法華経は元々はダイバダッダ派の教えが元で
あったと考えられる。
大乗仏教はむしろダイバダッダ派の仏教に近く、シャキャムニを
軽視する傾向があるのはそのためであると考えられる。
部派仏教がシャキャムニ以外のブッダを頑なに認めないのに
対し、大乗仏教はシャキャムニ以外のブッダを崇拝の対象と
していることが多い。
大乗仏教とは部派仏教に対するよりもシャキャムニ仏教に
対するアンチテーゼなのではないのかと思われる。
日蓮がシャキャムニをもっと崇拝すべきだと考えているならば
むしろ法華経を棄て部派仏教に近い立場を取るべきなのだ。
儒教・道教に対する仏教の優位性は空海が三教指教で説いている。
さらに、仏教・非仏教および非宗教も含め十の段階を規定し
密教の優位性を十住心論で説いている。
日蓮は空海の物真似をしようとして失敗しているように思うのだが
日蓮自体に詳しい興味がないので不勉強だからわからない。
しかし、オウムが邪教だからといって忌み嫌うように日蓮に
対しての教義を勉強しない限りは批判できる資格はないだろうと
このスレッドを読んで思い知らされた。
>>206 提婆達多品は法華経成立後、かなり時間がたった後に
法華経に編入されたとみるのが主流的見解だ。
それと部派仏教にも過去の七仏というものがある。
勉強が足りないですな。
>>207 >提婆達多品は法華経成立後、かなり時間がたった後に
>法華経に編入されたとみるのが主流的見解だ。
それは完全な誤りだろう。この提婆達多品は法華経の
最も重要な部分であるのは間違いない。
大乗仏教がダイバダッダ派から派生したのを認めたくない
宗教家の感情論がそうさせたのだろう。
>部派仏教にも過去の七仏というものがある
それは部派仏教で崇拝の対象とされているのか?
またどういうものなのか教えて欲しい。
大乗経典にあるものを部派仏教の経典と錯誤したのでは
ないのか。
おいおい。トンデモ本の読みすぎか?
提婆達多品が後に編入されたのは
発見されたものの年代からに見て明らかになっているんだよ。
宗教家ではなくて、研究者の間での主流的見解なのだよ。
感情なんぞ挟まる余地もないものだ。
七仏とは、
びばし
しき
びしゃぶ
くるそん
くなごんむに
かしょう
しゃかむに
のことだ。
>>209 学者が言うから正しいとは思わない。
それと後代に付与されたというのならますます大乗仏教は
ダイバダッダ派から派生したと見るのが妥当だろう。
そうでなければ経典のど真ん中において削除しないように
しておかない。
七仏は確かに大衆部(今はないのか?)では崇拝されていたかもしれない。
だが、上座部系ではいまだに釈迦一仏である。
211 :
乾闥婆:03/12/28 15:36 ID:???
>>200-201 お邪魔しますさん。
私はお邪魔しますさんが説明したことを「諸行往生ではなく選択本願の念仏で
はそのまま正定聚のくらいに定まると説きますね」と簡潔に言ったわけです。
「彌陀の本願には、老少善悪のひとをえらばれず、ただ信心を要とすとしるべ
し」といいます。要は信心なのです。阿弥陀如来を取り除いてしまってはなに
に対する信心でしょうか。親鸞は信と行では信に重きを置きますが「信と行と
ふたつときけれども、行をひとこえするとききてうたがわねば、行をはなれた
る信はなしとききて候。また、信をはなれたる行なしとおぼしめすべし」とい
い、行としての念仏を除いて信心があるわけではないことも述べております。
阿弥陀如来も念仏も親鸞の思想の根幹です。それらを除いて彼の思想が成立し
うると考えることはナンセンスではないでしょうか。「ここにいたって親鸞は、
念仏も阿弥陀如来も離れることの出来る自由の境地に達したのではないかと思
う」とのお邪魔しますさんの仮定は間違っていると思います。春田の蛙さんは
いかがお思いでしょうか?
212 :
乾闥婆:03/12/28 15:36 ID:???
>>202 >なぜ日蓮は「勧持品第十三」ばかり重視して「安楽行品第十四」を無視しているのですか。
如説修行抄で日蓮はその問いに答えています。安楽行品を摂受の教化の仕方と
して、その方法は末法の日本今世の時宜にあわないと言います。闘諍堅固・白
法隠没の時代には迫害を受けてでも教化を推し進めてゆく折伏の方法を用いな
ければならないと考えています。おそらく緊急事態として彼が生きた世相を捉
えたのでしょうね。もちろん今の時代にその考え方が通用するわけもなく、安
楽行品はより大事にされるべきなのでしょう。
まだ言うか。
ちゃんと調べてから言うことだ。
他で恥をかくことになるぞ。
七仏は長阿含経などに詳しく書かれている。
つまり小乗経典ということだよ。
だいたい提婆達多派は上座部よりも厳しい戒律を
保っていたという。大乗なわけがないではないか。
提婆達多品には竜女成仏が説かれている。
提婆達多派とこれは何が関係するのか。
一説によれば、提婆達多派およびナーガ信仰をする部族に
対する布教のために提婆達多品は編纂されたということだよ。
もっと勉強しなさい。
おまえも恥じかいてるだろう。
今の南伝仏教(上座部)は釈迦一仏だ。
説は説だ。そんなに大乗仏教がダイバダッダと
関係していて悪いのか?
いつでも提婆達多品なんか削除可能だろう。
勉強不足はお互い様だ。おまえももっと勉強しろ。
215 :
乾闥婆:03/12/28 16:01 ID:???
>>199 ひゃっきまるさん。
お気遣いありがとうございます。
私は結局人が話していることに触発されて自分なりに本を読みながら考えを進
めていくようですので、なかなか自分一人でホームページを立ち上げて考え進
めることは難しいかもしれません。
救えないほどのオロカなで頑固なサルだな。
誰でも知らぬことはあるものだ。
誤りを素直に認められるか否かこそ賢さと愚かを分ける一線だよ。
部派仏教に師事したアショカ王も
法勅で七仏のうちのくなごんむにに対して供養しておる。
釈尊自身が七仏を認めておるのだ。
それが長阿含経には書かれているのだよ。
七仏についてはそれを本仏と仰ぐかいなかは別にして
当然、南伝仏教徒は認めているはずだ。
ついでに言えば、法前仏後の原則に照らしても
釈尊の前に仏がいたとして、なんら不思議はないのである。
>当然、南伝仏教徒は認めているはずだ。
墓穴を掘ったな
俺は愚かだが愚かであることは認める。
だが愚かなくせに賢いというものほど愚かではない。
伝統的な上座部仏教徒は釈迦以外の仏を認めないのは事実。
過去仏を認めていない。
それとダイバダッダ派が大乗仏教と深く係わっているのも事実だ。
アホ丸出しだな。幼稚というかなんというか。
こちらは事実を提示した上で言っておるのに
お前は子供みたいに言い張っておるだけではないか。
お話しにならんよ。カスはカスらしくゴミ箱にでも入っておれ。
負け犬の遠吠えか(藁
俺ももっと勉強するよ。
だけど君ももっと勉強すること。
↑
アホだのぅ。
負け犬の遠吠えそのものだよw
精進せいよw
名無しさん@お腹いっぱいのsageレスいぱいで
言い合いしとる誰が誰か分からんぞぃ。
↑ヲマエモナー(ワラヒ
225 :
お邪魔します ◆nH2G.RjIE2 :03/12/28 22:24 ID:ezb9QxPt
乾闥婆さんへ
如説修行抄読みましたが、日蓮の時代でも首を傾げるのに、それを今の時代に
通用させようとするのは無理だと思います。だけど何で日蓮はそんなに焦ってい
るんだろうか。
悟りですか。私の場合はものの本質を見て、なるべく自分のレッテルを貼らない
と言うことです。もっとも日蓮に対してはレッテル張りまくってますけど。
「柳は緑 花は紅」と言う言葉がありますけど、柳・緑・花・紅等という言葉は
ものに対してこちらが勝手に付けている言葉なんです。そのようなこちら側で付け
ている言葉を外してものを見てみよう、これが私のしていることです。「柳」と付
けた時点でその木に対して分かったつもりになる。イメージが固定されてしまうの
です。でも柳の木はそのようなこちら側の思いに関係なく、ただそこに生えている
だけです。
ただ、あるだけ。全てのものは私の思いに関係なく、そこに存在する。それらに対
して私はそれぞれに名前を付け、好悪・善悪・必要・不要等の判断を下す。これら
は全て私の「我執」の現れなんですね。そのような「我執」を無くして物の本質を
素直に見えるようになれば、その時が悟ったと言えるんじゃないかな。
226 :
お邪魔します ◆nH2G.RjIE2 :03/12/28 22:25 ID:ezb9QxPt
>>187で閭が自分の官名を長々と述べたとき、寒山・拾得はつきあいきれないと思っ
て、逃げ出したんだろう。官名なんてただのレッテルで、その人自身を表していない。
もっとも池田名誉会長も、あちこちから何とか賞や、名誉何とかのレッテルを体中に貼
っているけど。
親鸞が地獄に堕ちても構わないと言ったとき、極楽浄土に生まれ変わらせてくれる
阿弥陀仏や念仏に依存しなくても良い状態になったと見ている。だから親鸞があげる
念仏は、普通の人が阿弥陀仏に救われるようお願いをする念仏とは意味が違ってきて
いる。どっちかというと一遍に近い念仏ですね。
日蓮の場合は「法華経」と言うつっかい棒を外したら、立っていられるだろうか。
宗教に頼らなければ自己の確立が出来ないのなら、それは本当に救われていないの
ではないか。オウム真理教みたいに、ただ宗教という麻薬患者を造っているだけで
はないか。ここが私の疑問に思うところです。
227 :
お邪魔します ◆nH2G.RjIE2 :03/12/28 22:51 ID:ezb9QxPt
>>198の後半の文について
『法華経』には
「この教を広めようとするものは、それを理解しようとしない悪人に
刀で斬られ杖で打たれるような迫害に遭うだろう」
という有名な文句がある。それを受けて
>法華最勝を言い立てることが迫害される原因だと自覚していると思います。
と言うように、日蓮に対する迫害は、日蓮の日頃の言動が原因になっている。
決して教義そのものの非難が100パーセントではない。しかし日蓮にとって
は自己に対する批判を『法難』としてとらえる傾向が強い。
そして伊沢元彦さんの唱える
「法華経は絶対に正しい→だから他宗を非難・攻撃する→攻撃するから法難(迫害)
に遭う→法華経にはこれを広めるものは法難に遭うと書いてある→だから法華経は絶
対に正しい(最初に戻る)」
日蓮サイクルと言う永久機関に入る。ここには自己反省もないし、法華経以外の宗教
を信じている人にとってはエライ迷惑です。まして法華経はこのようなことを教えてい
ると思ってしまうと、法華経を信じたくなくなる。
228 :
乾闥婆:03/12/29 00:34 ID:???
>>225 お邪魔しますさん。
あなたのいう悟りは非常に危険ですね。人間は言葉によって世界を形にしてゆ
きます。言語による分節化ができなければその人間は廃人です。あなたは廃人
になろうとしているのですか? むしろ人間の世界認識は言語による分節化に
過ぎないという事実そのままを受け入れることの方が悟りというに近いのでは
ないでしょうか。大事なことは現実の成り立ちを如実に見ることではないでし
ょうか。現実を言語以前に還元することが悟りではないと思います。縁起の理
法とはそのような法ではないのでしょうか。それを諸法実相ともいったのでは
ないでしょうか。我執とはそのような世界認識が固定不変であるという執着の
ことでしょう。世界認識のありようの如実に見る。そこまでです。それ以上に
遡ろうとすれば、そこには言語以前の世界、認識する主体も客体も存在しない、
廃人の世界が待っているだけではないでしょうか。そのような悟りは百害あっ
て一利なしでしょう。
229 :
乾闥婆:03/12/29 00:35 ID:???
>>226 >もっとも池田名誉会長も、あちこちから何とか賞や、名誉何とかのレッテルを体中に貼
っているけど。
池田名誉会長の話などしていませんが。彼はどうでもいいですね。
「地獄は一定すみかぞかし」に続く文を読んでみて下さい。「弥陀の本願まこ
とにおわしまさば、釈尊の説教、虚言なるべからず。仏説まことにおはしまさ
ば、善導の御釈、虚言したまふべからず、善導の御釈まことならば、法然のお
ほせそらごとならんや。法然のおほせまことならば、親鸞がまうすむね、また
もてむなしかるべからずさふらふか。詮ずるところ愚身の信心にをきては、か
くのごとし」。これはむしろ親鸞の熱烈たる信仰告白ではないでしょうか。阿
弥陀如来の誓願に対する信心は親鸞においてこれほどまでに真摯であるという
ことです。親鸞から阿弥陀如来や念仏を外して彼の思想を考えることなど不可
能です。日蓮から法華経や天台を外してその信仰を考えることが不可能なよう
に。宗教が麻薬患者を作っているに過ぎないというのでしたら、親鸞も同じこ
とでしょう。私は宗教というものをそのようには考えませんけれど。
230 :
乾闥婆:03/12/29 00:36 ID:???
>>227 >日蓮に対する迫害は、日蓮の日頃の言動が原因になっている。
決して教義そのものの非難が100パーセントではない。しかし日蓮にとって
は自己に対する批判を『法難』としてとらえる傾向が強い。
日蓮の行動は彼の抱えた教義がその行動原理となっています。
>日蓮サイクルと言う永久機関に入る。ここには自己反省もないし、法華経以外の宗教
を信じている人にとってはエライ迷惑です。
もはや日蓮の言い立てた法華経を唯一の正法とする根拠は崩壊していますので、
難なく論破できるでしょう。永久機関は終止符を打たれたのです。
>まして法華経はこのようなことを教えていると思ってしまうと、法華経を信じたくなくなる。
「多くの人に「法華経」は恐ろしいと思わせたことは、罪にならないのだろう
か」とは、現代に生きるあなたの感想だったのですか。当時の人たちがそう思
ったといっているように読めましたよ。
231 :
お邪魔します ◆nH2G.RjIE2 :03/12/29 01:02 ID:pfMsSEaX
>>228 >そこには言語以前の世界、認識する主体も客体も存在しない、
廃人の世界が待っているだけではないでしょうか。
この文から「廃人の」を外したのが悟りの境地だと思っています。そこはあなた
の言う言語以前の世界、言葉の通用しない感覚のみが頼りの世界、それが悟りだ
と認識しています。
232 :
乾闥婆:03/12/29 06:46 ID:???
>>231 「感覚のみが頼りの世界」など存在しないのではないでしょうか。
それは世界ではないでしょう。
そのようなものに執着しない方がいいと思います。
233 :
お邪魔します ◆nH2G.RjIE2 :03/12/29 09:06 ID:pgFwSUdo
>>232 感覚、つまり外界からのものの受け取り方、それに対して自分
の意識がどう動くか、仏教はそのような心のあり方を問題にして
いるのですね。生老病死、台風や地震 、干魃など人間の力では
どうしようもない苦しみに対して、パニック、苦悩、混乱などの
精神的破壊を防いで、自殺や自暴自棄等の状態にならないように
するのが目的です。この辺は日蓮も一緒です。
ただ日蓮の場合は、正しい理論「法華経・日蓮の教義」、正しい
方法「御本尊に対する唱題行」で目的が達成できるとしている。確
かにお題目を一心不乱に唱えれば、無我・忘我の境地にはいること
は可能だと思います。ただこれには、浄土宗のように自己の計らい
・自我を棄てることが必要だと思います。自行化他を目的にする日
蓮信徒に、自分を突き放すことが出来るだろうか。
私は、あらゆる経典・経論は悟りのあり方、近づき方を示している
だけであり、最後は自分で自分の心を覗いて、外界からの刺激が自分
の心にどう影響しているか、また自分の思い、考え方を変えると外界
のあり方がどう変わるか一つ一つ経験していくことが必要だと思って
います。日蓮はこれを、やっていないか、または不十分だと見ていま
す。
日蓮の思いが、言葉になり、行動になり、人々の反発を生み、迫害
されるようになるのです。正しいことをしているのに、迫害されたと
苦しむのなら、言葉なり、行動を変えればよいと思うのだが日蓮はそ
れをしない。仏教で一番大切な、人の心の動きが分かっていない。正
しい理論があれば、それで人々は納得するとしている。ここが大きな
間違いだし、問題点になっている。
人間は感情の動物であり、心で行動する。いつもきちっとした理論・
理屈で動いているわけではない。これが日蓮には分かっていない。
234 :
Sb ◆SbSGI7AtEA :03/12/29 15:34 ID:ahBLvnkD
ぜんぜん話は変わるが、昨日の時空警察を見ていて、気づいたんだけど
法華経が書かれる時期って、景教がもう中国に入って来ているのね
法華経が、景教の影響を受けて書かれたものだとすると、
法華経が仏教のなかでも異質なものであるということの説明がつく
ユダヤ教から派生した一神教は景教、回教だけど
そのなかに法華経が入ってくることになると考えると
面白くないか?
235 :
Sb ◆SbSGI7AtEA :03/12/29 15:45 ID:ahBLvnkD
>>198 >乾闥婆さん おひさしぶりですが
悟りとは何と聞いているけど
人の悟りを聞くという意味を分かって聞いているの?
>>225 >お邪魔しますさん
駄目だよ、悟りを言葉にしちゃ
言葉に出来るのは悟りによって脳が反応して
あなたに見せているビジョンなのだから
それは悟りではないよ
釈迦だって悟りを伝えるのに「拈華」しかしなかったんだよ
236 :
Sb ◆SbSGI7AtEA :03/12/29 16:11 ID:ahBLvnkD
>>203 >月影さん
これが五重の相対って奴なのですか?
とりあえず、あのHPの感想です
1、内外相対
仏の道に内も外もあらず、また、内でも外でもある
これを解せずして、法華経に執着することのほうが外道なり
2.大小相対
己の道を見えていないものが人の道を説くなど、愚の骨頂なり
また、これも相対しているものでもない、それも解してない
3.権実相対
権も実もあらず、どんな人でも四苦八苦しているぞ
そして、天上天下唯我独尊、みな自分が一番大事だ
釈迦が説いたのは平等だよ
4.本迹相対
本門も迹門も仏門なり
どちらを閉じても無意味
5.種脱相対
愚問、もとよりみな仏である
種はみな持っている、脱することもなし
> お邪魔しますさん
携帯なので簡潔に。
歎異抄は岩波文庫で\300で売ってますから、引用されるなら一度通してご覧になる方が良いでしょう。
解説書なら、本願寺出版局の「まんが歎異抄」(\980)が優れてます。
また、岩波文庫版の校注を手掛けられている方の解説書「金子大榮 歎異抄」(法蔵館)は、
\1600と高いですが、読めば真宗の考えはあらかた分かります。
ひろさちや氏の解説書も有名ですが、数冊目を通した限りでは、
親鸞の教えと氏の我見が、ごっちゃに書かれているのでお奨めしません。
念仏については、法然も親鸞も私もまったく変わりありませんよ。
阿弥陀仏たすけたまえと念仏しているだけです。
お邪魔しますさんが、親鸞らを『こんな人だ』と考えるのは、どの様にでも自由です。
それを良く言おうと悪く言おうと、かまわないと思います。
また、仏教用語を抜きに彼らの思想を考えてみるのも、たしかに面白いでしょう。
ただ、客観性に欠けては、その解釈を他人と共有は出来ないと思いますよ。
239 :
会員X:03/12/29 18:15 ID:???
春田の蛙さんへ
横レス失礼します。まんが歎異抄とは漫画 歎異抄岡橋 徹栄 (著), 広中 建次価格¥952
のことでしょうか。岩波文庫とあわせて購入しようと思いましたがアマゾンなどでは
現在、残念なことに品切れのようです。今年出版さればかりで人気のようですね。
恥ずかしながら以前所有していたのですがまともに読んでなくて春田の蛙さんと
やりとりをしていて読みたくなっていたところでしたので助かりました。
240 :
乾闥婆:03/12/30 01:29 ID:???
>>233 お邪魔しますさん。
私は日蓮の悟りのことなど話していませんが。あなたの悟りの捉え方は危ない
のではないかと疑問を呈しているだけです。
>>235 Sbさん。
>人の悟りを聞くという意味を分かって聞いているの?
お尋ねの意味がよく分かりません。
私はお邪魔しますさんの用いられる悟りという言葉の意味が曖昧でよく分から
なかったので詳しく聞いてみたいと思ったまでです。私たちは会話をしている
のですからね。分からないことは当然問い訊ねます。
>>233 > 日蓮の思いが、言葉になり、行動になり、人々の反発を生み、迫害
>されるようになるのです。正しいことをしているのに、迫害されたと
>苦しむのなら、言葉なり、行動を変えればよいと思うのだが日蓮はそ
>れをしない。仏教で一番大切な、人の心の動きが分かっていない。正
>しい理論があれば、それで人々は納得するとしている。ここが大きな
>間違いだし、問題点になっている。
これたぶん正解に近いね。でも、そうなったのにはおそらく題目という呪文の
効果が一番効いているんだと思うね。つまり、これさえのめば全部の病気が
治る特効薬なんだから、口に押し込んででも飲ませてしまえばこっちのものに
なるんだ、飲ませさえすれば正義なんだという信念だったのだよな。で、
速くノメノメとうるさくなるわけ。ちょうど麻薬は飲めば飲んだ者の世界に
浸れるから、速く飲ませて仲間に引き入れてしまえばこっちのものだという
感覚だったんだな。これが当たってるだろ?>ソウカ諸君の感覚はどう??
なそうだろ?ちみらもさ、ね?
>>233 > ただ日蓮の場合は、正しい理論「法華経・日蓮の教義」、正しい
>方法「御本尊に対する唱題行」で目的が達成できるとしている。確
>かにお題目を一心不乱に唱えれば、無我・忘我の境地にはいること
>は可能だと思います。ただこれには、浄土宗のように自己の計らい
>・自我を棄てることが必要だと思います。
ところがそうじゃないんだよな、、題目って呪文は自我に執着して自分の願望
を実現させたいっていう欲望に相性がぴったりのマントラなんだよね。
その響きがそうさせるんだよ。ナンミョーホーレンゲーキョー、って全然
崇高な感じってないじゃない?、でしょうっ?
それは呪術の世界にぴったり遭うんだよね〜。だから言ってみりゃ、日蓮は
それにやられてしまったわけよ。そこが行き止まりだと麻薬ってしまったわけだな。
まあそういう底の浅い麻薬中毒患者だったってことだね。これが結論だよん。
速くいえば池沼のバカってことなんだけどね。あはははは>日蓮。
法華経成立問題について
いつの頃か『法華経』の原型にあたる特殊の信仰形態を持った一つのグループが存在していた。
彼らは「この教えを信仰し、宣伝に協力するものは、すべての苦しみを逃れ、病気も治り、火にも
焼けず、水にも溺れない」と言って信者を集めた。その信仰の強さを示すために、自分の身体に
油をそそいで火をつけるものさえあった。その執拗さに耐えかねた人々が、それを非難すると
「法難だ」と叫んで、ますます結束を固くした。そして自分たちで『法華経』という名の経典を作製した。
一般の人々、ことに仏教の正統派の僧侶たちは大いに迷惑して国王・大臣・僧侶・一般市民に訴えた。
しかしこの狂信のグループは「命もいらぬ、教えだけが大切だ」と叫んでますます活動を続けた。
こうしたグループは発展し、『法華経』も新しい章節を書き加えて現在見るような形が成立した。
これが、経典そのものから読みとれる『法華経』の成立史である。またもし、この経典自体のうちに
見られる社会的特異性が認められるとすれば、『法華経』がインドの正常社会においてではなく、
特殊の環境で発生したかも知れないという可能性さえも出てくる。
渡辺照宏『日本の仏教』(東京 昭和33年)より
245 :
乾闥婆:03/12/31 00:22 ID:???
>>233 お邪魔しますさん。では、日蓮について話しましょう。
>確かにお題目を一心不乱に唱えれば、無我・忘我の境地にはいることは可能だと思います。
私は無我と忘我は並列表記されるような類似内容のものではないと思います。
無我はあくまで自我が固定的実体であるという執着を否定するもであって、忘
我といわれるような状態とは似て非なるものだと思います。
>ただこれには、浄土宗のように自己の計らい・自我を棄てることが必要だと思います。
例えば親鸞は自我を捨てたでしょうか。彼はまさに煩悩具足の自我のその中心
において、自己の計らいを捨てたのではないでしょうか。彼にとって自我はそ
んな簡単に捨てていいようなものではなかったのではないでしょうか。
>自行化他を目的にする日蓮信徒に、自分を突き放すことが出来るだろうか。
日蓮もまた自己の計らいをある意味で捨てていると思うのです。彼は彼の信仰
する法によって生きているのであって、そのためには自己の計らいなど捨て去
るべきことなのでしょう。「心の師とはなるとも、心を師とせざれ」と兄弟抄
に経典から引用しているのは、まさにそのことであると思います。
246 :
乾闥婆:03/12/31 00:24 ID:???
>>233(続き)
>正しいことをしているのに、迫害されたと苦しむのなら、言葉なり、
行動を変えればよいと思うのだが日蓮はそれをしない。
日蓮にとってそれは自身の信じた法を曲げることになるのでしょう。彼は迫害
からのがれることよりも、法に生き法に殉じることの方が重要だと、その信仰
から考えたはずです。
>仏教で一番大切な、人の心の動きが分かっていない。
日蓮の信徒に宛てた書簡を読んだことはありますでしょうか。彼は人の心の動
きに即して、その心をつかむことが非常に上手な人だと思いますよ。ですから
迫害を受けながらも一宗派を作り得たのでしょう。人の心の動きが分からなけ
れば、誰もついてきませんよ。
>正しい理論があれば、それで人々は納得するとしている。
「納得するとしている」などということはないでしょう。納得しなくても言っ
ていかなければならないのですよ、彼の信仰においては。
自身の信じた法を曲げることになるのなら
どうして、念仏に対抗して南無妙法蓮華経となえたり
神道の神の名書いた本尊書いたのでしょうかね?
自身の信じた法を曲げ方便で人を引き付けたようにみえますが
248 :
波木井坊竜尊 ◆IByKs72gR2 :03/12/31 00:45 ID:RibiYwCD
八幡大菩薩だよ。(藁)
垂迹神なんだけど。(激藁)
え?天照大神??違うなーー。天照太神なんだよね。ごっくろうさん。(藁)
禿のひろしがこんなところにまで!
・日本霊異記下巻20、法華経を書写していた女の人をそしった罰として
「白癩(白ナマズと読む場合ある)」になる。
「法華経・普賢菩薩勧発品」「若し復是の経典を受持せん者を見て、
其の過悪を出さん。若しは実にもあれ、若しは不実にもあれ、
此の人は現世に白癩の病を得ん」
(後に、法華経に帰依すると治癒するという伝説ができる。)
「法事讃(註釈版七祖篇P544)」
「人中に生じて、聾盲(ろうもうおんあ)・疥癩癰疽(けらいようそ)・貧窮下賤(びんぐげせん)にして、一切の諸衰、もつて厳飾となす。」
この病気に対する受け取り方は時代や文化によっても様々である。
日本では、日本書紀・令義解など8.9世紀の頃から記載がある。
日本霊異記下巻20には、法華経を書写していた女の人をそしった罰として
「白癩」になるという話が出てくる。これは「法華経・普賢菩薩勧発品」を元とした説話で、後々業病説と言われるように成った所以である。
また、ここから「らい者」が法華経に帰依すると病気が治るという逆説的伝説が生まれ、
熊本の本妙寺のように「らい部落」が出来る要因になったところでもある。
>>248 ハキイさん、猿(249、250)を連れてかえってよ(苦笑
∩( ・ω・)∩
252 :
247:03/12/31 01:21 ID:???
八幡は、以前はきりさん書いてましたね。
正宗系あたりは、ホウボウでありえない言うかも知れないが
面白いので、日蓮さん(御祖様)の神感というか
日蓮さん神社参りのエピソードなどについて、
源氏系氏族などのお話しも織り交ぜて聞かせ願えませんか?
253 :
247:03/12/31 01:22 ID:???
251そうか。。。すんません。
ハキリさんも、なかなか大変ですな。。
254 :
お邪魔します ◆nH2G.RjIE2 :03/12/31 01:27 ID:qH0h1Sas
乾闥婆さん、法を守ると言うことは、「法華経」の場合、二乗の悟りに満足してい
ないで、多くの人を悟りに導き苦しみから救われることを広める菩薩行第一にすべき
ではないか。
日蓮が迫害されたのは、日蓮の過激な言動に反発を招く要因があったからではない
のか。わざわざ反発を招くようなことを繰り返さず、人々に受け入れられやすい形で
法を説き、「法華経」を広めた方が良くはないか。
伊豆流罪の時幕府は律宗の叡尊・忍性を鎌倉に呼んだ。律宗は戒律を守ることを重視
する宗派で、この二人はまた我が国に残る最古の救癲施設である「北山十八間戸」を建設
し、そして患者たちの生活を成り立たせるため、歩けなくなった重症のハンセン病患者を
背負って毎日早朝に町へ出、物乞いをさせて夕方再び背負って戻ったという有名な逸話が
ある。なぜここでこの二人を出したかというと、執権の館の近くで幕府に抗議したり、
他の宗派の悪口を言っている僧と、持戒持律の立場から殺生禁断を勧め行い、慈善事業に
実績のある僧と、幕府はどっちを重視するか、分かると思う。
忍性は極楽寺を開山し、その境内に施楽院・悲田院・療病舎などを設け、日夜多数の病者
を収容し、貧者には無料で加療・施薬をした。また弱った馬のために馬病舎を設けたり、架
橋・作道・掘井などを行った。
もし日蓮が幕府の庇護を受けたとすると、このように苦しんでいる人を救っただろうか。
幕府もそのことを分かっていたと思う。日蓮は律国賊と言っているけどね。
256 :
お邪魔します ◆nH2G.RjIE2 :03/12/31 01:52 ID:qH0h1Sas
親鸞に対しては、原始仏教で、一つの教えというのは真理そのものではなく、真理に到るた
めの手段で目的を達したらそれに執着しないと言う「筏のたとえ」を出したもので、浄土真宗
の教えとは違うことを書いてしまったことを、認めます。
>例えば親鸞は自我を捨てたでしょうか。
捨てていない。どっちかというと日蓮より我は強いし、煩悩にまみれている。日本だけですよ
仏教の僧侶の妻帯を認めているのは。これ親鸞が最初にやったんですからね。このような罪深
い者でも、念仏によって救われると言うことを親鸞は自分自身の信仰で示している。
日蓮を見ると、救われて涅槃寂静の世界にいるという感じがしない。どっちか言うと修羅界
に住んで幕府を非難したり、他宗を攻撃したりして居るみたい。
257 :
お邪魔します ◆nH2G.RjIE2 :03/12/31 02:18 ID:qH0h1Sas
>「納得するとしている」などということはないでしょう。納得しなくても言っ
ていかなければならないのですよ、彼の信仰においては。
日蓮がどんなに一生懸命法を説いても、納得しないと普通の人は付いてきませ
んよ。納得させるためには、納得しやすい方法を講じたらどうですか。なぜ日蓮
系は小難しい理論を言うか、他の宗派の悪口を言うかしかないのですか。
258 :
乾闥婆:03/12/31 07:08 ID:???
>>254 お邪魔しますさん。
>法を守ると言うことは、「法華経」の場合、二乗の悟りに満足してい
ないで、多くの人を悟りに導き苦しみから救われることを広める菩薩行第一にすべきではないか。
日蓮は二乗の悟りなどに満足していないし、彼の行動は彼の信仰に基づいた菩
薩行であったことでしょう。二乗の悟りにとどまっている人間がなぜ迫害を受
けてまで法を広めようとしますか。
>わざわざ反発を招くようなことを繰り返さず、人々に受け入れられやすい形で
法を説き、「法華経」を広めた方が良くはないか。
それについて日蓮がどう考えたかはもう既に説明しました。
>もし日蓮が幕府の庇護を受けたとすると、このように苦しんでいる人を救っただろうか。
日蓮は幕府の庇護を受ける機会がありました。しかし法華最勝の教義を抱える
彼にとって他の宗派も庇護されつつ自身が庇護されることはあってはならない
ことでした。謗法同座はできないということです。それが彼の信念です。別に
今となっては正しい信念とも思えませんが。苦しんでいる人を救うことは、当
然のことでしょう。彼はそのために布教していたのでしょうから。
259 :
乾闥婆:03/12/31 07:09 ID:???
>>256 >日蓮を見ると、救われて涅槃寂静の世界にいるという感じがしない。
日蓮が嫌ったのは悟り済ますことでしょうからね。涅槃寂静といった境地に悟
り済まして社会的な困難・災害に働きかけないことこそ嫌ったのでしょう。そ
のような激しさのうちに彼は寂静を保っていたのかもしれません。いずれにし
ても涅槃寂静とは表面的な問題ではなくて心の在り方の問題であると思います。
>>257 >納得させるためには、納得しやすい方法を講じたらどうですか。なぜ日蓮
系は小難しい理論を言うか、他の宗派の悪口を言うかしかないのですか。
それについてももう説明しました。もちろん彼は正しくはなかったと言えます。
彼は彼の時代の文脈の中でものを考えたと言うことです。
だからさ、何度も言うけどさいいかげん分かれや(w
ナンmッミョーホーレンゲーっキョーってのはただの無意味の呪文だってことをさ。
それを証明するには簡単だな。これを陰陽道でもともとあったマントラだぜと
教えて子供を育てればわかるぜ、、へ。
そうやってみろ>ソッカー!
そうしたらホッペけ教とは無縁でも、中味の同じような宗教ができるんだぜwww。
すりゃ、ガイキチ願望実現魔法マントラ教がソウカと同じようにできあがるぜ。
いひひひひ。バカ>日蓮
漢字当て教はホントバカの極みだな。
もし漢字当てて意味があるとか抜かすんなら、何だってそうなるんだぜ、
なあわかる?
だから全然ニチレンとかエチレンとかの宗教はアホの塊だって言ってるわけ
だよ。
効果があって願望が実現しそうに思えると自分に暗示を掛け続けてそうなると
心底思わせて、無意識にその形を作らせるためには、別に漢字は必要じゃない。
だけど、漢字だと日本人とかには意味が植え付けられる利点があるだけ。だから
そうなんだと言い含めれば、信じやすくなって弁理だということでしかないんだよ。
そういうごまかしの宗教がエチレン教なんさ。いいかげん分かれなw>ソッカー屋!
っていうことはな、もうニチレンは全然必然性がないことが証明されるだろ?
そうなるとニチレンもいらねえ、層化もみんなウソだった、全部ニセモノだった、
ゴマカシ教だった、ってわかる。
心理学だけの世界なんだよ。すべてはな。
ブッダの仏教と全然別のものが勝手にブッダの名を盗んで知らん顔して
仏教を乗っ取っちまったのがニチレンて八打!バカもいいとこなんさw、ケッケ。
その元がホッケッケキョウだったんだが、結局ホっケッケ教がキリスト教の
東伝で流布したお話を盛り込んで勝手に台本に使っちまって知らん不利した
のが始まりだな。そっから仏教の盗み取りが横行しはじめたんだよ。日蓮も
その系統にシッカリ乗ってるからなw盗み愚セが効いてこのアリ様だろ>ソッカー
どもよう。ケッケっけw。
>ナンmッミョーホーレンゲーっキョーってのはただの無意味の呪文だってことをさ。
心理学的にハンマーシュラークといって、同じ言葉を何度も繰り返し唱えると、
気持ちのいい状態になる。俗にトランス状態になる。
これが層化最大の奇跡の正体だ。
なにも「名無明〜」でなくてもいい。
「マンコ」「俺は天才」でもなんでもいい。嘘だと思うならそれらを連続で
唱えてみればわかる。
ほーらわかったろう(w。
暗示と心理的洗脳を巧妙に使うのが新興宗教だ。くだらん。
265 :
お邪魔します ◆nH2G.RjIE2 :03/12/31 22:23 ID:JRfbsyq0
今年も大晦日になりましたね。みなさまのおかげで、自分の独りよがりな考えの
間違えを指摘していただいて、有り難うございました。
最後に創価学会の唱える「日蓮仏法」の疑問を書いておきます。創価学会のホ
ームページによると
大宇宙をマクロコスモスというのに対し、私たちの生命をミクロコス
モスと呼ぶ。生命そのものが小宇宙なのだ。
宇宙と生命の法に合致して生きること。それは多様なものとの調和で
あることを日蓮大聖人の仏法は教えている。
この宇宙を法(ダンマ)、真理、一念三千、本仏、法華経に置き換えても良いけど
それと自己、自我、自分の生命との合致、合一、合体を説いています。
この二者を合一する事が悟りであり、これによって救われる、と私は捉えました。
それに対して、私は宇宙の中にはじめから自己が含まれており、このことに気が
付くことが悟りであり、迷いを断つことであるとしています。自己、自我はどんな
ことがあっても、仏教の唱える法の外に出ることはないとしてます。
266 :
お邪魔します ◆nH2G.RjIE2 :03/12/31 22:24 ID:JRfbsyq0
言葉だと分かりにくいかも知れませんから、適当な紙に左側に大きな円を書いて
これを宇宙にして下さい。右側に小さい円を書いて、これを自己の生命とします。
学会の説明だと、右側の小さい円を、左の大きな円に重ねる事を悟りとしています。
私ははじめから左側の大きな円の中に、自己を表す小さな円があり、それに気づ
くことを、悟りとしています。そして自己を表す小さな円は、大きな円から出るこ
とはないのです。
学会の説明だと、悟る前の人は仏法を表す宇宙の大きな円から外に出ているんで
すよね。始めから中に含まれているのなら、改めて合致する必要はない。そこで私
の疑問なんですが、人は宇宙(仏法)の外に出て生存できるか。さらに仏法の届か
ない世界とはどのような世界か、またそのような世界があるのだろうか。もう一つ
悟る前の人と、悟ったあとの人が同じ世界で一緒に生活しているのはなぜだろうと
言うのもある。この辺が学会の説く日蓮仏法に、入っていけないところです。
また来年もよろしく、みなさま良いお年をお迎え下さい。
NHK教育の十二国記見てたら妖魔を部下にする方法がシャクブクと言ってたが、創価アニメなのでしょうか?
>>256-257 >大宇宙をマクロコスモスというのに対し、私たちの生命をミクロコス
>モスと呼ぶ。生命そのものが小宇宙なのだ。
これって法華経の考えというよりは華厳経の考え方そのものでしょ?
何時から創価は華厳宗に衣替えしたのかなあ?
269 :
268:03/12/31 23:41 ID:???
>>236 Sbさん
私は会員さんじゃないので・・・
お付き合い下さり有り難うございます。
>>268さん
円融無礙ですかね。w
※皆様 明けましておめでとうございます。
本スレの益々の発展をお祈り申しあげます。
>>267 十二国記は層化アニメじゃないよ〜。
日蓮系の宗教に以前入ってたから
原作で折伏、とあって自分もビクーリしたことはあるよw
古代中国風の世界観の物語だから
そこから来た言葉なんだろうね。
詳しくはよくわからないけど。
お邪魔しますさん、「最後」?
>間違えを指摘していただいて、有り難うございました。
言ってる事、ほとんどの人の感情に近いし、間違いとは思えないのですよ。
仕事や生活を優先されて、たまには来てくださいよ。
日蓮仏法の変なとこ、指摘できるかたな、かなかいないのでぜひ
また、原始仏教の電波男さんあたりこないかな
ひゃっきさんも、同じ内容繰り返すの飽きがきてるのかな
>>272さん 最後まで読みましょうね。
> また来年もよろしく、みなさま良いお年をお迎え下さい。>266より
>>267さん
> NHK教育の十二国記見てたら妖魔を部下にする方法がシャクブクと言ってたが、創価アニメなのでしょうか?
私のハンもそのアニメにの主題歌にでてきますね。w
創価アニメかどうかは知りません。竜樹の『十二門論』に関係あるかも(・ω・)モニュ?
274 :
ひゃっきまる:04/01/02 11:46 ID:QtGjnMB9
皆さん、あけましておめでとうございます。
創価学会員は、創価学会内で教えられた教義しか知らず、一般の仏教知識がない
ことが問題です。対してアンチ学会は、日蓮や宗教全般を安易に表面的に捉えて非
難する傾向があり、これも同様に問題があると思っています。
このままの状態では結局お互いに「相手は何もわかっていない」という思いを募
らせ、偏見をますます強め、膠着したままになるでしょう。
創価学会の何が本当の問題なのか、その意識を共有できれば、解決に一歩進むと
思います。それは決して不可能なことではないはずです。なぜなら、多くの学会員
は真に善意を持っているからです。ただそれが、「法」を信じるが故に極端な行動
になってしまうということですから。
僕はそのためにこのスレにきているという理由が大きいです。質問があればでき
うる限り答えていこうと思っています。
今年の日本の目標は「脱カルト」!
教えられた教義しか知らないのは。
末法には釈迦仏法は通用しない。
釈迦が本当に伝えたかった真の仏法。
という理由を刷り込み、
勧誘のために他の宗派の論破の方法というかたちでしか知らない。
もしかしたら、うかつに勉強されると退会されかねないので
会員引き止めるために考案された教義なのかも知れんな。
そうそう、学会でも仏教の勉強はしている
と言ってるけど、それは学会中心の仏教
であって学問としてのものではない。
自分なりに勉強してると言うと、なんで
わざわざ遠回りするのって言われたし。
ゲームやるときに最初っから攻略本
見ながらゲームやってるんだよな学会員は。
統一教会の中でキリストを学んだり
オウムの中で仏教を学んだりするのと同じで
創価学会の中にいて仏法学ぶのは難しいんじゃないかな。。
安易にだってさ(プ
安易な教えなんだと自分で行ってるくせにな(ワらイ
そうそう。自分だけが全て知ってるようなこと言ってるがそういうのが一番危ないんだ。
どの人間にも知覚できる限界というのがある。大蔵経を全て読破した人間なんかどれだけいるんだ。
もし、そんな人間がいたとしても創価のカルトに引っ掛かった人間を脱会させるのは困難な仕事だ。
せいぜいミイラ取りにならんように気を付けるんだな。
281 :
春田の蛙:04/01/03 17:26 ID:9jS/3PYE
遅くなりましたが。
>>173-174 乾闥婆さん
> それで傷が癒えるとは思わないし、過去が清算できるとも思わないし、前向きな姿勢の出発点となるとも思えません。
これは乾闥婆さんの主観ですから、一般論としては必ずしもあてはまらないでしょう。
現に私はアンチとして、自身の被害の怒りをひとしきりぶちまけて気がおさまり、以後は学会員の方とも、比較的冷静な対話を行えるようになりました。
私自身がその段階を乗り越えたからと、他者には始めから冷静に振る舞えなどと勧めるつもりはありません。
自身の幼少時をたなに上げて子供に過度の要求を感じるのが、幼児虐待の一因でもあります。
自分は現在こうなのに、何故子供はそうじゃないのかと苛立つからです。
理想の要求は、時に人を救わずむしろ害悪となる場合があります。
怒りを吐き出しながら次第に心の整理をつけて、過去の体験を乗り越える過程は、オウムや統一教会の例でも多く語られています。
乾闥婆さんがそうしたくないと言う事を根拠に、それを万人にあてはめるのは不可能ですよ。
もちろん、以上は一般化さえ図らなければ、単に見解の相違です。皆が乾闥婆さんと同じではないと言うだけの、当たり前の話です。
乾闥婆さんも憎悪を吐き出すべきとは、私は述べていませんよ。
> しかし「あんなもの信じる人の気が知れません」などということは言わないでしょうね。
この点はあげあし取りです。
あなたは自身の主張を正当化する為、私があなたの疑問に答えるために、一歩踏み込んで率直な心情まで明かした上で
『…ではあるが、それでも配慮した文面を心がけているし、自らの感情論を抑えて日蓮仏法への信仰を尊重している』とした、
一連の内容の前後関係を無視して、批判に利用しているように読めます。
私の日蓮への嫌悪は自己の体験に因り、 必ずしも公正な感覚でないとまで、誠実に論述したにも関わらずです。
私は内容に問題があれば、たとえアンチの学会批判であっても、 指摘させてもらう事はあります。
しかし自身の被害や考えを語るうちに、感情が爆発して冷静さを失った意見と、面白半分の批判や中傷は、やはり異なります。
282 :
春田の蛙:04/01/03 17:28 ID:9jS/3PYE
あなたが抱く過激な批判意見への反発心とて、ご自身お認めの通りその批判者と同じ創価学会への感情から来ています。
あなたの反発心を成長と言うなら、血となり肉となっている生まれ育った環境に、敢然と背を向けるのも立派な勇気であり成長です。
それを批判するのはあなたの自由ですが、私のようにそれを擁護する外部にまで噛みつくのは、あまり感心しませんね。
私は念仏系カルトの被害者がいらしたら、法然や親鸞を誹謗するなとは求めません。
念仏の名の元に苦しめられた方がいるなら、その誹謗の矛先が私にも向いて当然と考えています。
カルトは大抵仏罰だの天罰だの主張しますから、念仏系も多分そうでしょう。
なら私も一緒に本尊なり経典なり処分して差し上げるのが、私にとっての仏の道です。
それで浄土に行けないと言うなら、一向にかまいません。
念仏者失格と言うならその通り。
カルト被害者と共に地獄に落ちるのが、念仏に救いを得た私の業と心得ています。
乾闥婆さんの意見に同感な人もいれば、私の意見に同意な方もいると思います。
これからも私は変わらず、悩める故の感情的物言い・やり方を責めようとは考えませんし、
あなたは、理由はどうあれ、表現の是非は批判すると言えば良いと思います。
あなたに考え方を変えろとは、求めるつもりはありません。
苦しみの表現の仕方は、人によって違うからです。
立場を共有出来ない者が共に在る事が、人の世の本来のありかたと私は考えます。
それが自由と平等です。
そして自身の感情と反していてもそれを認める事が、本当の慈悲であり同時に民主主義の理念でしょう。
最後になりましたが、サイトへの感想ありがとうございました。
浅学な身ゆえ十分とはいきませんが、今後とも方々の助言を頼りに、充実を計りたいと思います
283 :
春田の蛙:04/01/03 17:35 ID:9jS/3PYE
今更なレスですが。
>>188-189 的確な解説に感服しました。仰る通りだと思います。
> 基本的に大乗仏教に他派を非難し、自派の優越を説く教えが多いのは
> 成立時の経緯からして仕方のないものだと言えるかも知れない。
特にこの点に同感です。
『教えを嫌う者が多く、説けば誹謗が起こるだろう』と言うのも、
法華経の専売特許ではありません。
善導が阿弥陀経を解釈した『法事讃』には、
> 疑謗多く道俗相嫌って聞くことを用いず。修行すること有るを見ては瞋毒を起こして
> 方便して破壊して競って怨を生ず。此くの如き生盲闡提の輩は頓教を毀滅して永く沈淪す。
> 大地微塵劫を超過すとも未だ三途の身を離るることを得べからず。
> 大衆同心に皆所有の破法罪の因縁を懺悔せよ。
等とあります。
浄土の教えに対して疑いや非難するものも多く出家在家ともに嫌って素直に聞こうとしない。
修行者に怒りを抱いて妨害し、競って怨もうとする。
このようにどうしようもない輩が、せっかくの教えをうちこわして救いを閉ざそうとする。
永遠とも言える時間が過ぎても、地獄餓鬼畜生の三道からは浮かびあがれないだろう。
人々は心を同じくして仏法を破るような因縁は懺悔せよ。
私の稚拙な訳で申し訳ありませんが、大体このような意味です。
これは選択集にも引用されてる内容です。
284 :
春田の蛙:04/01/03 17:35 ID:9jS/3PYE
法然や親鸞は、『信じる者もいれば非難する人もいて当たり前なんだから、
自分に念仏が合うと思ったなら安心して念仏しなさい』と教えていましたが
(善導が残した二河白道と言う比喩からは彼らの解釈が正しい)、
上のような経釈を悪用するなら、例えば日蓮を
『この者こそ経釈に予言された生盲闡提の首領である』
等とこじつける事も可能で、そしたら浄土門と日蓮宗は全面戦争です。
予言通り、浄土の教えが広まる事を破壊しようと日蓮と言う悪僧が現れた。
だから浄土の教えは正しいのである!!
…都合よく切り貼りすれば、浄土の教えだってこうなってしまいますね。
怖い話だと思います。
ちなみに法然は、
>>189でご説明の経緯について以下のように述べています。
> 昔から「後学畏るべし」と言って、学者は先達だから優れているとは限らない。
> 釈迦の没後、五百年後に阿羅漢たちが集まって『大毘婆沙論』を作ったが、
> 九百年後に世親が『倶舎論』を著して、先の教えを論破した事がある。
> 教義の是非を論じる時は、昔の説だと言っておそれる必要はない。
(四十八巻伝より 訳は佐々木正氏に拠る)
法然の言う通り、昔の偉い人の説なんだと言われて、
納得出来ない事まで、良心を曲げて従う必要はありません。
歎異抄が戒める異義異端も、法然や親鸞の説ではない教えを
『法然や親鸞はこう言った。だから私は正しい。』
と自己正当化に用いる詭弁の事を指しています。
正しいと思った事は自己の見解として、自己の責任において述べる。
他者のせいにして議論をすりかえてはならない。
考えてみれば、当たり前の話ですね。
285 :
春田の蛙:04/01/03 17:57 ID:9jS/3PYE
>>169>>239 会員Xさん レス遅くなりました。申し訳ありません。
会員Xさん、過去のことは過去のことです。何ひとつ学会の非は認めない
頑迷な方も多いなかで、今誠実な対話をされているあなたを私は尊敬します。
悔やまれる気持ちは分かりますが、ご自分をあまり責めないで下さい。
私だって、あまり自慢できる生き方をしてきたわけではありませんので、
人様の過去を責める資格はないです。(^^;
それから…実は私自身は、解説書の類は一冊も持ってないのです。(汗)
歎異抄は岩波文庫のやつを持ってるだけです。
原文と脚注と、要約した大意がちゃんと載ってますので、私自身にはこれで十分です。
解説書は、漫画とか雑誌のついでに立ち読みするんですが、紹介したのは、その中で印象に残った二冊です。
書名と出版社は確認して記憶してたのですが、漫画歎異抄の著者はちょっと記憶に無かったり…頼りなくてすみません。(T_T)
ただ、法然や親鸞について述べた本なら一冊だけ持ってます。
佐々木正著「法然と親鸞〜はじめて見たつる思想〜」(青土社)です。
阿弥陀如来や念仏といった用語に頼らずに、芹沢俊介氏のイノセンス論など現代人に親しみやすい概念を用いて、
宗教用語に幻惑されて見落としがちな宗教思想の本質を、分かりやすく述べています。
資料採用は広範かつ公平であり、明治以来の実証史学の問題点にも触れながら信仰史を語っていて、語り口に感服したので購入しました。
ところで、歎異抄を読まれたいと言う事は、信仰を考える上で他宗についても知りたいとお考えなのでしょうか?
浄土の教えについてであれば、無学な私でも良ければ、分かる範囲でお手伝い致します。
他スレで書かれていた、本来の日蓮仏法と創価学会が用いる詭弁の違いは参考になりました。
私の方も、何か会員Xさんのお役に立てればと思います。
今後とも、やりとりを願えれば助かります。都合で頻繁にはレスが返せませんが、何卒ご寛恕下さいませ。
286 :
会員X:04/01/03 22:19 ID:???
>>285 春田の蛙さんへ
お忙しい中、わざわざご返事頂きありがとうございます。
歎異抄を読みたいと思ったのは春田の蛙さんの文章を読んでからです。あなたが紹介してくれた
文章に心打たれたからです。ご存知のように創価では他宗を邪教と罵り他宗の本を読むと
謗法扱いします。しかし日蓮の生涯も他宗の寺院を訪ね様々な研鑽を重ねました。
例え対立する宗派とはいえその方たちの原典や書籍を読まずしてどうして理解し合えるのか
考えています。お互いの違いを分かり合った上で同じ日本の住人として理解し合ったり
協力したり様々な交流があっても良いのではないでしょうか。
正直に言って学会員と方々と討論するとネットでも、リアルでも疲れるというか苛立ちを
感じることが多いです。他人を不幸と捉え幸福の道を自分だけが知っているという不遜な
上、頑迷なかたが多いです。基礎的な教義を疎かにしておりすぐに感情的になります。
その点、春田の蛙さんとネット上ではありますが心地よいというか安心して会話が成り立ちます。
本来、全く違う教義であるのに不思議でなりません。逆に考えるとこれが当たり前で創価が
異常なのかもしれません。不明な点はお言葉に甘え質問させて頂きたいと思います。
それと並行して歎異抄は読んでおこうと考えていましたので大変助かりました。
おっしゃるように時間に追われずお互いにゆっくりとしたペースでやりとりが出来ればと
考えています。「善いことというものは、カタツムリの速度で動くものである」というようです。
>>286 歎異抄読んでも( ・A ・) イクナイかも。読むのは自由ですけど。
会員さんはハードな教えが好みでしょうからね。
教行信証の方がよいのではないかと。。。
288 :
会員X:04/01/03 22:49 ID:???
>>287 月影さんへ
そうなんですか。この本の知識はほとんどないものですからとりあえず
おっしゃる本も含めていろいろ読んでみたいと思います。
ありがとうございます。
289 :
お邪魔します ◆nH2G.RjIE2 :04/01/03 23:33 ID:sLmz5YmE
あけましておめでとうございます。今年もよろしくお付き合い下さい。
法華経の成立については「法師」の存在が考えられます。
初期大乗仏教の興起は仏塔信仰に求められます。お釈迦様の入滅後、火葬さ
れたお釈迦様の遺骨は分骨され丁重に埋葬されました。そこには、ストゥーパ
(卒塔婆)という仏舎利塔が建立され、仏教徒に限らず民衆の篤い信仰を集め
ました。やがて、そのストゥーパを管理しあるいはストゥーパ参詣者をガイド
をする「法師」という人たちが出現してきます。正規の僧侶は墓守やガイド役
などをしませんでしたので、彼らは在家でした。そんな彼らの中から興ってき
たのが、初期の大乗仏教ではないかといわれています。
平川彰 「初期大乗佛教の研究」 仏塔起源説
「法師」はストゥーパを参拝する人の布施によって生活するため、一般の人
に受け入れやすい形で「仏教」を語ったんじゃないかと思う。そのため出家して
激しい修行をしなくても成仏できる方法や、民間宗教であるバラモン教などの教
義も取り入れて新しい教えを作り上げた。もちろんこれは伝統的な仏教の教えと
違うから、上座部などの仏教団体から激しい反発を受けた。ただし普通の人には
受け入れやすいから、広まったと見られる。
290 :
乾闥婆:04/01/04 00:10 ID:???
>>281 春田の蛙さん。
あなたの批判される私の発言部分です。
>>140 カルトの被害が原因でその宗派や関連ある人物に憎悪を抱いた人が、
その憎悪を全人格にみなぎらせて、各祖師をあしざまに言ったり、
その本尊を焼き捨てるなどの行動に出ることを、
良しとするということは、ある意味で、その人をして、
その当のカルトの行動と同じ次元にとどめ置くということになりはしませんでしょうか。
それを押しとどめようとしないどころか手伝いたいとさえ思うということは、
結果として無慈悲とはならないでしょうか。
>>173 もちろん本人の所有物をどう処理しようが勝手です。悪態をつきまくるのも勝
手です。でも、それで傷が癒えるとは思わないし、過去が清算できるとも思わ
ないし、前向きな姿勢の出発点となるとも思えません。むしろその罵っている
相手に当人がよく似てくるとは思われないでしょうか。気が静まるまで待とう
というのならまだしも、手伝いたいとさえ思うとは、私には問題ある発言に思
えてなりません。そのような悪態が一向に静まる気配もなく、むしろ慢性化す
るようであるならば(悪意は悪意を増幅するものです)、指摘すべきではない
でしょうか。
291 :
乾闥婆:04/01/04 00:11 ID:???
>>281(続き)
読まれて分かるとおり私は私の主観を述べています。私は自分の主張の一般論
化など図っていませんし、むしろ私自身の意見に関してあなたの見解を求めて
います。私はカルト被害者が抱く悪感情が慢性化することを煽ってはいけない
だろうと言うことをいっているのであって、はじめから理性的に振る舞うこと
は理想であっても、それを直ちに要求すべきだなどということは言っていない
はずです。
>乾闥婆さんがそうしたくないと言う事を根拠に、それを万人にあてはめるのは不可能ですよ。
当たり前です。しかし私は私の意志で生きております。それは春田の蛙さんが
あなた自身の意志で生きているのと同じです。私は例えばお邪魔しますさんの
態度に疑問を感じれば自分の意志をぶつけて話を進めますし、春田の蛙さんの
態度に疑問を感じればそれをぶつけて対話を求めます。それがなぜ一般論とし
て強圧的に万人に私と同じ意見を求める態度として、あなたには映ったのでし
ょうか。残念でなりません。
292 :
乾闥婆:04/01/04 00:13 ID:???
>>281(続き)
>この点はあげあし取りです。
>>117 >私はこの手の議論で、日蓮の人格を非難する事は避けてきましたが、
それは信仰に対する配慮であって、私が日蓮に嫌悪を抱いてないからではありません。
>>168 >私自身の率直な心情を言うなら、あんなもの信じる人の気が知れません。
>しかし私の理解には、創価など日蓮系の宗教に被害を受けた故の、公正に欠けた面があるかも知れない。
ですから日蓮の事を述べる際は、きちんと著作を読み、配慮した意見を心掛けたつもりです。
私は上の引用文のあなたの発言にはとても感心しました。しかし下の引用文の
言い方は許容できませんでした。信仰に対する配慮を述べながら「あんなもの
信じる人の気が知れません」と平気で言い切ってしまう態度が許せませんでし
た。その発言のどこに配慮があるのでしょうか、配慮するのであればあのよう
な表現は慎むべきではないでしょうか。それはいくらその前後で言いつくろっ
ても配慮したことにはなりません。私はあなたが誠実に文献を読み考えを進め
る人であることを知っています。日蓮の真言批判についての論駁には感服した
こともあります。その人にしてこの発言があるのかということが、正直とても
悲しかったのです。揚げ足取りと思われるのでしたらそれでも結構です。
293 :
乾闥婆:04/01/04 00:14 ID:???
>>282 >血となり肉となっている生まれ育った環境に、敢然と背を向けるのも立派な勇気であり成長です。
それでは私は結局創価学会と同じになってしまうと思っているのです。私は創
価学会を罵倒する側へ回ることはありません。創価学会の他宗批判を批判する
側へ回ることはあっても。それはアンチに対しても同じことです。
>私のようにそれを擁護する外部にまで噛みつくのは、あまり感心しませんね。
噛みつくと解釈されているのですね。残念なことです。悪感情の悪循環を許し
ていいのでしょうか、という問いかけが、そのような受け止め方をされてしま
うのですか。
>これからも私は変わらず、悩める故の感情的物言い・やり方を責めようとは考えませんし、
あなたは、理由はどうあれ、表現の是非は批判すると言えば良いと思います。
そうさせていただきます。
>立場を共有出来ない者が共に在る事が、人の世の本来のありかたと私は考えます。
それが自由と平等です。
そして自身の感情と反していてもそれを認める事が、本当の慈悲であり同時に民主主義の理念でしょう。
当然私もその思いです。しかし対話はしていかなければなりません。それこそ
が真の共存と言えるのではないでしょうか。対話する上で悪感情が阻害要因と
なるのであれば、それは少しずつでも取り除いていかなければなりません。私
はあくまで悪感情の悪循環を容認したり、ましてや煽ったりすることはしては
ならないと考えます。もちろん春田の蛙さんに強要するものではありません。
294 :
お邪魔します ◆nH2G.RjIE2 :04/01/04 00:20 ID:EjwhnZyC
日蓮に対して変だなと思うところは、自分の考え方、主義や主張、教義等を絶対視
し、固執することです。自己の見解を固執し、他人の見解を否定するから、諸々の
諍論、対立をひきおこし、自ら迫害される原因を作り出している。
これは「無我」「空」の教えで、全てのものには永遠不変の固定した自性がないと
いう仏教の基本から外れている。またどんなに「法華経」が正しい教えでも、仏教の
真意は、文字に書かれた教えにはない。煩悩、貪瞋癡、見取見などの捨棄の実践(説
の主張ではなくて、現実になること)こそ大切である。日々自分の心を洞察して貪瞋
癡の三毒を抑制することを求める行為が大切だと思う。自分がそれをせず、人々の救
済や、因果、一念三千を説いても何になるか。
>>294 >これは「無我」「空」の教えで、全てのものには永遠不変の固定した自性がないと
>う仏教の基本から外れている。
なかなかええこと言うな。
所詮は仏教というからにはフリュウ文字、教ゲ別伝でないといかんな。それが
仏教だな。南無阿弥陀仏も最後はそれが関係ないそれになるからいいところだよな。
うーん仏教だなあ(しみじみ)
そうでないなら固執無明のままでカルト教になる。まさにそれがバカンチレン
だったな。
悟りは始覚ホンカクにあらず。しかあるに拠りて円融なり。
お邪魔します、いいじゃないか。うーん、見なおしたぞ。
ちょっと前は藻前は層化くずれかと疑わせることがあったからな(笑)
乾闥婆さんへ。
>春田の蛙さんが指摘されたとおり、私は「理由はどうあれ感情的な批判行動に
>は、反射的に抵抗を感じる」人間です。しかし私はそのような視点に立たざる
>を得ない自分を被害者であるとは思いません。創価学会は私を苦しめてきまし
>たが、私はその中で生きてきたのです。そのような成長の痕跡を被害であると
>いうのであれば、私はこの世にいない方がよいのです。それは私自身なのです
>から。私はその一点において主体性を放棄するつもりはありません。
全く同じ意見を、元統一教会の方から聞いたことがあり、懐かしく思いました。
脱会した方も、「統一教会を悪く言われるのは不愉快」というセンスを持った方がいます。
例えるならば、どんな母校であっても「母校を悪く言われたくない」というセンスでしょうか?
「統一教会を批判しない」からといって、統一教会の脱会者を責めたことは、私はありません・・・。
>>296 統一教会スレにいけば〜
キミは要らない子なんだけど・・・・
>>293 なるほど創価の人間には悪口を言うのは逆効果になりかねないと言いたいわけならわかる。
これは学会員と話をするといつもそうなるからわかる。仏教に対する話は彼らは好きなんだが
創価に対するネガティブな意見に対し、かなり感情的になるからなあ。
確かに創価の中にも池田嫌いという比較的まともな人間もいることにはいるが批判的に
捉えられるとすぐに反論するし、罵詈雑言の類はNGだし、日蓮・法華経は彼らにとって
「神聖にして犯すべからず」的なものであるから長い論争になってしまうし、感情的なしこりが
いつまでも残ってしまう。彼らは家族も学会員が多く、血縁関係から生じる情という非論理的な
いかんともし難い原理で動いていると何ともならない。
宗教自体に依拠しない人間を何とか学会員にしようと企んでさまざまなマヌーバで行事に参加
させようとするから始末が悪い。下手すると「一緒に飯を食いに行こう」と言われ店にいくと
そこが学会のオルグ会場だったりするからなあ。いくら何でも1対多数で論争するような面倒な
ことは嫌だから早々に退散することになる。
いくら普段日頃から創価を批判してても、彼らは懲りないんだよなあ。
学会生活から抜けれない人間は何かを恐れているようにも思えるんだよな。
「あまり深入りするな。池田を信じるな。」くらいしか最近は言えなくなってしまったよ。
>>297 というか、カルトを擁護するからにはその意味をわかってから言ってもらわん
といかんちゅうことよ。ケンもそこんとこ忘れちゃいかん。
オウムは非難されたのは常識がないことがはっきりした後だったのはまずかったよな。
ソウカは折伏大行進で会員が異常にふくらんだ結果金儲けと政治進出のうまみがはっきり
してから常識を少しだけ取り込んだんで多少は世間で存在が赦される雰囲気も出た
だけで、実は相変わらずカルト丸だしの陰湿な布教活動だったわな。
そいつらを根絶せにゃ世の中がアブナイわけだ。いずれ世界はカルトとテロを根絶せにゃ
ならんことは明白。ソウカは最も悪党のフ部類である以上非難は永久に続くべき。根絶だよ
根絶。カルトガイキチ不要論を唱えよ。
なんであいつらソウカがカルトガイキチになるのかは、結局その根源は結局は
バカンチレンのカルト教説によっている。
仏教はカルトじゃなかったのに、キチガイ教説にかえちまったからそこから
狂った。悟りではなく、折伏で洗脳にした。それも全部ヤクの効果だそうで
飲めばわかる、ほらほらどうだとこれは完全な薬物洗脳と同一の代物だ。
意識の上での悟りではなく、呪文というそれ自体無意味のマントラの魔術的な
効果がすべてなんだとして特別の呪文だけを崇めるというアリ様。
そういう魔術教という意味でソウカが一番バカンチレンの系統を引いてる。
いいかげんに仏教の名を騙るのはやめるべきだろ。ソウカだけは完全な新興
宗教として別系統で洗脳集団として旗色を鮮明にするべきだな。
ソウカの唱える呪文はオナニーのような快楽に似ている。暗く淫靡な快楽、何か
やましいような快楽、人知れずこそこそ誘惑しなければならないような後ろメタさ、
まるでこそこそするのがふさわしいようなマントラ行法。
この秘密を知ったからにはおまえは仲間だ、というのはまるで少年がオナニーを
覚えてその話を仲間内でこそこそ話す雰囲気と似てるぜ。まるで禁断の快楽を味わった
以上はおまえはおれらと同じ罪悪を犯したんだから共犯だぞ、おまえはおれたちから
逃れられないんだぜ、さあおれらの洗脳を受け入れよ、さあさあ、てな雰囲気で
実に暗ーい雰囲気がソウカにはあるよな。
つまり自分たちは解放されてはいないわけだな。その状態というのは呪文に縛られて
生きているということだと思う。その効果が人生のどんづまりで、オナニーの快楽が
よりどころで生きている宗教といった感じがするよなあ。
オナニーが快楽を与える理屈はちゃんとある。それは神経を刺激する方法の
一つだっちゅうことでしかない。ちゃんとした科学的な理由があるわけだ。
おまえらのバカンチレン行法ってのもそれとおんなじさ。
だからおまえらバカンチレン行法のカルト宗教も同じオナニー教の感覚
になるのさ。これはおそらく間違いない真理だと思うぜ(藁)。
つまり生理的な感覚を刺激するに過ぎないものを、宗教にしちまっている
思考構造にモンヂアがあるわけだな。
歴史が進んでこうしたことへの認識もどんどん科学のメスが入り、おまえら
バカンチレン教の奴隷どもも根絶するときが来るだろうよ。そんとき俺の
言ったことを噛み締めることになるだろうよ。
>>299 >カルトを擁護?
う〜ん、お答えにならないかもですが、、、
私は会員さん個人は我々と同じひとなんだから根絶しようなんて思いません〆←チョットマネッコw
あんまりいい表現じゃないけど、やっぱり会員さんも内部被害者だと思っていますから。
そこで大切なのは個々が気付く事だと思うんですよ。無理やり辞めさせようなんて考え
は逆に創価と同じになるんじゃないかと。(正直、この件はあんまり踏み込みたくないですね。)
気が付いた会員さんが退会するのもイイし、残った人が会を改善してくれるのは
もっといいんじゃないかと。
テスト
305 :
お邪魔します ◆nH2G.RjIE2 :04/01/05 00:46 ID:TjzBeK0z
人が仏道にはいるときは、自分の救いを求めたり、悩み、苦からの解放を求めるためと
考える。それに対する仏教側の答えが「悟り」である。では日蓮は、仏教に何を求めたか
創価学会のホームページから引いてみる。
大聖人は12歳の時から清澄寺の本尊である虚空蔵菩薩(こくうぞうぼさつ)に対し
「日本第一の智者となし給へ」との願いを立てられました。このような願いを立てら
れたのは、当時、大聖人が次のような疑問を抱かれていたからであると諸御書から推
定できます。
「承久の乱(1221年)で、朝廷側が天台真言の秘法によって勝利を祈っ
たにもかかわらず、惨敗したのはなぜか」
「仏教は釈尊一仏が説いた教えであるのに、なぜ各宗派に分かれて争うのか」
「自分の父母等も信ずる念仏の行者が臨終(りんじゅう)の時に狂乱、悪相
の姿を現ずるのはなぜか」
日蓮は人が存在する悩み、苦しみを知らないのではないか。自分が存在するための悩みや
苦しみを知らないため、文字の上だけの解決を求め、それで「良し」としてしまった。そ
のため悟りを求めず、仏教各派の思想、主張などの優劣とか、思想が浅い深いなどを選択
するという、本質的なものから離れた方向に向かってしまったと見ている。
306 :
波木井坊竜尊@日蓮宗葵講@名前だけ仏所 ◆IByKs72gR2 :04/01/05 00:51 ID:lnb0F6N3
悟りではなく覚り。
ソウカもバカンチレンもやっぱりカルトだね。
>朝廷側が天台真言の秘法によって勝利を祈ったにもかかわらず、
>惨敗したのはなぜか
こんな疑問で仏教を理解しようとしているという時点で、完全にアウト!だ。
なんでブッダが悟り、そして説教したのか、こういう手合いには皆目わかる
まいに。ああバカンチレンアンドソウカ魔術教のなれの果て〜。
そんなに勝ちたいのなら、キリスト教になればよい。あいつらもいっつも
我らは勝利勝ー利ぃつって歌っておるぞ。
といってもまあカルトソウカの勝利とは全然意味が違うがの。ほっほっほ。
ハキイさん、あんたもニチレン衆足洗って正統派ブッダ教に改宗しなよ。
素質あんだからさ。
309 :
名無しさん@お腹いっぱい。:04/01/05 02:02 ID:OCi9zDJE
いいかげんにしろや低能。良スレ荒らすな。
>>305 >大聖人は12歳の時から清澄寺の本尊である虚空蔵菩薩(こくうぞうぼさつ)に対し
>「日本第一の智者となし給へ」との願いを立てられました。
それならば、日蓮は空海も修したという虚空蔵求聞持聡明法を修したのか?
この修行を完成させれば1度たりとも見たり聞いたりしたことは決して忘れることがなく
どんなに過去の記憶でも引き出すことができる超記憶術だとされている。
虚空蔵菩薩はなにもない虚空(アカーシャ)を知識の宝蔵物として、限りない智慧を
人々に与える菩薩である。
よく知られている文殊菩薩は経験と実際的な知識から智慧を生み出す菩薩である。
智慧の種類が根本的に違い虚空蔵菩薩は記憶力。文殊菩薩は判断力や処理能力に対応する。
もし、空海のように日蓮が虚空蔵求聞持聡明法を修したのならば、
「仏の身体というものは、真実の悟りが、あたかも一つの人格を持ち姿を現わしたものであり
そこには説法もなければ、救うという活動も一切無い。ただあるのは境地のみである。」と知覚
するはずである。
一度簡単な日蓮の伝記みたいなものを読んだときに清澄寺の僧侶からそれらしき修行を
行わされたように書いてあったが、それ以後の凡庸な様からは修行を完成させたようには
思えない。
311 :
Sb ◆SbSGI7AtEA :04/01/05 10:28 ID:yuEbd/4B
すでに5日ですが、明けましておめでとうございます。
>>240 >乾闥婆
悟りを分かろうとしてはいけないのですよ、
悟りは悟らなければならないのです、
人に「悟りとは何か?」と問うても、なんら解決しないのです。
だから、同じ物を読んでも悟る人と悟らない人がいる
己の問題だからなのです。
そんで、そのことを日蓮さんが悟っていたとは思えないんですよね
312 :
波木井坊竜尊@日蓮宗葵講@名前だけ仏所 ◆IByKs72gR2 :04/01/05 12:15 ID:lnb0F6N3
その”正統派ブッダ教”とは!?(藁)おまえのいう正統派ブッダ教とは親鸞会じゃあるまいな。(激藁)
幸福の科学とか。m(_ _)ノ彡☆バンバン、m(_ _)ノ彡☆バンバン、
俺は宗祖日蓮大聖人の後ろに座って虚空会に参加しているつもりでいる。
仏教には八万四千の法門があると言われている。どの門から入ろうが、
終着点は同じなのだ。
313 :
Sb ◆SbSGI7AtEA :04/01/05 15:40 ID:yuEbd/4B
>>312 はいはい、よかったね
じゃまだからほかいってね
禿げのひろしおじちゃん。そのズラをかしいでつよ。
>>312 なぜ仏教には八万四千の法門があると言われているのだ。
この答えははきりしてるぞ。答えてみろよ。
316 :
Sb ◆SbSGI7AtEA :04/01/05 18:18 ID:yuEbd/4B
>>270 わかっておりますよ。
しかし、あの程度で教学とは恐れ入谷の鬼子母神ですね
学会が、トンデモな解釈しているんだか、日蓮さんがそうなのかはわかりませんが
ともかく、彼は、自分達がぜんぜん駄目だってことをHPにして
世間に知らしめなくてもいいのにね
ある意味、凄いと思う
317 :
Sb ◆SbSGI7AtEA :04/01/05 18:22 ID:yuEbd/4B
>>311 >乾闥婆さん
ごめんなさい、さん付け忘れてた。
正月ボケってことで、ご勘弁を
>>312 >俺は宗祖日蓮大聖人の後ろに座って虚空会に参加しているつもりでいる。
>仏教には八万四千の法門があると言われている。どの門から入ろうが、
>終着点は同じなのだ。
さあどうかなあ??ならソウカもオンナジところに到達するんか??どうだあ?
もし到達するんなら今ごろどうしてこんなにソウカはカルト教じゃああつって
批判されるだけの現実的なソウカ洗脳教がはびこっとんねん。こら全然
ブ教ちゃうやろ、連中はほかの仏教の連中とは全然ちゃう場所にいるやろが。
どないだすねん???ここのテーマはこれとちゃうのんか???
仏教は基本的には諦観が基本だと思うぜ。悟りは諦観の一種だろ?というか
諦観が悟りに近いだろ。つまり幸福になるためにといって病気を治すのに
魔法を使うのが仏教かちゅうとんじゃ。どや。
仏教は簡単にいえばあきらめみたいなもんだろな。だがあきらめが徹底した
ところで悟りになる。病気もそこであがくんじゃなくて病気とひとつになる
ほど諦める。そうするとフシギなことにそれが極楽になるほど「宇宙の方」
から修証する。この宇宙はソウカの宇宙とちゃう宇宙やな。そこで奇跡が
おきてもええ。ただあがいて特化したマントラを崇拝してその魔術力にすがる
のがソウカの題目、オナーニマントラ教やな。こら水と油でどうでもこうでも
同じにゃならんで。
実存主義哲学の先駆者キェルケゴールは
「死に至る病」で死に至る病は絶望であると説いている。
絶望は自己が自己であることを望まない状態とあるが
これは諦観であり、解脱すなわち悟りであるのだろうか?
無我あるいは空の境地とはこのことをいうのだろうか?
終局的にはキェルケゴールは「絶望に対しての絶望」を説く、
諦観と絶望は違う意味なのだろうか?
諦めとは望みを一切絶つことと同義のようにも思える。
絶望に対してさえ絶望するのならばもはや絶望という概念すらない。
「絶望そのもの自身も含めて、あらゆることに絶望しなさい」と
説いているように思える。
諦観と同じようなことだと思ってしまうが、俺は「諦観」とはそれとは
違うと思う。物の在りのままの姿を自己の固定観念を一切捨て去って
より純粋でより無垢な心で以ってして観ようとする態度だと思う。
言語学には詳しくないのでよくはわからないが漢語と日本語とは
意味が違うし、サンスクリット語ともまた違う。
『諦』の字義はつまびらかにするまたは明らかにするとある。
『諦』は梵語の『satya』の訳であれば真理を意味する言葉である。
日本語の訓読みというのはある意味当て字であるから本来の
字義から遠ざかるものが少なくない。
「あきらめる」という読ませ方が普及してしまったから仕方ないが
諦観と関連させてしまうのは少し問題だと思う。
321 :
:04/01/05 23:21 ID:???
>>318 創価学会の教学は、禅門答・公案と同じ状況に陥っているから。
禅の公案って、Q&A方式で暗記してしまえば、
上辺だけは取り繕うことができるし、わかった気になれるのよ。
禅僧は、あれこれ言っても「本来無一物」で終わるわけで…
こんな感じで、創価学会の教学は上辺だけになってて、
そこに西洋哲学だなんだで説明してる。
もともと教学部の連中も、仏教学を学んでいないから、
仏教の基本的思考・論理を知らないんで、変な方向に行っちゃった(w
で、功徳を積んで幸福になろうなんて言っているわけ。
東洋哲学研究所の学者の研究が、教学に反映されれば、
少しはまともになるんだろうけど…
幸福になるために題目をあげるのは、間違いで、
何故なら幸福になりたいという思いこそ、我欲なのだから。
天台系は、我欲を否定するわけだし。
真言系なら、我欲を肯定して、一個人の小欲ではなく、
全人類の利益という大欲を抱け、となるんだけど。
322 :
波木井坊竜尊@日蓮宗葵講@名前だけ仏所 ◆IByKs72gR2 :04/01/05 23:27 ID:lnb0F6N3
実存主義哲学で”空”は理解できんよ。
出直してこいや。
>>321 一会員の研究者が論文書いても創価としては採用しないって本当ですか?
324 :
:04/01/05 23:44 ID:???
>>319 諦観っていうのかなあ? ちょっと違うように思うけど。
例えば「不殺生」は、人だけでなく、全ての動植物が対象。
で、人は自分以外のものに生かされていると痛感するわけ。
自分の命は、他者の命によって生かされている、
他者あっての自分なのだと思うわけ。
これを突き詰めていくと、自分の喜怒哀楽と他人の喜怒哀楽を
同じレベルで感じることができる…らしい(w
悟りの境地、無の境地ってのが、これだから。
ま、ここまで来れば、自分が利益を得ることだけでなく、
他人が利益を得るのも、また自分の幸福なのよ。
だから自分だけ〜とはならない。
他には、不二かな。苦楽一如は、苦楽が不二であるってこと。
苦しみも楽しみも同じことなのね。
だから病気になるのも功徳だったりする(w
ま、これが諦めってことなんだろうけど、病気になったことを、
健康に注意せよという御仏のお導きと受け止めるってことなのかな。
>幸福になるために題目をあげるのは、間違いで、
>何故なら幸福になりたいという思いこそ、我欲なのだから。
>天台系は、我欲を否定するわけだし。
ここの指摘は重要だな。天台宗が法華経一辺倒にならずに、
仏教徒らしい寛容性を維持しているのを説明している。
幸福とは執着の形態であり、それこそまさに「煩悩」による新たな
苦しみを生み出すということは、明らかだ。だとするなら、
法華経に異常に執着する層化の信仰そのものが、矛盾ということになる。
日蓮とは偏執狂者で、かなり偏った人間だろう。
326 :
波木井坊竜尊@日蓮宗葵講@名前だけ仏所 ◆IByKs72gR2 :04/01/05 23:46 ID:/PV3aQfT
他経が最勝王経ならそっちを採用していたね。
327 :
:04/01/05 23:56 ID:???
>>323 それは知らない。というか私的に関心があるところだけ調べてるだけだし。
でも創価学会の教学を否定するようなものだと駄目だろうから。
創価学会の教学と東洋哲学研究所の学者の学説は、ズレがあって、
なのにそのズレを修正しないでいるのが創価学会だから…
もともと仏教を、仏教学として学ぼうとすると、
必ず創価学会の教学のいい加減さにぶつからざるをえないしね。
ま、東洋哲学研究所の学者は、創価学会寄りの主張をしても、
学会から叩き出されないための対策はしているってことだね。
学者として、どうしても譲れない部分もあるだろうし。
創価学会の教学のように、我即宇宙(真言系っぽいけど、ここでは無視して)を、
原子論を引用して説明なんてしたら、それこそ学会でアホ呼ばわりされるし。
あ、ただの学会は、宗教学会とかのことね。
>>325 >法華経一辺倒にならずに
そもそも「経に執着する」ということが「仏教」だ!という考え方自体が、
”仏教”じゃないだろな。仏教はあらゆるものを越えた意識だろうからな。
となれば超越への帰合という意味でキリスト教の信仰とも通じるし、自己を捨てる
という意味での神秘主義とも通じるわけだよ。つまり最終的にはいわゆる”この世”
とのエンが切れることも含んでいるだろな。それはそれでとてもきれいで魅力的だな。
ところがカルトこの世執着教に陥れば、結局戦争も謀略も犯罪も目的のためなら許される、
悪は必要なんだから自分でもやるんだ、というオウム真理教と同じ宗教帝国主義思想に
なるわけだよな(これがホンカク思想だよね)。ソウカ的宗教がオウムも含めてこの世と
限りなく結託する限り執着の形態としてのカルトという構図もはっきりするよな感じが
するよ。
329 :
:04/01/06 00:21 ID:???
>>325 日蓮宗でも、法華経は最高の教えであって、
創価学会のように神格化・絶対視はしてないと思うけど。
釈尊は、伝えたいことを例え話で説明していって、
最後に哲学的に言いたいことを直接言ったわけ。
で、この最後のが、法華経なわけ。
天台教学はこの立場だし、日蓮はこれをより先鋭的に掲げただけだし。
というか例え話がないと、理解できないことって多いでしょ。
だから法華経を理解するには、他の経典を読まなければ無理なのよ。
日蓮宗は、こういう立場だよ。
でも創価学会は、他の経典を切り捨てる(w
>>321で禅の形骸に関して述べたけど、
日蓮は、こうした形骸化を批判して、禅天魔って言ったと思うのよ。
で、例え話じゃ、手段が目的になるみたいになってしまう。
釈尊が伝えたかったことをバーンと述べている法華経じゃないと、
もう駄目だ、となったんじゃないかなと。
だから今でも禅や念仏で救われる人もいるだろうし、
題目じゃないと駄目な人もいると思うよ。
結局、釈尊が色々と手変え品変え説法したのは、
人によって、どう説明されたら理解できるのかが違うからだと思う。
摩訶迦葉は、花を見ただけで悟ったわけだし。
>>327 お返事ありがとう。
なんか懐かしい感じがしました。(気のせいかもしれないですが)
331 :
:04/01/06 00:40 ID:???
>>328 自己を捨てるってのは、仏教じゃないでしょ。
>>324をまず読んで貰うとして、悟りの境地、無の境地ってのは、
自己と他者を同一視することだから(誤解されやすい表現かも)。
わかりにくいけど、0が無なのよ。ないということがあるわけ。
で、1,2,3…と覚えていくと、区別し始める。
たぶん0しか知らない状態と同じ境地が、無の境地なんだと思う。
これに習えば、自己と他者を区別する言葉を知らない状態と同じ状態が、
無の境地で、だから自己を捨てているんじゃないと思う。
創価学会の話なら、人権思想もおかしい。
仏教では人は一人一人違うわけ。で、その違いが大切で価値があるから、
金持ちだろうが貧乏人だろうが、どの人も大切だとなるだけ。
釈尊は、人は平等だなんて言ってない。ただどの人も大切だと言っているだけ。
だから大事にせよってなる。
でも創価学会の人権思想は、平等だなんだと、西洋の人権思想に取り憑かれてる(w
>>327 どこかで書き込みを目にしてるかも。
たま〜に書き込むので(w
332 :
:04/01/06 01:01 ID:???
仏音―最後の名僧10人が語る「生きる喜び」
http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/402257769X.html 高瀬広居は、創価学会を賞賛している箇所があり、シンパかも。
でも、名僧の一人、日蓮宗の久保田正文師は、
仏教は、現世利益なんか求めないとバッサリ(w
名僧が言うんだから間違いないと、権威主義的に(w
で、
>>321のこれだけど、
>幸福になるために題目をあげるのは、間違いで、
>何故なら幸福になりたいという思いこそ、我欲なのだから。
>天台系は、我欲を否定するわけだし。
>真言系なら、我欲を肯定して、一個人の小欲ではなく、
>全人類の利益という大欲を抱け、となるんだけど。
この天台系ってのは、天台宗から出た鎌倉新仏教も含む。
法然・親鸞・道元・日蓮らは、皆、この立場。
我欲を否定するから、我欲を抱く自分を否定することになって、
自分を悪人だ、愚禿だ、凡夫だ、と否定するわけ。
天台系は、自己と徹底して向き合い、自分を徹底して否定して、
ようやく悟りへの手がかりを掴むのよ。
でも創価学会員は、自分を凡夫だとは言わない、思わない(w
悟りとかなんとかってやっぱヒマなやつが考えることだよな。
オナニーは気持ちがいいね。
334 :
たま:04/01/06 08:56 ID:???
なんとも馨しいかほりがするにゃ♪
あたかも七面天女さまが舞降りたみたいにゃ(笑)
335 :
Sb ◆SbSGI7AtEA :04/01/06 12:07 ID:j+hWref0
>>319 まだまだだね、もう一寸勉強したほうがいい
そうすれば心強いアンチになれる、がんばって欲しいです
仏教はあきらめじゃないよ
漢字だけの意味で捉えても見えてこないよ
>>321 禅問答の意味が間違えてる、まぁ、今の坊さんでも
わかっているとは思えない人もいるけどね
覚えたってしょうがないんだよ、悟らなきゃ
問いがあり、答えがある、でその間にあるものが見えてこなければ
日蓮さんが禅天魔っていったのはそこが見えてなかったんだろうね
まぁ、確かに学会の教学はその間にあるものなどどうでもいいみたいだけどね
その間のものに目がいったら、不立文字、文外教伝になって、天魔になっちゃうか
はははは
だから学会は駄目なんだけどね
336 :
乾闥婆:04/01/06 12:51 ID:???
>>311 Sbさん。
>悟りを分かろうとしてはいけないのですよ、
悟りは悟らなければならないのです、
人に「悟りとは何か?」と問うても、なんら解決しないのです。
とはいえ、このような掲示板で話を進める以上、言葉を用いなければ、そもそ
もここでその話をする意味もないわけです。ちなみに日蓮も「但仏界計りは現
じ難し」(観心本尊抄)といって説明しがたいものであるとしています。
337 :
乾闥婆:04/01/06 12:52 ID:???
>>311(続き)
そこで『岩波仏教辞典』から「悟り」の項目を引用してみます。
「真理(法)に目覚めること。迷いの反対。悟りは仏教の究極目的であり、悟
るためにさまざまな修行が説かれ実践される。悟りは智慧を本質として成立す
る。凡夫は煩悩に左右されて迷いの生存を繰り返し、輪廻を続けている。それ
は何事にも分別の心をもってし、分析的に納得しようとする結果である。そこ
で輪廻の迷いから智慧の力によって解脱しなければならないが、それは事物を
如実に洞察することである。すなわち真理を悟ることである。
(中略)
悟りの境地は<涅槃>といい、<寂静>と意訳される。煩悩を抑制してとらわ
れのない心の静けさである。それは真理そのものの世界であるから、<真如>
<法界><如来蔵>とも呼ばれる。また、悟りを求める心を<菩提心>という。
悟りを求める点で小乗も大乗も共通であるが、自分の悟りを追及する小乗の場
合、声聞は四諦の教えを聞いて修行し、縁覚は十二因縁を覚ってそれぞれ解脱
するが、大乗では自分の悟りは他人の悟りと同時に成立するという立場から、
六波羅蜜行を実践する菩薩のあり方を強調する。菩薩とは、悟りを求めて目
下修行中の者という意味である。悟りは固定した状態を想起しがちであるが、
それは悟りということに執われた妄想である。悟りの行は、自利と利他の両面
を願って行動し続けることである」
大乗よりに書かれたものではありますが、一応定義としてはこのようになると
思います。日蓮については「悟りの行は、自利と利他の両面を願って行動し続
けることである」という線において理解するべきではないかと思います。
338 :
乾闥婆:04/01/06 12:54 ID:???
>>265-266 お邪魔しますさん。
>学会の説明だと、悟る前の人は仏法を表す宇宙の大きな円から外に出ているんですよね。
日蓮はそのように言わないと思います。観心本尊抄に「我等が己心の釈尊は五
百塵点乃至所顕の三身にして無始の古仏なり」とあります。彼は仏界といった
ものが自分の外にあるという考え方を嫌います。日蓮にとってそれはあくまで
「己心」の問題であるはずです。創価学会の説明が変なのでしょう。
>>294 >日々自分の心を洞察して貪瞋癡の三毒を抑制することを求める行為が大切だと思う。
自分がそれをせず、人々の救済や、因果、一念三千を説いても何になるか。
先に「岩波仏教辞典」から「悟り」の項目を引用しました。読んでみて下さい。
>>305 >日蓮は人が存在する悩み、苦しみを知らないのではないか。自分が存在するための悩みや
苦しみを知らないため、文字の上だけの解決を求め、それで「良し」としてしまった。そ
のため悟りを求めず、仏教各派の思想、主張などの優劣とか、思想が浅い深いなどを選択
するという、本質的なものから離れた方向に向かってしまったと見ている。
日蓮は「末法」に「正しい仏法」が広まれば人々の悩みや苦しみは解消される
と信じていたのでしょうから、その批判は見当違いでしょう。
339 :
Sb ◆SbSGI7AtEA :04/01/06 16:00 ID:j+hWref0
>>337 書かれているものは悟りではないのです。
悟って始めて悟りなのです。
それと、その答えに対しての答えを出す心構えがありますでしょうか?
「悟りとは何か」の答えはそのまま問いになるのです。
おわかりでしょうか、
>>311はひとつの答えであり、
問いなのです。
340 :
乾闥婆:04/01/06 17:17 ID:???
>>339 Sbさん。
>書かれているものは悟りではないのです。
悟りそのものではなくとも悟りについての説明です。悟りについて表現できな
いのでしたら掲示板上において悟りをめぐってなんの話をするのですか? 悟
りそのものではなくともその沿革なり概念を提示し得ないのでしたら、そのあ
なたの悟りを抱いてあなたは沈黙されるべきではないでしょうか。
>それと、その答えに対しての答えを出す心構えがありますでしょうか?
私は悟りそのものへの関心がありません。正直なところのそのような言葉を振
り回すことに胡散臭いものを感じております。「事物を如実に洞察する」で充分
であり、それを悟りと呼んでもかまいませんが、呼び方などどうでもいいと思
っています。ただ意味不明の「悟り」を振り回して、悟りは表現し得ないけれ
ど、日蓮は悟っていない、といった発言をされるのはどうかと思われます。表
現できないけれどあれは違う、それではなにをいっているのか分かりません。
なにかを違うといわれるのでしたら、悟りそのものではなくとも、その概念を
語って下さい。
341 :
Sb ◆SbSGI7AtEA :04/01/06 18:06 ID:j+hWref0
>>340 >乾闥婆さん
悟りに関心がなければ、悟りとは何かという問いは愚問になってしまいます。
私の悟りを提示しても、何の意味もない、また、お邪魔しますさんの悟りもです。
自分の悟りは自分にしか説明のしようが無い
また、私を胡散臭く感じたように、伝わらない
そして、概念で捉えた悟りは悟りではないのです
どんな説明をしたとしても、乾闥婆さんが悟らなければ意味が無いのです。
ただ、悟ったからといって、何が変わるわけでもありませんけどね
悟りそのものでしたら、禅書にいくらでも載っています
また、法華経でも、御書でも悟れるでしょう
私の書き込みからも悟ることは出来るのかもしれません
悟りはわかるものではないのです、そのまま、悟るものなのです
わからないものなのです。
342 :
乾闥婆:04/01/06 20:07 ID:???
>>341 Sbさん。
>悟りに関心がなければ、悟りとは何かという問いは愚問になってしまいます。
そんなことはありません。私は「悟り」についてSbさんやお邪魔しますさん
と話しているのですから。Sbさんたちが「悟り」をどう考えているのか、そ
れは例えば私が引用した辞書の定義とどう違うのか、あるいは同じであるのか、
そのことを知ることは話を進めてゆく上で必要なことだと思います。
>自分の悟りは自分にしか説明のしようが無い
その言い方ですと、つまり日蓮の悟りは日蓮にしか分からないということにな
りませんでしょうか。それでは日蓮は悟っていないという批判自体ができなく
なります。
>そして、概念で捉えた悟りは悟りではないのです
例えばです、私が「事物を如実に洞察する」ことを悟りといったところで、そ
の如実に見られたものがどのようなものかはやはり説明不可能なのです。しか
し「事物を如実に洞察する」といった説明はできるわけです。事象は言語によ
る分節化に過ぎないということをそのままに受け止める、というような言い方
も以前お邪魔しますさんにしたことがあります。それとて言語によって分節化
された世界そのものについて私は語りようがありません。でも概念として語る
ことはできるのです。そのような部分について、あなたに語ってもらいたいの
です。そうでなければ日蓮は悟っていないといわれてもよく分からないのです。
343 :
ひゃっきまる ◆SOUL49VucA :04/01/06 22:26 ID:vw7KTgWu
>乾さん
お邪魔しますさんや、Sbさんは、「議論として筋が通っていない」のはおそらく承知の上
だと思います(違っていたらゴメンナサイ)。「私はこう思った、思っている」というやり
とりだけがしたいのでは・・・。
お互いの「こう思った」をぶつけ、どちらが正しいか、という答えを出すであれば、乾さん
が今そうしようとしているように、きちんとした筋道を立て、確かな知識を用いなければなり
ませんが、どちらかと言うと、ここにはそういう人は少ないでしょう。
僕は「私はこう思った、思っている」だけのやりとりではあまり意味がないだろうと考え
るタイプの人間ですが、もし相手が本格的な議論を望んでいないのであれば、無理強いする
ことはないだろうと思います。
「私はこう思った、思っている」に対しては、「私は違う考えを持っている。なぜなら
・・・」程度でよいと思います。
結局我々は凡夫ですし、誰も確かな答えなど得られないのですから、どちらが正当だと
言い合い続けるのは疲労の割には得るものが少ないと思います。
誤解されたかもしれませんが、乾さんが自分の考えの根拠の提示や説明をすることがいけ
ないと言っているわけではありません。むしろそれはこのような場において一番重要な事です。
なんだかごにょごにょと曖昧なことばかり言ってしまいましたが、意を汲み取ってもらえ
たらと思います。
344 :
乾闥婆:04/01/06 23:24 ID:???
>>343 ひゃっきまるさん。
ご指摘ありがとうございます。
おっしゃること、よく分かります。そのようなことを考えて引退したはずなの
ですが、少し時間をおいてからあらためて顔を出してみると、結局かつてと同
じような自分があり、どんどん熱くなってしまいました。
少しあいだをおいて自分の気持ちを冷ましたいと思います。
Sbさん、お邪魔しますさん、春田の蛙さん、済みませんでした。
345 :
名無しさん@お腹いっぱい。:04/01/07 00:59 ID:NEF6tUxf
ペテン師、詐欺師、ねずみ講。非生産的な彼らの手口と共通点は。
346 :
名無しさん@お腹いっぱい。:04/01/07 01:09 ID:NEF6tUxf
馬鹿を集め、または骨抜きにしておいて、
そこにアイドルをもってくる。それを崇拝させる。
共産党にもそれがいえる。
自己判断ができない、ただの頭数でしかない
人民、信徒のままでいいのか。
そんな弱い人間に、権利はあるのだろうか。
君らは生産的か?
>>344 自分の望んでいるような答えが欲しいというわけじゃないのだろうね?
それはやはり「日蓮は悟っていないとは」に対する具体的な回答が欲しかったということなのか?
かなり1つの言葉に拘る意味がよくはわからないんだけど誰もが使っている
言葉というのは実はそれぞれの人ごとにまったく寸分違わない同じことを意味しないし、
年齢、性別、状況、状態、その他諸々で微妙に違うし、同じ人でもその時々で違うのだから
その人の言いたい大意というか本意を文章全体から相手の立場を踏まえたうえで
解釈しないと実のある会話として成立しないことが多々あるんじゃないかと思うんだよね。
特に「悟り」に関してはそれぞれの人ごとに違い何万・何億いやそれ以上の解釈があると思う。
俺は「悟り」とは境地や境涯であるがそれは言葉で充分に示せるようなものではないという考えに近い。
実は誰もが「悟りを得たと言ってもそれは構わないと思うんだよね。
しかし、仏と同じ「悟り」を得たとか言うのだったらそれは別なんだけどね。
要は「悟り」は人だけに限るものでもなく畜生にも畜生なりの「悟り」があっても構わないし、
その人が悟ったと思っても、それ以後にそれ以上の「悟り」を得たと思ってもいいわけだし、
仏の得た「悟り」よりもさらにそれ以上に優れた「悟り」が無数にあってもいいと思う。
だけど「悟り」には差別など何もないと思う。
ある人をみて、「この人は悟っている」とか「悟っていない」。あるいはそれは「この人は優れている」
とか「劣っている」とかいうことを示すことになるんだろうけど、そんなことを思うのはそれぞれの人の勝手だと思う。
こう思わなければいけないというのが誰にもあるのだろうけど人の自由意志を何とかしようとして
制限を加えようと意図したとしてもあまり意味のあることのようには思わない。
348 :
名無しさん@お腹いっぱい。:04/01/07 05:33 ID:sE7lzE9w
悪いか悪くないかは各個人が自分の
責任でもって決めていいことですが、
正しいか正しくないか、つまりは
どこまでが事実で、どこまでが嘘かは、
社会全体のことですからね。
大した根拠もないのに、あまり声高に
人前で叫ばれても、それは迷惑なだけです。
それだけでも十分、他人への侵害ですよ。
だから私らは、その根拠はなんだといってるだけです。笑
349 :
お邪魔します ◆nH2G.RjIE2 :04/01/07 08:28 ID:lwZ4DSTM
>どんな説明をしたとしても、乾闥婆さんが悟らなければ意味が無いのです。
リンゴを食べたことのない人に、シャキシャキしていてすこし酸味があり、芯のところ
に蜜が集まってそこは特に甘い、と説明しても、リンゴの味そのものは伝えられないん
のです。それよりもリンゴを一口かじって貰えば、たちどころに全て分かります。悟り
が伝えにくいのもそれが感覚、または名人芸的な物事の捉え方の技術みたいなもので、
実際に実行して会得して貰わなくてはならないものだからです。
強いて言えば映画のマトリックスで描いている、現実世界は仮の世界であり、この世界は
ダンマ(法・映画ではコンピューターのプログラム)が支配している事を理解するようなも
のですね。
道元は人を悟りに導く前に、自分で実際に悟った。親鸞は人を救う前に、僧侶が妻帯すると
いうとてつもない破戒をした自分でも、法然の教えで救われることを示した。日蓮は物事の道
理を悟って即身成仏出来ることを、示してくれただろうか。
去年の11月末に千葉の清澄山で30人ほどのハイカーが遭難してしまった。リーダーは新
ハイキングのメンバーでかなりのベテランであった。現地の詳しい地図や、事前にガイドブッ
ク等でコースを調べていたが、実際は雨で登山道が崩壊していたり、地図には載っていない地
元の人が使用する山道が交錯していたりで、道を見失い谷に降りてしまったのが原因でした。
県山岳連盟の佐久間勉副会長が「今回のような下見をしないで登山することはどうしようもな
いこと」と述べている。
350 :
お邪魔します ◆nH2G.RjIE2 :04/01/07 08:31 ID:lwZ4DSTM
これと同じで、自分が悟りもせず、経典や論書で作り上げた理論で人を導けるか。理論と実
際が食い違った場合、対応できるだろうか。自分が悩んだり苦しんだりしたことのない人が、
人々を本当に救えるだろうか。理論を振りかざし、治らないのは理論を正確に理解していない
せいにして、人の苦しみを救わず、理論を押し付けていないだろうか。
たとえ悟りをえなくても瞑想などで自分の心の動きを感知し、自分の内にある煩悩や我執など
を見つめている人は、ある人に会って話ししたり、ある人の書物を読んでは、その人が悟りを得
ているかいないかがわかる。また、人と話して見ると、その人の心が透けて見え、その人の慢心、
偏見、執著するものが見える。金、地位、肩書、権力、名声、めんつ、見栄、我欲、家の決まり、
我見、思想、宗教、などに執着しているのが分かる。作為、詐術、はからい、などをしようとし
ているのも、見えてくる。たとえばゴルフで50を切れない人でも、プロの試合を見て技のすご
さが分かるようなものです。
悟りを得れば何が変わるかというと、朝起きて服を着て、ご飯を食べてトイレに行くことです。
あたり前のことが、当たり前として実感でき行動できることなのです。
日蓮が立正安国論で、地震や大火、干魃、飢饉、疫病などが、法然が念仏を説いたためであると
か、国を治める人が法華経に帰依しないと、内乱や外国からの侵略が起きる等と、説かなくなると言
うことです。
351 :
Sb ◆SbSGI7AtEA :04/01/07 09:55 ID:Y/6clXJm
>>342 >乾闥婆さん
それでは違うものになってしまうのです。
悟りの外側を見ても悟りではないのです。
そして、自分の悟りを語ったとしても、
それは悟りによって脳が反応して見せた幻想に過ぎない
私は幻想を話すことによって、間違ったものを伝えていいとは思えないのです。
教科書を読んで勉強すれば、必ず悟れる、というものではないのです
それから、私は十分私の悟りを語っています。
もちろん、小悟の端しか見えていない悟りですがね
私がなぜ「日蓮さんが悟ってなかったのでは」と思うようになったかというと
悟りに目を向けて、その片鱗に触れたあと、あまりにも小さく見えたからです。
悟ってなおそのように導いたのかとも考えましたが、それでも思慮が浅い
なぜ、執着させる道へ導いたのか、
排他的になることへのデメリットをどうして見抜けなかったのか、
どうして、多くの信者に呪いを行わせるような教えを説いたのか
悟りの概要というのなら、般若心経で十分だと思います。
あの短い経には、悟りも、仏も、世界も、全部書いてありますから
352 :
Sb ◆SbSGI7AtEA :04/01/07 10:13 ID:Y/6clXJm
>>343 >ひゃっきまるさん
>「議論として筋が通っていない」のはおそらく承知の上
これは私はそうです。でも
>「私はこう思った、思っている」というやりとりだけがしたいのでは
ではないです。
悟りに関してはそれ以上踏み込んでいいと思えないからです。
違うものを記しても意味が無いのです。
それから、私にとって乾闥婆さんとのやり取りは
私の持っているCDを「それはどんな感じ?」と聞かれて
「聞いてみなよ?」と返したことに対して
「感想と、CDを見せてくれればいい」といわれたようなもの
実際借りるなり買うなり、ラジオ、テレビ等で、聞かなければ
そのCDがわかるとは思えない
聞くということが見るでも嗅ぐでも触るでもないように
悟るということはわかるではないのです
お邪魔しますさんがもっと詳しく書いてくれているので
353 :
お邪魔します ◆nH2G.RjIE2 :04/01/07 10:17 ID:2VKyuIZA
Sbさん今日は、なんか二人とも見放されたみたいですね。
悟りというのは自ら体験するもので、悟りという理論があるわけでない
と言うのが分からないみたいね。ブッダもなくなるとき自燈明、法燈明
と言って、法を守るのと同時に自分を見つめることを説いているけど、
日蓮系はこれをやっていない。
般若心経で全ては空であり、不であり、無であると説いている。以前
私はこれを具体的に。「柳は緑 花は紅」から柳・緑・花・紅を取り除
いたら何が残るか考えてごらんと言ったのだが、通じなかったらしい。
どうしても、言葉、文字から離れられないのだろうな。
1さんへ。
大有りで有る。
仏教は釈迦牟尼から始まったと言うが大聖人から始まっているんだ。
宇宙の流れから言って釈尊の時に戻ったと言う事が解かるかね?
356 :
Sb ◆SbSGI7AtEA :04/01/07 17:47 ID:Y/6clXJm
>>355 >jyaru-jyaさん
御伽噺はどうでもいいんだよね
日蓮仏法はそれでいいかもね
別にそれで満足している人にそれ以上を押し付けようとは思わないよ
がんばってね!
>355
そのうち仏教は逝け駄から始まったとか創価あたりはいいだすんだろうなあ
「宇宙の流れ」なんてまた誇大妄想が始まったとしか思えないぜ
これだから狂信者は(以下略)
358 :
タルポ ◆ZASG3OSkLQ :04/01/07 19:31 ID:FVPyPF3U
>357
いやいや、この方は日蓮宗さんみたいですよ。(創価学会は日蓮正宗)
「私、脱会しました」スレにいらしたので、こちらに誘導しました。
359 :
ひゃっきまる:04/01/07 19:31 ID:bb6NDXBt
僕は日蓮が仏教徒として正統だとも思いません。
また、日蓮の起こした宗教が仏教ではない、と言われればそうかもしれないと思います。
また、日蓮の教義を未だに真実として疑わない信仰者は狂信的な一面があると思います。
しかし、日蓮は立派な仏教徒であった、とも思います。
また、日蓮の起こした宗教はやはり仏教であるとも思います。
また、現代の日蓮の信仰者の中には、信仰故に尊敬できる人間がたくさんいることを知っています。
日蓮の事をよく知らずに日蓮を批判する人の批判には説得力がありません。
ただ感情はよく見えます。
360 :
乾闥婆:04/01/08 00:44 ID:???
>>349 お邪魔しますさん。
リンゴを食べたことのない人に、リンゴの味そのものは伝えられないように、
日蓮というリンゴを食べたことのない人に、その味を伝えることはできない、
と言えるかもしれませんね。授持即観心といっても、あなたには分からないこ
となのでしょう。あなたのいう悟りがその当人しか分からないものであるなら
ば日蓮の悟りもまた本人しか分からないものになるのでしょうから、それをと
やかく言うのはやめたらいかがでしょうか。ひとつ言えることは念仏が流布し
ようが国が法華経に帰依しなかろうが、災害など起きませんのでご安心下さい。
日蓮が現代に生きていたら当然そんな主張はしないでしょう。
>>353 >「柳は緑 花は紅」から柳・緑・花・紅を取り除いたら何が残るか考えてごらんと言ったのだが、通じなかったらしい。
どうしても、言葉、文字から離れられないのだろうな。
私はあなたが言葉のない世界に行ったまま廃人となって戻って来られなくなる
ことがないように祈っております。言葉・文字から離れて生きていられるとい
う妄想に執着している悟られたお方。お幸せに。
361 :
乾闥婆:04/01/08 00:45 ID:???
>>351 Sbさん。
ひとつ言いたいのは、悟りについて定義することを拒否するならば、あれは悟
っている、あれは悟っていない、といった判断を下して悦に入ることをやめて
欲しいということです。そういう判断を下すということは、あなたのいう悟り
に反すのではないでしょうか。自分の下している判断に対する執着が相当に混
じっていますからね。日蓮に似ているとさえ言えるのかもしれませんね。私な
んかはそんな悟りは意に介しませんので、平気ですが。日蓮も結局自分の信じ
た法こそが末法に唯一有効な正法であると確信してしまったために、それに全
身全霊を投げかけてしまったのでしょう。そこにはある意味で自身に対する執
着はなくなってしまっているのですがね。あなたにそれほどの命がけの自己投
企があるのでしたら、たいしたものだと思います。まあ日蓮を見て、小さく見
える、思慮が浅い、デメリットが見抜けない、などといった評しかできないの
ですから、日蓮の気持ちなど分からないんでしょうけれど。思慮したりデメリ
ットを見抜いたりして自身の信じた法を曲げるのであったら、それこそ自己へ
の執着から自己保身へと走ったということになるのでしょうね。あなたのいう
とおり、あなたの悟りはあなたしか分からないように、日蓮の悟りはあなたに
は分からないのでしょう。分からないことには沈黙するのが、あなたの悟りに
従った筋道といえるのではないでしょうか。
>>352 Sbさん。
そのたとえは変ですね。私も同じようにたとえてみましょうか。
私が日蓮というCDを聴いていたら、Sbさんが「そんなもの音楽じゃないよ」
と言いました。「はあ? じゃあ、君の言っている音楽ってどんなもの?」と
私は訊きました。「そんなこと説明できないが、ともかくそれは音楽じゃない
んだ」とSbさんは言いました。「はあ? それじゃなんのことかさっぱり分か
らないよ」と私は言いました。しかしSbさんは日蓮というCDから流れる音
はともかく音楽じゃないのだ、そして音楽ということは説明できないのだ、と
言い張りました。
まあ、そんなところでしょうか。
362 :
乾闥婆:04/01/08 00:46 ID:???
>ひゃっきまるさん。
ご心配いただいたのに結局書き込んでしまいました。
適当なところで手を引きます。
363 :
お邪魔します ◆nH2G.RjIE2 :04/01/08 00:58 ID:gzOhHzcx
>>:乾闥婆 さんへ
「至理は名無し聖人理を観じて万物に名を付くる時・因果倶時・不思議
の一法之れ有り之を名けて妙法蓮華と為す此の妙法蓮華の一法に十界三
千の諸法を具足して闕減無し之を修行する者は仏因・仏果・同時に之を
得るなり」
「当体義抄」
――妙法の至理には、もともと名はなかったが、聖人がこの理を観じて
万物に名をつけるとき、因果倶時の不思議な一法があり、これを名づけて
妙法蓮華と称したのである。この妙法蓮華の一法に十界三千の一切法を具
足して一法も欠けるところがない。よってこの妙法蓮華経を修行する者は、
仏になる因行と果徳とを同時に得るのである――
ここにあるように、釈迦の体得した法はもともと名付けようがなかったものなのです。
364 :
乾闥婆:04/01/08 06:52 ID:???
>>363 お邪魔しますさん。
>ここにあるように、釈迦の体得した法はもともと名付けようがなかったものなのです。
そうではなくて、名付けをもってはじめてすべてがはじまるということではな
いでしょうか。「聖人理を観じて万物に名を付くる時・因果倶時・不思議の一
法之れ有り」とはそういうことでは。
365 :
お邪魔します ◆nH2G.RjIE2 :04/01/08 07:59 ID:k4RT4hGE
「妙法の至理には、もともと名はなかったが」これを法・ダンマ・妙法蓮華
と名前を付けた時点で、全体を表せず限定されたものになってしまうのです。
わたしもSbさんもそれを恐れて言い表さないのです。
初期仏典で経典を文字で表さず、口承で伝えたのは相手と直に向かいあうことに
よって文字で言い表せないことを、直接伝える事が出来る(これを面授という)
ためであると思っています。
366 :
Sb ◆SbSGI7AtEA :04/01/08 10:36 ID:2wvFblYl
>>359 >ひゃっきまるさん
私も、そう思っています
ただ、狂信的な信徒を多くしてしまう教えをしてしまったことに
疑問がわくのです。
>>361 >乾闥婆さん
その状況でしたら、「このCDって、音程外れてない?」
「そんなことないよ」
「そうかなぁ、なんか外れてる気がするから嫌いだな」
ってかんじですね
(小室哲也プロデュースのCDって何であんなに音程外れているのだろうと・・・
で、何で売れてたんだろうと、関係ないけど)
367 :
Sb ◆SbSGI7AtEA :04/01/08 11:26 ID:2wvFblYl
>>361 >乾闥婆さん
拈華微笑という言葉をご存知でしょうか
なぜ、釈迦は拈華のみで、法を伝えようとしたのか
なぜ、迦葉だけが微笑したのか
なぜ、微笑した迦葉に法を伝えたのか
二人は悦に入っていたのか
なぜ、ダイバダッタではなく、迦葉だったのか
私には日蓮さんの行動、言葉、教えに拈華を感じられない
だから微笑しない、できないのです
悟りは伝わらないが、伝わっている
はじめから、伝わっていることを悟らなければ
伝わらない
法も仏心もまた同じです。
368 :
お邪魔します ◆nH2G.RjIE2 :04/01/08 13:18 ID:rmmlyIGE
Sbさん、乾闥婆さんは仏教の根本をなしている、無分別智が分からないのでは
ないかな。日蓮さんも分からないから正邪・善悪の二元論的解釈で仏教を捉えて
しまったんじゃないか。でもこの無分別(ふんべつじゃないよ、ぶんべつだよ。
ある一つのものを、他のものと区別すること)を理解しないと悟りも空も分から
ないし、ブッダの教えの大切な部分が抜け落ちてしまう。
だから日蓮の教えが一神教やバラモン教に似ているのは、そのためだと睨んで
いる。でも御書ではちゃんと書いてあるんだよね。結局リンゴは囓らないと分か
らないし、CDは聞いてみないとその曲を理解したとは言えないんだけど、どう
して乾闥婆さんには伝わらないのだろ。
369 :
Sb ◆SbSGI7AtEA :04/01/08 13:35 ID:2wvFblYl
>>368 >お邪魔します
そんなに悲観するものでもないでしょう
最初から伝わっているんですから
私にはここでの縁だけで、ありがたいのです。
370 :
jyaru-jya:04/01/08 17:34 ID:JFWu4Jgo
堤婆達多と言う男をご存知か?
その男とは今でゆう池田大作。
>>359 日蓮は仏教徒ではない
麻原と池田が仏教徒でないことに然り
日蓮の起こした宗教が仏教ではない
オウム真理教と創価学会が仏教でないことに然り
日蓮の教義を未だに真実として疑わない信仰者は狂信者
日蓮の信仰者の中には、信仰故に尊敬できる人間がたくさんいる
狂信者を尊敬できる人間は尊敬できない
釈迦の真意を日蓮は悟ってはいない
釈迦の思想は排他的ではない
また誹謗することを釈迦はしない
日蓮を信ずる者がいるとすればそれは智慧無き理性を持つ者だ
猿の王が湖に映された月をみて、大変だ月が湖の底に落ちている
それで月を湖の底からあげようと思い猿の一族を引き連れ湖の両端の
木から湖面の上で一繋がりとなり、すくいあげよとしたところ全ての
猿が湖に落下して溺れ死んだ故事に等しい
己のみが正しいと信じることは他者には正しいものがいないということ
それはどの他者にとっては己が正しくないことを意味するに過ぎない
他者を認めぬ者は己が認められるようなことはありえないのだ
日蓮はただの思い込みの激しい狂信者である
己のみを信じ、釈迦および仏教自体を信じていない
だから日蓮の説く教えは仏教ではない
>>368 無分別智がどういうものか、あんたは理解しているということか?
>>372 理解できているなどということは100%ありますまい。
>>373 でも、あのレスは理解しているという書き方だよ。
プヒ〜(君の立場になれば君が正しい 僕の立場になれば僕が正しい)
Sbやお邪魔は「俺らはわかっているが奴はわかってない」と本気で思っているようなので、イタイ。
378 :
ひゃっきまる ◆SOUL49VucA :04/01/08 20:57 ID:zqOC0dcG
最近肩凝りが激しくて困ってます。
379 :
乾闥婆:04/01/08 21:53 ID:???
>>365 お邪魔しますさん。
>名前を付けた時点で、全体を表せず限定されたものになってしまうのです。
それは逆ですよ。言語による分節化がなければそもそも全体もなにもないでし
ょう。全体であるとか、部分であるとかといった概念が生じるのは言語世界に
生きているからなのではないでしょうか。
>初期仏典で経典を文字で表さず、口承で伝えたのは相手と直に向かいあうことに
よって文字で言い表せないことを、直接伝える事が出来る(これを面授という)
ためであると思っています。
口承であるならばそれは言語ですよね。分かりますか。言語でない世界は伝え
ようがありませんよ。しかし仏教は成立し教団は形成され広まったのでしょう。
言語によって伝えたのです。
380 :
乾闥婆:04/01/08 21:54 ID:???
>>367 Sbさん。
>拈華微笑という言葉をご存知でしょうか
伝説のようなものですね。おそらく禅の姿勢は良く伝えているのでしょうね。
禅の成立には都合のいいお話でしょう。私は災害や苦難に陥っている民衆の前
でそんな茶番をやっている人たちがいたら、それは悦に入っているのだと思い
ます。
>私には日蓮さんの行動、言葉、教えに拈華を感じられない
だから微笑しない、できないのです
もちろん日蓮はそような伝説とは無縁のところにいたでしょう。
381 :
乾闥婆:04/01/08 21:56 ID:???
>>368 >乾闥婆さんは仏教の根本をなしている、無分別智が分からないのではないかな。
悟りの境地のようなものを言語のない世界へ還元してしまっているあなたの方
が分別を行ってしまっていると思います。私がいっていることは言語によって
成立しているこの世界をそのままに受け止めようということです。それが私の
「如実に見る」ということです。しかしあなたは言語のない世界を夢想し、そ
れを言語世界と区別し、言語世界を見下している。しかしそのような分別を行
って夢想し執着している言語のない世界など、なんの役にも立たない戯言の世
界なのだと思うのです。何度も繰り返しいっているのにあなたはそのことを全
然理解していない。私は言語を実体視しない、だから世界も実体視しない。し
かしあなたは言語のない世界をおそらく実体視している。そんなものは、ない、
と知るべきです。
382 :
乾闥婆:04/01/08 22:04 ID:???
>Sbさん。
申し訳ありません。
>>380 は言い過ぎでした。
禅については私はまだ不勉強で、しかし強い関心は持っています。
いずれその周辺の本も読むつもりです。おそらく好きになると思います。
『正法眼蔵』は買って持っているのですが、まだ読んでいません。
>>381 >しかしそのような分別を行って夢想し執着している言語のない世界など、
>なんの役にも立たない戯言の世界なのだと思うのです
何?なんだなんだ?藻前が無分別知を体得しているのならそういう言葉は
出て来ないはずだがな。
なんだ、それとも何か?藻前が知りもしない、体得もしたらんくせに
夢想して勝手に「無分別知」をバカにして見下しているわけじゃないか。
よくそれで言語世界をバカにしてとか言えるよな。もう少し自分をありの
ままに知らなけりゃだめだぜ(ww
無分別知を知るものは言語世界をバカにしているわけじゃない。
言語世界で生まれる誤謬の意味を知っているということに過ぎない。
言語世界をありのままに知ろうとするなら、やはり無分別知を知らなければ
ならない。最もニチレンの世界しか知らない奴には禅の価値も意味もおそらく
は決してわからんだろうよ。それほどにニチレン教は罪深いということ。
>>382 道元の正法眼蔵はニチレン教の信者にはとても「面白くない」ものだろうよ。
禅というものをわけのわからないもの、という認識でいればそれには興味も
わかないし、禅というスタンスがナンなのかもわからない。その価値も無価値
に見えるはずだと思うよ。
特に道元の言葉は漢文の薀蓄がわからないと特に面白くない。俺も正直漢文の
ところは面白くない。それに禅の体験がなければ道元の言葉も全部それこそ
「言葉だけの世界」だと短絡することになろう。
ニチレンのように魔術教がよければそれが藻前らニチレン教徒にはお似合いだ
ぜ。「ニチレン教徒」だけは、「他教徒や禅人」とは違う人種なのさ。
所詮は水と油で絶対に理解し合うことのできない区分けがここにあることを
どっちの世界の人間もよく認識しておくべきだと、おれなんかは思うぜ。
どうだあ?>ニチレン魔術教徒の中の見識ある人間はよ(w
ニチレン教徒は所詮は感覚教徒、体感教徒だと思うね。
霊的インピレーションとか神の啓示とかそういう高級な感覚とは別の、
動物的で体感的な感覚で生きていると思っていいよな>ニチレン教徒どもよ、
どうだよなあ。
題目マントラ教だけは魔界の”ヤク”教だからなあ。マア実はそれも全部
神経の刺激というもので、宗教にするべきものじゃなかったってことなんだ
がな。ニチレンだのの思い込み宗教が、内分泌神経体感感覚を、得体の知れ
ない魔術魔法宗教にしちまって完全にDQNで逝っちまったってのが真相
だろ?>ニチレン教徒よう?どうだあ?なあ。
>>385 >霊的インピレーションとか神の啓示とかそういう高級な感覚とは別の
・・・それって高級なのか??
なぜ「魔術魔法宗教」というのかといえば、
道元は禅をといても何か書いておいてこれを拝めばいいことがある、などと
言わなかったし、禅で体感があってもそれを神にして拝んだりはしなかった
ということだよな。そして特定の文句や言葉を「崇めて」それに崇拝したり
ご本尊にしたりしかったってことだ。
法然だの親鸞だのの念仏の観念てのもどっかの誰かも言っていたが、その
言葉が大事なのじゃなくてそれが精神のあり方持ち方として説いている点が
ニチレンのマントラ教と全然異なる。
独り日蓮だけが特別の言葉だの名前だのという魔術教の教えを強調して奉じて
いる。それはあのもともとの疑問とやらだといわれている天台真言の呪文で
祈ったのにイクサに負けたのは何故か?などというアホな問題意識の根源に
あった真言的信念が根底にあったからだろう。ニチレンは天台でも天台真言宗
の僧侶として名簿にも記載されていたというから、彼には元々魔術教としての
言葉、呪文への執着が非常に強かったと考えられよう。
それが「仏教は正しい呪文の文句を知ることに帰着するのだ」というような
観念が根底にあったということじゃないのか?それが仏教の名を騙って勝手に
魔術教に変質せしめた最大の誤謬の元だったんじゃないか?どうかね?
>ニチレン教徒はんよ。
めた
>>387 ミスプリ訂正
>特定の文句や言葉を「崇めて」それに崇拝したりご本尊にしたり
>しかったってことだ。 ×
>特定の文句や言葉を「崇めて」それに崇拝したりご本尊にしたり
>しなかったってことだ。 ○
人間には文字だけでなく、「数字」も与えられている。
時には文字だけでなく、「数値」で考えよう。
世界人口比率、仏教徒は6%。
そのほとんどがアジア地域に集中。
世界人口比率、学会員およびSGIは0%。
今の3倍の勢力になっても、「0%」。小数点以下四捨五入ならね。
案外、そういう数値を常に意識して、仏教関係の書を読むと、また違った趣がある。
390 :
乾闥婆:04/01/08 23:12 ID:???
>>383 >藻前が無分別知を体得しているのならそういう言葉は出て来ないはずだがな。
なぜです?
>藻前が知りもしない、体得もしたらんくせに夢想して勝手に「無分別知」をバカにして見下しているわけじゃないか。
いつ私が無分別知をバカにしました?
>よくそれで言語世界をバカにしてとか言えるよな。
お邪魔しますさんの文章を説く読んでみたら?
言語にこだわっているから悟れないんだっていってるよ。
>無分別知を知るものは言語世界をバカにしているわけじゃない。
だからお邪魔しますさんは無分別知を知らないものなんだよ、きっと。
391 :
乾闥婆:04/01/08 23:13 ID:???
>>384 >道元の正法眼蔵はニチレン教の信者にはとても「面白くない」ものだろうよ。
「ニチレン教の信者」ではなから大丈夫でしょうね。
>特に道元の言葉は漢文の薀蓄がわからないと特に面白くない。
そうかもしれないね。河出書房から出ている石井恭一の注釈・現代語訳がつい
ているものを買ったので、なんとか読めるんじゃないかなって思っているけれ
ど、甘いかな? そのまえに『正法眼蔵随聞記』を読んでからにしようとは思
うんだけれど、時間かかるだろうなあ。今年の課題としておこうと思います。
>道元の言葉も全部それこそ「言葉だけの世界」だと短絡することになろう。
どうかな。ニュアンスとしては「言葉だけの世界」というよりも「世界とは言
語だ」といいたいのだけれど、伝わらないかな。道元はどう考えているのかな。
「ニチレン教の信者」に対する言葉は私には関係なさそうなのでパスしますね。
というか、あなたの文体、好きですね。なんか憎めない。
392 :
:04/01/08 23:23 ID:???
>>335 >>321のは、間違えてないよ。
形骸化した禅問答のことを言っているだけだから。
>>353 >ブッダもなくなるとき自燈明、法燈明と言って、法を守るのと同時に
>自分を見つめることを説いているけど、日蓮系はこれをやっていない。
日蓮は、やってるけどね。日蓮が、自らを凡夫と言ったのは、
親鸞と自分を悪人と言ったのと同じだから。
で、仏性があるとは、仏になれる可能性があるということ。
だから悪人でも凡夫でも価値があるのは、仏性がある、
つまり仏になれる可能性があるから。
でも仏教学を学ばなかいアホは、凡夫=仏と勘違いするわけ。
日蓮が、念仏を批判したのは悪人=仏と誤解させるからだと思うけど、
血盟団の井上日昭、オウムの麻原、創価学会、顕彰会、と皆、
日蓮の心知らずってわけで…
ところで般若心経のそれって、禅だと「本来無一物」と答えるのかな?
柳の緑、花の紅、それらは美しいけど、
柳の幹や根、花の茎や根もまた美しいのだと。
393 :
波木井坊竜尊@日蓮宗葵講@名前だけ仏所 ◆IByKs72gR2 :04/01/08 23:31 ID:psDIncur
禅は自我が肥大して自我が非常に強くなってしまうというのは禅の僧侶も
認めるところだ。白隠さんが登場するまで禅天魔だったのは事実。
マントラちゅうのはそれは密教。(ゲラ)
顕教のどこのがマントラなんだよ。馬鹿馬鹿しい。
>>393 だけどさあ、ハキリさん。
私にはマントラと題目の区別がつかない。
どんなに意味付けをしてみても、
キリスト教徒の大便と、仏教徒の大便が見分けがつかないように、
「定期的に反復する文言」として、区別がつかない。
もっとはっきり書くと、「同じだ」ということです。私の主観では。
>>393 あのさ、
>禅は自我が肥大して自我が非常に強くなってしまうというのは禅の僧侶も
>認めるところだ
てのはどこのどいつの禅人なの?いくらなんでもヘボアホ〜禅じゃねえの?
禅は自我が肥大なんかせんよ。どっかのだれかも言ってたが、禅は自己と
他の同一化みたいな無分別知はあったとしても決して自我肥大などはしませんね。
まやりたてのすぐだと勘違い禅でどうなるかはしらんがな。どうせそんなとこ
だろ。
396 :
波木井坊竜尊@日蓮宗葵講@名前だけ仏所 ◆IByKs72gR2 :04/01/09 00:19 ID:iEudAXr9
397 :
波木井坊竜尊@日蓮宗葵講@名前だけ仏所 ◆IByKs72gR2 :04/01/09 00:23 ID:iEudAXr9
>>395 じゃ自分で調べたらん?馬鹿馬鹿しい奴。
398 :
名無しさん@お腹いっぱい。:04/01/09 00:24 ID:jyZsPXN9
マントラはサンスクリット語の真言とか陀羅尼のような呪文のこと。
顕教密教の密教を意味するサンスクリット語はタントラ。
ちなみにユダヤ・キリスト教のアーメンと仏教のオームは語源が同じそうだ。
サンスクリット語を使ったアーリア人はヨーロッパ語族でもあるかららしい。
題目も真言も根本は同じだよ
そんなもんどの宗教にもある
これも↓同じだろ?(禿藁)
m(_ _)ノ彡☆バンバン
>>392 >日蓮が、念仏を批判したのは悪人=仏と誤解させるからだと思うけど
だとしたらここでたむろしてるニチレン信者も同じなのか?だとすると
ニチレン的知性はあまりにも程度が低スギャしねえか?なあよう。
それならニチレンの知性ってのは哲学のテのジもないんだね、しかし。
やめた方がいいでしょ、宗教者>ニチレンはんよ。
>>399 >そんなもんどの宗教にもある
いや、ねえだろ?どこにもなんてな。すくなし禅にはねえな。
最も儀式じゃやるな。法華経のダラニなんかも勤行てことではあげるな。
だが、禅の修業では「なにそれ」の世界だしなあ。
呪文を至上のものとするのはその通り真言の延長だよな。ニチレンが真言系の
人間だったという証拠だと言ったよな。その通りだろ?
だがニチレンのはそのうちの特定の一つを「神」にして拝むのが根本的に
違うよなあ。その典型が創価学会だろ。要するにテで勝手に作られた字の
羅列を偶像にして拝んでいるわけでな、これはキリスト教の連中からみれば
明らかに偶像崇拝だよな。経文のタイトルなんてどうにだってつくはずわけ
だから、これは偶然にできた勝手なタイトルを神にしちまってるという状態
だよなあ。そこが最もキチガイじみてるわけだが、この立場からみてもあながち
「魔法魔術教だ」という指摘はまちがいないだろが?>ニチレン教徒はんよ、なあ。
>>397 なら「自我の肥大」とかでグルればいいのか?ww
仮にも出典でもあるってんならそいつを言えばええで。な。
>>394 サンセーのマンセーだ、
>>396 でな、あんたはいつもどういうが、現実に394も言うようにな、ニチレン教
ではあくまでも「題目」の意味で救われるわけじゃねえよな(www
あくまでもその音韻の身体的な影響で気分が良くなるンで救われるという
構造だよな。気分がふさいでいるときにこの「題目」を口で唱えると鬱な
気分が晴れる、とか元気が出てくるんだよ、とかが、生命力の充実でこれで
病気も治るんだぜとかだろ?なあ、そうだろ?>創価学会員よう、なあ。
この体感、感覚の影響、効能ってやつがおまえらにとって最大で最高の価値
なんだよな。それで結局これがおまえらの神になる。な、そうだろ?でそれを
崇拝して掛け軸に掛けて毎日「その掛け軸と向き合う」のが「信仰だ」とかに
なるわけだよな。
ならなんだ、結局それは「雷をみてすんごい力だ、これは神様の仕業だあああ!」
とか言ってそれにひれ伏してる原始人と同じじゃないか?おれも言ってることの
どこが違うんだよ?ああん?おい?>ニチレン教徒、層化学会員よう。なあ。
と釈迦の教えに共通点はない。
俺は、正直法華経を誹謗しているよ。w
日本仏教の中で破壊的カルト性をうちに秘めた密教。
常に時代のヒエラルキーと関係を持とうとし、
キリスト教やイスラム教、ヒンズー教のもっとも悪しき部分を具え、
そして呪文と結びつけ、集団的暴力と化す。
このような宗教は単に一人一人の信仰にとどまらず、必ず時代の裂け目で
権力に利用される。そこにいつでも政治的利用をできなくする
チェック機能があればいいが、あった試しはない。
「無宗教者の理念」とは、宗教を利用した権力争いにピリオドを打つこと。
そして人々がそれに荷担しない世界だ。
マハトマ・ガンジーの理想としたインドがそうだった。
ガンジーは無宗教者ではないが、無宗教者の理念を確かに持っていた。
信仰を全否定せずにどう他者と共存していくのかという難題と取り組んだ
類を見ない指導者だった。彼は言った。
「真の信仰とは、違いを認める心を育て持つことだ。」
俺は信仰を持ってしまえば、ガンジーの様には生きられない・・・
無宗教を貫くのはその為だけだ。
>>402 それで続きだが、藻前らニチレン教徒が
>この体感、感覚の影響、効能ってやつがおまえらにとって最大で最高の価値
にするのはそれはそれでいい。否定しない。現実にそれはあるし、そういう現象
自体を否定するのは間違いだな。薬を飲んで効いた、風邪が治った。これはこれで
結構、別段なんら問題もないことよ。
だが、なんでそこからどんどん発展して、ああ、罰だ、福運だ、あげくに池田センセー
の言うことを良く聞いて、どんどんどんどんとカルトに邁進していくことになるのか
ってえとだ、結局そいつを神にして拝んでいってしまうからなんだよな。わかる?ねえ?
もし薬を飲んで風邪が直ったとしたら、それは薬の成分が風邪の神経症状を軽減する
効果、薬物の身体への効能があるからというに過ぎないわけだよな、なあ、わかるこれは?
ねえねえ?わかる、ねえ??ということはな、仮にお題目唱えて気分てえ風邪が治った
としてもな、それが元々の精神の持ち方、あり方を変えた結果ではなくて、あくまでも
唱えの音韻の神経的効果、影響が体に及んだから治ったってだけだろが。なぜなら藻前らは
そのお題目の意味なんか全然考えもせずにタダ口にするだけだろが?ならそれは精神の
あり方とは全然無関係だな。つまりそれをマントラといっているのさ。わかるかなあ?なあ?
どう?わかる?ねえ?
ウゼェなあ。意味不明の長文書いて自己マンしてるオナニィ野朗はよお。
ひ●し君のほうがまだましだぜ。
>>390-391 ケン、実は洩れも藻前はいい女だと前前から桃っていたのさ、なんちってなあ、
あ〜あ、やだなあ、もう、うふふふふ(ここだけな、な、、うううっ♪)
でも藻前もうちっと言葉から離れろ。そうすっともっといい女になるぜよな、なあ。
------
>>404 でな続きだがな、
だからな、、、何度もいうようにな、そういう薬があっても否定しねえよ。それ自体は
な。あってもいいって。何度も言ってるよな、わかる?
でもな「雷は電気だ」と知ることがぜひとも必要なようにな、それとまったく同じように
な、な、な、「お題目の気分が晴れる効能はな、ただのマントラってえ心理学で研究すべき
ただの精神身体医学的現象の一部」でしかないんだよ、だからそれで勝手に宗教、しかも
魔術魔法教のカルトにして拝ませちゃいけないんだぜ、神にしてそれにひれ伏しちゃ
いけないんだぜ、、、なあ、わかる?ねえ?わかる?ねえねえ、わかる???」って
何度も言っているわけさ。なあ、わかる?わかる?ホンとにわかる?ねえねえ?どうよ。
>>405 自己マン?んんん?なんだあ、そりゃあ?それなら少しはマジレスしろやな>創価や蝋化?
おめえは?んん?さあやってみろや?マジレスを、んんん?できんのか?なら、
おめーこそくだらん自己マンはやめれな(w、くずめがな。
>>391 >そのまえに『正法眼蔵随聞記』を読んでからにしようとは思うんだけれど
それいけるかもだな。正法眼蔵自体はちょっとやそっとじゃ全然歯がたたんであきらめ
地舞う可能性があるで。「ずいもんぎ」の方がわかりやすいことはこの上ない。
というのもあれは道元の作でのうて弟子の書いたもんだで、非常にわかりやすいと
わしも思うで。で、あんな鎌倉の時代ですでに近代的、あるいは現代的な感覚が道元の
口から出ているところも乙だでな。道元ちゅうのはとても特筆すべき知性の独りじゃろうな。
そういう意味では題目で救われた日蓮もそれなりに現代的な感覚もあったかに見える
ところもあるわな、それはそれでな。行の違いはあるが、それはそれなりで感性が洗練
されることは認めるぜ。んじゃな、またな。
408 :
お邪魔します ◆nH2G.RjIE2 :04/01/09 11:32 ID:uD+2U/vy
無我とはどのようなものか、書いてみる。我つまり自分がない、と言うことですね。
手足や、目・耳・鼻などの感覚器官、その他心臓や脳などの内臓、自分の肉体全てを意
識から外す。それから自分の意識の中を覗いて、いろいろな考えが心の中に起こって
いるから、それを一つ一つ外していく。ここが一番難しい。心は決して自分の思って
いるようには、動いていないことが分かる。それよりお題目や、光などのイメージ等
に集中して、それを外す方が簡単化も知れない。
自分の意識を捨てたら、自分の意識を捨てたという意識も外す。意識を外したとい
う意識も外す。・・・・・・。文字ではこのように書けるけど、実際にこの状態にな
ったらどう書けと言うのだろう。認識する主体は既に無くなっているのに。
この「無我」の世界がどのようなものか、想像してみよう。自分は歳を取るだろうか。
歳を取ったと認識する主体はない。不老。 死はどうだろう。同じく死を認識する主体は
ない。不死。では生きているか、同じく不生。苦はあるだろうか、不苦。楽は、不楽。
では自分の外の世界は存在するだろうか。自分も外の世界も存在を認識する事が出来な
いから、不二。では自分と外界は一緒だろうか、同じく不一。
409 :
お邪魔します ◆nH2G.RjIE2 :04/01/09 11:33 ID:uD+2U/vy
般若心経ではこの世界を、
色不異空。空不異色。色即是空。空即是色。
不生不滅。不垢不浄。不増不減。
無色 無受想行識。無眼耳鼻舌身意。無色声香味触法。
無眼界 乃至無意識界。無無明亦 無無明尽。
乃至無老死 亦無老死尽。無苦集滅道。無智亦無得。
等と教えている。
ブッダは瞑想や禅定などの修行をして、この世界を自己の体験で捉える事を、
求めている。
なにやら香ばしくなってきたな。
逝っちゃってるな。
412 :
Sb ◆SbSGI7AtEA :04/01/09 17:09 ID:aWwOqq98
>>380 >乾闥婆さん
>私は災害や苦難に陥っている民衆の前でそんな茶番をやっている人たちがいたら、
そんな状況で、説教をするような釈迦だとは思えませんが(笑
悦に入っていると見えるでしょうね、なにしているかわからないんですから
でも、あえて、
>>367のことを考えてほしいのです。
悟りは伝わらないが、伝わっている
はじめから伝わっている そのことを悟らなければ
伝わらない
法も仏心もまた同じです。
でも、「悟るもんか」ってのもまた良しだと思います
正法眼蔵は難しいので心してあたってください
私は図書館で借りてます(高いんだもの)
413 :
Sb ◆SbSGI7AtEA :04/01/09 17:15 ID:aWwOqq98
>>392 じゃ、最初から形骸化したって入れてくれろ
>>393 >波木井さん
魔境を禅と勘違いしなさんな
波木井さんにとっては達磨も釈迦も天魔なのですね
漏れ禅は宗教でないと思う。それより基地外おやぢが長文書いてたから禅に対し
すっかり毛嫌いしたくなったよ。あれは池田以下の糞やゴミと呼ぶのも誉め言葉にしか
ならんような椰子だなあ。完全に逝っちゃつてるよ。
>>408 そんなのクスリやってんのとかわんねーじゃん。
アホか。
416 :
お邪魔します ◆nH2G.RjIE2 :04/01/09 21:26 ID:E3AqEGDh
クスリと違ってエクスタシー(恍惚感)は感じないよ。腑に落ちるに近いね。
417 :
ひゃっきまる ◆SOUL49VucA :04/01/09 21:31 ID:QK1oEVEk
にわかに賑やかになってきましたね。
どうせ仏教の事を語るなら、貪瞋痴に翻弄されることなく楽しく議論できたら良いですね。
418 :
乾闥婆:04/01/09 23:08 ID:???
>>408 お邪魔しますさん。
>無我とはどのようなものか、書いてみる。我つまり自分がない、と言うことですね。
そこがあなたがいつも間違えるところなのですよね。無我というのは我がない
ということではなくて、執着するような我はないということです。我は固定不
変ではない、ということです。それは主体性の放棄とは違います。修行する主
体は仏教においては尊重されます。そこを勘違いしては空も無自性もすべて勘
違いしてしまうのではないでしょうか。「認識する主体は既に無くなっている
のに」というあなたの発言も違うと思うのです。認識主体はなくならないでし
ょう。ただ認識ということを如実に知るということです。そのことを通して執
着を捨てられるのでしょう。ですからあなたのような無我理解では「この「無
我」の世界がどのようなものか、想像してみよう」とはとても無意味な想像で
すね。妄想といっていいと思います。空は無ではないでしょう。空とは無いと
いうことではなくて、あるがままの世界には実体がなく、固定不変ではなく、
しかしあるがままにある、ということだと思うのです。それを知ることが無我
なのではないでしょうか。それを私は現象を如実に観ることだと考えています。
419 :
乾闥婆:04/01/09 23:10 ID:???
>>412 Sbさん。
>悟りは伝わらないが、伝わっている
はじめから伝わっている そのことを悟らなければ
伝わらない
法も仏心もまた同じです。
それが仏性のことをいっているのでしたら、分かります。日蓮とてそれに遠い
ところにはいないでしょう。ただ働きかけが非常に能動的であるということで
す。好き嫌いは別れるでしょうが。
>>414 >漏れ禅は宗教でないと
そうだ、よくわかったな。それでいいぞよ。正解を書いておいてその後にざれごとは
いらねえ。
さっさとこれに答えれ>に父連京都どもよ
>でもな「雷は電気だ」と知ることがぜひとも必要なようにな、それとまったく同じように
>な、な、な、「お題目の気分が晴れる効能はな、ただのマントラってえ心理学で研究すべき
>ただの精神身体医学的現象の一部」でしかないんだよ、だからそれで勝手に宗教、しかも
>魔術魔法教のカルトにして拝ませちゃいけないんだぜ、神にしてそれにひれ伏しちゃ
>いけないんだぜ、、、なあ、わかる?ねえ?わかる?ねえねえ、わかる???」って
>何度も言っているわけさ。なあ、わかる?わかる?ホンとにわかる?ねえねえ?どうよ。
>経文のタイトルは偶然ついたもんだろ?なんでそれが神になんねや?ああん?
マジレスせんかい、でや?(w>417 ヒャッキ
マントラは他の宗教にもあるじゃないかい、ニチレン教だけじゃないぞ、藻前らも
つかっとんやないかい、おんどらてな話もあったが、とんだ検討違いだろ、そんな
もんはよ>邪魔屋よ、どうや。
アーメンて唱えたらそれがマントラやいうのはおかしいぜ。それはアーメンでのうても
ええわけでな、アーー面ともラあめんともイワンでキリストサマいうてもええわけでな、
詰まるところ連中は別段アーメンで命が救われ取るわけやないで?わかっとるか、おんどら?
ああ?
なあ、オウムーとナアムウはオンナジでもええな、こらどっちも「それに他世ら名
生きて意見」っちゅうマントラやしな、そいうのは題目マントラと似たよなもんやな。
けどちょっとチャがウのんはな、いや相当でかく違うのんはや、題目は完全無血の
神に近い存在になっとうことやろ。それに逆らうと罰が当たるで、藻前は死ぬのやで、
業猫になりて来るシムのんやで、ええかこのご本尊の言うこときかなあかんのや、
ついでに池田センセの有為稲荷にならな「絶対に」あかんのやでこら、わかっとうかこら、
てな話になってな、タダのオウムウ唱えると殻だにええでちゅうのとはぜんぜんちゃう
話になっていき拠るてことやで。ええか、これどないすんねんちゅうこっちゃがな。
でや???>邪魔屋どや!
422 :
名無しさん@お腹いっぱい。:04/01/10 00:00 ID:TOIqeil9
はじめまして
横レス失礼します。
個人的に思うのですが悟りの話は人それぞれなのでここにこだわってもあまり実りはないような気がしますよ。
それよりも日蓮を時代の中で捉えるのか、それとも今日的な価値観で断罪するのかのほうに興味があります。
しかしながらこれも平行線に終わるかもしれませんが・・・
帝国主義をあのときはああゆう状況では侵略するしかなかったんだととらえるか、それとも侵略された側に立ってみればああいうことをやってはいけなかったというような
議論に似ているのかもしれませんね。
不勉強なのに見当違いの意見を言ってしまったかな・・・
>>422 日蓮ちゃんは当時の価値観から見てもやはりキチガイだと思うけどな。
424 :
乾闥婆:04/01/10 00:25 ID:???
>>422 >悟りの話は人それぞれなのでここにこだわってもあまり実りはないような気がしますよ。
人それぞれということで、日蓮は悟っていないという発言を、しないでくれれ
ばいいのですけれどね。それをされるので、こだわって悟りについて話してき
たのですけれど、まあ、実りはないでしょうね。
>しかしながらこれも平行線に終わるかもしれませんが・・・
はい、平行線でした(笑)。前のスレで延々やっていたような気がします。
でも悟りの話ってそいつがどんなものを求めているかわかっちゃっておもしろいな。
426 :
名無しさん@お腹いっぱい。:04/01/10 00:43 ID:AVVXSRST
ゴータマ・ブッダは涅槃を求め宮殿をでて、アーラーラ・カーラーマ
とウッダカ・ラーマブッタの二人の仙人をたずねて修行に励んだのち
師と同じ境地に達したのにそれは涅槃ではないとし、菩提樹の下
一人で涅槃に達した。(師を必要としなかった。)
ブッタは自己充足と自己確認に於いて涅槃に達した。
(他者の証明は必要なかった。)
427 :
お邪魔します ◆nH2G.RjIE2 :04/01/10 00:47 ID:bVP8J3uq
ところで乾闥婆さん、日蓮は自分の宗教を広めることで、何をしようとしたのか、今ひ
とつ分からないんだけど。自分の宗派以外の人が、地獄に堕ちたり病気になったりして苦
しむのなら、人々に恐怖を与えて自宗の奴隷にする事を目的にしている様に思える。このよ
うな状態にすることが、本当に人を救うことなのか。
428 :
名無しさん@お腹いっぱい。:04/01/10 00:54 ID:oPDkDql7
ブッタがみたら、「こんなになるなら、修行も悟りもするんじゃなかった」
と思う今の仏教。
>428
同感。釈迦が否定した「そのもの」だからね(w
430 :
お邪魔します ◆nH2G.RjIE2 :04/01/10 01:16 ID:bVP8J3uq
乾闥婆さんへ
>空は無ではないでしょう。空とは無いということではなくて、あるがままの世
>界には実体がなく、固定不変ではなく、しかしあるがままにある、ということだ
>と思うのです。それを知ることが無我なのではないでしょうか。
ここであなたが言っているように、空はそれ自身を存在させる実体がないと言うこ
とです。そしてそれを自分に当てはめたのが無我であり、あなたの言うとおりです。
しかし
>それは主体性の放棄とは違います。修行する主体は仏教においては尊重されます。
>認識主体はなくならないでしょう。
これでしたらアートマン(個人原理・真我)が有るという、バラモン教の教義になっ
てしまいます。ちなみにバラモン教の奥義書ウパニシャッドでは、アートマンは次
のように定義されます。
アートマンは、私という一個人の中にある個体原理で、私をこのように生かしている
「霊魂」であり、私をこのような私にしている「自我」、もしくは「人格」である。
元は、「息」を意味した。ここから「生気」「霊魂」「身体」「自己自身」「自我」
という意味が派生し、ついには「個体を支配する原理」とみなされるにいたった。こ
の語はさらに「ものの本質・本体」という意味でも用いられる。
それと永遠不滅の釈迦本仏を、宇宙を支配する原理であるブラフマン(梵)と見ると、日
蓮の教えは、構造的に仏教用語をちりばめた、バラモン教と同じなりますが。
ブッダは自己の中にあり、自己を成立させている「我」と永遠不滅の法・原理を諸法無
常、無我の教えで否定したはずです。
>>430 >日蓮の教えは
じゃなくてさ、それが法華経の久遠実上の仏ってやつだろ、つまり法華経が
バラモン教=ウパニシャッドなんだろうがよ。
>ブッダは自己の中にあり、自己を成立させている「我」と永遠不滅の法・原理を諸法無
>常、無我の教えで否定したはずです。
まあブッダがそれほど思弁的哲学風に思考したかどうかはホンとはサダカじゃねえん
じゃねえのかね、ホンとのところはよ。
432 :
お邪魔します ◆nH2G.RjIE2 :04/01/10 01:39 ID:bVP8J3uq
>まあブッダがそれほど思弁的哲学風に思考したかどうかはホンとはサダカじゃねえん
じゃねえのかね、ホンとのところはよ。
確かにブッダは自分からきちんと纏まった教義は残していないですね。これは
初期仏教の経典から導き出した考えです。
道元もそれに関しちゃ正法眼蔵のベン道話でも書いているよな。
いはく、かの外道の見は、わが身、うちにひとつの霊知あり、かの知、
すなはち縁にあふところに、よく好悪をわきまへ、是非をわきまふ。
痛痒をしり、苦楽をしる、みなかの霊知のちからなり。しかあるに、
かの霊性は、この身の滅するとき、もぬけてかしこにむまるる(=生まれる)
ゆえに、ここに滅すとみゆれども、かしこの生あれば、ながく滅せずして
常住なりといふなり。かの外道が見、かくのごとし。
しかあるを、この見をならうて仏法とせむ、瓦礫をにぎって金宝とおもはん
よりもなほおろかなり。痴迷のはづべき、たとふるものなし。云々
まこと禅はこの境地を理解せるなり、と洩れは揉もうぜ。な。
だが、生きる姿勢に主体性があるとかないとかの意味と、仏法で無我とか
悟にあらば我ならずたれあり、万法が万法の方より修証するとか言うことの
意味とを同列に論ずるのはあまり感心しねえぜ。
仮にこうした本来の仏教に根ざした理解あるいは悟りの元に生きている
としても、それでもあえて主体的に生きるということはできるだろ。
それを無我だから主体性がある生き方はおかしいってのはおかしな議論じゃ
ねえのか?
>>422 そうかい、そら結構な見識やな(w
しかしニチレン教徒はマジレスでけんと見える。
>でもな「雷は電気だ」と知ることがぜひとも必要なようにな、それとまったく同じように
>な、な、な、「お題目の気分が晴れる効能はな、ただのマントラってえ心理学で研究すべき
>ただの精神身体医学的現象の一部」でしかないんだよ、だからそれで勝手に宗教、しかも
>魔術魔法教のカルトにして拝ませちゃいけないんだぜ、神にしてそれにひれ伏しちゃ
>いけないんだぜ、、、なあ、わかる?ねえ?わかる?ねえねえ、わかる???」って
>何度も言っているわけさ。なあ、わかる?わかる?ホンとにわかる?ねえねえ?どうよ。
>経文のタイトルは偶然ついたもんだろ?なんでそれが神になんねや?ああん?
どないや?雷が神のいかりでのうてはあかんのか?んん?どないだ?ああん??
436 :
乾闥婆:04/01/10 07:03 ID:???
>>427 お邪魔しますさん。
>日蓮は自分の宗教を広めることで、何をしようとしたのか、今ひとつ分からないんだけど。
別に日蓮は自分の説いていることが自分だけの教えだとは思っていないわけで、
彼は釈迦が真に説きたかった仏法をこの末法に広めるのだ、という使命感に燃
えていたわけでしょう。それは、正法が広まればこの世は救われ民衆は幸せに
なれると信じていたからでしょう。正法に従わなければ地獄に堕ちてしまうと
本気で信じていたからでしょう。現代の情報量から見ればとんでもない話でも、
彼が生きた時代の彼が依拠した教義を偏狭に突き詰めたらそうなってしまった
わけで。前にも話しましたけれど、お邪魔しますさんはもう少し歴史的視点や
文脈を読みとる視点を持つべきだと思います。
437 :
乾闥婆:04/01/10 07:04 ID:???
>>430 >これでしたらアートマン(個人原理・真我)が有るという、バラモン教の教義になっ
てしまいます。
法灯明・自灯明というときの自分とはアートマンとは別のものでしょう。そこ
でいわれる自分とは縁起することで形成される自分という結節点に過ぎません。
それは固定不変な本質・原理といったものではなくて、流動的な縁起した現象
を写し取る主体ということに過ぎないでしょう。無我と自灯明・法灯明は矛盾
せず成り立ちます。無我とは自分がないということではないからです。
>それと永遠不滅の釈迦本仏を、宇宙を支配する原理であるブラフマン(梵)と見ると、日
蓮の教えは、構造的に仏教用語をちりばめた、バラモン教と同じなりますが。
名無しさんも指摘しているとおり、それは法華経の久遠実成の仏のことでしょ
う。大乗仏教は初期仏教に比べると、バラモン教への接近は認められるとは思
いますが、既に無我・無自性・空を前提としているので、違うものだ思います。
法華経に現れる仏身は永遠の層と実在の層が渾然一体となっており、ある意味
で法身としての層は理念ともいうべきもので、実体というものではないのでは
ないでしょうか。
>ブッダは自己の中にあり、自己を成立させている「我」と永遠不滅の法・原理を諸法無
常、無我の教えで否定したはずです。
何度もいいますが、ブッダが否定したのは我ではなくて我への執着です。縁起
の理法を説いたのですから。そのようにしてこの世界やこの私は成り立ってい
ることを知ることを説いたのでしょう。それを知ることで執着から抜け出そう
ということです。
438 :
波木井坊竜尊@日蓮宗葵講@名前だけ仏所 ◆IByKs72gR2 :04/01/10 08:00 ID:XrPU0pAA
霊性という言葉だが、日蓮系はこういうことばは使わない。
ところで道元は一切衆生悉有仏性を、「成仏の可能性は万人にあるのだから」など
とは捉えるでない、そういう解釈ではおのれがすでに常住とならんぞというとるぞ。
ニチレン教のバラモンぶりばいなりの解釈が「成仏の可能性は万人にあるのだから」
っちゅうこっちゃが、どや?(w
「生死すなはち涅槃なりと覚了すべし。いまだ生死のほかに涅槃を談ずることなし。
いはむや、心は身をはなれて常住なりと領解するをもて、生死をはなれたる仏智に
妄計すといふとも、この領解智覚の心は、すなはちなほ生滅して、またく常住ならず。」
「あきらかにしりぬ、自己即仏の領解をもて仏法をしれりといふにはあらずという
ことを。」
ごーーーーんんん〜!!仏法はかくのごとく知りぬべしと。まさしくこれすなわち
釈迦単伝の仏法なりと。
ニチレン教が創価となり、真言的密教的カルト的信念にて烏合せられ万衆が
妄動の大群となるは、これもとよりその外道の秘密の秘法によるなりと了解
すべし。
この秘密の秘法の儀はすなわちこれ自己の内なる仏性の開花なりとせんも、
すなわちこれニチレン一代が宇宙の始めより見えられたる一大秘法の顕現
ならむ、すなわちこれにかしこみて礼拝すべし、万衆一堂に会しこれを
長らくとなうべし。この故に宇宙すなたりこれ仏国土とならん、我一縁ブダイ
の神と合せん。しかあれば汝わが教団の手となり足とならん、それ人生一法
の幸福至極の妙法なり、まさに知るべし、我身はすでにかの教主ビケーダの
デー作が一代の兵となり本宗永劫の遍満ゴクウに献身せん。続け我が衆生の
兵とならんや。
かのカルトの教ゲはかくのごとし。これすなちニチレン教のカルトなるバラモン
変化の法則なり。これすなわち外道が証ならんや。すなわちこれ仏性ならざる証
と了解すべし。
とにかくこれだな(w
>経文のタイトルは偶然ついたもんだろ?なんでそれが神になんねや?ああん?
速いとこなんとかせえやちゅうとんねやでww
442 :
お邪魔します ◆nH2G.RjIE2 :04/01/10 15:49 ID:Q+d2rbVD
>442さんへ
>悟りの話は人それぞれなのでここにこだわってもあまり実りはないような気がしますよ。
この話は一般の信者には通用しますが、日蓮のように指導する立場の人には、悟りまたは
悟りに対する正確な理解は必要と考えます。少なくとも禅宗では師から悟りを得たという印
可を貰った人ではないと、後輩の指導は出来ないことになっています。
仏教において悟りの体験は、無我または空に対する正確な見方に必要であり、これは文字の
研究解釈では得られないものです。この経験を通して物事はただあるだけであり、世の中のこ
とは当たり前のことが、当たり前に行われていることが実感できるはずです。
初期のブッダの教えでは、ただ当たり前のことを当たり前に説いているのに過ぎません。
人は誰でも歳を取り、死んでいくものなのです。これはお題目を何遍唱えようが、お布施をい
くら積もうが変えることの出来ないことです。
443 :
お邪魔します ◆nH2G.RjIE2 :04/01/10 15:51 ID:Q+d2rbVD
道元は24才のときに中国に留学し、如浄禅師に学ばれて一大事を悟ったいわれています。
そして28才で帰国されたときの言葉が
「眼横鼻直空手還郷(がんのうびちょくくうしゅかんごう)」です。
経典や仏像などは持ち帰らずに、ただ一つ
「目は横に、鼻は縦についていることがわかって、空手で帰ってきた」
道元のようなお方が命がけで宋にまで渡り4年もの間、法を求め修行をされて、わかったこ
とが、眼横鼻直ただひとつだと・・・
それほど「あたりまえのこと」の有り難さを分からないのが私たちではないかと、示した
のがこの言葉です。この「あたりまえのこと」だけは、私が何と思おうと、どう考えようが
決して動くことがないということです。 私が有り難がろうが、なかろうが、決して動きま
せん。
目の前にある赤い花は、私が菊と思おうが、コスモスと思おうが、赤だろうが、黄、青、白
だろうが、ただそこにあるだけです。それを赤とか菊とか名付けるのは、私の勝手で、そのも
のの存在には、何等関係のないことです。それが分からないと、物事は自分の思うようになり
または自分の思うように物事が存在すると考え、自分の考えと違う結果になり、苦しむことに
なるのです。
>>442 >少なくとも禅宗では師から悟りを得たという印可を貰った人ではないと、
>後輩の指導は出来ないことになっています
つってもな、こいつはカルトの秘教の伝授の印可許可とは大きく違うもんだでな。
勘違いしてはならんだろな。もっと一般的なもんでな、まインストラクターの試験
に合格するかどうかてえ程度のもんだろ。
こいつは勘違いしてオウムの瞑想でも教えたらんとか考えとったらあかんから、
いろいろ問題を出して正しく解けるかどうかテストするってな感じだろな。
それが禅問答にもなっとうちゅうこっちゃな。考えちごうしてたらあかんでてな。w
445 :
お邪魔します ◆nH2G.RjIE2 :04/01/10 16:23 ID:Q+d2rbVD
>乾闥婆さんへ
>、お邪魔しますさんはもう少し歴史的視点や
>文脈を読みとる視点を持つべきだと思います。
この件については、日蓮だけでなく、親鸞、道元、法然、北条時頼、極楽寺良観(忍性)等
同時代に生きた人々を出し、立正安国論を出した鎌倉時代の禅寺と、蒙古、宋との関わり合い
も指摘しています。
これらの事柄でも不足というのなら、批判ばかりしていないで私の歴史観で不足している部分、
または間違っていると考えるのなら、正しいと思われる歴史上の資料を提出していただきたい。
日蓮は極楽寺良観の雨乞いの失敗を批判したが、本当に日照りで困っている人を助けるつも
りなら、自分で雨乞いの祈祷をして雨を降らせるべきである。自分で出来ないことを棚に上げ
て、人の失敗を非難するから恨まれるのである。法華経はそのような教えでは無いというのは、
立正安国論で、正法をないがしろにして法然の説いた浄土宗を取り締まらないために、大地震、
干魃、大火、疫病等の災害が起こったとの主張と反している。
乾闥婆さんはこのような考えは、鎌倉時代特有の時代背景のもとで成り立って居ると言って
いるが 、今現在、私の身近で世の中が乱れているのは法華経を信じていない人がいるせいで
あると、考えている人がいることも事実です。
>>443 >目の前にある赤い花は、私が菊と思おうが、コスモスと思おうが、赤だろうが、黄、青、白
>だろうが、ただそこにあるだけです。それを赤とか菊とか名付けるのは、私の勝手で、そのも
>のの存在には、何等関係のないことです。
まそうじゃな、だからポッケ教の名前がなんとつこうがかま辺はずやったが
それがどうしても、「模倣便下侠」とならんといかんちゅうのはホンとは
必然性などさらさらなかったわけやがw、それでもいまだにこそこそ強弁
してこれが秘法なんや秘教なんやちゅうてどこまでも強弁しつづけるアホも
いよるわけやがwww。
>経文のタイトルは偶然ついたもんだろ?なんでそれが神になんねや?ああん?
なあ、歯よなんとかせんかいこらいうてるわけやがなww。
447 :
名無しさん@お腹いっぱい。:04/01/10 16:39 ID:CeUCzAto
422です
> この話は一般の信者には通用しますが、日蓮のように指導する立場の人には、悟りまたは
>悟りに対する正確な理解は必要と考えます。少なくとも禅宗では師から悟りを得たという印
>可を貰った人ではないと、後輩の指導は出来ないことになっています。
そうですかすいませんでした。無知なる者をお許しください。なるほど無宗教で無学な私には悟りの話になったとたんまったく理解できない話になってしまったものですから・・・
説明ありがとうございます。皆さんの議論はとても勉強になります。ただ申し訳ありませんが悟りに関しては私には一生理解できないのではないかと考えています。しかしそういったところが宗教の
宗教たるゆえんなのかもしれませんね。
今までの議論を読んで理解できたのは、日蓮は当時の状況なりにまじめに仏教に取り組んだ。しかし当時の状況(資料や経典などの不足)と
彼個人のパ−ソナリティである、まじめすぎて極端に柔軟性のない思考(どちらに重きをおくかは論争があるでしょうが・・あるいは両方の要素が
あったともいえるかも・・)によって、初期仏教というべきか一般的な仏教というべきなのかはわかりませんが、そういうものからは離れてしまった。
と大雑把に解釈していますが・・・
今日的な視点で日蓮のことを正しいとしている人はいないのでやはり彼は過去の人なのでしょう。
歴史上の人物としては面白い人かもしれませんが、現代には通用しない思想なのでしょうね。
その意味では彼の思想に普遍性はないのではないかとこの掲示板を読んで考えました。
そういう考えの持ち主ですので435さん。すいませんあなたの言っていることはまったく理解できません。
私は日蓮や他の宗教を信じたこともないし、現代でも日蓮に心酔している人とはあまりかかわりたくは無いと
考えていますので意味が通じないのだと思います。
448 :
Sb ◆SbSGI7AtEA :04/01/10 17:01 ID:EG3dhwM4
>>447 >442さん
悟りは一生かかっても理解は出来ない
解る理ではないから
ひとつの言葉で悟ることもあれば
何年修行しようと悟らないこともある
あなたが悟る方法を知っているのはあなただけ
449 :
お邪魔します ◆nH2G.RjIE2 :04/01/10 17:43 ID:Q+d2rbVD
>経文のタイトルは偶然ついたもんだろ?なんでそれが神になんねや?ああん?
観心本尊抄の次の文が基本になっているみたいよ。
「 私に会通を加えば本文を黷が如し爾りと雖も文の心は釈尊の因行果徳
の二法は妙法蓮華経の五字に具足す我等此の五字を受持すれば自然に彼の
因果の功徳を譲り与え給う」
(かってに解釈を加えるのは本文を黷(けが)す事になるが、釈尊が修行中の時の行(因行)と
仏になって得た徳(果徳)の二つの真理は「妙法蓮華経」の五字に具わっている。我らがこの五
字を授持すれば、自然にその因果の功徳をお譲り下さるのである。)
釈尊のすぐれた働きは全てまるごと「妙法蓮華経」のなかにあり、その「妙法蓮華経」全体がお
題目の中に籠められ、それが釈尊から我々に与えられている。お題目を授持し唱えれば、釈尊の
働き全てを受け取り、釈尊と同じ境涯になれる。このような考えですね。
450 :
Sb ◆SbSGI7AtEA :04/01/10 17:46 ID:EG3dhwM4
>>419 >乾闥婆さん
仏性のない人なんていやしません。
でも、日蓮さんは、法華経のみが仏性をあらわせるとしてしまった
その教えのせいで、仏性が目覚めない人を生んでいる
目覚めたと思い込む人を生んでいる
そして、その人たち同士で内輪もめ
目覚めた人がいないとはいいませんよ
口だけの平和じゃない人もいるでしょう
でも、その教えは確かに間違っている
法に初も末も無し
人が生きているなら法は変わらず です
四苦八苦に対する教えが仏法
四苦八苦を増大させるのは仏法にあらず
>>450 >そして、その人たち同士で内輪もめ
まさにここでの論争は日蓮・法華系vs禅系の内輪もめだわな。
452 :
Sb ◆SbSGI7AtEA :04/01/10 17:59 ID:EG3dhwM4
>>421 よみづらい
2ch風に誤字って書くのはいかがなものか
読みづらけりゃ意味が無い
他のスレならいいけど、ここではやめちくり
>>449 >観心本尊抄の次の文が基本になっている
じゃが問題はそういうこっちゃねえのとちゃうかね?
日蓮はこの「模倣便下侠」てタイトルをなぜ崇めたのかといえば、それの持つ
響きが自分の脳内の活性化を感じたからだろが?そしてこれによらば仏界湧出して
世界は皆仏国土とならんと感じたからこそ、後からそうやって理屈づけしたわけ
だぜ。
なぜならもしナンミョー〜で力が湧いてくるよな感覚を得なかったらこんなことは
いわんかっただろなあ。それがたまたまそういう現象があった、出た、どうだこりゃ
となった。元気が出る呪文にできるぞこれは!よしそれならこういう「文底」なんて
観念でごまかしただけじゃないかい?
つまりな、それが証拠にな、もしもこれが「妙法般若経」とついていたらどうやった
かっちゅうこっちゃがなw。なあ、どや、そうしたらこの呪文は語呂が悪いやろ、なあ、
どや?そうなるとフシギな元気は出てきいへんやろな、そうであったらそんな「文底で
タイトルを唱えゆうてるで」なんてゴマカシを書く必要もなかったやろなあ。わしが
ゆうてるのはそこや。つまりは結果が出てから後付けでテキトーな関係付けをして
教説にしちまっただけやないかい、っちゅうわけや。そならそんな話はおかしやろ?
元気が出るから「ああ、それはこれに釈迦の功徳がつまっとうからやでしかし」ていうて
な、元気が出んかったら「そんなんタイトルなんかカンケーないねん、きまっとろうが
そんなもんは」てあのエチレンも言うたやろな、ちゅうわけやで。そやから「タイトル
なんぞ偶然語呂がええもんになっただけやからそんなカンケー妄想を言うてるだけやろ」
っちゅうこっちゃ。どうや〜??>ニチレン教徒どのよ
>>453 そやからな、タイトルが気持ちええのは、漢字の意味カンケーあらへんねん。
その語呂がええので早口でも唱えやすいのんと、その音韻の順列の組み合わせが
人間の顔面のシンケーやとか脳みそのんなかの物質代謝になんらかの影響を及ぼし
たりな、それから音声発声の運動するさかいに血流が促進されるからとか、そういう
現実的物理的な原因によって影響があるからに他ならへんやねやて、なわかるか。
それを日蓮は勝手に経文のタイトルの意味と無理やりカンケーづけしただけやろが。
だーれも意味考えて唱えとう人間はおらんよるからなー。どや。それがしょーこに
カタカナで覚えさせて勧誘してみいてば、よーわかるやろ。どや??
それなら、なんでカンケーねいもんを神様扱いしてんのや?え?アホちゃうんかい
われ?>エチレン教徒よ
455 :
Sb ◆SbSGI7AtEA :04/01/10 18:22 ID:EG3dhwM4
>>436 >乾闥婆さん
んーでも、同時代の道元さんはまったく違う法を説いたよね
同じ叡山を出てさ、あっ、でも中国に行ってないか
んーでも親鸞さんは行ってないけど、悪人正機まで行き着けた
もっと前の禅の6祖慧能は寺男だったし、情報量で云々言うのは違うと思うけどなぁ
な、雷は電気やねん。
お題目の呪文はただの体操やねん。
お題目をばかにすっと罰があたって死ぬねんで、ちゅうのはは、
「雷は神さんのおいかりや、ひれ伏しておがまなあかんねんで」
ちゅうのとちょっとも変わらんちゅうてんねん。どうや〜??
457 :
Sb ◆SbSGI7AtEA :04/01/10 18:33 ID:EG3dhwM4
>>451 ははは
書いてて、そう書かれると思ってた
「釈迦が教えを間違えて、千地の仏を生んだとさ」
でも、裁判沙汰や、機関紙での罵りあいまではいってないよね
「南無妙法蓮華経」を商標登録する馬鹿さ加減にはげんなり
討論はいいのさ、得るものがたくさんあるからね
2chにも仏縁あり
>>445 >日蓮は極楽寺良観の雨乞いの失敗を批判したが、本当に日照りで困っている人を助けるつも
>りなら、自分で雨乞いの祈祷をして雨を降らせるべきである。自分で出来ないことを棚に上げ
>て、人の失敗を非難するから恨まれるのである。
この点については禿げしく同意。
雨乞い勝負に対しては、淳和帝の命による。西寺の守敏と東寺の空海が名高い。
全国的な大旱魃に襲われ多くの餓死者がでた824年に朝廷の命による請雨が行われた。
神泉苑で請雨した西寺の守敏はまたたく間に雨を降らせたがそれは都周辺に限るものだった。
それで帝は東寺の空海に請雨を命じたのである。
空海は神泉苑に赴き、請雨経法により、善如龍王を勧請させるために壇を築いた。
しかし、雨は一向に降らず、人々は不安に駆られ空海自身の法力が怪しまれたのである。
だが、修法をはじめてより、7日後に善如龍王が現れ、国中に3日あまり雨を降らせたのである。
空海の験力に驚いた帝は空海を内裏に呼び。「今回の請雨は守敏の勝ちなどと言われていたが
どうしてそなたが終わりには勝っている。今、守敏は相当に悔しがっていると聞く。」と労った。
それに対し空海は「上、修法に勝ち負けなどありませぬ。守敏殿も私もただ人々のために祈ったに
すぎないのです。」と言ってその場を退いたのである。
善如龍王はその後、神泉苑に棲み、有徳の僧の祈りに応えるようになったという。
日蓮には『済生利民』の思想が欠けている。批判するばかりで何の実践もない。
じゃあさ、歴史に名高い数々の僧と比較して、これだけ明確に劣っている点を指摘できる日蓮がどうして
ここまでの存在になり得たのか、こうした点の分析はできてるのかな?
少なからずの人間を惹きつけてきたから生き残り、いまだにこれだけの勢力を保っていると思われるんだが。
460 :
乾闥婆:04/01/10 22:51 ID:???
>>445 お邪魔しますさん。
>日蓮だけでなく、親鸞、道元、法然、北条時頼、極楽寺良観(忍性)等
同時代に生きた人々を出し、立正安国論を出した鎌倉時代の禅寺と、蒙古、宋との関わり合い
も指摘しています。
それらを通してあなたは日蓮のなにを指摘したのでしょうか。親鸞に関しては
あなたはしきりに阿弥陀如来や念仏がなくとも親鸞の信仰は成り立つが日蓮は
法華経を外すとなにも残らない、だから親鸞は悟っていて日蓮は悟っていない
と主張しましたが、私はそれに対して親鸞の文章を引用したりしながら、阿弥
陀如来や念仏を外して親鸞の信仰が成立するわけがない、そのような歴史的な
伝統の積み上げや変遷を踏まえないで、ものを考えるのはナンセンスではない
かと述べました。そこでも私は歴史的文脈を読みとる視点の欠如を指摘したの
でした。それに対して特に説得力のある反論はなかったと思います。
>法華経はそのような教えでは無いというのは、立正安国論で、
正法をないがしろにして法然の説いた浄土宗を取り締まらないために、大地震、
干魃、大火、疫病等の災害が起こったとの主張と反している。
如説修行抄に「法華折伏・破権門理の金言なれば終に権教権門の輩を一人もな
く・せめをとして法王の家人となし天下万民・諸乗一仏乗と成って妙法独り繁
昌せん時、万民一同に南無妙法蓮華経と唱え奉らば吹く風枝をならさず雨壌を
砕かず、代は義農の世となりて今生には不祥の災害を払ひ長生の術を得、人法
共に不老不死の理顕れん時を各各御覧ぜよ現世安穏の証文疑い有る可からざる
者なり」とあります。日蓮らしい大袈裟な言い回しですが、おそらく真剣に法
華経が国中に広まることで天災などはなくなると信じていたのでしょう。忍性
の祈祷などははじめから馬鹿にしてかかっていたと思いますよ。まあ現代の目
から見ればどちらも馬鹿げたことですが、当時の僧たちは真剣だったのでしょ
うね。
461 :
乾闥婆:04/01/10 22:52 ID:???
>>445(続き)
むしろですね、日蓮をその筋で批判するのであれば、蒙古襲来に対する真言の
祈祷は国を滅ぼすという主張こそ批判の格好な対象となると思います。なぜな
ら真言の祈祷は行われ、蒙古は撃退され、国は滅びなかったからです。晩年の
日蓮はおそらく首を傾げていたことでしょう。信者からも疑問の声が挙がった
ことでしょう。日蓮の晩年は実は自身の信念に強い揺らぎの生じた寂しいもの
だったのではないかと想像したりします。もう少し長く生きていたら、どのよ
うなことを述べたのだろうと思います。
>乾闥婆さんはこのような考えは、鎌倉時代特有の時代背景のもとで成り立って居ると言って
いるが 、今現在、私の身近で世の中が乱れているのは法華経を信じていない人がいるせいで
あると、考えている人がいることも事実です。
今現在中世の日本人が主張したことを寸分違わず主張している人がいるならば、
その人がおかしいのであって、中世の日本人がおかしいということとはまった
く次元が異なるでしょう。そこを一緒にして話を進めないで欲しいと思います。
462 :
乾闥婆:04/01/10 22:54 ID:???
>>450 Sbさん。
>でも、日蓮さんは、法華経のみが仏性をあらわせるとしてしまった
日蓮というか、法華経系は結局法華経の方便品の開示悟入を仏性の根拠としま
したからね。あとは涅槃経でしょうか。但し彼はすべての人に法華経を授けた
かったのでしょうから「その教えのせいで、仏性が目覚めない人を生んでいる」
という視点は少し違うと思います。結果としてそうなるのですが、日蓮の思い
としてはすべての人へ能動的に働きかけて人を救い社会を救いたいと思ってい
たのでしょう。もちろん、法華経だけが、という彼の主張は間違っているので
すけれど。
>>455 >んーでも、同時代の道元さんはまったく違う法を説いたよね
それは立場の違いでしょうね。法然も親鸞も道元も結局は天台を離れるわけで
すよね。伝統仏教は貴族仏教でもあったわけで、そういうものはこの末法の世
には役に立たないとすら思ったのかもしれませんよね。ところが日蓮はどちら
かというと伝統仏教の側にいるのですよね。日蓮の比叡山に対する不満は密教
化したことであったようですし、そういう意味では最澄に帰れ、といった思い
だったのかもしれません。もちろん最澄も密教へは関心を強く示しましたが。
日蓮もどこか密教の血が流れているように思うし。まあ、どちらも鎌倉新仏教
と呼ばれる浄土・禅から見れば伝統仏教です。日蓮の出発点は隆盛する新仏教
に対する伝統仏教側からの反動であると思います。しかし若い頃書簡で記して
いた天台沙門という著名を日蓮は用いなくなります。佐渡期を経るあたりで日
蓮は伝統仏教の側から逸脱していったのではないでしょうか。情報量云々の部
分は現代の情報量のことです。当時の話であればやはり寄って立つ教義の違い、
その人物の資質の違いということになってるのでしょうね。
463 :
乾闥婆:04/01/10 22:55 ID:???
面白い文章で書きまくっている名無しさん。
もしかしてあなた、ブツ理さん?
主張がそっくり。
464 :
ひゃっきまる ◆HyaKKidsI2 :04/01/11 01:09 ID:S+uf2X+k
>>422,
>>424 >>447 はじめまして。議論というのは、議論そのものをはじ
める前に、基本的知識(この場合は仏教の歴史推移や時
代背景など)で最低限の合意、共通の認識がなければ成
り立ちません。
大概の人はその人の周囲の環境などによって知識にか
なり偏りがあります(特に宗教や思想に関しては)。そ
の意味で議論が例え平行線で終わったとしても、議論を
通して少しだけ相手との溝を埋められるということで、
意味があるでしょうね。
465 :
ひゃっきまる ◆HyaKKidsI2 :04/01/11 01:09 ID:S+uf2X+k
僕は日蓮の教義を現代でそのまま受け取る事には問題
があると思いますが、単なる狂人と捉えてしまうのは違
うと思います。日蓮の経典解釈の最大の特徴は、経典中
の人物を自身であると捉え、その役割を主体的に引き受
け、力強く実践していったところにあります。僕の勝手
な解釈になってしまいますが、「予言されている菩薩は
私だ」ではなく、むしろ「私が予言されている菩薩に
なってみせる」ということではないかと思うのです。
もちろん激しい他宗への否定・批判という面は支持で
きませんが、そのような信仰が庶民の生きる力になって
きたこともやはり事実です。それに対して他の仏教宗派
は、現実の苦悩に対して観念的に解決をはかろうとして
しまう傾向があるような気がします。実際にお金がなく
て困っているときに、「お金への執着がなくなれば苦し
みがなくなります」と言われてもすんなり受け入れられ
るでしょうか。(誤解を招かないよう補足しておきます
が、日蓮の信仰は単なる現世利益、呪術信仰とは違うと
思います)
そうだね。現代の思想背景がオウムの麻原や創価の池田を生み出したのと同じだね。
こいつらが狂人でないとしたら日蓮も狂人でないと言い張りたいんだろうね。
真言立川流のように徹底的に弾圧されて滅んだ宗教でないんだったら現代に
その価値を見出せとでもいいたいのかな。
能書きばかりで何も大したことが書かれていない法華経と口ばかりで何の実践もない日蓮。
まあ似つかわしいといえば似つかわしいわな。
>>465 ひゃっきまるさん
あなたが他宗を批判する論拠は何ですか?
日蓮在世時を言うなら、日蓮より忍性や叡尊の方が遥かに現実的な救済を行っています。
忍性の場合、生涯に189の橋と71の道路、33の井戸を作り、悲田院や敬田院などを再興しています。
1287年開設の桑ケ谷療養所においては、20年間に46800人の患者を救っています。死亡者は10450人、完治率八割は当時としては驚異的です。
雨乞いくらいミスっても、忍性への世間の信頼がゆらがなかった訳が分かりますね。
行基や空海、空也らの社会・慈善事業の業績も、広く一般に知られています。
道元が伝える栄西のエピソードには、彼が弥勒像を作るための浄財を貧しい人に施してしまった話があり、
栄西は「仏の心を思えばそうするよりなかった。仏罰があたり地獄へ落ちるというなら落ちよう」と語ったとされてます。
このような観念的でない活動の形跡に乏しく、信徒の仕送りに頼りながら救済の理念のみを説いた
親鸞や日蓮は、尊敬に値せずとする批判さえあるのですがご存じでしたか?
さらに現代を言うなら、慈善救済活動にもっとも熱心なのはキリスト教でしょう。
そのキリスト教が生んだホスピス活動に、浄土真宗等も仏教の立場から参加しており、ビハーラ運動といいます。
たしか日蓮宗も、身延山にはハンセン病の療養施設がありました。
あなたは、このような諸宗教・宗派の救済活動の歴史や現状を、詳細に比較検討分析なさいましたか?
察するに、自分の見聞きした範囲で、何となくそんな気がしただけでしょう。
よく知らない事を自分が書いていては、他人のそういった態度を批判する事は出来ません。
>>465 > もちろん激しい他宗への否定・批判という面は支持できませんが、そのような
>信仰が庶民の生きる力になってきたこともやはり事実です。それに対して他の仏教
>宗派は、現実の苦悩に対して観念的に解決をはかろうとしてしまう傾向があるよう
>な気がします。実際にお金がなくて困っているときに、「お金への執着がなくなれ
>ば苦しみがなくなります」と言われてもすんなり受け入れられるでしょうか。
>(誤解を招かないよう補足しておきますが、日蓮の信仰は単なる現世利益、呪術信仰
>とは違うと思います)
だからな、なんども言ってるようにだ、、わかるか?俺は喪前らニチレン教の信条って
ものを如実に端的にバシッと表現してやっているだろがよ。
それは藻前も三唱だけは続けていますとか抜かしておるように、そいつが藻前の
「生きる力」なんだろ?な、それが何かについてはさんざんここまで書いてやったよな。
見てるかちゃんとよ?
だからな、要はもめえはそれを言ってるにすぎねえんだよ、ニチレンの教説がこれまで
庶民の生きる「現実的な力」になってきたってことの意味は要するに、お題目を唱える
とフシギに元気が出て前向きに生きられるような気分になるからってことでしかない
のんだろ?もめえはそれをいいたいんじゃねえのか?なあ?だったら俺の言ってること
そのもんじゃねえかよ。
俺はそれは宗教の教説にしちゃ底の浅いただのごまかし教説にすぎねえって言ってる
わけだよな、しかも大乗非仏説でポッケ教のタイトルなんてブッダが考えたわけがある
めえがよw。こいつは証明せられたるに等しい現実だろ。なあ、つまり、ニチレンの
論理は、[1]洩れの主張している原理として否定できる[2]仏教学の結論としてブッダ
非説の傍証もある この2点からの結論としてもう現代では「信じるべき宗教」からは
完全に外されて、新たに解釈しなおしてそこから心理学や生理学なんかの科学的研究
対象として研究されその秘密を暴くべき対象になっただけにすぎねえだろってことだよ。
もうニチレン的妄想にもとづいた宗教に見せかけたエセ議論、エセ布教は完全に止める
べきだぜ。なあどうだ?>ヒャッキよう
>>463 そうだなああ、そんな奴もいたような気もするな(w。
まあ奴もコテにすると好きなときに勝手きままに出入りするのに面倒だしな、
こうやっているのかもな。(元の議論の続きもしなくちゃならねえようだと、そいつ
が困るんじゃねえの。誰とはいわんがwww。もちろんそいつは藻前じゃねえわな)
だからま、こんなんでちょうどいいんじゃねえのww。
それにしてもも前はいつも純粋で教養もあり理解力が豊かで議論の態度も大変立派だ。
モンなでそんな奴はそんなにいねえ。ガンガレな。
472 :
ひゃっきまる ◆HyaKKidsI2 :04/01/11 12:23 ID:S+uf2X+k
>>459 >じゃあさ、歴史に名高い数々の僧と比較して、これだけ明確に劣っている点を指摘できる日蓮がどうして
>ここまでの存在になり得たのか、こうした点の分析はできてるのかな?
>少なからずの人間を惹きつけてきたから生き残り、いまだにこれだけの勢力を保っていると思われるんだが。
だからこれもおんなじだな。
>>470で言ってるとおりだろw
なあ、隠れ強弁屋なあwww。
ええかげんでエチレン教はやめや(w。スレタイにある通り、ブッダとは無関係の
代物を関係あるかに錯覚し、それを経文で証したかのごとくに主張しているだけの
ものよ。
ここまでずっと書かれてきて結論はとっくにでとるんじゃねえの?な。
おれはニチレン教はブッダと関係させないで勝手にほざいている教説として
仏教の外でやらせる分には文句はいわねえぜ。外道の新興宗教として明確に旗を
掲げて「し合わせになりましょう、元気を出す魔法教ですよ、さあさあよってらっしゃい
みてらっしゃい」でやってくれれば「ああそうよかったね」で済ませられるはず
だぜ。なあ、そうしろや>ニチレン教ども。そいでなら誰も文句をいわんぞwww
>>465 >現実の苦悩に対して観念的に解決をはかろうとしてしまう傾向があるような気が
>します。実際にお金がなくて困っているときに、「お金への執着がなくなれば
>苦しみがなくなります」と言われてもすんなり受け入れられるでしょうか。
だからこれも必ずしもホントにそうなんか、ちゅうてるわけだがな。
もしブッダの悟りに到達すれば、現実的に病からも救済されるし、そして必要なら
経済的な助けだって降りてくる、そういうことが本当に必要かどうかは仏が判断する。
「生死即涅槃、我も藻前も世界も宇宙も全部が仏である」ことを万法が万法の方から
修証すると言っているのはそのことだろう。これは己を仏に預けたときに可能になる。
たとえ不治の病いと思われたものでも、それが悟と同時に万法が万法の方から修証
して病がたちどころに治ったりする。こういうことはちゃんとある。仏陀の悟りに禅で
到達しても病が治ることもある、また飛んできたミサイルが目の前で落ちて安全が
保証されることだってある。
「自己即仏を領解することを以って仏法と知ったというならそれは必ずしも正しく
ない」ということには、実はこういうことも含まれている。ただしそれは本来の意味
で何を悟るのかということに関係しているが故に、これは仏教であるおのれの念力で
魔術を行なう魔法教ではないのさ。だからこそこういうフシギなことを以って布教する
のではない。これが仏教の仏教たる所以だ。
>>474 >もしブッダの悟りに到達すれば、現実的に病からも救済されるし、そして必要なら
>経済的な助けだって降りてくる、そういうことが本当に必要かどうかは仏が判断する。
>「生死即涅槃、我も藻前も世界も宇宙も全部が仏である」ことを万法が万法の方から
>修証すると言っているのはそのことだろう。これは己を仏に預けたときに可能になる。
>
>たとえ不治の病いと思われたものでも、それが悟と同時に万法が万法の方から修証
>して病がたちどころに治ったりする。こういうことはちゃんとある。仏陀の悟りに禅で
>到達しても病が治ることもある、また飛んできたミサイルが目の前で落ちて安全が
>保証されることだってある。
正気かお前は・・・
そんなの仏教じゃねーべや。
だが、話が逆になれば魔法になるわけだな、まさしくだからこそニチレンは
邪道の魔法教になるわけさ。念力で意志力で世界を自分の都合で変えていくと
いうのは、間違いなく「仏教」ではないだろうな。
それは地獄への道にかなり近づく唯物論的世界観の競争世界、戦争を生み出す
争いの世界を生み出すことに通じているからさ。だからこそニチレンは経論を
勝負と呼び、勝ち負けの世界が仏教だなどと述べているに至っている。
だが「仏教」はどこまでもそうすることを教えない。それこそが仏教の意味
だとさえ言えるんじゃねえのか?
だから念力で世界を自分の幸福のために変えることを推奨する思想は明らかに
仏教ではない。それは意志によって世界を改造する思想の元であるキリスト教的
であり、また科学技術の思想なのさ。
ニチレンの「題目」という思想は、この観点でも明らかに悟からはほど遠く、
そして世界を万法の側から証する宗教ではないだろう。仏教ではないのである。
>>474 句点が抜けたのでおかしかったぞな。以下訂正
>ただしそれは本来の意味で何を悟るのかということに関係しているが故に、
>これは仏教であるおのれの念力で魔術を行なう魔法教ではないのさ。 ×
>ただしそれは本来の意味で何を悟るのかということに関係しているが故に、
>これは仏教である。おのれの念力で魔術を行なう魔法教ではないのさ。 ○
>>475 さよう、
>>476の通り「結果を予見してそれを期待して悟る」のは全然悟りにあらざる
なり。しかりアーメン。
478 :
名無しさん@お腹いっぱい。:04/01/12 01:31 ID:ZOA/G4he
狂ってるな、このスレ。
宗教の視点の外から自分を客観視して見ろよ。
外基地1匹のせいで糞スレ化だね
マジで皆に迷惑がられてること気付いてホスィ
100人厨は基地でもレスが短いからいいが、
誰も反応してないのに長レスはマジでやめろ
日蓮スレもブツ理のせいで潰されたしな
反論があればすればいいことじゃねえのか?(w
反論ができないということは起論を正論と認めたといわざるを得ない。
ぐずぐず言うしかない日蓮教の未来はないだろ?www
アフォが。ニチレンニチレン言ってるがお前はそれ以前なんだよ
基地外とは会話にならんし疲れるから誰もまともに相手しないだけ
お前みたいなアフォがいるとアンチ全体が誤解される
アンチもいろいろ意見があるだろう。あればそう言えばいいじゃないか。
何でも自由だぜ。それとも何かおれに黙れと言っているのか?w
それなら言論の自由の否定だろそんなもんはよ。藻前も言いたいことをいえばいい
ぜ。それともニチレンは言論を言うなと教えたのか?おかしな話だぜw。
せっかく真面目にやりとりできてる良スレを糞スレ化すんなってことだ。
お前専用のスレでも作っていくらでも意見言ったらいいだろう。
それから相手をするとつかれるってのはナンのことだかわからねえが、
間違いだと思えばそう言えばいいことよ。少なしこれは正論だな。
ニチレンの本質はあくまでも仏教思想ではなく念力教、その紀元は真言的
呪術教的思想に起源を持っているといわざるを得ないだろう。念力教として
のそれは本質として仏教ではないことは自明、仏教を汚さず外に出てニチレン
教を説け。そうすれば問題ない。と俺は思うぜ、ってだけよ。文句があれば
言えばええぜ。ただそれだけだろ?w
アフォか。ここにはニチレン教徒なんざいねえ。お前は誰に議論しようとしてるんだ。
ケンダツバとかひゃっきでさえ違うじゃねえか。
まあいい。お前はこれからいつも3行以内でレスしろ。
長 過 ぎ て 読 む の ウ ザ イ ん だ よ ! !
ニチレン教の元は日蓮だから、批判されるべきは歴史の起点にまでも及ぶべきだ。
そして現代において正しく解釈する道を用意すべきだ。そしてその過ちも間違いも
おかしさも全部批判される対象にすべきなのさ。なぜならそれが起点になって忘れた
頃にまたカルト教になって出てくることになるからさ。カルトは巧妙に絶対性を主張
して必ずコウなるからこれは真理だと論理の摩り替えをやってみせて人心を手品で
掌握するから、手品は始めからやめさせる必要があるわけさ。それだけだな。
だからお前誰に向かって言ってるんだよ
いい加減シツコイぞ
ちなみにお前みたいな自分が正しい的他者排他的な態度がもっとも仏教が嫌うことだって知ってんのかね。
489 :
:04/01/13 15:43 ID:???
>>400 よくおわかりで(w
凡夫=仏と誤解させているのは、日蓮の教えを守らぬアホ。
日蓮に対する裏切り行為そのもの。
なので創価学会は、日蓮信者ではない。
ただ、それだけのことだよ。
>宗教者>ニチレン
で、これは言ってないけど?
日蓮は凡夫と自己否定してから、悟りへと至ったわけ。
天台系では、一度、自己否定してから悟るんだよ。
一切衆生は凡夫なんだからね。
で、凡夫の日蓮は、修行をし悟りを拓いて仏になった。
でも創価学会員は、凡夫=仏なんだから、凡夫のままで良いとするわけ。
490 :
:04/01/13 15:45 ID:???
>>444 >こいつは勘違いしてオウムの瞑想でも教えたらんとか考えとったらあかんから、
>いろいろ問題を出して正しく解けるかどうかテストするってな感じだろな。
>それが禅問答にもなっとうちゅうこっちゃな。考えちごうしてたらあかんでてな。w
形骸化した禅の説明をありがとう(w
「本来無一物」と答えれば良いのは、形骸化したQ&A方式の禅。
これをどう言うのかが、その禅僧の悟りの程度を示すんだよ。
ちなみに芭蕉は「蛙飛び込む水の音」で印可を貰っている。
これは雨が降った後の苔が美しいのに気がついて、ニコニコしてたら、
なんとかいう禅師に理由を問われて答えるわけ。
で、禅師は、続けて雨が降る前はどうなのかと問う。
芭蕉は、どう答えようかと考えているその時に、蛙が池に飛び込むのを聴き、
「蛙飛び込む水の音」と答えた。
「蛙飛び込む水の音」=「芭蕉飛び込む水の音」でも良いんだけど、
これが無の境地、つまり悟ったからこそ出る答えなわけ。
491 :
:04/01/13 15:57 ID:???
>>462 鎌倉新仏教の中で、日蓮が伝統仏教よりというのは、確かにそうかも。
日蓮は、天台教学を受け入れてるし、ほとんど最澄の教えを前提に、
構築してるわけだから。
ただ禅も伝統仏教よりですよ。
興善護国論は、立証安国論同様に、仏教に国家観を導入した大乗仏教。
で、念仏は、後に一向宗が出てくるように、
国家観を排除というか薄まったというか、民衆を重視して、
小乗仏教的になっていく。
だから念仏は、日蓮に批判されたという見方もあるかも。
>>469 曹洞宗も、NGOで大活躍してる。
492 :
:04/01/13 16:06 ID:???
>>470 >だからな、要はもめえはそれを言ってるにすぎねえんだよ、
>ニチレンの教説がこれまで庶民の生きる「現実的な力」になってきたって
>ことの意味は要するに、お題目を唱えるとフシギに元気が出て前向きに
>生きられるような気分になるからってことでしかないのんだろ?
ちょっと違う気もするけど、まあ似たようなもの(w
創価学会も含めて、日本の仏教は、ほぼ壊滅してるから。
明治以降、戒律を守らなくて良くなって、僧侶が潰れた。
創価学会は、僧でもなく単なる信者でもない、
宗教的指導者として食っていく道を選んだ。
戒律を破っても良い僧侶のできあがり(w
本来、戒律を破っても良いとされるのは必要に迫られてのこと。
例えば、肉を食べて良いのは、力仕事をするからとか。
だから創価学会は、戒律破りの破戒僧集団(w
でもね。日蓮は正しいのよ。日蓮の弟子を名乗るのがおかしいだけで。
で、日蓮の弟子でまともなのは久保田師などで、創価学会には皆無。
493 :
お邪魔します ◆nH2G.RjIE2 :04/01/13 18:35 ID:SdZnXrTM
やっと書き込み規制が解けた。せっかくの連休がパァになってしまった。
そういうわけでだいぶ遅れましたけど
>>459さんへ
鎌倉時代後期で日蓮、親鸞、道元を比べると、日蓮が一番勢力があった。
親鸞の場合、関東の高田に信者がいるだけで、浄土信仰は法然の浄土宗、踊り念仏の
一遍の時宗が主流であった。親鸞の開いた浄土真宗が広まったのは戦国時代になり、本
願寺(親鸞の墓所)に蓮如という天才的な布教家が出てきてからである。それまで親鸞
に対する記述がないため、明治時代になって親鸞が本当にいたか、蓮如が浄土真宗に箔
を付けるために、法然の弟子としての親鸞を捏造したのではないかと疑ったほどである。
道元は出家至上主義を貫き、女子の救済に付いては冷ややかであった。激しい修行
を求める道元の教えに、一般大衆は付いていけず生涯に主な弟子3人と、寺2つを造
っただけある。曹洞宗が広まったのは道元から四代あとの蛍山が出てからである。蛍
山は道元が否定した、加持祈祷を取り入れ、女子の参加を認め、積極的に寺を造り弟
子を養育した。現在一五〇〇〇寺ある曹洞宗の寺の七〇パーセントは蛍山とその弟子
の峨山の流れを汲むものである。
494 :
お邪魔します ◆nH2G.RjIE2 :04/01/13 18:36 ID:SdZnXrTM
道元の出家至上主義と激しい修行は分かるとしても、親鸞の難しい修行も必要とせ
ず、僧侶の妻帯や、生臭ものを食べても構わないと言う大衆的な教えでも「親鸞は弟
子の一人も持たず候」等と言っていては広まらないと言うことです。
ここで、始めから一般大衆に広めることを目的とした教えを説いた男がいた。そ
れが日蓮である。当時はやっていた法然の教えを参考にして、念仏の替わりに題目
を唱えるだけとし、来世の救いより、今生きている現世での救いを説いた。大衆化
のため法華経の現世肯定的な教えは、ブッダの純粋な教えから外れてしまったこと
は否定できない。さらに自分の宗派が絶対であるとするあまり、他宗に対する激し
い批判は、激しい反発を生み出してしまった。しかし法華経の布教における一途な
態度と、正直(ホント、馬鹿正直なんだからもう少しうまく立ち回れないかと思う)
さは、前向きな姿勢と現世肯定的な教えにより、人々に受け入れられたのは間違い
ない。
道元や親鸞のように、個人的な悟りや救いを求める姿勢と違い、始めから多くの人
々の救いを目的とする日蓮の行動は、大乗仏教の精神そのものと言える。
ただその教えがブッダの唱えた教えに合っているかどうかは、別問題ですけどね。
495 :
お邪魔します ◆nH2G.RjIE2 :04/01/13 18:42 ID:SdZnXrTM
>>443の続きね。
悟りを始め、無我、空に対する独断と偏見に基ずく私の勝手な思い込みを書いてお
くね。
上で述べた曹洞宗の蛍山が師から印可を貰ったときの様子を、載せてみる。
瑩山さまはさっそく義介禅師の部屋に赴かれ「我れ会せり」(仏法がわかった)
と申された。師匠は「汝如何が会すと(どのようにわかったのか)」問われると、
瑩山禅師は「黒漆(こくしつ)の菎崙(こんろん)、夜裏に走る」と。黒光りす
る真っ黒いものが真っ暗闇の中を走るようなもので分別無しの絶対の境地である
と呈せられましたが、師匠はまだこれを許さずに「未在、更にいえ」(別の言葉
で更に申してみよ)と迫られるのです。瑩山禅師は「茶に逢うては茶を喫し、飯
逢うては飯を喫す」と答えられました。すると徹通義介禅師から「爾、超師の機
あり、よろしく永平の宗旨を興すべし」と言って印可を与えられ、仏の大法を相
続されるのであります。
このように一度悟り・空の状態をとおり、また元の世界に戻ってくるのです。
元に戻った世界は悟る前の世界と同じですが、どのようにしてこの世界が出来てい
るか、自分というものはどのようなものか、はっきり分かるようになります。ここ
において、凡夫本仏、諸法実相の本当の意味が理解できるようになります。
496 :
お邪魔します ◆nH2G.RjIE2 :04/01/13 18:46 ID:SdZnXrTM
この世界はあるとも無いとも言えない未分化の世界であり、自分が言葉や意識で分
別するデータを集めることにより、物事が生じると考えています。
空
/ \
色即是空 空即是色
/ \
(実である)色1 色2(仮である)
上の図のように私たちが実体があると思っている世界(色1)が、空というフィルター
を通すことにより、実体を持たない仮の状態である(色2)に変化します。
色1と色2は外見上は同じであり、私の意識の中で区別しているのに過ぎません。
ただ色1と色2の違いははっきり自覚できます。
空
↑ ↓
(実である)色1―――色2(仮である)
色即是色
こちらの図は空を体験していない(悟っていない)場合です。この場合は、色1と色2
との違いがはっきり区別できず、煩悩、欲望にまみれた凡夫がそのまま本仏になったり、
本来は何等実体を持たず、いろいろな縁によって成り立っている事物が、永遠不滅の実
体を持ち、そのまま空である実相として、認識されてしまうのです。
>>305で述べたとおり、日蓮は自分が存在し、自分と他のものをはっきり区別し、他
のものは、苦しんでいるものであり、自分が救うべきものであるとしています。この
ことは一度自分の全世界を否定し、全てが不分割で混沌とした世界であることを実感
し、新たに世界を再構築するブッダの教えと違っています。
>>496 異議あり
物質を質量、エネルギー、波動で分類した場合の別表現として
捉えられていたと考えてもおかしくない三蜜という思想がある。
似たような例としてはアリストテレスが唱えた四元素説もある。
四元素説は土、水、風、火を物質の四態と捉え一般的な温度変化による
固体→液体→気体→プラズマの変化に等しいと考えることもできる。
この2つの思想は物質の本性を哲学的な思索で説明するものである。
空もまた同じである。空は物質を全て可逆性のあるものと捉え、絶えず変化し
一定の状態に留まることを示さない根本の性質を表現するものに他ならない。
だから概念的なものであるから実はその存在自体はない。
しかし、その概念的なものであるから実はその存在自体がないという性質が
あらゆるものにもあてはまるから全ては空だと説明されるわけだよ。
498 :
春田の蛙 ◆j/aD5mpE9Y :04/01/14 01:51 ID:dtMs6u3t
多少の誤解には口挟まなかったんだけど…
お邪魔しますさん、
>>493-494の分析はさすがにちょっとマズすぎます。
根底的な誤解は、現在祖師として一派に崇められているから、祖師の時代もそうだと言う思い込みです。
道元も親鸞も、当時は禅や念仏内の一僧侶です。
日蓮もまた然り。彼には正当仏教の沙門と言う自覚はあっても、日蓮宗の祖師なんて自覚はなかったでしょう。
少なくともそんな主張はしてないと思います。
それに今現在は有名でなくても、当時は彼ら以上に高名だった僧侶はたくさんいます。
499 :
春田の蛙 ◆j/aD5mpE9Y :04/01/14 01:56 ID:dtMs6u3t
思うに、参考にされてる資料に何か問題があるのでは?
親鸞の弟子の数にしても、高田以外に鹿島・横曽根といった有力集団をはじめ
数多くの弟子集団があり、資料に残るリーダー的弟子だけでも78名を数えます。
『近世往生伝の研究』などで知られる笠原一男氏は、総数は万を越えると推計してますよ。
法然の末弟である親鸞門下だけでこの隆盛です。
だからこそ苦々しく思う方もいたのでしょう。
それから一遍の全国遊行は親鸞の没後です。
各宗派を比較されるなら、せめて時代を年表で確認された方が良いと思います。
500 :
お邪魔します ◆nH2G.RjIE2 :04/01/14 07:56 ID:2w2U3Hb5
春田の蛙さんへ
親鸞は法然の弟子との立場でよいと思います。親鸞が晩年京で過ごしたとき、東国
の信者の寄進で生活していました。近畿地方には大した地盤がなかったと思いますが。
伊勢に池田派がありましたが。それらは同じ信徒集団としてであって、教団としての
行動はしていませんね。
一遍は全国的に遊行し、没後に残した勧進帳によると、念仏札の配布は25万枚に
なるとする資料がありました。年代が違っても、一遍は日蓮よりわずかに遅れてい
るに違いません。親鸞の晩年と日蓮の活躍した時代は重なっているので、一遍と親鸞
の差は、法然と日蓮程の差ほどはありません。
道元は栄西の流れに一時身をおいたにしても、鎌倉幕府に密着した臨済宗に対して
批判的であり、純粋に禅を求めていったと思います。これは後に鎌倉幕府が土地の寄
進を申し出たときの反応で分かります。あくまでも臨済宗と違い俗化しない独自の路
線を進もうとしていた。
日蓮は天台沙門としての意識はあるにしても、立宗宣言をして法華経中心の信仰集
団を創ろうとしていたと思います。
当時は鎌倉新仏教の活躍でばかりでなく、旧仏教の復興も盛んであったのは理解し
ています。忍性、明恵などの人ですね。
まァ、私の場合はこれと行った信仰はしていませんので(正本堂があったとき学会と
関係していましたが)各宗派の正確な教義や歴史については間違っているところがある
と思います。でも外部から見ている分には、このようになると思いますが。また変なと
ころがありましたら、指摘して下さい。
501 :
春田の蛙 ◆j/aD5mpE9Y :04/01/14 16:38 ID:hYUfaJm5
> お邪魔しますさん
> でも外部から見ている分には、このようになると思いますが。
実は意図が読み込めず
>>493>>494を何度か読み返したんですが、
禅や念仏を離れた各祖師の比較だったんでしょうか?
でも、だとするとあまりにおおざっぱですよ。
「厳しい修行したから誰もついて来ない…」なんて評価を道元にするのはあんまりです。
栄西だって修行や戒律は厳しい。帰化禅僧だって同じです。
大体なんで道元がああしたかって、中国での師である如浄の教えを守ったからでしょう。
如浄だって、中国で弟子たくさんいましたよ。自分の拳が割れるほど弟子殴ったらしいけど。(笑)
それでも禅は興隆した。
道元以外は修行が厳しくなかったと思ってるなら、はっきり誤解です。
さらに道元個人の姿勢=独立分派の意思でもないです。
禅の高僧は、よく同門や先師を名指しでこきおろしてますが
「祖を殺す」のは禅なら問題ありません。日蓮宗や法然門下とは違いますよ。
502 :
春田の蛙 ◆j/aD5mpE9Y :04/01/14 16:38 ID:hYUfaJm5
ですから重ねて言いますが、教えを比較するなら道元は禅、親鸞は念仏の一員として対比すべきです。
一遍を分けるのは、諸説ありますが私はかまわないと思います。(法然、親鸞)(一遍)と言う分け方なら。
むろん道元自身は、禅宗ではなく
これが仏法の正門と主張するでしょうが、客観的には禅ですから。
親鸞が、邪宗にあらず師法然の浄土門こそ真宗と唱えたのが、
いつのまにか自身の宗派名になったようなもんです。(笑)
ですから
>>494で親鸞の教えとして例に出されたのは、すべて法然が説いた内容ですし、
その法然の念仏が広まっている以上、
>>494の比較自体なりたちません。
ただし解説したように、親鸞が布教してないわけでも門弟がいなかったわけでもないですよ。
彼は法然の弟子として熱心に布教した。布教したから門弟が出来た。
ですから
>>494の親鸞に関する記述も問題あります。
引用された歎異抄の文句、前後を読まれれば分かりますが、教えを広めないなんて話してないんです。
親鸞は、自分を師として恩を売ってはいませんが、弟子として法然から受けた恩はくどいほど語ってます。
教えたと先生ぶらないだけで、教わった感謝は述べてますよ。
恩着せがましい師匠には、自然な感謝の気持ちなんて湧いて来ないって話です。要は。(笑)
503 :
春田の蛙 ◆j/aD5mpE9Y :04/01/14 16:48 ID:hYUfaJm5
これは私の推測ですが…お邪魔しますさんを始め、皆さんが宗教について調べられる際の誤解は、
おそらくは参考にされているだろう宗教学者・研究者の本に問題があるのではと思います。
自宗から一例をあげますが、親鸞の悪人正機は親鸞のオリジナルではありません。
親鸞は法然からそのように教わり、忠実にその教えを守っただけです。
法然の伝記として弟子源智の編纂した『四十八巻伝』にも、親鸞の孫如信が玄孫覚如に口伝した内容である『口伝鈔』にもそれは明らかです。
『歎異抄』も、一〜九章までは親鸞の語録であって、親鸞が「よて善人だに往生すれ、まして悪人はと、おほせさふらいき」と話しているのですから、
彼が法然から『おほせさふら』いたのは明白です。
創価学会のような宗教を基準に考えると分からないかも知れませんが、
普通宗教は自分をきちんと見つめるところから始まります。
だから、人間の陥りがちな性質はよく自覚している。
一度定説として発表するとひっこみがつかないなんてのも、そのひとつです。
今日に至った詳しい経緯や分析は省きますが、
だから本願寺出版局が出してる『漫画歎異抄』では、素直に悪人正機は法然の教えだと解説してるのに、
宗教学者のひろさちやさんなどは、今だに親鸞の教えは法然と違うと強情を張る。
宗教というのは、大抵はこういったヒトの業を戒めているのですが、頭で理解していても教えが身に付いてないと『ああ、そこは間違えてたね』と単純に認める事さえ出来ない。
こういうのを浄土真宗では、聖教読みの聖教知らずと言います。
こういう学者や研究家の、我の張り合いが含まれた二次資料を読み比べるから、どうにも混乱したり解らなくなる場合はあると思いますよ。
一人の人間が一生を懸けて考え育んだものを、そうそうお手軽に理解出来るはずはないのです。
創価学会の他宗理解はもちろん論外ですが、いくつもの宗教をさも分かったように比較解説している本は、大抵怪しいと考えて間違いありません。
…そう考えると、お邪魔しますさんのせいじゃないよなあ。
手厳しい言い方して、すみませんでした。m(__)m
504 :
Sb ◆SbSGI7AtEA :04/01/14 16:54 ID:WViDD5ra
>>462 >乾闥婆さん
>法華経だけが、という彼の主張は間違っているのですけれど。
そこなんですよ、そこに悟りを感じられないのです。
実際、「法華経だけが」が生み出すのは
絶対、最高、などの差別的思考です
差別的思考には仏性はありません
それと、「法華経だけが」がもうひとつ生み出すのは
原理主義、教条主義です、これは仏教ではない
「正しいことをするためなら、間違ったことをしてもいい」
わけがありませんよね
505 :
春田の蛙 ◆j/aD5mpE9Y :04/01/14 16:56 ID:hYUfaJm5
>>502 ×教えを比較するなら⇒彼らの当時を教団としてグループ分けするなら
度々すみません。(汗
506 :
ひゃっきまる ◆SOUL49VucA :04/01/14 19:15 ID:K4I5HjXS
>>503 春田の蛙さん
ご意見感銘を受けました。
507 :
お邪魔します ◆nH2G.RjIE2 :04/01/14 19:30 ID:nCiFrrhY
春田の蛙さんへ
いろいろ説明有り難うございます。普通教科書には、親鸞の教えは万民に受け入れや
すいため自然に広まった、このように書いてありますが、法然の場合は弟子があちこちに
布教し、寺を造り積極的に教えを広めて行きましたが、親鸞の場合あまりそのようなこと
が知られていないせいもあるでしょう。あと五木寛之さんの本で蓮如が東国からのお布施
が少なく、困窮していたことが書いてあります。このようなことが影響してるかも知れま
せん。あと私の場合は浄土宗と浄土真宗は同じ浄土系でも、違う宗派として認識していま
すね。
493.494の文は教えの比較のためではなく、一つの宗教が広まるためには、大衆の
支持が必要である事が言いたいのです。そのためには、普通の人が宗教に抱いている期待、
病気平癒、家内安全、五穀豊穣等の現実的な願いにどのように答えるか、また善因善果、
悪因悪果的な宗教理解に、どこまで近づけるかが問題だと思っています。また日本古来の
神道の神、それにまつわる霊魂の取り扱いがあります。
嘆異抄も俗化する信仰に対する警告の書ではないでしょうか。
民衆に受け入れられる & 国(州、藩、地域おさめる豪族)に
認められないと寺はおろか布教さえ困難だったのではないでしょうか。
今では、多くの諸派でも権力に抵抗し民衆に受け入れられた
などと言っとりますが、実際は、権力に関与しようと努力してたと
考える方がなにかと整合性とれます。。
>>496 >>497 これほどの馬鹿カキコはあまりない。
恥ずかしいからこういうことは自分の心で思っても言わない方がいい。
できるだけ罵倒は避けて、反論もどうしてなのか
資料なり考察なり、何か内容あるカキコで続けて
頂けただけたらあり難いです。
>>503 親鸞は阿弥陀仏に帰依したというよりは法然に帰依したと言うのだろ。納得。
>>509 その通りだ。意味の無い形而上の話など書くこと自体が恥じ。
512 :
春田の蛙 ◆j/aD5mpE9Y :04/01/14 22:56 ID:dtMs6u3t
>>506 ひゃっきまるさん
いえ、感銘というほどの内容では…
それより先日は手厳しい書き方をしてしまい、すみませんでした。
重ねてレスを頂き、本当にありがとうございます。
>>507 お邪魔しますさん
なるほど。教科書はそういう記述なんですね。
教科書から離れて、早幾年ですので…(汗
>>511さん
ええ。親鸞にとってはあくまで法然あっての信仰であったと、私は思ってます。
513 :
春田の蛙 ◆j/aD5mpE9Y :04/01/14 23:02 ID:dtMs6u3t
>>508さん
まさにその通りです。
その視点からは各宗派さまざまな歴史がありますね…
ご主旨とは外れますが、まず自宗の近世の例からひとつ。
戦前浄土真宗では、経典類の一部を、国に配慮して訂正やカットをしてます。
西本願寺が昭和十五年「聖教の拝読ならびに引用の心得」で通達したところによれば、教行信証等の勅命・教勅を
恩命・教命としたり、「菩薩戒経に言わく、出家の人の法は、国王に向いて礼拝せず〜」
は引用拝読しないなど、訂正削除は十三か条におよんでいます。
514 :
春田の蛙 ◆j/aD5mpE9Y :04/01/14 23:03 ID:dtMs6u3t
戦前戦中の国家統制への協力を、日本基督教団では
サイトのトップで懺悔してますが、こういうのは良いですね。
ご指摘の創草期にあっては、禅の栄西を――むしろ尊敬出来る例として挙げたいです。
彼は確かに権力に接近していますが、禅の興隆を願っての事であったと思います。
彼にしろ法然にしろ、顕密伝統仏教の狭間で宗派を立ち上げるには苦労しています。
次の世代を担った道元や親鸞を、創草期の彼らと同列に論じて
思想の純粋性を問うのは、時代感覚の欠如と言えるでしょうね。
515 :
:04/01/15 00:18 ID:???
>>503 >創価学会のような宗教を基準に考えると分からないかも知れませんが、
>普通宗教は自分をきちんと見つめるところから始まります。
>だから、人間の陥りがちな性質はよく自覚している。
その通り。
天台系(最澄、法然、道元、日蓮)は、自己と徹底して向き合い、
自己の醜さを知り、徹底して自己批判をする。
で、自分を悪人だ、凡夫だと言い切る。
一度、自分がくだらない人間だと悟ることが、成仏への第一歩。
真言系は、自分の醜さを知り、その醜さを肯定することから始まるけど。
とまれ親鸞の悪人正機は、法然は自分を悪人と言って、
親鸞は自分を愚禿と言っている。
これを考えれば、法然に学んだ、少なくとも姿勢を学んだわけで。
>>492 >でもね。日蓮は正しいのよ。日蓮の弟子を名乗るのがおかしいだけで。
>で、日蓮の弟子でまともなのは久保田師などで、創価学会には皆無。
「日蓮は正しいのよ」ほう、曼荼羅本尊を拝んでりゃいいってのは教祖日蓮から
クボタ〜創価学会までみんないっしょなんですがw、そんなもんは仏教のわけない
べ(ワ)。
正師釈尊 = バラモン教に由来する権威や霊崇拝などの根性自体から完全に離背し、
ただ真実を悟ることを説いたのみ、そしてそこにこそ人間の救いの
まっとうな道があると説いた。
日蓮 = なんでもいいから題目を唱えていろ。それ以外は触ってもあかんのや。
何、見る対象がほしい?そらこのご本尊を書いてやったからこいつを
拝んでいろ。どうだ?気分ようななるやろ?これがお釈迦様の言い
たかったことだぞ。おれが見つけてやったんだぜ、感謝しろや。ああん?
これはどう説明すると同じになんのだや、丁寧にわかりやすく説明して証明してみそや(プ)
>日蓮最高のおっさん。どうや?んん??
なん度も言うが、日蓮は仏教の外に出ろ。いいかげんわかれな。
>>515 >天台系(最澄、法然、道元、日蓮)は、自己と徹底して向き合い、
>自己の醜さを知り、徹底して自己批判をする。
>で、自分を悪人だ、凡夫だと言い切る。
>一度、自分がくだらない人間だと悟ることが、成仏への第一歩。
>真言系は、自分の醜さを知り、その醜さを肯定することから始まるけど。
おれの見る限り道元はそんなことを一言もいっていないね。
釈尊もそんなことは言ってないな、おそらくな。そんなことを言うのは、
キ リ ス ト 教
みたいなもんだぜ(ワ)。
だが親鸞だのが言うのはまあいいとしよう。あいつはどうせキリスト教だしよ。
現世に現れることのなかったキリスト、つまり肉を受けなかったキリストを阿弥陀
如来だと言ったようなもんだからよ。まあ許してやろう。正直いえばこれもホントは
仏教から出て行くのが正しいがな。
誤解しないうちに言っておくが、おれは仏教が最高でキリスト教がどうしょう
もないなどと言っているつもりは全然ない。
ただし、違うものを同じだというのは間違ってるだろといっているのみ。
概念の異同をわきまえないなら全部が空しい議論になるぜ。それだけだ。
519 :
名無しさん@お腹いっぱい。:04/01/15 00:49 ID:GuEx23EC
>>517 >つまり肉を受けなかったキリストを阿弥陀
> 如来だと言ったようなもんだからよ。
残念でした。法蔵菩薩が阿弥陀如来におなりになるのですよ。
横レス失礼しました。
520 :
お邪魔します ◆nH2G.RjIE2 :04/01/15 01:37 ID:JAIDU/e8
>>515 日蓮も自分は旃陀羅の子と言っています。つまり生き物の生命を奪って生活している
人の子供だと言うことですね。日蓮の親は漁師です。
521 :
999(標榜):04/01/15 05:33 ID:rzqGvtzA
あのさ、宗教なの?創価って?なんか勘違いしてない?
日蓮さんなんてしらんでしょ?
522 :
Sb ◆SbSGI7AtEA :04/01/15 09:54 ID:DgMUtjZu
>>519 御伽噺の域を出てないよ
さらに横レスです
523 :
Sb ◆SbSGI7AtEA :04/01/15 10:59 ID:DgMUtjZu
524 :
お邪魔します ◆nH2G.RjIE2 :04/01/15 11:17 ID:f8W3BPtk
原始仏典を読むと、ブッダの場合は心理カウンセラーみたいに、精神的ですけど相談したら
すぐ救っているんですね。
浄土系は妙好人と言う人がいますが、日蓮の教えは本当に人を救えるのかと言うか、本当の
救いというのを教えていないと思う。
525 :
名無しさん@お腹いっぱい。:04/01/15 11:22 ID:u3Qv8eM4
時代背景から勘案するにあまり考えたく無いが、監督と
コーチの違いが存在してる可能性が有る
526 :
Sb ◆SbSGI7AtEA :04/01/15 11:35 ID:DgMUtjZu
>>524 >お邪魔します
それは違うと思うよ
それもまた一つの救いの道なんだと思うよ
それで救えるひとにはね
ただ、それだけが救えるわけじゃない、ということを
認めることが出来なかったんだろうね
それを訂正することなく、正宗は続けてきて
さらに悪くした学会が、政治に食い込んでるんだから
日本の未来は暗いよ
527 :
名無しさん@お腹いっぱい。:04/01/15 17:32 ID:hUGMCv2t
>>522 Sbタン手厳しいでつな。(笑
まあ、お暇なときにでも「法蔵菩薩の存在証明」でググッてみてちょ。
528 :
波木井坊竜尊@日蓮宗葵講@名前だけ仏所 ◆IByKs72gR2 :04/01/15 18:08 ID:daXLo62j
529 :
名無しさん@お腹いっぱい。:04/01/15 18:12 ID:6gcO5s95
525だが、
失敬、創価の場合はコーチに失礼だな
ここの場合は鬼軍曹恫喝型ね。同じ視点でやってるコーチには見えないからさ。
530 :
Sb ◆SbSGI7AtEA :04/01/15 18:21 ID:DgMUtjZu
>>527 読んでみました
でもあれだね、「紀記」の大王の年齢を推察しているような論文だね
そうではないと思うんだよね、
法蔵菩薩はなぜ、阿弥陀如来になったか
このなぜを生きることの目印とすることに意味があるのであって
なったことは御伽噺の域を出ないし、
それを年代的に証明しても無意味だと思う
いかが?
531 :
お邪魔します ◆nH2G.RjIE2 :04/01/15 18:59 ID:Ljvoc3lZ
>>524を書いたあとで、フッと気が付いたのだけど日蓮は自分が救われようとか、
悟ろうとかは思っていない。
日蓮の教えというのは、自分が救われることより、他の人を助けることや、より
良い社会を造ることを励みや、生き甲斐にして生きていこう、と言う教えではない
かな。宮沢賢治や土光敏夫、石原東京都知事も、皆法華経を読んでいると聞いたこ
とがある。そしてこれらの人たちは、自分が生きていくことにより、少しでも良い世
界を造ろうとしている。中には北一輝や石原完爾みたいに、とんでもない世界を造
ろうとした人もいるが。
532 :
お邪魔します ◆nH2G.RjIE2 :04/01/15 19:00 ID:Ljvoc3lZ
ナチスの強制収容所の中の様子を書いた、フランクルというユダヤ人の心理学者
がいた。「もう生き続けることに、何の期待もない」状況の中で他の人を励ました
言葉がある。
どんな時にも、人生には意味がある
どんな人のどんな人生にも意味がある。
この世にいのちある限り、あなたには満たすべき意味、実現すべき使命が、
必ず与えられている。
たとえ、あなたが気づいていなくても、それは、あなたの足元に、常に既
に送り届けられているのだ。
この世のどこかに、あなたを必要としている「何か」があり、あなたを必要
としている「誰か」がいる。そしてその「何か」や「誰か」のために、あなた
にはできることがある。その「何か」や「誰か」はあなたに発見され実現され
るのをずっとまっているのだ。
だから、この人生で起こるすべてのことをーたとえどんないつらいことでも
ー意味あること、必要だから起こったこととして静かに受け止めよ。その「何
か」は、あなたに大切なことを気づかせてくれるメッセージを含んでくれるは
ずだから。
この「絶対的人生肯定主義」は、日蓮にも通じる。日蓮にとって「何か」は法
華経であり「誰か」はどんなに苦しくとも、死ぬことも出来ずもがきながら生
きている人々だったのだろう。
533 :
名無しさん@お腹いっぱい。:04/01/15 19:21 ID:hUGMCv2t
>>530 劫を一年として計算するやつなんですよね。(笑)
>法蔵菩薩はなぜ、阿弥陀如来になったか
>このなぜを生きることの目印とすることに意味があるのであって
うんうん、その通りです。
>531
土光敏夫は備前法華。石原東京都知事は立正佼生会だろ。
535 :
Sb ◆SbSGI7AtEA :04/01/15 20:47 ID:DgMUtjZu
>>531 >お邪魔しますさん
それなら、釈迦の仏法そのままだよ
でも、法華経に固執したらそれは実現できない
導者としては間違いだよ。
目的は正しいと思うよ
でも、一人の理想による社会は理想足り得ない
これはマルクス・レーニン主義も同じだよ
諸行無常から離れることは出来ないからね
536 :
Sb ◆SbSGI7AtEA :04/01/15 20:48 ID:DgMUtjZu
>>533 いわゆる「トンデモ」な感じがしました(笑
538 :
:04/01/19 15:32 ID:???
>>517 >仏教は欲望を肯定しない。ただ「人間的」であることにとどまるのは、
>仏教の最終的な価値ではない。(中略) 仏教の根本は、「無常」という事実を
>直視して、「人間」を「解脱」し「成仏」することである。仏教を考えるとき、
>この点を忘れてはならない。仏教は我々に対して、自己否定的であり、
>自己批判的であることを課す教えなのだ。
>それは生き方の転換であり、再編成なのだ。
>『修行のすすめ 日常生活のなかの禅』(講談社)P.162
http://kanda.homeip.net/zen/zuimonki/17.html これを参考に、道元の「正法眼蔵」を読む。
仏道をならうというは、自己をならう也。自己をならうというは、自己をわするるなり。自己をわするるというは、万法に証せらるるなり。(現成公案)
自己を追求するということは、まさに自己否定によって可能になる。
その自己否定を通じてしか自己を発見する道はないのだし、
自己を肯定することもできない。かな。
釈尊は関係ないのよ。天台教学の話だから(w
で、道元も言ってるわけ。
ちなみに内山興正師の本が、お勧め。
539 :
:04/01/19 15:41 ID:???
>>520 >日蓮も自分は旃陀羅の子と言っています。つまり生き物の生命を
>奪って生活している人の子供だと言うことですね。日蓮の親は漁師です。
その通りなんだけど、その書き方だと誤解される。
「旃陀羅の子」は、日蓮流の自己否定表現。
漁師の子「だから」成仏できるでは「ない」。
漁師の子「でも」成仏できるってわけ。
これを勘違いすると、凡夫本仏論となる。
>>531 小乗仏教は、民衆限定の宗教で、
大乗仏教は、国家観を取り入れた宗教だから。
540 :
:04/01/19 15:51 ID:???
>>516 題目だけは、念仏だけ、禅だけ、と同じだよ。
日蓮は形骸化した念仏や禅を批判し、
また形骸化せざるを得ないものとして念仏や禅を批判しただけ。
もっとも題目まで形骸化したのは誤算だったろうけど。
で、あなたは、法然、親鸞、道元も否定するわけ?(w
それから久保田師は、法華経を最高の教えとするけど、
創価学会のように神格化しないよ。
もちろん自己否定の先に、成仏があるとしてるから、
創価学会とは異なる。
>ただ真実を悟ることを説いたのみ、そしてそこにこそ人間の救いの
>まっとうな道があると説いた。
真実を悟る第一歩として、自己否定がある。
これが天台教学なんだけどね。
これを見失うから、題目も、念仏も、禅も、形骸化するのよ。
541 :
Sb ◆SbSGI7AtEA :04/01/19 17:01 ID:33rg2XN0
>>539 >>小乗仏教は、民衆限定の宗教で、
>>大乗仏教は、国家観を取り入れた宗教だから。
おいおい、ほんとかよ、ほんとにそう思っているのかよ
ネタだよな、ネタっていってくれよ
542 :
電波男Ψ(´д`)Ψ ◆RHudQb4c9k :04/01/19 17:06 ID:rb78B8qE
>>539 >小乗仏教は、民衆限定の宗教で、
>大乗仏教は、国家観を取り入れた宗教だから。
いい加減こんな恥ずかしい無知な表現やめてくれるかな。
543 :
名無しさん@お腹いっぱい。:04/01/19 18:49 ID:bTEx2vrL
534<<
石原さんは霊友会で平沢さんが構成会。
544 :
:04/01/20 23:44 ID:???
>>541&
>>542 国家という枠組みの有無を強調するための言い方だから、
別に構わないでしょ。
ま、書き方は悪かったけど。
小乗仏教では、悟りに至るには出家して自ら修業しなければならない
という個人救済の立場。この意味では、敷衍しても、
国家という概念が導入されることはない。
大乗仏教は、「限られた出家者のみが救われるのでなく、大衆の迷いや
苦悩をも救われなければならない」と万人救済。
万人救済の手段を考えるなら、国家という視点が導入されるのは、
考えられるし、現にそうなってる宗派も多い。
というかさ、上記のことを前提に話してるんじゃないのか?(w
ま、天台教学では、自己否定から始まるってことを、
今まで知らなかった程度だから、仕方ないか…
545 :
電波男Ψ(´д`)Ψ ◆RHudQb4c9k :04/01/21 06:26 ID:jEYNkVFD
>>544 もっと、無知をさらけ出しているように見えるんだけど。
546 :
Sb ◆SbSGI7AtEA :04/01/21 09:55 ID:kF1uaK6d
>>544 小乗仏教ってのはさ、大乗仏教が出来たときに同時に生まれたんだよね
>大乗仏教徒が,利他主義の立場から,従来の伝統仏教に対して与えた称。
大乗の大乗たる所以は
>他者救済の重視,在家信仰の承認,
確かに、大乗仏教は国家に取り込まれやすい要素は内包してるよ
国家というのは国民の生命財産を守るという役目も持っているからね
でも、それは最初からそれを目指したものではないよ
決して、国家観を取り入れたから、大乗になったというわけではない。
>他者救済の重視,在家信仰の承認
を取り入れたから、国家が利用した、そして、仏教も、国家観を導入した。
そういう機能があったから(仏教)、その機能を必要としていたから(国家)
それを必要とされたから、それを導入した。
大乗に関しては結果的にはあなたのいうとおりかもしれない、でも、はしょっちゃ駄目だ
意味が違うものになってしまうよ
でも、本来、大も小も一も二も無いんだよ、乗るもんじゃないんだよ仏教は
自分の人生は自分で生きなけりゃいけない
もちろんこれだけでは足りないよ、でも、今は割愛する
自己否定を否定なんぞしてはいないよ、でもそれだけじゃないんだよ
簡単に一つに括れるものじゃないよ
547 :
波木井坊竜尊@日蓮宗葵講@名前だけ仏所 ◆IByKs72gR2 :04/01/21 09:58 ID:7zMiVl6z
小乗というのは差別的表現。
上座部と言う。
>>546 出鱈目いうなよ。 まず、上座部が先に存在していて、後世に生まれたのが大乗だろうが。
549 :
Sb ◆SbSGI7AtEA :04/01/21 13:30 ID:kF1uaK6d
>>548 出鱈目ではない、あなたが理解できていないだけだ
大乗が生まれなければ小乗などという言葉は生まれなかった
大乗側がそれまでの仏教を揶揄する為に小乗という名をつけたのだ
それに、小乗だろうが上座だろうがそれもどうでもいいこと
大も小も無く、上も下も無し
>波木井さん
そんな事説明してもらわなくて結構
それより、達摩も、釈迦も天魔なのかの質問に答えてもらっていないが
550 :
名無しさん@お腹いっぱい。:04/01/21 13:51 ID:4AiaEgyG
>それに、小乗だろうが上座だろうがそれもどうでもいいこと
よくないよ。明らかに大乗は妄想がかっている。大衆に迎合するのは
いいが、これでは、免罪符に群がる愚かな民衆を相手にしたビジネスに過ぎない。
菩薩、功徳、仏罰、末法。。。。こういうものは存在すら許されない概念なの。
珍問答だなぁ
552 :
波木井坊竜尊@日蓮宗葵講@名前だけ仏所 ◆IByKs72gR2 :04/01/21 14:11 ID:3CgddC8B
553 :
波木井坊竜尊@日蓮宗葵講@名前だけ仏所 ◆IByKs72gR2 :04/01/21 14:12 ID:3CgddC8B
小乗というい方は良くない。
現在の日本仏教界でも”上座部”と言い換えているよ。
554 :
Sb ◆SbSGI7AtEA :04/01/21 15:16 ID:kF1uaK6d
>>550 論旨がわかりません
>>551 ご名答
>>552 >波木井さん
白隠以前の禅は天魔とのあなたの書き込みに対しての質問です
答えになっていません。
それとも、禅問答として答えているのでしょうか?
>>553 もとより、括ること自体が愚かであるとするものに
括った後の名前など、名札に過ぎない
大も小も無く、上も下も無し
と書いたでしょ
555 :
波木井坊竜尊@日蓮宗葵講@名前だけ仏所 ◆IByKs72gR2 :04/01/21 17:38 ID:3CgddC8B
天魔でしょう。(藁)白隠以前の禅宗は。
556 :
Sb ◆SbSGI7AtEA :04/01/21 17:48 ID:kF1uaK6d
>>555(ファイズおめ)
>波木井さん
では、達摩も釈迦も天魔だとおっしゃるのですね
557 :
波木井坊竜尊@日蓮宗葵講@名前だけ仏所 ◆IByKs72gR2 :04/01/21 18:37 ID:3CgddC8B
いいえ。
大乗は自称
上座部とか大衆部は他称
小乗は僭称
破棄胃死のいうことに禿道
大乗仏教徒は自分達の乗り物は立派だと言いたいんだろ
小乗は1人乗りの自転車だとすれば大乗はエアバスみたいなもので
自分含めた多くの人間をより楽な方法でより高い目標を実現させられるということなんだろ
漏れの乗ってるスパカブは小乗で893幹部の乗るベンツは大乗だ
へんな椰子が張り切ってんのはいいのだが。
つまらないスレになったものだ。
560 :
Sb ◆SbSGI7AtEA :04/01/22 10:00 ID:1ASKdPgF
>>557 禅宗の祖は釈迦
中国禅の祖は達摩
日本最古の寺である元興寺にはすでに禅室があり
空海は北宗禅を伝えたとされる
道元は南宗禅を伝えた
全て、天魔であるとおっしゃりましたよね
>>540 >もちろん自己否定の先に、成仏があるとしてるから、
>創価学会とは異なる
どうだかね?(w
創価にいくとな、藻前はどうも陰気な奴だがそれは藻前の罪だの業だのだから宿命
転換ぐあ必要で題目をあげる必要がある、藻前は°盛る癖があるそれは宿業で題目
100万勉が必要でどうの、藻前は活動していないから儲からない、「自分を見つめろ!!」
とかといわれませんか?(わら)
結局こうやって個人をつるし上げて苛めておいて、どうだ題目で治っただろ、
題目はすごいんだぞ、振るいも前は全然だめで題目以後の藻前が良いおまえだ、
これは秘法である題目のお蔭だ、藻前はこれで新しくなって創価の手先となって
働くことだけがこれからの人生になるのだ!!
なんだ比叡山もこれといっしょか、自分を否定して手先にして使うカルトなんだな(ワライ)
所詮題目はこういうインチキ区So尾宗教の手品のネタだろが?(w
それを仏教と言おうなどと強弁しようとは(驚き腿の着)。
いいかげん日蓮以下インチキ宗教は仏教から出た方がいいだろ(w
なぜ「禅が仏教」で「日蓮は仏教ではない」か?
題目教は題目という「特定のマントラが神だ」という宗教であり、完全に外道。
禅はマントラなど「なにそれ」であり「何か特定の呪文」などは無関係のもって行き方
で、これは仏教であるべき必要条件に含まれる。
仏教であるべき必要条件とはすなわち「ブッダの教えの本質に深く関係していること」
でなければならない。ブッダは「何か特定の呪文」を唱えれば救われるという教えを
言ったんでしょうか??フシギでなりませんが?>日蓮最高のおっさんさん。
たのむから仏教に泥を塗るなよ>日蓮な。
悪いが、ブッダはバラモンの迷信や因習差別などを否定し、より科学的で明解で
現代的な意識を説いたはずだ。だからこそそれが「悟り」という観念とも結びつく
はずだろう。真実は真実としてそのまま知る。これが直覚という概念にも繋がって
いく。
未触法にまでいけばそれがばんぽうが証するともなる。ただしこれは科学的云々では
もちろんない。しかるにこれは迷信ではない証である。それはマントラ行法とは無関係
である。
禅は直覚である。また逆説的真実の悟りである。仏性の意味はこれと大きく関係し、
そしてその結果としてカルト化することがないのに確実に力強く証する真実の仏が
そこにあることを知ることになる。これを道元は説いているのである。
565 :
黒田哲正:04/01/23 16:18 ID:4tM8B8tW
会社、家、寺院、カフェなどでぬくぬくと法師畜生何をしておろうか!!!!!!!!
『御在世』の退転者を彷彿させるようないかがわしき醜態民部日向、日持の生まれ代わりめ!
管理人と繋がる事さえいかがわしき展開となろうです。
黒田哲正:当年27
566 :
Sb ◆SbSGI7AtEA :04/01/23 16:29 ID:RfrdAqL5
>565
香ばしいのがまた1匹闖入
>>564 前に言ったはずだ。お前の無知丸出しの無意味なカキコは常に3行以内にしろと。
569 :
564:04/01/30 20:50 ID:+EJKW+PT
はあ?(w
しかしナンだな、法華経の久遠じつじょうの仏とは、つくづく
受肉して十字架の後に昇天した神の子キリストが世々限りなく永遠に我らと共に
おわしますという概念とイコールみたいなもんだよなあ。こらどうみても
キリスト教だろ>法華経。
だから法華経の時点からすでに外道なのは明白。さっさとキリスト教の一派として
名乗れや>ホッケども<仏教から出て行けな(わら)
外道A−キリスト教への接近−観無量寿経−法然−親鸞−不完全なキリスト教
キリスト教からの影響−−↓
外道B−バラモン教への回帰 −法華経−日蓮−創価学会
仏教 −釈迦−−−−−−−−> 禅(ここにのみ釈迦の精神が単伝)
↑
中国人の道教的洞察
572 :
母が熱心で困ってます ◆1Cz5bN8eQk :04/02/04 23:21 ID:T0llmek5
Sbさんお邪魔します。
別スレでの 「なぜ日蓮は"悟り"を切捨てたのか」についての話ですか、
こちらのスレでやらせて頂けませんか?
・・・・・というか、実はもうこちらに移動すると向こうで宣言して
しまったので、何卒よろしくお願い致しますm(__)m
573 :
会員X:04/02/04 23:50 ID:???
Sbさんへ
暫しお邪魔します
Sbさんの提示されたことについてこちらで暫く語り合いたい移動しました
「経典なんか、月を指差す、指に過ぎない 指に焦点を合わしたって、月は見えやしないよ
他人が焦点をあわせた指を見ても月を見ることは出来ないよ 」 の月は衛星の月でなく
悟りということを比喩的に表現された者ではないでしょうか
この点は私は十羅刹男さんとは若干見解が異なるようです。
574 :
Sb ◆SbSGI7AtEA :04/02/05 09:02 ID:sQKPKaPc
気にしないで進めてください、このごろ廃れていましたから
>悟りということを比喩的に表現された
悟りもそうですけど、仏、仏法、己でもあるのだと思います。
(とりっぷがぁ、ノートからだとちがくなってるぅ)
575 :
Sb ◆SbSGI7AtEA :04/02/05 09:03 ID:sQKPKaPc
(直った、半角じゃないと駄目だったのね)
576 :
:04/02/05 11:52 ID:???
>>546 国家観の導入によって、大乗仏教ができたなんて言ったかな?(w
大乗仏教の方向性故に、国家観が導入されていったと言ったんだよ。
日本語を理解できないんだね(w
で、日本仏教の枠内で考えれば、
概ね国家観を取り込んでいるというのは、間違いじゃないだろ。
>>561 自己否定と他者否定を一緒にするなよ(w
創価学会員に、自分をクズだと言い切れる奴がどれだけいる?
他人を批判するだけだろ。
あいつらは、宿業とは言うが、自分のことは棚に上げる。
創価学会は、人間のクズの集まりである。
これに反発しない創価学会員がいたら、そいつだけは本物。
それ以外は、エセ仏教徒(エセ天台系)だ。
577 :
母が熱心で困ってます ◆1Cz5bN8eQk :04/02/05 12:02 ID:Y+LqSMUh
自分は陽子さんのスレで、"日蓮が法華経にこだわったのは立身出世の
為ではないか?"という一般的にありがちな主張をしましたが、それに
ついてはどう思われますか?
578 :
乱:04/02/05 13:35 ID:mInc51vZ
貴方は釈尊の対機説法と言う事をもちろんお知ですね。
確かに禅宗はすばらしい宗派ですが.今時家族を捨て.財産を捨て.
妻をめとらず.山や寺にこもって座禅をくんで悟りを開くというのは
非常に難しく.不可能に近いと言っても過言ではありません。
とくに我々凡人にとっては。
否.竜樹菩薩は釈尊がその出現を予言し.私の法をつぐものであると言われ
16歳でバラモンの経典を習得し小乗仏教を修行した後大乗に移り修行するが
40段の初歓喜地迄登ったが.それ以上どうしても登ることができなかったが
それまでの自力修行を全て捨て.阿弥陀仏の他力により.51段の不退転の位に
登り菩薩と成られたのである。(十住ビバシャ論)
白隠禅師は.最始は真宗を軽蔑されていましたが.ある時一人の妙好人(真宗
において阿弥陀様より他力信を頂いた人)と呼ばれる無学文盲の農夫と仏教
の話をしていて.自分の弟子よりも高い境地に達しているのに驚きそれから
というもの.多くの妙好人と親交を持ち.後には念仏三昧に成ったと言う
ことである。
一休禅師は親鸞上人の仏法が最高であると歌っていますし.
晩年一休禅師が蓮如上人に出された御手紙に.禅宗から真宗に改宗したいと
書いてありましたが.蓮如は思い止めたのである。
又.道元禅師も「念仏は畑でかえるが鳴いている様なものだ」と言っておられ
るが.其の著書正法眼蔵に書かれている境地と親鸞上人の他力信の境地は全く
一致しているのであります。
>>574 Sbさんのいわれることは私にとって同意出来る点が多いですね
池田教学は覚りを宇宙のリズムなどと自分を離れた客観法則に
求めますがこれは少なくとも仏教ではありません。
「仏、仏法、己」と己心のなかに悟るということを求めることは私の考える
ことに近いように思います。
日蓮の言うのは「月」を見つけた後もその見つけ方=経文を維持しろと
いうことに拘ることですね。この点はもう少し考えてみます
580 :
乱:04/02/05 13:52 ID:yhcaGAQ/
しばらくページを見ないで投稿してしまい.
話の筋がちょつと変わっていました。
571の方に書いたものですから.悪しからず。
581 :
Sb ◆SbSGI7AtEA :04/02/05 16:41 ID:y4fsf1nV
>>576 >小乗仏教は、民衆限定の宗教で、
>大乗仏教は、国家観を取り入れた宗教だから。
国家観を取り入れたと書いたら、日本語ではそういう解釈として読むしかないではないか
自分の言語力の無さを転嫁するのは止めてくれ
>概ね国家観を取り込んでいるというのは、間違いじゃないだろ
はいはい、だから
>>546にそう書いたでしょ
582 :
母が熱心で困ってます ◆1Cz5bN8eQk :04/02/06 15:39 ID:knCYqPGH
Sbさんへ
ここのスレは勉強になりますね、議論する前にサラッと
全体を読んでおこうかな、同じ議論を繰り返すとスレが無駄
になるし・・・・・
>>578、580
571だが、あんたは確かに本質を心得ているように思う。確かにそうなんだろうとも
思うよ。
そしてそういう境地の一致という点では解説も多いし、その通りなんだろうとも思う。
そしてそれが意味することとは何かというと、実はそれは「キリスト教を突き詰め
最期最後までいけば禅的悟りの境地と変わらなくなる」ということにさえなるだろう。
もちろんそれでも何ら問題はないし、そうした理解を持てる人間のみが真に宗教的
知性に与っているということでもあろう。それは創価的、ニチレン的理解では絶対に
達成できない知性であることも確かなことであろう。それがすなわち独り日蓮のみが
排他されるという構造を不動のものにしさえするわけであるが。
さて
>>571までに敢えて書いたのは実際にはそうした境地の一致ということには論点は
なく、あくまでもキリスト教がキリスト教であり、禅が禅であることを成立させる処の
意味論から考えているからであった。そうでないなら、万教帰一であるので何もかも
いっしょだという話にさえなりかねない。桜の木と梅の木が同じ木だから結局は木であり
同じではないかという話にならないのは、桜は桜であり、梅は梅である理由があるから
である。仏教が仏教であるのは、出発点が釈迦であり、その合理主義的理性から出発して
超越に至る過程に特徴的理由があるからであった。そこに意味論として全く無関係な
ホッケなどというものがあってそれも仏教だなどと言わないのはモチロンながら、
キリスト教と仏教はやはり互いに独立に存在する理由があるからこそ別の宗教なのでした、
だからこそこれを別のものと認識せざるを得ないのである。
要は、到着点が似ていようとも、あるいはかなり一致してようとも、しかしそれでも
出発点が違うもの、その過程・方法論が違うものを「同じ」だとは言わないという
ことです。
たとえば、薬物をつかって治療する西洋医学と、鍼などの神経刺激によって活性化を
起こさせて治療する漢方医療とを、「結局人が健康になるのだから」どちらも同じ
であるとは言いませんね。ですから、仏教とキリスト教は「その出発点と方法論の
概念が異なる」という理由によって「西洋医学」と「漢方医学」と別々のものと
理解、認識されて然るべきでしたよね。これと同じことを言っているわけです。
そこでニチレンですが、ニチレンはあくまでも仏教というものをそうした意味論から
考えることをせず、あくまでも経だの天台宗だのという枠にこだわって最後は全く
あらぬものに変化したわけでしたので、これは当然ながら「仏教」と見るわけには
行きません。
>>571はそういうことを言っているわけです。ニチレン教は諦観によって
現世を超越するのではなく、あくまでも現世を願望と欲望という実相に基づいてそこを
作り変えるという方向に進みましたから、それが現世ご利益、創価的信念に到達する
ことになったわけです。これを仏教と呼ばないのは誰しもが賛同するべきことでは
ではありませんか?>ニチレン教さん
もしニチレンがそれでも、この題目呪文によればかなわざるものなし、宇宙で最高
の呪文なのだから、これさえあれば後は全く及びでない、だれでもその願望が適う
全知全能の呪文なのだぞ、とそれを誇ったのだとすれば(w)、それはそれで勝手に
宗教にすればそれでも結構ですが、、それならそれは水から「議員バッジをはずして」
「仏教」の外に出ておやりになれば良かったわけでしたね。
それをせずに、勝手に無法者よろしく勝手に無関係の議論を仏教の中でやってしまって
末代700年もの間仏教という名で己の教義を広めてしまった!ここに万罪の宿る源泉が
あったといえるわけです。外道は外道として誠実に外でやっていたらそれで何ら問題は
なかったのです。それがイイという人はそれに帰依すればいいことで、仏教とは別に
やってくれればよかったのでした。今からでも遅くありませんから、是非そうすること
を勧めます。そうしてください>ニチレン教さん
無関係のものに軒下を貸したら、あらあらついに母屋乗っ取るになりました。
こんなひどい真似をやったのが、念仏と題目教なんだと言いたいわけです。
独り禅のみが釈迦の精神を忠実に引き継いで仏教と呼ばれてしかるべき冷静な宗旨
となったのでした。釈迦の弟子であるからこそ、禅は現代に至るまでカルト化して
世間を乱すこともなかったのです。これこそが唯一の立派な仏教の宗旨なのです。
そこで唯一と言ってしまったら同じ穴の狢になりはしないか? 上座部仏教も立派な仏教の宗旨だと思うが。
588 :
Sb ◆SbSGI7AtEA :04/02/07 09:30 ID:OqKMcrb3
>>586 そんなこと書く前に、坐りなさいな
犬に仏性はありますか?
>>587 唯一と言ったのは確かに問題かもしれぬ。上座部は仏教の原点であるから言うに及ばず
と理解し量ってくだされば幸い。但し言いたいことの意味はこれで述べられている。
仏教かさにあらぬのか。
禅は要は荘子思想とあまり変わるところもないと言えば言えるが、
>>578も言うとおり
親鸞もこれを弥陀仏の意味として言及していると紹介するものもあった(参考文献
「老荘と仏教」講談社学術文庫p.265-269)。このように境地の一致はおかしくない。
それならば弥陀仏は要は方便となると理解でき、ならば弥陀仏と言わずに禅といえばよいと
いうことになる。それでも好みで弥陀仏の入り口を用意しておくのは否定されない
というだけのことで、それでも仏教とは言わずに「浄土教」と呼ばれたもの意味が
あっただろう。つまりそれは「教」の差異となり、「宗」の差異ではないだろう。
つまりそれは「キリスト教」と「仏教」の差異である。この意味を理解できれば
仏教とキリスト教を理解したといえるだろう。
しかしニチレン教だけはこうした境地の理解もできず、なんらこうしたことへの片鱗
すらも意に捉えるに至らず、あくまでもマントラのアリガタヤで終ってしまうこと
になる。そうした理解は「無価値であり無意味である」という根本的な考えに最初から
最後まで変化がない。これがニチレン「教」というものであった。それが創価的
算数精神でもあり、そこからは何を言ってやってももはやニッチもサッチもいかない
わけであった。彼ら曰く「いいや我々のマントラだけが唯一の救いなのだ」という
信念を変えてはやれないのであった。それなら別「教」のカンバンを掛けてもらう
しかない。こういうことであった。
>>588 ま確かに。 スー
>>588 ちなみに、その公案には現実に道元の悟りにおいて答えるのが最も正しい。
いぬに仏性ありやなしや、には、いぬに仏性があるかのようにも前が意識を変える
ことが裳前の悟りであり、そのときに裳前にも仏性は具足する。そして「悉有が
仏性なり」となり、それによって汝の悟りにおいて「世界が聖化」することを
「悉有仏性」というと。
つまり本人の悟りにおいて「いぬに仏性がある」ことになるのであり、「もともと
いぬに仏性があるかないかを議論するのではない」ことを悟ることを要求している
のだこの公案だった。ここを悟りその見性を知りそれがもたらす全身の脱落を知る
ことを求めているのだ禅である。
もしこれが「もともといぬに仏性があるかないかを議論する」のであれば、それは
あくまでも「バラモン教」となり「ユイシキ論」となり「密教」となるのであった。
禅はこうした議論を一蹴するのであり、そこに仏教の知恵を主張しているのである。
そしてニチレン教だけはこうしたことを決して理解もしなければ、体験することも
しないのである。ニチレン教だけは仏教に生まれた癌そのものなのである。癌は
自然消滅させるか、摘出して外に放り出すのがよかろうはずであるがいかがか。
>>591 >もしこれが「もともといぬに仏性があるかないかを議論する」のであれば、それは
>あくまでも「バラモン教」となり「ユイシキ論」となり「密教」となるのであった。
>禅はこうした議論を一蹴するのであり、そこに仏教の知恵を主張しているのである。
そして「バラモン教」となり「ユイシキ」となり「密教」となったときに、そこに
カルトへの萌芽が生まれていることになるのであった。
バラモン教はいまだにカーストを敷いて身分制度という差別を強制して国家カルトを
維持している。
ユイシキは密教を生み、”特定の商標登録付きの「マントラ」行法あるいは特定の
個人(教祖=予言されたオカルト秘法の伝授者)によってのみ「宇宙の根源」と
繋がることができる”という”秘法としての行”を、”ある特定の団体”を通じて
受けることでのみ救いがあるのだ!というカルト教団を生み出し、その教団に逆らうと
病気になり、不幸になり、地獄に落ちるのだという呪縛に捉えることを本旨とする
必然に繋がったのだ。その完全な実例こそはソウカでありオウム真理教である。
仏教は本来こうしたものどもを完全に否定するのである。であるからこそ、ニチレン教は
仏教でない。完全な仏教の浄化を促すべきではないか。
592 :
Sb ◆SbSGI7AtEA :04/02/07 13:16 ID:nkWzuMqy
>>590 ははは、あんたの答えはどうなんだい?
書く前に坐れといったでしょ
上も下もないよ
日蓮も道元も無し
さぁ、どうする
>>591 これらカルトに共通する性質はすなわち、組織の内部と外部の差別であり、一乗の
意識における万有の同化ではない。つまり悟りではなく、差別に終点する意識である。
これがすなわち仏教ではない性質の最たるものとなるだろう。であるから、仏教から
排除されねばならなぬという逆説的なカルトの排除とならざるを得ないのであった。
自分が差別の教を持つものを、自己他己無差別の悟りを説く仏教から追い出すのは
自然極まりないことである、自ら「結束的なカルト組織」の「内部」と「外部」を
説き、その内部を優遇し外部を不利益に陥れる害虫的組織宗教を万有を赦し万有の
同化を悟る教に置くことは本質論として不可能であろうということである。
カルトによる「組織の勝手な最上主張」を容認する「万有を悟りにおいて聖と認識
する悟りの宗教」に置くことはできないのである。そこに差別カルトをどこまでも
置きつづけることは絶対に不可能である。なぜならそうでなければ仏教という元々
反カルトの宗旨自体を否定することになるからである。合い入れない主張をそこに
温存することはできないのであり、そうしないと最後は癌が全身を乗っ取って元々
の宗旨がなくなってしまうことをも許容しなければならないからである。
カーストは認められないし、仏教の発祥の精神に反するが故にこれに反対する。
カルト教はそれが人類の知の遺産を食いつぶすが故にその温床を仏教の中に置かない
ことを主張する。これが仏教からのニチレン教排除の根本的な理念である。
ニチレン的なるものは仏教においては完全に有害であり無益であるに違いあるまい。
仏教と名乗らずにシャクブクでも布教でも何でもすれば良いのである。それを阻止する
ことは全然ないのであるから。
>>592 ここで禅問答をするのは必ずしも適切とは言えまい。ここは言語の場であり、
それ自体が悟りの場ではないから、ここにその場を完全に求めるのは行き過ぎだろう。
確かにあなたのその姿勢はわからないではない。それはつまり主張の前にその
主張になっておれといっているとも解し得よう。言語に頼らずまず己が悟りタマエ
よという意味であろう。もちろん禅はその宗旨であるから賛成であり、反駁する
こともない。君も宗旨の布教に預かってし合わせであろう。そこまで言うに留めよう。
しかし主張の本旨を理解しているならそれに焦点を合わせてもよかろう。ここは
あくまでも言語の場である以上、悟り自体をここで過剰に求めすぎれば、あなたも
只生意気な悟り固執の禅修行者という印象を与えるだけであろう。その辺も考慮する
なら、あなたももっと評価されるとも思うが。
>>591 >もしこれが「もともといぬに仏性があるかないかを議論する」のであれば、それは
>あくまでも「バラモン教」となり「ユイシキ論」となり「密教」となるのであった。
>禅はこうした議論を一蹴するのであり、そこに仏教の知恵を主張しているのである。
で、何ゆえにこうした「バラモン教」となり「ユイシキ論」となり「密教」が
カルトになるのかというと、そこには”訳”があった。
それは「科学」と関係するからであった。ここで「いぬ」や「仏性」という
「語」を一般用語としての「単語」ひいては「学術用語」としてのそれと
理解しようとすると、そこには「真理領域の探求学問」としての「自然科学」
の領域に踏み込まなければならないからであり、そこでは「ものごとの真偽」
という厳然としたデジタルな論理学の世界の議論となってしまうからであった。
そうなると、そこではもはや宗教という領域における議論ではなく、「いぬ」
と「仏性」の「生物」学としての「生理学」と「心理学」などに言及するべき
議論となるべき必然を引き出すことになる。つまりは「ユイシキ」も「密教」
も「生理学」の一部として「実験観察からの帰納的帰結による探求科学」という
意味に還元されてしまうこととなり、そこにおいて誰かの修行者が勝手に結論
づけた主張を「科学的結論」として「受容することが宗教である」という論理に
進んでいく過程を見ることになるだろう。
それがまるで「真理」の「受容」であるかのようにしてそれが「人に強制力
や強要する力として現れかねない強引な主張となって世間に跋扈する」様相を
呈することになるからであった。これが秘法である題目という観念に集約され
ていると言い得るだろう。それが「天台のチギ」の説だの、その前提となった
「経論」や「法相学」などの「ユイシキ」思想などこうした「秘法」という
考えに行きつくすべてのカルトの萌芽はすべて「学問としての科学」として
「宗教」を考える行き方にあったと言える。
カルトは結局「科学ならざる擬似科学」が「宗教を乗っ取った結果」出現した
という定理がここでも成立しているかのごとくである。
596 :
Sb ◆SbSGI7AtEA :04/02/07 14:01 ID:nkWzuMqy
>>594 悟りを元にした差別などないよ
言論の場だとはわかる、しかし、
悟りを語るなら、悟りに基づいて語られよ
禅を語るなら、禅に基づいて語られよ
密教も然り、題目も然り、念仏も然りだ
善し悪しなどはじめから無し
悟りに基づいて語るか、悟りを語らないか
間違ったこと書いては言論にはならないよ
ただ利用しているだけでは、だめだよ
>>596 細かいことは言わないが、一つ違うことは確かだと思うからこれは言おう。
>密教も然り、題目も然り、念仏も然りだ
>善し悪しなどはじめから無し
そうかなと言っているわけで、キミは内容に踏み込んで語った方がいいね。
もしこうあくまでも語るなら当方とは異見が違うということを意味しよう。それでも
別に構わないがね。
キミはあくまでもここで禅問答を展開していると私は言おう。それはいつも正しい
とは限らないと私は言っているわけだな。そしてキミは人の主張を捉えた上で
そこからそれについて批判ないし論じたまえ。そうすれば「議論」になるだろう。
まずは以上だ。
禅は良しあしを論じないのではなく、悟りの意味論としては善悪を主張しない
ということでしかない。
社会的あるいは行動じおける物事の善悪を論じないのではない。
であるから仮に禅に勤しむ者が物事の善悪を論じても全く問題はないのである。
これが当方の見解であり、そうした意見を主張すること自体を禅はなんら
否定もしないし、むしろ仏教は釈迦以来そうした合理的な世界解釈をし解析を
し、そしてバラモン(的カルト)を批判し、社会悪を論じたのであるから、
禅が仏教の末裔である以上その釈迦に学んでそうしても全く問題はあるまい。
そこに禅問答を持ち込んではまるで、納豆とカレーをいっしょに食べるような
ものだろう。それはたぶん”まずい”よ。
599 :
Sb ◆SbSGI7AtEA :04/02/07 16:19 ID:OqKMcrb3
>>598 納豆カレーはうまいよ、カレーは懐が深いから、何入れてもうまいんだ
バナナ入れたことあるか?うまいぞ、やってみな
チョコレート入れるとうまいことぐらいは知ってるよな
ま、禅ってのはカレーだな、何でも受け止めるけど、全部カレーにしてしまう
あー、でも、味噌汁にトマトは止めておけ、あれは駄目だった
>>598 Sb氏に同意。
禅に関する考え方には特に問題を感じないが、「納豆とカレーをいっしょに
食べる」のは“美味い”よ。
納豆やカレーについてそれぞれ単独で好きな人なら、多分美味しいと感ずると思う。
(実は、それを更にうまくする方法もあるのだが、多分書いたら外道と顰蹙を
買いそうで…。確かに私は、“五重の相対”に言う外道なんだろうとは思いますが…。)
もちろん味覚は人それぞれですけれどね。
クソ横レス失礼いたしました。
たまは「名無しさん@お腹いっぱい。」さん(589以降)に同意にゃ♪
Sbタン、ヲタタンごめんにゃ。
>>601 たまさん
いえいえ、何の問題もありません。
カレーに納豆入れて食べれば功徳がある、そうしなければ無間地獄だなどと
言いませんから、お気遣いなく。
でも、本当に美味しいですよ。
それぞれが個別に好きなら、一度試してみる事をおすすめいたします。
>>599 納豆とカレーの譬えは敵に塩だったか(わ
しかし、現実問題としてその納豆(ニチレン教の思想)を維持しながら、
カレー(禅思想)を食わせても、少なくとも創価学会員やニチレン教徒には
カレーの味がわからないということをさえ当方は言っているわけだ。
そして「現実」なんだということだ。
また譬えですまぬが、平泳ぎを一度覚えるとクロールが覚え難い、そういう
ことが世の中にはある。それともまた似ているだろう。
しかし、ニチレン教を科学の俎上に載せてしまい、ニチレン教を完全に解剖し、
その「生理学としての解明」をしてしまえば、それに一度足を入れてもカルト教
に転化しないままで禅の意味も価値も理解できるようになり、排他的カルト教に
陥らずに正常人に戻ることができるようになるはずだ。
だから世界をニチレン教から救うには、題目教の科学的な解明が不可欠だろう。
神経と内分泌系に生理学的な変化を引き起こすところのマントラ行というもの
の機能を、生理学的に、科学的に解明してしまいさえすれば、それだけで
経文のタイトルに固執することのアホらしさを知って簡単に壊滅することに
なるのではないか?そうすることでニチレン教を仏教から葬り去ることが
ぜひとも必要だと思うのであるが。どうだろうか。
604 :
Sb ◆SbSGI7AtEA :04/02/07 17:05 ID:OqKMcrb3
>>601 >たまさん
納豆が嫌いじゃなければやってみることをお奨めする
私も最初は、まじかよって思ったけど、うまいんだこれが
あとさ、麻婆豆腐に納豆が入ってるって知ってる?
豆鼓っていうんだけど、って、スレ違いな内容になってきたので退散
これ以上聞きたい人は小鉄スレに書いておく
(なぜ、小鉄スレかって?あれは雑談スレだろ)
>>598 以後、料理ネタは振らないでくれ、止まらなくなってしまう
>>603 いや、納豆とカレーの譬え自体は間違っていないだろうと思います。
要するに、創価学会員等はカレー自体が大嫌いなんですよ、あなたも述べているように。
幾ら勧めても、無駄でしょうね。
606 :
母が熱心で困ってます ◆1Cz5bN8eQk :04/02/07 17:17 ID:Fntc1HXl
Sbさん
禅に関する簡単な入門書を読み始めました。
陽子さんのスレであなたが言ってた「悟りなんて文字や言葉で伝えるものではない」
という発言や世尊拈花の話は、"教外別伝 不立文字 以心伝心"という考え方だったのですね。
陽子さんとあなたの発言の意味がなんとなくわかりました。
ただし、言葉に頼りたい性格の自分には、非常に受け入れ難い考え方ではあります。
ところで道元禅師の『正法眼蔵』は95巻にも及ぶそうですが、いったい何故そんなに長いの
ですか、「言葉で伝えるものでない」という原則と矛盾するようにも感じました。
その入門書には簡単な座禅の仕方の説明があり、自分もやってみました。
それにしても座禅で「無心」になるのは難しいですね、逆に色んなことが頭を駆け巡ってしまう、
自分は勤行・題目の様に何か口ずさんでいるほうが、かえって「無心」に近づくような気がします。
もうちょっと言っておいた方がいいかな。
つまり、カレーと納豆の話にしても、禅と法華経(あるいは日蓮的な考え方)に
しても、それぞれを完全に別なものと見てしまう人には永遠に一緒にはできない
ものなのでしょう。
しかし、外道にとっては、そんなことは関係ありません。
簡単に食べられて美味ければ、それでいいのです。
>>606 母が熱心で困っていますさん
国内で行われている禅にも、少なくとも二つの方向があるようですよね。
>603
> カレー(禅思想)を食わせても、少なくとも創価学会員やニチレン教徒には
> カレーの味がわからないということをさえ当方は言っているわけだ。
> そして「現実」なんだということだ。
その通りだと思う。Sbタンもよく読んでほしいにゃ。
(負けず嫌いなのもいいけどね(笑))
でもこの板に訪れる会員さんは大事にしないとね。
(
>>204参照。)
Sbタン、ヲタタン
たまは関西猫だけど納豆も食べるにゃ〜♪
>>608 たまさん
関西の方でも、この頃は、そのような人が増えているようですね。
610 :
Sb ◆SbSGI7AtEA :04/02/07 17:31 ID:OqKMcrb3
>>606 >母が熱心で困ってますさん
>>言葉に頼りたい性格の自分には、非常に受け入れ難い考え方ではあります。
考え方ではなくて、言葉では伝えられないのです。
だから
>>ところで道元禅師の『正法眼蔵』は95巻にも及ぶそうですが、いったい何故そんなに長いの
>>ですか、「言葉で伝えるものでない」という原則と矛盾するようにも感じました。
そんなに長くなってしまう。
でも
「世尊拈花」だけでも伝わってしまう
>>自分は勤行・題目の様に何か口ずさんでいるほうが、かえって「無心」に近づくような気がします。
題目に頼るな!と怒りましょうか(w
無心になるのではなくて、最初から、無なのですよ
ありのままに座ればいいのだと思います。
>>601,
>>608 たまちゃん応援ありがとにゃん、同士だわにゃん。この問題意識は彼らニチレン
教徒の生態を知らない人たちには理解できないんだろうにゃあ。にゃにゃにゃ
>>606 >自分は勤行・題目の様に何か口ずさんでいるほうが、かえって「無心」に近づくような気がします
OK、それでもいいんだよ別に。横スレ失礼です。
では何が問題なのかというとだね、ニチレン教はその呪文マントラを「神」
にしてそこから「仏教」と名乗って「新しいおどろどろしい宗教的な呪縛を
作り出した」ということなんだよ。
それは禅を知らない人がそれに偶然ながらも辿りつくと、そこが「絶対の呪縛
になってその人を狂気の沙汰に」追いこむのが問題なのさ。しまいには何かの
教団組織の教えを潜ませてそれに背くとその「神」に逆らった罰が当たるのだ、
だからこの「教祖様に逆らうとひどいめに遭うんだぞ」裳舞いは「創価学会の
やることに背くのか!!!!!」などと言って、本来自分が自分の頭で考えて
行動しなければならない投票なんかでも組織の命令だからと(意に添わぬ半ば
強要的な教唆の元に)支援したくもない人に入れなければならなくしてしまうとか、
自分ではこんなことをしちゃいかんだろうとわかっていることでも、組織の命令
だからということで「隣人に嫌がらせをする」のが「功徳」なんだぞとか言い
含められてしまう、ということに繋がる本質を持つからなんですよ。
場合によっては「その『神』の力で呪い殺す」のだ、呪え呪えというような
教唆にも繋がっていくわけですね。これにはそういう力があるのだというふうに
ですね。念力ということはあるでしょう、おそらく。しかしそうしたカルトの
命令で念力を出すことを強要されるようになるという不幸は一体全体どういう
ことでしょうか!仏教はそんなことを教えているのでしょうか。
>>611(続き)
まさにそれが創価学会に顕われているわけです。その根源は、「特定のマントラ
にひれ伏して神格化して拝む」という持って行き方にあるのです。そしてそれが
創価に至らずともすでにニチレンにおいてすでに存在している、ということを
主張しているわけですよ私は。まあ参考にしてくださいな。
>>607 >禅と法華経
また
>>606さん
実は道元は法華経も良く引用しているが、禅における法華経や般若経などは
あくまでも誰かもいっていた通りで、「指」でしかなく、あくまでも「参考資料」
程度の扱いなんですね。
そして彼でさえ、もちらんながら輪廻転生を信じる当時のごく普通の信仰者
ではあったのです。なぜなら中国に仏教が伝わったときに中国でもその教えに
驚嘆して広まったわけです、そして三世の業で転生後の人生が影響されるという
観念も仏教という文脈の中で伝わった「バラモン教というインド思想の一環
として」たしかに流布し、その流れにあった人間として当時の常識的な理解
信念としてその信仰にあったのも確かでした。彼はそれを因果的理解に立つ
邪見ならざることを喜ぶと表現していますね。
しかしながら、禅はその思想も乗り越えるところに真骨頂があるわけでした。
そうでなければ道元は禅師ではなかったのです。その精神が正法眼蔵に「指」
として示されているといえばよいでしょう。それを読み解けるならばあなたも
立派な禅師となるのです。
614 :
Sb ◆SbSGI7AtEA :04/02/07 17:52 ID:OqKMcrb3
>>603 禅ってのは宗教じゃないんですよ
解体する手法
>しかし、ニチレン教を科学の俎上に載せてしまい、ニチレン教を完全に解剖し、
>その「生理学としての解明」をしてしまえば、
と書かれましたが、
同じように
ニチレン教を禅の俎上に載せてしまい、ニチレン教を完全に解体し、
悟りを得てしてしまえば
となってしまう
宗教解体システムをはじめから持っている教え
これが仏教の、いや仏陀という人の恐ろしいまでの悟り
それは言葉や文章で伝えられない
科学で解明することも出来ない
あらゆる宗教、否、人が行うことが出来るほど簡単なもの
超常的で超越的な平凡な日常
ゆえに問う
狗子に仏性は有りや無しや
>>614 >常的で超越的な平凡な日常
超越的といえばそこまででOK。
しかし超常的となると問題が出るね。そうなると呪文教を許容することになる。
我々は呪文教を否定はしない。しかし呪文教は仏教ではないと「言わなければ」
ならない!!従って呪文教からの脱却のためにはニチレン教にまずは立ち去って
頂き、仏教と名乗らないようにしてほしいのである。それは虚偽に基づく詐称
行為に等しく、世間を騙す不法行為にさえ当たると考えられるのである。まずは
ここまでと致します。ではまた。
616 :
Sb ◆SbSGI7AtEA :04/02/07 18:11 ID:OqKMcrb3
>>608 >たまにゃん
言っている意味はよく分かるさ、
でも、禅の捉え方が間違っているのよ
禅は好き嫌いなど解体してしまうシステム
カレーで言うとカレー粉
学会はこの日蓮法華経カレーだけが料理であって
他のは食べることも好きになることも許さないって教えているようなもの
そうじゃないよね、カレーは何入れたってうまいんだよね
でも、好き嫌いの激しい人には何を言っても何を食わせても無駄なんだよね
味覚の訓練て小さい頃からやらないと駄目なのに
学会は、日蓮法華経カレーだけが、おいしい料理で育っているから
好き嫌いを直すのは大変かもね
617 :
Sb ◆SbSGI7AtEA :04/02/07 18:17 ID:OqKMcrb3
>>615 そこさ、あなたが見えていないのは
禅が目指すものは
超常的で超越的な平凡な日常
ここには呪文も何もない、平凡な日常
しかし、あなたにとっては超常的で超越的なこと
ありのままの人生とはそういうものだということです。
>>617 確かに超常性というものを当方は「否定」しているのではない。
たとえば「念力」というようなものは「ある」だろうと述べているね。
これまでの仏教流にいえば、因縁だとか、フシギな縁だとか、仏の助けだとか、
あるいは題目で念力でやっつける、とかいうことさえ「ある」と考えている。
あるいは、自分が苛めた人の呪いで悪いことが起こるとかもそういうことだろう。
因果の法則とも言われているね。層化流にいえばそういうことを「諸法実相」と
呼ぶわけだが(わ)。
またテレパシーで以心伝心もあるよな、これも超常的とは言えるわけだな。それも
否定しないし、呪いということの基礎になるわけだな。
禅でも知未触、触せずして知る、真理は未経験であって触ったこともないものの
味もわかり色もわかったりする、これは禅の境地の一つに数えられていたりする
(正法眼蔵にもあるよな)。
だが、それは文字にする時は注意が必要なことでもある。あくまでもそうしたこと
を強調しないで道を説く。これが道元も心がけながら多くの禅師も教えたはずであった
だろう。私はそう思うのであるが。どうかな。
なぜかといえば、そうしないとそのときにカルトへ流れようとするモーメントが
そこで増加するからだろう。カルトにならない仏性が真実の仏であるならば、
そのモーメントを極力低減するべきだろう。そのように禅はあってきたはずである。
620 :
Sb ◆SbSGI7AtEA :04/02/07 21:47 ID:nkWzuMqy
>>618 違う違う、そういうのではないんだよ
念力などどうでもいいことなの
念力があろうと、超能力があろうと、四苦八苦することには変わりない
そう思ってしまえば、念力よりも超能力よりも
平凡な日常のほうが超常的になる
解脱したから、四苦八苦のない人生を送れるのか?
悟りを得たから、四苦八苦のない人生を送れるのか?
そんなことは無い、死ぬまで、四苦八苦し続ける
悟ったから、死にたくないと思わなくなるわけではないってこと
死ぬのが怖くはなくなるけどね
死ぬことは怖くない、病うこととも怖くない、老いることも怖くない
死にたくはない、病いたくない、老いたくない
生きていたい
生きていくのは怖い
621 :
Sb ◆SbSGI7AtEA :04/02/07 22:00 ID:nkWzuMqy
ただ、学会の問題点は
題目を唱えれば、公明党を応援すれば、聖教新聞を配達すれば
四苦八苦がなくなるかのような教えをしている点だね
>>606 >その入門書には簡単な座禅の仕方の説明があり、自分もやってみました。
>それにしても座禅で「無心」になるのは難しいですね、逆に色んなことが頭を駆け巡ってしまう、
>自分は勤行・題目の様に何か口ずさんでいるほうが、かえって「無心」に近づくような気がします。
ところでこれですが、あなたは実は非常によいところに到達しているでしょう。
それは題目でこころが静まるということを経験しているからです。あなたは禅に
すでに近づいているのです。
禅は何もあぐらをかいて坐ることだけが禅ではありません。あなたの好きなその
題目を思いっきり唱えることは何も禅に反することだとも言えません。むしろ
いいところに近づいているでしょう。
高速に題目を気が済むまで唱えてください。気が治まるまで唱え続けて体内の気を
ほとんど完全に吐き出してしまうのです。そこは大変重要なところとなるでしょう。
そうして十分気を吐き出してしまったら、そこであなたの気が治まることでしょう。
そこで題目を唱えるのを停止します。そうしたらその正座のまますかさず、大きな
複式呼吸を始めます。題目の声が止んだ室内には静寂だけがあり、その中であなたは
禅に入るのです。そうして静かに腹で呼吸することに意識するのです。静かにその
静寂に「聞くように」してあなたの心の向う先を自分の問いかけたい根本的な質問や
問題意識のためにあなたの深淵に聞くようにするのです。この静かな呼吸の間に
あなたは自分の体内、脳内、頭内、そして内臓や神経、内分泌機関の中でまたそこを
通して、大きなうねりが起こりそして大きな流動が起こり横溢が起こることを体験する
ことでしょう。
これが題目から始める禅の体験となるでしょう。そうするとその流動と大きな波のよう
な体感によって非常に大きな生命力が横溢する経験によって、自分が題目それ自体では
なく禅によってこれまでになかった新しい経験をしていることに気付くことでしょう。
そこが題目教徒であった人が禅に近づくための一歩となるでしょう。もし興味が湧いたら
あなたも体験してみてください。得るところ大であることを保証致します。
ニチレンはこれをしませんでした。従って題目マントラどまりの宗教に終端して
しまったのです。彼は天台真言宗に所属する僧侶として名簿が残っているようです
が、彼がマントラを希求してそうした所属になっていたことを物語っているでしょう。
彼は徹頭徹尾やはりマントラ希求者であったことを示しているのです。
その彼の得た帰結が法華経のタイトルを使ったマントラであったということでした。
彼は真言の一種としてのマントラを経文のタイトルに求めただけだったとも言えるの
です。結果として彼はその生理学的な効果効能を自分で体感し体験することで得、
その理屈づけとしての教学を「あくまでも経文のフシギ=妙という思考の下に」構築
することを選んだのでした。しかしその構築は単に彼の想像を繋ぎ合わせただけの
ものでしかなったわけでしたね。これについてはさんざん語られていますから割愛し
ますが、彼はその題目体験を至上のものとしたわけでした。ここにニチレン教が誕生
したのです。
”ナンミョウホーレンゲーキョー”というマントラの持つ効果はそれなりに
ありました。それはあなたも体験済みであるように、それが体の中の気を
リズムに乗せて吐き出す効果だったのです。そのためにそれは良く調心効果
を持ち、そしてまた元気の源のようにも感じることとなったのです。これは
要するに体操してすっきりしたり元気になったりするのと同じことなのです。
ですからこれは別段経文のフシギ、妙などではないです。ここを科学という
思考のなかった当時、発見者の一僧侶が宗教という事の中に答えを見出そうと
したのも無理はないのであり、それが大きな誤謬の元を作ったのだとも言えた
わけでした。その後700年間もの間その説は科学の無い時代を通じて流布し、
解析的に考えることをしない人々に一定の宗教的観念として意識づけされる
基礎を形成してしまったということであり、その観念から一歩も外に出ることが
できなくさせてしまう元になってしまったということだったのです。
これがニチレン教の正しい読解でしょう。よろしいでしょうか。
ですから、このためのマントラは必要ならばいくらでも作り出すことが可能
なのです。これは何も”ナンミョウホーレンゲーキョー”だけでしか作り出せ
ないわけではなく、似たマントラはいくらでも存在させることが可能なのです。
なぜならその効果は体内の気を吐き出す効果であり、そのための音韻であり
リズムでありさえすればなんであってもよいからなのです。これが題目効果の
唯一性を否定する反証となるのです。
これによりニチレン教の根底が否定されてしまうことになります。これによって
ニチレン教は教としての意味を失い、体操教としての価値、すなわち肉体からの
修練グループを形成するためだけならば存在をゆるされる研究会としての教団
が存在できるのみとなるでしょう。
「気の導引術」という本が日本文芸社から出ていますが、この本はなかなか
面白い本ですのでどなたも参照されることをお薦めします。そしてそこにある
気のコントロール法の中の「ホウ」の気、「チュイ」の気、「シー」の気、
など音韻にともなって吐き出される気についての説明を読んで実践して見られる
ことをおすすめします。
そこにもあるように、これらの音韻とともに吐き出される気は確かにそこの
説明にある通りの臓器に対応するかのように、肺の邪気、胆嚢の邪気、肝臓の
邪気などが吐き出されることに対応しているかのように体感せられることでしょう。
そしてそれによってすっきりとし、さわやかな体感として感じられることと
なりそして元気になることも体感することになるのでした。
これらの音韻がなぜこうした臓器と対応した体感が生まれるのかはまだ明らか
ではありませんが、しかしそうした対応がありそうなことは、要するに漢方医学、
あるいは鍼灸マッサージの医学で説明される経絡の理論で解明されることでしょう。
すなわちそれはまさしく神経の生理学であり、内分泌の生理学であるからにほか
なりませんね。そのように神経に影響を与える音韻、すなわちその音を生成する
ための口の開け方と咽の神経の関連、そしてそれに連なる体内の経絡の関係が
存在するからなのです。そこには漢字の当てはめに関係する「意味」は存在せず、
発音が関係するのみとなるのです。
”ナンミョウホーレンゲーキョー”もまさしくこの応用編であることはほとんど
間違いありません。すべては神経への刺激による体内機構の働きであり、経文の
意味論では全然ないのでした。「意味を考えずとも効果効能がある題目マントラ」
のフシギとは単にこれであったからなのです。
「ゲキョ、ゲキョ、ゲキョ」では
効能効果はないでしょうか?
であれば、こうした効能を体感したからといって、そこから宗教的帰結を得るという
必然はもはや許されないことになります。そうした結論を引き出すことはもはや完全
に「論理的根底」を失っていることになるからなのです。
こうしてニチレン教はその解明が完全になされていくことでしょう。題目マントラに
付随して勝手に結びつけられてきた「迷信型の信仰、信念、信条」の数々は悉く崩壊
させられてしまうことになるでしょう。
こうして日蓮教は、
(1)仏教からは哲学の観点から意味論的に排除され
(2)医学的解明によって「教」としての地位を失い
(3)完全に「薬指を折って手の平につけると元気が出るね」(=交感神経を刺激
するためにそう感じられる)「ホウの邪気吐き出しで肺がすっきりするね」など
と同じ「民間療法的生活の知恵」として生き残る(しかしこれは生理学の研究
対象となるだろう)
のみとなる道が用意されたといえるのではないでしょうか。それではまたと致します。
629 :
乾闥婆:04/02/07 23:19 ID:???
ブツ理さん。相変わらずですね。
>>629 相変わらずです。もちろんです。私は迷信には関心がなく、真理にのみ心があり
ます。あなたもそうなってください。もちろんそのこと自体には反論はないでしょう
が。ここでは歴史論や民族学的関心は一切排除されていますので、かつての議論の
蒸し返しは無用とさせて頂きたく。
それではまたと致しましょう。何か他にご意見があればご自由にお願いしましょう。
そんじゃまたね、ケンちゃん。今日は長くなったからここまでじゃあ。
631 :
名無しさん@お腹いっぱい。:04/02/07 23:48 ID:hvYCH2NL
632 :
乾闥婆:04/02/08 01:08 ID:???
>>630 ご安心下さい(笑)。あなたの持ち帰っている仕事が進まなくなるような反論
は、もうしませんから。ただ、あの頃とまったく同じことを言っているので、
私の話など碌に聞いていなかったのだなあと思って、おかしくなっただけです。
「ここでは歴史論や民族学的関心は一切排除されていますので」というのも、
いかにもブツ理さんらしい強引さですね。なぜ排除されるのでしょうか? 都
合の悪いものは排除ですか? まるでどこかの宗教団体のようではありません
か? まあ、もう、特に「ご意見」もないので退散します。気が向いたらまた
来ますね。
>>632 いや、「都合がいい」からではなくて、「真理に基づくべき事柄」を「歴史的既成事実
と民俗学的関心」だけから「無意味に擁護」する姿勢は排除されるべきだという信念
から申し上げているだけのことです。
なぜならば、人は「歴史的既成事実」によって「支配」されたり「規制」されたりする
べき必然性などは存在せず、弁証法的真理に基づいて正しく解明・解析され、その
真実によってのみ生きるべきだという主張をしているからにほかならないのです。
あなたのご意見はそれとして尊重しますが、害毒を流す集団や組織を正しく読解して
裁くことは現代ではぜひとも必要であり、あくまでも急がれることなのです。だから
こそこうして解析し読解し解体するべき必要性と必然性が生まれているに過ぎませんね。
あなたが議論をされたことを嫌うわけでも評価しないわけではありませんが、その
議論の意味はここでは無要なものとなるということでした。あしからずお願いしたく。
それではまた。
>>627 ちなみに、「それ」でも効果がるかと思いますよ(w。ではまた。
635 :
母が熱心で困ってます ◆1Cz5bN8eQk :04/02/08 15:02 ID:2J7RvW+d
>>611 レス、ありがとうございます。
>では何が問題なのかというとだね、ニチレン教はその呪文マントラを「神」
>にしてそこから「仏教」と名乗って「新しいおどろどろしい宗教的な呪縛を
>作り出した」ということなんだよ。
>それは禅を知らない人がそれに偶然ながらも辿りつくと、そこが「絶対の呪縛
>になってその人を狂気の沙汰に」追いこむのが問題なのさ。
確かにそうですね。
だから自分は日本人のくせに、そのつまらん宗教的な呪縛のせいで30才を
過ぎるこの年まで"禅"に興味を持てませんでした、本当に残念です。
言葉だけなら欧米人でも知っているというのに、"真言亡国禅天魔..."と刷り込まれ
て育った自分には、なんだか悪いものという先入観があり、文化や伝統としてすら
素直に受け入れることが出来ませんでした。
636 :
母が熱心で困ってます ◆1Cz5bN8eQk :04/02/08 15:05 ID:2J7RvW+d
>>622 レス、ありがとうございます。
>ところでこれですが、あなたは実は非常によいところに到達しているでしょう。
>それは題目でこころが静まるということを経験しているからです。あなたは禅に
>すでに近づいているのです。
到達ですか・・・まだ入門書を読み始めたばかりなのですがね。
まあ題目という手段を経験し、それが自分の血肉となっていますから
何もない人(そんな人いるのかな!?)よりも、多少は得とくし易いとは
言えるかもしれません。
>高速に題目を気が済むまで唱えてください。気が治まるまで唱え続けて体内の気を
>ほとんど完全に吐き出してしまうのです。そこは大変重要なところとなるでしょう。
>そうして十分気を吐き出してしまったら、そこであなたの気が治まることでしょう。
なるほど、"気を吐き出す"という捉え方はしたことがありませんでしたが妙に納得です。
自分はラジオ体操というかカラオケみたいな軽〜いスポーツや健康法と考えていました。
まあどう捉えてもスッキリする効果は同じですけど、とにかく続けると体に良いですね、
それが御本尊の功徳だとは思いませんが、元気で明るく生活できれば、いい事があるのは
当たり前ですよね、しかしこれは内部の人には間違っても言えない解釈ですw
637 :
乾闥婆:04/02/08 23:35 ID:???
>>633 >なぜならば、人は「歴史的既成事実」によって「支配」されたり「規制」されたりする
べき必然性などは存在せず、弁証法的真理に基づいて正しく解明・解析され、その
真実によってのみ生きるべきだという主張をしているからにほかならないのです。
そして、そのような姿勢では日蓮も創価学会も正しく理解できないだろうし、
有効な批判にもなりえていないのではないか、と言ってきたのでしたね。たと
えば「ゲキョ、ゲキョ、ゲキョ」でも効果があるとあなたは言われるわけです
が、「南無妙法蓮華経」のもとに信者は集まっても「ゲキョ、ゲキョ、ゲキョ」
のもとには信者は集まらないだろうという点をあなたは看過してるわけです。
以前は「ビョンデンベンデン レンベンデンギョウ」でも同じ効果だと主張さ
れましたね。しかしそこには「南無妙法蓮華経」のような<意味>は生じない
のです。結局なぜ創価学会が創価学会足りえているのかといえば、それは<意
味>によってなのでしょう。そこをあなたは見落としていると思うわけです。
創価学会の問題あるあり方の根源にある<意味>を問わずに「正しく解明・解
析され」ることなどないのではないでしょうか。そしてその<意味>を問うに
は歴史的経緯やその現代における批判といった視点こそ必要なのであり、それ
こそまさに「正しく解明・解析され」える道筋であり、有効な批判にさえつな
がりえる道ではないでしょうか。単に日蓮や創価学会を体操教に還元してもな
んの批判にもならないでしょう。浄土教でも密教でも禅でも、その歴史的な積
み上げやそこに付加される意味を奪い去ってしまうなら、どれも体操教になっ
てしまうのではないでしょうか? <意味>を問わなければ、どれだけあなた
が言葉を費やしたとしてもなにも言ったことにはならないでしょう。宗教の抱
える問題とは<意味>という病のことなのであって、その<意味>を避けては
病を根治することは出来ないと思うのです。
アッラーの影響は受けてるけどな、日蓮は。
639 :
Sb ◆SbSGI7AtEA :04/02/09 09:51 ID:zDj3Xs8b
>>637 >乾闥婆さん
おかえり
(とりあえず、トイレに行きたいので、挨拶だけ)
640 :
十羅刹男 ◆oqrK07Dod. :04/02/09 13:36 ID:tX02/9OH
このスレ面白いね・・・。
今日テレビのニュース見てたんだよ。
そしたら、神主が出てて、豊漁祈願とかやってるですよ。
(吉牛コピペじゃねーぞー)
ふと思ったんだが、創価学会って神道に似てるよね。
お願い事をして拝んだら功徳が出て、逆らったら仏罰、でしょう?
神道の神様みたいだよね。
祈祷してお願い事を聞いてもらって、粗末にしたら神罰があたるの。
仏教って神道とは違うんでなかったっけ?
限りない慈悲心と、智慧を育む為に帰依するんじゃなかったっけー?
(いや、俺もよくわかってないけど)
でも、創価って仏教って言うより、神道だと思った。
皆さんはどう思う?
あまり難しいこといわれると困るで簡単に語ってくださいな
>>633 人は「歴史的既成事実」によって「支配」されたり「規制」されたりする
べき必然性などは存在せず、弁証法的真理に基づいて正しく解明・解析され、その
真実によってのみ生きるべきだという主張をしているからにほかならないのです。
物理さん、言葉は「歴史的既成事実」そのものではないのでしょうか?
あなたの言う真理とは言葉で表せるものなのですか?
「支配」されたり「規制」されたりするべき必然性などは存在しないものに
必然性を求めているように思うのですが、如何ですか?
643 :
名無しさん@お腹いっぱい。:04/02/09 20:16 ID:kipLbGIm
644 :
波木井坊竜尊@日蓮宗葵講@名前だけ仏所 ◆IByKs72gR2 :04/02/09 20:33 ID:ZX83fPbS
よくない欲があるから引きこまれるんだよ。(ゲラ)
645 :
母が熱心で困ってます ◆1Cz5bN8eQk :04/02/10 12:20 ID:PsVkGBB6
>>641 確かにご利益信仰になってる部分はありますね。
>>641 創価はゴキ念(御祈念)ノートなるものにあれ欲しいこれ欲しいなどと書き込んだり
仏壇に御願いごとを貼り付けて拝むそうだ。
菩提心から入る仏道でないのはあきらかでしょうなぁ。
本尊や題目にすがっているだけではなんの成長もない。
まさに他力本願(浄土の他力とは違って)。←世間的な用法で
どこかのホームページでも日蓮系は他力本願となってますよ〜。
また日蓮聖人は妙密上人にこんな手紙を出していますな。(妙密上人御消息)
経のままに唱えれば、まがれる心なし。当に知るべし、仏の御心の、
我等が身に入せ給わずは唱えがたきか。
経の通りに唱えれば、邪悪な心は消え去り「まがれる心なし」となるそうな。
何かを願えなどと日蓮聖人も言ってないようですなぁ。
641さんへ
645は低能なガッカインなので代わりに(646・647)で少しでも分かりやすいようにカキコしました。
私の他にもっと詳しい方も居るはずなのでタイミングよく質問すればよろしいかと。(w
649 :
29男 ◆JMmE5ppk7Y :04/02/10 13:36 ID:XEB3+3be
宗教にハマる人って大なり小なり、Happyキボンヌでしょ。
それは、いいのだと思いまつ。
だって、そりゃみんな幸せになりたいもの。
ただ、学会や他の類似団体がおかしいと思うのは、その幸せの追求のために非科学的なことをしでかすからでつな。
幸福という結果があるところにはもちろん原因があるわけで。
結果にいたるまでには、当然そのプロセスもあるわけで。
これらの団体の構成員の思考はプロセスが特異で非現実的なわけでつ。
ぶっちゃけ、初詣のご祈願するのを毎日やっているようなもんです。
「じゃあ神棚と仏壇ってナニがどう違うの?」っていうよな気分にもなってきまつ。
特に学会の場合は題目を「10時間唱えたから〇〇〇」だの「友人を会館に連れ出して入会を説得したから素晴らしい〇〇〇だった」だの
こういう会話が日常会話なんだから、普通人にはついて逝けない話なわけでつ。
幸せの追求のために、カルト的要素の濃い活動を他の迷惑を省みず、盲目的に行ってしまうところが痛いのでつ。
外部から見ると、ただ気持ち悪いだけ。
幸せを願ったり、ヒューマンコミュニティを軸に活動する創価は、別に問題はないと思うが、信仰にカコつけた日々のカルト活動は甚だ疑問でつな。
650 :
母が熱心で困ってます ◆1Cz5bN8eQk :04/02/10 14:07 ID:PsVkGBB6
>>646-648 なるほど勉強になりますねw
しかし、日蓮系は他力本願&日蓮はそんなこと説いてはいないという主張だけでは
>>641さん
の書いた"学会が神道と似ている"という感想への説明としては不十分だと思いますよ。
組織が、日寛上人の「祈りとして叶わざる無く」という言葉や、戸田先生の
「御本尊は幸福製造機」という例えを引き合いに出し、"ご本尊に向かって祈れば
欲しい物が手に入る、夢が叶う"という指導をしていることに触れなければ、
どうして学会が神道などのご利益信仰と同様に見えるのか納得いかない思います。
創価のことは他所でやれや低能くん
此処は日蓮&ブッタスレであります。
創価学会は仏教の真髄を追求した宗教団体です。
それは創価学会で頂ける御本尊こそが仏教の真髄を表しているからです。
654 :
母が熱心で困ってます ◆1Cz5bN8eQk :04/02/10 14:39 ID:PsVkGBB6
困ったね、
>>641さんの質問に軽く答えただけなのにw
Sbさんスレ汚しちゃってゴメンなさい、迷惑になったら言って
下さい、すぐ出て行きますので。
あげ
>>649 あら?オマエ卒業宣言したんじゃなかったっけ?
これだからネットジャンキーは。。。。。。(笑
>>649 >宗教にハマる人って大なり小なり、Happyキボンヌでしょ。それは、いいのだと思いまつ。
↑浅いなぁ、これだから信心のねえオンナの肉体目当てで入信したヤツは・・・・(ry
658 :
29男 ◆JMmE5ppk7Y :04/02/10 18:08 ID:h0MyfMod
>656 いやいや、話の流れが日頃感じている事と似ていたので書きこんでみたんでつ。 でも創価は本仏が日寛教だから、確かにここで創価を語ったのはスレ違いだったかもでつ。スマソ
659 :
Sb ◆SbSGI7AtEA :04/02/10 18:18 ID:TXasQ7no
>>649 >29男
帰って来たなら、ただいまぐらい書いたらどうだい
それに君ももう三十路ではないのか?
まいいけど、お帰り
>>654 >母が熱心で困ってますさん
ZXのAAアラシを呼び込んだのなら、出入り禁止にもしますが
それまで、一番のスレアラシが私だから(w
仏法に関することなら、いいんじゃないですか?
どんどんやれば
660 :
母が熱心で困ってます ◆1Cz5bN8eQk :04/02/10 18:26 ID:HYsaVeJg
>>659 Sbさん
>仏法に関することなら、いいんじゃないですか?
>どんどんやれば
ご理解ありがとうございます。
しかしスレのムードがなんだか・・・・・・ですね。
まさか"正法に背き禅に染まるは魔来たり"という現証
じゃないですよねw
>Sb ただいまでつ というかふら〜り気まぐれに書き込みしてみますた。 オヒサでつ
662 :
Sb ◆SbSGI7AtEA :04/02/10 18:42 ID:TXasQ7no
>>660 >母が熱心で困ってますさん
「正法に背き禅に染まるは魔来たり」
自らの教えが正しいのは己の道においてのみ
人に他人の道を歩ませるは外道
己の道を歩く法を外しておいて何の正法か
似非正法に背いたからといって、魔の来ることなどなし
>>637 意味論は、ニチレンの場合はあくまでも後から付いたものだと考えています。
つまり「ナンミョウーホーレンゲーキョー」の効果効能(生理学的それ)が先に体感
され、そしてそれを日蓮が勝手に考えた意味論が「法華経の功徳」としての意味付け
だっただけで、実際に層化学会などに入る人々はこの体感が「仏界」だから、その
効果効能を及ぼしてくれるからこそ、その効果効能が快感となって層化学会が「正し
かった」と考え、病気が治るのなら「これが正法だからだ」と考え、結果としてその
説明を「法華経の功徳」なんです、「その経のタイトルにはフシギな力が込められて
いるんです」という理解になるからなんですよ。
層化学会にいる人でこのロジックになっていない人々はほとんどいないでしょう。
そしてまさしく日蓮はこの「現象」→「その説明」という「現実に起きている流れ」
を、あくまでも「経が最高」→「だから功徳がるタイトル」→「現実に体感が快感」
→「なんでも幸福になる」という持っていき方になったいるんじゃないでしょうか。
だから、その根底を崩壊させるには、この現実を科学的に分解して明解に説明し尽く
してしまって、その信仰が本質的に「生理学に依拠した体内現象である」に過ぎない
ことをはっきりさせ(科学によるカルト教の解体)、結果として「そこに付与されて
いた意味論」を「無意味にする」ことが必要だということでした。当方の議論は。
これをどこまでも推し進めていけば、日蓮の考えも「科学的」に間違い(民俗学的に
ではなく)、それに依拠する層化学会の考えももちろん同時に間違い、となるのでは
ないでしょうか。
「ナンミョウーホーレンゲーキョー」は創価学会に入りたての人が「意味を何も
知らなくても」、またどんなにもそれに日蓮が付与した意味を知った後の人でも
「その意味などを全然考えずとも」、ただ「機械的に」唱えれば効果効能がある
種類のものでしたから、そこには本来なら「信仰」という要素は付与されるべき
必然性は議論できない種類のものだったと考えられるわけでした。
これは正しくないでしょうか。私は正当なロジックであり、科学的な論理であると
思うのですが。
もしそうだとすれば、そこに付与された意味論は、たとえば、パブロフの条件反射
の動物虐待実験と同様に、信者はあくまでも「条件づけ」としての「意味論」を
聞かされて感化されているのだと考えられるわけですね。そうなるとそれをその
条件づけとしての「意味論」から解体するのはむずかしいでしょう。条件づけは
なかなか取れないでしょう。なので、それを破壊するには、このように「科学の
ハンマー」で「原理的に根底からぶち壊す」しかないのではないでしょうか。
そう思ったわけですが、この議論でもまだ不足している部分はあるかもしれません。
なぜカルト教がよろしくないのかについては、別の視点からはこう言えると
思います。
キリスト教は歴史的には、中世カトリック教の魔女狩りを経て大きく脱カルト
したのでしたが、現在あの科学技術大国であるアメリカに「福音派」という名
でまた復活しつつあるようでした。
彼らはイスラエルの岩のドームがどうのといい、それがユダヤ人の手で支配管理
されていないと、再臨のキリストが降りてこれないのでどうのといい、それで戦争
してでもあの神殿の丘をユダヤ人側の主権に治めるべきなんだというような軍事力
をバックにしてでも現実の物理的な支配権を持つ必要があるという主張をしており、
それによってアメリカ大統領選挙にまで大きな影響力を及ぼすに至っているの
でしたが、これは完全にキリスト教のカルト化ではないかと考えられました。
これと同じ状況が日蓮のご本尊を巡るカルト的論争でもあり、本物のご本尊を持って
いるのがどうのという議論はまさしくあのユダヤキリスト教カルトの神殿奪取など
の主張と酷似すると思われます。そしてそうした秘教的伝授に関係する正統派主張の
争いは、何が科学的に正しいのかの議論ではないと思われるのです。
しかし彼らに信仰を論じて対話してもそれを覆すことは不可能に近いでしょう。
ならばそうした意味論の議論は根底からぶち壊すしか方法がないのではないでしょうか。
それと同じではないでしょうか。そして現実問題としてユダヤキリスト教カルト
の問題はまさしく世界戦争さえ起こしかねない大問題なのでした。カルトは
撲滅するしかないのではないでしょうか。そのためには科学の議論をするしかない
ということだろうと思うのですが、これは違うのでしょうか。
キリスト教が脱カルトしたというのは、そうした再臨の準備としての神殿の丘だの
といった物理的な信仰対象は本来的におかしなものであり、根本的なものではない
はずだという信念から出、そして人々はそうしたものではなく、精神のレベル、
思慮のレベル、意思の領域における信仰においてのみしか本質は存在しないことを
信者自身が了解することを以って始めて宗教というものが成り立つべきなのだと
共通に理解することを達成したからだったと思われるのでした。
しかし、日蓮の場合は、その根底に本尊を書いたかどうかという以前に、心で意味を
考えないでも効果効能がある「特定の呪文」を「神格」として受け取るように教義を
決定してしまい、それを「要素分解的に解析」することなく、「どんづまりの偶像」
として受け取るように強制してしまったが故に、そこで人々の意識はそうした秘教
伝授のカルトとして受け取るしかない状況を作ったわけで、すでにカルトそのもの
であったと言ってよいと思われるのでした。ご本尊論争はその派生的現象でしかない
のでした。
ですので、日蓮を根底から否定する必要があります。そのためには生理学的解明が
最終的には奏効すると思います。そうしないと層化学会という日蓮起源の強烈な現実
のカルトが滅ぼせないからでした。現代人は科学的解析によって宗教を分解してそこ
からカルトが生まれる根底を破壊することがぜひ求められていると思います。以上です。
>>637 >浄土教でも密教でも禅でも、その歴史的な積み上げやそこに付加される意味を
>奪い去ってしまうなら、どれも体操教になってしまうのではないでしょうか?
ついで一言しておくと、少なくとも禅などはそうしたものとは本来的に無関係と
なっている点がご理解頂きたい点なのでした。
確かに禅も本当は坐禅という点ではその本質は体操教なのです。
しかし禅はその体操を体操だと公言しています。坐禅することで悟りが得られる
基礎を作るだろうという意味でその主張をはじめから内包しており、そしてそれで
もOKなのでした。なぜならば、禅は「坐禅しないと地獄におちるぞ」とか「おまえ
道元禅師に逆らったな、病気だ不幸だ死刑だぞっ!などとは、「死んでも言わない」
のが禅なのでした(笑)。
さらに、禅はフリュウモンジの世界でしたから、経も教もすべて最後は捨てられて
しまい、まさに空のようになる(w)のが面目でしたね。だからどこにも執着せず、
カルトになる要因も全然ないのでした。禅がカルト化して世界を滅ぼす戦争をしない
のはどうしてでしょうか。それは最後はどこにも執しないからであり、悟りにあって
十方世界がすでにもともと全部が仏であると了解することで世界を聖化してしまう
からでした。カルトは全く及びでないのが禅なのでした。ここが歴史にも既成事実
にもなんら無関係の宗旨が禅なのでした。ちょっと蛇足でした。ではでは。
668 :
春田の蛙 ◆j/aD5mpE9Y :04/02/11 15:31 ID:hq9ZNQiD
>>578 乱さん
遅レスですが、どうもはじめまして。
>一休禅師は親鸞上人の仏法が最高であると歌っていますし
「えりまきの暖かそうな黒坊主 こいつの法は天下一なり」ですね。
親鸞が催した法要で詠まれた歌で、黒坊主というのはその場にあった親鸞の木像を指しています。
一休は「一枚起請最も奇なるかな」と法然を称えていますので(一枚起請文は法然末期の遺文と伝えられる文章)、
親友であった蓮如個人への気持ちもあったかも知れませんが、やはり法然が説き親鸞、蓮如が受け継いだ
他力浄土門の教えに感じるものがあったのでしょう。
>念仏は畑でかえるが鳴いている様なものだ
あ、それは畑じゃなくて春の田んぼです。私はそれをコテハンに頂きましたので。(^^;
と…つまんない横レスでスレ汚しスマソ。>all
669 :
春田の蛙 ◆j/aD5mpE9Y :04/02/11 15:34 ID:hq9ZNQiD
>>668 >親鸞が催した法要
↑蓮如の間違いです。ごめんなさい。
670 :
春田の蛙 ◆j/aD5mpE9Y :04/02/11 15:55 ID:hq9ZNQiD
>>667 >カルトは全く及びでないのが禅なのでした。
いやいや、そんな事はありませんよ。
宗教がカルト化するのに元の思想なんて関係ありません。
禅などは、むしろそれに興味をしめしたグレゴリー・ベイトソンらの研究が、
後のNLPなどの叩き台になって今日のマインドコントロール理論の根幹をなしている現状を考えると、
むしろカルトを作る上で利用しやすい思想でしょう。
無論、創価の教えが日蓮の説いたそれとはかけ離れているように、
そんなことに利用される禅は野狐禅との批判を免れないでしょうが。
>>670 >宗教がカルト化するのに元の思想なんて関係ありません。
日蓮に限ってはそうとは思えませんね。層化と日蓮の違いをどこに求めるのでしょう
か?理解に苦しみますね。
>禅などは、むしろそれに興味をしめしたグレゴリー・ベイトソンらの研究が、
>後のNLPなどの叩き台になって今日のマインドコントロール理論の根幹をなしている現状を考えると、
>むしろカルトを作る上で利用しやすい思想でしょう。
そんなマイナー過ぎる外国の勝手な失敗作をあげつらわれても、それが「禅がカルト教の
温床になる」などという結論は全然引き出せませんね。単なる無理解の延長ではどう
しようもありませんよ。あまり価値のある議論とは思えませんね。
>無論、創価の教えが日蓮の説いたそれとはかけ離れているように、
>そんなことに利用される禅は野狐禅との批判を免れないでしょうが。
だから本当に「そう」なんですか?日蓮の教えは層化にほとんど生き写しで現れて
いると見ているのですがね。日蓮がまた生まれてきて同じことを言い始めたら、
層化学会のことを高く評価し、また「既成仏教の堕落魔境どもや悪魔の新興宗教たち」
裳舞えラを切り捨てて正法を立てるべきである、層化学会こそは私の理論を現代化して
正しく引き継いでいる」と評価しそうに思いますが(w。
つまりそれはカルト教という意味で日蓮も層化も一緒ということです。日蓮から
断罪する必要がはやりあると思われます。やはり大本の誤まりである根源を絶つべき
なのです。どうでしょうか。
>>670 それにあなたの議論は、当方の
>>663-667の議論をなんら根底的に批判せずに行なわれて
いる。そこがそもそもおかしな話なのです。
わたしのして入る話が日蓮の教えの本質なのです。そこをどう具体的に批判される
でしょうか。それがなければ日蓮批判への反批判としてはあまり意味がありません。
673 :
641:04/02/11 23:33 ID:???
>>648 レスアリガトウございます。御書からの引用を出して頂いて大変分りやすかったです
本来の仏教や日蓮・・・なんて敬称をつけるべきか。とりあえず見習って・・・日蓮聖人も
こんな風に使われるとおもってたかどうか
以前から母が熱心で困ってますさんの発言も読んでましたが低脳ってことは無いと思いますよ
探求心が旺盛でその分実体験と知識たっぷりで、未活動→退会の私には非常に参考になります
それとスレ違いすみませんでした、ここしか該当しそうなところを見つけられませんでしたので・・・移動します
>>650 「祈りとして叶わざる無く」「御本尊は幸福製造機」これらのセリフは超有名ですが
出典を知りませんでした。勉強になります。
>> どうして学会が神道などのご利益信仰と同様に見えるのか納得いかない思います。
ここの板で問題の有る学会員として挙げられるような人が身近に沢山おりますので
創価学会=not仏教と思うと、逆にしっくりきます(w
このスレをロムしていて・・・以前の話題ですが、ブッタの言った事(原始仏教で語られていたこと)と
違うのでは、というのを聞いて納得もしましたし、さらに仏教が好きになりました。
更にすれ汚しゴメソ
>672
他スレで書かれてましたが、春田の蛙さんが
次に2ちゃんにくるのは、来月らしいですよ
675 :
乾闥婆:04/02/12 00:46 ID:???
>>663 >意味論は、ニチレンの場合はあくまでも後から付いたものだと考えています。
またこの前の繰り返しになってしまいそうですね。簡潔にいきましょう。
多くの創価学会員の場合は日蓮の主張する意味は後付でしょうが、日蓮に関し
ては完全に意味が先でしょう。念仏とその体感を比較してみて題目行をピック
アップした、というのではないでしょうし、第一題目を信仰実践の行法として
確立したのはおそらく日蓮がはじめでしょう。あくまで意味を通して日蓮は題
目行を打ち立てたのです。体感の違いだけが問題であるなら、同じ発語行為で
ある念仏と題目から命を賭けて一つを選び他を排斥するほどの違いを人間はど
う知覚しうるのでしょうか。その発語される言葉の背後に広がる意味世界があ
るから、さまざまな主張や争いが生じるのでしょう。後付であっても、問題は
発語行為自体ではなくて、その背後に広がる意味世界にあるのですよ。そして
その意味を奪い去ることはおそらくその信仰者からは出来ないと思うのです。
なぜならその意味自体が信仰であると思うからです。彼らは科学を信仰してい
るわけではないのですから。まあ、自身の宗教を正当化する上で、付加物とし
てそれに近い発言をする創価学会員は多いことは確かでしょうが。胡散臭いこ
とです。まあそれらにしてもあくまで添え物に過ぎず、その信仰の本質ではな
いでしょう。むしろ科学こそが後付でしょうね。
676 :
乾闥婆:04/02/12 00:48 ID:???
>>665 >これと同じ状況が日蓮のご本尊を巡るカルト的論争でもあり、
そうですね。弘安二年建立の一閻浮提総与の大御本尊、といった主張こそ、危
険であると思います。
>しかし彼らに信仰を論じて対話してもそれを覆すことは不可能に近いでしょう。
ならばそうした意味論の議論は根底からぶち壊すしか方法がないのではないでしょうか。
そうは思いません。新たな意味を提示すればいいのです。それが歴史を学ぶと
いうことであり、徹底した相対主義を導入することだと思っています。それは
科学を振りかざすことよりも平穏なやり方であり、むしろ効果的ではないでし
ょうか。彼らが信仰する<意味>に直接訴えかけることができるからです。
>>666 >ですので、日蓮を根底から否定する必要があります。そのためには生理学的解明が
最終的には奏効すると思います。
それほど効果はないでしょう。なぜなら日蓮の宗教は生理学ではないからです。
むしろ単に日蓮の歴史認識は間違っていたことを指摘すればいいのです。
677 :
乾闥婆:04/02/12 00:49 ID:???
>>667 >しかし禅はその体操を体操だと公言しています。
そうでしょうか。道元の用いる「単伝」「正伝」「面授」といった言葉には自分
の受け継いできた禅こそ仏祖の正しい教えとの自負が感じられるのですが。そ
れは日蓮が法華経こそ釈尊の究極の教え、正法であると自覚したことと基本的
には同じなのではないでしょうか。表われ方はずいぶん違いますが。道元は自
身の実践を仏道の追及と思っているのであって、体操と思っているわけではな
いのでは。
>さらに、禅はフリュウモンジの世界でしたから、経も教もすべて最後は捨てられて
しまい、まさに空のようになる(w)のが面目でしたね。
『正法眼蔵』の「仏道」「仏経」などを読むととてもそのようなことは言って
いないと思います。そのようなことをいう輩は天魔外道の類だと痛罵しており
ます(日蓮が、ではなく道元が天魔といっているのです)。道元は入寂に際し
『法華経』を書写したのであり、『法華経』の「神力品」を口にしたのでした。
最後まで経典を捨てなかったのではないでしょうか。
>ここが歴史にも既成事実にもなんら無関係の宗旨が禅なのでした。
そうでしょうか。「単伝」「正伝」「面授」「嗣法」といった概念をあなたはどう考えられますか。
678 :
乾闥婆:04/02/12 00:50 ID:???
>>671 日蓮が現代に生まれたら、創価学会を支持することなどないでしょうね。釈尊
の真の教えを追い求めた日蓮が現代の仏教に関する情報を入手すれば、まった
く違った主張になるだろうと思いますよ。
679 :
母が熱心で困ってます ◆1Cz5bN8eQk :04/02/12 00:59 ID:BP1o6gSb
>>673 641さん
レス、ありがとうございます。
>>648さんは最近自分に変に絡む粘着さんなんです、そのせいで
結果的に妙な感じの対応になり、あなたに気を使わせてしまった
ようですね、申し訳けありませんでした。
あなたはすでに退会してるのですか、もし機会があったら組織に
ついて色々と語って下さい。
>>670 マインドコントロール理論は、カルトを客観視する視点を獲得し得たからこそ構築し得たのであって
その土台に禅がなっているということは、禅はカルトでない証明みたいなもんだ。
間違えていけないのは、カルトそのものと、カルト構築に利用されるか否かはまったく違うということ。
681 :
Sb ◆SbSGI7AtEA :04/02/12 10:28 ID:52usOymF
>>667 わかりやすい説明ですね
>>「おまえ 道元禅師に逆らったな、病気だ不幸だ死刑だぞっ!」
まったく逆のことなら言いますよね
他是阿誰とかね
>>670 >春田の蛙さん
それは一寸違うんですよ、その人たちが利用したのは禅ではないのです
禅の前段階です、でも、禅はそれを自分で落とすことを目的としている
そもそも、思想ではなくて、システムなんですから
宗教から生まれた、宗教を破壊するシステム
仏教は宗教として破壊されて始めて完成する
完璧な宗教を目指した日蓮さんにとっては確かに天魔
破壊しちゃうんですからね
そのシステムを利用してカルトを作ることは出来ませんよ、
カルト的要素など破壊されてしまうのですから
>>677 >乾闥婆さん
それが、道元さんの禅なんです。
で、それを周到することに意味はないのです
周到すべきはそれこそ不立文字の部分
指を周到しても意味はない
月を周到しなければならないのです
682 :
乱:04/02/12 14:42 ID:WUJZ/dXt
春田の蛙さんレスありがとうございました。
思い立つと投稿せずにはいられない性分と.頭が悪く
どの本にどこに書いてあったか忘れてしまい.いいかげん
なことですみません。
貴方のレスまた使わせていただきますので御了承おねがいします。
>>678 >日蓮が現代の仏教に関する情報を入手すれば、まったく違った主張になるだろうと思いますよ。
乾さんの推論キボンヌ。
684 :
乾闥婆:04/02/12 23:49 ID:???
>>681 Sbさん。
>それが、道元さんの禅なんです。
で、それを周到することに意味はないのです
済みません、よく意味がわからないのでもう少し分かりやすく言って下さい。
「周到する」ということはどうすることなのですか? 周到とは「準備(注意)
がよく行き届いて、手落ちなどの無い様子」と辞書にあるますが、その語に「す
る」とつけるとどのような用法になるのでしょうか。ところで道元は経典に対
してもまさに「準備(注意)がよく行き届いて、手落ちなどの無い様子」であ
ったようですね。「知識はかならず経巻を通利す。通利すといふは、経巻を国
土とし、経巻を身心とす。経巻を為他の施設とせり、経巻を坐臥経行とせり。
経巻を父母とし、経巻を児孫とせり。経巻を行解とせるがゆゑに、これ知識の
経巻を参究せるなり。知識の洗面喫茶、これ古経なり。(中略)しかあればす
なはち、参学の一箇半箇、かならず仏経を伝持して仏子なるべし。いたづらに
外道の邪見をまなぶことなかれ。いま現成せる正法眼蔵はすなわち仏経なるが
ゆゑに、あらゆる仏経は正法眼蔵なり。」これは『正法眼蔵』の「仏経」の一
節です。これにつづいて経典を軽んじる輩が最近多いことに触れて、「外道天
魔の流類」と痛罵し、「仏祖の法むなしく狂顛の法となれり」と嘆き怒り、彼
らを「杜撰のやから」と罵倒するのでした。「あらゆる仏経は正法眼蔵」なの
ですから、それを大切に扱うのは当然のことではないでしょうか。月を差す指
もまた「正法眼蔵」なのではないのでしょうか。そのことを理解しなければ道
元から厳しい叱責をあなたは浴びることとなるのではないでしょうか。
685 :
Sb ◆SbSGI7AtEA :04/02/13 00:18 ID:ZwVm+YYS
>>684 >乾さん
すまない、漢字間違えていた
踏襲だです
なにやってんだかねぇ
それが、道元さんの禅なんです。
で、それを踏襲することに意味はないのです
踏襲すべきはそれこそ不立文字の部分
指を踏襲しても意味はない
月を踏襲しなければならないのです
で、よろしく
(あー恥ずかしい)
>>675 レスどうもでした。この問題はケンさんもなかなか譲りませんが、これは
ナンミョーホーレンゲーキョー問題の最大の論点だと思っています。
>体感の違いだけが問題であるなら、同じ発語行為である念仏と題目から命を
>賭けて一つを選び他を排斥するほどの違いを人間はどう知覚しうるのでしょうか。
この部分は世界最大の日蓮教団体である創価学会という宗教団体が唱える
根本主張であり、つまり現代では日蓮と名のつく信心者の最大多数がこの
問題で囚われになっているということをまず理解するべきだと思います。
つまり「人間はそれを知覚している」ということです。創価学会という
1000万人の日本人や外国のまれな人々が感じる日蓮の信心というものは
すなわちこれなのです。これらの多くの人々は(ただし一世さんのと限定した
方がいいのかもしれないですが)ほとんど皆この主張「仏界」感覚の虜(とりこ)
としてのナンミョーホーレンゲーキョー問題になっていると理解しなければ
なりません。つまり彼らはこのナンミョーホーレンゲーキョーのもたらす
体感にすべてを掛けて創価学会に入信したのです。
ここがわからないと創価学会の秘密は全然わかったとは言えません。それは
すなわち、創価学会という日蓮思想の具現者達である彼らを通じて日蓮が
どうしてこのナンミョーホーレンゲーキョーが世の根本だと主張してそして
それに賛同して人々がそれに同意を与えるようになったのかがわからないと
いうことだと思います。彼ら一世入信者の99%はこの「ナンミョーホー
レンゲーキョーが仏界をもたらす」から「日蓮の言ったことは正しかった」
のだと考え、「真理思想の体系」というものを「彼らなりに推論」した結果
「日蓮の名は広まった」のです。ですからカルトの根源はどこかはあなたの
指摘されている「宗教の部分」ではなく、日蓮がもたらした「秘教思想」で
あり、そこを破壊しないと全然彼らは救われない、ということを言っている
わけです。なので、「日蓮を否定」する必要があると言うことになるわけ
ですね。ここはまず第一の最重要の論点なのですがよろしいでしょうか。
チト長くてすみませんが、ここは重要な処なのであえて書きますが、
つまり「ナンミョーホーレンゲーキョーによる体感イコール仏界」であるから、
十界中の最高意識の状態である「仏」の状態を実現する手段は「これしかない」
そして「これが法華経のタイトルになっている」ことが「フシギなこの世の
因縁であり妙(思量の及ばないフシギ)なんだぞ」「これは仏(という名の
魔法の元神)の与えた最後の秘法であり宇宙の根源の秘法なんだぞ」→「これ
をこの世に花開かせたのはかの日蓮”大聖人”であり、日蓮こそは仏の顕現
であった」→「(この魔法呪術の元神であるところの)仏の慈悲でもたらされた
この最高の秘法ナンミョーホーレンゲーキョーは人が絶対に服従して唱えなけ
ればならない最後の法でこれを越える法は絶対に無い」→「それは(この魔法
の元神なる)仏の末法の最後の慈悲で出された救いだからだ」→「この秘法を
受け入れないでこれを広める我々に逆らうならそれは救いの最後の法を受け
入れなかったことになるのだ、それは最大の仏罰ものである!」「そうなら
おまえは仏に逆らう悪魔の輩だ!」→「徹底的に嫌がらせをして苦しめでやる」
「言いなりになるまで嫌がらせしてやっつけてやるぞ」「いいか逆らうとこう
いう目に合ってどんどん不幸になるのだ」→「不幸になりたくなければ我々に
従うのだ」「そうして我々の側につけばとにかく許してやろう」→「敵にさえ
ならなければまずはよしとしてやる」「嫌がらせがいやならナンミョーホー
レンゲーキョーを唱えて裳前もこの秘法を広めるのだ」「そうすれば裳前も
福運がついて救われるのだ」「そしてこれを広めている創価学会だけは唯一
日蓮の秘法を忠実に広めているので世界で唯一の正しい集団、現代の威音王仏
なのだ」「この威音王仏に従って誹謗せずに絶対の服従を誓って進まねばなら
ない」「逆らえば地獄に落ちるんだぞ!!」←「なぜならそうすれば日蓮に
逆らうことになり仏に逆らうことになるからなんだぞ」「わかったな」これが
日蓮カルトとなっているのです。
>その発語される言葉の背後に広がる意味世界があるから、さまざまな主張や争い
>が生じるのでしょう。後付であっても、問題は発語行為自体ではなくて、その
>背後に広がる意味世界にあるのですよ。
まさに、「日蓮」=「カルト」になっており、これはたまたま創価学会という
団体名で書いているが、創価学会でなくても日蓮の教説からすればどこがやって
もコウなるわけです。それは「日蓮」=「仏」=「絶対」=「逆らうな」=
「言いなりで働け」ということにそのまま繋がっていくわけですね。日蓮を
否定しなければならない理由はこれで完全に明らかであり、根本から破壊する
しかないのは議論の余地がありません。題目奇跡教としては本門仏立宗なども
そうで創価学会と瓜二つの教義でした。
そうした根源はあなたのおっしゃるこの「仏という言葉への異常なまでへの偏執」
があることも指摘できましょう。彼にとっては「仏」とは「従うべき神」と
ほとんど「同義」になっており、まさしく一神教の神格に該当する存在になって
いるわけです。つまり彼の仏とは「裁く神」であり、ユダヤ教やイスラム原理主義
と変わるところがないのです。だからこそ彼は「異宗連中の首を取れ」とまで
言ったわけです。本当の「仏」なるものがそんなことを言っているというのは
おかしな話なわけです。まさにカルトといわなければなりません。
彼が間違った根源はどこにあったのか、同じ仏教でも全然カルトにならなかった
禅に対しなぜ「呪文教」だけがカルトになったのか?それは皆わたしの主張して
いる通りに、それがもたらす「フシギ」にあったからであり、そのフシギを勝手
に「先付けとして説明した間違い」が起こしたからなのです。だからその「フシギ」
が「フシギ」でないことを「科学的に証明する」ことができれば「問題はすべて
解決することになるわけです。
日蓮は完全に先付けの説明としてこれを主張し、だから「仏の慈悲でこの呪文を
経のタイトルにつけておかれていたのを発見した!」という形で主張したという
ことはすでに述べていますから、私も「後付けで説明した」と言っていません。
彼にとっては先行して「そうなる理由があった」わけですが、それが「一世信者の
条件付け」として「取りこまれた」わけです。ですから科学的見識を持ちうる現代
では、彼らの目を覚まさせることはできるでしょう。彼らに「それが自身に植え付け
られてしまった動物虐待実験における条件付けのネタ」であったに過ぎないことを
自覚させることは可能でしょう。現代だからこそそれが可能になったはずでした。
ですからこれは100年前以前では不可能でしょう。
それは現代になってなぜ創価学会という「方式」で現代人が騙されたのかという観点
に立てばもっと明らかになります。それは科学の「方式」が力を持った現代だからこそ
「日蓮」は「信仰された」と言えるからです。つまりそれは「日蓮」とはこうした
「科学風の現代カルト」のネタとしてもってこいの風情を始めから主張の「構造として」
持っていたからですね。だからこそ過去にはなかった教勢の急速な拡大というものがあり
得たと考えられるのです。彼の教説はまさに「実験科学」的要素で構成されているわけで、
以前の現証理論はまさにそれでした。それを現代風に「奇跡の体験新聞」でばら撒いて
広めたのが創価学会でしたね。
法華経行者が叩かれるのも現証だという話ももちろん含みますが、それよりもむしろ多く
の人々を引きつけたのはその福運信心、仏罰信心でしたね。それらは「実験して体験可能
な科学」として創価学会は広めたのです。日蓮のナンミョーホーレンゲーキョーはまさに
この「体験科学」の実験の素材として提供され、人々はそのもたらす体感に依拠して
「幸せになった」「福運があった」と「体験」して「入信」すなわち「日蓮の教説は正し
かった」=「創価学会は絶対だ」となって「後は命令の言いなり」になるほかなかったの
です。つまりは日蓮こそが「カルト思想」そのものの素材を作り上げたことに他ならない
わけです。
そこでいかに当時の日蓮自身が現代の知識がなかったがためにその限定的な知識から
演繹して彼の教説が作られたのかを述べても、それだけでは現代人の日蓮絶対思想を壊す
ことはできないでしょう。それはあくまでも彼らの「体験科学に裏付けられてしまったもの」
であり、かつその体験は”条件付けである日蓮教”と不可分に結びついてしまっており、
そこに体に染みついて植え付けられた体感と切り離せない条件付けとなっているわけです。
それが彼らの宗教を「元の日蓮自身の誤読」を指摘しても崩れない「彼らの体の一部」に
なってしまっているからです。
そこを破壊するのは、彼らが依拠して信心するに至ったその「体験科学という構造」その
ものに拠るほかありません。そしてそれこそが現代では最も効果的に破壊するはずです。
同じ現代人でも二世以降の人々は一世の人々と違い冷静ですが、それはあなた方が一世の
人たちと同じような「無信心」状態からの「入信」者ではないからですね。それは自分の
困った状況をこのナンミョーホーレンゲーキョー理論で救われたという体験がなく、その
結果その「条件付け」が体に存在していないからです。その結果ナンミョーホーレンゲー
キョーが持つ体感を実感として感じる基礎がなかったためでしょう。だからこそ二世以降
の人々には、意味論としての日蓮が持つ「仏教」との接点の方が重要になっているのでしょう。
ケンさんが仏教に造詣が深いのはそのためでしょう。
691 :
名無しさん@お腹いっぱい。:04/02/14 02:31 ID:K04DSspt
ない。
直接関係あるのは、阿含経だけだろが!
>>676-678 道元の経文はあくまでも「バラモン教でない仏教を証する指」としての参考書でした
から、必要なものではあるものの、それは悟りを得るまでの「修行」の道しるべと
してのそれであることを強調し、学道のための入り口、指としての参考書として強調
されているに過ぎないでしょう。そこが日蓮にとっての法華経とはまた異なると思い
ます。それは服従するための経文ではなく学び思索するための便宜としてのみの価値
を持っているに過ぎなかったのでしょう。
「正法眼蔵」の「古仏心」には「いはゆる世界は、十方みな仏世界なり。非仏世界
いまだあらざるなり云々」とありますが、結局道元の禅の特徴とはここにあると思
われます。これはよく言われる魔などは彼にとっては無に等しいものであることを
意味していました。それは世界は自己と世界が無差別であるというのみならず、
世界はそのもの自体が仏であり良いことも悪いことも全部仏の世界なんだという
基本認識であり、それが世界の聖化ということでした。生臭の現代人には縁のない
ような話にも見えますが、それでも魔の認識は悟りにおいては存在しないのです。
すべてが聖となり、それを悟りの極致に置いていることが道元の悟りにおいて重要
でした。これは実際にはキリスト教の聖者などにも見られる思想で結局は仏教の極致
とキリスト教の極致は一致しているとは言えるとは思います。それは世界は神のもの
であり神そのものであるからこそ、自己は世界に悪をなさずすべて良いことしかでき
なくなる、ということでしょう。まあそのレベルの深浅はあるでしょうが。そこで修行
は続くことになるのでしょう。
少し追加すると、「ナムアミダブツ」はこれを普通に発音するだけですと、
ナンミョーホーレンゲーキョーのような効果効能は生まれません。それは「ナム
アミダブツ」は発音するためのマントラではなかったからです。
それは先に宗教パラダイムが必要な呪文でした。つまりこれは「信仰対象としての
阿弥陀様」が「想像上」に存在することを要求し、そうした世界観が先に必要な呪文
なのでした。その上で意識上の意味論が先に必要なマントラとして説かれたのが
この念仏というものであり、これはその意味で「宗教となり得るもの」だと言える。
一方、ナンミョーホーレンゲーキョーはそうではありません。誰でも「実験科学の
方法論」として「無意味状態」で「何も意識に意図的な作為をなさずに」ただ「口に
する」だけで「体感という効果効能がある」のがこのナンミョーホーレンゲーキョー
マントラでした。これは意味論を始めから持たない種類のものであることをそうした
原点が証明していると言えます。つまりこれは「宗教たり得ない」ものです、つまり
「先に意味なしに存在できる体操としてのみ本来ならば語られるべきもの」だったと
思われます。
その理解がそのまま続けば問題は無かった、つまり「日蓮教はただの体操教です、
このマントラは宗教概念の中に還元できません」「種類の発音だけが重要なマントラ
なのです」→「つまりそれは体操すれば健康になる、しかしやめればその効果効能は
減りますよ」という程度にしか教えられない種類のものだったわけです。そこを頭で
はっきりと「理解できれば」よいわけです。
「ナムアミダブツ」に似た効果効能を付加しようとするとですね、これを
たとえば、
「ナぁーム、、、ァーーアミダッブツ」
などのように工夫した夏おんが必要になります。そしていちいち阿弥陀様を
想像することをしないで「発音のみに没頭する」必要があります。こうすれば
ナンミョーホーレンゲーキョーのようになるでしょう。
ナンミョーホーレンゲーキョーはなぜ効果効能を持つのかというと、先日の
気を吐き出す意味があることは重要でした。つまりこれは体の筋肉や神経の
使い方に関係しているからです。長く伸ばす音韻は横隔膜を深く動かすのに
最適で、息が長くなるからでしょう。それが呼吸を自然に長くすることに
貢献するのです。
そして発音はそれが咽と口、顔面の神経を刺激する方法論に還元されるでしょう。
たとえば、先の「ゲキョゲキョゲキョ」ですが、これも確かに効能がありますね。
これは下っ腹の筋肉を刺激し、そこを強固にする働きがあるようです。つまり
これは下っ腹の気を吐き出すのに効果を持つのです。この音韻がつまりは
ナンミョーホーレンゲーキョーの一部に使われているということなのです。
下腹の筋肉を絞り、そこにある邪気(筋肉がチュウトハンパな状態にあって、神経電位
が定まらない状態みたいなものに還元されるのかもしれませんが)を吐き出し、筋肉の
神経の状態を「整理する」という働きがあることを、この
「ゲキョゲキョゲキョ・・・・・・・・・・ゲキョゲキョゲキョ」
が証明するでしょう。これも元気を与える体操なのです。そしてこれも禅の前体操として
有効になるでしょう。
みなさんへ
マントラは禅のための準備運動として捉えてください。経を「意味も考えずに」読経する
のには理由があります。それは禅の準備運動に適しているということで、要はその秘密は
結局は体操効果であることにほかならないのです。仏教が勤行を行なうのは瞑想の準備運動
です。
(チベット仏教の読経のリズムはまさにナンミョーホーレンゲーキョーの連続と同じリズム
にになっています。このように瞑想の準備としてのマントラ唱えが有効だというヨーガの
理論はこの意味なのです。ナンミョーホーレンゲーキョーもその一部であるにすぎないのです)
その意味ではチベット仏教の読経のほうが発達してるし効果的だと思ってるけどね。
より効果を発現しやすいという意味で発達していし、技法にも工夫が凝らされている。
で、いずれも効果があることは長い歴史的な経験の積み重ねの中でも十分に証明されてきていることで
効果自体を否定してもあまり意味がないよな。効果を否定せずにカルトを否定するというのは高等技術が必要な話だ。
>>696 しかしわからんやつだな、おまいは。
695までどう読むとそんなレスが返るのか?
どこに「効果効能がない」っていう文句が書いてあるのか?モマイは全然日本語が通じねい奴ってことでイイ?
オリは「効果効能」は科学的に「分解されて不思議な妙を破壊するべき」だと言ってんだろ?
タタコロスぞ、おんどら。
またちょっと追加です。すんません。これでまた休みます。
>>690 >であり、かつその体験は”条件付けである日蓮教”と不可分に結びついてしまっており、
>そこに体に染みついて植え付けられた体感と切り離せない条件付けとなっているわけです。
ですから、題目行が最高で最も優れているという体感を生み出した背景は、それまで
宗教に無関心で禅もしらずヨーガも知らず、キリスト教も知らない人々が始めて体感した
「仏界」と名づけられてしまったその感覚にすべての根源があったわけですが、
それが「最高のもの」だという理解は「十界論」の最高意識状態が「仏界」と名づけ
られていて、その最高の体感がこのナンミョーホーレンゲーキョーで生まれるものである
というロジックが信じられたからでした。
しかし私の提唱するところのこの「題目唱えを気の済むまでやってから、気が済んだら
そこでその姿勢のまま静かに深く呼吸する瞑想に入る(5分〜10分程度でよい)」という
方法によって、その観念は打破されるはずであるということをも言っているわけです。
つまり通常の題目マントラ唱え行はそれが終るとそのまま普通の生活に戻り、予後の効能
が本来現れるべき瞑想ではなく、生活上での呼吸でかすかにしか得られない状態で感ずる
ほかなかったからです。それで本質が「題目」という行そのものにあると考えられること
になったのでした。しかし本当はそれは準備運動であり、本番はその直後に行なう瞑想
状態にこそ意義があったのです。そこで得られる体感こそが、本来得るべき体感なのです。
そこで清浄になった後の気の充足が得られるべき場なのです。それが瞑想なのです。
準備運動は題目に限りません。ゲーキョーゲーキョーゲーキョー・・・・・・・・でも
構わないのです。その後の瞑想体感によって本当の意味がわかるようになるからです。
みなさんも体感を感じてみてください。それでは。
699 :
:04/02/15 01:06 ID:???
入門書で禅をやってる奴がいるけど、一応、危険性は指摘しておく。
かりに神秘体験を経験したとしても、それを勝手に解釈して、
麻原みたいにならないように注意すること。
禅僧を訪ねて、直に接心を受けなければ、第二の麻原の可能性もある。
仏門の師の大切さってのは、直に教えを請う師の有無だから。
ま、逆に言えば、ここのアホに教えを請わずに、
禅僧に教えを請えってことだ。
特に
>>622なんてのは、神秘体験=悟りとも読めるので要注意。
本人の意図とは別にね。
ちにみに禅寺には、禅宗に帰依しなくても、
座禅などの修行を一般人がができるところもある。
キリスト教徒が、キリスト教の信仰のために座禅をしたりする。
700 :
:04/02/15 01:30 ID:???
禅は、森田療法・内観療法など、臨床心理学に応用されてて、
使い方次第では、洗脳にも利用可能。
特に内観療法ってのは、半畳のスペースを衝立で囲い、
その中で丸一日中、誰とも話さず、何も読まず、
与えられたテーマについて考え続ける。
そのテーマは、家族の今昔が基本だけど、
悪用すれば、色々出来るわけ。
禅の目指すところと、禅の心理学的作用は別問題。
カルトが利用しようと思えば、使いやすい道具でもある。
701 :
:04/02/15 01:32 ID:???
話を戻して、日蓮が仏教か否かは、日本仏教を仏教と認めるか否かってこと。
インド〜日本までの仏教の変遷を認めるか否かってことね。
釈尊に忠実にってなら、日本仏教ではせいぜい奈良仏教あたりが、
なんとかってところで、それ以降のは駄目になる。
日本仏教を認めるなら、日蓮も仏教になる。
それに日蓮は故人だから、文献をどう解釈するかであって、
それは現代人の資質の問題。
日蓮宗のように法華経以外も学んだ上で解釈するなら仏教としても良い。
あくまでも天台にしたがって、最高の教えとするだけだから。
創価学会のように法華経以外を学ばずに解釈するなら、少々やばくなる。
戸田の生命論は、生命=仏と解釈し、
生命=仏性(仏となる可能性)とはならない。
ここで凡夫本仏論が出てきて、仏教ではなくなっていく。
何を仏教とするかで結論は違うと思う。
>>701 そうか? あくまで日蓮が仏教か否かに限定して論じるべきだと思うが。
なぜなら、日蓮は日本仏教の部分集合に過ぎないからで、部分集合の存在を持ってして、全体集合を論じるのは
適切ではない。適切ではないというより乱暴すぎる。
703 :
乾闥婆:04/02/15 02:28 ID:???
>>686 >つまり「人間はそれを知覚している」ということです。
ふたつの点であなたは私の文章を読み違えています。まず私は知覚の話に関し
ては日蓮の話をしているのであって創価学会員の話をしているのではない、ま
た創価学会員についてであるならば、彼らの多くはさまざまな発語行為を行法
として持つ宗教を遍歴して比較検討した後に題目を選び取っているわけではな
い、つまり彼らはそのらの発語行為の決定的な差異を経験的に知覚しえる状況
にないまま信仰している場合が圧倒的に多い、ということです。仮にさまざま
な発語行為を伴う宗教を遍歴した人間が判断を下すのであるとしたら、そこに
はすでに教義という意味に絡め取られた状況における発語行為となるのであっ
て、純粋な発語行為自体の比較はすでにできない状況になっている、またもし
仮に純粋行為としての発語行為が比較できうる状況であるとして、題目だけが
絶対であるという確信を持つことができるのであるとすれば、それは怖ろしい
ことであって、それは意味から切り離されたレベルで絶対性を確信できるとい
う点でもはや「事実」であり、まさに「正しい」こととなってしまう。そんな
ことはありえないので、ある種の宗教的な正しさの主張には教義という意味が
伴うと考えることが普通であると言ってよいでしょう。よってあなたの「人間
はそれを知覚している」以降の説明は無効です。
704 :
乾闥婆:04/02/15 02:29 ID:???
>>689 >私も「後付けで説明した」と言っていません。
ということは、
>意味論は、ニチレンの場合はあくまでも後から付いたものだと考えています。
は撤回と言いうことでよろしいでしょうか。
>>690 >そこでいかに当時の日蓮自身が現代の知識がなかったがためにその限定的な知識から
演繹して彼の教説が作られたのかを述べても、それだけでは現代人の日蓮絶対思想を壊す
ことはできないでしょう。
私自身の場合、壊すことができましたが。
>そこを破壊するのは、彼らが依拠して信心するに至ったその「体験科学という構造」その
ものに拠るほかありません。そしてそれこそが現代では最も効果的に破壊するはずです。
彼らの信仰しているものが「科学という構造」であれば、の話ですね。体験や
その実感というものは科学ではないと思うのですけれど。体験や実感は科学的
根拠を必要としないでしょう。もっと直裁的なものですよ。だから題目なんか
ただの体操だ、といってみても彼らの体験や実感は揺るがないし、宗教的な意
味づけがさらに彼らの体験や実感を保護し強化することでしょう。あなたは破
壊することばかりに気を取られているようですが、そんな必要はないと思いま
す。体験や実感を「正義」へと追い込んでゆく宗教的意味づけを相対化すれば、
それはただの体験や実感にとどまるのです。体験とは個人的なものですからね。
それだけならなんら脅威にはならないのですよ。
705 :
乾闥婆:04/02/15 02:30 ID:???
>>692 >それは服従するための経文ではなく学び思索するための便宜としてのみの価値
を持っているに過ぎなかったのでしょう。
そのように単純に割り切れるものでしょうか。仏経は道元にとって「いま現成
せる正法眼蔵はすなわち仏経なるがゆゑに、あらゆる仏経は正法眼蔵なり」(仏
経)なのであって、それは悟りを得るための便宜的な道具であって、悟り終わ
れば捨ててよい、というようなものではなかったはずです。「禅はフリュウモン
ジの世界でしたから、経も教もすべて最後は捨てられてしまい、まさに空のよ
うになる(w)のが面目でしたね」という言い方は間違っていると思います。
『正法眼蔵』の「仏教」にこうあります。「仏正法眼蔵を単伝する仏祖、いか
でか仏教を単伝せざらん。いはんや釈迦老漢、なにとしてか仏家の家業にある
べからざらん教法を施設することあらん。釈迦老漢すでに単伝の教法をあらし
めん、いづれの仏祖かなからしめん。このゆゑに、上乗一心といふは、三乗十
二分教これ也、大蔵小蔵これ也。(中略)しかあれども、教外別伝を道取する
漢、いまだこの意旨をしらず。かるがゆゑに教外別伝の謬説を信じて、仏教を
あやまることなかれ。もしなんぢがいふがごとくならば、教をば心外別伝とい
ふべきか。もし心外別伝といはば、一句半偈つたはるべからざる也。もし心外
別伝といはずは、教外別伝といふべからざる也。摩訶迦葉すでに釈尊の嫡子と
して法蔵の教主たり、正法眼蔵を正伝して仏道の住持也。しかありとも、仏教
は正伝すべからずといふは、学道の偏局なるべし。しるべし、一句を正伝すれ
ば、一法の正伝せらるるなり。一句を正伝すれば、山伝水伝あり。不能離却這
裡也。」道元にとって経典はまさにあなたの引用した「いはゆる世界は、十方
みな仏世界なり。非仏世界いまだあらざるなり云々」というところの「十方」
の「世界」であるのでしょう。「経も教もすべて最後は捨てられてしまい」は
大きな誤りではないでしょうか。
706 :
乾闥婆:04/02/15 02:31 ID:???
>>693 >一方、ナンミョーホーレンゲーキョーはそうではありません。
非常に恣意的な操作をされるのですね。なぜ念仏に関しては「そうした世界観
が先に必要な呪文なのでした。その上で意識上の意味論が先に必要なマントラ
として説かれたのがこの念仏というものであり」とその発語行為以外の部分に
意味を認めるのにもかかわらず、題目においても必要とされる法華経の「世界
観」や、「その上で意識上の意味論」を隠蔽するのですか。日蓮の曼荼羅自体
が法華経の虚空会の儀式を模すという意味の上に成り立っているのでしょう。
なぜ念仏にはそれにまつわる種々の意味を認めるのに、題目に関してそれを切
り捨てるのですか。恣意的に過ぎます。あなたがそのように解釈したいだけな
のでしょう。お話になりません。
707 :
小森谷:04/02/15 07:25 ID:EcnJ8+Qd
708 :
名無しさん@お腹いっぱい。:04/02/15 07:49 ID:PNj4BZxj
宇宙人開発は進んでるのかな。猫の恩返しは意思のないすなわち知覚神経が
あまりない宇宙人とのキャピタルシュミレーション組でしょ。今カルトで東京
は第三世界になっていてみんないいすぎやかいすぎあそびすぎは処刑で大量殺人
されるからこわくて宇宙人以外外を歩いていないよ^
709 :
Sb ◆SbSGI7AtEA :04/02/16 15:10 ID:iLzfGgFw
>>698 あなたは何に導こうとしているのですか?
もし禅に導こうとしているなら
瞑想なんかしちゃいけない
そんなことする必要はない
瞑想と禅は何の関係もない
只管只坐そのままただ坐ればいい
>>703 では簡単に少しだけ。
>ふたつの点であなたは私の文章を読み違えています。まず私は知覚の話に関し
>ては日蓮の話をしているのであって創価学会員の話をしているのではない、ま
>た創価学会員についてであるならば、彼らの多くはさまざまな発語行為を行法
>として持つ宗教を遍歴して比較検討した後に題目を選び取っているわけではな
>い、つまり彼らはそのらの発語行為の決定的な差異を経験的に知覚しえる状況
>にないまま信仰している場合が圧倒的に多い、ということです。
読み違えているのではなく、指摘したまでのことです。気がついていない点が
二世以降の人にはあるということです。
わたしの言ったことは「日蓮の宗教が日本で1000万人も広まった理由は、現代という
科学の時代で体験科学の方法で広まる素地があったということでしたね。よくお読み
ください。現代だからこそ日蓮の教えは広まった。これは現代に特徴的でしたね。
ということは日蓮の教えは現代にマッチしたということで、それは「創価学会と
いう方式」によってもたらされた、だからそれは体験科学方式にマッチした主張
であったということでした。
ですから日蓮という存在は創価学会によって花開き、そして現代という科学の時代に
受け入れられた存在であったことは疑うべくもないと思っています。現代で南無
阿弥陀仏が創価学会のように広まったでしょうか?いいえ、広まったのはあくまでも
日蓮であり、その具体的な例証が創価学会であったというにすぎません。
>>703 >仮にさまざまな発語行為を伴う宗教を遍歴した人間が判断を下すのであるとしたら、
>そこにはすでに教義という意味に絡め取られた状況における発語行為となるので
>あって、純粋な発語行為自体の比較はすでにできない状況になっている、また
>もし仮に純粋行為としての発語行為が比較できうる状況であるとして、題目だけ
>が絶対であるという確信を持つことができるのであるとすれば、それは怖ろしい
>ことであって、それは意味から切り離されたレベルで絶対性を確信できるという
>点でもはや「事実」であり、まさに「正しい」こととなってしまう。
そして実際に創価学会員の多くは、南無阿弥陀仏ではなく、ナンミョーホーレンゲー
キョーを選んだのです。それはその方が体の「体感がうれしかった」つまり快感だ
ったからです。事実こうした板でも現実に、ナンミョーホーレンゲーキョーは快感
を与える、意味は関係なく「ただ唱えるだけで」喜びを感じさせる薬なんだとという
発言が多いのはどうしてだと思いますか?それはそれが体に直接訴える種類のマントラ
だからであるからほかなりません。その事実をそうした多くの人の証言が物語って
いるわけです。人々は体験科学、つまり「やってみたら快感だった、やめられない
麻薬のような快感と喜びになる」と感じたから、それに引きつけられたのがまず第一
原因だったわけです。それを続けている要員の一つには日蓮のいう戒めがあったから
ということももちろんあるが、それが有効な脅しになるためには、それが現実に信者
に証があったからであると考えるのが妥当です。その証、つまり「仏界感覚」やそれ
に連なる何かの「フシギ」「福運(だと思われたこと)」「仏罰(だと思われたこと)」
がやがて「日蓮の言うことは本当なんじゃないのか」と思わせたのです。
これが正しくないと思われましたら、ご家族の方にでもお聞きになれば事実に近いと
知られるでしょう。つまり多くの日蓮信者は自分の体験から「信じ始め」、そして
やがて「日蓮の言葉で後付けして戒めを受け入れた」という順序であり、この順序
すなわち体験科学が日蓮を広めたこと、そして日蓮の主張はそういう順序でしか広ま
らなかったということを物語っているわけなのです。
>>703 >そんなことはありえないので、ある種の宗教的な正しさの主張には教義という
>意味が伴うと考えることが普通であると言ってよいでしょう。よってあなたの
>「人間はそれを知覚している」以降の説明は無効です。
で、繰り返し述べている通り、「それは意味から切り離されたレベルで絶対性を確信
できるという点でもはや事実であり、まさに正しいこととなってしまう」というふうに
考えること自体が”早計だ”ということをわたしは申し上げているわけです。「そう
じゃないんじゃないですか」と。
人がどんなに体感ですばらしい、快感だ、爽快だ、これは奇跡だ、と実感したとして
も、それで物事の真理性を証明したり保証したりするべきものではないはずだという
ことで、それには「科学的な理由があり」、かつ、「他の呪文でももっと快感を与える
呪文もある(唯一性の保証が崩れるということ)」のであれば、それは単に「いくつか
の法則に乗っ取った体内の生理学的変化で説明されてしまう」種類の純粋に科学的な現象
にすぎず、それが「そうした快感を与える原因である」と論理的に解明されてしまうに
すぎないということです。そうなると、それらの現象の根源はあくまでも「科学的な原因
に基づく当然あるべくして起こっている生理現象であり」、その「喜びは単なる体内変化
の法則に乗っ取ったもの」であり、その法則に乗っ取っていさえすれば「ナンミョーホー
レンゲーキョー」でなくてもよくなり、それはたまたま「そうした体内現象を引き起こす
音韻を含み、適度に連続して口をあけて唱えやすくできている順序にならんで出来あがっ
ていた」だけにすぎず、それがたまたまある経文のタイトルとしてついていただけだった、
ということが言えることになります。これは違うでしょうか?
これが「対内で感じる快感、気持ち良さ、さらに喜びとなる」ことの「完全な相対化」
となり、それが植え付けられた教義に依拠せずに、「意味を考えずに、ただ唱えるだけ
で感じる」ことができる「本当の原因であった」と言えるからです。なぜならそれは
いくらでも呪文は作れてしまい、それらのどれでも人は喜びに感じるようにできるから
でしたが、その呪文には発音方法、音韻の特徴に法則があればよいだけであった、と
いうことになるから、何でもいいわけではなかったわけで、その法則さえ守れば効果
効能のある呪文は作り出すことができ、それらでもナンミョーホーレンゲーキョーと
おなじ効果効能を生み出せるということを主張したわけです。よろしいでしょうか。
>>704 私の「日蓮は後から付けたものだと思う」という意味は、彼自身は道元と同じような
釈迦恋慕主義者であったからこそということもありますし、また同時に自分で題目マン
トラを体感し体験しつつあったからこそということもあるということで、彼自身はその
体験に基づきながら、その体感に気づき、瞑想の前段階としての体験を重ねる中で、
「先付けとしての説明」として「仏の慈悲による効果効能のあるタイトルが付いた
お経だったんだ」と考えたということだと申し上げているわけです。「後」から「先
付けの説明」に思い至り、「それが正しい」と後から「確信した」という構造だった
だろうということを言っているわけです。これでよろしいでしょうか。
>>705 あなたのこれらの引用は確かに道元の正法眼蔵にある通りでその見解は間違っていない
でしょう。しかしそれはあくまでも道元の受けた仏教であり、禅であったわけで、それ
が「真理」であるということではない。それが彼の理解した当時のやはり限定的な理解
であり、またそれは日蓮のそれでもあったでしょう。
(続き)
私も以前、日蓮は道元の書いたものを読んで影響されたのではないかと思うほど、道元は
「仏教命」の人でした。で法華経も好きだったようで、その意味では彼も時代の制限の中
で彼なりに理解したはずです。彼も輪廻転生の信者であり、現代の創価学会員の思う三世
の因果は彼の信条の一部でしたね。当時の仏教者の多くはそれが当然の理解だったので
しょう。
しかしそうではあったものの、彼の主張する悟りの内容とはまさにその序である
「ハン道話」に如実に表れている如く、バラモン教的理解を否定するまさに禅的なるもの
そのものが仏教なのであるということを伝えているでしょう。彼が「仏教」として伝えたい
としたものとは身心脱落の逆説的にして非カルト的悟りであったわけです。「ハン道話」
はその意味で強調されていて興味深いと思います。
禅がフリュウモンジであることは確かです。しかし道元的悟りはさらにそれのみならず
釈迦への強い恋慕があることに起因する「仏」の拡大する意識があり、それが「悉有仏性」
を「悉有=仏性」であると読ませることに特徴がありました。これは凡夫本仏論ではなく
(
>>701)、またバラモン教の梵天でもなく、ただ「悉有=仏性だと悟る悟りが仏性具足
の始まりである」という意味が含まれており、このような悟りは道元固有の悟りでした。
それが彼の悟りの面目でしたが、それを記載している本も巷にはありますね。同じ禅でも
彼はそうした伝統が自分の説く悟りを伝えているのが仏教なのだという教えであったわけ
です。釈迦がそう教えたはずはないのですが、精神としてそれは釈迦がバラモン教という
カルトに対して唱えた正論を論理として含みつつ、道元的特徴の「悟り」を禅の中で説い
たという意味ではそれは正統なる仏教であると言い得ると思うわけです。日蓮が結果とし
てカルト教義を内包したのに対し、道元は"非カルトである"「悉有=仏性」(これがわか
る人は道元を理解したと言える)の悟りに到達したといえると思います。
まずはここまでにします。
715 :
波木井坊竜尊@日蓮宗葵講@名前だけ仏所 ◆IByKs72gR2 :04/02/17 03:11 ID:5HN+DFsW
御祖様に”輪廻転生説”はねえよ。(笑)
>>715 学会よりも宗門よりも、自分には納得できてしまうぞ。
そのレス、まずいな。いや流石がだというべきか。
おやすみ。波木井坊竜尊さん。
717 :
乾闥婆:04/02/18 23:03 ID:???
>>710 >読み違えているのではなく、指摘したまでのことです。
読み違えています。私が指摘したのは、日蓮は題目の体感から絶対的な正義を
知覚し得るのか、という話をしているのに、それをあなたは創価学会の話にず
らしました、また、意味を伴わない純粋な発語行為の体感から、絶対的正義と
いう<意味>を取り出すことはできない、という論理をあなたは無視しました。
718 :
乾闥婆:04/02/18 23:04 ID:???
>>711 >そして実際に創価学会員の多くは、南無阿弥陀仏ではなく、ナンミョーホーレンゲー
キョーを選んだのです。それはその方が体の「体感がうれしかった」つまり快感だ
ったからです
そもそも題目の体感と念仏の体感を比較して彼らは学会に入ったのですか?
その体感の違いから題目が絶対的な正義であり念仏は地獄に堕ちると理解し得
たとでもいうのですか? 体感だけでそのような<意味>を形成することはで
きないでしょう? 彼らはただいろんな人間関係の中で創価学会に入ったので
あり、そののち題目の実践や体験をベースにして、<教義>という<意味>に
よって、その排他的な主張を形成していったのでしょう。たとえば彼らから教
義という意味を抜き取ってしまった状況を考えてみて下さい。題目の体感しか
ない状況で、念仏や禅を攻撃するという事態が発生し得るでしょうか。発生し
ないでしょう。批判する材料がありませんから。題目は気持ちがいいなあとい
う人と、念仏もなかなかいいいいぞという人がいるだけでしょう。だからあな
たのいわれる体感は、創価学会の排他性・カルト性の本質ではないのです。問
題は題目という発語行為にあるのではなくて、その教義にあるのです。
>これが正しくないと思われましたら、ご家族の方にでもお聞きになれば事実に近いと
知られるでしょう。
なぜ創価学会だけが正しくて他は間違っているというのかと訊ねたら、体感の
ことなど話さずに教義の話をはじめるはずです。それが彼らの行ってきた折伏
なのですから。まあ人によっては自分の体験を語ったりもするのでしょうが、
最後は幹部が出てきて教義の話をすることになるでしょうね。「謗法払い」も
しなければならないでしょうし。
ところでブツ理さん。あなたと創価学会の接点はどのようなものだったのでし
ょうか。ちょっと変わっているようなので、詳しくお聞きしたいですね。
719 :
乾闥婆:04/02/18 23:05 ID:???
>>712 >それがたまたまある経文のタイトルとしてついていただけだった、
ということが言えることになります。これは違うでしょうか?
そこがあなたの勘違いしているところで、彼らは発語行為そのものを信仰して
いるのではなくて、それに付随している<意味>を信仰しているのです。もし
題目がなんの意味もないただの音列であったなら、日蓮はありえないし、創価
学会も誕生しないし、学会員もいないでしょうね。
>>713 >彼自身はその体験に基づきながら、その体感に気づき、瞑想の前段階としての体験を重ねる中で、
「先付けとしての説明」として「仏の慈悲による効果効能のあるタイトルが付いた
お経だったんだ」と考えたということだと申し上げているわけです。
日蓮は題目を行法として位置づける前に天台教学を学んでいるわけですよね。
普通に考えて、その文脈の中から出てきている日蓮が法華経至上主義者である
前に、題目体感絶対主義者(?)であるはずはないでしょう。
720 :
乾闥婆:04/02/18 23:06 ID:???
>>714 >「ハン道話」に如実に表れている如く、バラモン教的理解を否定するまさに禅的なるもの
そのものが仏教なのであるということを伝えているでしょう。
道元が対決していたものはやはり天台本覚思想だと思うのですね。如来蔵思想
ですね。衆生がそのままに仏性を持つのであればなぜ修行する必要があるのか、
という問いです。そこで主張されるのは修証一如ということですね。「修証は
ひとつにあらずとおもへる、すなわち外道の見なり。仏法には、修証これ一等
なり」(弁道話)。悟りの証と修行とは切り離して表われるものではない、とい
うことですね。ゆえに道元においては悟り終わる、ということはないはずなの
です。「禅はフリュウモンジの世界でしたから、経も教もすべて最後は捨てら
れてしまい、まさに空のようになる(w)のが面目でしたね」をおかしいと指
摘したのは「経も教も」「捨てられ」るべき「最後」は道元においては来ない
はずだからです。だから道元は死の際まで『法華経』を書写し読誦したのでは
ないでしょうか。もっとも臨済系の禅ではどうなのか詳しくは知りませんが、
経典を軽んじる傾向はあるのでしょう。そういった傾向に対する道元の批判が
あったのでしょうね。禅内部の僧侶から「外道天魔」呼ばわりされてしまうよ
うな傾向が禅にはあったということなのでしょう。
721 :
乾闥婆:04/02/18 23:07 ID:???
>>714(続き)
また仏性を修行から切り離して実体として捉えることを徹底して嫌い、「仏性
の道理は、仏性は成仏よりさきに具足せるにあらず、成仏よりのちに具足する
なり、仏性かならず成仏と同参するなり」(仏性)と観じるのもまた道元の特
徴であり、それがあなたのいう「悉有=仏性」でもあるのですね。「無常仏性」
とすらいいます。この批判もまた天台本覚思想のみならず、見性成仏を主張す
る禅の傾向に対するものでもあったのではないでしょうか。ということは、あ
なたのいう「バラモン教的理解」とは当時の仏教の至るところにあったのであ
り、禅内部にすら認めうるところであったのではないでしょうか。
それにしても『正法眼蔵』を幾つか拾い読みながら、むしろ道元の方が日蓮な
どよりもずっと体感を重視しているように思えるのです。そしてカルトがその
禅から育たないというあなたの指摘に従うのであれば、やはり行法の体感がカ
ルトを作るのではなく、その教義こそがカルトを作るといえるのではないでし
ょうか。
凡夫本仏論ですがどうなのでしょうか。日蓮は末法において法華経を受持する
者を仏性の顕現している者と考えているのだと思うのですが、その意味では道
元のいう本証妙修に通じるものがあるのではないでしょうか。なにもしなくて
も人間には仏性が備わっているから大丈夫、といっているわけではないのです
から。
>>717 >読み違えています。私が指摘したのは、日蓮は題目の体感から絶対的な正義を
>知覚し得るのか、という話をしているのに、それをあなたは創価学会の話にず
>らしました、また、意味を伴わない純粋な発語行為の体感から、絶対的正義と
>いう<意味>を取り出すことはできない、という論理をあなたは無視しました。
まずこの点でだいぶ誤解、または曲解がある。だから話が噛み合っていないと
思う。
わたしは「無視」したのでなく、こちらの見解の意味を明確に伝える必要があった
ということです。もうすこしよく読んでくれたらわかると思いますが。ちゃんと
説明しているじゃないですか?あなたが頭にきて読み飛ばしているようにも見え
ますがどうでしょうか。
「意味を伴わない純粋な発語行為の体感から、絶対的正義という<意味>を取り
出すことはできない」のはもちろんその通りであり、だからこそ私はその本来の
「無意味」に足して「日蓮が説いた教えを信者に成りたての人々は自分の体験に
即して(福運や仏罰体験さえ基にしてあとからその教義を信じて)取り込んだ」
ことで「彼らが後付けの意味を植え付けられた」と述べたのですが。どうも伝わ
っていないかと。
>>718 比較したかどうかを事実として述べている記述はしていませんが、創価学会に
関わって少なからずそこに籍を置いた人々はそんな言い方をしているのを聞く
わけです。ナンミョーホーレンゲーキョーの方が、ナムアミダブツよりも
言いやすい、語呂がいい、とかです。で、そして。これを唱えると元気が出るんだ
よ、力が湧いてくるんだよ、とね。これは私が関わった創価学会関係の人みなが
口にする言葉でしたよ。彼らからは別段教義の言葉は聞かれず、みな一様に
「意味を持たないで」「ただ唱えるところの"ナンミョーホーレンゲーキョー"
の力で幸せになる」んだよ「仏界」が出てきて最高の心の状態になるんだよ、
「これは宇宙のリズムに合ってくるからなんだよ」と一様に言っていて、みな
「密教的」で「ヨーガ的」なエネルギー頂戴型の信仰を一様に示して行きました
ね。これは彼らが体験科学としてのマントラ行法の行をし、その体感から信仰に
後から移行したことを確実に証明しているでしょう。
私はこういう人しかほとんど遭ったことがありません。ごくごくたまにシャク
ブクする人の中には教義を言う人もいたものの、持ってきた教化用の本も「成仏」
は「大聖人の仏法では仏をひらく」と読ませて云々と書いたものを持ってきました
が、これは結局バラモン教ヨーガ的アートマンの放出的成仏だとやはり了解しました。
ですから彼らは結局「ヨーガマントラ」を教えている団体なんだという理解で
十分と自分の中で結論を出しました。そして日蓮も結局はそういう主張を結構して
いるでしょう。これは秘法なんだと。日蓮はやはり天台真言宗の僧侶として名を
連ねていたということですから、なるほどやっぱりそうだったのかと合点が行き
ました。ですから創価学会は日蓮の主張の肝心なところは伝えていると考えて
いいんじゃないでしょうか。そのマントラの体感=仏界、十界の最高意識状態と
いう教義で後付けされて、これが「手軽に簡単に得られるのであるから」これが
「最高の仏教」なんだと決めつけることが彼、および日蓮の「信仰」なんだと
了解したわけです。これはほとんどぴったり真実でしょう。
そして彼らは一様にこれは宇宙の秘法でとても偉大な教えなんだから従わなければ
ならないんだ、知らない人には口をあけてでも押し込んで飲ませなけりゃいかんのだ
という信念で固まっていったようでしたね。それが本人のためにも幸せなんだから、
策略に満ちた勧誘でもなんでもするんだってな理解だったようでしたね。
>>719 >そこがあなたの勘違いしているところで、彼らは発語行為そのものを信仰して
>いるのではなくて、それに付随している<意味>を信仰しているのです
だからなんども言うように、それは「体感」→「後付けロジックとしての日蓮
教義」=「彼らの信仰(信心)」だとしているわけです。始めの「仏界体感」
が無ければ彼らに「日蓮の教義の意義はあり得なかった」のです。始めの体感が
「すばらしいもの」だったからこそ、そこにその理由を求めるモーメントが生ま
れてそれを日蓮の教義が解答を用意されていたロジックが植え付けられたのだと
いうことでしょうと。その「信じる原因になった仏界体感」がなかったら、彼ら
はおそらく絶対にそれを「信心の対象として受け入れることはなかった」でしょう
と。まだ意味が伝わらないでしょうか。
>>720 >道元が対決していたものはやはり天台本覚思想だと思うのですね。如来蔵思想
>ですね
そういうことであり、そのホンガク思想なるものと日蓮のお題目行法はほぼ
ぴたりと一致しているわけですよ。その例証が創価学会員の信心にぴたりと
現れているわけであり、その「体験科学的(しかし真理の証明ではないそれである)
信心」とはそのまま「秘法の体験信心」であり、ヨーガの実践による超自然の
体験(奇跡、病気治癒、福運、仏罰などのそれ)による信仰、信心というもの
であったわけで、それは一神を奉じる「裁く神」の経綸の宗教よろしく、
「世界をその色に染めるための布教」「仏国土にするための宗教」となったわけで、
まさしくカルトの様相を日蓮の宗教は呈したわけでした。
で、道元は日蓮よりも1世代前の人でしたが、彼は先にこうした日蓮的なもの、
その基本にあった本有的というか、密教的、ホンガク的な「神、超人になる信仰」
ではない、「カルトでない」(
>>714)悟りに到達していたわけでした。
なので、道元は「見性成仏」には沿っていると思います。成仏とともに具足する
仏性でしたから。なのでこれ、
>それにしても『正法眼蔵』を幾つか拾い読みながら、むしろ道元の方が日蓮な
>どよりもずっと体感を重視しているように思えるのです。そしてカルトがその
>禅から育たないというあなたの指摘に従うのであれば、やはり行法の体感がカ
>ルトを作るのではなく、その教義こそがカルトを作るといえるのではないでし
>ょうか。
はちと違うかなと。そうではなく、「悉有=仏性」と見性する、見取する悟りを
説いているが故に、それは「体感」ではないのでした。そこを日蓮から入った人は
なかなか悟り(あるいは受け取り、道取、見取)しにくいものなのだと思います。
この悟り体験自体は実は体感とはナンの関係もなく、まさしく「悟り」として存在
しているものでした。なので道元の悟りはカルトになり得ない悟りなのですね。
それは開かれた悟り、密教的秘法的でない、開放された「ただ悟る」ことで得る
「悉有=仏性」だったのです。(仏性があるなら修行は不要じゃないかという疑義
を修行当初の道元が抱いたというのは確かで、それがホンガク思想云々との関係
はないわけではないでしょうが、むしろ霊知思想を常住ならずと批判しているので
直接の関係は薄いでしょう)
>凡夫本仏論ですがどうなのでしょうか。日蓮は末法において法華経を受持する
>者を仏性の顕現している者と考えているのだと思うのですが、その意味では道
>元のいう本証妙修に通じるものがあるのではないでしょうか。なにもしなくて
>も人間には仏性が備わっているから大丈夫、といっているわけではないのです
>から。(続く)
(続き)
なのでここも少し違うでしょうか。 ホンガク的なるものは、仏性という種が人間の
構造論として備わっているから何もせずともOKだというものというよりも、ニーチェ
の超人みたいな感じで、「超人」になればなんでもやっていい、オウム真理教みたい
に「信仰のためなら」殺人で犯罪でも何でも許される、世法は仏法の下にあるんだから、
というような思想に繋がるので、カルト思想なんだと言われるわけでしたね。
そして創価学会のような思想は池田大作がそうであったように、組織を立ち上げて
秘法であるナンミョーホーレンゲーキョーの経綸のためであるから、世法は破って
もよい、嫌がらせでもなんでもして、とにかく広めればいい、それが連中には
ちょうどいいんだ、それで結果としてこの秘法が広まるんだからすべて正義なんだ、
というような思想になっていったわけでしたね。道元的悟りに至ればそんな悪行に
及ばずとも開放された世界の聖化がむしろ「体験される」だろうにと思われたわけ
でした。
ちなみに私が瞑想を勧めるのは、マントラ行法だけしかせずにそうした日蓮的
あるいは創価学会的な理解しか持てていない人々に、それの体感ですらまだまだ
全然すべてではないことを知ってもらうために敢えて書かせて頂いたものです。
ひとしきりの題目連続称揚直後の深呼吸瞑想によって体は本当にリラックス状態
に入り、そこで「宇宙の神」の取り扱いを受けるようにさえ感じることでしょう。
そこには円融の状態に等しい本当の仏界的状態が待っているのです。そこを、
日蓮だけしか知らなかった人々であって体感するこができるだろう、それができ
れば日蓮カルト教で絞られていた状態が仏界ではなかったこと、むしろ仏界状態
はその後の瞑想においてゆったりと得られるものであることを本当に実感できる
だろうという意味で申し上げたわけでした。
しかし禅の悟りはその体感ではありません。それはすでに上記した通りのもので、
道元のものがいわゆる仏教的なるものを代表するであろうという意味で書かせて
頂いた次第です。それではまた。
727 :
乾闥婆:04/02/20 01:18 ID:???
>>722 >「意味を伴わない純粋な発語行為の体感から、絶対的正義という<意味>を取り
出すことはできない」のはもちろんその通りであり、
そうでうすか。その点について同意して頂けていたのですね。それは済みませ
んでした。では、あなたのいう題目の体感が、絶対的正義という<意味>を生
み出しているのではないということでよろしいですね?
>>723 >比較したかどうかを事実として述べている記述はしていませんが、創価学会に
関わって少なからずそこに籍を置いた人々はそんな言い方をしているのを聞く
わけです。
つまり日蓮が題目の体感をもとに自身の正統性を主張したとする根拠はないと
言うことですね。それはそうですよね。「意味を伴わない純粋な発語行為の体
感から、絶対的正義という<意味>を取り出すことはできない」という私の指
摘にあなたも同意していただいたわけですし。創価学会員の場合、教義による
確信が後付であることはすでに私も述べました。しかし私はその後付の教義こ
そが問題であるのだ、と言ってきたのです。体感は体感に過ぎません。それは
あなたも認めた通りです。体感だけでは絶対的正義という<意味>を取り出す
ことはできないのです。問題はそれに付随する<意味>にあるのです。
728 :
乾闥婆:04/02/20 01:20 ID:???
>>723(続き)
>持ってきた教化用の本も「成仏」は「大聖人の仏法では仏をひらく」と読ませて云々と書いたもの
ん? 分かりません。それはどのような内容のことを言っているのですか?
本の名前を覚えていますか? ブツ理さんが折伏を受けたのはいつ頃のことな
のでしょうか。
>そのマントラの体感=仏界、十界の最高意識状態と
いう教義で後付けされて、これが「手軽に簡単に得られるのであるから」これが
「最高の仏教」なんだと決めつけることが彼、および日蓮の「信仰」なんだと
了解したわけです。これはほとんどぴったり真実でしょう。
創価学会員はともかく日蓮は違うでしょう。私は
>>719 で
>日蓮は題目を行法として位置づける前に天台教学を学んでいるわけですよね。
普通に考えて、その文脈の中から出てきている日蓮が法華経至上主義者である
前に、題目体感絶対主義者(?)であるはずはないでしょう。
といったのですが、この点についてのご意見をうかがいたいのですが。
729 :
乾闥婆:04/02/20 01:21 ID:???
>>724 >始めの「仏界体感」が無ければ彼らに「日蓮の教義の意義はあり得なかった」のです。
ですので、私が言っていることはその体感を絶対化さえしなければ、その信仰
はなんら問題がないということす。それには体感に付随している教義を相対化
することです。ところがあなたはその教義の部分を見過ごしているように見え
るのです。題目の体感がすばらしいのでしたら、それでもかまわないのでしょ
う。彼らがその体感だけが絶対であるとするところの根拠、すなわち教義を相
対化さえ出来れば。
730 :
乾闥婆:04/02/20 01:22 ID:???
>>725 >なので、道元は「見性成仏」には沿っていると思います。成仏とともに具足する
仏性でしたから。
「見性成仏」とは見性を成仏となす、ということですね。「見性」とは自己の
本性であるところの仏性を見るということです。おそらく道元はそう考えたの
ではないと思うのです。彼は修行すること(坐禅)そのものが仏性の顕現であ
ると考えていたはずで、それは自身の中にある仏性を見る、などということで
はないと思うのです。道元は大慧から臨済宗に流れる公案禅・待悟禅の宗風を
嫌ったといいます。そこに表れる「見性」を嫌ったといえるのではないでしょ
うか。
>そうではなく、「悉有=仏性」と見性する、見取する悟りを
説いているが故に、それは「体感」ではないのでした。
ですので、「悉有=仏性」と見性するのではなくて、「まさにしるべし、悉有中
に衆生快便難逢なり。悉有を会取することかくのごとくなれば、悉有それ透体
脱落なり」(仏性)というように、坐禅という方法を持って身心脱落するほか
ないのだと、道元は言っているのではないでしょうか。確かに体感という言葉
はニュアンスが違うようにも思うのですが、坐禅という方法自体に仏性の顕現
を見る道元においては、尽きることのない「行持」こそが要請されるのだと思
うのでした。
>>726 >なのでここも少し違うでしょうか。
しかしおそらく本覚思想の究極は徹底的な現状肯定と修行の放棄であるでしょ
う。仏性常住はもちろんその過程としてあるのでしょうけれど。日蓮は法華経
受持とそれに伴って起きる難を受け止める生き方において仏性を見る点で、根
本的にはどちらにも組みしないと思うのです。微妙な問題を含むようにも思い
ますが。もちろん創価学会とは切り離して考えています。日蓮と創価学会はイ
コールではないと思います。
>乾さん
お久しぶりです。乾さんのことがよく判りません。
こんなことに何の意味があるのかと思ってしまうのです。
議論を楽しんでらっしゃるのでしょうか?
何か直接的でない動機がある気がしてなりません。
例えば、人と意見交換する事で、創価学会と自分との関係を整理しようとしているとか・・・。