783 :
波木井坊竜尊@日蓮宗葵講 ◆IByKs72gR2 :03/01/18 11:07 ID:YtMUCs6v
あっはっは。ひゃっきまるさんはよくみているねえ。
乾さん
>>776 >「唯一の真実」がそうでないものを排除する構造を孕むことは否定できないはずです。
>その排除の構造が攻撃性の原動力になる以上無関係とはいえないでしょう。
「唯一の真実」を主張するが、「攻撃性」は否定する、というスタンスがあっ
てもなんら不思議ではありませんし、法華経を含め多くの宗教はそうではありま
せんか?
「無関係」というのは、何度もいいますが、「真実が唯一か、それとも複数な
のか」、という議論と、「唯一性」が生む危険性や影響のことは無関係というこ
とです。
こうした話でよく思い起こすのが、学術学会の世界でのやりとりです。時に非
常に激しく論争が行われますし、それが深刻な派閥対派閥の対立になることもあ
ります。しかし彼らは最低限のルールは認識しています。それは、「真実に忠実
であれ」ということです。感情に振り回されて攻撃のためだけの攻撃、他人をお
としめるための論述などをしないということです。
ただ単に自分の主張を述べるのではなく、きちんとした根拠を提示しながら、
理性的に論理的に反駁することを心がけています。また、そうしなければ逆に恥
をかくことになります。
こうした論争は、「真実が唯一である」と皆が思っているからこそおこるので
しょう。真実の唯一性には功罪あると言っていいでしょう。しかし人は、なるべ
くその「罪」の部分を認識して制御しようとしてきたのです。
大聖人にしても、結論は法論で出すべきである、というお考えをもっていたと
思います。
ここで「攻撃性」の話題がよく出るのは、乾さんも僕も学会員の「攻撃性」を
目の当たりにしてきた、ということがあると思います。例えば、創価学会に無理
解な人に対して、「目が曇っている」という偏見を持つ学会員は多そうな気がし
ます。聖教新聞に連日かき立てられる罵詈雑言の数々は宗教の機関誌とは思えな
いほどです。しかしそれらは御書などに照らして、「正しい信仰のあり方ではな
い」という立場をとることは充分に可能ですし、事実そうしたやり方を採ってい
る日蓮宗の方々はおられるはずです。
乾さん
>>777 >なんらかの主張をするときに、そうではない主張を拒否することは、
>当然の態度であって、そうでなければ教義、法が立てられる意味もないでしょ
う。
それはそうです。それこそが、僕がずっと主張してきている、真実の唯一性と
いうことですから。つまり、僕の考えとして、「形あるものを絶対とする」もの
は間違いであると思っています。ただし、それを信仰する人間やその気持ちは尊
重すべきであるということです。例えば仏像を破壊したりするなどということは
とんでもないことです。
>いっそう坐禅を組みながら題目と念仏を交互にあげてみよう、などと発想する
でしょうか。
>固有の形は守られなければならないと思います。
>御本尊に向かって題目をあげる、という形はそれを信仰する者にとっては絶対
です。
誤解を与えたようですが、むろん僕にとっても「御本尊に向かって題目をあげ
る」という信仰形態は絶対ですし、おそらく今後も変わることはないでしょう。
しかし、「その先に見ているものは同じかもしれない、いや、きっと同じである
はずだ」、そう考えることもできるだろうと思っています。
また言葉の例えになってしまいますが、日本人として生まれれば日本語でしか
思考できませんし、日本語でしか表現できません。英語圏の人にとっても同様で
す。これが形ということです。しかし同じものを見て、それぞれのやり方で表現
することはできるはずです。無理に日本語と英語を合成して新しい言語をつくる
必要はありません。互いに学びあうことはできると思います。
最近調子にのってる一般人U。
ここまで完ぺきに論理的に叩きのめされるとは。
やっぱひゃっきはすご。
そのうえヤシの精神の貧しさまで露呈(w
788 :
名無しさん@お腹いっぱい。:03/01/18 23:21 ID:AXx/7MX2
おそらく当時のフランス社会では武力革命は当たり前のことだったのでしょう。
科学的社会主義といえど、その時代的な制約からは逃れられていない、ということでもあると思います。
あなたは共産主義を主張する人間は資本論の一字一句を正しいと思って活動している、と思っているかもしれませんが、それは違います。
「資本論を読む」(不破哲三著)自体が科学的社会主義に対する再解釈であったように、共産主義は綱領の内容が、その時代に適して変動していくものです。
あれ、こっちは訂正しないのかな?
他スレに貼り付けるつもりだったんでしょう?違う?
791 :
788:03/01/18 23:42 ID:AXx/7MX2
>789
あい。間違いでした。
×時代的な制約からは逃れられていない
○時代的な制約のなかで最良の方法を導き出す
792 :
788:03/01/18 23:48 ID:AXx/7MX2
たびたびのかきこみ失礼します。
別に冷やかすつもりではなく、ひゃっきまるさんの言っていることで、
「その気持ち、よく分かるなぁ〜」という部分を勝手に引用して、勝手に書き換えちゃいました。
お騒がせしました。
>>791-792 ありゃ、書き込むスレはここでいいの?
それ自体が間違いなのかと思ったんだけど、そうだったんだ。
でも、反共思想の強い諸氏が多いここに書くと大変そうな内容だね。
794 :
乾闥婆:03/01/19 00:11 ID:p7FOBQFd
795 :
乾闥婆:03/01/19 00:12 ID:p7FOBQFd
>>784 >しかし彼らは最低限のルールは認識しています。それは、「真実に忠実
であれ」ということです。
つまりその忠実であるべき「真実」の解釈において、
私とひゃっきまるさんとのあいだにズレがあるために、
この議論は続いているわけです。
私は「真実」が成立するにはその文脈があり、それは文脈を違えばそれぞれ異なってしまう、
そのような構造を踏まえて「真実」を考えなければ、無益な争いが生じてしまう。
「唯一の真実」という言い方、そのような表現には、
文脈を超越した「真実」があり、その「唯一の真実」においてどのような文脈の「真実」も否定される、
といった強圧的な力が感じられてしまい、
そのために、その言い方に強く反発をしてきたわけです。
796 :
乾闥婆:03/01/19 00:13 ID:p7FOBQFd
>>784(続き)
ですから、
>「真実が唯一か、それとも複数なのか」、という議論と、
「唯一性」が生む危険性や影響のことは無関係ということです。
に私は同意できません。
真実は文脈によって相違する。そしてそう考えることによって、
攻撃性の激しい表出は和らぐ。
私は「真実が唯一か、それとも複数なのか」は言葉の使用法に過ぎず、
「複数である」と言うことの有効性を支持しているということです。
どう捉えることが有益なのか。
科学の発展などには真実を唯一とする語法が有効なのは明らかでしょう。
しかし宗教においてはどうなのか、と私は考えているのです。
宗教には多くの超えがたい壁があるでしょう。民族も言語も歴史も違う。
それらを強引に「唯一の真実」に統合しうると夢みることに私は反対です。
それぞれに真実である、そしてそのようなお互いの属する文脈に敬意を払う。
そこからしか意義のある対話は生まれないと思います。
その上で、各共同体が共有できる規範を探っていけばいいのです。
それは「唯一の真実」などではなく、地球規模でのルール作りということでしょう。
構成員の変化によってそのルールも変化していけばいいのです。
ひゃっきまるさんのいう各宗教の共通して見つめるものというのが、
このルールであるのでしたら、私たちはそれほど遠いところにはいないでしょう。
797 :
乾闥婆:03/01/19 00:14 ID:p7FOBQFd
>>785 >ここで「攻撃性」の話題がよく出るのは、乾さんも僕も学会員の「攻撃性」を
目の当たりにしてきた、ということがあると思います。
そうですね。そしてその根源にあるものが、「唯一性」への志向だと私は考えました。
>>786 内容、ほぼ同意です。
>>779 創価学会の方針には疑問をもっています。会合には出るようにしていますが、
積極的な参加はしていません。就職で引っ越してからはほとんど会合にでていま
せんね。以前に住んでいたところではとても人が良かったので、好きで行ってい
たのですが。
自分からは発言などしませんが、話せる人と判断すれば、一対一で話すことは
あります。
最近は勤行はできていませんが、唱題はしています。
聖教新聞は現在はとっていますが、もうとるのをやめようかと思っています。
去年の財務は払いませんでした。一昨年は数千円だしましたが。
ひゃっきまるさん、レスありがとうございます。今、読みましたm(__)m。
仏教に無知な私にも、わかりやすいお答え、感謝します。
「時代の制約」これは予想していたとおりのお答えでしたが、
また百年たったら、まだまだあれもこれも、「時代の制約」だった、となりませんか?
「時代の制約」は現代人の価値観で計った、都合のよい「解釈」なのではないでしょうか?
「教え」が大事ならば、ひゃっきまるさんが法華経を「リライト」して教本とし、
法華経は捨てればよいのです。「法華経筆者<ひゃっきまるさん」と思いますから。
いずれにせよ、
ひゃっきまるさんが、法華経に「赤ペン」を入れているようで、痛快でした§^。^§。
800 :
名無しさん@お腹いっぱい。:03/01/19 00:54 ID:z6br7n48
>>798 お返事ありがとうございます。
積極的でなくても、会合に少しは出ているのでしたら、
部長や地区や支部の壮年部などから、折伏や啓蒙をするようにとの
圧迫があると思うのですが、それをどのようにかわしていますか?
よろしければ教えてください。
>>799 一般人さん
拙文お読みいただきありがとうございます。また誠意あるお返事ありがとうご
ざいます。ところで、Uの文字はおそらく機種依存文字で、僕のMacの画面上では
(監)と見えています。
>「時代の制約」は現代人の価値観で計った、都合のよい「解釈」なのではない
>でしょうか?
そう思うのも当然だと思います。釈尊は、犀の角のように(他を拠り所とする
ことなく)一人で歩め、と言っています。また、自らを灯明とし、法を灯明とせ
よ、とも言っています。また、法を乗り物にたとえ、目的を達したならば法にこ
だわることなく乗り捨てよ、とも言っています。
結局は何が正しいのか判断するのは自分自身であるし、またそれが仏教という
ものです。信仰者は、法華経や法華経信仰の中に自身が正しいと思うものを見い
だした、ということです。
法華経の中心思想は仏教の中でもユニークであり、また非常に優れたものだと
思っています。それは二千年経過した今でも充分に通じるものがありますし、む
しろ現代においてこそ革新的な意味合いさえあるように思います。
しかし、一般人さんがおっしゃる通り、それも時代が異なればまた違う捉え方
をされ、法華経そのものが力を失うということがあるかもしれません(中心思想
そのものが成り立たなければ、当然そうなります)。けれどもそれでよいので
す。その時代の人はその時代でまた新たなものを見いだすことでしょう。
>「教え」が大事ならば、ひゃっきまるさんが法華経を「リライト」して教本と
>し、法華経は捨てればよいのです。「法華経筆者<ひゃっきまるさん」と思いま
>すから。
僕は上記の通り法華経の価値を認めていますから、捨てる必要はありません。
だからといって、法華経を原理主義的に信じるわけでもありません。法華経を二
十八品の法華経と見るか、そうでないかで大分違うように思います。「教え」が
大事、とおっしゃいましたが、その「正しい教え」の名をもっともふさわしい呼
称をもって、法華経と名付けたということです。
僕は信仰とは、「最も尊いもの」に帰依することであると思っています。それ
を美しく表現したものが法華経であると思っています。
ところで僕はまだ一般人さんが何を目的としてこの話をされているのかよく
わかっていません。そのために話さなくともよいことまで話して、冗長になって
いるかもしれません。一般人さんは、日蓮宗諸派に何か問題があると感じ、その
原因が法華経にあると思っているのでしょうか。
>>800 折伏、啓蒙への要請はおそらく地方によってかなり温度差があると思います
が、どこでも共通なのは相手の態度によって変わるということです。あなたがも
し強く要請されているようでしたら、相手にとってあなたは見込み有り、と見ら
れているということです。例えば、会合にめったに出ずに、出たらそれだけで
「偉いね」などと言われる人に対して、折伏しなさい、とは言わないでしょう。
基本的には自分自身がどうどうとしていることが大事です。自分の心の中に後
ろめたさや申し訳なさなどがあれば、必ずそれは相手に「隙」として映ります。
僕が前にいたところでは座談会やグループ会で、必ず「成果報告」のようなもの
がありました。皆が折伏のことを話す中で、僕は自分の仕事のことや生活の中で
頑張ったことなどを話していましたが、それを咎められたことは一度もありませ
ん。自分はこういう主義で行く、ということを相手に見せていれば、無理にそれ
を曲げようとは思わないと思います。いわゆる、「ああいう人だから」ですまさ
れるということです。
創価学会は非活動者に対してとても寛容な組織です。たとえば、「寝ている」
という表現も非情に優しいものだと思います。積極的に活動していなくても、た
とえ形だけ在籍するだけであっても、学会とつながってさえいればいつかはその
人は発心する、という考え方があるのです。
僕は議論が好きですから、相手によってはなぜ折伏や啓蒙をしないのか話すこ
ともありますし、創価学会への疑念も素直に話すこともあります。それが苦手で
あれば、「忙しいから」といった体のよい断り文句をつくっておいて、議論や話
し合いを避けることです。信仰的な信念をもっている人間に対して議論で勝つこ
とは非常に難しいですから。
ずいぶん余計なことまで書いてしまったようですが、以上です。長くなってし
まってすみません。
804 :
乾闥婆:03/01/19 08:25 ID:yWqw9H0d
>>799 一般人さん、補足します。
>「時代の制約」は現代人の価値観で計った、都合のよい「解釈」なのではないでしょうか?
具象的な表現は時代時代の表象機能に拘束されるのですから、
二千年近い過去の表象を現代にそのまま受け入れることの方に無理があるのではないでしょうか。
>「教え」が大事ならば、ひゃっきまるさんが法華経を「リライト」して教本とし、
法華経は捨てればよいのです。「法華経筆者<ひゃっきまるさん」と思いますから。
それを行ったのが日蓮であったわけです。
「南無妙法蓮華経」は究極のリライトと言えるでしょう。
805 :
乾闥婆:03/01/19 08:26 ID:yWqw9H0d
>>779 >>798 >>800 そうですか。
ひゃっきまるさんは公布部員であることと聖教新聞を取ることをやめていまいますか。
その二点はおそらく組織的に会員の位置をはかるぎりぎりの指標になっていると思いますので、
組織からはこれまで以上に遠い存在としてみられることになると思います。
私はその二点はやめないつもりです。
折伏や新聞啓蒙、選挙活動に関してはひゃっきまるさんの言うとおり、
自身の信念に基づいて堂々と対処すれば、
それほどおかしなことにはならないと思います。
私もほぼひゃっきまるさんと同じような態度で会合などには臨んでいます。
806 :
乾闥婆:03/01/19 08:36 ID:Uv19uYkk
×ひゃっきまるさんは公布部員であることと聖教新聞を取ることをやめていまいますか。
○ひゃっきまるさんは広布部員であることと聖教新聞を取ることをやめてしまいますか。
では、きょうも仕事に行ってきます。
>ひゃっきまるさん
>一般人さんは、日蓮宗諸派に何か問題があると感じ、その
原因が法華経にあると思っているのでしょうか<
そうです。
私の友人が、実に不愉快な形で強硬な折伏にあってしまいました。
こういうことがあることを、よくご存知のことと思います。
↓
私は友人が「被害にあった」と受け止めました。
↓
ここにも抗議に来ました。
↓
折伏は日蓮が始めたと知りました。ただ非難するだけでは、嫌ですので、勉強を始めました。
↓
法華経を読みました。御書も買いました。今、読んでいます。
↓
法華経に描かれたシャカの差別発言に失望しました。
法華経信者がいることすら信じがたく思われました。
↓
昔の、シャカだの日蓮だの法華経筆者が「時代の制約」で言ってしまったことを根拠に、
「何のための会合なのか明らかにせずに誘っておいて、病気になる、不幸になると言って折伏する」
これは詐欺であり、ほかのカルトも行っている卑怯な勧誘行為である。
↓
「大躍進」というまったく誇大妄想的な、学会員の思い込み、思い上がりを指摘し、
少しでも現実に立ち返っていただきたい。詐欺的な勧誘行為をやめていただきたい。
拙文で、わかっていただけるかどうかわかりませんが、そういうことです。
では、おやすみなさい。
補足。私を中傷しても世界人口の0.15%にすぎないマイナーな宗教であるという現実は微動だにしませんよ。
>理性を失った一部の学会員へ(ひゃっきまるさん除く)
>乾闥婆さん
>具象的な表現は時代時代の表象機能に拘束されるのですから、
二千年近い過去の表象を現代にそのまま受け入れることの方に無理があるのではないでしょうか。<
同意です。
>「南無妙法蓮華経」は究極のリライトと言えるでしょう。<
そこです。どう言えばいいのか言葉がみつからないので、明日にさせていただきますが、
学会がカルトだと言われるのは、そこから始まっているのではないかと感じます。
どうして「法華経」から逃れられませんか?
来ている服のほころびは、その服を着たままではわからないものです。
一度脱いで、よく見る。よく見てもらう。そういうことも、時には必要です。
それが出来ないのはなぜか?考えてください。
世界の99%の人は、法華経信者ではありませんから、法華経に対してそれが出来ます。
世界の99%の人に出来ることを、あなた達は出来ないのですか?と言いたいのです。
修正。
「来ている服」→「着ている服」
修正版再録↓
どうして「法華経」から逃れられませんか?
着ている服のほころびは、その服を着たままではわからないものです。
一度脱いで、よく見る。よく見てもらう。そういうことも、時には必要です。
それが出来ないのはなぜか?考えてください。
世界の99%の人は、法華経信者ではありませんから、法華経に対してそれが出来ます。
世界の99%の人に出来ることを、あなた達は出来ないのですか?と言いたいのです。
810 :
乾闥婆:03/01/20 08:54 ID:G1/cG6ar
>>808 >学会がカルトだと言われるのは、そこから始まっているのではないかと感じます。
なるほど。「南無妙法蓮華経」がカルトとしての傾向を生んでいるというのですね?
時間のあるときでいいですので、もう少し具体的に聞かせて下さい。
>どうして「法華経」から逃れられませんか?
どうして逃れる必要があるのでしょうか。
法華経から仏性への信仰を持つことを、なぜ捨てなければならないのでしょうか。
宗教は具体的な形態を必要とします。
それが私たちの場合、法華経のエッセンスとしての「南無妙法蓮華経」です。
>着ている服のほころびは、その服を着たままではわからないものです。
そのほころびは法華経の中心思想でないことはひゃっきまるさんも指摘していますね。
>それが出来ないのはなぜか?考えてください。
まず、なぜそれをしなければならないのか、一緒に考えてみましょう。
>世界の99%の人は、法華経信者ではありませんから、法華経に対してそれが出来ます。
世界の99%の人に出来ることを、あなた達は出来ないのですか?と言いたいのです。
法華経信者ではない人が法華経から逃れたりする必要はそもそもありませんね。
法華経信者との比較対象にはまったくなりません。
>>807で一般人さんが言われている創価学会に対する不満はよく分かります。
私も詐欺的で強引な勧誘行為や誇大妄想は唾棄すべきものと考えています。
しかしそれと信仰を捨てることとは連動しません。
大日蓮展に行ってきたのですね。私も近々行くつもりです。
811 :
山崎渉:03/01/20 13:18 ID:???
(^^;
812 :
800:03/01/20 23:42 ID:???
>>803 ご丁寧にお答えいただきまして、ありがとうございます。
私は議論が苦手なほうなんで、ひゃっきまるさんのおっしゃるととおり
自分の信念でいきたいと思います。しかし、学会の輪の中に入っている身
としては、周りの学会員から「ああいう人だから」と低く見られるのは
キツくありませんか?学会では折伏やった人が誉められ、認められ、折伏
やってない人からは離れていってしまうし、折伏やってないと周りの学会員が
本音で話してくれないような気がします。
また、自分は仕事にがんばってますが、仕事に頑張ってても、折伏や新聞の啓蒙
をやってないと学会の場では「どうした?がんばってないじゃないか」と低く見られる
のが私はとてもいやです。。。
813 :
名無しさん@お腹いっぱい。:03/01/20 23:47 ID:/jnpUiM5
いい加減学会批判は辞めれ
814 :
800:03/01/21 00:02 ID:???
乾闥婆さんて、会合ではどのようなお立場なのでしょうか。たまに会合出る
くらいな感じですか?折伏等の要請(何月何日までに〜みたいなやつ)には
どのように対応してますか?よろしければ、教えていただきたい。
815 :
800:03/01/21 00:06 ID:???
あと、なぜ折伏やった人は「勝ち」でやれなかった人は「負け」なんでしょうか。
折伏の他に仕事や自分自身の生活の中での目標を実現できてればその人は「勝ち組」
ではないでしょうか。乾闥婆さん、ひゃっきまるさん、この点についてはどう考えて
ますか?
816 :
幽霊学会員 ◆1xHBxpDZiY :03/01/21 00:07 ID:3rCuMCL9
>>812 横レス、スマソ。
他人からの評価が欲しいのなら、
学会以外の場に求めればいいのでは?
学会員に褒められなくても、
会社で褒めてもらえば良いことでしょ?
だいたい同じ信仰の徒なのに、
自分と違う頑張り方をしているだけで、
人を見下すのって、オカシイと思いませんか?
そもそも信仰していて「悩みが増えるだけ」の宗教なんて、
続ける必要があるのでしょうか?
僕は辞めました。
817 :
名無しさん@お腹いっぱい。:03/01/21 00:09 ID:0mVD9lRB
東京女子医大の脳外科クラークの畑清美は創価キチガイだ!
宗教ってもんを自分の恋愛探しの場に使ってる。
ヤツこそ破門すべきだ!
>>810 >なるほど。「南無妙法蓮華経」がカルトとしての傾向を生んでいるというのですね?
時間のあるときでいいですので、もう少し具体的に聞かせて下さい。<
結局言葉がみつからないので、たとえ話でいきます。
@キリスト教で、
「聖書最高」「聖書最高」「聖書最高」と毎日三度唱えると救われる、
という教義を持った一派があるとしましょう。
どうですか?なんとも可笑しな教義だと思えませんか?
しかし、これを笑うのは簡単ですが、聖書は長いし、三唱で聖書とのつながりが得られるのなら
あるいは意味ある行為かもしれない、とも思えます・・、とする。
>>818の続き
Aこの一派からラエル師(仮名^^;)を中心とする一派が分化して、こう主張するとします。
「聖書には時代的制約の差別発言がたくさんある。細かいことはどうでもいいことで、
聖書最高、と唱えること自体に意味があるのだ。イエスの救済は志なかばで終わった。
本当の教えは、聖、書、最、高、この4文字に凝縮されているのだ。」
「聖書最高、と唱えてみないと実際の救済はわからない。
われわれの一派に、どうして入りもしないで批判するのか?
聖書の教えは、ラエル師(仮称^^;)の聖書最高、という言葉への道だったのだ」
「ついては広布の為に、一人最低一口1万円」
「だましてもいいから、講演会に誰かつれてきなさい、それがその人のためです。
さもないと地獄におちるよ。ガンにかかるかもしれない・・」
>>807 一般人さん
お答えいただきありがとうございます。経緯はよくわかりました。また、法華
経と御書をお読みになったとのこと。筋を通して抗議をするとの意気込みに敬服
いたします。
僕は昔の書物に関しては「いいとこどり」でよいと思っています。現在の知識
から見れば昔の偉人哲人の発言は間違いだらけですが、それは当たり前のことだ
し、それを責めるのは大人げないことです。
それが語られた当時の状況や、その著者の本意はなんだったのか? というこ
とを考えねばなりません。
率直にもうしあげれば、一般人さんの怒りの矛先を法華経に向けるのはおかし
いと思います。その人間の「詐欺的行為」や「精神の卑しさ」を責めるべきでは
ないでしょうか。
日本に仏教が入ったのは聖徳太子のころだと思いますが、法華経ははじめから
仏教の最重要の経典の一つとして入ってきたし、その後もずっと重要視されてき
ました。法華経に攻撃的性格が付け加わったのは、鎌倉時代の日蓮大聖人以降で
す。
・・
>>818 >>819と下手なたとえ話をしてしまいましたが、
なにを言いたいのか、ご賢察いただければ、幸いです^^;^^;^^;。
他の宗教にはなく、法華経「だけ」で説いている「絶対の真理」とはなんでしょうか?
かってに「南無妙法蓮華経」に凝縮せず、
平易な言葉で、説明していただきたいものです。
いま、法華経の第十六を音読していて、不愉快になりました。
真理のためにはウソをついてもいい???・・・時代の制約ですね。
あるいは統一教会的、というべきか。
法華経の安楽行品をお読みになってください。どのような形であれ、他人を非
難することを法華経は禁じているのです。それをあえて解釈を変えねばならな
かった鎌倉時代の状況というのもあったのかもしれません。
ところで、僕が法華経をすばらしいと思う理由の一つを話します。それは、常
不軽菩薩品です。宮沢賢治も熱心な日蓮宗の信者として知られていますが、「雨
ニモマケズ」は常不軽菩薩をモデルにしたと言われています。
>世界人口の0.15%にすぎないマイナーな宗教
確かに仏教自体が世界的に見ればマイナーな宗教です。発祥地のインドでさ
え、数百年後には信仰が途絶えてしまったのですから。しかし、僕は仏教は非常
に優れた宗教だと思っていますし、それは数の問題で決まるものではないはずで
す。キリスト教が広く信仰されているのには悪い意味の理由もあるでしょうし。
>>812 >>815 理想を言えば、「他人がどう思おうとも我が道を行くでいいんじゃない?」と
言いたいところですが、人と人との関係というのはそう単純なものではありませ
んよね(^^) 正直なところ、そのお気持ちはよくわかります。
僕の場合は周りの人がいい人たちばかりなものですから、折伏だとか信心だと
かだけで人を評価するという傾向はあまりありません。相手の良いところをどん
どん見つけ出していって、その人を成長させてあげるのが幹部の仕事なのですか
ら、折伏折伏とあなたを追い詰めるような幹部はあまり良いとは思えません。僕
のところでは仕事のことでもちゃんと評価してくれますよ。また、それで低く見
られるということもありません(と、僕が思っているだけなのかもしれません
が)。
宗教というのは同じものを信仰しているという「一体感」も重要なわけですか
ら、「学会内アンチ」である僕は、その一体感は味わえないわけです。寂しいで
すが、それは仕方のないことだと思っています。僕は、僕の判断する「正しいこ
と」に忠実になるということを決めているのですから。
仕事で成功すれば職場の人に認められるし、また一般的にも認められるわけで
す。そうなれば学会内でも認めざるを得ないでしょう。それに、「折伏」を布教
活動と思わなくてもよいと僕は思っています。例えば、人に親切にする、という
だけだって「菩薩行」という立派な仏教行為なわけです。
僕はそもそも仏教とはそのような生活の中に自然にあるものだと思っているの
で、無理に折伏しようと思わなくとも良心の呵責はありません。「信心即生活」
というではありませんか。仕事に頑張ること(=人に尽くすこと)だって、立派
な仏道修行なのです。
>>822 下手なたとえ話をしてしまいました。
「大日蓮展」で偉大なる法華経文化に触れました。
よくぞここまで、と言いたくなるくらい、あちこちの寺から
門外不出の資料が集められています。
金文字の法華経が何点かありましたが、圧倒されました。
アンチの私にも、決してバカにしてはいけない昔の方々の「気」が充溢しているのを感じました。
それとこれとは話が別で、法華経はいまや時代の制約から来るほころびが目だち、
信者ですら題目のみへと逃げ込むしかない、過去の遺物になってしまったのではないでしょうか?
あそこを読んで見てください、ここを読んで見てください、とおっしゃられるほど、
なんというか、「我が家は古くて狭いのですが、このハリ見てください、太いでしょう?」
と言われているようです。
でも、もう一度、心を静かにして、常不軽菩薩品を音読して寝ます。
失言の数々、お許しくだされば幸いです。
825 :
波木井坊竜尊@日蓮宗葵講 ◆IByKs72gR2 :03/01/21 01:10 ID:luVc3rpR
まあよく見ているね。
まさしくその通り。
でおれが改革してやるさ。(藁)
ああ書き込みがいりまじってしまいましたね。すみません。回線が細いもので。
良いスレage
>>823 ひゃっきまるさん、ありがとうございます。私も信心は続けていこうと思っているので
自分のペースで日々の生活をご本尊根本に進んでいきたいと思います。しっかりとした
生活をしていれば、そんなに無理に折伏しようとしなくても私に共感を持ってくれる人、
共鳴してくれる人が出てくることでしょうから。
>>821 一般人さん
その例え(
>>818-819)ではなおさら法華経に非がある理由にはなりませんよ
ね???
法華経の主張は非常に単純だし、難しくもないです。僕は不軽菩薩品に凝縮され
ていると思っていますが。あと、法華経は「教え」というよりは、物語として読
むのがよいと思いますよ。
もしかしたら一般人さんは法華経をところどころつまみぐいしながら部分的に
読んでいるのでしょうか? 「ウソ」についての話が顕著に出てくるのは方便品
ですが・・・。
方便品の主張は、それぞれの人間がそれぞれにあったやり方で成仏することが
できる(三草二木の譬)、というものだと思います。
三乗=方便=それぞれのやり方
一仏乗=真実=成仏
本来は一つのものが様々な形をもって現れる、ということで、単純な嘘とは違
うように思います。ちなみに、仏教は不妄語戒といって、嘘をつくことは禁じら
れています。そのために「方便」が嘘ではない、という理由がながながと述べら
れるわけですが。
830 :
乾闥婆:03/01/22 01:56 ID:kH0x/aSb
>>814-815 >たまに会合出るくらいな感じですか?
そうですね。誘われて仕事や用事がなければ出るようにしています。
>折伏等の要請(何月何日までに〜みたいなやつ)にはどのように対応してますか?
多人数の会合では沈黙していますね。
家庭訪問や少人数の活動者会でなら、自分として納得していないことはやらないと言います。
折伏の期限に関しては、化他行になぜ期限があるのか分からないので、あまり気にしてません。
>あと、なぜ折伏やった人は「勝ち」でやれなかった人は「負け」なんでしょうか。
そういう信念でその人は動いているからでしょうね。
そういう信念で生きていない人には勝ち負けの基準は違いますから。
>折伏の他に仕事や自分自身の生活の中での目標を実現できてればその人は「勝ち組」
ではないでしょうか。
勝つ人がいれば負ける人もいるのでしょう。
私はむしろ負ける人にこそ親近感を持ちます。
負ける人の気持ちもくめないような人間にはなりたくありませんから。
勝ち負けをこそ超越したいと私などは思っていますけれど。
基本は勤行・唱題であり、それを基にきちんとした生活を行うことでしょう。
そのような一日が送れたのであれば、それを勝ちといってもいいかも知れませんね。
そのような実証を示すことこそ、立派な信仰者の振る舞いではないでしょうか。
「教主釈尊の出世の本懐は人の振舞にて候けるぞ」
831 :
乾闥婆:03/01/22 01:58 ID:kH0x/aSb
>>818 うーん。随分、たとえが変ですね。
聖書と法華経では経典・聖典としての構造がまったく違うと思います。
旧約などは世界誕生の物語から、民族の歴史書としての機能も果たし、
レビ記や民数記など、生活の細かな規則まで盛り込まれているわけでしょう。
そのときどきに現れる神の物語であるわけです。
新約に入って三つの共観福音書はイエスの伝記であるし、
ヨハネの福音書はロゴスとしてのイエスを描いていますので、法華経に近いものも感じますが、
後半は使徒の信徒たちへの手紙となります。
法華経は、最初からそのような歴史や生活を超えて、まったくの別世界に入ってしまうのです。
これを「二処三会」といいます。霊鷲山会から虚空会、そして再び霊鷲山会。
ほとんど大スペクタクル、SFと見まごうばかりです。
そこで表出されているものは永遠の仏(久遠実成の仏)という理念なのです。
そのような理念を語る経ゆえに、
その理念へ身を投じる意義をこめて「南無妙法蓮華経」と凝縮されているのです。
「南無」は「帰命」です。
私はそれを対象に対する積極的・主体的な自己投企と認識しております。
「最高」ではありません。
「聖書最高」というのを仏教において訳すならば、
『「大正大蔵経」「国訳一切経」「日蓮遺文」最高』とでも言えばいいのでしょうか。
わけが分かりません。
832 :
乾闥婆:
>>819 >聖書には時代的制約の差別発言がたくさんある。
あくまで差別的用語法にこだわっていらっしゃるようですが、
「具象的な表現は時代時代の表象機能に拘束されるのですから、
二千年近い過去の表象を現代にそのまま受け入れることの方に無理があるのではないでしょうか」
という私の発言には同意されているのですよね。
そのような表象を無謬的に自身の信仰に取り上げる人間がいるのであれば、
そのような人間がおかしいのであって、その人を攻撃すればいいはずです。
依拠する経典の無謬性を主張することこそ、その教団のカルト性を高めることと思います。
カルトを叩こうというあなたが経典の無謬性に固執して論を展開されるようでは、
本末転倒ではないでしょうか。
もちろん仏教の歴史の中で「業」という概念を考えるときに、
ある種の病がその表象ゆえに差別されてきたという事実があるのでしたら、
それは批判されるべきでしょう。
そしてそのよう批判は経典の無謬性を相対化することによって
はじめなければならないのではないでしょうか。
一般人さんのカルト批判の展開は自己矛盾をきたしていると思います。
>私も詐欺的で強引な勧誘行為や誇大妄想は唾棄すべきものと考えています。
しかしそれと信仰を捨てることとは連動しません。
これについてはいかがお考えでしょうか。