>>480さん。
仏法の、解釈の違いでしょうか(?_?)
わたしたちは、日蓮大聖人の法華経を依経としての、慈悲の解釈なのですが・・・
列挙される事件については、本当に、創価学会として犯された、組織犯罪なのですか?
もし、そうでなければ、犯罪を犯した個人は責めを受けても、わたしが責めを受ける謂れは、どうなのでしょう?
報道で、「浄土真宗信徒の○○容疑者が選挙違反・・・」なんて捉え方、なされませんよね。
なぜ、学会員だけを、特別視なさるのでしょうね^^
無責任、はぐらかし・・・具体的に、お願いしますね。
>>484さん、「命令に従う」それ違うと想う・・・
>>486さん。
その、どうしようもない「クソ坊主」に対し、救いの手を差し伸べるための、残された、最後の手段なのだと想います。
宗門が、神札を受け取った時より、学会はずっと「懐の深い、寛い心で」接してきたのでは、ないでしょうか。
信徒を対等に扱えない、権威主義に堕した「クソ坊主」にも、ずっと・・・
また、時間を置けない理由は、「クソ坊主」に騙され、不幸に貶められる人々を、見殺しにはできないからです。
罵詈雑言は、見ていて、聞いていて、不快なものですね。
浴びせられる方は、怒り心頭、心穏やかではいられないでしょう。
ですが、心に懸けて不当な非難であれば、堂々としていられます。
でも、そうでないならば、自らの心に、疑いを起こすことができます。
疑いは答えを求め、間違いのないものを探そうとし、それが信心だと気づいた時、
「クソ坊主」は、自らを救うことができます。
その菩薩の戦いも、経緯を示すことも、聖教新聞の使命なのだと、わたしは見てます^^
でも、その戦いも、もうすぐ終わるんじゃないかな。
「我らは勝った!」と、今日の1面で、言っていただいてますので。。。