アホなカキコは他スレに任せるとして、 主に内部向けの質問や疑問用ってところだ。 別にオレが全部答えるわけでも無いから 期待はするなよ、コノヤロ。たまに覗く程度だな。
2 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :02/06/26 22:41 ID:sQAx2dCg
1はカルト信者。
つーか、ほとんどのスレが無くなっているって、コレどういうこと? まぁ良いか。 ログ取って無かったから、レスはお流れだぜ、「ちぐりす」? でわ、また。
当て字でごまかしてるが、コテハンスレじゃないのか、これ?
俺がすることはないが、削除対象になることは覚悟しといた方がいいぞ
>>1
>4 まさか削除「強行」? ナンチテ。 (韻を踏んでいる) オチ。
混乱が落ち着き次第当然ながら削除依頼出します。
7 :
波木井坊竜尊@日蓮宗葵講 ◆tfDpfKU. :02/06/26 23:06 ID:pJ6Cijzs
スレ削除のスレッドは削除依頼掲示板に立ち上げておきました。
一期一会だ>スカプロ
姜子たんとの愛の巣が消えている〜(T_T) ひどい!ひどいわ!。。。。。う〜んナンチテショック(T_T) ナンチテ
10 :
、 :02/06/26 23:10 ID:???
以前のスレは復活しないのかしらん?
12 :
ギャグ係 ◆hl/ZkObw :02/06/26 23:23 ID:0PFovJpR
なんか久しぶりにサーバ落ちがあったんでしょうか? まじ子さんと会話の途中だったのになぁ〜 IDとやらを見たいんで上げさせてね(ワラ
13 :
コテハン無用 :02/06/26 23:25 ID:AM7hy8gn
ギャグ係さん、こんばんは。
14 :
ギャグ係 ◆hl/ZkObw :02/06/26 23:26 ID:0PFovJpR
Open Forever Japan Recycle?
15 :
ギャグ係 ◆hl/ZkObw :02/06/26 23:27 ID:0PFovJpR
>13 あ〜こりゃお久しぶりです >コテハン無用さん
16 :
コテハン無用 :02/06/26 23:27 ID:AM7hy8gn
ここもIDが入ったんですね。
17 :
ギャグ係 ◆hl/ZkObw :02/06/26 23:32 ID:ba86A852
>16 なんか今日からみたいです。昨日までのスレも消えているみたい。 どうも名前が書き込むたびに消えるからめんどくさいですね。
ナンチテひさしぶりぃ 久々に見たらこんなんなってた。 でも、二週間くらいで復活するかもよ。
19 :
コテハン無用 :02/06/26 23:34 ID:AM7hy8gn
>>17 しかし、本当に2ちゃん終わりなんですかねえ。それを聞いたら、
2ちゃんで初めてコテハンを名乗った創価板に、久々に来てみたく
なったんですが。
20 :
ギャグ係 ◆hl/ZkObw :02/06/26 23:40 ID:0PFovJpR
>2ちゃん終わり なんて噂が立っているんですか? あの獣医さんだかとの裁判で400万支払いの判決が出た、って件で?
21 :
コテハン無用 :02/06/26 23:41 ID:AM7hy8gn
>>20 そうです。あの敗訴が確定すれば、同様の訴訟が沢山起きるという見通し
だそうですが。
22 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :02/06/26 23:44 ID:vrijUia2
>>20 >>21 四百万ももらえるなら、おれ自分で自分の悪口書いて、
ひろゆきを訴えるよ・・・・わら。
23 :
ギャグ係 ◆hl/ZkObw :02/06/26 23:45 ID:0PFovJpR
なぜIDが2種? それと前みたいに下げ打ちしてたらID避けてるみたいに。。。 ↑他人の目を気にするしょうもない奴(ワラ
24 :
◆NANTIN8c :02/06/26 23:45 ID:KYOWdEAA
ごしゃたん大車とれちゃった? ナンチテ
25 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :02/06/26 23:46 ID:8d1FILjx
>>22 それはできないな
IP調べたらいつ誰が書いてたかがすぐわかる
まあネタだとは思うがね
26 :
◆NANTIN8c :02/06/26 23:48 ID:KYOWdEAA
KYOWdEAA ↓ 姜子たんとワタシでエエ感じ♪ ナンチテ
27 :
ギャグ係 ◆hl/ZkObw :02/06/26 23:48 ID:ba86A852
あ〜ごしゃさんもナンチテさんもどうも。 >21 そうなんですか。。。。残念ですなぁ〜。 って個人名晒して嘘はまずいよね。 って創価さんも固有名か。。。。 しかし、各政党やキリスト教なんかも色々言われているような。。。。 う〜む。。。。
IDでちょぴり気分回復♪ ではでは、おやすミン♪ ∩ ∩ ( ̄θ ̄) ナンチテ
29 :
ギャグ係 ◆hl/ZkObw :02/06/26 23:53 ID:0PFovJpR
ひろゆきさん、”400万円を書き込み者に請求する”って方向でないのが(多分) 素敵だね。(って当然なのか?)
30 :
コテハン無用 :02/06/26 23:58 ID:AM7hy8gn
>>29 それで済めばいいんですが。
大体、直接に関係のない掲示板の管理人が訴訟の当事者になるというのが
間違っている気がするんですが。事実上、この巨大掲示板の書き込みを
全てチェックするのは不可能であるわけだし。
31 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :02/06/27 00:36 ID:rL0j8goZ
チェックできないものを運営すんなよ って話だな
ID制導入かぁ。 少しはこれで便利になるのかな?
33 :
788 :02/06/27 05:34 ID:ytrmfHfm
>スカちん 前スレからの継続カキコね。 レス待ってますワ。 634さん失礼、カキコ引用させてもらいます。 >「カントの哲学」を受持した人は「カントの哲学」であり、「その人の哲学」では無い。 正邪はおいといて、変化があるワケでは無い。 変化がないというのはありえない。言葉自体が年月とともに変化していく。 御書を正確に訳そうとしても必ずその人の主観が入る。 例えば貴様という言葉は昔は尊敬の意味があったが、今は逆だ。 過去の文法を解読してもその時代にしか妥当しない特別の意味がある 場合も多い。時代、文化によって変化しているから正確には訳せないのだよ。 例えば以前ペルーの藤森元大統領が日本にきた時に「日本は熱くも冷たくも ない」といった。これは、日本語に約せても正確な意味はキリスト文化圏 の人でないと理解しにくい。スカプロ意味わかるならいってみろ。 過去の言葉もその時代の文化を反映しているからそれと同じなのだよ。 滝山がよく御書を引いているがその正確な意味はその時代の人しか わからないはず。 だから、大聖人の哲学を創価も正宗も日蓮宗もどこも変化せずには 受け継げない。だから、解釈も違い分裂もするだろ。他の宗教も同じ。 みんな解釈はバラバラ。解釈をする人の価値観が混入してくるからだ。
34 :
788 :02/06/27 05:36 ID:ytrmfHfm
以下は私自身のカキコ。 >他人や他国に通用しない哲学なら、正しい「哲学」とは認めないな。 創価の哲学をみとめない人も多いいぞ。どの宗教でも認めない人はでてくる。 >他人や他国に通用しない哲学なら、正しい「哲学」とは認めないな。 全く同じことをアンチが言ったら? 特に「他人」の部分。 >「事象」や「人間」の根本原理を「知らない」「無い」「誤った思想」の >構成員(国民)の最大公約数的哲学と言い換えることができるからだ。 問題は一体誰が「知らない」「無い」「誤った思想」と判断するか、だ。 「創価」以外の哲学の存在を認めない人間ならその論理に一貫性はある。 正邪は別として。 しかし、少なくともキミは先のカキコで「創価以外」の哲学の存在も認めている。 (ちなみに『お前「哲学」は一つダケって主張してんのか?』はキミ自身の言葉) にもかかわらず、(たとえ誤っているとしても)法律に哲学は存在しないと言う。 ここに自己矛盾があると言っている。 どう?論理展開の矛盾に気が付いた? たとえ、キミにとって 「事象」や「人間」の根本原理を「知らない」「無い」「誤った思想」の 構成員(国民)の最大公約数的哲学だとしても、 「哲学は哲学なのだ」 わかりやすくまとめてあげるね。 「創価以外の哲学の存在(正邪は別として)を認めるキミが発する『法律には哲学がない』とする言説は論理的に矛盾している」ということ。ねっ。
35 :
788 :02/06/27 05:39 ID:fj0LIg5J
34の上2行も634さんのカキコからでした。 スミマセン。
36 :
T.R ◆OB0.UQBo :02/06/27 07:17 ID:EEVnA3/n
>>35 突っつかれそうな点に関して、質問させてください。
「法律に哲学はない」=「法律は哲学ではない」
は成立するのでしょうか?
スカプロのことですから、「法律は哲学ではなく道具だ」とか何とか言い出
しそうな気がします。
この辺り、補強されておいた方が良いのではないでしょうか。
少なくとも、法律は哲学をバックボーンとして構成されている明確な論証は
必要ではないでしょうか。
以前、スカプロと不毛な論争を展開したものの老婆心です。決して足を引っ
張ろうとは思っていませんので(自嘲藁)
37 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :02/06/27 07:33 ID:NTUm8dSj
「法律に哲学は存在しない」。。。日本人の法意識など所詮この程度。 これでは日本は衰退するよ。
38 :
創価はマルチ商法宗教版 :02/06/27 07:43 ID:/iCB+X/H
マルチなんだから、ある時期は急激に増えるだろうが 飽和状態に近づくとふえなくなるだろう おまけに脱会者や無理な勧誘等でアンチになった奴らが 邪魔してくる 学会最高幹部はそれを知っていて躍起になっているのではないか 新聞啓蒙や選挙や催し物でとどめておくのが無難かと思われる 学会は会友や協力者をふやす(活動するヒラも) 段階に入ったのではないか 学会のピラミッド組織も崩壊しつつあるのではないか? というかピラミッド気にいらん まさに上意下達だ 宗教に民主主義は相容れないのか? 私は間に人を入れず、学会本部に直接つきたいよ 波長の合わない人が、地区幹部、ブロック幹部に 長期間居座ると、未活になっても仕方ないと思う というか人間関係が原因で脱会する人も多いとか ゆゆしきことだ スレ違いかもしれんが、スレの立て方わからん それにしても サーバーが飛んじゃう(?)なんて 何が原因か知らんが、おそるべし、創価学会 やっぱ 言論弾圧的なとこがあるのかも 宗教に民主主義は相容れない あるいは厳父の厳しさか あるいは 自分自身の問題か みんな ある程度自分を律して活動していると思うので う〜ん 私は創価にも 幹部にもむかないね
なんだから 先生のいうこと きかなきゃダメよ そ〜か 2ちゃんねるの不良ども
あの先生嫌いだから 学校行きたくない というか わたしもう中年なんだけど
これからもずっとです よい子のみなさん 校長先生のいうことは絶対です わかりましたね は〜い
42 :
卒業生 :02/06/27 14:25 ID:???
無事、卒業できました。 これからは、学んだことを実社会で役立てていきたいと思います。
創価学会っていつ卒業できるんですか? 卒業して2ちゃんというのもどうかと 無料奉仕の先生(幹部)になれなかった私は OB?それともPTA? PTAの役員は先生のしもべなんで、イヤなんだよね 学校と教師とPTAの役員が好きなやつは 創価に向いている 卒業したら 会合でなくていいのかしら
44 :
ゆうポン :02/06/27 17:27 ID:beETMQiI
誰もが宗教がなくても生きていける力を持っています。 野生の生き物たちや子供を見てもそうです。 誰が教えなくても、ぐんぐん成長していきます。 ただその力を忘れてしまい、自分は駄目だと否定してしまう人がいます。 本来信仰は、その力を思い出させてくれるものだと思います。 勿論、宗教に過度に依存してしまえば本末転倒です。
45 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :02/06/27 17:41 ID:KHi9M50D
>>43 創価学会員達は天国か地獄へ行ったときが真の卒業でしょう。
幽霊になって後悔しても知らないよ。
でもそこでも巣トーキングキモイでしょうか?
お題目あげると 元気になれるような気がします 学会活動すると 元気になれるような気がします 気がするの世界です でも 生・老・病・死(自分・肉親ふくむ)に直面した時 最後にたどりつくのは 私の場合、宗教です やはり 死ぬまでか
今日はみなさん来ないのかな。。。。お休みなさい。。。。
48 :
真実を求める名無しさん :02/06/27 23:55 ID:DatP2P1G
強固な学会論?なんだそれ? 強固だとか、なんだかんだ言っても学会inには「心がない」! 口先だけだ! 解るか?スカプロよ。
>>33 >滝山がよく御書を引いているがその正確な意味はその時代の人しかわからないはず。
それを言うなら、同じ時代に生きていても正確に意味が通らないこともある。
それは大聖人の御在世時でも現代でも変わらない事実です。
反論としてはまだ不十分ですね。
御書を引くのは訓詁注釈よりも御本仏の確信、大慈大悲の境涯に触れることの
大切さを、自身が引くことによって知ってもらうためでもあるんですよ。
過去ログ消滅? はっはっはっ、ザマーミロ(藁
スレッド名称ぱっと見だが、しょうもないものばかりの様だな。 「けんちゃん」は復帰するのかな。 しばらくはただの待機モードだ。気が向いたら読んでレスしよう。 顔見せ程度レスおしまい。
あら? スカちゃんもそれだけ? ボーナス全部飲むなよ〜(ワラ まじ子さんはこのスレにたどり着くだろうか?(フアンフアン
>>姜子さん 確かに、面白そーなスレ、今のとこぜんぜんないですね。 つまんない&さみしいな。
>52 ギャグ係さん た、たどりつけましたぁ〜(笑) 鯖大破ですか 大変ですね。 かちゅでお気に入りしか見てなかったので グチスレも強固もあぼーんかと 思って嘆いておりました。 同タイトルなのにサク依頼予定とは。 でも雑談スレも無くなってしまったのですから ソーカな話題であったり質問に答えたりするスレに 進展&継続して行けばいいなぁと。 てかさ、スレ違いや板違いであっても アンチが主流だと生き残るのは ここがアンチ向けの板だからなのかな?
55 :
788 :02/06/29 10:38 ID:YTw3zKP0
33-35です。
>スカちん
何か都合の悪いこと言っちゃったかな?
レスくれないんだもん、グスン。
あっ!
>滝山さん
>>49 >それを言うなら、同じ時代に生きていても正確に意味が通らないこともある。
カキコを読めばわかると思いますが、そのことを決して否定してません。
私も、そしておそらく634さんも。
だから
>反論としてはまだ不十分ですね。
反論ではないと思います。
個人的には、滝山さんもそれを(当時の言葉の意味、
ましてや現代においてすらことばの解釈は人それぞれであるということ)を
承知の上で御書を引用していると思います。
反論じゃないから不十分もクソもないんです。
56 :
乾闥婆 :02/06/29 20:39 ID:MjeFCeJk
>56 うん? (今現在では)二番目に釣りたいコテハンの登場の様だな。良い事だ。 近いうちに相応のスレで、まみえる事になるだろう。 >50 コレってオレの事か? 別に「理」のログを取ってなくて悔しい思いをしても、 「キェシロフスキ」のログなどいらないな。 >52 しばらくは「傍観モード」では無く只の「待機モード」だ。 他スレも読んで無いぜ。 >53 それならスレッド作成すれば良い。 ただ、「FA」の方がレスしやすい。 >つまんない&さみしいな。 ウソコケ。「PS」さんとの仲はどうなった? >54 「ロンドン」の様にならなければ良いだろう。 >55 全然。まだ良く読んで無いダケだ。
58 :
☆ :02/06/29 22:32 ID:???
アレ? なんか、この板変わったね。 これは昔、俺の男子部長がまだ独身だった頃の伝説のお話。 部長はとにかく鬼の様に活動する人だった。 たとえ、アパートの電気やガスが止められても、そんな事は眼中にない人だった。 「食事の時間」「風呂の時間」「寝る時間」は”人生の無駄使い”だと豪語する人だった。 文字通り、寝食を忘れて戦ってたんだ。 そんなある日、部長はとうとう水道を止められてしまったんだ。 部長は風呂が嫌いだから、それはまだ良いとしても、 (良くないか・・・天然ワックスで髪がベタベタだったからな・・・藁) 問題はトイレだ。用を足しても水が流れない。 水道局へ水道料金を納めに行くのも面倒くさい部長は 構わずに活動していた。 そんな日がどれほど続いたのだろうか・・・ 便器には日々ウンコが蓄積されていく・・・。 チリも積も・・・イヤ、ウンコも積もれば山となる。 それでも部長は戦い続けた。
59 :
☆ :02/06/29 22:33 ID:???
しかし・・・ とうとうこれ以上、便器に”蓄積”出来ないトコまで来て、 すぐ近くの地区リーダー宅(俺ではない)にウンコする為だけに トイレを借りに夜中の2時頃に押しかけたらしい。 結局、水道料金を納めて水道栓を開けてもらったが、 山となったウンコはカチカチに強固化して、 一筋縄ではいかなかったらしい。 後日、見かねた男子部連中は部長のアパートへ、 善意で掃除しにいったらしいが・・・・ ドアを開けたとたん、あまりの悪臭に男子部の一人は 吐きそうになったらしい。 どーよ?( ̄ー ̄)ニヤリッ まさしく、これぞ信心即生活だぜ? (俺はこんな人間にだけはなりたくないね・・・藁)
現実なんてそんなもんだよなw
再来。 言っておくが「☆」など「釣りたいコテハン」5番目くらいだから、 勘違いするな。 支払うダケなら2秒で終了だ。 単に面倒くさがり屋さんのお話だろう。 >信心即生活だぜ? ドコが? 単に「信心即信心」の人だな。「空回り」ミエミエだぜ。 「押入れの靴下」の話はご存知かな? そんな解釈しかしないお前は、おそらく知らないだろう。
オチレス。 つーか、あっというまにスレッドが溜まった様だな。 (スレ名だけ見るに)マジアホが多い様子は、さすが「2CH」だ。 コレでは「御魂」も枕を高くしてはいられないのも頷けるな。 おヤスミン。
63 :
☆ :02/06/29 23:07 ID:???
>言っておくが「☆」など「釣りたいコテハン」5番目くらいだから、 >勘違いするな。 はぁ? 久しぶりに来てみりゃ随分酷いな。 >ドコが? 単に「信心即信心」の人だな。「空回り」ミエミエだぜ。 実話だけどマジレスしてどーすんのよ? 激しくつまらん奴だな。(呆)
64 :
乾闥婆 :02/06/30 00:41 ID:R/XgYOzs
>>63 >はぁ? 久しぶりに来てみりゃ随分酷いな。
きっとストームみたいなものだよ。
マジレスしなくていいでしょう。
「信心即信心」というのは面白い表現だと思った。
「火の信心」ともいうのかと思う。確かにそういう人はいそう。
諸法実相というけれど、それが「ウンコ」まみれではたまらない。
65 :
名誉 ◆oi8ARVqQ :02/06/30 00:43 ID:79Mp/27B
好きならなんでもやればよい(藁
66 :
ギャグ係 ◆hl/ZkObw :02/06/30 00:45 ID:kUMbyhc7
おぉ、名誉さんご来訪どうもです。スカちゃんが喜びます(ワラ
67 :
名誉 ◆oi8ARVqQ :02/06/30 00:48 ID:79Mp/27B
ウンコが喜んでものう・・(藁 >ギャグ氏
68 :
ギャグ係 ◆hl/ZkObw :02/06/30 00:49 ID:HDeanpdA
いや、スカーレットオハラファンかも知れませんよ(ワラ
69 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :02/06/30 00:51 ID:kt/c5CVq
しょもな……
70 :
名誉 ◆oi8ARVqQ :02/06/30 00:51 ID:79Mp/27B
『風とともに去りぬ』はスカーレットが全てを火事で失った後、決意を独白 する場面が白眉じゃな(藁
71 :
ギャグ係 ◆hl/ZkObw :02/06/30 00:54 ID:HDeanpdA
>70 ホント、強い女性ですよね。しかも美しい←重要ですよね
72 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :02/06/30 00:57 ID:kt/c5CVq
なんか、住人たち、生き生きしてるな。
73 :
ギャグ係 ◆hl/ZkObw :02/06/30 00:58 ID:kUMbyhc7
>72さん 感覚だけど、ID表記のお陰か荒らしさんが減ってない?
74 :
名誉 ◆oi8ARVqQ :02/06/30 00:58 ID:79Mp/27B
楽しいのう・・・(藁 明日あさっては休みじゃ(藁藁
75 :
ギャグ係 ◆hl/ZkObw :02/06/30 01:00 ID:kUMbyhc7
(なんでいちいち”2重カキコですか?”って出るんだろ?) 名誉さん、ボーナスは出ました?
76 :
??E??s?A????E?I?I?I :02/06/30 01:03 ID:q8Pye0c2
ひつれいだよね
77 :
ギャグ係 ◆hl/ZkObw :02/06/30 01:04 ID:kUMbyhc7
あら? それはゴメンナサイ。時節の挨拶のつもりで。。。。
78 :
??E??s?A????E?I?I?I :02/06/30 01:06 ID:q8Pye0c2
おしっこたれたなーーーっっっっっっ!!!!!!!!!!
79 :
ひとがどんなおもいで :02/06/30 01:07 ID:q8Pye0c2
しっこをふいてるか
80 :
?<ETH>?AE???C?n?E`?¨?a`?¢?A° :02/06/30 01:07 ID:q8Pye0c2
わかれやばか
81 :
名誉 ◆oi8ARVqQ :02/06/30 01:09 ID:79Mp/27B
ワシは年棒制じゃよ(藁
82 :
ギャグ係 ◆hl/ZkObw :02/06/30 01:16 ID:HDeanpdA
では、まじ子さんに鯖を超えたレスを。 ビッスマウスの子は中1と中3の子が凄いです。自分が凄く賢くて学区内1番の 高校に入るとか(そりゃLD児の規定を根本から変えちゃう)学校ではモテモテだ、 とか妄想や白昼夢みたいなことを口走ります。地球は自分が守ってるとかね。 もちろん、劣等感が強すぎる子も居ますが。 母親との件は、みんな普通の子みたいに”親との適度な距離を持ち、ある面で 反面教師とする”みたいな事ができません。だから子供とべったりしたい母親には 子がLD児なのは、必ずしも不幸な状況ではないと思います。ただ、それだけに 母親は言動に気を付ける必要があると思う、という事ですね。 ビッグマウスの子は母親も演説を語りたがるので、それも影響しているのでは、 と推察しています。 とは言え、わたしも休日に時間を作って子供達と遊び、母親さんの手を少しでも 休むことになり、子供達のストレスを少しでも取れれば、というレベルで 大した事が出来るわけではないですが。 ビッグマウスにならないようにそこそこに頑張りたいです。
83 :
名誉 ◆oi8ARVqQ :02/06/30 01:19 ID:79Mp/27B
ウンコが変な名前でカキコしておる(藁
84 :
名誉 ◆oi8ARVqQ :02/06/30 01:20 ID:79Mp/27B
ウンコよ、いいかげんに学会教義を捨てて釈迦仏教に帰依せよ(藁
85 :
?<ETH>?AE???C?n?E`??N?a`????A?? :02/06/30 01:20 ID:q8Pye0c2
おなに^^^
86 :
ギャグ係 ◆hl/ZkObw :02/06/30 01:20 ID:HDeanpdA
>78-80 介護士さんなの? それともお子さんかな?
87 :
?<ETH>?AE???C?n?E`??N?a`????A?? :02/06/30 01:21 ID:q8Pye0c2
わかれやこのあほんだら
88 :
ギャグ係 ◆hl/ZkObw :02/06/30 01:21 ID:kUMbyhc7
>名誉さん 年俸制だとお給料は単純に12分割になるんですか?
89 :
名誉 ◆oi8ARVqQ :02/06/30 01:25 ID:79Mp/27B
>>88 ワシの場合は自己申告じゃな(藁
「これだけくれ」ちゅうたらくれるんじゃよ。
むちゃくちゃな額でない限りの(藁藁
じゃから焼肉も食える。うむ。
90 :
ギャグ係 ◆hl/ZkObw :02/06/30 01:26 ID:HDeanpdA
>89 名誉さん。恵まれてるじゃないですか。
91 :
?<ETH>?AE???C?n?E`??N?a`????A?? :02/06/30 01:27 ID:q8Pye0c2
ぜいたく
それでは落ちます。またです、名誉さん。(他の方も)
>82 >だから子供とべったりしたい母親には なるほど。実は前レスは拝見していたのですが、 「母親」 がベッタリしたいのなら という意味だったんですね。 私は、我が子は世に送り出すまでの 預かりもの だと思っています。 というのは、 そう引算しても子は無条件に可愛いのですから。 可愛いし、心配ですが無事 巣立てるようにしてあげるのも 親の役目。 それでも人には 甘い と言われてしまう事があります。 こんなに気になってしまうのは、もしも次の子を産むとしたら マル高出産になると思うから。 必然的に五体満足の子が産まれて来る 可能性は低いわけで。 生命を授かって 無事に産み出して 育てていく ということは 本当に大変なことです。 ビッグマウスお母さんが 我が子の巣立ちの準備を整えられますように。 ボランティアって尊くて大変なことなんですね。 お話 聞けて良かったです。 これからもガムバッテください。
>57 >それならスレッド作成すれば良い。 いっぱい立ったケド、もう負担はかからないのですかね? しばらく遠慮して欲しいって どこかで見たけど??
>>57 「FA」ってふりーえーじぇんとってこと?
96 :
788 :02/06/30 07:57 ID:pLWvQrQa
>>56 いいんですよ。悪いとは言ってません。
ただ、「反論」ではないのに「反論」と受け取っている滝山さんの姿勢に?と思ったので。
被害妄想が強いというか、好戦的と違うか、
火のないところに煙をたてようとしてるように思えたのでね。
それよりも質問いいでしょうか?
>「信心即信心」というのは面白い表現だと思った。
どこが面白いのですか?ちょっと考えたけど私にはわかりませんでした。
よかったら説明してくれますか?
97 :
乾闥婆 :02/06/30 12:29 ID:k7CZe+aS
>>96 御書を引用したところで、現代人には正確に理解できない、という趣旨でしたからね。
御書引用への批判に見えても仕方がないでしょう。
普通は「信心即生活」といいます。
生活を離れて信心はないし、信心によって生活を補強する。
「信心即信心」ではなんのための信心か分からないし、
なんでもありになってしまうでしょう。
前者が信仰であるなら後者は盲信と言えると思います。
「信心即信心」なんて言葉は聞いたことがなかったし、
でも、☆さんの話したような人はいそうだし、
そういう人には打ってつけの表現だと思い、面白がりました。
98 :
☆ :02/06/30 22:05 ID:???
ちなみにウンコ部長は、よくチャック全開だったんだよね・・・。 区の男子部活動者会で学会歌の指揮を執ってる時にチャック全開だった事もある。 あれで、”ソレッ!”なんて気合入れて扇子振り回してもねぇ・・・。
>8 >一期一会だ そして、星の数ほどある一隅のチャンスを「ちぐりす」が逃したとも言えよう。 「ライダーズハイ」や「ランナーズハイ」は、奥方にも子供にも味わえまい。 >9 うん? ナンチテとの・・・か? >10 もっと言ってやれ。 >33 >みんな解釈はバラバラ。解釈をする人の価値観が混入してくるからだ。 「書は読んでも読まれるな」という格言があるな。 「御書」になると「哲学」よりも、「教義」のお話になるが。
>34 >全く同じことをアンチが言ったら? 特に「他人」の部分。 「アンチクン」に確固たる教義(哲学でも可)を述べる事が出来るなら、 ソレを考慮しても良いが。 例えるなら、「はにわ」の姿勢(教義)は認めても「えれっくす」のは認められない。 後、「お子様4人衆」も認められないな。 >「創価以外の哲学の存在(正邪は別として)を認めるキミが発する >『法律には哲学がない』とする言説は論理的に矛盾している」ということ。ねっ。 哲学というよりも道徳に近いものがある。 「人生」を考慮しているのではなく、悪までも「社会」(vs人)に対しての その時代に即したものだからな。 >36 >スカプロのことですから、「法律は哲学ではなく道具だ」とか何とか言い出しそうな気がします。 ソノ通りだぜ。 「法律」はあくまで「社会生活」としての「道具」に過ぎないだろう。 >37 無論「哲学の無い政治」とは日本語的にも通じる。 とあるメジャーな国では、 「神は全てを与えてくれたが法律だけは与えてくれなかった」 と言われているほど多くの「法律」のカタチが存在したが、 どれも崩壊。今はまだ発展途上の様だ。 ソレはソノ国の「哲学」が「邪」なのか「存在していない」のかどちらだ? ソノ前に「生命の法則」の意識すらないお前は既に衰退してないのか?
キョウコ♪たんだ
>38 「組織」に向き不向きがあっても「法」には存在していない。 お前の「創価」に対して指すところの「民主主義」ってのが分らないが? >42 オメデタゥ。 >43 >創価学会っていつ卒業できるんですか? 人間卒業しらな。 ネタに応じるのはコレで最後だぜ。 >48 口先だけならコノ板に書かれる様な事も無いだろう。 おい「名誉」。アレはオレでは無いぜ?
>84 >ウンコよ、いいかげんに学会教義を捨てて釈迦仏教に帰依せよ(藁 「名誉」の言うところの「釈迦仏教」とは? 「縁起説」の事か? >まじ子 > しばらく遠慮して欲しいって どこかで見たけど?? しばらくはね。 確たる根拠は無いが。 >95 ぴんぽんぴんぽんぴんぽん。 正解です。 >97 一般解釈的には分り良いから、ソレでも良いだろう。 正しくは「信仰のための信仰」ってニュアンスだな。 >98 何が言いたいんだ?
104 :
☆ :02/06/30 22:43 ID:???
そんなにカリカリするな。ただの雑談だよ。
>104 深海でも探したら?(「ちぐりす」もな) 適当なところで暗号にする事だな。
106 :
政教分離名無しさん :02/06/30 23:31 ID:H8qENs7Q
信心即生活 でしょ 結局 これも 学会が勝手に つくった言葉 一日中わすれるなっーーーーことだよ へんなの
>まじ子さん >ボランティアって尊くて大変なことなんですね。 こう言われると恥ずかしくって体が痒くなりますが(ワラ ボラ一般論として、ボララー全体に言われた事としてありがたくいただきます。 おいらみたいな片手間でなくて、本気でやってる方も居ますしね。 おいらなんか、以前はボラ主体だった老人介護がある種の産業になったように、 それ以外にもボラから産業が生まれないかなぁ〜なんても思ってます。 いや、公的機関がサービスするようになる、でもいいんですけど。 具体的には環境・森林対策。日本は山林が多いんだから、発展途上国の木ばっかり 切ってないで、自国の木も育て、切ればいいのでは。スギ花粉対策として広葉樹を 多く植えるとかもして。これを今はボラグループがやってるんですが、大々的に やればいいのになぁ〜なんても思います。いや、森林完全保護のボラフループも あって大変でしょうが。 あとは少子化対策というか育児支援。今、小さな自治体では小児科医が足りないなど、 事態は深刻なんで、これ対策。 みんなの役に立つし、雇用対策にもなるし、って分野がボラ活動から生まれれば いいなぁ〜なんて思ってます。 (おいらのは余暇活動の域を出ませんがね/ワラ) 長々とボラ話、すいませんでした。>オール
108 :
乾闥婆 :02/06/30 23:55 ID:WcNbO0w8
>>106 >一日中わすれるなっーーーーことだよ
違うと思う・・・
衆生の心けがるれば土もけがれ心清ければ土も清しとて
浄土といい穢土というも土に二の隔てなし
只我等が心の善悪によると見えたり
生活する場と人の心は不可分である、ということです。
信心といっても生活する場を遊離してあるものではない、ということでしょう。
109 :
Σミ ̄□ ̄;ミ@はにわ ◆2UdgniEw :02/07/01 02:47 ID:4T1Bm73g
110 :
788 :02/07/01 07:36 ID:qomMlcEg
>>108 >一日中わすれるなっーーーーことだよ
と
>信心といっても生活する場を遊離してあるものではない、ということでしょう。
・
意味してるとこは同じじゃ無いんですか?
むしろ
『信心によって生活を補強する』
よりは
『一日中わすれるなっーーーーことだよ』
の方が近いと思われ。
ましてや
『正しくは「信仰のための信仰」ってニュアンスだな』
となると大はずれの気が。
この伝でいくと、
「信心即生活」の解釈は
「信仰のための生活」もしくは「生活のための信仰」となってしまう。
「信心即生活」の正しい解釈は
あくまで「生活のあらゆる場面が信仰の場である」と言う意味では?
前者のような解釈が「創価は現世益第一主義」という誤解を招くのでは?
だから
「信心即生活」を後者の意味で解釈すると、
「信心即信心」という造語の意図する処、ましてや面白さは解らない、となるのです。
111 :
788 :02/07/01 08:05 ID:fD8IK9OY
>スカちん
>>100 >「アンチクン」に確固たる教義(哲学でも可)を述べる事が出来るなら、
>ソレを考慮しても良いが。
・
確固たるって?「体系化された」ってこと?
だとしたら、そういう発想の先には権威主義しか残らないと思うが。(個人的には)
大体、すべての人間が自らの哲学をうまく言葉にできるとは限らない。
スカちんにしたって、御自分では読み手に的確に伝わっていると思ってるかもしれないが、
私にはときどきチンプンカンプンのときがある。
それを「お前の頭が悪いからだ」と一笑にふすのは簡単だ。
しかし、そんな相手にも自らの主張、意図が伝わってこそ「確固たる教義の伝播」がスタートするのでは?
>哲学というよりも道徳に近いものがある。
・
はぁ?「創価哲学」は「道徳」なの?
>「人生」を考慮しているのではなく、悪までも「社会」(vs人)に対しての
>その時代に即したものだからな。
・
???
意味不明なんですけど。
112 :
名誉 ◆oi8ARVqQ :02/07/01 08:40 ID:TcmpeYM6
爾時世尊。従三昧安詳而起。告舎利弗 諸仏智慧。甚深無量。其智慧門。 難解難入。一切声聞。辟支仏。所不能知。所以者何。仏曾親近。百千万億。 無数諸仏。尽行諸仏。無量道法。勇猛精進。名称普聞。成就甚深。未曾有法。 随宜所説。意趣解難。舎利弗。吾従成仏已来。種種因縁。種種譬喩。広演言教。 無数方便。引導衆生。令離諸著。所以者何。如来方便。知見波羅蜜。皆已具足 舎利弗。 如来知見。広大深遠。無量無碍。力。無所畏。禅定。解脱。三昧。深入無際。 成就一切。未曾有法。舎利弗。如来能種種分別。巧説諸法。言辞柔軟。悦可衆心。 舎利弗。取要言之。無量無辺。未曾有法。仏悉成就。止舎利弗。不須復説。 所以者何。仏所成就。第一希有。難解之法。唯仏与仏。乃能究尽。諸法実相。所謂諸法。 如是相。如是性。如是体。如是力。如是作。如是因。如是縁。如是果。如是報。如是本末究竟等。 ↑悪魔の呪文
114 :
Tigris@携帯 :02/07/01 13:01 ID:3rxjf3CI
ログなら残ってるぞ。(w >スカプロ
115 :
Tigris@携帯 :02/07/01 13:01 ID:erwRdmEa
ログなら残ってるぞ。(w >スカプロ
116 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :02/07/01 13:17 ID:HA1mEvsw
キリスト教の人たちには、とてもお世話になりました。 でも、層化がいいと思い、層化に入会。 そしたら「忘恩は犬畜生に劣る」という指導が何度もあり、キリスト教に 戻ることにしました。なんか矛盾してません? それに、犬畜生も同じ妙法なのであって、蔑視の対象ではないのに(T_T)
118 :
☆ :02/07/01 20:37 ID:???
>>109 はにわさん
これはこれは。
>一応、お返しのレスあるんですけど、どうしましょ?
SGI提言でしたっけ?
せっかくのところ恐縮ですが、やめましょう。
はにわさんの長文が怖いです。(笑)
119 :
乾闥婆 :02/07/01 21:55 ID:VH4x3Avc
>>110 「信仰のための生活」は違うと思います。「生活のための信仰」は正しいと思います。
「生活のあらゆる場面が信仰の場である」は表現として有効と思います。
といいますか、不可分である、というのがやっぱり一番しっくりきます。
『一日中わすれるなっーーーーことだよ』で生活がおろそかになっては本末転倒ですね。
生活は信仰の鏡です。生活に乱れがあるのは、信仰に乱れがあるからでしょう。
これを依正不二といいます。依報は生活環境、正報は衆生です。
我等衆生の心を磨くことが信仰です。そしてそれは生活環境を変えてゆきます。
なぜならそれらは不二だからです。「信心即生活」とはそのような原理をいいます。
>前者のような解釈が「創価は現世益第一主義」という誤解を招くのでは?
それに間違いはないでしょう? 誤解ではないと思います。
信心のための信心ではないのです。創価学会は。
ところで「批判」スレッドが復活したようですね。
120 :
Σミ ̄□ ̄;ミ@はにわ ◆2UdgniEw :02/07/01 21:58 ID:UpE/xuGq
>>118 @☆さん
そうはい神崎!
・・・っつうのは嘘です。わかりますた。
>111 >確固たるって?「体系化された」ってこと? 違うな。少なくとも、カキコの姿勢と主張内容に矛盾が もしくは主張そのものに矛盾が無ければ、その正邪はおいといても 一つの哲学の主張として認めるって事だ。 >はぁ?「創価哲学」は「道徳」なの? 主語は「法律」だ。 >意味不明なんですけど。 うーん、言葉を変えてみると「時代に即した秩序」って事かな? コレはちょっと、前カキコとハズレるかどうかは? >112 また今度な。 >114 板が落ち着くまではどうかな? スレ削除実行前だとなんともいえないね。 ついでに、結構前の「もうこはん」とのやり取りも残ってるのか? オレ読んで無いんだよね。
>117 全然矛盾していない。 「恩」は、もとのその宗教に「帰依」の意味ではまるで無いな。 >犬畜生も同じ妙法なのであって、蔑視の対象ではないのに(T_T) ??? 軽視の対象って「外道」だろ。 「忘恩は犬畜生に劣る」は生命状態とも言えるな。 >119 うんうん。言っている事はかなり正解だ。(ご満悦) >120 批判スレでどうぞ。 ・・・といいたいところだが、超個人的には まだ他のスレ(差別スレ?)にでも、わぁわぁやっていてくれ。
生姜子タン、宿題はできたかにょ?
人 (__) \(__)/ ( ・∀・ ) もう、やめようね。
なにを?
またか・・・ムキになりなさんな。 貴方はスカプロと話したくないのではなかったのか?
お前は誰にょ?
ひゃっきまる様のファンでございます。
129 :
788 :02/07/02 11:04 ID:/X2O0bOo
>>119 本当に「言葉」というものは難しいと思います。
乾さんは『「信仰のための生活」は違うが「生活のための信仰」は正しい』という。
しかし私にはどちらの表現も信仰のあるべき姿を正確に著わしているとは思えない。
というより誤謬を含みすぎた危なっかしい表現のように思えるのです。
これは「生活」や「信仰」といった言葉の定義にもよるのですが、
「生活のための信仰」という場合の「生活」の中には、生・老・病・死以外の現世益、
たとえば創価な人(学会員の中でも組織指導を妄信してる方)がよく口にする
「信心のおかげで○○試験に合格した」とか「一流企業に就職できたのは御本尊様の功徳だ」などの御利益は本来含まれていないものでは?
というより、信仰や信心をそうした言説で表現することに非常に抵抗を覚えるのです。
確かに信心の結果をそうした実生活の御利益で表した方が解りやすいのかもしれません。創価に限らず他宗でも多用されていますから。
しかし本来、信心とは結果主義ではないはず。
大切なのは姿勢なのだ、というところに力点をおいた組織指導をしなければ、
いつまでも「信心してると試験に合格する」とか
「信心してると事業がうまくいく」とかの短絡妄信現世益第一主義の学会員を増やすだけだと思う次第です。
130 :
788 :02/07/02 11:05 ID:/X2O0bOo
(続き) 従って、 >それに間違いはないでしょう? 誤解ではないと思います。 おそらく乾さんと私とでは「現世益」の解釈が違うのでしょうが、 上記のような試験や就職でえられる御利益を功徳として率先して指導している今の学会のあり方には辟易としています。 今の学会指導では、この板でも以前話題になった「障碍者」の問題について、 いつまでたっても「明確な」指導などできないでしょうね。
131 :
788 :02/07/02 11:06 ID:/X2O0bOo
>スカちん >主語は「法律」だ。 そう、だよね。 でも、ほらねっ、私みたいな頭悪いのにはキミの意図した言葉の意味を伝えるのにキミの表現じゃ言葉足らずでしょ。 それほど言葉を人に伝えるというのは難しいことなの。 じゃあ「哲学」と「道徳」の違いは? >コレはちょっと、前カキコとハズレるかどうかは? この一文の意図は? 前に書いたカキコと矛盾するかもしれないっていう防戦??? ホントにキミの言いたいコト、わからん。
132 :
愛知者 :02/07/02 19:49 ID:KcY3h33y
君ら、初期仏典を読んだことある? ブッダの思想における基本は虚無感にある。 何かを欲すれば辛くなるから、何も欲しないで死んだように生きようって のがブッダの主張。簡単に言うと。 そういう意味では日本の仏教は悉く原点とは非なるものな訳で、 信心とか功徳とか逝ってる奴を見ると「それ仏教じゃねーだろ!」って 突っ込みたくなります。
>ひゃっきばる ファンとはうれしいにょ・・・。 ひゃきばるは真面目モードのひゃっきまるの方が好きかにょ? でも所詮どちらも演技のようなものにょ。同じことを相手に説明 するにも、やり方を変えてみるのも面白いかと思ってにょ。 ひゃっきまるが人のカキコに求める基準は、単に筋が通ってい るかいないかだけにょ。言い方で差別することはないにょ。生姜 子は言葉遣いが荒いから「失礼」なんじゃなくて、議論の態度が 失礼だからひゃっきまるは怒っているんだにょ(カキコをよく読 まないでレスする。一方的な押し付けでしか話ができない。煮詰 まると詭弁で逃げる)。 「日蓮って(仮設)」を立てたから、そっちで雑談でもするに ょ。まだ一人もお客さんがいないにょ・・・(TT)
>>129 >「生活のための信仰」という場合の「生活」の中には、生・老・病・死以外の現世益、
>たとえば創価な人(学会員の中でも組織指導を妄信してる方)がよく口にする
>「信心のおかげで○○試験に合格した」とか「一流企業に就職できたのは御本尊様の功徳だ」などの御利益は本来含まれていないものでは?
いえ、この「試験に合格した」というのは「生」に含まれると思いますよ。
>しかし本来、信心とは結果主義ではないはず。
結果主義だと思います。結果が負ければいくら過程が良くても意味がないと思いますが?
ただ、たとえば毎日3時間の題目と5時間の勉強を実践したとしても、
試験に不合格する事もある事は当然です。
この場合でも結果としては敗れた事になりますが、
それはそれで意味のある事としてとらえて行く姿勢が大事なのだと思います。
数年後になって、「あの時に試験に落ちた事は、そういう意味だったのか・・」
と自覚できる人もいる事を聞いた事があります。
(試験とは違いますが私も活動をやめた意味を模索中です(苦笑))
「結果」とはすぐにわかるモノではないと思います。
>大切なのは姿勢なのだ、というところに力点をおいた組織指導をしなければ、
>いつまでも「信心してると試験に合格する」とか
>「信心してると事業がうまくいく」とかの短絡妄信現世益第一主義の学会員を増やすだけだと思う次第です。
同意です。「信心さえしていればなんとかなる」というのは単なる「甘え」です。
「短絡妄信現世益第一主義」は貧乏人と病人の多かった昔の創価的な感じがします。
近年はそういった指導はしてないと思うのですが。
この点に関しては昔の学会員の方が幸せだったかも知れない・・・と
個人的に思ったりもします。短絡的に「功徳」と「罰」が現証としてハッキリしてた様ですから。
>>132 ネタの様な気がするけど・・・。
>君ら、初期仏典を読んだことある?
無い。必要ないから。
>ブッダの思想における基本は虚無感にある。
>何かを欲すれば辛くなるから、何も欲しないで死んだように生きようって
>のがブッダの主張。
そうなのか?
では、そのブッダの主張を実践してるのは何処の国の何宗?
死んだ様に生きる仏教?にあんまり興味ないけど。
>信心とか功徳とか逝ってる奴を見ると「それ仏教じゃねーだろ!」って
>突っ込みたくなります。
突っ込みにも何も感じませんけど。
仏教とは宗教ではないと言う事でよろしいのですか?
>133 >ひゃきばるは真面目モードのひゃっきまるの方が好きかにょ? いえ、「にょモード」のひゃっきまる様の方が素敵です。 >ひゃっきまるが人のカキコに求める基準は、単に筋が通ってい >るかいないかだけにょ。言い方で差別することはないにょ。生姜 >子は言葉遣いが荒いから「失礼」なんじゃなくて、議論の態度が >失礼だからひゃっきまるは怒っているんだにょ(カキコをよく読 >まないでレスする。一方的な押し付けでしか話ができない。煮詰 >まると詭弁で逃げる)。 承知しているつもりですよ。スカプロはほっとけば良いのです。 貴方とやりあえる人が居なくて困った悩みですね。 でも最近ひゃっきまる様は少し変わった様に感じるのですが。 もちろん良い意味です。
>>57 >「PS」さんとの仲はどうなった?
原稿用紙に換算すると…。
138 :
乾闥婆 :02/07/03 00:56 ID:lARip82t
>>129 おっしゃりたいことは分かります。
私も「信心のおかげで○○試験に合格した」「一流企業に就職できたのは御本尊様の功徳だ」
といった表現は嫌いです。(おそらくこれは四苦八苦のうちの求不得苦が対象となるでしょう)
でも、と最近は思うのです。
なにか具体的なことを求め、祈り、行動することは、
それ自体は、まさにあなたのいわれる「姿勢」においてよいのではないか、と。
その具体的なことが叶おうが叶うまいが、その「姿勢」においてよいことではないかと。
そしてその「姿勢」が生活を結果として変えていくのだと思います。
だから私は創価でなければいけない、とはいいません。
そのようなかたちを「いい」と思うし、創価もまたその中の一つである、と思っています。
問題なのは、宗教を実際の生活と切り離して考えること、
信心のための信心、ではないでしょうか。
139 :
T.R ◆OB0.UQBo :02/07/03 01:00 ID:Qo0hv2fy
>>137 滝山氏
で、メール交換から結納まで発展しそうですか?(笑)
俺の知り合いには、チャットから結納てのが3組ほどいますが(笑)
>>139 誤解のないよう申し上げますけれど
メール内容は仏法の事がほぼ中心のまじめなものです。
141 :
788 :02/07/03 14:11 ID:MSZcxkwC
>>134 >いえ、この「試験に合格した」というのは「生」に含まれると思いますよ。
そうでしょうか。
私の感覚では、「生」というのは生きる上で最低限必要なもの、事、なのですが。
・
>それはそれで意味のある事としてとらえて行く姿勢が大事なのだと思います。
いえ、これは結果主義とは言えないのでは?
この場合の結果主義とは、どんなに努力、唱題しようが、結果が出なければその信心は間違っていると判断することを言うのでは?
結果についての考察をしている時点で結果主義ではないと思いますが。
142 :
788 :02/07/03 14:12 ID:MSZcxkwC
>>138 >それ自体は、まさにあなたのいわれる「姿勢」においてよいのではないか、と。
>その具体的なことが叶おうが叶うまいが、その「姿勢」においてよいことではないかと。
うーん、そうなんですかねぇ。
私も一時はそう思った時期もありました。
問題は求める具体的な内容だと思うのです。
乾さんの言い方でいくと、
どんなに個人的で、反社会的な(極端な言い方ですが)ことを望んだとしても、
信心する人間のその姿勢には一点の曇りもないと言えてしまう。
たとえば、オウム真理教のやったことはとんでもないが、
その信仰心は正しかった、と。
(少なくともかれらの多くは自分達の行いが人々を救済すると固く信じていたと思われます)
私個人としては、信心とは「生きる姿勢」そのものを常に自らに問いかけながらそれこそ生きて行くこと、だと思うのです。
そこには試験や就職、ましてや恋愛などといったものが入る余地はないような気が…。
別にそれらのことを否定するわけではありませんが、
ひとたび信心と言った時には、そうした世事に心惑わされる自らの生き方をこそ問い直す作業が必要なのでは無いかと。
・
もひとつ。
>そしてその「姿勢」が生活を結果として変えていくのだと思います。
すべての人が生活を変えたいと思ってるわけじゃ無いですよね。
こういう言い方をしてしまうと、現状に不満のない人には信心は無用となってしまいませんか?
143 :
T.R ◆OB0.UQBo :02/07/03 17:53 ID:mJuAAHb+
>>140 仏法〜〜〜〜〜〜〜?????
というギャグは置いといて。
そっかー。ちょっと残念かも...(笑)
144 :
乾闥婆 :02/07/03 20:15 ID:Y0t2hTJB
>>142 >どんなに個人的で、反社会的な(極端な言い方ですが)ことを望んだとしても、
信心する人間のその姿勢には一点の曇りもないと言えてしまう。
たとえば、オウム真理教のやったことはとんでもないが、
その信仰心は正しかった、と。
私は全く逆なように考えています。
反社会的なことを信仰の名のもとに容認することこそ、信仰のための信仰であり、
オウム真理教などは、そのようなかたちの最たるものであったように思います。
生活の現実レベルでの成功や失敗を信仰の目安として考えることは、
むしろ反社会的行動を抑圧する効果が見込まれるのであって、
鼻につくとはいえ、むしろ宗教団体としては危険性が薄まるのだと思います。
>私個人としては、信心とは「生きる姿勢」そのものを常に自らに問いかけながらそれこそ生きて行くこと、だと思うのです。
もちろんその通りなのですが、
「生きる」とは具体的なものをすべて消去してありうるものではないと思います。
「生きる姿勢」とは具体的は行動の中にこそ現れるものではないでしょうか。
とっかかりは「試験」や「就職」や「恋愛」であるかも知れない、
しかしそれらはこの信仰においては、ほんの入り口にすぎないと思うのです。
歓喜とは試験に受かったり、就職できたり、恋愛を成就させたり、
そのようなところに留まるものではないでしょう。
生きることそのまま、死に至ることを含めてそのままに、歓喜すること、
大事なことはそのような境涯へ至ることなのだと思うのです。
>現状に不満のない人には信心は無用となってしまいませんか?
上述のような境涯に至っているのでしたら不要でしょうね。
そのような人はなかなかいないと思いますが。
ちなにみ四苦の生老病死でいう「生」とは生まれてくること自体の苦です。
あなたのいうようにそれは生きること自体の苦ではありません。
求めることが得られない苦は前にも書いたとおり、八苦の求不得苦です。
>たきやマン 久々に着たが、どうやらたきやマンはココの顔になりつつあるねぇ。 頼もしい限りで。頑張れな! >スカプロ 最近は活動ばっかだが、その忙しさもなかなかたまらんものがある。 今日は7.3。俺なりに今日までやってきたが、決まらなかった。 本因妙の決意で、決まるまでやり続けようと思ってる。 >まじ子 たまには見てるんで心配なさるな。 前に会合革命のこと書いてたみたいだけど、大切なのは、面白いことをやるからイイ! のではなくて、自分が新来者だったり新入会者だったらどうして欲しいかを考えれば、 答えは出てくるかもね。 寸劇なんかは確かにイイ!けど、悩める会員さんが「よ〜し、また頑張ろう!」って 思って帰れるような、そんな会合。頑張ってみて!御仏知もらってください。 >ギャグ係 最近は冴えたギャグがないようで。やっぱ係なんだからさ、冴えてるお前の方がイイ! >ナンチテ 最近スカプロへの熱冷めてない?もっと奪い合わないと〜!
告別のカキコ。 諸般の事情により、この板に書き込むことはもうないでしょう。 今まで相手してくれた人々に感謝のキスを(TθT)
>>141 >私の感覚では、「生」というのは生きる上で最低限必要なもの、事、なのですが。
大学受験、入社試験などは人生に拘わっていくので「生」ですね。
(最低限云々は置いといて)
私の兄弟は第一志望の某大学の受験に失敗して落胆していたのですが、
(題目あげまくって、勉強しまくって受験日当日に発熱による体調不良)
その直後に受験した創大に合格して、第一志望に失敗した事を喜んでましたよ。
>いえ、これは結果主義とは言えないのでは?
>この場合の結果主義とは、どんなに努力、唱題しようが、
>結果が出なければその信心は間違っていると判断することを言うのでは?
>結果についての考察をしている時点で結果主義ではないと思いますが。
もちろん試験などの重要な時には”落ちてもそれは意味のある事だから”などと
考えるのは信心とは違うでしょう。それを前提にしてしまっては結果は見えてる。
私の言いたかった結果主義とはもっと大局的な意味です。
そうでなくては「持続」できないし、本当の確信が掴めないとも言えると思いますよ。
>>145 >決まらなかった。
どうしてこんな表現するんだろう。過去の過ちはあんたに詫びた筈だ。
>123 法華経の行者ってヤツか? もともと法華経の行者で無い人間に答えを提出しても 答え合わせなど出来ないのだから、書いても意味無いだろう。 >124 「ひゃっき麿」なら、何となく誰だか想像はつくが。。。。。 >129 >しかし本来、信心とは結果主義ではないはず。 ソレが確信になるなら、取っ掛かりはソレで良いだろう。 「あなたにとって功徳って何?」 と聞かれて「今ココにいる事」と 答えられるなら、やっと中級編だぜ。 >130 >今の学会指導では、この板でも以前話題になった「障碍者」の問題について、 >いつまでたっても「明確な」指導などできないでしょうね。 全然余裕だが? 言っておくが、この板程度では語ることは難しいが、 オレが使用する「素人」「初心者」「初級者」というカテゴリが指している様に、 「信心」は「人生」と比例して、会得する事は難しい。 「病人」に精がつくからといって「肉食」など与えない。 「おかゆ」で内臓を整えてからに決まっているさ。 「生命」は「現世益」の先にまだまだあるって事だよ。
150 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :02/07/03 23:04 ID:QJp9YXDw
>その直後に受験した創大に合格して、第一志望に失敗した事を喜んでましたよ。 ↑ これって取り返しの付かない失敗なんでは......
>131 >じゃあ「哲学」と「道徳」の違いは? 「道徳」には「答え」が無い。「哲学」にはある。正邪は別としてな。 義務教育に道徳の教科書はあっても哲学は無い。 「考えてみましょう」は提供できても、答えは提供できない。 「人間」を説けず「人間社会」を指すものが「道徳」。 「人間」を説き「人間社会」を指すものが「哲学」。 もちろん語源は違うかも知れないが、おおよその概念はこんなものだろう。 >133 >議論の態度が失礼だからひゃっきまるは怒っているんだにょ 「礼」が必要なのか「答え」が必要なのか、どちらかにしたらどうだ。 >煮詰まると詭弁で逃げる 「理解」「解釈」出来ない人間は「詭弁」という言葉を相手に押し付け、 自分を防御しているに過ぎないな。特にこの分野においてはな。 知らない事や分らない事、掌にされている事は恥では無いぜ。 >134 そのイヤラシ系は確か。。。。。しかし、そのカキコでは分らんな。 >「信心さえしていればなんとかなる」というのは単なる「甘え」です。 正解です。 「退転系」や「内部アンチ」のほとんどは「甘ったれクン」って事が理解できるな。 なぜなら、大抵は「なんとかなるのになんともならない」と思っているからな。
押してもダメなら引くのです。引いてもダメなら。。。。。 ∩ ∩ (TθT) ナンチテ
>145 ごしゃさん あら? それは失敬(んでもガイシュツの通り、実体はつまらないオヤジなのよ) では雑談スレに書こうと思っていたのを。 ”あいつら雑談ばっかりしてるよなー”→”That`s 団”ナンチテ
>145 有言実行とはね。そのベクトルに追い風がコノ瞬間に吹き始めた事を忘れるな。 >大工蛇 ◆Lucy/hYI 目指す丘に手を握る必要は無い。10年後の夏に思い出す必要も無いな。 側で笑っている必要も無い。顔が見えなくても生命が通じるさ。でわ。
>>ごしゃさん 最近はしかし、滝山もそーそー顔を見せられなくなりつつありますよ。
>155 どっかでローチも見たな。 まだまだ足りないな、役者が。(休みがちなオレが言う事でも無いが) ココに引っ張られる事も無い。 「鷹乃」は「鷹乃」の現実を見据える事だ。
おひさしぶりです。キョウコ様♪の書いていらっしゃるところから へび様♪のこと、拝見しました。以前トリップのところに入力したのは へび様♪に伝えるべき言葉でした。他の方法では既にemanon派ちゃんが 自身で伝えていたのですけど。 いつか読みにきていただけると大変に嬉しいのですけど…。
>>156 ありがとうございます。
友人の後輩が危篤なので一旦落ちます。
>157 七夕までは待っていられなかった様だな。 まぁ、ソレも一興。でわ。
>157 ・・・ああ、アレね。 >158 常に「鷹乃」自身の判断を誤る事無かれ。でわ。
>生姜子 >もともと法華経の行者で無い人間に答えを提出しても >答え合わせなど出来ないのだから、書いても意味無いだろう。 おばかちん? ひゃっきまるはアメリカ人じゃなくても、Aさんがアメリカ人 だってことは知ってるにょ。 >「礼」が必要なのか「答え」が必要なのか、どちらかにしたらどうだ。 おばかちん? なんでそれをわざわざ分けるにょ。誠実に受け答えすること (表面的にという意味でなく)が相手に対して礼を尽くすってことにょ。ち ょっと今回は優しすぎたかにょ。 >「理解」「解釈」出来ない人間は「詭弁」という言葉を相手に押し付け、 >自分を防御しているに過ぎないな。特にこの分野においてはな。 >知らない事や分らない事、掌にされている事は恥では無いぜ。 ちょっと言い過ぎてしまったかにょ。生姜子タン、またキレぎみになってし まったにょ。 約束だからまた「宿題」出さなきゃいけないにょ。 まあ簡単にしておくかにょ。生姜子タンの今の生命状態はどこにょ?
へび様♪ へび様♪に対して「I want to be your medicine」ってずっと 思ってました。へび様♪と二人の間で一つだけお願いを叶えて いただけるなら、「今すぐ会わせて下さい」よりも優先したいのが 上のお願いでした。へび様♪が悲しい気持ちになったりいやなことが あった時にはここでへび様♪を癒すお薬になりたいって思ってました。 だけど、本当の本当に望むのはへび様♪の幸福。へび様♪が幸福すぎて お薬なんて必要としなくなること。幸福すぎてお薬の存在を忘れてしまう としても、それでも心からへび様♪の幸福を望めるくらいに大切で大好き なのです。 emanon派ちゃんの文体で書けないので伝わりにくいと思いますけど、 私達みんなそう思ってますから。emanon派ちゃんが特に特別に想いが深いのです。 emanon派ちゃんはルシィ様♪とは来世では究極の恋愛で幸せに結ばれることを 祈ってます。 emanon派ちゃんはへび様♪と今世でなにがなんでもめぐり合う予定なのです。 素敵なリゾート地でとても素敵で楽しい老後を過ごすそうです♪その時のために お互い相手に自慢できるくらい素敵な恋愛と素敵な時間をこれからたくさん たくさん過ごしましょうね♪って!
キョウコ様♪ 気持ちの方がカレンダーよりも優先ですから。 七夕までお待ちするべきでしたか?雨の日はお会いできなくなっちゃいます! 七夕は「そのためのもの」ではありませんから。なぞらえるのは素敵ですけど♪ ある目標をこの日までと設定するのは確かにプラスになりますけど、時に 目標と目的を取り違えてしまうこともありますね。七夕に会うと決めたために 自分の気持ち、相手の気持ちを無視してその日まで会えるのに会えないのも もったいないです♪「この日に何かをする!」よりも「必ずする」のが大切です♪
会えるのに会えないのも…は「会えるのに会わないのも」が正しい言葉 でしたね。 それではみなさまおやすみなさい。
>>160 ただいま帰りました。
判断……一緒にお題目をあげてきました。
166 :
788 :02/07/04 13:41 ID:hE4azw77
>>144 >生活の現実レベルでの成功や失敗を信仰の目安として考えることは、
>むしろ反社会的行動を抑圧する効果が見込まれるのであって、
>鼻につくとはいえ、むしろ宗教団体としては危険性が薄まるのだと思います。
確かにこれは一つの見識でしょう。
しかし、問題は「反社会的」という価値基準が非常に可変的なものであるといことです。
現に100年前までは「反社会的」とされて、現在ではそうではないことがいくらでもあります。
誤解を恐れずに言えば、純粋なるオウム信者たちは
「我々のやったことは今は反社会的との謗りを受けるかもしれないが、時代が変われば受け入れられる時が必ず来る」
と考えているかもしれない。
個人的には「宗教」とはそれほど深いものであると思います。
また、「現実レベルでの成功や失敗を信仰の目安として考える」風潮こそが、
宗教をダシにした悪徳商法が蔓延る温床にもなっていると思われるのですが。
・
>とっかかりは「試験」や「就職」や「恋愛」であるかも知れない、
>しかしそれらはこの信仰においては、ほんの入り口にすぎないと思うのです。
そうだと思います。
しかし、私が危惧しているのは、そのほんの入り口に留まっていることを良しとしている学会員があまりに多いことです。この現実はそのまま学会指導部の問題点として私には映るのです。
・
>上述のような境涯に至っているのでしたら不要でしょうね。
いえ、そうした境涯に至っていなくても経済的にも、人間関係的にも現在の生活に不満のない人、という意味だったのですが。
167 :
788 :02/07/04 13:42 ID:hE4azw77
>>147 >その直後に受験した創大に合格して、第一志望に失敗した事を喜んでましたよ。
第一志望に受かっていたらもっと喜んだのでは?
もしそんなことはないという答えでしたら、
それなら最初から創大を第一志望にしていればよかったんじゃない?となります。
168 :
788 :02/07/04 13:44 ID:hE4azw77
スカちん
>>149 >全然余裕だが?
>言っておくが、この板程度では語ることは難しいが、
全然余裕で、「上級者」なら、
この板程度でも語れるでしょ。
私みたいに頭の悪い人間にも十分わかるように。
・
>「信心」は「人生」と比例して、会得する事は難しい。
それがわかっているのに、あたかも自分は仏法の「上級者」たる態度をとっているのが私には???なのよ。まだまだ人生半分も過ぎてないんでしょ。その自信が一体どこから来るのか…。
>>151 >「道徳」には「答え」が無い。「哲学」にはある。正邪は別としてな。
出た!スカちん用語。
「答え」の意味してる処がわかりません。
何に対する「答え」のこと?
もしかして『人間は何故生きるか?』という問いに対する「答え」のこと?
判然としないので以下の文も理解不能。
・
>もちろん語源は違うかも知れないが、おおよその概念はこんなものだろう。
この一文は何故書いたの?
この一文は無くてもいいのでは?(本来のキミのカキコスタイルからいくと)
これを書くキミの神経が???なのです。
なぁに〜、みんな”That`s 団”は反応なぁしぃ〜? (T T)
170 :
( ̄ε ̄)@もうこハン :02/07/04 23:41 ID:Vd/Waucl
>>166 >しかし、私が危惧しているのは、そのほんの入り口に留まっていることを良しとしている
>学会員があまりに多いことです。
>この現実はそのまま学会指導部の問題点として私には映るのです。
現実にはその入り口にも到達してない人が多数ですよ。
たとえ活動家といえど。
>>167 >第一志望に受かっていたらもっと喜んだのでは?
>もしそんなことはないという答えでしたら、
>それなら最初から創大を第一志望にしていればよかったんじゃない?となります。
「果」に対する本人の主観の問題です。
第一志望が○○大学とか第二志望が××大学とか、そんな事はどうでも良く、
あくまで、生活上の全ての現証を「結果主義」としてとらえる姿勢を言いたかっただけです。
>>168 >それがわかっているのに、あたかも自分は仏法の「上級者」たる態度をとっているのが
>私には???なのよ。まだまだ人生半分も過ぎてないんでしょ。
>その自信が一体どこから来るのか…。
「確信」だと思われ。「上級者」と言うのは私もハッキリわかりませんが。
>「答え」の意味してる処がわかりません。
「結果」だと思われ。
なんか、とてつもない糞レスを書いてる様な気がしなくもないのですが。(笑)
きゃー。
172 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :02/07/04 23:50 ID:M3ysFaKX
173 :
( ̄ε ̄)@もうこハン :02/07/04 23:55 ID:Vd/Waucl
目的が学問第一ではないから。学問を否定しているワケではありません。
174 :
( ̄ε ̄)@もうこハン :02/07/04 23:57 ID:Vd/Waucl
おやすみなさい。
175 :
キェシロフスキ :02/07/05 00:09 ID:1O5BTt8w
>>57 別に、お前のことやないけどな。
糞板の糞ログが消えてザマーミロと思っただけ。
確かに、誤解を招く表現やったな。
別に、どっちゃでもええねんけど(藁
上げてしもた(藁
最近、まじ子姐さん見ないなぁ。
178 :
乾闥婆 :02/07/05 00:38 ID:ERLjWlfp
>>166 >しかし、問題は「反社会的」という価値基準が非常に可変的なものであるとい
ことです。
いま、ここ、における社会性のことです。
そのことを無視してしまえば、
その宗教は「深い」というより「危ない」と言えませんか。
おそらくあなたは、
具象を超えた普遍的な何か「だけ」を宗教といいたいのでしょう。
しかし真に普遍的なものは、どのような現実にも向かい合えるように思います。
その普遍性は現実の場において実証されなければ意味がないのでは?
>宗教をダシにした悪徳商法が蔓延る温床にもなっていると思われるのですが。
確かに良く見極める必要はありますね。
>そのほんの入り口に留まっていることを良しとしている学会員があまりに多い
ことです。この現実はそのまま学会指導部の問題点として私には映るのです。
試験に受かったり就職が決まったりすることはうれしいことでしょうからね。
「蔵の財(たから)よりも身の財すぐれたり。身の財よりも心の財第一なり。
この御文を御覧あらんよりは心の財をつませ給うべし」
そういった指導をするはずなのですが。
> いえ、そうした境涯に至っていなくても経済的にも、人間関係的にも現在の
生活に不満のない人、という意味だったのですが。
四苦八苦を一生涯逃れうる人はいませんから。
179 :
乾闥婆 :02/07/05 00:45 ID:ERLjWlfp
>>173 もうこハンさん。
「ブッダのことば」(中村元訳・岩波文庫)あたりは、読まれると面白いですよ。
信仰や学問と関係なく、一読書として啓発されるものがあると思います。
181 :
788 :02/07/05 13:05 ID:Zh/Saqow
>>170 >あくまで、生活上の全ての現証を「結果主義」としてとらえる姿勢を言いたかっただけです。
それでは、どんな結果であっても貴方の御兄弟は喜んでいたということですか?
でも、先のカキコで貴方は「私の兄弟は第一志望の某大学の受験に失敗して落胆していた」と書いています。
これは、御兄弟がまさに「第一志望が○○大学とか第二志望が××大学とか、そんな事はどうでも良く、」とは思っていなかったことを指していますよね。
「あくまで、生活上のすべての現証を「結果主義」としてとらえる姿勢」ならば、
第一志望に落ちて落胆はしないはずだと思うのですが…。
・
>「確信」だと思われ。「上級者」と言うのは私もハッキリわかりませんが。
ここにも言葉というものの難しさが…。
「確信」と「妄信」の違いは何か?
それを判断するのは誰か?
ということです。
ちなみにどんな宗教にも「確信者」はいます。
大切なのは、その人が「裸の王様」になっても良いと考えているか否かです。
182 :
788 :02/07/05 13:06 ID:Zh/Saqow
>>178 >いま、ここ、における社会性のことです。
もちろん、「いま、ここ、における社会性」を無視しているわけではありません。
その社会性そのものが、極端な言い方をすると『いま、この瞬間』も変化している、と言いたかったのです。
そんな中で私たちは生きているわけです。
変化する社会性と、変化する価値観の中で、私たちは生きている。
その変化を無視して、(これは後にも出ますが)「宗教の普遍性」を語ることなどできないと言っているのです。
・
>おそらくあなたは、
>具象を超えた普遍的な何か「だけ」を宗教といいたいのでしょう。
いえ、あえて言うならその逆です。
本当に普遍的なものなどあるのか、という懐疑的な思いです。
もちろん宗教も例外ではありません。
・
>その普遍性は現実の場において実証されなければ意味がないのでは?
この場合、何がどうなると「普遍性が実証された」ことになるのでしょうか?
・
>四苦八苦を一生涯逃れうる人はいませんから。
四苦八苦を一生涯感じずに人生を閉じる人はいないとお考えですか?
私も個人的には四苦八苦を逃れられる人はいないと思いたい。
しかし、逆説的な言い方をすれば、すべての人が四苦八苦を感じるのであれば、他人の四苦八苦に対してもっと敏感になっていいはず。しからば、社会全体も…。
四苦八苦とはあくまでも個人の感じ方の問題ですから。
他人が「それは四苦八苦」と指摘したところで、本人が「苦」と感じていなければ「苦」にならないのでは?
>>182 > 変化する社会性と、変化する価値観の中で、私たちは生きている。
それは爾前経では『諸行無常』『諸法無我』と説いてるから無視はしていないね。
その上で法華経においてはじめて『諸法実相』が説かれているわけです。
> 他人が「それは四苦八苦」と指摘したところで、本人が「苦」と感じていなければ
>「苦」にならないのでは?
苦は病気や怪我、失恋などのことだけを言うのではないよ。
この無常の世界に生を享けたこと自体も苦であると説いている。
それが「生」の苦です。
無常のものに幸福の根拠をおくそれ自体が、すでにそこに苦の原因を内在するからです。
『一切皆苦』といい、現代的に言えばそれを相対的幸福と言います。
苦を苦と悟り、楽を楽と開いて、法に帰命する時にはじめて
法華経に説かれているように、今この場所を『衆生所遊楽』とすることができる。
それが絶対的幸福というのだと思います。
>本当に普遍的なものなどあるのか、という懐疑的な思いです。
この世界には「絶対は有り得ない」ということほど絶対なものはないでしょう。
存在とは相互依存的関係性の中において生起するものであり、
絶対的で独立的存在は世界内には有り得ない。
…普遍的でしょう?これが仏法で説くところの『縁起』であり、
これを深化させたところに一念三千の法門があるんだと思います。
>>183 訂正
>存在とは相互依存的関係性の中において生起するものであり、
「中」ではなく「場」のほうが哲学的にはより正確かもね。
>>姜子 お前は誤解してる。 しなはなめじまうゅてぉご。 いこにいていか。
大工蛇さま。。。(TεT)
187 :
( ̄ε ̄)@もうこハン :02/07/05 22:27 ID:DaG5cBiM
>>179 乾闥婆さん
ありがとうございます。
ひょっとして私の内面的な事に関係する内容のモノでしょうか?
なかなか本を読む時間がありませんが機会があったら読んでみます。
>>181 おっしゃる通り、言葉は難しいですね。
>それでは、どんな結果であっても貴方の御兄弟は喜んでいたということですか?
>でも、先のカキコで貴方は「私の兄弟は第一志望の某大学の受験に失敗して落胆していた」と書いています。
>これは、御兄弟がまさに「第一志望が○○大学とか第二志望が××大学とか、そんな事はどうでも良く、」とは思っていなかったことを指していますよね。
私の言葉足らずでしたが、喜んだのは本人が入学して大学生活をする様になってからの事です。
ひょっとしたら第一志望の大学に合格しても同じだったかも知れません。
ただ、信仰を実践した結果として自分は正しかったと実感(確信)できる事が重要です。
本人は第一志望に不合格した事についてご本尊に感謝しています。
>「確信」と「妄信」の違いは何か?
「盲信」とは道理にかなっていない信仰の事です。
たとえば、受験勉強をまったくしないで題目だけで合格できると信じる様なものです。
>それを判断するのは誰か?
「確信」については本人の主観のみです。
はいはい、少々待つ事だな。 って事でレスは後だな。
ペースダウンか? >161 >Aさんがアメリカ人だってことは知ってるにょ。 「英語話しているから、彼はアメリカ人だぜ、肌も白いしな」 って、程度だろう。 最近の消えた「GTHO」だったかな。親切丁寧を装っていても、 お前のカキコには「学会精神」がやはり見受けられ無かったぜ。 内部アンチでも見える場合もあったりするケドな。 >「礼」が必要なのか「答え」が必要なのか、どちらかにしたらどうだ。 意味を理解出来なかったのか? 難しいとは思わないがな。 まぁ、コレは大した事でも無いから(オレにとってな)良いだろう。 >生姜子タンの今の生命状態はどこにょ? ここにカキコする時の生命状態は毎回毎回ってワケでも無いだろうが、 残念だがお前の期待できる答えを持ち合わせては無いな。理由は至極簡単だ。 前に一度書いたな、「オレは不快さに対する耐性が非常に強い」ってな。
>えまのん >七夕までお待ちするべきでしたか? そういう意味では無いな。 ・・・って自分でもちょっと「オブラート」包みすぎとは思うが、 深く考える必要は無い。 >emanon派ちゃんはルシィ様♪とは来世では究極の恋愛で幸せに結ばれることを >祈ってます。 >emanon派ちゃんはへび様♪と今世でなにがなんでもめぐり合う予定なのです。 コレでは分らないだろう。 上がスレンダーの「えまのん派」で、下がスレンダーの「えまのん派」ってワケだ?
>168 >私みたいに頭の悪い人間にも十分わかるように。 「空論戦」などやるつもりは毛頭無い。 本気で悩んでいるのなら、ソレをカキコしろって事だ。 >まだまだ人生半分も過ぎてないんでしょ。その自信が一体どこから来るのか…。 「信心に先輩も後輩も無い」って言葉を理解できたら分る事だよ。 >何に対する「答え」のこと? >もしかして『人間は何故生きるか?』という問いに対する「答え」のこと? ソレでも良いよ。大筋ではハズレてない。 >本来のキミのカキコスタイルからいくと 意味の無いツッコミを避けたダケ。 毎回毎回、誰にも彼にも引っ掛け問題を出しているワケでは無いしね。 あとのレスはちょっと読んでみるか。
>えまのん 魔法の暗号だ。
>スカプロ 192のメール欄はまじ?
こんばんわー。 >192 横レスだけど、 アドレス帳にいちおう登録しておこう。(笑)
>キョウコ様♪ 嬉しいですね♪ちょうど良かったのです。 別件で再度異国の地に赴くこととなりました。 「どれだけ一緒に過ごすか」よりも「どのように一緒に過ごすか」 の方が大切っていうのは素敵な考え方ですね。そういう概念を知っていれば こその幸福感ってありますね。私は毎日のようにここでお話していたときも 毎日こちらに赴いていながら一度もお話していなかったときのことも大切な 思い出なのです。 どちらが幸せかっていうことになるとやっぱり違いはあります! まだそこまでは大人になれないのです。
最近、ひゃっきまるん様♪はいらしてるのでしょうか?トリップがない方や そっくりさんがいらっしゃるので…。 はにファ様♪もいらしてますか?ここにいらっしゃらないのは寂しいのです。 でも、楽しいことや幸福なことであまりにも時間がなくてここにこられないと いうのであればそれはとても嬉しいことなのです。
たかのさん♪、ごしゃさん♪ ありがとうございます。お二人のおかげでキョウコ様♪のおっしゃる意味が 分かりました。
オールおばかちん? >Aさんがアメリカ人だってことは知ってるにょ。 「英語話しているから、彼はアメリカ人だぜ、肌も白いしな」 って、程度だろう。 おばかちん? ひゃっきまるは生姜子の「ろんりてきごびゅう」 を指摘しただけにょ? まあ難しい話は生姜子にはまだ早いかにょ。 生姜子は法華経の行者でないことははっきりしてるから、とっとと その理由を答えるにょ。 >お前のカキコには「学会精神」がやはり見受けられ無かったぜ。 おばかちん? なんでひゃっきまるに学会精神がないといけない にょ? というか、生姜子に学会精神があるというのならそんな精 神「糞」ほどの価値もないにょ。 >>「礼」が必要なのか「答え」が必要なのか、どちらかにしたら どうだ。 >意味を理解出来なかったのか? おばかちん? とりあえず生姜子はレスを3回繰り返し読むのを すすめるにょ。 >残念だがお前の期待できる答えを持ち合わせては無いな。 おばかちん? ひゃっきまるは何も言ってないにょ。生姜子が自 分で自分がそうだと思う生命状態をいえばいいにょ。なんでこんな 簡単なことができないにょ? 他人にはずいぶん勝手にやってるよ うだがにょ。自分にはできないのかにょ? >「オレは不快さに対する耐性が非常に強い」 はあ(;´Д`)。生姜子たんほど他人のカキコにびくびくおど おど。むかむかいらいら。はらはらわくわく。してる人はいないに ょ。全部お見とおしなのにょ。 あと、生姜子の十界論がどうぶつ占いと同じの理由も早く答える にょ。 また宿題に答えなかったから、また増えるにょ。もぉ〜、生姜子 は誰に対してもこうやって、答えないで話を長びかせるにょ。 生姜子がどうして論理的にものを考えられないのか、答えるにょ♪
>emanon様♪ 「本物の」ひゃっきまるは「日蓮って」スレにいるようだにょ♪
>ギャグ係 ”That`s 団”俺はクスッと笑った程度だ。まあ、夏バテじゃろ。 英気を養えよかし。
>>199 ひゃっきまるさん♪
ありがとうございます!ひゃっきまるん様♪はファンsのお気に入りさんなのです。
いらっしゃるのですね!嬉しいです。ひゃっきまるん様♪は仲良しさんです。
「言葉で表せないくらい大好きです」ってお伝えしたときに、その言葉の中に
意味は全て入っていて表しきれてる?入ってるとすれば矛盾してるのでは?
そういったことを真摯に追求されるお人柄の一方で、そんなことに囚われない
「大好き」っていう気持ちを伝えたいという概念の方をたて分けて受け入れて
下さるような方なのです♪素敵な方です。科学者の視点を持ってここにいる、と
役割を明らかにしたうえで、暴走ちゃん♪の概念でのお話を受け入れて下さる
はにファ様♪とそういうところはちょっと似ていますね、おやさしいのです。
はにぃ様♪もなのです。ちゃんと書かないとファンsに怒られちゃいます!
>キョウコ様♪ あのですね、PCを一度全てクリアにして初期の状態に戻したのです。 それでここにはこられるようになったのですけど、メールは送れないのです。 携帯から送ることになります。キョウコ様♪は男性ですから個人的にメールを 送るのは若干の抵抗があるのです♪ 私からのメールって、どうやって見分けるおつもりなのでしょう?
女性は繊細だからね。 これは独り言だけど、 やっぱり婦人部の方に相談しなきゃいけないかなぁ って思う今日この頃。
204 :
乾闥婆 :02/07/06 00:54 ID:NnV9bAO4
>>182 私が答えるべき内容は、ほとんど滝山さんが
>>183 にて答えてくれました。
一つだけ補足します。
> この場合、何がどうなると「普遍性が実証された」ことになるのでしょうか?
「その普遍性は現実の場において実証されなければ意味がないのでは? 」
つまり現実生活の中に意識として反映されないのでは意味がないのでは?
という意味です。
「縁起」というものの見方はとても優れて普遍性があると思います。
それは我々が生きている日常の場を明解に見せてくれます。
そこから現実へと向かってゆきます。積極的な自己投企がはじまります。
その向かい方がどんなに具体的なことであっても侮ってはいけないと思うのです。
もうそれは、生活してゆく上での「何か」なのだと思うのです。
生きてゆく上での「何か」がはじまっていると思うのです。
なんで「創価学会」の人はこのガイキチを放置するんです??? 哀れみの思いで「放置」ですか?
206 :
205 :02/07/06 00:59 ID:???
波木井のことです。
207 :
vdx :02/07/06 01:04 ID:???
208 :
ひゃっきまる :02/07/06 01:49 ID:aV1s/0BB
>>201 emanonさん
>「言葉で表せないくらい大好きです」ってお伝えしたときに、その言葉の中に
>意味は全て入っていて表しきれてる?入ってるとすれば矛盾してるのでは?
なかなか面白い命題ですね。では解釈してみましょう。
そもそも「大好き」という感情は言葉では表現できないはずです。なぜなら、
感情は主観的な体験だからです。ではなぜ「大好き」という言葉が意味を為すか
といえば、それは相手にも同様の主観的体験があるということを想定しているか
らです。この、本来証明され得ない想定は様々な間接的事柄によって確信を持つ
ことができます。
そしてこのことによって言葉の役割や限界もおのずと明らかになってきます。
人間間のコミュニケーションというのはむしろ主観的体験の共有によって可能に
なるのであって、言葉はそれを円滑にするための道具として用いるべき、という
ことです。
「言葉で表せないくらい」というのは、「既存の言葉の概念では表現できない
主観的感情が私の中に存在する」という意味です。結論としては、矛盾はありま
せん。
209 :
ひゃっきまる :02/07/06 01:50 ID:aV1s/0BB
と、こんなことばかり言っていたら嫌われてしまいますかね(^^) 僕の記憶によれば、まだ一度もemanonさんとは話したことがありませんでした ね。でもファンsさんたちからはよくお噂をお伺いしておりましたので、ようや くお会いできて大変光栄です。「素敵な方」などと、全くもったいないお言葉で す・・・。 「科学者の視点」とは面白い表現ですね。科学(science)はデカルトが「発 明」したと言われますが、彼は魂と肉体の原理を別個のものとし、分けて考える べきと提唱しました(二元論)。また、彼は熱心なキリスト者です(彼以外にも、 例えばニュートンにしてもダーウィンにしてもその他多数の学者達も熱心なキリ スト者だったのです)。 現在では「肉体の原理」(客観認識的世界)のみが発展して科学となりました が、もちろん「魂の原理」(主観認識的世界)を科学者が無視しているわけでは ありません。客観的事実「のみ」をあえて厳密に区分し追求することで、より正 確に真実に到達できるという「方法論」なのです。 ファンsさんたちには「私たちにはレスが短い」とお叱りをうけることが多い ので、ちょっと長めにしてみました(^^;
210 :
788 :02/07/06 05:15 ID:+AQCYr6T
>>183 >それは爾前経では『諸行無常』『諸法無我』と説いてるから無視はしていないね。
「無視はしていないね」の主語は何でしょうか?
それが解らないのでここで滝山さんが言わんとしていることがイマイチ判然としません。
・
>苦は病気や怪我、失恋などのことだけを言うのではないよ。
>この無常の世界に生を享けたこと自体も苦であると説いている。
>それが「生」の苦です。
それはわかってますってば。
わかった上で、
「他人に『生まれて来たこと、それ自体が苦なのですよ』と指摘したところで、
生まれて来たことを苦と感じない、苦と思わない人もいるのではないか」
と言っているのです。
・
>この世界には「絶対は有り得ない」ということほど絶対なものはないでしょう。
なんか変な問答になってしまいますが、
それすらも一つの見識に過ぎず、絶対的なものではないでしょう?
211 :
788 :02/07/06 05:16 ID:+AQCYr6T
(続き) >絶対的で独立的存在は世界内には有り得ない。 イスラムでは『唯一絶対神』が存在する(と信じられている)んじゃないんですか? 滝山さんが言わんとするところは何となくわかります。 しかし、仏教(法華経)のスタンスで終始してしまっているので、 包括的な議論になっていないのが残念です。 たとえば、 「この世に絶対的な存在などなく、すべては縁起で成り立っている」 との言説は個人的には理解もし、支持したいとも思います。 しかし、 仏法で言うところの一念三千と、 実際にはイスラムやキリストやその他諸々の宗教が人々の生活や心にすでに宿っている現実の世界とが、 一体どうシンクロするのか。 考えれば考えるほど???なのです。 広宣流布=他宗教の駆逐と考えますか?
212 :
788 :02/07/06 05:17 ID:+AQCYr6T
>>187 >本人は第一志望に不合格した事についてご本尊に感謝しています。
なるほど、すべては御本尊様のお導き、というわけですね。
(いやみではありませんよ)
ですが、ひとつだけ意地悪な質問をさせて下さい。
>ただ、信仰を実践した結果として自分は正しかったと実感(確信)できる事が重要です。
第一志望に受かって有意義な学生生活を送っていたとしても、
やはり「信仰を実践した結果として自分は正しかったと実感(確信)でき」たんでしょうね?
これって後付けの理屈になっていませんか?
・
>「盲信」とは道理にかなっていない信仰の事です。
>たとえば、受験勉強をまったくしないで題目だけで合格できると信じる様なものです。
たびたびで申し訳ないけど、
上記の事(信仰を実践した〜)が、もし後付けの理屈であるとしたら、
そうしたことをするのも「妄信」になりませんか?
213 :
788 :02/07/06 05:18 ID:+AQCYr6T
>スカちん
>>191 >「空論戦」などやるつもりは毛頭無い。
この板ではいろんな人とさんざん「空論戦」をやっているように見受けられるが?
・
>本気で悩んでいるのなら、ソレをカキコしろって事だ。
キミは山谷しんぺいか!(ちょっと古いな)
私が悩みごとがあってキミに質問してるわけじゃないのは最初からわかっているはず。
というより、相談もしていないのに
「本気で悩んでいるのなら、ソレをカキコしろって事だ。」って、
キミは何様のつもり?
・
>「信心に先輩も後輩も無い」って言葉を理解できたら分る事だよ。
直前のカキコで
「「信心」は「人生」と比例して、会得する事は難しい。」
と書いた人と同じ人とはとても思えません。
「信心」には先輩も後輩もないかもしれないが、
「人生」にはあるんでないの?
「人生」にも先輩、後輩がないというならいいけど、
もしあるというなら、少なくとも「信心」と「人生」を同列に語る上で僭越さを感じたらいかが?
214 :
788 :02/07/06 05:30 ID:cC+Is8IS
>>213 訂正
キミは何様のつもり?
→悩みがなくて書かないのがわかってるからこれで終わるだろうという逃げ?
>とり急ぎでキョウコ様♪ Of course You Are Special Utopian My Ideal Night-knight 理想郷に住む夜だけお会いできる騎士様♪ ルシィ様♪はemanon派ちゃんの「Knight in midnight」でしたね♪
>ひゃっきまるん様♪ お返事ありがとうございます。はにファ様♪も同じように絶対的幸福についての 概念は分かると書いてくださってたのです。はにファ様♪は私が以前お会いした ためになるお話をしてくださった方と同じ雰囲気をお持ちなのです。 その方がお話してくださいました。科学を勉強したばかりの頃は科学の限界も科学の なんたるかもつかめていないので科学は万能に思え、それゆえ科学で証明できないものは 未完成(未熟でしょうか?英語でしたのでニュアンスしか分かりませんでした)で 信ずるにも論ずるにも値しないと考えていたそうです。科学の先端(最も新しい研究 でしょうか?)を研究するのは孤独な作業で正解はなかなか見出せず、それゆえに 生命の深遠さや不可思議さに畏敬の念を抱き、それが宗教心におのずと結びつくそうです。 また、新しい発見があった時もその素晴らしさに打たれ生命や人知を超えたものに対する 意識、宗教心に結びつくものが強まるそうなのです。 はにファ様♪は最初に科学だけで幸福になれるとは思っていない、とおっしゃったうえで 科学者の視点を持ってここにいる、と役割を明らかにしてくださったのですね。そして 役割以外のはにファ様♪の部分で概念を理解してくださり、優しくしてくださったのです。 暴走ちゃん♪やemanon派ちゃん♪私は難しいお話はできません。概念でのお話しかしない のです。自分の気持ちと相手の気持ちでのお話をするのがとても好きです。その方としか できないお話をする特別な時間が過ごせるのが嬉しいのです♪ ひゃっきまるん様♪も言葉と概念をたてわけてくださるので嬉しいです! あなたのことが世界で一番好き♪って告白したときに「世界中の男性と深く交際した こともないくせに!」とはおっしゃいませんね♪
>ひゃっきまるん様♪ emanon派ちゃんが「答えたくないって書きながらも私よりそちらの方へのお返事を 優先なさるのですね…」って書いたことに関しては、不満からではないのです。 きっと、ひゃっきまるん様♪が「不本意なこと(書きたくないのに長文のお返事を 書いたり日々それについて考えてしまう)をさせられてる」と、ちょっといやな気持ちに なってるのを心配したのです。 わざと「お返事なんて必要無いし書かなくてもひゃっきまるん様♪の評価は下がらない」って 書いたうえで、ひゃっきまるん様♪が採用しなさそうな提案をしたりヤキモチをやいた のは意図的だと思います。もちろん、ファンsのヤキモチはありましたよ!でも彼女達は そのままのその方を好きなのであって、あまり要求はしないのです。emanon派ちゃんが 彼女たちに気をつかって御魂様♪始めたくさんのコテハンさん達にいろいろなお願いを したことはあります。その時は「ファンサービス」って書いてます。 ひゃっきまるん様♪に「emanon派ちゃん♪より優先してしまうのは申し訳無いけどそれが 自分の在り方でこのようにしかいられない」って書いていただくことが目的だったのだと 思います。ひゃっきまるん様♪の言葉については原文が今見られないのでニュアンスが 変わってしまってたらごめんなさいなんですけど。 ご自身の意志でなさってるって書いて欲しかったのだと思います。やらされてるって 思うより少しでも楽しい気持ちでいらして欲しかったのですね♪ emanon派ちゃん♪はそういう人なのです。相手のためなら悪者にもなるし憎まれ口とか 平気で書いちゃいます。 それでもemanon派ちゃん♪の書いたことで今まで気に病んでいらしたらごめんなさい!
>198 相変わらずエンドレスるつもりの様だな。 一つだけだな。 >なんでひゃっきまるに学会精神がないといけないにょ? 「お前に無いから、最初に「傲慢ニ乗クン」と命名したんだよ。」 この一文で、ほとんどのレスになっただろう? 後はコレか。 >はあ(;´Д`)。〜 その程度では「えまのん派クラス」だな。 >答えないで話を長びかせるにょ。 誰に対しても大抵最初の一撃で勝負が(答えが)ついているさ。 ソレが分らないダケのお話だぜ。 >202 そんなものかな・・・。
>213 >この板ではいろんな人とさんざん「空論戦」をやっているように見受けられるが? 「ひゃっき」とおんなし程度だな、お前。 挑発にすらならないのはしょうも無いな。一応そのレスが本気とは思わないが。 >私が悩みごとがあってキミに質問してるわけじゃないのは最初からわかっているはず。 そう、正解です。だからこそ、その「答え」を書く事は既に「空論」だぜ。 意味無いだろ? 「お前にとって。」 逃げでも何でも無いな。ソレでもソレを必要とするなら、まさしく「空論」爆発だろ。 最終的に誰の為にもならない論議は「清純派」のjobでは無いと思っている。 (無論、自分の意図しないROMらーも含めるが) さーて、この辺、ちゃんと読んでいるか?「ひゃっき」クンは? >「人生」にも先輩、後輩がないというならいいけど、 >もしあるというなら、少なくとも「信心」と「人生」を同列に語る上で僭越さを感じたらいかが? その人生の先輩というものは「知識」?「経験」? どちらを指しているんだ? 人生の達人は「知識」でも「年齢」でも「経験」でも無い。 一つの哲学を(正邪や当りハズレは抜きにして)会得している人だろう? >215 コレはまた。賢いカキコだな。 ちょっと優秀っぽいスレだケド、もうちょっとサゲておくか。
220 :
ひゃっきまる :02/07/07 04:23 ID:AiaFa78f
emanonさん
>>216-217 丁寧なご返事ありがとうございます。それにしても、かなりログの隅々まで
読んでいるのですねえ。ちょっとびっくりしました。
ところでいわゆる「科学」に従事するような仕事をするような人は、今日で
はかなり専門職的な色合いが強いですから、科学的視点を世界観の根本におく
ような人はむしろほとんどいないのではないかと思います。
うまい表現がありませんが、今日の研究者は科学をあまり哲学としてはみて
いないということです。
それはさておき、僕が少しemanonさんに問題提起しておきたいのは、果たし
てはにわファンさんやハキリさんは「宗教対科学」などという陳腐な視点でこ
の板にいるのだろうか? ということです。もちろんそうではありませんね。
彼らのレスが分析的で、またときに科学的であるのは、それによって「宗教」
を否定するためではありません。宗教は宗教としての価値を認めた上で、「で
は創価学会はどのような宗教なのか」ということに言及しているに過ぎません。
そして僕自身もそうです。学会教学では宗教には優劣があると説きます。そ
うですね? よい宗教と悪い宗教があるということです。
信仰者を軽視するつもりはありません。僕もまた信仰者の一人です。しかし
おかしなことはおかしいと声を大にして言うことはやはり必要なことでしょう。
「言葉と概念をたてわける」というのは少し違います。立て分ける必要など
ありません。信ずる信条によって人を好きだとか嫌いだとか価値があるとかな
いとかいうことはないということです。
皆、同じものを胸に持ち、同じものを前に見ているはずですから。しかし、
だからといってその信条の真偽を追求する意味がないということでは、もちろ
んありません。
221 :
ひゃっきまる :02/07/07 04:24 ID:AiaFa78f
僕のレスの仕方ですが、確かにemanon派さんが心配してくださったようなこ とが実際にあるということは認めなくてはなりません。ときにそれは不快な感 情を伴うものですから。 ただそのときは、どのようなレスに対しても答えることが、僕なりの誠意の 表し方であると自身に誓ったことでもあるので、相手に誤解があれば最大限の 努力でそれを解こうと思いましたし、なるべく正確に自分の考えを説明しよう と躍起になってしまっていたと思います。 emanon派さんのレスを頂いてからはもう少し楽な気持ちでレスの応酬ができ るようになったかと思います。気に病むなどということは全くないので、ご安 心下さい。 お三方とレス交換できて少し自分の中で変わったと思うことがあります。僕 は以前はネットの掲示板というものの限界を意識しながら議論をしていたので す。 直接会って話すのではないし、文字のみの極めて責任性のない環境であるの で、結局は論理の正しさを追求する以上の場にはなりえない、と思っていたの ですが、少しは「心の」コミュニケーションができるんだなあ、ということで す。それではおやすみなさい。
>203 たっきーちゃん >やっぱり婦人部の方に相談しなきゃいけないかなぁ って思う今日この頃。 どないした?こんな婦人部でよければ相談に乗るぞYO。 >ごしゃたん 時折 いらしてるんですね。嬉しいです。 単に「面白いモノ」でなく、「来て良かった」と思って貰える 会合を目指して 頑張ります。 私が提供出来なくても そう思って帰ってもらえれば それで大成功ですから。
おばかちん?
>>218 >「お前に無いから、最初に「傲慢ニ乗クン」と命名したんだよ。」
>この一文で、ほとんどのレスになっただろう?
おばかちん・・・。なんか丁寧に説明するのもバカらしくなってきたにょ。生姜子が学会が
正しいという前提からしか思考できないことはよくわかったにょ。それを盲信とか狂信とかい
うにょ。そうでないということを言いたかったら、こんな物言いの仕方はやめたほうがいいと
思うにょ〜。
>誰に対しても大抵最初の一撃で勝負が(答えが)ついているさ。
>ソレが分らないダケのお話だぜ。
おばかちん? れふぇりぃは誰にょ? まさか生姜子が自分で自分が勝者だって決めるのか
にょ? なんで答えがついてるのに答えないにょ?
・生姜子の十界論がどうぶつ占いである理由
・生姜子が法華経の行者でない理由
・生姜子の今の生命状態
・生姜子が論理的にものを考えられない理由
に加えて、また宿題が増えるにょ。早く答えないとどんどんたまるなりよ(;´Д`)
・生姜子が2chでカキコしてる理由(これは興味あるにょ)
ところで、最近お得意の「どうぶつ占い」やってないみたいにょ?( ´∀`)
もしかしてひゃっきまるに指摘されて恥ずかしくなったのかにょ?
そうそう、ひゃっきまるは生姜子のためを思って粘着してるにょ。優しさにょ。
>>222 {いんたれす@まじ子}san。
あなたは太陽のように輝いています。
貴女の信じる道を元気よく突っ走ってください。
そして いつかは良い方向へと導かれることでしょう。
ただ私はアンチですが、そんな垣根は同じ人間として想い鑑みるなら、
いつかは互いに分ち合えることが来ることでしょう。人間の共通点は【心】なのですから。
何が愚かなことで、そうではないかは「慈悲なる心」を育むかによって自ずと自然に滲み出るものです。
これからも純粋な感性をお互いに育てていきましょうね。で、懐かしい「HN」ですよね。ではまたね。\ (゚∀^,,)ノ~
225 :
T.R ◆OB0.UQBo :02/07/07 11:13 ID:VIZLEoHC
>>223 >おばかちん? れふぇりぃは誰にょ? まさか生姜子が自分で自分が勝者だって決めるのか
>にょ?
大爆笑!
禿しくワラタ の方がいいのかな?
226 :
788 :02/07/07 18:16 ID:kNJQML97
>スカちん
>>219 >挑発にすらならないのはしょうも無いな。
挑発してるつもりなど毛頭ないよ。
ただ素直な感想を述べただけですが…。
・
>だからこそ、その「答え」を書く事は既に「空論」だぜ。
>意味無いだろ? 「お前にとって。」
議論がキミにとって「空論」かどうか、意味があるかどうかを決めるのはキミ自身。
同様に、
議論が私にとって「空論」かどうか、意味があるかどうかを決めるのは私自身、では?
だとしたら、この場合、
『意味無いだろ? 「お前にとって。」』
ではなく、
『意味無いだろ? 「オレにとって。」』
と書いてくるならわかるが。
何で私に意味があるかないかをキミが決めるわけ?
ちなみに先のカキコで
『この板ではいろんな人とさんざん「空論戦」をやっているように見受けられるが?』
と書いたが、この場合はキミの定義(悩みに答える形の議論でなければ「空論」とする)にならってそう表現した(だから「」付けで表現した)のであって、そのキミの定義にかなっていない議論もキミはしているんじゃなの? という素朴な疑問を感じたからだっぺ。
さらに言えば、
私自身は「どんな議論にも“それなりの”意味があるもの」と思ってる。
もちろんキミとの議論もね。
たとえキミが「空論」と蔑もうとも。
227 :
788 :02/07/07 18:17 ID:kNJQML97
>最終的に誰の為にもならない論議は「清純派」のjobでは無いと思っている。 「私」が「私のため」になると言ってもその考えは変わらんかね? >さーて、この辺、ちゃんと読んでいるか?「ひゃっき」クンは? こういうこと書くから、 「一人悦に入るスカちんであった」 と言いたくなるんよ。 ああ、それと少なくとも「ひゃっき」氏の方がキミよりよっぽど論理的思考にたけてると思います。 >その人生の先輩というものは「知識」?「経験」? >どちらを指しているんだ? >人生の達人は「知識」でも「年齢」でも「経験」でも無い。 >一つの哲学を(正邪や当りハズレは抜きにして)会得している人だろう? ??? 苦し紛れ? 一つの哲学を会得している(キミがいうところのだよ←コレ大事)人以外の人の人生は人生として認めないということ? キミの後輩にとってキミは人生の「知識における先輩」?それとも「経験における先輩」? どっちだ? それともキミのすべての後輩たちにとって、キミは「一つの哲学を会得した人」? キミにとっての空論が私にも意味無いだろ、と言い切ってしまえるほど 相手の価値観がお見通しなのだから、後輩たちの考えも手に取るようにわかるはず。 この質問にも即答だよね?
>>212 788さん
>なるほど、すべては御本尊様のお導き、というわけですね。
そうなりますね。ただ問題は本人がそう思えるかどうかです。
勉強も適当、祈りも適当・・・で合格したのであれば「御本尊様のお導き」とは
本人は実感できないですね。
>第一志望に受かって有意義な学生生活を送っていたとしても、
>やはり「信仰を実践した結果として自分は正しかったと実感(確信)でき」たんでしょうね?
>これって後付けの理屈になっていませんか?
それも、本人の「確信」次第です。
信心の強い人であるほどその傾向が強いでしょう。(それだけ後付けを納得する事ができる)
229 :
( ̄ε ̄)@もうこハン :02/07/07 21:46 ID:OfkGA1FN
また、たとえ信心の強い人であったとしても、元々「頭」が良くて、 第一志望に「楽」に合格して充実した大学生活を送って幸せだったかも知れません。 しかし、たとえ受験勉強も適当、題目も適当で合格できたモノだとしたら、 それは信仰の「確信」とは違うモノになりますね。 つまり、信心の強い人でもそういう時もあるという事です。 貴方のおっしゃる「結果主義」で、「大学受験」も「入社試験」も「貧乏」や「健康」の問題も 信仰をしている事を理由に、全ての事が自分の思い通りになる宗教だとするのであれば、 なんか変ではありませんか? 逆にインチキくさいというか・・・(笑) もしも、そうした教義であればその宗教を信仰する人は悩みがなくなってしまいますね。 宗教云々は別としても悩みのない人間など存在するのでしょうか? 何かしらの悩みを持っているのが人間として普通ではありませんか? 悩みをどれだけ自分のバネとしてとらえていく姿勢で生きていけるかが重要ですね。 今の創価の現実は、悩みは持っているが信心する程の悩みを、 持っていない二世会員が多数存在する事だと思います。 昔の創価は「貧乏人と病人の集まり」といわれてたらしいですから。 今は違いますよね。
>222まじ子 その通り!それで大成功なのよ。 >スカプロ まじ、お前そろそろ不等号はリンクにしてくれ。 ROMるのに時間がかかる。みんなもそれは願っているだろう。
>>222 まじ子姐さん
ありがとうございます!
なんとかなりそうな気もしてきたのですけど
やはり婦人部の意見も聞いてみたい気もします。
すみませんけど、メールお願いしてもいいでしょうか?
よろしくお願いしますー。
あ、 sageになってた。 メアド入れ直しておきました。
>232 お呼びでないのにすまん。
ありがとーございます。 返事送っておいたので、どぞー。
235 :
788 :02/07/09 14:06 ID:N/I78XON
>もうこさん
>>229 >貴方のおっしゃる「結果主義」で、「大学受験」も「入社試験」も「貧乏」や「健康」の問題も
>信仰をしている事を理由に、全ての事が自分の思い通りになる宗教だとするのであれば、
>なんか変ではありませんか? 逆にインチキくさいというか・・・(笑)
いや、だから私は最初に「この信心は結果主義ではないはず」と言っているのです。
「結果が良ければすべて良し」とするような風潮が、今の学会内には強すぎる、
と指摘しているのです。
それがひいては貴方の言われるような「インチキくささ」を外部に与えている、とね。
・
>今の創価の現実は、悩みは持っているが信心する程の悩みを、
>持っていない二世会員が多数存在する事だと思います。
「貧乏」や「病気」といった生きることに直結した悩みは少なくなったかも知れませんね。
それよりも「いかに?」「何故?」といった思索的な悩みが増えている。
前者はほとんどの場合、二世の親が解決しているからでしょう。
ただ、前者が「信心に値する悩み」で、
後者が「信心に値しない悩み」としてしまうのはどうでしょう?
食べることや病気にならないことより大切なことを持っている人は結構いるのでは?
個人的には「食えずに死んだらそんな悩みもなくなっちまうだろっ!」って
ツッコミのひとつも入れたくなりますが、
どうやら、世の中には私のそんな価値観とは違う価値観を持った人が確実にいるようで。
236 :
788 :02/07/09 14:07 ID:N/I78XON
滝山さん
>>234 210-211へのレスお待ちしています。
ホットメールが使いこなせない〜(T-T) 送信するとダイヤルアップ接続をしようとするんだけど ↑これで繋げたことが無いのよ。 私がホットメールでメアドを作ればやりとりできる? 疎くてゴメン 教えて下さい。 いちお フツーのメールで送りました。届くのかなぁ。。。
238 :
( ̄ε ̄)@もうこハン :02/07/10 23:07 ID:janKOLO4
>>235 788さん
>いや、だから私は最初に「この信心は結果主義ではないはず」と言っているのです。
>「結果が良ければすべて良し」とするような風潮が、今の学会内には強すぎる、
>と指摘しているのです。
ですから私は「結果主義」について、一喜一憂せずに長いスパンで、
とらえていく「姿勢」をたもっていくべきが本来の創価の結果主義であると言ってるのです。
これは持病がなかなか完治せずに長い間、苦しみながらも持続した私の経験で言ってる事ですよ。
あなたのおっしゃる「結果」とは何ですか?
私からみた「学会内」の現実の風潮とはFを何個取ったとか新聞啓蒙をXX部達成したとか、
活動「成果」の結果で終わってる人ばかりです。
>それがひいては貴方の言われるような「インチキくささ」を外部に与えている、とね。
外部の悩んでいる友人に対しては、その友人の悩み解決の為に
この信仰は絶対だというのは当たり前でしょう。
そのかわり、友人の悩み解決が出来なかったらウソつき呼ばわりされるのは確定です。
悩んでいる友人に自分のしている信仰をすすめるのはとても覚悟の必要な事です。
友人に「絶対」だからと言いきるには、自分が「絶対に友人の悩みを解決してみせる」
決意が必要です。それには自分自身の「ご本尊に対する祈り」と「行動」が不可欠です。
ちょっとわかりずらいかもしれません。
>ただ、前者が「信心に値する悩み」で、
>後者が「信心に値しない悩み」としてしまうのはどうでしょう?
単に自分の経験で「病気」や「貧乏」を例に挙げたまでです。
>それよりも「いかに?」「何故?」といった思索的な悩みが増えている。
「自分は何故生きているのか?」みたいな事でしょうか?
近年の指導は罰とか功徳とかより、そちらの方がメインになってる筈です。
大さっぱですが、結論として使命を自覚して「広宣流布の為に生きる事」なのでしょうか。
>>223 お! ひゃっきまる君、久しぶり〜。いつぞやは悪い事したね。
240 :
788 :02/07/11 13:50 ID:71yulji+
>もうこさん
>>238 >私からみた「学会内」の現実の風潮とはFを何個取ったとか新聞啓蒙をXX部達成したとか、
>活動「成果」の結果で終わってる人ばかりです。
もうこさんのように問題意識を持った学会員がもっともっと増えれば、
学会もきっと良くなっていくと思うのですがね。
・
>ちょっとわかりずらいかもしれません。
事の正邪は別にしても、相手に『誠意』が伝わることは大切なことだと思います。
その点では、もうこさんの書き込みから察するに
もうこさんが一生懸命に接すればもうこさんの『誠意』はきっと伝わるはず、だと思います。
一部の学会員の中には、
信心の正しさを、難しい教義を持ち出して来て論理的に説こうとする人がいます。
しかし、そうすればそうするほど論理的矛盾にはまっていくのは何故?と思います。
・
>近年の指導は罰とか功徳とかより、そちらの方がメインになってる筈です。
なのに
>私からみた「学会内」の現実の風潮とはFを何個取ったとか新聞啓蒙をXX部達成したとか、
>活動「成果」の結果で終わってる人ばかりです。
なのは、どうしたことでしょうね?
上記の指導が徹底されていない、ということなのですかね。
241 :
788 :02/07/11 13:51 ID:71yulji+
>スカち〜〜〜〜〜〜〜〜〜ん レス待ってるわよ〜〜〜〜〜ん
スカプロはひゃっきまるが苦手
243 :
788 :02/07/12 15:36 ID:CrTGHiVL
ホントにどうしちゃったんだろう?>スカちん 滝山さんや乾さんも。 もうこさんまで…。
239 名前:北条時輔 ◆iNmI6Dxs :02/07/10 23:43 ID:???
学会論の本質は割りと単純だと思うよ。 目的や目標に意味をつけて思い込みや妄想で遊んでるだけのこと。 「この馬券が当たったら彼女に告ってもOKな気がする」とか 街角で次にすれ違う人が女性ならパチンコで勝てそうな気がするとか 関係ないのに無理無理関連付けてるのと大差ない。
スカプロはもう戻ってこないだろう。 ひゃっきまるが論破しちまったんだよ なんとなくひゃっきのやろうとしたことはわかる 完全にじゃないけど やっぱやつはただものではない
>>221 ひゃっきまる君
>僕は以前はネットの掲示板というものの限界を意識しながら議論をしていたのです。
ここではそれが本来だろう。
>少しは「心の」コミュニケーションができるんだなあ、ということです。
これはやめた方が良いと思う。特にこの掲示板では。
ルシフェル氏だったかな。何処かで”コテハンの馴れ合いは嫌いだ”とか
言ってたっけ。
コテハンを好きになるあまり”信用する”のは絶対にやめた方が良い。
たとえ、どんなに良くみえるコテハンでも。
もしかしたら、何かの原因で君の好きなコテハンの人が「別ハン」や
「名無し」で叩きにやってくるかもしれない。
ここは”何でもあり”だから当然アタリマエ。
自分を叩いているのが自分の好きなコテハンでないとも限らない。
それで「叩き」の正体がわかったとしたら傷付くのは君だよ。
そうなったら目もあてられない。
また、ひょっとしたらコテハンとメールのやりとりをしたりするかも
知れない。それでも、もちろん「信用」してはダメだ。
ここは所詮はネット上のゲーセン。
お互いに、それがわかってれば馴れ合いも良いが。(笑)
ところで「動物占い」って何?
248 :
北条時輔 ◆iNmI6Dxs :02/07/12 23:08 ID:W0ByDCYy
age
>788さん すいません。眠いので(藁)また後日。
相変らず時輔はかんじの悪い文書くな 「少し」と書いてるのをそこまでからむこともあるまい あと、ほんとにひゃっきにすまないと思ってるのか? なんかこばかにしてる雰囲気があるぞ
スカちゃん、どうしたんやろ?
>>250 彼に別ハンで話すのは無礼。
本ハンで話すのに以前と口調が違うのも無礼。何にせよ私は無礼。
”からむ”つもりはありませんでした。
ただ、私の様にはなって欲しくなかっただけです。
>>ひゃっきまるさん
「名無し」や「別ハン」で何度かお話した事があります。
無礼でした。お許しください。m(_ _)m
かなりお忙しい様ですね。私も以前の様には来れませんが。
253 :
ひゃっきまる :02/07/13 20:56 ID:W0UvkjjW
あ、時輔さんお久しぶりです(^^) 名無しや別ハンって誰でしょうね。 別に無礼とか気にしてませんよ。
252 名前:北条時輔 ◆iNmI6Dxs :02/07/13 19:58 ID:??? 二度とくるな!
>224さん お久しぶりです 私は 輝いて はおりません が、いつか輝きたいと思ってます。 この224のレスが頂けて よかったです。 どこぞの方に、アンチの貴方が私を馬鹿にして インタレス と名付け、それを私が気付かずに喜んで名乗っている と言われた事があったので。 その時は 気にしない気にしない と言い聞かせていましたが ちょっとは気になっていたので(笑) 垣根なんて双方が気にしなければ 無い も同然 むしろ色んな課題を教えて頂いてます。 遊びと割り切りきれない重い話も転がっているのが ココの面白いところです。
インレタスまじ子発見!(サラダか?っちゅうねん) 久しぶりに見たぞ。というか久しぶりに来てるが…。 スカも含めてみんな忙しいんだろうね。7月だもんな。
キャア!見つかっちゃった!! な〜んて。 うちも久しぶりに来とるんよ〜 ごしゃたんおゲンコ?
257してから 気が付いた。 「レタス」に。。。(笑) 前にも 異端レス と呼んだりしてたし。 もうっ!ええかげんにしなサイ。バシッ!
260 :
乾闥婆 :02/07/14 14:01 ID:eGdVsRMo
>>210 > 変化する社会性と、変化する価値観の中で、私たちは生きている。
>それは爾前経では『諸行無常』『諸法無我』と説いてるから無視はしていないね。
変化する価値観のことを仏教は出発点においてちゃんと認識しているということです。
その上で『諸法実相』がいわれるには「いま、ここ」の瞬間を見なければいけない。
それは変化をともなう現象をいうのではなく、まさに「法」をいうのでしょう。
『諸行無常』『諸法無我』の流れでいけば、それは『涅槃寂静』といわれたことでしょう。
生まれてくることの「苦」に関しては古い仏教では死んで戻ってこないことを、
解脱したものとして賞賛するので、
といいますか、称賛に値する人は「行きて戻らぬ人」と呼ばれますので、
生まれてきた人はふたたび「苦」の世界へ戻ってきた人と「規定」されているのです。
そして「死」は免れないことであれば、
生死において「苦」を免れる人は「いない」ということになります。
261 :
乾闥婆 :02/07/14 14:21 ID:PNG6IR88
>>211 縁起説に関していうと、確かにそれは一つの見解にすぎない、と言えるのでしょうが、
そのような言い方では、すべては相対的なものであり、
普遍的なものはありえない、という発想に繋がってゆくと思います。
相互依存という関係からは「唯一神」もまた人間との相互依存の中からしか生じない、
という発想が可能であるかと思います。
その場合、「唯一神」の実体性は否定されるでしょう。
私は「ある」というものだといったり、偶像崇拝を否定する旧約の「神」は
実体としては否定されうる存在でしょうから、
縁起説がそれほど普遍性のない視点であるとも思えません。
現象の考察をする有効な視点として様々な場面で力を持ちうる「見識」であると思います。
普遍性とはそのような論争に堪えうる見解にこそ認められるものではないでしょうか。
>>254 結果がどうであろうと、私は人の幸福を妬んだりする人間ではありません。
ましてや、ここでは幼馴染。大切な人。
貴方は人の幸福の為に「祈る」という行為をした事がありますか?
かなりサビついてはいるが、私にはそれが出来ます。
263 :
北条時輔 ◆iNmI6Dxs :02/07/14 15:57 ID:fDKT7OXY
>>253 ひゃっきまるさん
もし今、貴方が目の前に居たら私は貴方に土下座するでしょう。
>名無しや別ハンって誰でしょうね。
別ハンで貴方に話かけて「創価側の立場に立つ人ではありませんか」と
貴方に問われました。私が「そうです」と素直に言えないのは見ての通りです。
ところで、ここは365日、毎日来るところではありませんね。
ここに来る様になってもう一年くらいになります。
もう、古参になってしまうのでしょうか。
いや、貴方の方が大先輩ですね。(笑)
自分でも気付かないうちに、狂ってくる自分に気がつきました。
私は昔はもっとマトモ?でした。(笑)
やはり人間は生の人間と「心のふれあい」をしなければダメですね。
創価の「心のふれあい」は学校や職場の人間関係とは違うものがあります。
色々な人達がいます。老若男女、みな仕事も違えば収入も違う。
意地悪な人も沢山いる。意地悪な人と顔を合わせるのも人間としての
訓練になります。少なくとも「自分はこんな意地悪な人にはならない」とさえ
思う事が出来ます。意地悪な人は自分を成長させてくれる善智識です。
恥ずかしながら私は、これでも昔は活動をしていました。
その中で「心のふれあい」が在り過ぎて疲れてしまったのです。(苦笑)
(それだけではありませんが)
私にこんな事を言う資格があるとも思えませんが、
貴方に本格的な学会活動をお薦めしたいと思います。
これが貴方に言える私の精一杯の感謝の気持ちです。
>別に無礼とか気にしてませんよ。
寛大なお心遣いに感謝します。
私には貴方の様にキチンとした議論は出来ません。(興味もありませんが)
糞レスをお許しください。
ご本尊に向かって勤行・唱題している当体そのものがすでに「仏」だということを 凡夫であるが故に気付けない場合が多い。
偉大なる地涌の菩薩、仏界への旅立ち! 〜 奇しくも3.16「広宣流布の日」に! 人類史上最高の仏法者、偉大なる行動の軌跡! 70余年の生涯見事に飾る! 池田大作名誉会長(SGI会長)大勝利の人生で学会正義を世界に証明! 全世界1200万にの会員から、先生の恩に対して数々の感謝の声! また学術・文化・政治の世界189カ国の一流人からの数え切れないほど の哀悼の意。 宇宙最高の生命哲学を授けてくれて、ありがとう、お父さん(先生)! 広宣流布のバトンタッチは我々にお任せ下さい!! 使命に燃えた壮年部、婦人部、男子部、学生部、少年部、全世界SGIメンバー 東京ドームで一同に会し 池田先生追悼集会&大勝利達成記念勤行会開催! 先生に感謝! 「広布に走れ」「紅の歌」で先生と最期のお別れ! 全創価学会会員 本日午後9時、世界同時大合唱!
たしかにひゃっきまるは頭でっかちになってる面はあるかもな。 それにしても、体験持ってるのに、アンチ側なのはなぜ? そこがひゃっきまるの頭でっかち的こころかもしれんが。 時輔の言うとおり、本格的に信心に励んでみたら? たまには終日、題目しかしない休日があってもいいと思う。 これ以上できないと思えるほど、信心に活動に励めば、見えてくるものが あると思う。
267 :
ひゃっきまる :02/07/15 01:00 ID:EL/o35id
>>263 時輔さん
ああ、ひゃっきばるさんでしたか・・・。
時輔さんがなにやら形にならないが何か僕に言いたがっている、という雰囲気は
充分伝わりましたよ。おそらくそれは、時輔さん自身がいろいろな意味で迷いや悩
みを抱えているからであると思いますが(気に障った表現でしたらもうしわけありま
せん。僕自身も悩み、迷っている最中ですので)。
あと、名無しさんもちょっと見当はありますよ(^^)
しかし土下座とはちょっとおおごとですね。僕は以前どんなやりとりをしたかあまり
記憶にないのですが・・・。
時輔さんは充分創価学会側の立場のような気もしますが。学会の問題云々という
よりも、自分自身が学会をどう捉えていけばよいのか、という点で悩んでおられるご
様子。そしておそらく自分自身が強ければ、学会を肯定的に受け止められる、そう
考えているのではありませんか?
ここは毎日来るところではない、というのはおっしゃるとおりです。たいしてレスが
来ているわけでもないのに、とりあえず確認してしまうのは、きっとネット中毒という
やつなのでしょう。相手の反応が気になってしまうのですね。
それに、現実生活がうまくいっていないときほどネットにはまっている、ということも
僕自身に関しては当たっているようです。一種の現実逃避かもしれません。ただ、
学会に対する批判や疑問などは現実生活の中で議論することはほぼ不可能です
(もちろん幹部相手にやったことは何度かありますよ。その場合はいつも保留される
のですが)。
生の人間と心のふれあいをすることは大切ですね。もちろん職場の人間とも近所
の人とも必要ですし、学会員とも必要でしょう。学会に対する疑問を素直に口に出し
て、皆でその問題について考えていけたら尚よいでしょうが(それがなかなかでき
ないということも時輔さんの苦しみのひとつではありませんか?)
学会員とは、同じ信仰をしている、という意味の心の深い部分でのつながりがあ
ることは確かです。しかし、僕の場合はそれはかなり不完全な形でしかありません。
それよりも、「同じ理想をもっている」「同じ夢をもっている」という関係の人間の方が、
深く心でつながっているという感じがします。
268 :
ひゃっきまる :02/07/15 01:01 ID:EL/o35id
他人を心の底から「幸せにしたい」と感じることができるのは、すごいことだと思い ます。僕はそれはできません。学会員の、僕が尊敬する方々には、それができる人 がたくさんいます。それは創価学会の価値だと思います。ただ僕は、「一緒にいると 楽しい」「一緒に成長していけるのが喜ばしい」という感情は自然にもっています。僕 は無理はしないことに決めました。僕には僕の夢があります。それを見つめているこ とが、結果的に人を幸せにすることだと信じています。 僕は今でも勤行はやっていますし、会合にもでています。ただ、折伏はしません。 創価学会を確信もってよい団体であるとか、宗教として正しいとはいいきれませんか ら。折伏とは、相手の人生を背負うということです。創価学会の言う宗教活動よりも、 もっと普遍的な意味での宗教活動はあると思います。
269 :
ひゃっきまる :02/07/15 01:07 ID:HyWKnRJ4
>>266 何度も言うようですが、僕は学会の全てが悪いとも言いませんし、全てが良いとも
いいません。悪いと思うところは悪いといっていますし、良いと思うところは良いと言
う、それだけです。
ところで批判する人間に対して「あたまでっかち」という評価、あまりに一面すぎや
しませんか? 批判するのであれば理路整然としていなければならないのは当然
ですし、ソースも確かなものを使うのは必要なことです。
また、学会を批判することと信仰しないというのは別なのでは。それ以前に、なに
も宗教をやっていない人間も、それぞれで自分なりの人生観を持ち、人生を頑張っ
ていると思いますが。
270 :
266 :02/07/15 21:17 ID:???
>>269 「頭でっかち」という表現が気に障ったのなら謝るよ。ごめんね。
でもね、信心って理屈ではないと思う。理屈や理論を超えて初めて掴めるものが
あると思うよ。
ひゃっきまるは何か知らんが「研究職」だったよね。周りには理論、理屈を通り越して
結果出した人はいるだろう?
>>ひゃっきまるさん >気に障った表現でしたらもうしわけありません。 何も気に障る事はありません。 >僕自身も悩み、迷っている最中ですので)。 悩みのない人間などいませんから。 >あと、名無しさんもちょっと見当はありますよ(^^) お恥ずかしい。 >自分自身が学会をどう捉えていけばよいのか、という点で悩んでおられるご >様子。そしておそらく自分自身が強ければ、学会を肯定的に受け止められる、そう >考えているのではありませんか? そんなに難しくはありません。ちょっと疲れただけです。(笑) >それに、現実生活がうまくいっていないときほどネットにはまっている、ということも >僕自身に関しては当たっているようです。一種の現実逃避かもしれません。 これはその通りですね。ここに来る人達は弱い人達が多いかも知れません。
272 :
北条時輔 ◆iNmI6Dxs :02/07/15 23:05 ID:zg5/WKiz
>学会員とは、同じ信仰をしている、という意味の心の深い部分でのつながりがあ >ることは確かです。しかし、僕の場合はそれはかなり不完全な形でしかありません。 それは、大変失礼ですが「行」がともなっていないからですよね? >それよりも、「同じ理想をもっている」「同じ夢をもっている」という関係の人間の方が、 >深く心でつながっているという感じがします。 それはそれで良い事ですね。年をとるにつれ、どうしても「夢」が萎んできます。 (私はジジイではありません・・・笑) >他人を心の底から「幸せにしたい」と感じることができるのは、すごいことだと思い >ます。僕はそれはできません。学会員の、僕が尊敬する方々には、それができる人 >がたくさんいます。それは創価学会の価値だと思います。 普通の人であれば「幸せにしたい」と思えないのは自然ではありませんか。 ましてや自分が苦しくて信仰するワケですから。 そして貴方のおっしゃるとおり、それができる人が多くいる事が創価の価値でしょう。 貴方は貴方のおっしゃる創価の価値について理解されている様には思えません。 貴方が出来ないと思うのは、貴方が実践しようとしないだけの様に思われてなりません。 実践とは何か? それは「行」つまり「折伏」ですね。 「折伏」の為の「折伏」は私はあまり感心しませんが、意味の無い事ではありません。 >ただ僕は、「一緒にいると >楽しい」「一緒に成長していけるのが喜ばしい」という感情は自然にもっています。僕 >は無理はしないことに決めました。僕には僕の夢があります。それを見つめているこ >とが、結果的に人を幸せにすることだと信じています。 何故、自分の夢を実現する事、あるいは見つめる事が 人を幸せにする事なのかが私には良くわかりません。 気に障る部分があるかもしれませんがご容赦ください。
とりあえず来たって事で「age」ておこうか。 まだ読んでないからレスは後日だな。
同伴出勤〜♪ ナンチテ
275 :
ひゃっきまる :02/07/16 00:25 ID:j0QNYB8Y
>>270 ちょっと前回は乱暴な言い方だったかもしれませんね。ただ、僕があなたのような意見の方に
対して少々乱暴になってしまうのは、「あまりに典型的だということ」「多くの僕に対する思い込み
を当然として意見されていること」それゆえに「僕がこれまでそれこそ何度でもそれに対して繰り
返し説明してきたこと」だからです。
第一に、僕は「信心」のために理屈をこねているわけではありません。理屈によって信心を理
解しようなどとは考えていません。信心とはもっと感性的なものだと思いますし、また本来自分の
中や世の中にあるものを見つけ出していくようなものだと思っています。そこに知識など必要あり
ません。
文献や知識を用いるのは、創価学会の教義に「虚偽」があると思うので、それを訴えているわ
けです。誤りだとわかっているものを信じる人間がいますか? 例えば、あなたがオウム真理教
に入っているとして、どのようにしてその間違いを見抜くのでしょうか? 知識を用いるのはその
方策の一つとはなりませんか?
第二に、僕は理論や理屈を「一番に」重視しているわけではありません。それらは所詮道具で
しかありません。
第三に、当然のことながら、僕は創価学会が正しいという前提でこれらの話をしているわけで
はありません。あなたのいう「信心」とは即ち学会活動のことであると思われます(そうでないと
意味が通りませんから)。
276 :
ひゃっきまる :02/07/16 00:26 ID:j0QNYB8Y
時輔さん
>>271-272 丁寧なお返事ありがとうございます。概ね了解です。気になったところだけレスいたします。
>>学会員とは、同じ信仰をしている、という意味の心の深い部分でのつながりがあ
>>ることは確かです。しかし、僕の場合はそれはかなり不完全な形でしかありません。
>それは、大変失礼ですが「行」がともなっていないからですよね?
いいえ、違います。簡単に言えば、信じているもの、信仰のあり方が違うからです。
>貴方が出来ないと思うのは、貴方が実践しようとしないだけの様に思われてなりません。
>実践とは何か? それは「行」つまり「折伏」ですね。
>「折伏」の為の「折伏」は私はあまり感心しませんが、意味の無い事ではありません。
そこが創価学会の奇妙なロジックであると思うのですが。はじめから人の幸福を願うことはで
きない。しかし、それに対して行動を起こすことで、本当に人の幸せを願うことができる、という
わけですね。しかし、はじめは幸せを願ってもいないのに、さも願っているかのようなふりをしな
ければならないというわけでしょう? そして、人の幸せを願わなければならない、と自分に言
い聞かせるわけでしょう? そんなやり方があっている人もたまにはいるのかもしれません。し
かし僕は違います。
感情とはもっと自然な発露のはずです。また、何度もいうようですが僕は創価学会に入会さ
せることで相手を幸せにできるとは思っていません。実践とは何か? 僕の答えは、もっとずっ
と広義になります。「よりよく生きること」です。
>何故、自分の夢を実現する事、あるいは見つめる事が
>人を幸せにする事なのかが私には良くわかりません。
単純なことです。大工は大工の仕事に専念することが、また母は母の役割に専念すること
が、また大人は大人の本分を全うすることがそれぞれ大事だということです。その人がその
人の最もよい人生を歩むことが、全体にも利益を与えるだろうということです。
>274 うん? 元気してた? ナンチテを想うと夜も眠れず昼間寝て・・・ナンチテ。 でわ。
(^o^)/~~おやすミン♪
>>276 >はじめは幸せを願ってもいないのに、さも願っているかのようなふりをしな
>ければならないというわけでしょう? そして、人の幸せを願わなければならない、と自分に言
>い聞かせるわけでしょう?
フリをするのでないな。俺の場合は、入会し、題目を唱える中で、自分の中の変化を率直に語って
いった。「題目って、すっごいよ!」って。そして、対話している友人に「本流ができるように」
と祈っていく。ひゃっきまるの言うように「折伏」は自然の発露だよ。自分が変化していく過程に
まず自分が驚く。その驚きの歓喜を友人にもしゃべりたくなるんだよな。
「○○さん、最近すごく元気ですね。どうしたんですか?」
「いや、創価学会の信心のおかげなんですよ」
こんな会話でもいい。
280 :
ひゃっきまる :02/07/16 01:42 ID:jYV9nIe9
>>279 少なくとも八王子学生部では、自然な発露として折伏する気になる
のを待つのではなく、その気がなくとも「やれ!」という指導ですよ。ま
たこれは一地域だけではなく、大学校の卒業資格が本尊流布である
ことからも、学会の全体的な指針であることがわかりますね。学会の
指導では、折伏はやりたくなくともやらなければならないものだとする
ものです。
自分がやって良いものならば人にすすめたくなりますね。また、自分
自身で納得のいくものなら、自信をもって人に説明できますね。創価
学会はそうではないから、僕は折伏しないのだということが、まだおわ
かりにならないのでしょうか。
>>280 ひゃっきまる氏に同意。
> 大学校の卒業資格が本尊流布である〜
これだけで大学校を辞める理由になった。俺の「何か違う」が噴出した。
正直、大学校は人数減少という現証が起きている。
創大生はやっぱりダメ。廃校を望む。(学会員)
「大学校」と「大学」は違うぞ。
おふたりさんのことでしょ。たぶん。
285 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :02/07/16 04:23 ID:ruOtFQeX
アンチ創価学会の人は話し合う気がないのでしょうか? ってか、なぜアンチなのですか? 僕には創価学会に入ってる友人がいますが、創価学会に対して好きも嫌い もないですよ。やっぱり何かしら関係あるからじゃないんですか? やけに、詳しすぎますし。(真実かどうかは別として) 韓国人がどうのこうの言っているスレもありますが、むしろ議論する姿勢 の無いアンチの人達の方が、韓国人にダブって見えます。 学会の人のしつこく会合ってのに誘ってくるのもウザいけど、アンチの人 達は人間的に酷いですね。 学会員の友達に入会を誘われて、創価学会の本質的なものを知りたくてこ の板覗いたんですけど・・・ 皆、表面的なことやどうでもいいような細かい所ばっかしにこだわってい て僕の知りたかったことは見つかりませんでした。 それで、なぜアンチの人を批判しているかと言うと、僕が見てきた創価学 会の人達の感想は、「普通の人」だからです。 だいたい、学会員ってだけで、全員に聖人君子を求めてませんか? 学会員であると同じに、日本で生活する一般市民でもあるんですよ? 大きな組織になればなるほど、いろんな人がいます。 そのうちの1人が犯罪を犯して、それイコール創価学会は悪組織という意 見は中立的に見ている側としては、「何で?」ってなります。 オームのように組織で全体で犯罪を犯したなら解りますが。 何か,アンチの人達に日本人の汚い部分を見せられた気がします。 でも、創価学会に入会するのは今のところはやめときます。
286 :
32部 :02/07/16 04:36 ID:vp6iA98m
>>285 入会しなくてもその友人に「一緒に題目を上げよう!」って誘われてると思うから、一度真剣に祈ってみては。
信心がどんなものか、創価学会がどんなものか知りたければ、やっぱり実践するしかないとオレは思います。
別に学会員の様に全てをやる必要はないから、自分のやれる範囲で南妙法蓮華経を祈ってみるといいよ。
287 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :02/07/16 04:50 ID:g5zHFh02
>>285 おまえみたいなあまったれたガキは創価に入って洗脳してもらえ
既に社会に適合できない精神構造になってるぞ。
288 :
32部 :02/07/16 05:03 ID:vp6iA98m
>287
どうして
>>285 のカレを甘ったれだと思うん?
>>286 >別に学会員の様に全てをやる必要はないから、自分のやれる範囲で南妙法蓮華経を祈ってみるといいよ。
やりたい人は自由にやったらいいが、何の効果も無いよ。
時間の無駄ってだけだね。
と、私は思う。
290 :
聖教分離名無しさん :02/07/16 09:50 ID:VAby+Snw
>>285 > オームのように組織で全体で犯罪を犯したなら解りますが。
創価学会は組織全体で犯罪を犯したことがあるのですよ。
特に有名なのが 出版妨害事件 と 電話盗聴事件 です。
創価学会は 出版妨害事件、電話盗聴事件 という犯罪を犯しました。
これは犯罪です。創価学会は犯罪を犯したのです。
だから創価学会は、世間から白い目で見られるのです。
創価学会員が、いつまでも自分に甘え、創価学会の犯した
犯罪から目を反らし続けるのなら、何度でも指摘させてもらいます。
291 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :02/07/16 10:18 ID:injLGFP5
292 :
Sb ◆euHcFBHE :02/07/16 10:41 ID:xJ9zmSbl
>>285 仏法、法華経を道具に
広宣流布と称して、日本の権力のいたるところし侵食し
犯罪行為をしても、もみつぶし
膝を合わせてていっても、大人数で一人を折伏
それがすべて絶対正義の行動だから許せないのですよ
あなたはオウムがなぜ組織犯罪を犯したか分かってますか?
彼らもまた、絶対正義だったからです。
>>275 ひゃっきまるさん
横レスになってしまいますが・・・
>第一に、僕は「信心」のために理屈をこねているわけではありません。
>理屈によって信心を理解しようなどとは考えていません。
それはそれで結構な事だと思います。つまり宗教学者という事でよろしいですか?
>信心とはもっと感性的なものだと思いますし、また本来自分の
>中や世の中にあるものを見つけ出していくようなものだと思っています。
>そこに知識など必要ありません。
ここでいう「感性的なもの」とは日常的な生活における「欲求」の様なもので
よろしいのでしょうか? 知識は多少は必要でしょう。(御書など)
>文献や知識を用いるのは、創価学会の教義に「虚偽」があると思うので、それを訴えているわ
>けです。誤りだとわかっているものを信じる人間がいますか? 例えば、あなたがオウム真理教
>に入っているとして、どのようにしてその間違いを見抜くのでしょうか?
教義上の間違いを見抜く事が第一目的であるとするならば、
それは宗教学者であり信仰者とは言えないと思います。
では反対に教義上の正しさを見抜く事を目的として、
どの様にして正しさを証明するのでしょうか?
そしてその様な宗教は存在するのでしょうか?
>>275 ひゃっきまるさん
>知識を用いるのはその方策の一つとはなりませんか?
そうですね。一部分になりますね。
>第二に、僕は理論や理屈を「一番に」重視しているわけではありません。
>それらは所詮道具でしかありません。
では貴方は何を「一番に」重視しているのでしょうか?
>第三に、当然のことながら、僕は創価学会が正しいという前提でこれらの話をしているわけで
>はありません。あなたのいう「信心」とは即ち学会活動のことであると思われます(そうでないと
>意味が通りませんから)。
「信心」とは学会活動の「行為自体」を指すのではありません。
「行為自体」は信心の目的の「手段」です。
>>276 >いいえ、違います。簡単に言えば、信じているもの、信仰のあり方が違うからです。
「信仰のあり方」というより貴方は何処の宗派を信仰しているのですか?
創価のご本尊に勤行をする事は創価の信仰の一部分ですよね?
>そこが創価学会の奇妙なロジックであると思うのですが。はじめから人の幸福を願うことはで
>きない。しかし、それに対して行動を起こすことで、本当に人の幸せを願うことができる、という
>わけですね。
そうです。行動を起こす事の出来る環境、それが貴方のおっしゃる「創価の価値」ですね。
>>276 ひゃっきまるさん
>しかし、はじめは幸せを願ってもいないのに、さも願っているかのようなふりをしな
>ければならないというわけでしょう? そして、人の幸せを願わなければならない、と自分に言
>い聞かせるわけでしょう?
それは人によりけりです・・・が、
貴方の彼女が苦しんで悩んでいれば、
自発的に彼女を苦痛から救ってあげたいとご本尊に願うでしょう。
そこに「義務」が発生する筈がありません。
ここで貴方のおっしゃる「創価の価値」とは何か?
具体的にわかりやすく例をあげれば、貴方の場合であれば、
創価班大学校や牙城会大学校などでしょう。
そこに行けば「折伏」という「目標」を課せられます。
「折伏」を達成する為には、悩んでいる自分の友人を探します。
普通はなかなか居ません。
そして、その為にまずは題目をあげます。
そしてその結果、悩んでいる友人が見つかれば、
それはそれで題目をあげた「結果」として
貴方は題目を信じる事ができる事が出来るかも知れません。
そうして題目の「確信」を得れば、悩んでいる友人にも、
題目をあげる事を薦める事が出来る筈です。
そうなれば友人にご本尊を薦めるのも自然ですよね。
取っ掛かりはどうあれ、これが「創価の価値」ではありませんか?
>>276 ひゃっきまるさん
>感情とはもっと自然な発露のはずです。また、何度もいうようですが僕は創価学会に入会さ
>せることで相手を幸せにできるとは思っていません。実践とは何か? 僕の答えは、もっとずっ
>と広義になります。「よりよく生きること」です。
「入会させる事」だけでは相手を幸せには出来ません。
貴方の仰る「実践」=「よりよく生きること」とは普通の事ではありませんか?
>>何故、自分の夢を実現する事、あるいは見つめる事が
>>人を幸せにする事なのかが私には良くわかりません。
>単純なことです。大工は大工の仕事に専念することが、また母は母の役割に専念することが、
>また大人は大人の本分を全うすることがそれぞれ大事だということです。その人がその
>人の最もよい人生を歩むことが、全体にも利益を与えるだろうということです。
それは違うと思います。
大工は大工の仕事に「専念する事」が誰の幸せになるのですか?
母は母の役割に「専念する事」が誰の幸せになるのですか?
母が母の役割に「専念する事」が夢ですか? 少し大げさな気がするのですが。
母と子が居たとして子がガンで苦しんでいるとします。
母は家事などをしているだけで子に幸せにできますか?
子はガンによる苦痛で幸せを実感できないのが普通ではありませんか?
297 :
北条時輔 ◆iNmI6Dxs :02/07/16 22:55 ID:KSDLxmbl
>>281 Bartholomew von Roach さん
>これだけで大学校を辞める理由になった
何故、入校されたのですか?
>>287 >おまえみたいなあまったれたガキは創価に入って洗脳してもらえ
>既に社会に適合できない精神構造になってるぞ。
ひゃっきまるさんは新卒の社会人の筈です。
>>286 32部さん
それは新聞啓蒙の数字ですか?
>>297 そのときの流れですな。ハマってた頃だし。
嫌でもなんでも、信行学の実践で功徳が出るわけだから、やってみないことには 体験することもできないじゃないか。 友人に仏法のことを話したことない、折伏したことない学会員が、「この信仰は駄目だ。」 と言ったところで、信憑性がないからねぇ。まともにやってないってことだから。
300 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :02/07/17 01:09 ID:HT+N9RiJ
301 :
f :02/07/17 09:56 ID:???
インポの方は、ご相談下さい。 創価クリニック 院長
302 :
f :02/07/17 09:57 ID:???
ちんこ刺さってまんこ(まんこ) 三つ並んでまんこ(まんこ) マン汁塗られてまんこ(まんこ) マンコ3兄弟 一番上がクリトリス(クリトリス) 一番下がアナル(アナル) 間に挟まれ膣(膣) マンコ3兄弟 関西だったらおめこ(おめこ) 九州だったらぼぼ(ぼぼ) 日本全国まんこまんこ まんこ3兄弟 まんこまんこまんこまんこ まんこ3きょうだい まんこ3きょうだい まんこ3きょうだい まんこ!
303 :
ひゃっきまる :02/07/17 21:30 ID:opNz0BuR
時輔さん
>>293 >つまり宗教学者という事でよろしいですか?
意味がわかりません。もう少し詳しく「つまり」の理由を教えてください。
蛇足ですが、「宗教学者」という言葉を職業差別的に使っておられるの
なら、やめた方がよいのでは。学者には学者の役割と本文があります
し、またそれによって人間性を否定される筋合いのものでもないはず
です。
>ここでいう「感性的なもの」とは日常的な生活における「欲求」の様なもので
>よろしいのでしょうか? 知識は多少は必要でしょう。(御書など)
欲求ではあまりに狭義すぎます。しかし感性の一つではあるでしょう
ね。僕が最も大切だと思う感性は、「感謝の気持ち」「生きていること
の喜び」「存在自体に対しての尊さ」といった類のものです。
釈尊が誰にたよらずとも自ら悟りを開いたように、信心には本来は
知識は必要ないものと考えます(お前は釈尊なのか、とあげあしとり
はとらないでくださいね)。しかし先人の考えや言葉によっても触発
されることはあると思います。ただし、それをそのまま信じる、あるい
は信じるべきものとしてとらえる(これを原理主義といいます)のでは
駄目だと思います。
304 :
ひゃっきまる :02/07/17 21:31 ID:opNz0BuR
>教義上の間違いを見抜く事が第一目的であるとするならば、 >それは宗教学者であり信仰者とは言えないと思います。 そんなものを第一目的にする人などいません(宗教学者にしても)。 あまりに侮辱的な言葉と思います。目的は正しい信仰を求める故では ないですか? また、信仰者がただ信じることしかできないのであれ ばオウムの信者は決してその信仰から抜けることはできないのですね。 >では反対に教義上の正しさを見抜く事を目的として、 >どの様にして正しさを証明するのでしょうか? >そしてその様な宗教は存在するのでしょうか? 誤った宗教について指摘することはできます。しかしこれが絶対唯一 であると言うことなどできません。それは例えば、ある科学理論が間違っ ていることを証明することは容易でもそれが絶対に正しいとは言い切れ ないことと全く同じことです。 僕は創価学会が「間違っている」ということを主張しはしますが、自分の 宗教観や信仰が絶対正しいとは言いません。〜と思う、という言い方は しますが。それに納得するかしないかは個人の判断です。
305 :
ひゃっきまる :02/07/17 21:32 ID:opNz0BuR
>>294 >では貴方は何を「一番に」重視しているのでしょうか?
僕は、理論や理屈を使うからといって、それが一番大事だと思っている
わけではない、という当然のことを言ったのみです。毎朝同じ時間に起き
る人がいたとして、その人がきちんとしている、という評価ができたとして
も、その人が毎朝同じ時間におきることが人生の目的であり、一番重要
であると考えているわけがありませんね? しかし学会員の方はしばしば
そのような決め付けで人を判断するようです。
>「信心」とは学会活動の「行為自体」を指すのではありません。
>「行為自体」は信心の目的の「手段」です。
そうです。手段ですね。僕はその手段が間違っているという主張をして
いるのに、それが正しいという前提で話をされても困る、ということを言い
たかったのです。
306 :
ひゃっきまる :02/07/17 21:32 ID:opNz0BuR
>「信仰のあり方」というより貴方は何処の宗派を信仰しているのですか? >創価のご本尊に勤行をする事は創価の信仰の一部分ですよね? まず第一に、そのような考え方自体が創価学会の教義の一部であると いうことを自覚してください。つまり、どこかに唯一正しい信仰を行う「団体」 があり、それ以外の団体は間違っている、という考え方です。顕著な例を あげると、日蓮正宗の「血脈」の理論などはその典型です。同じ曼荼羅を 用いても、血脈が流れていない曼荼羅には効力がない、とする考え方です。 もちろんこういった「唯一性」を主張する宗教は非常に多いのですが、そ もそも仏教とはそういった宗教とは対極に位置するものだと僕は考えてい ます。僕は属する団体にこだわり、真の教えをもつ団体を捜し求めようなど とは思いません。「正しさ」を探す場所は、自分の心に他なりませんから。 そこで、正しいと思うことは正しいと、間違っていると思うことは間違ってい ると言うだけです。 僕のような態度が学会の規律に反すると言うのなら脱会するのも仕方あ りませんが、僕の正直なところを話しても脱会を促されませんし、僕も脱会 する理由もないのでまだ在籍しています。
307 :
ひゃっきまる :02/07/17 21:33 ID:opNz0BuR
>それは人によりけりです・・・が、 >貴方の彼女が苦しんで悩んでいれば、 >自発的に彼女を苦痛から救ってあげたいとご本尊に願うでしょう。 >そこに「義務」が発生する筈がありません。 僕の言いたいことは、自発的で自然な感情ならばなんの問題もないが、 創価学会の指導は無理やりにでも「そうしなければならない」とするので、 そこに無理、極端に言えば洗脳の要素、自分に嘘をつきながら活動を続け る要素、そういったものが生じるだろう、ということです。今の創価学会の方 針はそういった人間を産むものであると指摘しました。 >「折伏」を達成する為には、悩んでいる自分の友人を探します。〜 何度もいうようですが、これらは創価学会が正しいという前提での話ですよね? >貴方の仰る「実践」=「よりよく生きること」とは普通の事ではありませんか? そのとおりです。仏教とはもっとずっと「普通のこと」だと思います。
308 :
ひゃっきまる :02/07/17 21:34 ID:opNz0BuR
>それは違うと思います。 >大工は大工の仕事に「専念する事」が誰の幸せになるのですか? >母は母の役割に「専念する事」が誰の幸せになるのですか? >母が母の役割に「専念する事」が夢ですか? 少し大げさな気がするのですが。 >母と子が居たとして子がガンで苦しんでいるとします。 >母は家事などをしているだけで子に幸せにできますか? >子はガンによる苦痛で幸せを実感できないのが普通ではありませんか? これは個人の主義主張の問題になってきますが、誤解だけといておきたいと思 います。大工は社会の中で、建築をすること、という役割を与えられています。彼 が幸せにするのは彼が家を建てた持ち主です。しかし持ち主だけではなく、大工 という役割があることによって社会がうまくまわっていけるのですから、社会全体 にも利益を与えることになります。 母というのは子供に対しての生物的な意味を含めた役割です。即ち、孕み、産み 、育てるということも含まれています。母が幸せにするのは子供です。しかし、母が いなければ人類は存続できませんし、愛情というものも存在しなくなるでしょう。そ の意味で、母が関わっているのは自分の子供だけではありません。 これは人間の体の働きに例えるとわかりよいかもしれません。目とは体のほんの 部分にすぎません。しかし、目がなければ体全体が困ることになります。
309 :
ひゃっきまる :02/07/17 21:35 ID:opNz0BuR
ちっとも「おおげさ」とは思いませんよ! それぞれがそれぞれの与えられた役割を まっとうすることが、どんなに難しいことか、想像できるでしょうか。時輔さんは学生で あるか、学生の時代を過ごしたはずですが、「学生の本分は勉強」であると先生のご 指導があったと思います。それをほんとうに自信をもってまっとうできたと言い切れる でしょうか。また、今お仕事をされているのなら、その仕事を本当にやりきっているで しょうか。また、最も難しいのが「親子」の問題かもしれません。親が親の役割をまっ とうできていないことが多くの悲劇を生んでいます。学会員にとっては「師弟」の役割 という言葉を出せばその重さが伝わるでしょうか。職業であれば、政治家、医者、教 師など、それぞれがそれぞれの役割をまっとうし専念することがいかに大事なことか わかるでしょう。 僕が「夢」と表現したのは、それが僕がこの世に生まれてきた使命であると自覚し ているからです。集約すれば、「使命をまっとうすること」が大事ということです。それ がよりよく生きるということです。
310 :
:02/07/17 21:42 ID:???
長文の多さに基地外を感じる...
長い・・・後日。
312 :
Sb ◆euHcFBHE :02/07/18 10:19 ID:0C/F/n3j
>>310 そうやって正論から逃れようとする創価
聖教や、人間革命等以外からの考え方に接することができなくなっているように思われる
MC状態だと思う、MCを利用している創価には嫌悪感を覚える
313 :
仕置人 :02/07/18 10:42 ID:6Diq72BQ
証拠つきつけりゃ訳の分からん事言って逃げるのは悪い癖だぞ
>>280 >少なくとも八王子学生部では、自然な発露として折伏する気になる
>のを待つのではなく、その気がなくとも「やれ!」という指導ですよ。
つまり、強制っぽいのがイヤだと。背中を押してもらうのも大事なことだと思うがね。
去年さ、サークルの夏合宿で海に行ったんだけど、俺、泳ぎに自信がないから、副幹事長の
くせに水着も用意していかないで、みんなが海で泳いでる間、私服を着て浜辺で幹事長と話し
してたんだよね。そしたら、同期数人が海から上がってきて、俺は引っ張られて海に私服のまま
投げられたんだよ。パンツの中までずぶ濡れ。ムッとしたけど、それから吹っ切れてトランクス
でみんなと泳いで遊んだ。すんごい楽しかったよ。海に俺を投げ入れてくれた同期に感謝した。
俺は狭かったことに気がついた。強引でも、強制的に感じたとしても、背中押されて前に進んでみると
よかったことって少なくないはずだよ。
ひゃっきまるは長い。 内容ではなく臭い長文に反感を持つ。
>223
>生姜子が学会が正しいという前提からしか思考できないことはよくわかったにょ。
>それを盲信とか狂信とかいうにょ。
お前は物事何を前提として話すんだ? 演繹は?
>れふぇりぃは誰にょ?
いつから挑戦者を辞めたんだ?
いつでも勝ち負けを決めるのは自分とソノ相手だぜ。
>・生姜子が2chでカキコしてる理由(これは興味あるにょ)
さぁね。
>226
>私自身は「どんな議論にも“それなりの”意味があるもの」と思ってる。
無論意味はあるぜ。
>「私」が「私のため」になると言ってもその考えは変わらんかね?
そんな事は無い。ただ「知識」として為になるダケなら、
必要は無いな。
>一つの哲学を会得している(キミがいうところのだよ←コレ大事)
>人以外の人の人生は人生として認めないということ? 〜
> 〜この質問にも即答だよね?
つーか、どう解釈したんだ? コレは全然的外れなカキコだと思うが。
>>237 ( ⌒ ∇⌒) ・・・。
・・・届いてないよ? (;_;)シュン
>>246 >ひゃっきまるが論破しちまったんだよ
どのヘンがだ?
後は・・・。な、長ぇ。 適当にオチるか。
318 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :02/07/21 02:14 ID:Y2K+SwGc
テスト
319 :
788 :02/07/21 02:17 ID:JeiuW5cQ
>滝山さん
レス遅くなってスミマセン。
>>260 >変化する価値観のことを仏教は出発点においてちゃんと認識しているということです。
???
そもそもこれは「私たち(私や乾さんなど現代人)が『仏教』を語るときに『変化する社会性や変化する価値観』を無視できない」という話であったはずです。
それがいつ「『仏教』が『変化する社会性や変化する価値観』を無視していない」という話に変わったのですか?
それとも仏教はその教義で仏法の普遍性を説いているから普遍的とでもいうのでしょうか?
これって公式Aを使って証明された公式Bで、公式Aを証明するようなもんじゃないでしょうか?
(続き)
>生まれてきた人はふたたび「苦」の世界へ戻ってきた人と「規定」されているのです。
その「規定」を証明する方法は?
などと野暮な事は聞きませんが、
つまり、今現在「生死を『苦』と捉えていない人」も
やがてそれを知る日が来る、ということですか?
それともその人が考えていない、感じていないだけで、
生死は人にとって《絶対的な苦》であるということですか?
「初めに『規定』ありき」との説明では、
なんとなく説得力に欠けるような気がするのですが。
・
>相互依存という関係からは「唯一神」もまた人間との相互依存の中からしか生じない、
>という発想が可能であるかと思います。
>その場合、「唯一神」の実体性は否定されるでしょう。
少なくともイスラムで言うところの『アッラー』は、
人間との相互依存の中から生まれたものではなく、
「唯一絶対」に存在する神なのでは?
乾さん流に言うと、そう『規定』されているのでは?
320 :
788 :02/07/21 02:18 ID:JeiuW5cQ
>スカちん
>>316 >無論意味はあるぜ。
では何故
>だからこそ、その「答え」を書く事は既に「空論」だぜ。
>意味無いだろ? 「お前にとって。」
などと書いた?
というより
・議論がキミにとって「空論」かどうか、意味があるかどうかを決めるのはキミ自身。
・同様に、
・議論が私にとって「空論」かどうか、意味があるかどうかを決めるのは私自身、では?
・だとしたら、この場合、
・『意味無いだろ? 「お前にとって。」』
・ではなく、
・『意味無いだろ? 「オレにとって。」』
・と書いてくるならわかるが。
というわたしのカキコに対する御見解は?
321 :
788 :02/07/21 02:19 ID:JeiuW5cQ
>そんな事は無い。ただ「知識」として為になるダケなら、 >必要は無いな。 なんで「知識」として為になる“ダケ” と決めつけるの? 百歩譲ってそうであるとしても、 何故「必要無い」の? 理由は? >つーか、どう解釈したんだ? コレは全然的外れなカキコだと思うが。 どこがどう的外れなんだ?詳しく言ってね。 つーか、キミこそどう解釈したんだ? 私が「『信心』と『人生』を同列に語る上で僭越さを感じたらいかが?」と書いた時の 『人生』を? それと言っておくが私は『人生』の先輩、後輩を云々したが、 『人生の達人』を云々した覚えはない。
323 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :02/07/21 02:57 ID:n/tGUxpg
聖教新聞は巣晴らしい世界一の新聞読まない奴は馬鹿者です。
おおっ!スカちゃんきてんじゃん!久々に見た〜! 新聞配達がなくなっても新聞の時間に起きてしまう 「ごしゃ」でした。んでは、また、明日!
さてあげておくか。
( ⌒ ∇⌒) のは〜( ⌒ ∇⌒) のは〜( ⌒ ∇⌒) のは〜( ⌒ ∇⌒) のは〜 ( ⌒ ∇⌒) のは〜( ⌒ ∇⌒) のは〜( ⌒ ∇⌒) のは〜( ⌒ ∇⌒) のは〜
327 :
波木井坊竜尊@日蓮宗葵講 ◆tfDpfKU. :02/07/21 23:07 ID:cpeyKbXI
なんでIDが???なんだよ。>スカプロ
329 :
いんたれす@まじ子 ◆19Ec7gS. :02/07/21 23:52 ID:oPHrZ5rd
あ、あげていいのん?あげって久しぶりでドキドキ。 ここんとこ 「あぼーんか削除によるエラー」 でカキコできなかったんよ。 >316 お久しゅう 姜子タン♪ 姜子タン に・は・ 送って無いものぉ〜(笑)。。。(絡んでくれてアリガトさん♪) 暑中見舞いメールとか欲しいお人柄でも無かろうに。 絶対 「欲しい?」 と聞いたら 「いや別に。」 とか言われそうだモン とりあえず聞いてみるテスト。 「欲しい?」 >324 きゃお!ごしゃたん発見!! 後継ぎさんができたんですね。 配達歴何年?ともあれ、お疲れ様です。そして、ありがとうございました。
330 :
乾闥婆 :02/07/22 00:00 ID:0DM8oSCq
>>319 ああ、それ、私です。滝山さん、入ってくれてもいいけれど。
>そもそもこれは「私たち(私や乾さんなど現代人)が『仏教』を語るときに
『変化する社会性や変化する価値観』を無視できない」という話であったはずです。
??? だから無視していない、という答えですよね?
私も無視していないし、そもそも仏教はそこが出発点なのだから無視しようがない。
苦については、人間の存在形態を縁起と捉え、その形態自体を苦と感じ、
またその同じ形態を如実に見ることで苦を脱するのですから、
まあ、確かに、そのような感じ方をしないという人があるなら、
話はそこまででしょうね。
といいますか、死という苦までも歓喜を持って迎えられるなら、
その人はもう、普通と違うのではないでしょうか。
悟りというものがあるのなら、それは一つのかたちでしょうね。
唯一神については確かにそれは一つの見解であり規定でしょう。
そしてそれはどう言おうと相互依存・相互限定の中でしか生じない、という
主張ができる段階で、それは普遍性のあるテーマかと。
つまり、いや、自立した存在としての唯一神が世界を作ったのだ、
という主張も我々仏教徒に対してできうるのであれば、
それも一つの普遍性のあるテーマかと。
331 :
788 :02/07/23 03:16 ID:2OCpgM0R
>滝山さん
>>322 スミマセン、滝山さんじゃなくて乾さんへでしたね。
ただ、言い訳をさせてもらうと、
もともと私と乾さんの間で『仏教の普遍性』の話をしているところに滝山さんがレスをしてきたものだから…。
しかも、考えてみれば、私と乾さんは『仏教を語る上での普遍性』を話していたと思うのですが、
何故か滝山さんのレスから『仏教が持つ普遍性』の話になってしまい、
今回のような噛みあわない議論になってしまった気がします。
(書き込みを読み返して下さい)
ということで、
>乾さん
>>330 『仏教がその教義において仏法の普遍性を説いている』ことと、
『私たちが仏教の普遍性をどう検証できるか』は別のことだと思います。
たとえば乾さんはどのような現実をもってして『仏教の普遍性』を感じるのですか?
「教典にそう『規定』してある」という答えはナシですよ。
332 :
788 :02/07/23 03:17 ID:2OCpgM0R
(続き) >といいますか、死という苦までも歓喜を持って迎えられるなら、 ここがね、ここの処がどうもわからないんですよ。 「死という苦」と言った場合の「苦」とは、 一体誰にとっての「苦」なのですか? 人間だれしも「自分以外の死(この世からの肉体の消滅という意味の)」は『体験』できますが、 「自分自身の死」は『体験』できませんよね。 (ちなみに私は『幽体離脱』といった類いの話は全く信じていません) 肉親や身近な人の死は私に「苦」をもたらしますが、 私自身の死は果たして私に「苦」をもたらすのでしょうか? しいて言うなら「死ぬかもしれないという思いが不安や恐怖をもたらす」のであって、 実際に死を迎えた瞬間は、もうそれは私自身の現実ではなくなっているのではないでしょうか。 また、死を歓喜を持って迎えられるかどうかはわかりませんが、 ほとんどの人は「人間にとって死は不可避なるもの」と捉えているのではないでしょうか。 つまり、「死」はそれ以上でもそれ以下でもない、人間であればいつかはそうなる一つの現象である。だから「苦」でもなければ「楽」でもない、自然の営みのほんの一部でしかない。 そう考える人がいても不思議ではないと思います。 「人間、死ぬまで生きている」とでもいいましょうか。 ただそこにある現実をそのまま受容するしかない、みたいな。
333 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :02/07/23 11:18 ID:mOX0oEqk
334 :
乾闥婆 :02/07/23 22:44 ID:HSty4wHX
>>331 そろそろコテハンを名乗られては・・・
>『仏教を語る上での普遍性』
>『仏教が持つ普遍性』
上は仏教を語る上でのルールのようなものについて言っているのですか。
下については縁起という話をこれまでも強調してきたわけですね。
そして上についても縁起という視点が他の見解に対して切り込み得るので、
議論が成立する点で普遍性を認められるのではないか、と言ってきました。
335 :
乾闥婆 :02/07/23 22:45 ID:HSty4wHX
>>332 >肉親や身近な人の死は私に「苦」をもたらしますが、
これは四苦八苦のうちの愛別離苦に含まれると思います。
>しいて言うなら「死ぬかもしれないという思いが不安や恐怖をもたらす」のであって、
「死という苦」とはそのことではないのでしょうか。
>「死」はそれ以上でもそれ以下でもない、人間であればいつかはそうなる一つの現象である。
だから「苦」でもなければ「楽」でもない、自然の営みのほんの一部でしかない。
そのような認識に達することは仏法の一つの到達点であると思います。
そしてそのような認識を、どのような状況下にあっても持ち続けるということは、
人間にとってなかなか難しいことなのですね。
だから行法をともなった宗教として仏教はあるわけです。
しかし、ケンダツバって良く細かいこと知ってるよなぁ。感心です。
337 :
788 :02/07/24 18:19 ID:Ym8uSFtO
>乾さん
>>334 >そろそろコテハンを名乗られては・・・
「788」というコテハンではダメですか?(笑)
>そして上についても縁起という視点が他の見解に対して切り込み得るので、
>議論が成立する点で普遍性を認められるのではないか、と言ってきました。
「切り込み得る」とは「『唯一絶対神』の存在すら縁起によって解釈が可能」とする見解の事でしょうか?
私にはそれがイスラムやキリストの見解に切り込んでいるとは思えないのですが。
しかし仮にそうだとして、
たとえば聖書の一説に「信じる者のみ救われる」という言葉がありますよね。
これは解釈がさまざまですが、
目的語を限定していないことである意味「普遍性をもった」言葉に成りえていると思うのです。
個人的には「縁起による視点」と同じくらいに。
つまり、すべては『生ある存在』『思考する存在』としての人間が、
その『生』を、その『思考』をどう捉えるかによって、
その人の『信じるもの』が変わってくるような気がするのです。
338 :
788 :02/07/24 18:21 ID:Ym8uSFtO
(続き) 私は以前にある人への書き込みで「人の数だけ哲学がある」というような事を言ったことがありますが、 宗教とはその哲学を形成する一助となるもので、決してその人の哲学そのものに成り得るものではないと思っています。 もちろん、自分の哲学は自身の信じる宗教(イスラムやキリストや日蓮仏法をはじめとする仏教)そのものと同化していると信じきっている人もいますが。 (いや信じ切ることが大切なんだと言われそうですが) この辺はこの議論の最初に出て来た「時代を越えた言葉の解釈云々」の話にも繋がるところなんですが、 本人が思う程その人は果たして本当に宗教を、教義を会得しているか、ということなのです。 と、こう書いていても、すでに私と乾さんの間では「教義の会得」という言葉を巡って温度差が生じているのでは?と感じます。 それは私の言葉の拙さもあるのですが。 個人的には、 「まだまだ修行中の身です」という僧侶の言葉は信じられるが、 「私は解脱した」という僧侶の言葉は信じられない、とでもいいましょうか。 まあ、でも本人が解脱したと信じる事自体は誰にも止められませんが。 >「死という苦」とはそのことではないのでしょうか。 ではお聞きしたいのですが、 生後一日で不幸にも亡くなってしまった赤ん坊にとっての「死という苦」とは?
339 :
788 :02/07/24 18:36 ID:bNI9ClqY
>スカちん もうそろそろレスちょーだいナ。
340 :
乾闥婆 :02/07/24 23:41 ID:7f/XuqUb
>>337 >「788」というコテハンではダメですか?(笑)
数字は無味乾燥だな、と感じただけです。(笑)
>たとえば聖書の一説に「信じる者のみ救われる」という言葉がありますよね。
これは解釈がさまざまですが、
目的語を限定していないことである意味「普遍性をもった」言葉に成りえていると思うのです。
手元に聖書はありますので何の書の何章何節か教えていただけますか。
その前後の文脈を読んでみたいと思います。
基本的には「主を信じる」「福音を信じる」と目的語はあると思います。
ただその目的語が固有名でない点に「普遍性」を感じはします。
神を実体視しない、という部分では縁起説に通じるものを感じさえします。
341 :
乾闥婆 :02/07/24 23:43 ID:7f/XuqUb
>>338 「788」さんとのズレは確かにあり、そのズレがとても見定め難いようです。
宗教は哲学とは違いますから、最終的には「信じる」という飛躍を必要とします。
その飛躍のないものが、宗教ではなく哲学なのでしょう。
私はそのようにこの両者を区別しています。
>>337 の流れで言うならば、「主を信じる」とは正確には「主に信じる」なのですね。
それは生きていく上での基盤を「主」に据える、という意味になるはずです。
創価学会も同じです。法華経に、日蓮の生き方に、人生の基盤を据える、ということです。
それが宗教です。
「時代を越えた言葉の解釈云々」という表現に、
宗教の現在に生きる意味を否定的・限定的に捉えるニュアンスが含められているのだとすれば、
そこが私と「788」さんの決定的な「温度差」となってあらわれているのかも知れません。
342 :
乾闥婆 :02/07/24 23:44 ID:7f/XuqUb
>>338 >ではお聞きしたいのですが、
生後一日で不幸にも亡くなってしまった赤ん坊にとっての「死という苦」とは?
これに対する私の答えはかなり自分流のものとなると思います。ご了承ください。
まず、縁起を形成することを私は仏教上の生きることと考えます。
縁起を形成し得なかった者は生物学的に存在し得たと言えても、
有情としては形成され得なかった者と考えます。
五蘊(色・受・想・行・識)の形態が整わない者は、そもそも苦を感じる能力が、
五蘊の整っている人間とは違うわけで、同列には考えられない。
むしろそこでは縁する者を意識できる親やそのまわりの人たちの苦が、問題とされるでしょう。
生後一日の赤ん坊には信仰を持つこともできないし、おそらくその必要もないのですから。
仏教の教説は、生物的存在としての人間よりも、社会的存在としての人間に、
重点は置かれているのだと思います。
343 :
乾闥婆 :02/07/24 23:47 ID:7f/XuqUb
344 :
61 :02/07/24 23:48 ID:???
乾闥婆さんて、学会シンパ?アンチ?学会員?どんな立場?
345 :
ひゃっきまる :02/07/25 01:06 ID:uNI/lbag
二酸化ダンディさん
>>314 もう一度よくカキコを読んで、また僕のカキコに対してのみレスしてくださいね(^^)
>>315 まあまあ。
>788さん ガンダルヴァさん
横レスですが、「死苦」というのは字義どおり捉えれば「死ぬという現象」を指すと思
われますが、個人的には、誰しも必ず死ぬ運命をもっていることに対するものであると
思っています。だから乾さんのおっしゃる解釈でよいと思います。生まれたばかりの赤
ん坊にそれがあるかはどうにもわかりませんが、どのような生物も本能として死に抵抗
するでしょう。ある程度成長した人間の場合は「我」があるぶん、その執着もすさまじい
ものがあるでしょうね。
788さんの哲学観、宗教観、面白く拝見させていただきました。僕が宗教と哲学で決
定的に違うと思う部分は、「帰依」ではないかと思っています。例えば仏教では「仏法
僧」の三宝に帰依するということになっていますが、純粋な意味での哲学にはそのよ
うなものはないと思います(もしあれば、それは哲学を超えて宗教的ということになり
ましょう)。ですから、
>本人が思う程その人は果たして本当に宗教を、教義を会得しているか、ということなのです。
と、788さんが思うのは無理ないことなのです。宗教には教義を会得しているかどう
かは実は問題ではなく、その内容は理解できなくともそれに帰依することが大事なの
ですから。
346 :
ひゃっきまる :02/07/25 01:06 ID:uNI/lbag
ところで以前から乾さんのカキコにはある種の訝しさとでもいうものを感じています。 そのHNからも推察できますが、大分仏教についてはお詳しいようです。また、それも 日蓮仏法や学会教学の視点からではなく、最初期の頃の仏教の視点から述べたもの が目立つようです。しかし、大乗仏教の三蔵なども無視してはおらず、むしろ原始仏教 と大乗仏教が矛盾のないひとつながりのものであるかのように認識されているのかな? と思ったりします。 僕は個人的には、原始仏教の思想と大乗仏教の思想は相容れないものであると感 じています。その根本的な部分は現世否定と現世肯定でありましょう。例えば現在最 も釈尊の直説に近いとされているスッタニパータには、しつこいくらいに現世否定の思 想がでてきます。もちろんそれを下地にした大乗仏教がその世界観を否定することは できないので、うまくロジックの転換をしています。しかしこれらは、原始仏教の考え方 からみれば「いいわけ」とみなされてもしかたのないものでしょう。 スッタニパータやダンマパダに語られる内容は、非常に素朴ではあるけれども、内容 としては厳しいものが多いと思います。禁欲的生活が仏教の本意ではないにしても、出 家とは家をもたないことであるし、乞食のみによって生活することも、愛欲を禁じることも 現代人にとっては充分にストイックです。しかし、ほんとうに現世否定の思想を貫こうとす るならばこれらは実践するべきものです。 原始仏教の観点から意見される乾さんは、こうした厳しい実践を行っているでしょうか? おそらくはそうではないと思います。そうでありながら、そうした言葉を語るのは、僕には 形而上学的にあれこれして教義をもてあそんでいるかのように見えます。また、原始仏 教と大乗仏教の思想の整合ということに関してはどのようなお考えをおもちでしょうか。 厳しい言い方になりましたが、あえてつっこんでみた、というところなのでご容赦ください。
347 :
乾闥婆 :02/07/26 01:02 ID:QZ0dcyPq
>>346 ひゃっきまるさん。お久しぶりです。
私はそれほど初期仏教に依った形で話しているつもりはありません。
それほど詳しくもありませんし。
五蘊や四苦八苦、縁起という考え方は、初期仏教に限らず、
仏教の基礎となる考え方なので、それらの用語を使って話はします。
大乗仏教とはいえ、それら仏教の基礎概念なくしてはありえないでしょう。
仏教史という視点から見れば時代や環境によって形態も変化してゆくわけで、
そのような変遷の結果である「ロジックの転換」を、
「いいわけ」とする見方には賛同できません。
「原始仏教と大乗仏教の思想の整合」という点では、用いる概念の相似、
その概念をめぐって議論が古くからあったであろうこと、
そしてつまりは発展形態として大乗を捉えること、
そういったことを考えています。
348 :
乾闥婆 :02/07/26 01:03 ID:QZ0dcyPq
>原始仏教の観点から意見される乾さんは、こうした厳しい実践を行っているでしょうか? 私は創価学会なので、行法は唱題行になります。 初期仏教・大乗仏教という対立構造を強調することには関心がないので、 この行法で充分と思っています。 >そうでありながら、そうした言葉を語るのは、僕には 形而上学的にあれこれして教義をもてあそんでいるかのように見えます。 創価学会の中で生まれ育ち、悩み苦しんだすえ、 自分なりに仏教として自身の信仰を基礎付けるようとするには、 それなりに考え詰めたりもします。 その試行錯誤のありさまが、教義のもてあそびに見えるのでしたら、 おそらくまだ、まったく勉強も思索も足りないということでしょう。 そして、もちろん、それは事実でもありますが。 最近仕事が忙しく、簡単な答えになってしまいましたが、 またご意見ください。
349 :
乾闥婆 :02/07/26 01:05 ID:QZ0dcyPq
乾闥婆は学会属アンチじゃなかった?
351 :
ひゃっきまる :02/07/27 01:03 ID:qAAjgb6G
>>347 乾さん
単純に原始仏教という言葉を使ってしまったのはかなり問題があると思いましたが、だいたい
本意は伝わったようで安心しています。
仏教の変化を発展と見るか否かというのは、前々からおそらくこの点で乾さんと大きな意見の
違いがでるだろうと思っていました。このことについて意見を詰めるのはむしろ宗教学者の役割
で、我々には荷が重過ぎるかもしれませんね。
>五蘊や四苦八苦、縁起という考え方は、初期仏教に限らず、
>仏教の基礎となる考え方なので、それらの用語を使って話はします。
五蘊や八苦は、現世否定のための考え方です。それが創価学会の考え方と併用できるように
は僕には思えません。そして実際、創価学会の教学ではそれらはほとんど語られる事がないし、
語られても大きな意味をもつことはありません。
>仏教史という視点から見れば時代や環境によって形態も変化してゆくわけで、
文章の意味がよくわかりませんが、仏教において教義は変化していくものだ、ということをおっし
ゃりたいのでしょうか? もしそうであれば、それは単純におかしいと思います。
また、変化といっても様々のはずであり、それらをひとまとめにしてしまってもいいのでしょうか。
例えば無量義経は偽経とされるのに、なぜ同じように創作された法華経は偽経とされないのか。
仏教と釈尊という名と権威を借りた教えは、たとえ教義が全く異なっていても、信仰対象が釈尊
というだけの理由でやはり仏教とするべきなのか。
これらを正確に論じるためには仏教が仏教であるためには何が必要なのか、ということを知る
必要がありますが、その、仏教が仏教であるための条件は時代や環境によって変わるもので
あってはならないはずです。
つまり、仏教は教義が変化するもの、といってしまったとき、仏教は何でもない、といってしまう
のと同じ事になってしまうということです。
(なんだかややこしい言い方をしてしまいましたが、本意は伝わるでしょうか)
352 :
ひゃっきまる :02/07/27 01:05 ID:qAAjgb6G
>「原始仏教と大乗仏教の思想の整合」という点では、用いる概念の相似、
>その概念をめぐって議論が古くからあったであろうこと、
それはつまり、中国の教相のことでしょう? しかしそれらは全ての経典が釈尊ただ一人によ
って説かれたということを前提にしなければ基本的に意味を失うものです。現代の基本的な見
方は、説いた人物が違うのだから、当然(といっていいのかはわかりませんが)「整合はしない」
というものであると思います。
>>348 >私は創価学会なので、行法は唱題行になります。
>初期仏教・大乗仏教という対立構造を強調することには関心がないので、
>この行法で充分と思っています。
乾さんの態度に直接的に矛盾を感じたのは、乾さんの他レスにおける悩んでいる人に対して
のアドバイスが、あまりに創価学会的でなかったからなのです。乾さんは初期仏教における「悟
り」のようなものをすすめているように見受けられました。
現世肯定・現世否定は煩悩肯定・煩悩否定であり、世俗的幸福肯定・世俗的幸福否定であり
ます。それらは決して両立するものではないと思います。しかし、乾さんはそれらがいりまじった
考えをもっているように僕には見えます。
「教義のもてあそび」というかなり辛辣な表現になったのは、初期仏教の現世否定をベースと
した考え方(そういった自覚はないと思いますが)を乾さんが語るとき、その内容が空虚に感じる
からです。それらは実践が伴わない理屈のみの言葉だからです。
姜子た〜ん!! と呼んでみる。 ナンチテ
>>ナンチテ 久しぶり! 俺も今夜あたり来るかなぁ〜なんて思ってる。 しょ〜〜〜かんっ!
あと3分以内くらいかな〜。 ピコン!ピコン!ピコン! カラータイマー光ってるぞ。
来たぜ。 来た時一番上にあるのは良い事だ。 しばしROMタイムかな。
せめてギリギリで来いよ! 1分後なんて俺の方がビクーリしてんじゃん。
\(^o^)/ バンザーイ&シュワッチ ナンチテ
>ナンチテ お久しブリグリ。 「乾闥婆」も元気そう・・・かどうかは分らん。 まだ読んで無いしな。
ごしゃたん、姜子たんお久しぶり.♪ 姜子たん、天敵長文なので大変ですNE。 頑張って下ちい。 ではでは、出歯出歯、アバヨ!!(慎吾ちゃん風 ナンチテ
ナンチテ。もうアバヨか。じゃ、またね。おやす。
良スレの様だな。 ちゃんと来るクセつけないとダメだな。 >327 多分メール欄に何か書き込めば良いと思う。 >329 「愛が欲しい」 ナンチテ。 と言って見るテストだ。
364 :
乾闥婆 :02/07/28 23:52 ID:pLBICzM9
>>351 >五蘊や八苦は、現世否定のための考え方です。それが創価学会の考え方と併用できるように
は僕には思えません。
日蓮は単純な現世肯定ではないと思います。
現実対決であり、現実変革ですよね。それは形態の変化した現世否定です。
単純な現世否定がニヒリズムと背中合わせであることを考えると、
これは深化・発展した形と思いませんか。
>つまり、仏教は教義が変化するもの、といってしまったとき、
仏教は何でもない、といってしまうのと同じ事になってしまうということです。
まず、私は形態が変化することを言ったのであり、
どのような根本の変化も許容できると言ったのではないということです。
おっしゃるとおり、「仏教が仏教であるためには何が必要なのか」が、
ここでは重要となってくると思います。
「仏教が仏教であるため」の必要条件は、私は縁起であると思います。
大乗でいわれる仏性という概念は、縁起からあらわれ出てくるものと思っています。
365 :
乾闥婆 :02/07/28 23:55 ID:pLBICzM9
>>352 >それはつまり、中国の教相のことでしょう?
法華経を立てる教判と華厳を立てる教判の間には激しい論争があったようですね。
天台内部でも山家・山外に別れての論争があったようですが、あまり詳しく知りません。
当然大乗興起時には上座部との激しい論争もあったことでしょう。
それらを含めて、ということです。
ゴータマ・ブッダが説いた経典かどうか、ということは、
私はそれほど本質的なことでないと思っています。
ブッダの悟りがフィクションであっても、まったく問題でないとさえ思っています。
たとえ実在しなくてもかまわないとすら思います。
問題は何が語られているか、その議論自体に整合性があるかどうか、だと思っています。
366 :
乾闥婆 :02/07/28 23:56 ID:pLBICzM9
> 乾さんの態度に直接的に矛盾を感じたのは、乾さんの他レスにおける悩んでいる人に対して のアドバイスが、あまりに創価学会的でなかったからなのです。 私自身が創価学会的である言説に苦しんできたのですから、 そうではない、仏教史の延長に位置づけられる日蓮という存在を示したい、 という思いはありますよね。創価学会といえども、その延長にあるのだと。 しかし、そうであるには、あまりにも知識がなく能力が低いのですが。 >現世肯定・現世否定は煩悩肯定・煩悩否定であり、世俗的幸福肯定・世俗的幸福否定であり ます。それらは決して両立するものではないと思います。しかし、乾さんはそれらがいりまじった 考えをもっているように僕には見えます。 仏教は中道ですから、本来、現世肯定・現世否定をともに離れるべきです。 そのような知見に達することが空であるのだと思います。 どちらかに偏らないという態度が、入り交じったように映るのかも知れません。 >それらは実践が伴わない理屈のみの言葉だからです。 そうですね・・・ 唱題行を行法として捉えていますが、あまりかみ合って見えないでしょうか。
367 :
乾闥婆 :02/07/29 00:02 ID:7pJwYjWT
368 :
788 :02/07/29 05:18 ID:xRnZ96Q5
>乾さん
遅レス御容赦を。
>>341 >その飛躍のないものが、宗教ではなく哲学なのでしょう。
確かに乾さんと私との間には「決定的なズレ」があるように思います。
たとえば私は乾さんと違い、哲学にすら論理の過程には「信じるという飛躍」があるように捉えています。
これもきっと「言葉の解釈、定義、イメージ」などの違いによるものなのでしょうが、
曖昧な表現が許されるなら、
「宗教は哲学以上により情緒的なもの」というのが私の個人的な解釈です。
学問としての哲学だけが哲学だとは思っていませんが、
ソクラテスにしても、プラトンにしても、キルケゴールやサルトルも、
その思索過程には何らかの形で「信じるという飛躍」をしたのではないかと。
「信じるという飛躍」が不適当ならば、
「想像」という言葉に置き換えても良いかも知れません。
369 :
788 :02/07/29 05:19 ID:xRnZ96Q5
>宗教の現在に生きる意味を否定的・限定的に捉えるニュアンスが含められているのだとすれば、 私は決してそんな風に捉えていません。 捉えていませんが、私が思うに私と乾さんとの決定的な違いは、 「自己という存在の捉え方」にあるような気がします。 乱暴な言い方をすれば、 「自己を肯定的に捉えるか、否定的に捉えるか」ということ。 言い方を換えると、 「自分自身が信ずるに足るか、否か」ということ。 私は私自身をあまり信用していませんから。
370 :
788 :02/07/29 05:52 ID:NdX1fSDd
>>342 丁寧な説明ありがとうございました。
ですが、ひとつだけ引っ掛かることがあります。
>縁起を形成し得なかった者は生物学的に存在し得たと言えても、
>有情としては形成され得なかった者と考えます。
一体「いつ」をもってして「縁起を形成した」といえるのですか?
もちろん、「○○才」などという生物的年令ではないですよね?
また、この場合の社会的存在とはどういう意味合いですか?
「社会的存在」というのが「人間社会において他者に何らかの影響を与える存在」という意味であれば、
生後一日の赤ん坊も立派に「社会的存在」だと思うのですが。
371 :
788 :02/07/29 05:54 ID:NdX1fSDd
>ひゃっきさん どうもです。 >僕が宗教と哲学で決定的に違うと思う部分は、「帰依」ではないかと思っています。 なるほど。 「帰依」とはたとえば「本尊を拝する」ことをいうのですか? キリストでいうところの「洗礼を受ける」ことですか? いずれにしても「宗教的儀礼を経た上での信仰」のことを“限定的”に言っているのでしょうか? 乾さんとの「現世否定、現世肯定」に関するやりとり、興味深く拝見しています。
372 :
788 :02/07/29 06:00 ID:Gmcbfbn5
>スカちん 320,321へのレス待ってるわよ〜ん。 忙しいようならレスできそうな日だけ書いといて〜ん。 待ってるわ〜ん。 (327,329さんにはレスしてるのにイケズ〜)
あ〜いあい。あ〜いあい。おっさ〜るさぁんだよぉ〜ん♪ こんなに愛してるのに気付いてくれないなんて…(シクシク
これより旧HNに戻す。 なんか最近、全体的に人口減ったな。
青春対話スレの>700は俺宛? 自意識過剰かな?(藁
あるような、ないような・・・
もったいぶられると気になっちゃいます。
スカプリオは今日、二日酔いですので来れません。 私の方から報告しておきます。
380 :
ひゃっきまる :02/08/01 00:55 ID:geiKWh7Q
乾さん
>>364 乾さんと僕との仏教観の違いにはそうとう大きな開きがあると思われます。
初期仏教における現世否定の意味を乾さんはよくご存知ないように思います。
また、その文脈の中でしか八苦および五蘊は意味をなさないことも。
その直接的な証拠は、日蓮教学においてにぜん経は正直に捨てなさいと説
いているところです。つまり、「発展」ではなく「否定」という形をとっています。
(違う言い方をすれば、正直に捨てなさい、と言われているのに、なぜ乾さんは
それを用いるのか、疑問に思います。八苦が文脈として出てくるのは四諦ですが、
それは法華経では声聞の修行法ということになっているはずです)
また、法華経に説かれる思想(いわゆる文上?)>天台大師の法華経の解釈>
大聖人の法華経の解釈>日興上人の解釈>(歴代ほっす)>>日蓮正宗の解釈>
創価学会の解釈
は、それぞれ違いますし、その中には単なる変化として見過ごすことのできないよう
なかなり大きな違いもあります。だからこそ僕は「創価学会の考え方」と書いたのです
が、乾さんは上記の中でどのような立場に近いものでしょうか。また、そう考える理由
はなんですか?
381 :
ひゃっきまる :02/08/01 00:55 ID:geiKWh7Q
>大乗でいわれる仏性という概念は、縁起からあらわれ出てくるものと思っています。
大変興味深い考えと思います。詳しく解説してもらえましたらありがたく思います。
>>365 >問題は何が語られているか、その議論自体に整合性があるかどうか、だと思っています。
釈尊以外の仏が説いたとされる大日経などならその言い分も通るでしょうが、釈尊
が説いたとされる仏典がフィクションだとすれば、そもそも教判の意味自体が失われ
ます。そもそも、なぜ相矛盾する教えがあるのか、というところを解明するために教判
の議論があるのですから。議論は全て整合しないでしょう。そもそも矛盾を整合させ
必要自体がないのですから。経の優劣の理由を、全て具体的に調べてみればよくわ
かると思いますが、それらは現代では認められないことを前提にしています。
>ブッダの悟りがフィクションであっても、まったく問題でないとさえ思っています。
>たとえ実在しなくてもかまわないとすら思います。
この辺は全く理解不可能です。本当にそんなものが信仰の対象になりうるのでしょうか?
例えばそれは、架空のキャラクター(例えばミッキーマウスのような)が、架空でありなが
らも人格性が認められ、愛される対象として認識されているようなものなのでしょうか。しか
し、自分が窮地に立たされたとき、架空のキャラクターであるスーパーマンが助けにきてくれ
る、と思える人はいないように思いますが。法華経に説かれる久遠元初の釈尊もフィクション
ですか?
382 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :02/08/01 00:58 ID:tVmZHZKw
>ひゃっきまる >法華経に説かれる思想(いわゆる文上?)>天台大師の法華経の解釈> 大聖人の法華経の解釈>日興上人の解釈>(歴代ほっす)>>日蓮正宗の解釈> 創価学会の解釈 ひゃっきまるはどの立場なの?
383 :
ひゃっきまる :02/08/01 01:08 ID:geiKWh7Q
>>371 788さん
>「帰依」とはたとえば「本尊を拝する」ことをいうのですか?
>キリストでいうところの「洗礼を受ける」ことですか?
>いずれにしても「宗教的儀礼を経た上での信仰」のことを“限定的”に言っているのでしょうか?
違います。「帰依」を形として表現するものとして、確かに宗教的儀礼は重要かもしれませんが、
僕は「帰依」とはもっと自然な感情、つまり、儀礼を必要とせずとも自然に内から湧き出るものと思
っています。
そういった自然な感情(これは感性的なものなのでそれそのものについて説明することはできま
せん)を、「どのような形で」「何に対して」もつか、ということが、人間が生きる上で重要と感じてい
ます。
「本尊を拝する」というのは間違いではありませんが、その本尊は何も宗教的なものである必要
はありません。しかし、それを「拝した」瞬間、それはその人にとって宗教的な意味をもつことになる
と思います。例えば、法律学者の中には、例え人が作った法としても、それを守り通すことに宗教的
ともいえる意義を見出している人もいるでしょう。
384 :
ひゃっきまる :02/08/01 01:12 ID:geiKWh7Q
>>382 それぞれの時代の人がそれぞれの時代で考えたこと、としかいいようがありません。
しかし、少なくとも歴史的な意味では法華経の内容は出発点からもともと偽りです。
神話的物語としての価値はあると思いますし、それ(フィクションだということ)を前提としてならその思想を語ることもできるでしょう。
ココの返答は落ち着いたらだな。 ま、忘れられない様に、顔見せはしておこうか。 「良スレage」だぜ。
386 :
788 :02/08/03 06:09 ID:v/y6JijJ
>ひゃっきさん
>>383 > 違います。「帰依」を形として表現するものとして、確かに宗教的儀礼は重要かもしれませんが、
>僕は「帰依」とはもっと自然な感情、つまり、儀礼を必要とせずとも自然に内から湧き出るものと思
>っています。
> そういった自然な感情(これは感性的なものなのでそれそのものについて説明することはできま
>せん)を、「どのような形で」「何に対して」もつか、ということが、人間が生きる上で重要と感じてい
>ます。
この辺の感覚は私もほぼ同感です。
しかし世の中にはなにか形式的な儀礼を伴わなければ「帰依」したことにならない
と、考えている人が多数いるようで…。
387 :
788 :02/08/03 06:10 ID:v/y6JijJ
>スカちん いつ「落ち着く」の? まさか「ほとぼりがさめたら」の間違いじゃないよね?(笑) 他スレで新しいカキコにレスつけられるなら 私へのレスなんかすぐだと思うけど…。
388 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :02/08/03 06:55 ID:nitxM9/+
>まさか「ほとぼりがさめたら」の間違いじゃないよね?(笑) ナイス!
389 :
jh9vrheh :02/08/03 14:15 ID:3WDKrGxT
>all はじめまして 少しお尋ねしたのですが、 一念三千と祈るということについての カキコがあるスレ(内対話・VSアンチ問わず)を 教えていただけないでしょうか?ヨロシコ!
391 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :02/08/06 05:32 ID:3tQdPSFu
ageときます
>スカプロ おめーは相変わらず(以下略
>>387 まぁ金木犀の季節まで待つ事だな。
>>389 つーか何が聞きたい?
>>392 ところで、
>みみずん恐るべしってとこだな。
何だコレは?
394 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :02/08/08 04:29 ID:8lHON1lY
age
395 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :02/08/09 10:01 ID:Kg7khJdS
からage
396 :
ひゃっきまる :02/08/10 00:41 ID:gXk+3YjK
>>386 788さん
>この辺の感覚は私もほぼ同感です。
>しかし世の中にはなにか形式的な儀礼を伴わなければ「帰依」したことにならない
>と、考えている人が多数いるようで…。
おひさしぶりです。と、あまりスレはすすんでいないようですね。
イエスにしても釈尊にしても、当時形骸化していた宗教を改革したという点
は共通しているようです。特に釈尊はあらゆるものごとに対して絶対的なもの
を求めないという思想を徹底したようです。ある特定の教団が自分の主張のみ
を正しいということの愚かさも説いています。(実際のところ、最初期の釈尊
の教えには現在の日本の仏教を完全に否定するような言葉がいくつもあります)
ある特定の本尊や法主を絶対化して信仰の対象にしようとする日蓮正宗の教義
は本来の仏教の思想からは大きく外れたものです。個人的には「グロテスク」と
よぶべき、このような信仰の特徴は、考え方がオカルト的であることでしょう。
「もの」や「形式」自体に本質があると見誤る信仰は、必然的に呪術的な方向
に向かうと考えています。
もちろん創価学会もそうした体質をひきずっているところがあると思います。
397 :
おいら :02/08/10 02:35 ID:LrCZTZmf
こっちにも書き込んだほうが良いかな。 すんません。おいら「おいら」っていうんですけど、質問があります。 「不惜身命」「シシングホウ」ってやつなんですが、 これを「自分は社会で嫌われてもいいから、この法をひろめる」みたいな意味で 使っている人がいるんですけど、これは 「自分は一生この信心をつらぬいてみせる」っていみにとっちゃだめですか? おいら、嫌われたくないんだけど・・・
398 :
ひゃっきまる :02/08/10 02:41 ID:gXk+3YjK
【不惜身命 】 仏法のためには命を惜しまずにささげること。(広辞苑より) 意味は文字どおりです。元から社会で嫌われるなどというニュ アンスはないし、どのような文脈でもそのような意味で使われる ことはありません。
399 :
おいら :02/08/10 02:48 ID:b2sDO/wq
一部の強引な、熱心すぎる折伏(夜中に他人のうちに大勢で押しかけたり 社会的にみて非常識な行動)が 学会のイメージを下げてる気がするんだけど、これは「いい事」なの?
ひゃっきまるさん、 学会の日蓮教学でおかしなところは大きな点で、どのような点があると思いますか?
401 :
400 :02/08/10 02:54 ID:???
また、学会での日蓮仏法の信仰における「功徳」とはどのようなものであると 思いますか?
402 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :02/08/10 03:10 ID:xMV0zjUj
積極的な読書、学業、仕事ができるようになった。
403 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :02/08/10 03:12 ID:xMV0zjUj
何かに対して限界まで努力できるようになった。 観念が実践に変わっていった。
404 :
ひゃっきまる :02/08/10 03:42 ID:gXk+3YjK
>>399 社会的に非常識な行動は創価学会でも決してしないように指導されています。
しかし熱心さが嵩じて常識を踏み外す信徒もまた多くいるようです。また、むし
ろそこまでやった方がよいと指導する幹部も少なからずいるように思います。こ
れは学会の「成果主義」」「結果主義」が悪く影響していると考えられます(も
ちろん良い側面もあるでしょうが)。
>>400 一番大きなおかしな点をあげれば日本の仏教そのものを否定しかねないことに
なるでしょう。ただ、最近の学会の動きをみていると、日蓮正宗を否定するあま
りにそれまでの学会の歴史や連続性を無視する恐れがあるように思います。創価
学会が他の新宗教と違ったのは、ある種地盤のしっかりした既成宗教(とその教
義)を土台にしていたことが少なからずあると思います。今後、有象無象の他の
うさん臭い新宗教とそう変わらないものに変質していってしまうかもしれません
(例えば名誉会長を宗教的に特殊な地位に据えるとか)。
>>401 創価学会は仏教の考え方とは若干異なる考えではあると思いますが、僕自身の
理解でよろしければお答えします。独自の「生命論」の視点で教義をとらえてい
る点が独特であると思います。
創価学会の表現を借りるならば、自分自身の生命の可能性を引き出す、という
ことです。誰にでも本来は素晴らしい力が内部に眠っているので、それを呼び覚
ます、それが題目だということです。また、環境と自身は一体であるので、その
ことによって環境も良いものとなります。
405 :
400 :02/08/10 03:52 ID:???
>>404 なるほど、わかりました。あの、無量義経が偽経というのは本当なんですか?
不勉強で申し訳ないですが、無量義経って法華経の開経という位置付けでしたっけ?
日蓮教学ではかなり重視されてるものだと思うのですが、これが偽経となったとしても
日蓮教学はある程度までは揺るがないものなのでしょうか。
406 :
400 :02/08/10 03:59 ID:???
あと、「天台も伝教も南無妙法蓮華経は知っていたが言う資格がなかった」とか、 普通、日蓮だってそうだけど、言いたい事は全部言うっていうのがあの時代の僧侶 だったのではないかと思うので、ゆめゆめ信じられないです。
>>396 しろうとだから的外れなこと言ってもカンベンな!
もともと日蓮って既成宗教に対する新興宗教の教祖みたいなもんだろ?
その人間的な魅力に惹かれ強い連帯感を持ったカルトが出発点だよな?
そして天台が密教系だからその影響でオカルトっぽくなるのも無理ないよな?
それはそうと、ひゃっきまると乾闥婆て他のソーカーよりずっとずっと近い感じがするよ。
宗教と哲学の違いとか、功徳についての考え方とか、組織と信仰についてとかもっと話を聞いてみたいね。
オレサマ風を吹かせてるヤツはてんでだめ。典型的なソーカー。話聞く気にならね―もん。「指導」に反してると思うね。
408 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :02/08/11 18:24 ID:RDmkSJZH
この信仰は「疑ってはいけない」のですか? 自分のやっている学会活動を、常に客観的な目で判断しながら 信仰していてはだめですか?
409 :
ひゃっきまる :02/08/15 08:24 ID:fiR4m1+1
>>405 手元に資料が無いので詳しくは説明できませんが、できるかぎり答えさせていただきま
す。あくまで一般的な学問の世界で言われていることで、その具体的な研究や証拠につい
ては知りません。
まず、インドでは釈尊の死後も数世紀もかけて様々な仏典が作られましたが、それらは
中国では釈尊一人によって書かれたという前提で解釈されました。もちろん仏典の中には
相矛盾する内容があったので、これらの膨大な数の仏典の説かれた「順序」と、教えの
「優劣」が大変な問題となったのです。
そこで、重要視されたのが法華経でした。法華経の内容は、
過去に説かれた教えは全て法華経と説くための「あししろ」(準備)として説いたもので
あって、それらは方便(真理に誘い入れるために仮に設けた嘘)であるから、正直に(素
直に)捨てて、真実の教えである法華経に帰依しなさい。
というものでした。これを手がかりにして日蓮教学の柱となる天台教学がつくられてい
ます。更に、法華経の冒頭では、「無量義経」を説いた後に、釈尊が法華経を説いた事に
なっています。だから、どこかに無量義経があるはずで、その内容は経の順と優劣に大き
く関わるものだろうと予測されました。
で、現在「無量義経」とよばれているものは中国で作られたということがわかっていま
す。だからこそ偽経とよばれるのでしょうが、この中には極めて重要な一文があります。
「四十余年にして未だ真実を顕わさず」というものですが、これこそが、天台教学と日蓮
教学において、より強力な「順序」と「優劣」を決定させる証拠とされているのです。
しかし、そのことよりも、仏であるはずの日蓮大聖人が偽経であることを見抜けず、ま
た日蓮正宗や創価学会ではそれを未だに認めていない、ということの方がおそらくは「い
たい」のではないでしょうか。
410 :
ひゃっきまる :02/08/15 08:34 ID:fiR4m1+1
>>406 御質問の意味がよくわかりませんが、南無妙法蓮華経という言葉は聖徳太子の頃からあるそうですよ。
日蓮大聖人こそが法華経を本当の意味で実践し、その証拠に法華経に予言されるとおりの迫害を受けた、
という意味ではないでしょうか。
>>407 良きにしろ悪しきにしろ、日蓮系の宗派はどこも非常に生活に根ざした実践的な信仰をしているのが
大きな特徴だと思っています。信仰によって生活を善くし、国を改革しよう、という考え方です。
>>408 いいんではないでしょうか。
1階まで上がります。 お乗りになる方はどうぞ♪ ナンチテ
姜子タンに会えなくて淋しい。
413 :
へろへろ :02/08/17 16:52 ID:yP2Iw/Y3
何故、無量義経が中国で作られたというのがわかったのですか? 法華経も同様なことがいわれてるみたいですが。
414 :
乾闥婆 :02/08/19 00:26 ID:2UWnWLOY
>>380 入院していました。
>初期仏教における現世否定の意味を乾さんはよくご存知ないように思います。
そうですか。どのような意味ですか?
>また、その文脈の中でしか八苦および五蘊は意味をなさないことも。
四苦八苦も五蘊も独立した意味を形成していると思います。
>その直接的な証拠は、日蓮教学においてにぜん経は正直に捨てなさいと説
いているところです。
私はその説は否定します。日蓮の説といえども。
>八苦が文脈として出てくるのは四諦ですが、
四諦は四苦八苦を解決する手順を示したものです。
四苦八苦は四諦にともなって語られるだけの初期仏教の独占物ではないと思います。
天台・日蓮・日興・歴代法主・創価学会と並べられましたが、不勉強で詳しくは知りません。
天台(伝教も?)と日蓮(日興も?)の間には大きな飛躍があるでしょうし、
歴代法主というか日寛でしょうか、そのあたりにも大きな飛躍がありそうですね。
創価学会はおそらくこの日寛に寄るところが大きいと思います。
最近はこの日寛教学からも離れ始めているのかも知れません。
いずれにしてもこのあたりを語るにはあまりに勉強不足です。申し訳ありません。
415 :
乾闥婆 :02/08/19 00:28 ID:2UWnWLOY
>>381 縁起説では、すべての現象は縁に依って起こっていると考え、ものそれ自体の自性を否定します。
つまり無自性であって、そのことを空といいました。
仏性は自性清浄心をいい、それは無自性であることの謂いです。
縁起・空・無自性の線から、自性清浄・真如・如来蔵・仏性といった線への展開があったようです。
おそらく大乗内でもそれらの間には様々な議論があったのでしょうが、詳しくは知りません。
ただそれらが一つの線で議論の対象となったことが、大事なのだと思うし、
その出発点は縁起説であるはずです。
>釈尊が説いたとされる仏典がフィクションだとすれば、そもそも教判の意味自体が失われます。
五時の教判もフィクションです。物語には物語の整合性というものがあります。
もちろんそれらは事実としては現代においては否定されます。
>この辺は全く理解不可能です。本当にそんなものが信仰の対象になりうるのでしょうか?
ミッキーマウスがあの膨大な経典群の著者に擬せられるのでしたら、
信仰の対象になってもおかしくないでしょう。
>法華経に説かれる久遠元初の釈尊もフィクションですか?
もちろんそうです。(といいますか久遠元初は日蓮ですね。日蓮正宗・創価学会的には)
ひゃっきまるさんは久遠実成のブッダを実在だと思っているのですか?
経典がフィクションであることが信仰する上で不都合であるように、
ひゃっきまるさんは考えていらっしゃるようですが、
物語には人の心を揺り動かす力が立派に備わっています。
そのような物語が信仰の対象にならないという考えはおかしいと思います。
自身の信仰の絶対性が主張できなくなるだけのことです。
416 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :02/08/19 00:39 ID:VJa1XSGJ
現代的な尺度で見れば、 マハーバーラタやギリシア神話は、現実ではありません。 それと同様、ジャータカや釈迦にまつわる創作的な出来事も寓話として考えるべきで 現実とは関係ないということです。 法華経は、釈迦の伝えたかった本意という寓話もありますが、 それも、現実とは関係ありません。要するに、釈迦が死んで、500年以上経過 した時点で成立した経典が、時空を飛び越えて、突然釈迦が本当に伝えたかった 経典になることはありえないからです。残念ながら、層化、日蓮系にあって、 法華経を讃えることは、よく哲学で見られる「空から空へ水を注ぐ」行為に 他ならないのです。もっとはっきり言えば、迷信とでもいいましょうが。 迷信とは、虚偽に対する感情的態度と定義した神秘哲学者がいます。 感情的態度で物事を絶対視するものは、虚偽の空想で、悪魔と闘って いるのでしょう。
417 :
へろへろ :02/08/19 01:07 ID:aqMjkSzd
法華経の成立はいつどこでののですか?
418 :
法華偽経 :02/08/19 03:13 ID:SrXnrt5K
「法華経」の最古の部分(方便品)が成立したのは、 西紀ニ世紀以前であったろう。だたし、方便品のげ 文の中に、仏像に関する記述があるので、西紀一世紀半 よりさかのぼることは困難であろう。」 「インド仏教史 上巻」 平川彰 著 春秋社 しかし、求道の志が旺盛であるほど、仏典を正しく 読む必要性はますます強いものとなるはずである。 釈尊の直説と思って阿含経のある部分に固執( Khuddaka Nikaya, Samyutta Nikaya なども意外に 新しい部分の混入がある)したり、「法華経」や「(大乗) 涅槃経」を仏陀最後の説法と信じて布教を展開したり したら、批評的傾向を有し思想史的理解を重んずる人に 対する説得は絶望的といわなければならない。 「仏典の読み方」 金岡秀友 著 大法輪閣版 まず第一に、旧来の諸派は、たとい変容されていた としても、歴史的人物としてのゴータマの直接の教示に 近い聖典を伝えて、伝統的な教理をほぼ忠実に保存 している。 これに反して大乗仏教徒は全然あらたに 経典を創作した。 そこに現われる釈尊は、歴史的人物 というより理想的存在として描かれている。 「インド思想史 第二版」 中村元著 岩波全書
419 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :02/08/19 04:46 ID:JAPLAoWL
こんな学問的なことを書かれたら、もう終わりではないですか。 もっと、お笑いでいきましょうよ。
420 :
おまえ厨房だろ。 :02/08/19 13:18 ID:3JsKD4Ye
>こんな学問的なことを書かれたら、もう終わりではないですか。 >もっと、お笑いでいきましょうよ。 こんな初歩的なことを書かれたら、笑ちゃうではないか。(爆 夏厨出現かよ?
>>410 >南無妙法蓮華経という言葉は聖徳太子の頃からあるそうですよ。
私は南無妙法蓮華経というのは日蓮が最初に言い出したと聞きましたし、
いろいろなところを見ても、そう云われています。
よろしければ、ソースの提示をおながいします。
422 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :02/08/20 17:25 ID:rBKFHYoj
423 :
ひゃっきまる :02/08/20 22:01 ID:nBzBwGEZ
>>413 詳しい研究については知りません。法華経ではそのようなことは言われておりません。
>>421 南無妙法蓮華経とは、法華経に帰依いたします、という意味で、その言葉自体はなんら
特別に発明するようなものではありません。ただ、それに特別な意味付けをしたのは確か
に日蓮大聖人でしょう。
424 :
ひゃっきまる :02/08/20 22:02 ID:nBzBwGEZ
>>414 乾さん
入院していたのですね。大丈夫ですか。体を壊しやすい時期なのでお気をつけてくださ
い。レスはいつでも結構です。
乾さんは、初期仏教の現世否定よりも、現実を改革していく方が宗教として発展してい
る、というようなこと言われたと思います。発展とは進歩ということだと思いますが、そ
れはどのような基準、尺度からのものなのでしょうか。
>四苦八苦も五蘊も独立した意味を形成していると思います。
一切が苦であることや、個人の主体的実在が存在しないことなどは、全て現世を否定す
るためのものです。それは、現世を肯定する文脈ではありえない説です。
大乗仏教では一切皆苦という世界観を否定するロジックが使われていますし、仏性や輪
廻という概念も無我に反するものです。「共に正しい」といってしまえば口当たりは良い
ですが、筋が通らない事の安易な言い訳にはなっていないでしょうか。
>その出発点は縁起説であるはずです。
正直、乾さんの説明はよくわかりませんでした。しかし仏性の概念はインド哲学に内在
していたアートマン(汚れのない純粋の魂)の思想が復活したというように説明される事
が多いようです。僕もこちらの説明の方が説得力があると思います。
425 :
ひゃっきまる :02/08/20 22:03 ID:nBzBwGEZ
>久遠元初 中国には五百塵点劫を長大であるけれども限りのある期間と考える派と、永遠の過去を そのように表現したのだという派とあるということです。僕は後者の立場をとりました。 >物語には人の心を揺り動かす力が立派に備わっています。 >そのような物語が信仰の対象にならないという考えはおかしいと思います。 ですから、「スーパーマン」の例えを出しました。「スーパーマン」を観て、心は揺り 動かされるし、実際にいてほしいと思うでしょう。しかし、実際に困った時にスーパーマ ンは助けてくれるのでしょうか? 「嘘」に対してする信仰は正しい信仰でしょうか? それは人に説得力をもつでしょうか? 人に薦めてよいものでしょうか?
426 :
電波塔@創価 ◆LbkSkcmQ :02/08/23 00:09 ID:IL2Xms1r
なんか、みんな居なくなっちゃったね。
427 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :02/08/23 00:24 ID:wacmfQEA
日蓮大聖人⇒にっちゃん 南無妙法蓮華経⇒嘘
428 :
下克上 :02/08/23 00:31 ID:x1SC4y5e
名無しさん、そんなクソ頭でよくトラコスを批判しますね。
429 :
電波塔@創価 ◆LbkSkcmQ :02/08/23 00:34 ID:IL2Xms1r
某プログラマ氏達はトラコスなの?
430 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :02/08/23 00:36 ID:wacmfQEA
にっちゃんを尊称3つつける方がクソ頭でございます。 大天才バカボン様。・・・ほら、変だろう。
431 :
電波塔@創価 ◆LbkSkcmQ :02/08/23 00:37 ID:IL2Xms1r
この間のコヴァ君かな?
432 :
電波塔@創価 ◆LbkSkcmQ :02/08/23 00:38 ID:IL2Xms1r
で、トランスコスモスと何の関係が?
433 :
下克上 :02/08/23 00:38 ID:x1SC4y5e
創価>トラコス>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>名無し
434 :
電波塔@創価 ◆LbkSkcmQ :02/08/23 00:42 ID:IL2Xms1r
ワケワカラン・・・
435 :
下克上 :02/08/23 00:48 ID:x1SC4y5e
すみません..。ところで電波さんは創価ですか?もし創価なら、その魅力は? 10分後寝ます。(わたしは池田さんは本物だと思います。)
436 :
電波塔@創価 ◆LbkSkcmQ :02/08/23 00:51 ID:IL2Xms1r
被虐の悦び。 加虐の歓び。 マジにとるなよ(藁)
437 :
下克上 :02/08/23 01:07 ID:x1SC4y5e
創価学会が世界150ヶ国にも及んでるそうですね。金だけではこんなのありえないよ。 名無しさんTKO(祈トラコス復帰) おやすみ★
・・・おやすみ。 聞くところによると、トラコスはキッツイらしいね。 俺も寝ますんで。
439 :
sdv :02/08/24 15:42 ID:???
初めて先日婦人科検診に行きました。 クリトリスや膣口を念入りに消毒され、先生が指を入れてグニュグニュしてきました。 診察なので別にその時は変な感じはなかったのですが 少し時間が長いかなぁと思っていると、先生の指が微妙にゆっくりと ピストン運動をしていたのです。 私は恥ずかしいのと気持ちいいのと腹立たしいのとが一緒になり 頭が混乱し、固定されていた足をバタバタ動かしました。 すると先生はすぐに指を抜き「ごめんねぇ、もう少しがまんしてねぇ」 と言いながら、ゼリーのようなものをクリトリスに塗り始めました。 もうその時点で膣口付近は濡れてベトベトだったと思います。 下半身がしびれてしまい、すぐにオナニーをしたいような状況でした。 先生は「ここ痒いでしょ、少しかぶれてるみたいだから薬塗っときますね。」 と言いクリトリスを念入りに指で摘みながら揉んできました。 たしかに最近クリが痒かったので納得したのですが 先生は皮まで剥いて激しく揉んでくるので、私は声を抑えるので必死でした。 かなり濡れているのが自分でもハッキリ分かって、お尻に液が垂れる感じがしたとき 「グボボボボ」と音がして掃除機のようなもので液を看護婦さんが吸い取りました。 自分の状況がとても恥ずかしいと思い「先生、も、もういいです」と言いました。 先生は「はいはい、もうすぐですよ」と淡々と言いながらクリトリスを揉みしだいています。 恥ずかしいので絶対逝ってはいけないとして我慢しました。 やっと診察が終わり、すぐにトイレに駆け込みオナニーをしました。 10秒ほどで逝ってしまいました。 翌日、会社の同僚にこのことを話すと「それ絶対変だよー、そんなことする医者いないよ」 と言われました。あの医者はやはり私で遊んでたのでしょうか、とても悔しいです。
440 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :02/08/24 15:55 ID:qfRfxq2K
437さん、SGI(Soka Gakkai Internatinal)の団体は150カ国でなくて、 いまや世界183カ国です!! たくさんの知識人の方が名誉会長の姿・生き方に触れて 入会されています。 お金だけではここまで広がらない。 その通り。
うん? まだ残っているのか。 さすがは最優秀良スレだな。良い事だ。
442 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :02/08/24 23:55 ID:Je8JjAHV
>>440 知識人は新聞啓蒙やビラ配りやってんの?
443 :
乾闥婆 :02/08/25 00:26 ID:qqbE9KsH
>>424 御心配、ありがとうございます。
>発展とは進歩ということだと思いますが、それはどのような基準、尺度からのものなのでしょうか。
単純な現世否定は、複雑に入り組んだ現代社会にはうまく対応できない。
現実とちゃんと向き合い取り組む姿勢を主張する発想に、より実行力のある思想を見る。
という自分なりの見解ですが、もちろんこれは私個人の価値観にすぎず、
それを発展・進歩というのはやはり問題であるかも知れません。
以後は発展というような価値判断を含む言葉は控え、変遷というにとどめます。
>一切が苦であることや、個人の主体的実在が存在しないことなどは、
全て現世を否定するためのものです。
それは発想が逆です。一切が苦であることが出発点であり、
その苦を解決する方法として、個人の主体的実在がないことを正しく知り、
現世から離れるべきことを主張したはずです。
現世を否定するための道具として苦や無我があったわけではありません。
現世肯定もまた一切皆苦を解決する手段としてのひとつの発想法です。
>大乗仏教では一切皆苦という世界観を否定するロジックが使われていますし、
初期仏教もつまりは一切皆苦を乗り越えるための方法を提示しているわけです。
そこにあるのは一切皆苦という世界観を否定するロジックです。
>仏性や輪廻という概念も無我に反するものです。
仏性の根幹は無自性です。無我には反しません。極論すれば無我こそ仏性だと思います。
輪廻する業(という物語)の解体を目指すのであれば、結局のところ、
いま、ここ、において、輪廻を離れるのではないかと考えています。
444 :
乾闥婆 :02/08/25 00:27 ID:qqbE9KsH
>>424 (続き)
>正直、乾さんの説明はよくわかりませんでした。
すみません。私自身が読んできた本を消化しきれていないのだと思います。
>しかし仏性の概念はインド哲学に内在していたアートマン(汚れのない純粋の魂)
の思想が復活したというように説明される事が多いようです。
アートマン(我)と仏性とは似ているように見えますが別物です。
仏教が批判した我とは単一に存在しうる常住の実体であって、
そのような我を様々に縁起するその結節点として解体したのです。
無我とはその縁起された結節点にすぎない我のことをいい、
つまり我を含めたすべての事象には実体がないこと(無自性)を主張しました。
そのような無我の状態を清浄なものであるとし(自性清浄)、
それを如来蔵という表現において積極的に肯定しました。それが仏性です。
ただし仏性という言葉が初出する大乗涅槃経においては一切衆生悉有仏性と、
仏性が「ある」といってしまいます。
このような表現が、仏性は実体的なものである、
つまりアートマンであるという批判を招くことにもなりますが、
これは無我という清浄な状態が「ある」ということをいっているのであって、
アートマンとは異なります。
もっとも仏性という言葉が実体的な意味合いを持ってしまう危険性は常に存在しており、
その語の用法に批判的な視線を向けていくことは必要だと思います。
また自灯明・自帰依というように、修行する主体としての我は、
初期仏教においても強く肯定されていたことを押さえておく必要があると思います。
445 :
乾闥婆 :02/08/25 00:29 ID:qqbE9KsH
>>425 > 中国には五百塵点劫を長大であるけれども限りのある期間と考える派と、永遠の過去を
そのように表現したのだという派とあるということです。
ブッダに関しての表記は久遠実成とするのが一般です。
岩波仏教辞典を調べても、久遠実成はあっても久遠元初は出てきません。
久遠元初の表記はいつ頃が初出か、分かりませんが、
日寛教学はこのあたりの区別にうるさいように聞きます。
日蓮本仏の根拠もここから来ているのではないでしょうか。
446 :
乾闥婆 :02/08/25 00:30 ID:qqbE9KsH
>>425 (続き)
>「スーパーマン」を観て、心は揺り動かされるし、実際にいてほしいと思うでしょう。
しかし、実際に困った時にスーパーマンは助けてくれるのでしょうか?
「嘘」に対してする信仰は正しい信仰でしょうか?
それは人に説得力をもつでしょうか? 人に薦めてよいものでしょうか?
まず、「スーパーマン」は嘘ではありません。物語です。
「スーパーマン」の映画を見て、「これは嘘だ、でたらめだ、我々は騙されている」
と叫ぶ人はいません。物語であることを知っているからです。
物語に触れて我々は勇気づけられるかも知れません。
心を正そうと発心するかも知れません。それが物語の効用です。
私はよい物語であれば人に勧めます。
夏目漱石やドストエフスキーの小説を、人に勧めます。
エンデの「モモ」や「果てしない物語」をよいと思えば子供に贈ったりもすることでしょう。
法華経という物語、日蓮という物語、をよいと思っている人たちが、
それを勧めることは別に嘘を勧めていることではないと思います。
ただ物語であることを認識した以上、他の物語を批判して、
自分の物語だけが「事実」であるという主張はできません。
その意味で、信仰を持つ人間は、自身の寄って立っている教義が
物語であることをはっきりと認識した方がいいと思います。
その上で、物語の優劣(好悪?)について議論することは有効だと考えます。
それと以前の話にあった爾前権経を正直に捨てよ、との日蓮の主張は、
信仰対象として法華経以外は捨てよ、ということではないでしょうか。
日蓮自身が法華経以外の経典から多く引用して手紙を書いています。
乾闥婆ageだ。 ちょっと懐かしいな。でわまた。
448 :
788 :02/08/25 07:57 ID:i1u948NK
>>443 乾さん、お久しぶりです。
身体をこわしていたのですか?御自愛下さい。
というわけで、横レス失礼します。
ひゃっきさんとのやりとり拝見しました。とても興味深く。
で、やっぱり、というか、いまひとつ府に落ちないのが、
乾さんの「仏教」「宗教」に対する姿勢についてです。
あるいは「信仰」をどう捉えているか、といってもいいかもしれません。
といって、私自身のこの「?」な思いをどう言葉にすればいいのか。
的確な表現が浮かびませんが、あえていうならこいうことです。
乾さんは仏教を、教義を「頭だけで」理解していないでしょうか?
たとえば、乾さんは444で
インド哲学におけるアートマンと仏性の違いを説明していますが、
果たして乾さん自身、
「無我という清浄な状態が「ある」ということ」を
現実にどう「体感」あるいは「実感」されてるのでしょうか?
こうした言葉を乾さんが「理性的に」理解していることはよくわかります。
しかし言葉をつくせばつくすほど空虚に聞こえてしまうのです。(失礼)
それは感情論だけでロジックのかけらもなく迫ってくる典型的学会員とちょうど対極にあるような気がします。
449 :
788 :02/08/25 07:59 ID:i1u948NK
(続き) 以前、ひゃっきさんから「教義を弄んでいる」がごとき指摘を受けていましたが、 私も乾さんには同じ思いを禁じえません。 その傍証となるかどうかはわかりませんが、 446の「スーパーマンを嘘と見るか、物語と見るか」における論にとても違和感を持ちました。 >「スーパーマン」の映画を見て、「これは嘘だ、でたらめだ、我々は騙されている」 >と叫ぶ人はいません。物語であることを知っているからです。 確かに「いい大人ならば」乾さんの仰る通りです。 この「いい大人ならば」の部分が問題なのであって、 映画を見ているのが分別のない幼児だとしたら? 乾さん自身、小さいころは本気で人間も空をとべるかもしれない、と思ったことはありませんか? つまり、物語を物語として相手が認識していることを前提にしているか、ということなのです。 現に、「スーパーマン」は物語であることを知っていたが、 「オウム真理教」は物語とは思わなかった人が大勢いました。 乾さんのように、経典を物語と認識した上で仏教を理性的に理解するか。 それとも、経典をあくまで実話として仏教に感情移入するか。 それは人それぞれの捉え方があると思いますが…。
450 :
788 :02/08/25 08:00 ID:i1u948NK
(続き) 横レスなのに長々とスミマセン。 失礼ついでに、以前のカキコへのレスもらえたら幸いです。 再掲します。 >縁起を形成し得なかった者は生物学的に存在し得たと言えても、 >有情としては形成され得なかった者と考えます。 一体「いつ」をもってして「縁起を形成した」といえるのですか? もちろん、「○○才」などという生物的年令ではないですよね? また、この場合の社会的存在とはどういう意味合いですか? 「社会的存在」というのが「人間社会において他者に何らかの影響を与える存在」という意味であれば、 生後一日の赤ん坊も立派に「社会的存在」だと思うのですが。
451 :
788 :02/08/25 08:02 ID:i1u948NK
>スカちん おひさ〜 レス待ってるね。 って、またしばらく行方をくらますんじゃないだろうにぃ? 私の質問を忘れたんなら、カキコいつでも再掲しますよ。
452 :
電波塔@創価 ◆LbkSkcmQ :02/08/25 22:45 ID:yvP+GFrE
あ、スカがいる。 マスターアップ完了か?
453 :
乾闥婆 :02/08/25 23:30 ID:4eqN3c+H
>>448 >乾さんは仏教を、教義を「頭だけで」理解していないでしょうか?
教義の理解は頭でするものですからね。
思いこむことと理解することは違います。
私は思いこみたいのではなくて理解したいのですから、
そのような表現が目立つことは避けがたいです。
「体感」「実感」は行をともなわければ得られません。
行は私の場合何度か書きましたが唱題行です。
>>449 >確かに「いい大人ならば」乾さんの仰る通りです。
そうでしたら、みんな「いい大人」になるべきだと思いませんか?
>「オウム真理教」は物語とは思わなかった人が大勢いました。
やっぱり、物語であることを認識している方がいいと思いませんか?
>>450 >生後一日の赤ん坊も立派に「社会的存在」だと思うのですが。
生後一日の赤ん坊は確かに社会の網目の中にすでに投げ出されていますが、
それを生後一日の赤ん坊が認識することは不可能です。
圧倒的に親・親族・関係者にとって「社会的存在」であることでしょう。
もちろん生後一日目からその赤ん坊は自覚的「社会的存在」者への道を歩み始めるでしょう。
「いつ」「縁起を形成した」と明確に線を引くことはできないと思います。
苦しみや悲しみ喜びといった感情がフィードバックされ、言語を習得しはじめ、
類型として諸感情を蓄積できるようになり始めるあたりからではないでしょうか。
454 :
乾闥婆 :02/08/25 23:36 ID:4eqN3c+H
>>447 こんばんは。お久しぶりです。
最近姜子さんの書き込みも少ないようですね。
455 :
ひゃっきまる :02/08/27 22:08 ID:xAIlxMbH
>>443 乾さん
>単純な現世否定は、複雑に入り組んだ現代社会にはうまく対応できない。
>現実とちゃんと向き合い取り組む姿勢を主張する発想に、より実行力のある思想を見
る。
結局それは乾さんの考えというよりは、大乗仏教としての言い分ですよね。大乗仏教か
らの価値観で大乗仏教と初期仏教を比較しても意味がないと言いたかったのです。
>もちろんこれは私個人の価値観にすぎず、(略)
僕は、乾さんが初期仏教と大乗仏教をどのような関係として捉えているのかを知りたい
がために一連の質問をしてきたのですが、初期仏教と大乗仏教は異なる宗教でその優劣を
論じる事などできない、ということでよろしいのでしょうか。
僕が提示した初期仏教と大乗仏教の相違点に一つ一つ丁寧に答えていただいてありがた
く思いますが、結局のところ僕が言いたかったのは、初期仏教と大乗仏教は「異なる」も
のだ、というただそれだけです。また、どちらが優れているとか発展しているとか言うつ
もりもありません。「異なる」というのは、スッタニパータその他の初期の仏典を読んで
素直に実感したことです。このまま議論を続けてもよいのですが、乾さんがもし初期の仏
典をすでに読んでいて、僕と同じような実感を受けていないのであれば、おそらくは平行
線でしょう。
ただ、大乗仏教は歴史的人物である釈尊の教えとは違うものである、ということだけは
現代人であれば了解しなければなりません。その点はいかがでしょうか。
456 :
ひゃっきまる :02/08/27 22:09 ID:xAIlxMbH
>>444 蛇足ですが、仏性については少し面白い議題なのでレスさせていただきます。僕は、乾
さんの説明は、それが「梵我一如」の説明であっても違和感は無いと思いました。どうで
しょうか? また、「仏」という存在は「有る」のでしょうか? また、法華経に説かれ
る釈尊はほとんどキリスト教の唯一神を思わせるものですが、これも「有る」のでしょう
か?
>>445 >久遠元初
・・・という言葉自体は確かに一部の宗派だけで使われる一般的ではないものですが、
法華経での釈尊は永遠の過去から存在する、と解釈するのはごく自然であるはずです。僕
自身もその方が法華経の主旨に沿うと思うので、その立場をとるわけです。久遠元初とい
う言葉を使ってしまったのは当方のミスです。混乱させてしまったらすみません。
457 :
ひゃっきまる :02/08/27 22:09 ID:xAIlxMbH
>>446 >スーパーマン
まず確認したいのですが、乾さんは法華経(及び創価学会の教える釈尊の生涯)は物語
だということを認識すべきだとお考えでしょうか? であれば、僕と意見は一致します。
しかし現状では、少なくとも日蓮正宗と創価学会では、法華経は物語だと認識されてはい
ません。また、僕はこうも考えます。もし法華経(と創価学会の教える釈尊の生涯)を物
語だと認識すれば、その時点でそれは宗教ではなくなる、と。まず、乾さんも御指摘のと
おり、「唯一性」の根拠を失います。「唯一性」は、法華経信仰にとって、極めて、最
も、重要な要素です。
それゆえ、信仰者は法華経を物語とことわって布教することはできません。もしそんな
ことをすれば、入信する人など誰一人いないでしょう。物語を事実と「偽って」布教する
から、「嘘」になります。
「実際に困った時にスーパーマンは助けてくれるのか?」に対してはお答えいただけな
かったようですが、これは重要な問いです。法華経の中には有名な「観音経」もあります
が、ここでは「南無観世音菩薩」と唱えれば、観音様が救ってくれるという内容が書かれ
ています。だからこれは盛んに信仰されたわけですが、もしこれが物語と認識されていた
ら当然のことながら信仰されなかったでしょう。このようなわかりやすい例だけでなく、
「永遠常住の釈尊」が実際に存在するのかどうか、というのも重要なはずです。
458 :
ひゃっきまる :02/08/27 22:10 ID:xAIlxMbH
>その上で、物語の優劣(好悪?)について議論することは有効だと考えます。 物語が人の心を動かすのは、そこにはなにがしかの真実が表現されているからですね。 例えば「罪と罰」であれば、それがフィクションであっても、「現実に起こりうる」「感 情の動きが本物である」ということで、感動します。「果てしない物語」はファンタジー ですが、本の世界と現実の世界との関係を象徴的に表現しています。 しかし、一方で、「なにがしかの真実」が表現されていなくとも感動することがありま す。それは、「こうであってほしい」というものです。ヒーローがきて救ってくれる、世 の悪を退治してくれる、あるいは自分自身が変身してヒーローになる、そういったもので も人は心を動かします。 僕は大乗仏教の中に、「こうであってほしい」という気持ちを強く感じます。仏が時代 を経るにつれてどんどん神格化していったのはそういうわけではないでしょうか? ま た、現世肯定や易行がもてはやされ、僧が世俗化していったのは? 「真実が表現されている」から感動するのか、「こうであってほしいという自分の願望 を満たす」から感動するのか、よくよく考えるべきであると思います。 しかし、キリスト教では聖書は物語ではなく事実であると信徒は思っていますから、も し仏典が物語であるとするならば、仏教は外道に劣るということにもなるかもしれませ ん。
>788 「>226」「>227」くらいのあたりか?
460 :
乾闥婆 :02/08/31 00:38 ID:nS6BD9kF
>>455 >大乗仏教からの価値観で大乗仏教と初期仏教を比較しても意味がないと言いたかったのです。
私は初期仏教の発想を積極的に取り込んでゆくことで、
創価学会の不毛な他宗批判を避けることができるのではないかと考えているので、
そもそも初期仏教を大乗と比較して下げた位置に見るようなことはしていません。
ただ私の出自は大乗仏教にあり、一連の初期仏教・部派仏教から大乗仏教への変遷の中で、
その変遷自体を評価する立場にあるというだけのことです。
>初期仏教と大乗仏教は異なる宗教でその優劣を論じる事などできない、
ということでよろしいのでしょうか。
優劣を論じることに、私自身は興味を感じていません。
論じたい人は論じてもいいと思っています。それほど無益なことではないでしょう。
初期仏教と大乗仏教はまったく異なる宗教だとは思いません。
先にも書きましたとおり苦を解決する糸口として縁起を採用している点で、
繋がっていると考えています。
それにインド仏教なくして中国仏教はあったでしょうか、
中国仏教なくして日本仏教は突然変異的に発生することが可能だったでしょうか。
それらはまったく異なるのではなくて、明らかに変遷の結果としてあるはずです。
461 :
乾闥婆 :02/08/31 00:40 ID:nS6BD9kF
>>455 (続き)
>「異なる」というのは、スッタニパータその他の初期の仏典を読んで
素直に実感したことです。
スッタニパータを読んで、私が素直に感じたことは、
これは創価学会員も読むべきだと言うことでした。
これを足代などといって捨ててはいけない、むしろ建物の土台であるべきだ、と感じました。
>ただ、大乗仏教は歴史的人物である釈尊の教えとは違うものである、ということだけは
現代人であれば了解しなければなりません。その点はいかがでしょうか。
もちろん当然のことです。大乗諸仏典を歴史的実在のブッダが説いたとはフィクションです。
462 :
乾闥婆 :02/08/31 00:48 ID:nS6BD9kF
>>456 >乾さんの説明は、それが「梵我一如」の説明であっても違和感は無いと思いました。
そうでしょうか。例えば私の説明でブラフマンに該当する語句はあるでしょうか。
>また、「仏」という存在は「有る」のでしょうか?
もちろん固定的実体としてはありません。状態として「ある」はずです。
ブッダとは悟った状態にある者、つまり覚者のことですからね。
といいますか、そのような無我を観じて涅槃を現ずる仏のあり方が「ある」、
つまり可能である、と信じることが仏教という信仰ですよね。
>法華経に説かれる釈尊はほとんどキリスト教の唯一神を思わせるものですが、
これも「有る」のでしょうか?
それはまったく違うと思います。キリスト教の唯一神は、人格神です。
創造の神であり、契約する神であり、審判する神です。
契約に従わないユダヤの民を殺したりする神です。
ブッダとは覚者であり、ゴータマはその中の一人であり、仏教の創始者といわれている人ですね。
そして覚者であるはずのゴータマは死去してしまった。
覚者(ブッダ)がまだ悟らずに迷っている衆生を残して死んでしまってはまずいわけで、
肉体的拘束を受けない新しいブッダ観が生じてきます。
それが法華経に説かれる久遠の釈尊です。
久遠の昔に成道していたし、これからもあり続ける者として、描かれたのです。
そして常に衆生に仏身を成就させようと考えている、というわけです。
様々な現象に対して能動的に行動を起こす人格神とは違って、
覚者(ブッダ)という一つの理念的なあり方が抽象化された形として、
法華経に描かれているのではないでしょうか。
463 :
乾闥婆 :02/08/31 01:07 ID:nS6BD9kF
>>457 >まず確認したいのですが、乾さんは法華経(及び創価学会の教える釈尊の生涯)は物語
だということを認識すべきだとお考えでしょうか?
そうです。
>もし法華経(と創価学会の教える釈尊の生涯)を物語だと認識すれば、
その時点でそれは宗教ではなくなる、と。
もしそれが宗教と呼ばれないのであれば、それでもかまわないと思います。
私は物語であることを認識して題目を上げるばかりです。そして私はそれを宗教だと思っています。
ひゃっきまるさんは勤行・唱題をされているようですが、
それでは法華経を物語ではなく事実と信じて、それらの行に取り組んでいるのでしょうか?
それともひゃっきまるさんが言うところの、宗教ではない状態で、
つまり物語であることを認識して行じているのでしょうか。
>「唯一性」は、法華経信仰にとって、極めて、最も、重要な要素です。
一仏乗にしても久遠の釈尊にしても、確かに統合という点に法華経の指向性があることは事実です。
では統合されるべき頂点としての法華経という教えはなんなのかというと、よく分からない。
法華経の中に法華経は出てくるのだし、ではその法華経とは何かというとよく分からない。
法華経というのはやはり物語である、とつくづく思います。
メタ・フィクションの要素さえあります。法華経二十八品とは法華経を説くお話、なのでしょう。
唯一性とはむしろ法華信仰グループによって強調されてしまうもので、
そのような主張が重要なのはそのグループにおいてなのであって、
別に法華経にとって重要なわけではないと思います。
法華経がそのような主張を誘発する内容を持った物語であることには違いないとは思いますが。
464 :
乾闥婆 :02/08/31 01:09 ID:nS6BD9kF
>>457 (続き)
>物語を事実と「偽って」布教するから、「嘘」になります。
物語を物語として勧めればいいのです。信じる信じないは、その人の勝手です。
> 「実際に困った時にスーパーマンは助けてくれるのか?」に対してはお答えいただけな
かったようですが、これは重要な問いです。
私の主張してきた文脈からすれば、当然そんなことはありえません。
>ここでは「南無観世音菩薩」と唱えれば、観音様が救ってくれるという内容が書かれ
ています。
私も観音経を読んだときは驚きました。これではまるで「スーパーマンではないか」と。(笑)
しかし例えば、この観世音菩薩の姿は、法華経を広める菩薩としての慈悲の姿であると見ると、
きわめて比喩的な姿を現していると思うのですね。
常不軽菩薩もまた修行者の一つの姿として現れていると思うのです。
観音経はもちろん単独の経として普及し信仰されましたが、
救われる側と救う側の関係が交差する法華経の中に組み込まれてみると、
法華経を保ちそれを広めようとする者の理想的姿として、
比喩的に表現されたように見えなくはないでしょうか。
長行の最後に、無尽意菩薩から観世音菩薩に宝珠が供養されようとして、
これを受けず、釈尊に促されてようやく受け取り、それを二つに分けて、
釈尊と多宝如来に奉ったという挿話など、地涌の菩薩を感じさせるように思います。
>「永遠常住の釈尊」が実際に存在するのかどうか、というのも重要なはずです。
実際に存在するかどうか、という問いは、
永遠であるところの釈尊をその存在を問う対象とする場合、不毛です。
永遠なるものが実際に存在しうるでしょうか。
久遠であるとは、そのような実際存在を超えるゆえに、久遠なのではないでしょうか。
実際に存在するものは永遠ではあり得ません。
465 :
乾闥婆 :02/08/31 01:10 ID:nS6BD9kF
>>458 >「真実が表現されている」から感動するのか、「こうであってほしいという自分の願望
を満たす」から感動するのか、よくよく考えるべきであると思います。
それはなかなか不可分なことではないでしょうか。
「真実」とはなんでしょう。
「こうであってほしい」という思いが「真実」へとすり替わってゆくことはあることです。
主人公が金貸しの老婆を殺す心理が「真実」なのでしょうか。
その殺害から更生する心の動きが「真実」なのでしょうか。
それらは物語です。
それらしく書かれてあることと、日常性を離れて書かれてあることと、
結局は物語であることに違いはありません。
心を動かされ感動するから、その人にとって「真実」になるのです。
外在的に「真実」なるものがあるのではないと思います。
ひゃっきまるさんのいっていることは物語の表現方法として、
現実主義風である表現を取るか、超現実主義風の表現を取るか、
という方法論の違いにすぎません。
「真実」とはそのような方法論とは違った次元で語られるべきではないでしょうか。
>しかし、キリスト教では聖書は物語ではなく事実であると信徒は思っていますから、も
し仏典が物語であるとするならば、仏教は外道に劣るということにもなるかもしれません。
仏教徒も仏典を事実だと思っているのですよね。
だから私はそれを物語として認識すべきだと言っているのです。
キリスト教においても同じことです。
聖書を物語だと認識すべきだと、つまり私は言っているわけです。
466 :
:02/08/31 04:21 ID:???
レディース4を見てたら、最後の名僧10人へのインタビュー本を書 いた著者が出てた。 仏教の教えからすると、自分というものはない。様々な自分という 寄せ木細工だって言ってた。三島が仮面の告白で書いたように、人 は様々な仮面を持つわけで、その仮面の集合に個人名を付けているっ て感じなのかな。 あと、自分の心の闇=自分の醜さや汚さといった悪の部分を見つめ て、どん底まで落ちる、ある種の虚無を感じることが大切だっていっ てた。その時に、神や仏にすがるのでは安易な考えで、自分を取り 巻く自然を理解することが重要なんだっていってた。自分が自然の 要素の一つに過ぎないってことなんだと思う。 自分という存在に関していえば、自分=1=2/2=1億/1億と いう考え方が大切だっていってた。自分を1/2、1/1億とか考 えるのは間違いってこと。 学会の人間革命=自己改革なんだけど、自己というのは我欲に囚わ れた虚像にすぎないわけ。そうすると、我欲に囚われた自分を、我 欲が求めるままに変えていくのが人間革命ってことになってしまう。 また困難にぶつかった時に、題目にすがるのが創価学会の指導なわ けだから、安易な考えだよね。そもそも自分という存在があるとい う前提に立つのが人間革命なわけだから、仕方ないんだけど。 創価学会は、仏教じゃなくなってる。仏教の経典を用いてるだけの ような気が…
池田大作先生を独裁者だと思ったり決めたりする奴は自分の意志などない奴よ。 夢も希望もない奴よ。 勝手になんとでも言ってりゃいい^_^;
・・・こら! 誰かなんかいうてくれ。 寂しいではないか^^;
469 :
池田氏ね :02/08/31 05:15 ID:gOgW7CHw
池田氏ね。邪魔本小鉢とともに氏ね。 以上
>>469 ははは・・・ほんとにそうなっちゃうかもね・・。
そうなったらどうする?^_^;
>>469 ちゅうか、邪魔本小鉢てタイプミスかい?
これじゃ邪魔本小鉄は死ぬに死ねないジャンかよ^^;
472 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :02/08/31 07:29 ID:TWaa9A1D
>そうなったらどうする?^_^; 別にだれも困らんよ。 「おれがいなければ…」なんて思っているヤツほど いなくなってほしいんだから。
>>472 それは君の本音?^^;
474 :
ひゃっきまる :02/09/02 02:10 ID:3cwpxsLN
>>460 乾さん
毎回丁寧なお返事ありがとうございます。乾さんの考えは大体のところ分かりますし、
僕の考えともそう大きく違うわけでもないと思っています。また、創価学会及び日本仏教
の教義が重要な部分で破たんしていながらも、やはり仏教や宗教そのものの価値を認めて
いる点でも共通していると思います。全てにレスはできませんが、レスのないものは基本
的に同意、もしくは了解という意味にうけとってください。
>ただ私の出自は大乗仏教にあり、(略)その変遷自体を評価する立場にあるというだけの
ことです。
僕自身の素直な宗教観として、宗教とは時代を超えた真実を語るものであるとの思いが
あります。実際、様々な偉人、宗教者、哲学者の言葉には、その時代の言葉を用いてはい
てもその奥に普遍性を感じることができるし、それゆえに人は感動します。ですから僕は
変化そのものを評価する事はできません。それができるとすれば、「本質」は失われてお
らず、時代に即応した形に変化することをもってです。その点、僕は初期の仏教の本質は
大乗仏教においては失われていると考えています。(だからといって大乗仏教が必ずしも
劣っているといいたいわけではなく、異なる信仰のあり方に変質している、と考えていま
す)乾さんは失われていないと考えているから意見が相違するのでしょう。
むろん、インド、中国、日本と仏教は連続性をもち伝わったでしょう。インド仏教なく
ば中国仏教はなく、中国仏教なくば日本仏教はありませんでした。しかしそれをもって
「本質」が保たれた証明にはなりません。ペンギンは鳥から進化し、また鳥であるには違
いありませんが、鳥の最大の特徴である「飛ぶ」という能力を失っています。
475 :
ひゃっきまる :02/09/02 02:11 ID:3cwpxsLN
>>461 >スッタニパータを読んで、(略)
>これを足代などといって捨ててはいけない、むしろ建物の土台であるべきだ、と感じまし
た。
その点は僕も同じことを感じました。というよりは、現在創価学会で信じられている仏
教史ではなく、「実際の」仏教史、仏教がどのような変遷を経てきたのか。その点を正確
に認識し、新たな目で研究しなおすべきであると感じました。法華経はある意味、初期の
仏教に立ち返った思想が多く語られています。
>>462 >例えば私の説明でブラフマンに該当する語句はあるでしょうか。
梵我一如とは、広辞苑には「宇宙の根本原理である梵(ブラフマン)と我(アートマ
ン)とが同一であるというもの。このことを直観すれば、輪廻を超越できるとする」とあ
ります。梵我が同一である状態とは計りがたいものですが、それを言葉として説明すれば
一つの解釈として
>>444 のような説明の仕方もありうると思いました。「単一に存在しうる
常住の実体」にたいするこだわりを捨てて、本来の我(仏性=梵我一如)を獲得する事が
悟りである、と。
476 :
ひゃっきまる :02/09/02 02:12 ID:3cwpxsLN
>それはまったく違うと思います。キリスト教の唯一神は、人格神です。 蛇足かもしれませんが、僕がキリスト教の神と法華経の釈尊が似ているという理由を説 明します。まず、永遠の存在であること、全人類を導き救済しようとしていること、愛 (慈悲)をもっていること、万能の力をもっていること、「父」として表現されること、 祈ることによって出現すること、などです。「人格神」という言葉がでましたが、法華経 の釈尊は立派な人格神といえると思います。仏が法と一体(同一)であるという部分は、 三位一体の教義に似ていると思います。確かに釈尊と創造神とはその由来が全く異なりま す。しかし、信仰者にとって信仰の対象としてイメージされる両者は、かなり似ているの ではないでしょうか。 >覚者(ブッダ)という一つの理念的なあり方が抽象化された形として、 >法華経に描かれているのではないでしょうか。 では、法華経に説かれる釈尊は物語の存在(キャラクター)であって現実には存在しな い、ということでよろしいでしょうか。
477 :
ひゃっきまる :02/09/02 02:14 ID:3cwpxsLN
>>463 >それでは法華経を物語ではなく事実と信じて、それらの行に取り組んでいるのでしょうか?
>では統合されるべき頂点としての法華経という教えはなんなのかというと、よく分からない。
>法華経の中に法華経は出てくるのだし、ではその法華経とは何かというとよく分からない。
>法華経というのはやはり物語である、とつくづく思います。
例えば、の話をします。例えば、釈尊を信仰しているある仏教徒が、眠っているときに
夢の中で信じられないような偉大な説法の光景を観たとします。その夢とはなんなので
しょうか。僕は、それは現実に起こったことではないけれども、やはりある種の真実であ
ると思います。それはその人の心の内奥を表現したものだからです。物語であっても同じ
事です。やはりその人の心の内奥を表現したものでしょう。そしてその中には作者自身も
気付かない深い哲理が含まれていることもありうることです。
法華経とは、その具体的内容が語られず、しかし最高の法であることだけが語られてい
るというそのことが、「逆に」最も重要であると思います。法華経に感じた時代時代の人
間が、無意識に自身の心の内奥にある「最高の法」を法華経という言葉にたくして引き出
す事ができるからです。鳩摩羅什らが正法を妙法と、五如是を十如是に意訳したり、そこ
から天台が一念三千を引き出したり、大聖人が南無妙法蓮華経を引き出したりできたの
も、それゆえであると思います。創価学会では「生命」でしょうか。
ですから、やはり唯一であり、最高である、ということこそが法華経の要であると思い
ます。
478 :
ひゃっきまる :02/09/02 02:15 ID:3cwpxsLN
>>464 >物語を物語として勧めればいいのです。信じる信じないは、その人の勝手です。
これは明らかにおかしいと感じます。はじめから「物語」とことわっていれば、信じる
も信じないもないでしょう。はじめからお話だと言っているのに、「いや、私は本当のこ
とだと思う」と言う人はいないでしょう。「事実」とことわって教え、信じるも信じない
も勝手と言うならば通りますが。
乾さんは、「物語」としても信仰や宗教の骨子は保たれると御考えのようですが、乾さ
んも創価学会の家に生まれたのならば(たしか僕と同じように二世でしたよね?)、はじ
めは物語とは思っていなかったはずです。
以前に乾さんご自身が言っていたと思うのですが、一度宗教として確立したものはその
一番根幹を支える前提が崩壊しようとも、宗教や信仰心は一度形作られたその教義体系
(システム)の中で自立して存続する、というようなことを言っていたと思います。
個人レベルでも同じ事で、一度自分の心の中で信仰心が確立されると、理屈うんぬんは
抜きにして信仰心は保たれると思うのです。もちろん教義体系の崩壊は大きな変化をもた
らすはずですが、それを「止揚」して、それまでよりも普遍的な信仰を求める動きがある
かもしれません。僭越ながら僕自身もそうですし、キリスト教のスコラ哲学もそうしたも
のでしょう。
しかしそれはあくまでも「はじめは物語とは思っていなかったから」のはずです。やは
りはじめから物語・フィクションとことわっていては、それは宗教にはなり得ないと僕は
考えます。人の心理は、事実をより重要なものとして捉える傾向があります。いくらうさ
ん臭くとも「本当にあった恐い話」の方が、精巧につくられたフィクションの恐い話より
も恐いと感じます。本当だと思うからこそ、より、心の深部でその内容を受け入れ、理解
することができます。
479 :
ひゃっきまる :02/09/02 02:17 ID:3cwpxsLN
>久遠であるとは、そのような実際存在を超えるゆえに、久遠なのではないでしょうか。 >実際に存在するものは永遠ではあり得ません。 「空」を説く仏教だからこそ、そのような論理学的説明の仕方が可能なのかもしれませ んが、日常的な感覚ではそれではとうてい納得できるものではありません。それで信仰し ようと言う人も皆無でしょう。法華経とは永遠の釈尊に対する信仰です。信仰の対象が実 際に存在するかどうかは重要なはずです。それとも、乾さんは信仰とは個人の心のもち方 に全てが集約される、純哲学的なものだと御考えなのでしょうか。確かに初期仏教や禅宗 はそのようなものであると思いますが。
480 :
ひゃっきまる :02/09/02 02:19 ID:3cwpxsLN
>>465 >「真実」とはなんでしょう。
>外在的に「真実」なるものがあるのではないと思います。
>物語の表現方法として、現実主義風である表現を取るか、超現実主義風の表現を取るか、
という方法論の違いにすぎません。
「真実」とは、「偽り」ではないことです。
乾さんの真実の捉え方は、あまりに「唯心論」「観念論」に偏っているように思いま
す。スーパーマンになりたいと日々思い続けている人間がスーパーマンになれるとでもい
うのでしょうか。スーパーマンに助けてほしいと心から懇願すれば、実際に助けに来てく
れるとでもいうのでしょうか。
「罪と罰」に真実が語られているのは、その当時の社会状況や人間を物語の「原型」
(鋳型、元)としているからです。転写元が真実であれば、転写物も真実そのものではな
いにしても保たれるものがあるでしょうし、エッセンスが精製され、より純粋なものにな
ることもあると思います。
481 :
ひゃっきまる :02/09/02 02:20 ID:3cwpxsLN
以下は、乾さんへの反論ではありません(一応)。 確かに、【外在的に「真実」なるものが(それそのもので独立して)あるのではない】 と、僕も思います。といっても真実は個人の主観的感覚だけに拠るものでも決してありま せん。例えば、科学はある種の真実を追求するものですが、それらは客観的方法によって 検証され、それゆえに「真実」として認められるのです。 いわば、個人の内界(正報)と客観的外界(依報)とが絶妙なる一致をみせたときにそ れが「真実」という相をとるのではないでしょうか。片方だけに寄った見方はどちらも誤 りを含んでいると思います。「果てしない物語」でも、現実と物語の間を行き来して人間 が成長する事が語られています。 心の世界が先なのか、外の世界が先なのか、というのは難しい問題ですが、どちらかが 先に独立して存在する、と言ってしまうことは誤りを含んだ表現になると思います。とに かくも、単なる「願望」や「思い込み」は決して真実ではありませんし、それが真実に変 わるということもありません。 それゆえに「偽り」には気をつけるべきだと、仏典の要所要所にもあります。実際に 「偽り」や「熱狂」に踊らされた末に起こった悲劇も数多くあります(宗教戦争、人種差 別、魔女狩りなど)。真実と虚偽を見分ける事は人間にとって極めて重要な「能力」であ り、よりよく生きるため「必要」なことです。それを無意味とする論には断固として反対 します。
482 :
ひゃっきまる :02/09/02 02:21 ID:3cwpxsLN
>キリスト教においても同じことです。 >聖書を物語だと認識すべきだと、つまり私は言っているわけです。 聖書がフィクションであるかどうかというのは大乗非仏説よりも古い議論となります ね。もちろん現代的な世界観からは、神の七日間の創造、モーセの起こした奇蹟、処女受 胎などは信じ難い出来事です。しかし、それが、フィクションである、というはっきりと した証拠はありません。はっきりとしないものをわざわざ物語だと強弁する必要もないで しょう。
483 :
Sb ◆euHcFBHE :02/09/02 13:16 ID:wovSzZQy
よこれすします。 ユダヤ教的な発想が仏教に入った事により、 法華経が誕生したと考えられませんでしょうか? もしくは、大乗仏教が発生したとは
484 :
ひゃっきまる :02/09/02 23:16 ID:mO2nJqYt
>>483 大変面白い仮説だと思います。僕も同じようなことを考えた事があります。
しかし、一方でイエスの画期的な宗教改革的主張も、仏教の教えを契機
としたのではないか?と考える事は可能でしょうか(ちょうど法華経は紀元
前後に成立)。確かにイエスの主張の中には仏教的要素を見ることができる
と個人的には思います。
単なる予想になってしまいますが、両者は同じ時代に生きる人々の要請を
受けて、互いに似たような思想を持つものに収斂的に変化したのではないか
と思います。実際に両者が直接影響を受けた結果とも考えられます。
ただ、仏教に関して言えば、インドでは伝統的に修行者や覚者に帰依する
という宗教感があります。
485 :
乾闥婆 :02/09/03 01:19 ID:wHKlw3rC
>>474 インド仏教からの連続を日本仏教内に見出すことによって、
つまり歴史という大きなフレームにかけることによって、
宗派や教義の違いによる確執を超えたいという思いが、私にはあるわけです。
>>475 梵我一如が三宝印の涅槃寂静に通じるでしょうか。
仏性を無自性において捉える限り、梵我一如とは同一ではありえないと思うのです。
>>476 聖書における人格神と久遠の釈尊は性質が異なると思うのです。
久遠の釈尊は人格を有する能動的主体であるより、
むしろ悟りの境地を示すイデアであると思うのですね。
信仰する我々もそこを目指すわけです。
聖書に出てくる神は、むしろ信仰する民と争う神といいますか、
少なくとも信仰者は神になろうとは絶対にせず、
人格を有する神に対して畏怖しつつ「父なる神よ」と語りかけるのです。
ひゃっきまるさんは教会で祈ったことがありますか。「主の祈り」を口にしたことはありますか。
私の実感としては、勤行・唱題と、神に対する祈りは、性質がまったく異なるように思います。
>では、法華経に説かれる釈尊は物語の存在(キャラクター)であって現実には存在しな
い、ということでよろしいでしょうか。
はい。
486 :
乾闥婆 :02/09/03 01:20 ID:wHKlw3rC
>>477 >法華経とは、その具体的内容が語られず、しかし最高の法であることだけが語られてい
るというそのことが、「逆に」最も重要であると思います。
私もそう思います。つまり唯一・最高である法の内容は語られない。
ただすべての人間は仏知見を有しているし、久遠の仏は霊鷲山で法華経を説き続けている。
それだけですね。本当は宗派に別れた争いを止揚する経であったのではないかとさえ思います。
487 :
乾闥婆 :02/09/03 01:21 ID:wHKlw3rC
>>478 確かに私たち二世の抱えている問題点は、はじめに創価学会の抱える教義、
特に仏教史に関する教義を「事実」として教えられた状況から出発している部分にあるでしょう。
おそらくまわりの人たちから見て、二世にとって何が問題であるのか、
私たちの議論を読んでいても分かり難いと思うのですが、
「間違った」「事実」から信仰をスタートさせてしまった人間にとって、
その前提となる「事実」が崩れた跡に、いかに自分の信仰心を処理するか、
という部分こそ、最重要課題であると思うのです。
私が初期仏教からの歴史の中に日本仏教を見出すよう努めているのは、
仏教史という「事実」の中で、法華経・日蓮というフィクションを、
信仰対象として再措定しようと考えているからだと思います。
もちろん出来上がったシステムの中で信仰を維持するという手もあるのでしょうが、
私は仏教史という別システムを自分の意識の中に作りたいと思っているのですね。
その中で自分の信仰心をやはり再措定しようと考えているようなのです。
ひゃっきまるさんと話していて不思議なのは、
どうしてあなたは勤行・唱題が可能なのか、よく分からない点です。
法華経を「事実」としては否定しているように見える。
しかし信仰としては維持しているように見える。
私は仏教史という枠組みの中で成立した物語の持つ効力を信じることで、
つまり物語を成立させた歴史的「事実」を信じることで、
信仰を維持しようと目論んでいるわけですが、
ひゃっきまるさんはもちろんそのようには見えない。
ひゃっきまるさんがどのように信仰を維持しようとしているのか、
どう現行の教義を止揚し、普遍的な信仰を求めているのか、
それがよく見えてこないのです。
488 :
乾闥婆 :02/09/03 01:23 ID:wHKlw3rC
>>479 >法華経とは永遠の釈尊に対する信仰です。信仰の対象が実際に存在するかどうかは重要なはずです。
仏教は実在に対する信仰ではないはずです。
あくまで、実体がない状態を正しく知ること、です。
そのような知覚の体現者としての釈尊が、理念としてあること、それを信じること、
それで充分なのだと思います。
>>480-481 >「真実」とは、「偽り」ではないことです。
久遠の仏は「偽り」でしょうか。
そのような理念を信じる者にとって、それは「真実」ではないでしょうか。
>「罪と罰」に真実が語られているのは、その当時の社会状況や人間を物語の「原型」
(鋳型、元)としているからです。
久遠の仏という物語もまた「当時の社会状況や人間」の切なる思いを「原型」としてるからこそ、
「真実」として人の心を打つのではないでしょうか。
物語が「真実」であるためには「事実」を材料としなければならない、
ということはないと思います。
私が「唯心論」「観念論」に偏っているのであれば、
ひゃっきまるさんは「事実」にこだわりすぎていると思います。
依正不二であるならば、心の側に起こっていることを落としてはいけないでしょう。
客観的方法によって検証される「事実」のみが「真実」ではないことを知るべきです。
私はひゃっきまるさんの書かれた「真実」という言葉は、
ほとんど「事実」という言葉に書き直されるべき内容だと思います。
489 :
乾闥婆 :02/09/03 01:24 ID:wHKlw3rC
>>482 >しかし、それが、フィクションである、というはっきりとした証拠はありません。
はっきりとしないものをわざわざ物語だと強弁する必要もないでしょう。
ひゃっきまるさんらしくもありません。
では大乗仏典に対しても同じ態度で臨まれるべきでしょう。
490 :
乾闥婆 :02/09/03 01:35 ID:JcCdR0Zi
>>483-484 確かに大乗興起前には異民族のインド北西部への侵入などがあり、
ヘレニズム文化の影響はあったようですね。
法華経にイデア的な発想が見られたり、
浄土教にキリスト教との類似が感じられたりしますね。
くだらん横レス失礼。 どうしてひゃっきまるさんも、乾闥婆さんも、(姜子さんも)ソウカなんでしょう?? 乾闥婆さんのおっしゃる内容は、ソウカ教義に相容れられるものとは到底思えないの ですが。2世の呪縛は再構築しても受け入れざる得ない程強いのですか?
492 :
ひゃっきまる :02/09/04 01:41 ID:9sY5+jq6
>乾さん
>>485 >つまり歴史という大きなフレームにかけることによって、
>宗派や教義の違いによる確執を超えたいという思いが、私にはあるわけです。
それはある意味での「ゆるやかな統一」を目指したものと言えますね。「連続のある」
ということにおいて仏教の諸宗派は同じものであるという。しかしそれが本当に価値的な
作業といえるのかは僕には疑問です。
>仏性を無自性において捉える限り、梵我一如とは同一ではありえないと思うのです。
梵我一如の状態を無自性の状態と規定するならば可能ですし、そのような教義はなんら
特異な発想ではないと思います。
>久遠の釈尊は人格を有する能動的主体であるより、
>むしろ悟りの境地を示すイデアであると思うのですね。
法華経に限らず三身をとる仏は皆、人格神であり、イデアといえるでしょう。また、キ
リスト教の神もそのようなものとして語られます。神と同一であるイエスのように生きた
いと思うという意味で「神になろう」としているのだし、人は神の似姿として作られたと
いう部分も、単に神を畏怖の対象としてではなく、「目指すもの」「志向するもの」とし
てのニュアンスを含みます。
このこと(仏教とキリスト教が似ていること)は逆に、僕には信仰とは普遍的なもの、
という確信を抱かせるものです。
493 :
ひゃっきまる :02/09/04 01:58 ID:kD8LOuDu
>>478 >仏教史という「事実」の中で、法華経・日蓮というフィクションを、
>信仰対象として再措定しようと考えているからだと思います。
その点は僕も同じです。しかしそれは価値的な試みであると同時に、どうしてもフィク
ションとノンフィクションとの間にある差異を大きな問題として抱えてしまうと思いま
す。たとえば、古事記などの神話部分は、それがイザナミ、イザナギくらいまでの話な
ら、意外と受け入れやすく思えます。このときにフィクション、ノンフィクションはあま
り問題にならないからです。
>ひゃっきまるさんがどのように信仰を維持しようとしているのか、
>どう現行の教義を止揚し、普遍的な信仰を求めているのか、
>それがよく見えてこないのです。
法華経の受記の出来事を思い起こしてみてください。はじめは理論のみで語り、そのと
き理解したのは舎利弗だけでした。次には譬喩で語りましたが、やはり全ての衆生を理解
させることはできませんでした。最後には釈尊との直接の因縁を語り、そのときはじめて
全ての衆生が理解しました。
つまりここでも、「事実」のみが万人を納得させうる、ということが表現されていま
す。しかし、教えの骨子は実は理論(イデア)が先である、というのが僕の考えです。
信仰の対象となるもの、それを仮に「妙法蓮華経」と名付けるわけですが、それは永遠
であり、普遍であり、また永遠であり普遍であることそのこと自体がその定義であるとも
いえると思います。この存在を僕は信じています。
その時代時代によって語られる「事実」は、イデアの表現方法なのですから、変わって
いくはずです。現代ではそれは、科学、特に生命科学によって語られているのではないで
しょうか(現代では、というよりも、僕自身の感性によるものですが)。
494 :
ひゃっきまる :02/09/04 01:59 ID:kD8LOuDu
>>488 >私はひゃっきまるさんの書かれた「真実」という言葉は、
>ほとんど「事実」という言葉に書き直されるべき内容だと思います。
非常に端的に表現すれば、あえて「事実」と「真実」という言葉を使い分けていうと、
『事実に反する真実はない』と僕は考えています。つまり、「事実」と「真実」が対立す
ることはありえない、ということでもあります。仏教の五蘊の考え方は、むしろ人間が事
実をどうしても誤ってとらえること(認識の不完全性)を表現しているとも思います。も
ちろん事実にしても真実にしても、それ単独で独立して存在しないだろうということは前
にも述べたとおりですが。
たとえば、「人によって真実は違う」という言葉を僕は信じません。それは単なる主観
的感覚の迷い、もしくは経験の違いです。真実とはそのような浅い層に存するのではな
く、全てにとって一致する普遍を表現するものと思いますし、そうでなければ真実という
言葉の意味さえ失ってしまいます。
>>489 >では大乗仏典に対しても同じ態度で臨まれるべきでしょう。
聖書と大乗仏典ではだいぶ事情が異なると思います。
ひゃっきまるよ。 491に答えてやってくれ。
496 :
ひゃっきまる :02/09/04 22:10 ID:m+QVRwl4
>>491 ,
>>495 何度も書いてきたことではありますが、僕は創価学会の全てを
否定するわけでも全てを肯定するわけでもありません。また信仰
や宗教を否定するわけではありません。
また、具体的には(何を肯定し何を否定するのか)今まさに議
論している内容が答えとなるはずです。
>>460 ,
>>474 ,
>>487 ,
>>493 には直接にそのことが書かれています。
横レス失礼します。 ひゃっきまるさん、乾闥婆さん 日蓮系の宗教団体には創価学会の他に、立正佼正会や霊友会があると 思いますが、立正佼正会や霊友会についてはどう思われますか? 創価学会と同じような認識で捉えているのでしょうか?
立正佼正会や霊友会は日蓮宗系。創価学会は日蓮正宗系。
>498 あ、そうだったの?そこまで知らなかった。 では、聞き直そう。 ひゃっきまるさんと乾闥婆さんは日蓮宗の正統性について はどう思ってるんだろう。
500 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :02/09/05 00:45 ID:1vh0XvS/
>498 ついでに聞いておきたい。 立正佼正会や霊友会は、日蓮宗のどこかの宗派とくっついていたの? かつての日蓮正宗と創価学会のように。
501 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :02/09/05 00:46 ID:1vh0XvS/
500は=497、499です。
502 :
491 :02/09/05 00:46 ID:???
495さん、ありがとう。 ひゃっきまるさん、「創価学会」固有の「良さ」をご教示頂ければという考えで お聞きしました。すみません。今後の論議を引続き拝見させて貰いますね。
503 :
乾闥婆 :02/09/05 01:34 ID:Y7exa4VY
>>492 >しかしそれが本当に価値的な作業といえるのかは僕には疑問です。
価値的な作業とはなんでしょうか?
>梵我一如の状態を無自性の状態と規定するならば可能ですし、
梵我一如が無自性の状態と規定されていないから、仏教から批判されたのではないでしょうか。
もし梵我一如が無自性であり無我の状態を指すのであったら、
大乗に限らず仏教とバラモンを分かつものは何もなくなるのではないでしょうか。
504 :
乾闥婆 :02/09/05 01:35 ID:Y7exa4VY
>>492 (続き)
>法華経に限らず三身をとる仏は皆、人格神であり、イデアといえるでしょう。
イデアと人格神は並び立たないと思うのですが・・・。
確かに人格神としての性格は、旧約に色濃く表れていて、
新約になると、ロゴスとしての神が強調されはじめ、変質してゆくのかも知れません。
>神と同一であるイエスのように生きたいと思うという意味で「神になろう」としているのだし、
キリスト教徒で「神になりたい」と思って信仰している人はいないと思いますが・・・。
私が教会に通っている時期、牧師からもそのような話は聞いたことがありません。
信仰者からもそのような声は聞いたことがありません。
>人は神の似姿として作られたという部分も、単に神を畏怖の対象としてではなく、
「目指すもの」「志向するもの」としてのニュアンスを含みます。
私は浅学にしてそのような解釈ははじめて聞くのですが、
どのような本に書かれてあったのでしょうか。
>このこと(仏教とキリスト教が似ていること)は逆に、僕には信仰とは普遍的なもの、
という確信を抱かせるものです。
おそらく、私が仏教の連続性を求め、それを信仰を支える契機にしようとしているように、
ひゃっきまるさんも、そのような他宗教との類似性を見出すことによって、
ご自身の信仰の寄って立つ場を探られているのではないでしょうか。
私は自分のやり方の恣意性をはっきりと認識していますが、
ひゃっきまるさんはどうでしょうか?
505 :
乾闥婆 :02/09/05 01:36 ID:Y7exa4VY
>>493 >どうしてもフィクションとノンフィクションとの間にある差異を
大きな問題として抱えてしまうと思います。
ノンフィクションにおけるフィクション性ということを考えています。
ノンフィクションは語る側の主観が必ず混じり、編集されます。
それはどのようにしても排除し切れません。
私はそれは仕方がないし、かまわないと思っています。
虚実皮膜の間にこそ、書かれてあるものは存在する、
そのことを認識して物事を見よう、といっているわけです。
>それがイザナミ、イザナギくらいまでの話なら、意外と受け入れやすく思えます。
なぜ受け入れやすいのか。それは明らかな物語だからではないでしょうか。
その認識を持つことが書かれてあるものを理性的に受け入れる素地をつくるのだと思います。
506 :
乾闥婆 :02/09/05 01:38 ID:Y7exa4VY
>>493 (続き)
>つまりここでも、「事実」のみが万人を納得させうる、ということが表現されています。
譬喩はまさに物語であるし、
虚空会の儀式に到っては、まるでスペクタクルのようになってしまい、
ついには久遠の釈尊が明らかにされる。
そこで語られていることは「実際にあった話」なのではなくブッダ(覚者)という理念です。
衆生の理解というのも法華経内で描かれるフィクションです。
「実際にあった話」でありえるとすれば、
それは法華経という物語の内部における登場人物においてであり、
我々はその物語を丸ごとを外部から読むのです。
そしてそのように語られる理念に賛同する人間が、信仰者となるのでしょう。
法華経という物語の抱える理念に心打たれた人が信仰すべき経として選ぶのです。
その理念こそ信仰者にとって真実であるのではないでしょうか。
507 :
乾闥婆 :02/09/05 01:39 ID:Y7exa4VY
>>493 (続き)
>しかし、教えの骨子は実は理論(イデア)が先である、というのが僕の考えです。
イデアは理念です。理論ではありません。
法華経でいうならば、虚空会の儀式において、その理念は頂点に達し、
久遠の仏といういのちの原型が示されるのだと思います。
それを語る手段として法華経というフィクションが用いられるわけです。
>信仰の対象となるもの、それを仮に「妙法蓮華経」と名付けるわけですが、それは永遠
であり、普遍であり、また永遠であり普遍であることそのこと自体がその定義であるとも
いえると思います。この存在を僕は信じています。
私も実にそのように考えています。
それを語る手段が事実であるかフィクションであるかは、どちらでもいいはずです。
>その時代時代によって語られる「事実」は、イデアの表現方法なのですから、変わって
いくはずです。現代ではそれは、科学、特に生命科学によって語られているのではないで
しょうか(現代では、というよりも、僕自身の感性によるものですが)。
ということは表現方法として、もう法華経は駄目であると、
ひゃっきまるさんは考えているのですか。
もしそうであるのならなぜ勤行・唱題が可能なのですか。
508 :
☆☆今すぐにできるよ☆☆ :02/09/05 01:40 ID:p/sP7DOn
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509 :
乾闥婆 :02/09/05 01:40 ID:Y7exa4VY
>>494 >『事実に反する真実はない』
>「事実」と「真実」が対立することはありえない、
物語とは事実に反する・反しないという対立構造の外にあるものです。
事実だけが真実を語る、のではなく、物語もまた真実を語る、といっています。
仏教の場合の真実とは縁起であり、無自性であり、空であることでしょう。
そのことを物語によって強調してもいいわけです。
>仏教の五蘊の考え方は、むしろ人間が事実をどうしても誤ってとらえること
(認識の不完全性)を表現しているとも思います。
五蘊は人間の認識過程を表したものですが、
確かに仏教は五蘊によって成立している人間の意識の無我であることをいいました。
しかし人間は結局五蘊を駆使して物事を認識するのです。
ゆえに、五蘊が集合することによって人間はある、ということ自体は、否定されないのですね。
無我であるとは、そのような五蘊による人間の意識には実体がないこと、
仮に和合してあることを(五蘊仮和合)、そのことを認識していること、です。
認識の不完全性をいいながら、
むしろ完全なる認識などないというところまで踏み込んでいるように思います。
510 :
乾闥婆 :02/09/05 01:43 ID:Y7exa4VY
>>494 (続き)
>たとえば、「人によって真実は違う」という言葉を僕は信じません。それは単なる主観
的感覚の迷い、もしくは経験の違いです。
人間の認識は主観を離れることはなく、経験を離れて認識能力を養うこともできません。
そのような認識によって形成される「我」の無自性こそが認識されるべきで、
仏教はそのことを真実であると言ったのだと思います。
そして真実(真如と言うべきでしょうか)であるところの無我・空を、
久遠の仏という理念において語ったものが法華経なのではないかと思っています。
>真実とはそのような浅い層に存するのではなく、
全てにとって一致する普遍を表現するものと思いますし、
そうでなければ真実という言葉の意味さえ失ってしまいます。
「全てにとって一致する普遍」的な真実、という表現が、
もし固定的実体(完全なる認識)としての真実であるかのように語られるのであれば、
そのような認識は仏教に反するでしょう。
認識の不完全性を認識すること、ゆえに無我であるという認識に達すること、
それを涅槃寂静といったのではないでしょうか。
>聖書と大乗仏典ではだいぶ事情が異なると思います。
不合理なことを糾弾したりしなかったりする事情とはなんでしょうか。
511 :
ひゃっきまる :02/09/05 01:53 ID:sNaLaeDc
>>497-502 れいゆう‐かい【霊友会】
法華系の新宗教。1925年(大正14)久保角太郎と小谷喜美が開いた。法華経信仰と先祖
供養とを結合した教義をかかげる。
りっしょうこうせい‐かい【立正佼成会】
法華系の新宗教。1938年、庭野日敬と長沼妙佼が霊友会から分れて開教。霊友会の教義
を受けつぎながら、個人の人格完成を強調し、多様な神仏の信仰と九字・六曜・気学・姓
名学等をとり入れた。国民皆信仰・宗教協力を唱える。
(共に広辞苑より)
霊友会と立正佼成会は日蓮宗(身延山)ともだいぶ違うと思っています。創価学会が日
蓮正宗の檀家として発足したのに対し、霊友会ははじめから新しい教義を掲げてはじまっ
たようです。
ほんとうに個人的な感想を述べれば、あまり好きではありません(そんなに知っている
わけでもありませんが)。霊とか先祖供養とか言っている点で、ちょっと仏教とかけ離れ
てしまっている気がするのです。
日蓮宗の正統性については、ここでの乾さんとのやりとりをみればおわかりかと思いま
すが、日蓮正宗とそう見方は変わりません。ただ、正宗よりも(学術的という意味での)
研究をしているという点では評価しています。
512 :
ひゃっきまる :02/09/05 01:54 ID:sNaLaeDc
創価学会は組織としては大きく評価しています。非常に温かい人間どうしのつながりが あります。また、実践宗教(信仰によって生活を改善する:人間革命)ということを強く 意識している点でも評価しています。 宗教にありがちな排他性や押しつけも(最近では)あまりないようです。たとえば、僕 のような人間がしゃあしゃあと居られるほどです(^^) 実際、学会には活動していな い人間が大半です。ただし、本当に真剣に学会活動をしよう、という人に対しては非常に 厳しく鍛えてくれるそうです。これもありがたいことと思っています。 宗教とは現代社会においてはコミュニティとしての役割が非常に大きいと思っています が、その点で創価学会はよい組織と言えると思います。僕はキリスト教系の団体の2,3 とつきあったことがありますが、そちらでもコミュニティは非常に重要視されているもの の、どこか本音でない雰囲気がありました。これは教義の違いからあらわれてくるものと 思います。
513 :
乾闥婆 :02/09/05 02:01 ID:HD3t38b5
>>491 信仰ですから。でも、その中にいて、なお、考えます。
その考えていることを話したりもします。
確かに自分の考えは創価学会からズレてしまっていると思います。
>>499 さあ、分かりません。正統性とか、どうでもいいように思っているので。
田村芳朗氏の著書とか好きですけれど、あの方は日蓮宗なのでしょうか。
514 :
491 :02/09/07 05:41 ID:???
レスをありがとうございました。お礼だけで留めておきます。 (乾闥婆さんの強烈なレスには、正直度胆を抜かれました。 ますます、どうして「ソウカ」なのか、小一時間問い詰め(以下略)笑)
515 :
ひゃっきまる :02/09/07 22:57 ID:yBqzfX9e
乾さん
>>503 >価値的な作業とはなんでしょうか?
意味のある作業とおきかえてもよいです。例えば、科学は自然界の客観的真実を追究す
るものですから、そのための方法論(懐疑主義、実験主義、経験主義、反証主義など)を
もっています。それらは明白に真実に近づこうという目的でもって設定された方法論で
す。
しかし、単に連続性があるというだけでそれらに共通する「本質」があるということを
根拠もなく仮定し、しかも「恣意的に」それを求めるということに意味があるとは思えま
せん。それは止揚というよりも、一歩間違えば「こじつけ」や「詭弁」に陥る可能性を
もっているでしょう。明白な真実に近づく方法論が設定されていないからです。
516 :
乾闥婆 :02/09/08 00:11 ID:rp8mMXoI
>>515 科学が追究の対象とする現象と仏教のそれとは別物でしょう。
仏教はそもそも恣意的なものではないでしょうか。
物事に実体はないといっても、実際にその実体のないものに苦しんでいるのが実状です。
ではなぜ実体はない、というのか。
そう考えることで苦から逃れようという目論見があるからです。
それは別に事実でも真実でもないのでしょう。
ただそれを事実である真実であると信じることで、その「ものの見方」は効用を発揮するのです。
それは「こじつけ」や「詭弁」であるかも知れません。
物事には実体がない、なんて、実際に苦しんでいる人間にしてみれば、
「馬鹿野郎」と怒鳴りたくなるような、戯言でしょう。
しかし敢えてそのように言うとは、つまり生きゆくための戦略であるからです。
宗教にはそのように根拠もなく仮定することで、
「本質」なるものを形成してゆくものなのではないでしょうか。
「明白な真実に近づく方法論が設定されていないからです」
とひゃっきまるさんはおっしゃる。
しかし、仏教とはそもそも「明白なる真実」などというものを解体してゆく、
そのようなものに縛られるところから離脱してゆく、
そしてその方法を「真実」と考える、
そのような、生きゆくための戦略であると思うのです。
517 :
乾闥婆 :02/09/08 00:12 ID:rp8mMXoI
>>515 (続き)
ひゃっきまるさんは、宗教というものに幻想を抱かれているのではないでしょうか。
宗教はひゃっきまるさんの追い求めていらっしゃるような、
客観的な事実を有するものではないと思うのです。
特に仏教はそのような客観的事実を無効化する発想を根本にしているように思うのです。
それが縁起・無自性・空であったと思うのです。
それをあたかも事実であるかのように語りますが、しかしそれも一つの「ものの見方」にすぎません。
「空亦復空」、空をもまた空である、ということなのでしょう。
おそらく「明白なる真実」を追い求めることが「意味のあること」であると
考えていらっしゃるひゃっきまるさんには、
仏教は「意味のないこと」となるように思います。
私はそのような「意味のないこと」など意に介しません。
意に介さないことこそ仏法であると思うからです。
ですから私は「明白なる真実」を主張する日蓮的なものを、そのままに、
本来の仏教的視点を逆導入して相対化しつつ、
よりよい次元で仏法というものを捉えることはできまいか、と考えているのです。
そのような姿勢に意味があるのかどうか、私には感心がありませんし、
仏教においてそのような意味を問うこと自体、実は虚しいことではないかとさえ考えます。
518 :
ひゃっきまる :02/09/08 00:55 ID:2DkWJ8U6
>>503 >梵我一如が無自性の状態と規定されていないから、仏教から批判されたのではないで
しょうか。
初期仏教の無我はアートマンに対するアンチテーゼであったのは確かでしょう。しかし
後の時代の仏性という概念は、それはアートマン思想と同じではないとしても、極めて類
似した考え方といってよいと思います。それゆえ、インドでは仏教がバラモン教化し、仏
教としての存在意義を失って衰退したのだと思われます。これが僕の考えです。
今はっきりとさせることは、
1・アートマン思想(梵我一如)とはなにか
2・無我(初期仏教)とはなにか
3・仏性(大乗仏教)とはなにか
でしょう。以前、「無自性」についてお聞きしたときの説明は、説明にはなっていなかっ
たと思います。ちなみに、創価学会の「仏=生命論」や、宇宙と一体となる、といった教
義指導に対してはどのようにお考えでしょうか。
519 :
ひゃっきまる :02/09/08 01:17 ID:WUQoPfgN
>>504 >イデアと人格神は並び立たないと思うのですが・・・。
その異なる神のあり方が共に同じである、というのが三位一体の教義でしょう。仏教の
三身も同じ発想だと思います。
>キリスト教徒で「神になりたい」と思って信仰している人はいないと思います
が・・・。
イエスのように生きる、生きたい、という思想はあります。
>私は浅学にしてそのような解釈ははじめて聞くのですが、
>どのような本に書かれてあったのでしょうか。
僕がお話を伺ったキリスト教の一派の考え方ではそのようなものがありました。一般的
なキリスト教の教義からは異端なのでしょうが、人間はもともと神の一部であり、最終的
には神になることを目指すのだそうです。
そのような異端的考え方にこだわらずとも、神は完全な者、人間は不完全な者、という
考え方からは、当然不完全が完全を目指す、という考え方が導かれるでしょう。神が人を
愛するように、人が人を愛せ、という教義もあります。
520 :
ひゃっきまる :02/09/08 01:19 ID:WUQoPfgN
>私は自分のやり方の恣意性をはっきりと認識していますが、 >ひゃっきまるさんはどうでしょうか? 僕は類似性をあえて見出そうとは思いませんし、見出す必要もないと考えています。単 に、仏教とキリスト教の類似点、共通点をあげただけです。「信仰の普遍性」とは、真実 の側にある普遍性というよりは、人の側にある普遍性といえるでしょう。
521 :
ひゃっきまる :02/09/08 01:31 ID:WUQoPfgN
>>505 >ノンフィクションにおけるフィクション性ということを考えています。
>なぜ受け入れやすいのか。それは明らかな物語だからではないでしょうか。
イザナミ、イザナギの話が受け入れやすいのは、それに対応して反論する現実がないか
らです。二つの説(物語と現実)があるときに、はじめてその対立が問題となるのです。
例をあげて説明しましょう。例えば、コーランに、「1世紀のパラスチナに生まれたナ
ザレのイエスという人物が、『ムハンマドという人物が数百年後に生まれ、真実の預言を
行う。私の教えは不完全なものであるから、ムハンマドの教えに従うように』と預言し
た」と書かれていたとします。そして、それが現代までイスラム教徒の間で信仰されてい
たとします。この場合、どのような問題が起こってくるでしょうか?
これを解決する方法として、「対立を外す」という方法論があるかもしれません。物語
の構造だけを維持し、固有名詞だけを変えてしまうのです。例えば、法華経の釈尊その他
の人物を全て違う名前にしてしまうとか・・・。そうすればそれは完全なフィクションと
いうことになりますね? これならば対立する現実がないので、全く問題はありません。
乾さんの説に従えば、これでも信仰は保たれるのですよね? 物語でも人が信仰できると
いうのなら。
522 :
ひゃっきまる :02/09/08 01:31 ID:WUQoPfgN
>>506 ,
>>507 >そこで語られていることは「実際にあった話」なのではなくブッダ(覚者)という理念
です。
>それを語る手段として法華経というフィクションが用いられるわけです。
僕が言いたかったことは、法華経を事実として読むこと、それが三番目の説き方であ
り、法華経を物語として読むこと、それが二番目の説き方である、ということです。二番
目の説き方では、納得する人間と納得しない人間がいるということです。
>ということは表現方法として、もう法華経は駄目であると、
>ひゃっきまるさんは考えているのですか。
>もしそうであるのならなぜ勤行・唱題が可能なのですか。
僕が創価学会の家に生まれていなかったならば信仰はしていなかったと思います。法華
経という方便によって信仰に入り、信仰は唱題という行為のみが残ったといえましょう
か。信仰とは必ず「仮に」ではあっても、形をとらなければなりません。僕にとって唱題
とは信仰を表現する唯一の行為です。
>>509-510 へのレスは上記までのレスが答えになると思います。
523 :
乾闥婆 :02/09/08 02:18 ID:1FINcZzQ
>>518 >しかし後の時代の仏性という概念は、それはアートマン思想と同じではないとしても、
極めて類似した考え方といってよいと思います。
その同じではない部分を私は強調していたわけですね。
>以前、「無自性」についてお聞きしたときの説明は、説明にはなっていなかったと思います。
では説明になっていない不明な点をご指摘ください。
知識が足りず答えきれないところもあるかも知れませんが、
できる範囲で答えていきたいと思います。
>ちなみに、創価学会の「仏=生命論」や、宇宙と一体となる、
といった教義指導に対してはどのようにお考えでしょうか。
「宇宙と一体となる」は違うと思います。それこそ梵我一如ではないでしょうか。
「仏=生命論」は特に違和を感じません。
524 :
乾闥婆 :02/09/08 02:19 ID:1FINcZzQ
>>519 >その異なる神のあり方が共に同じである、というのが三位一体の教義でしょう。仏教の
三身も同じ発想だと思います。
父が人格神で、子が人で、聖霊がイデア、ですか。
法身がイデアで、報身が人格神で、応身が人、という感じでしょうか。
ちょっと乱暴な気もしますが、確かに似ていますね。
キリスト教の出発点は人格神で、仏教の出発点は人ですが、
変遷した結果は似ているかも知れません。
>一般的なキリスト教の教義からは異端なのでしょうが、
多分、異端だと思うのですが、私は結局クリスチャンにはなれなかったので、
まあ、いいんですけれど。私が出入りしていたのはプロテスタント系でした。
525 :
乾闥婆 :02/09/08 02:21 ID:1FINcZzQ
>>521 >イザナミ、イザナギの話が受け入れやすいのは、それに対応して反論する現実がないか
らです。二つの説(物語と現実)があるときに、はじめてその対立が問題となるのです。
物語もまた物語であることが前提になれば反論する現実は後退します。
物語に対してこれは現実ではないといわれても物語は困ってしまうでしょう。
フィクションをノンフィクションだと偽ったときに問題が生じます。
>これを解決する方法として、「対立を外す」という方法論があるかもしれません。
私がやろうとしているのはまさにそれです。
>例えば、法華経の釈尊その他の人物を全て違う名前にしてしまうとか・・・。
名前を変えなくても丸ごと物語であると認識し直せば、いいことでしょう。
>これならば対立する現実がないので、全く問題はありません。
乾さんの説に従えば、これでも信仰は保たれるのですよね? 物語でも人が信仰できると
いうのなら。
そのとうりです。私のやろうとしていることはそういうことです。
それはわかったから 創価学会を日本から消す方法を教えてください
527 :
乾闥婆 :02/09/08 02:29 ID:BVpDI9Pz
>>522 >僕が創価学会の家に生まれていなかったならば信仰はしていなかったと思います。法華
経という方便によって信仰に入り、信仰は唱題という行為のみが残ったといえましょう
か。信仰とは必ず「仮に」ではあっても、形をとらなければなりません。僕にとって唱題
とは信仰を表現する唯一の行為です。
驚くほど、私と心情が一緒です。
結局のところ私は唱題を一つの行法として自分の信仰を残した、というところだと思います。
きょうはちょっと交錯してしまいましたね。
あしたも忙しいので、もう寝ます。
いつのまに長文スレになったんだ? じゃみぃが来ていた様だからただの「記念age」だぜ。
529 :
ひゃっきまる :02/09/14 04:31 ID:+KODhWRX
乾さん
>>516-517 乾さんの考える仏教観、宗教観はわかりました。しかし、逆説的な表現になってしまい
ますが、それもまた一つの考え方であり、それに縛られることからも離脱されなければな
りませんね?(おそらくこの考えには同意されると思います)
僕には矛盾を含んだ宗教に思いますが、おそらくロジックを越えた思想とか、矛盾をも
大きく包み込む究極的に寛容な教えとか、口当たりのよい言葉はいくらでも思いつきま
す。
僕は、信仰とはそのような曖昧なものの中には存在しないと考えています。信じ込むこ
とで成立するようなものは真実でもなんでもありません(そもそも「信じ込む」と言って
いる時点で、それが偽りだと認めているではありませんか)。
また、そもそもそのようなものは「真実」と信じ込ませられるだけの説得力をもってい
ません。少なくとも現代においては。
その点で甚だ「無力」です。真実の如何よりも「生きゆくための戦略」を重視するなら
ば、「無力」な法は捨てさるべきではありませんか?
また、科学が追究するものと宗教が追求するものをそう安易に分離できるわけでもない
と思います。科学的な世界観というのは現代に至るまで人類が連綿と気づきあげてきた、
一つの成果でもあります。それをばっさりと切り捨てることはできないし、切り捨てよう
にも我々はそのような世界観の中に生きています。その意味で科学は立派な宗教であり、
信仰でしょう。
事実、真実の無効を叫ぶのならば、なぜ乾さんは現代仏教学の視点から創価学会の歴史
認識の誤りを叫ぶのでしょうか。それが日蓮の説よりも優先されるのはなぜでしょうか。
人間は事実を基本として物事を考えます。そのため正しい事実とはなにかを求めます。
僕と乾さんの違いは、結局は主義主調の違い、というところにおちついてしまう感があ
りますが、一応は僕の言いたいことを言っておきました。
530 :
ひゃっきまる :02/09/14 05:01 ID:eTsooqMm
>>523 乾さん
>その同じではない部分を私は強調していたわけですね。
「同じでない部分」が重要であるか、重要でないか、本質に関わるのか関わらないの
か、それを確認するためにも、
1・アートマン思想(梵我一如)とはなにか
2・無我(初期仏教)とはなにか
3・仏性(大乗仏教)とはなにか
これに答えていただけませんか。
>では説明になっていない不明な点をご指摘ください。
以前の説明では、
>縁起説では、すべての現象は縁に依って起こっていると考え、ものそれ自体の自性を否
定します。
>つまり無自性であって、そのことを空といいました。
>仏性は自性清浄心をいい、それは無自性であることの謂いです。
>縁起・空・無自性の線から、自性清浄・真如・如来蔵・仏性といった線への展開があっ
たようです。
ですが、最後の行について詳しく解説をお願いします。
531 :
ひゃっきまる :02/09/14 05:01 ID:eTsooqMm
>>525 >名前を変えなくても丸ごと物語であると認識し直せば、いいことでしょう。
ところがそうはなりません。現実の話と物語の話に同じ人物が出てきては困ります。>>
521の、コーランの例えを考えてみてください。名前を変えなければ対立は避けられませ
ん。
ところで僕は、もし登場人物の名前を変えれば、この物語は効力をほとんど失うだろ
う、と考えています。また同様に、釈尊に対する思い入れがだいぶ薄くなった現代におい
ても、(物語と断って法華経を広めるならば)大分効力を失うだろうと考えています。
532 :
乾闥婆 :02/09/17 00:37 ID:I0n3jy/H
>>529 >信じ込むことで成立するようなものは真実でもなんでもありません
では、現行の宗教はほぼすべて真実ではないということでよろしいでしょうか。
ひゃっきまるさんは信じ込まなくてもいい宗教を新設したいとでも思っているのですか?
信じることを必要としない宗教とはどのようなものですか。
その概観なりとも提示してください。
>そもそも「信じ込む」と言っている時点で、それが偽りだと認めているではありませんか
信じることによって生じるものはすべて「偽り」ですか。
では人間の抱く愛情や友情、信頼というものは「偽り」ですか?
裏切られる可能性がゼロでない限り「偽り」ですか? 愛は?
ひゃっきまるさんは信じるという人間の心が有する働きの効用を、
まったく理解しないような人間なのですか?
> また、そもそもそのようなものは「真実」と信じ込ませられるだけの説得力をもってい
ません。少なくとも現代においては。
でしたら強引な布教をしなければいいでしょう。
少なくとも強引な折伏には反対である点、我々の見解は一致しているのではなかったでしょうか。
533 :
乾闥婆 :02/09/17 00:39 ID:I0n3jy/H
>>529 (続き2)
>その点で甚だ「無力」です。真実の如何よりも「生きゆくための戦略」を重視するなら
ば、「無力」な法は捨てさるべきではありませんか?
「生きゆくための戦略」は「強力」でなければなりませんか?
そもそもその「無力」というのはなんでしょうか。社会的影響力の「無力」ですか。
では社会的に強い影響を与えることが、「生きゆくための戦略」の必要条件ですか。
「生きゆくための戦略」など個々に選択していけばいいことです。
万民がそれだけを選択することが決定的な戦略、唯一無比の戦略など、
薄気味の悪いことです。
>科学的な世界観というのは現代に至るまで人類が連綿と気づきあげてきた、
一つの成果でもあります。それをばっさりと切り捨てることはできないし、切り捨てよう
にも我々はそのような世界観の中に生きています。
科学的な世界観を捨てよ、などと私はいいましたでしょうか?
そのような世界観と両立しうる道として宗教を物語として有効に肯定しようということを、
私は言ってきたのですが、ご理解いただけていなかったのでしょうか。
534 :
乾闥婆 :02/09/17 00:40 ID:I0n3jy/H
>>529 (続き3)
>事実、真実の無効を叫ぶのならば、
叫んでいません。
>>516 >しかし、仏教とはそもそも「明白なる真実」などというものを解体してゆく、
そのようなものに縛られるところから離脱してゆく、
そしてその方法を「真実」と考える、
そのような、生きゆくための戦略であると思うのです。
>>517 >宗教はひゃっきまるさんの追い求めていらっしゃるような、
客観的な事実を有するものではないと思うのです。
特に仏教はそのような客観的事実を無効化する発想を根本にしているように思うのです。
それが縁起・無自性・空であったと思うのです。
事実、というものはあるでしょう。
仏教は、それを苦と捉え、その苦を乗り越えてゆく方法論として、
空という認識に到達してみようと言っているのでは、ということです。
それで事実がなくなるわけではありません。
ですから当然五時の経典成立順序が史実ではないことを言いますし、
「四十余年未顕真実」も否定します。
それらは日蓮の生きた時代、彼にとって「事実」であったことでしょう。
今は別の新しい事実が明らかになったので、それを採用すればいいわけです。
さらなる研究の成果によって新「事実」が見出され、
これまで事実と考えられていたことが覆るのであれば、それを採用すればいいだけのことです。
事実とはそのように諸資料の関係性から成り立っているもので、まさに縁起してあるものでしょう。
事実をそのような認識において捉えることも、また仏教にかなうものの見方ではないかと思います。
私が批判しているのは、絶対不変で固定的な「事実」の存在を「信じ込む」ということです。
535 :
乾闥婆 :02/09/17 00:41 ID:I0n3jy/H
>>530 >1・アートマン思想(梵我一如)とはなにか
2・無我(初期仏教)とはなにか
3・仏性(大乗仏教)とはなにか
これに答えていただけませんか。
>>444 アートマン(我)と仏性とは似ているように見えますが別物です。
仏教が批判した我とは単一に存在しうる常住の実体であって、
そのような我を様々に縁起するその結節点として解体したのです。
無我とはその縁起された結節点にすぎない我のことをいい、
つまり我を含めたすべての事象には実体がないこと(無自性)を主張しました。
そのような無我の状態を清浄なものであるとし(自性清浄)、
それを如来蔵という表現において積極的に肯定しました。それが仏性です。
(後略)
>>424 の「正直、乾さんの説明はよくわかりませんでした」
というレスに答えて上記のように詳しく書いたつもりでしたが、
これでは不十分であったということでしょうか。
このレスに対してひゃっきまるさんは、
>>456 「僕は、乾さんの説明は、それが「梵我一如」の説明であっても違和感は無いと思いました」
とお答えになりましたので、私の説明をひゃっきまるさんなりに咀嚼していると思いましたが。
といいますか、私がどのような文脈において無我・仏性を把握しているのか、
分からずに議論をされていたのですか?
もしそうであるとしたら、
「僕は、乾さんの説明は、それが「梵我一如」の説明であっても違和感は無いと思いました」
とはどういう意味をなすのですか?
そういいうるには、私の無我・仏性の理解をひゃっきまるさんも理解し、
なおかつそれがひゃっきまるさんの梵我一如の理解と類似している、
という判断に到るまでの認識がなされていなければなりません。
「それが「梵我一如」の説明であっても違和感は無いと思いました」
というその認識の具体的な説明をしてください。
536 :
乾闥婆 :02/09/17 00:42 ID:I0n3jy/H
>>530 (続き)
再掲した
>>444 が無我と仏性についての私なりの把握であって、
おそらく現段階での私の知識・能力では以上の文章より込み入った説明をできないと思います。
文章上分かりにくい点がありましたらご指摘してください。
梵我一如についてはひゃっきまるさんの広辞苑からの引用
>>475 で、ほぼ同意です。
>最後の行について詳しく解説をお願いします。
それが
>>444 です。
537 :
乾闥婆 :02/09/17 00:43 ID:I0n3jy/H
>>531 >現実の話と物語の話に同じ人物が出てきては困ります。
なぜでしょうか? 歴史小説を読んでも誰も困りませんよ。
コーランも聖書も物語だと思えば解決するでしょう。
>ところで僕は、もし登場人物の名前を変えれば、この物語は効力をほとんど失うだろ
う、と考えています。
それには同感です。固有名が人間の意識を拘束する力は強いものですからね。
>また同様に、釈尊に対する思い入れがだいぶ薄くなった現代におい
ても、(物語と断って法華経を広めるならば)大分効力を失うだろうと考えています。
それでいいではないですか。
狂信的法華経信者がひゃっきまるさんはお好きですか?
今は中世ではないのですから、それでいいのではないでしょうか。
それとも全人類が日蓮信者にならなければ納得できませんか?
おひさだ! >スカ だったら、こっちを上げればいいってことか? >たきやマン 久しぶりだな。元気か?なかなか忙しくて来る暇なくて。 今日はこの辺で…。グンナイ!
全然関係ないが、ひゃっきまるってガオに出てたヤツ? 外出ならスマソ。
狂呼な学会論?
はいはい、「age」だ。
>>539 違う。ひゃっきまるは2ch立ち上げ当初からいる超古参コテハン。
つか、百鬼丸で検索してみなーage
544 :
姜子@スカプロ ◆x1VmIfXw :02/09/21 01:05 ID:PylJB8z1
ケンダツバ「age」 ・・・無論意味は無い。
545 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :02/09/21 02:02 ID:Prsz37uw
頭悪い! そんなドグマ世間では通じないし、オウム真理教の説く真理の方が 理論的で精緻化されていますが!
546 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :02/09/21 02:22 ID:Y53pCiI5
>>545 オマエガナー
鸚鵡珍理狂は単にレトリックを巧妙にしただけ。
後発(エセ)教団の利点。色んな教義のエッセンスをつまみ食いできる。
いろんな教義も何も、チベット密教だろうが。
いや、厳密に言うと全く別物だろ。
「金木犀age」だ。 まだ結果は出ない様だ。(←自己レス)
550 :
ひゃっきまる :02/09/27 23:51 ID:G6BQcvOm
>乾さん
>>532 >では、現行の宗教はほぼすべて真実ではないということでよろしいでしょうか。
乾さんの宗教へのとらえ方には、とても大きな「飛躍」があるように思います。それは
宗教が科学に否定される時代の詭弁にしか聞こえません。
例えば、僕は科学的な世界観は一種の宗教のようなものだ、ということを以前言いまし
た。さあ、では、例えば、「水は0℃になると氷になる」ことを、信じ込むことで氷になる
のでしょうか? いいえ違います。0℃になると氷になることを人が見いだしたから、「水
は0℃になると氷になります」と表現するのでしょう? 信じようと信じまいと。
くどいようですが誤解されないように付け加えると、僕は人間不在の真実を言いたいわ
けではありません。上の例だと、「水」「0℃」「氷」という言葉は人間の恣意的な定義と
表現ですし、「感じ」「理解し」「認識し」「法則化」するプロセスと主体が必要です。
そもそも信じがたいことを信じなさい、などという宗教は極めて理不尽です。過度のス
トレスを要求するものです。非人間的な教えです。僕にとって宗教とは、信仰とは、「見
いだす」ものです。故に修正を加えられることもありますし、それを絶対とすることもあ
りません。
>信じることによって生じるものはすべて「偽り」ですか。
>では人間の抱く愛情や友情、信頼というものは「偽り」ですか?
愛情や友情や信頼というものは信じるから生じるのですか? まあそれはさておいて、
僕はなにも信じることの無価値を言いたいわけではありません。信じることは確かに宗教
にとって、また人生にとってとても大切なことです。しかし、「信じることによってはじ
めて成立するようなものを真実というのはおかしい」という、非常に当り前なことを述べ
たまでです。水が0℃で沸騰する、ということを信じたら沸騰した、なんてことがあったら
大変でしょう?」
551 :
ひゃっきまる :02/09/27 23:52 ID:G6BQcvOm
>>533 >そもそもその「無力」というのはなんでしょうか。
宗教の無力、信仰の無力です。
例えば、書店に行くと受験の参考書がたくさんあるでしょう。受験生はどの本を選べば
自分を合格に導いてくれるか、思案するところです。もちろん人によって本の好みは違う
かもしれません。しかし、そもそも間違った答えが書いてあったり、問題の作成者が素人
であったりするのではそれ以前の問題です。
「いい本」はやはり多くの人にとっても「いい本」なのです。よい著者というのは、限
られた人に対してだけ効力を発揮するような本の書き方はしません。もちろんレベル別に
解説したものも有効でしょうが、本当に良い本とは、人を選ばない普遍性をもっているも
のです。
そもそも大乗仏教の発想というのは、象牙の塔(?)に閉じこもったインテリだけでは
なく、万人に開かれた信仰を求めるものだったのではないでしょうか。乾さんの話を聞い
ていると、「自分はこれで納得している」という主張が多い気がします。しかし僕は、自
分自身が真に納得することと、世間が真に納得することをほとんど並列に考えています。
自分のためだけであればあまり価値はないと思いますし。なんでもかんでも「人それぞれ
じゃない?」で終わらすのは僕はあまり好きではありません。
>>534 >私が批判しているのは、絶対不変で固定的な「事実」の存在を「信じ込む」ということ
です。
なんだかよくわからなくなってきました。乾さんは「信じ込む」ことをよいと言ってい
るのですか、悪いと言っているのですか? 法華経を絶対不変とすることがこの宗教であ
ると思うのですが。
>>ひゃっきまるさん 最近、学会員の科学者が日蓮仏法についての本を出したので、 一読をお勧めしたい気分。
553 :
ひゃっきまる :02/09/28 00:47 ID:WTM22e4s
>>552 情報ありがとうございます(^^)
題名、著者などはわかりますか? あと、学会系の出版社でしょうかねえ・・・。
ところで、「科学者」という言葉、最近は使うのに少し気をつけた方がいいかもしれま
せん。「科学者」と言えば、論理的な思考ができ、客観的で冷静な判断ができ、宇宙や人
間に対して哲学的洞察を持つ人種、というようにイメージされると思います。
しかし、現在自然科学に従事している人たちは多いですが、おそらくその仕事は他の一
般の仕事とそうかわるものではありません。ゆえに、彼らは自分で自分を「科学者」と呼
ぶことはほとんどなく、よりふさわしく「研究者」と呼びたがるでしょう。
自然科学の分野の研究者だからと言って、他の仕事の人よりも何かが優れている、とい
うわけでもないと思います。ゆえに、「科学者の書いた本」というとき、どうしても僕に
は「科学者」という言葉の信頼性を利用しようとしている、という風に意地悪に捉えてし
まいます。
同じ理由で、池田名誉会長が諸々の科学者(研究者)たちとにこやかに対談したからと
言って、仏法は科学者に認められた!という印象を吹聴するのはどうかと思っています
(対談自体はいいんですが)。
結局何がいいたいかと言うと、殊更に「科学者」という言葉が使われているとき、そこ
に裏の意図が読み取れてしまう、ということです。それはもちろん、研究者自身が「科
学」という言葉を意図的に使うときにでもです。
554 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :02/09/28 00:55 ID:hl/YKTCk
創価は、他の研究グループの功績だけを盗むな。 創価学会で科学を学ぶほとんどの小中学生どもは皆、 『万有引力の法則』とか数学のいろいろな公式とか 学会の人が発明、発見したと思ってるぞ! 科学雑誌や書籍を出すのはいいが、 すでに先駆者がいることと彼らへの敬意を払うことを 子供らに教えた方がいい。 子供らはすぐこういう 『こんなこと知ってるなんて、やっぱ創価はすごいな!!』 がいしゅつだつーの!!
555記念 >>スカ オレはなんとか金木犀に間に合ったぜ!
>555 そーゆーときは「age」たらどうだ? GOGOGOって感じだな。
>>556 そんなこと22時間後に言われてもなあ…。
はいはい、おヤスミン。
違うもの「あげ」たらどうだ?
>>559 やべ〜、最後に面白れ〜。。。。。
ちゃんと聞いてるか?「まじ子」ぉ。
562 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :02/10/01 00:46 ID:aIA3FYFI
スカプロ、活躍してるやん。 嘘つきちゃまね。 最近は活躍(言葉ちがいだけど)してないってゆってたのにー。 だーかーらー創価キライ。 スカ様キライ。ネレネレ〜。
563 :
Sb ◆Sb/51pvQ :02/10/01 14:21 ID:N6wFmeiq
>>550 横レスしますが
>例えば、「水は0℃になると氷になる」ことを、信じ込むことで氷になる
>のでしょうか? いいえ違います。0℃になると氷になることを人が見いだしたから、「水
>は0℃になると氷になります」と表現するのでしょう?
これは正しくないと思います。
正しくは
「一気圧の状態で、水の凝固点を0℃とし、沸点を100℃として、定めた」
ですね
564 :
会員休 :02/10/01 14:34 ID:txI5mTpW
ここはまともみたいだね。
565 :
乾闥婆 :02/10/02 01:09 ID:sSZ+kpka
>>550 >乾さんの宗教へのとらえ方には、とても大きな「飛躍」があるように思います。
それは宗教が科学に否定される時代の詭弁にしか聞こえません。
どのような「飛躍」でしょうか。
私は宗教において「信じる」という行為は重要な要素であるといっているだけなのですが。
それのどこが「詭弁」なのでしょうか。
「信じることによってはじめて成立するようなものを真実というのはおかしい」
というひゃっきまるさんに、
「では、現行の宗教はほぼすべて真実ではないということでよろしいでしょうか」
と問うていることが「詭弁」を弄しているということになるのでしょうか。
>「水は0℃になると氷になる」ことを、信じ込むことで氷になるのでしょうか?
比較対象として科学を持ってくることは筋が違うと思うのです。
「水は0℃になると氷になる」は単なる事実でしょう。
ところが、人は誰しも仏性を有する、はただの事実ではありません。
そこにあるのは人間に対する希望的な強い「思い」なわけです。
そのような理念に対する願いであり祈りであり誓いですらあるのでしょう。
そこで問題となるのは「人は誰しも仏性を有する」が事実であるかどうか、ではなく、
そのことを信じるのか信じないのか、です。
そのような希望を肯定するのか否定するのか、と言い換えてもいいでしょう。
>そもそも信じがたいことを信じなさい、などという宗教は極めて理不尽です。
過度のストレスを要求するものです。
そうであるならば信じなければいいのです。
ストレスを溜めてまで信じる必要はないでしょう。なんのために信じるのですか。
「それ」を「信じる」ことに効用がないのであれば「それ」を信じなければいいのです。
566 :
乾闥婆 :02/10/02 01:10 ID:sSZ+kpka
>>550 (続き)
>僕にとって宗教とは、信仰とは、「見いだす」ものです。
故に修正を加えられることもありますし、それを絶対とすることもありません。
大筋において私も同じです。
ただし私は自身の見いだした理念に、大きな信頼を置きます。
その信じる心を信仰というのだと思っています。
問題はその見出されたものがなんであるのか、ということでしょうね。
ひゃっきまるさんにとって、その見いだされたものは
「自然界の客観的真実を追究する」のと同様に、
「懐疑主義、実験主義、経験主義、反証主義など」の「方法論」によって、
揺らぐことのない事実として確定されたものでなければならないのでしょう。
私は自身の見いだした何かが、
そのような確固とした観察しうる実在である必要をほとんど感じません。
自分がよいと感じた理念・世界観に対する信頼を強く持つこと、それだけです。
それらの理念・世界観がよりよくなるのであれば、修正を加えればいいと思います。
>愛情や友情や信頼というものは信じるから生じるのですか?
それはそうでしょう。
>「信じることによってはじめて成立するようなものを真実というのはおかしい」という、
非常に当り前なことを述べたまでです。
つまり愛情や友情や信頼は虚偽であるということですか。
「水は0℃になると氷になる」というのと同じ明解さで、誰の目にも明らかに
愛が成立していることが分かる、観察されうる現象とは何か説明できますか?
信じることを必要としない愛とはなんですか?
「懐疑主義、実験主義、経験主義、反証主義など」の「方法論」によって、
確定する愛情・友情・信頼とはどのようなものですか?
567 :
乾闥婆 :02/10/02 01:11 ID:sSZ+kpka
>>551 >しかし、そもそも間違った答えが書いてあったり、問題の作成者が素人
であったりするのではそれ以前の問題です。
確かに問題外ですね。
ところで法華経における設問と「正しい」答えとはなんなのでしょうか?
>「いい本」はやはり多くの人にとっても「いい本」なのです。
よい著者というのは、限られた人に対してだけ効力を発揮するような本の書き方はしません。
(中略)本当に良い本とは、人を選ばない普遍性をもっているものです。
法華経や御書は「悪い本」であるということをおっしゃりたいのでしょうか。
法華経制作者や日蓮は「悪い著者」だと。
ところで私は大江健三郎や中上健次、笙野頼子といった作家たちの作品が好きですが、
人によっては、これらの作家たちの小説は文章が読み辛く、内容も分かり難く、
しかもつまらないといって敬遠したりします。
これらの本は「いい本」でしょうか「悪い本」でしょうか。
その「いい」「悪い」というのは誰が決めているのでしょうか。
私が「いい」と思っていても他の多くの人たちが「悪い」と決めると、
普遍的に私にとっても「悪い本」になるのでしょうか?
568 :
乾闥婆 :02/10/02 01:13 ID:sSZ+kpka
>>551 (続き)
>そもそも大乗仏教の発想というのは、象牙の塔(?)に閉じこもったインテリだけでは
なく、万人に開かれた信仰を求めるものだったのではないでしょうか。
その通りです。信じるも信じないも、自由に私たちの前に開かれています。
そして、私はその万人に開かれている信仰を自分の意思で選んでいます。
もっとも二世である私は、辞めない、ということを選んでいるのですが。
>乾さんの話を聞いていると、「自分はこれで納得している」という主張が多い気がします。
自分で納得する、ということは大事なことです。
まわりが納得しているようだから自分もなんとなく納得してしまっている、という状況より、
よっぽどいいと思いませんか?
>しかし僕は、自分自身が真に納得することと、世間が真に納得することをほとんど並列に考えています。
自分が納得していることを、すべての人間が納得しなければ、その納得した事項は「偽り」である、
とするならば、相当に辛い人生を送ることとなるでしょうね。
少なくとも宗教において、ひゃっきまるさんは「偽り」を生き続けなくてはならないでしょう。
万人が納得しているわけでない「南無妙法蓮華経」を唱え続けるわけですね。
569 :
乾闥婆 :02/10/02 01:14 ID:sSZ+kpka
>>551 (続き)
>なんでもかんでも「人それぞれじゃない?」で終わらすのは僕はあまり好きではありません。
まあ、そうですね。
私はこうだけれど、あなたはどう? ぐらいの話はしたいものです。
例えば私たちのこの対話のように。
>なんだかよくわからなくなってきました。乾さんは「信じ込む」ことをよいと言ってい
るのですか、悪いと言っているのですか? 法華経を絶対不変とすることがこの宗教であ
ると思うのですが。
これまでのやりとりから、盲信をすることはいいことだ、などと、
私が言うはずのない人間であることはお分かりだと思いますが。
私は自分がよいと感じた理念に信頼を置く、といっているだけです。
そしてその信頼を信仰だと思うし、
宗教はそのようにして現代にも有効に生き残りうると考えています。
570 :
びけす :02/10/02 01:17 ID:???
勧誘時の禁句 「韓国」「朝鮮」「財務の実態」 ユースケがすべてAAナイズドするからチェックす!!!
571 :
ひゃっきまる :02/10/05 04:14 ID:p1swL7/p
>乾さん
>>565 >どのような「飛躍」でしょうか。
>私は宗教において「信じる」という行為は重要な要素であるといっているだけなのですが。
>それのどこが「詭弁」なのでしょうか。
“飛躍”とは、「では、現行の宗教はほぼすべて真実ではないということでよろしいで
しょうか。
>>532 」という言葉に対してです。全ての宗教が乾さんの考えるようなものでは
ないし、むしろ僕にはそのような宗教は少数のように思います。それは、「信じることで
それが真実となる」という教義をかかげる宗教です。仏教にそのような教えがあるのです
か?
むしろ、宗教とは「不変の真実」に対しての信仰といったほうがよく、その真実が人の
心次第で変わるというのは一般的な考え方といえるでしょうか?
「真実」に対する乾さんの考え方には確かに一理あるとは思います(つまりはそれが唯
心論と呼ばれるものですから)。しかし、それは、「真実」というものがむしろ人の心に
よっては変わらない、という前提があるからこそ、アンチテーゼとして力を持つ考え方で
はないでしょうか。
572 :
ひゃっきまる :02/10/05 04:15 ID:p1swL7/p
>比較対象として科学を持ってくることは筋が違うと思うのです。 乾さんは「真実」「事実」という言葉を使い分けて自説を述べられているようですが、 果たしてその用法は一般的といえるでしょうか。一般的ではないのならば、どのように使 い分けているのか説明するべきではないでしょうか。 もし科学が「事実」を追求しているのだとしたら、「科学者は真実を求めている」とい う言葉は誤りでしょうか。また、「科学哲学」という分野は珍妙なものになりはしません か? 科学も宗教も先に見ているものは同じではないかと僕は思います。 「人は誰しも仏性を有する」とは、僕は「そうでありたいから」、そのような教義がで きたのではなく、先人の深い自身への内観から得られた(見いだされた)覚りであると思 います。見る方向が自身の外の世界へなのか、心の内へなのか、という違いはあれ、そこ に根本的な違いなどないと思います。 宗教の説くものが自由に信じたいものを信じる、というほど安易で軽いものとは思えま せん。 しかし教義内容が「願いであり祈りであり誓いですらある」ことを否定はしません。し かしそれを真実とよぶのはふさわしくないと思います。
573 :
ひゃっきまる :02/10/05 04:16 ID:p1swL7/p
>>566 >ひゃっきまるさんにとって、その見いだされたものは(略)揺らぐことのない事実とし
て確定されたものでなければならないのでしょう。
信仰におけるものがそのようなものであるわけがありません。熱いとか辛いとかいう
「感覚」を客観的に伝えられないのと同様、信仰心も例えそれが生じるまでの過程を唯物
的に説明できたとしても、その敬虔な気持ちというものを客観的に証明する必要も意味も
ありません。それはただ感じるものなのですから。「そのようなものが確かに自身の心に
在る」と観察するということが「見出す」ということです。信じるというプロセスは必要
ありません。無宗教の人でも、例えば夕日などの非常に美しい光景を見た場合など、やは
り心に同じもの(敬虔な気持ち)を持つでしょう。
>信じることを必要としない愛とはなんですか?
僕は、愛情や信頼というものが信じるから生じるとは全く考えていません。猫が自分の
仔を愛おしく思い、時に命をかけて守るのは信じるからなのですか? 「信じる」ことは
信じるに足る対象に対し、自然に湧き出る感情です。「信じよう」と思って「信じる」こ
とは、ある意味で自分を欺く行為です。だからストレスを生じるというのです。
>ところで法華経における設問と「正しい」答えとはなんなのでしょうか?
例えばその一つは
設問:成仏できる者とできない者があるのだろうか
答え:全てが等しく成仏できる
といったものでしょう。
574 :
ひゃっきまる :02/10/05 04:17 ID:p1swL7/p
>法華経や御書は「悪い本」であるということをおっしゃりたいのでしょうか。
いいえ違います。古今、宗教家たちや哲人たちは、全ての人にとってそうであるような
普遍的なものを求めてきた、ということがいいたいのです。その表現媒体や難解さを問題
にしているのではありません。大江健三郎の著書が難解ながらも評価されるのは、そこに
普遍性があるからでしょう。
例えば、自分の半生を克明に描いた小説があったとします。それは、その人個人の私的
な体験のみによってうめ尽くされてはいても、やはり普遍性をもつかもしれません。なぜ
でしょうか。それは誰の心にも同じものがあるからです。「誰にとって」を問うことは意
味がありません。
>>568 >自分が納得していることを、すべての人間が納得しなければ、その納得した事項は「偽
り」である、とするならば、相当に辛い人生を送ることとなるでしょうね。
これは上記レスをもって答えます。自身にとっての真実を追求することは即ち万人に
とっての真実を追求することと同じであるということです。自分にだけ通用するものを真
実とは呼びません。
>>569 >私は自分がよいと感じた理念に信頼を置く、といっているだけです。
>そしてその信頼を信仰だと思うし、宗教はそのようにして現代にも有効に生き残りうる
と考えています。
「現代にも」というのはひっかかる言い回しです。乾さんは現代において宗教が生き残
ることが困難である理由をどのように考えていますか?
575 :
乾闥婆 :02/10/06 23:45 ID:ATi7u6Tx
>>571 >全ての宗教が乾さんの考えるようなものではないし、
むしろ僕にはそのような宗教は少数のように思います。
それは、「信じることでそれが真実となる」という教義をかかげる宗教です。
そんな教義を掲げている宗教などないのではないでしょうか。
私が言っているのはそれぞれの宗教が掲げている教義を「信じる」ということが、
それぞれの宗教が成り立つ上で構造上必要だ、ということです。
>>532 >では、現行の宗教はほぼすべて真実ではないということでよろしいでしょうか。
>信じることを必要としない宗教とはどのようなものですか。
と私は問いました。
>信じ込むことで成立するようなものは真実でもなんでもありません。
という言葉にたいしてです。
どこが「飛躍」であり「詭弁」であるのか教えてください。
ひゃっきまるさんによると、信じることを必要としない宗教が大勢であり、
信じることを必要とする宗教は少数ということになりますが、
では、信じることを必要としない宗教を具体的に示してください。
そもそも信じることを必要としない宗教をどうして信仰しなければならないのですか?
そんなものは信仰するまでもないのではないでしょうか?
576 :
乾闥婆 :02/10/06 23:47 ID:ATi7u6Tx
>>571 (続き)
>むしろ、宗教とは「不変の真実」に対しての信仰といったほうがよく、
その真実が人の心次第で変わるというのは一般的な考え方といえるでしょうか?
教義を「不変の真実」と信じることが宗教にとって重要ということです。
信じる対象が違えば、当然その人たちの「真実」も違うでしょう。
そうでなければ、それぞれの「不変の真実」を抱えたいくつもの宗教が並び立つことを、
否定しなければならないでしょう。
例えば、この世の事象は縁起によって成り立っているのか、神によってつくられてあるのか、
並び立ってはいけなくなるはずです。
どちらかが「真実」でどちらかが「虚偽」であるという判断をしなければならなくなります。
ひゃっきまるさんはどちらかが「虚偽」であるとして滅び去ることを望みますか?
一つの「真実」である教義を残して、他のすべての宗教は滅び去るべきなのですか?
577 :
乾闥婆 :02/10/06 23:48 ID:ATi7u6Tx
>>572 >乾さんは「真実」「事実」という言葉を使い分けて自説を述べられているようですが、
果たしてその用法は一般的といえるでしょうか。一般的ではないのならば、どのように使
い分けているのか説明するべきではないでしょうか。
【真実】うそや飾りのない、本当のこと。まこと。
【事実】実際に起こった、または存する事柄。
(岩波国語辞典)
辞書の定義とそれほど違わずに用いているつもりですが。
578 :
乾闥婆 :02/10/06 23:50 ID:ATi7u6Tx
>>572 (続き)
>もし科学が「事実」を追求しているのだとしたら、「科学者は真実を求めている」とい
う言葉は誤りでしょうか。
その二つの語は大いに重なり合うでしょう。誤りではないと思います。
「事実」が「真実」であって、いけないはずはありませんでしょう。
>また、「科学哲学」という分野は珍妙なものになりはしませんか?
すみません。あまり「科学哲学」という言葉を聞いたことがありません。
それは単に事実を観測するのではなくて、
なんらかの価値判断を科学においてもおこなう、という話ですか?
>科学も宗教も先に見ているものは同じではないかと僕は思います。
上記のような認識が科学という分野においてあるのでしたらそうかも知れません。
といいますか、比較対象として、水の形態の変化を持ってこられても、
人の心や、ことに信仰心のようなものを考える上では不適合ではないか、と言っているのです。
>>566 >「水は0℃になると氷になる」というのと同じ明解さで、誰の目にも明らかに
>愛が成立していることが分かる、観察されうる現象とは何か説明できますか?
ということをつまりは言っているのです。
579 :
乾闥婆 :02/10/06 23:51 ID:ATi7u6Tx
>>572 (続き)
>「人は誰しも仏性を有する」とは、僕は「そうでありたいから」、そのような教義がで
きたのではなく、先人の深い自身への内観から得られた(見いだされた)覚りであると思
います。
内観によって見出されたものはなんでしょう。
それが人間に対する希望ではない、ということでもないでしょう。
認識の変更をこそ仏教は考えていたはずで、
その認識の変更を促しているものは、それまでの認識では苦を逃れることができないからでしょう。
そのような認識の変更の意思が、どうして人間に対する希望に基づかないと言い切れるのですか?
>見る方向が自身の外の世界へなのか、心の内へなのか、という違いはあれ、そこ
に根本的な違いなどないと思います。
「真実」を追い求めるという点では、そうですね。
ただし対象が違えば現れ出る形態も違ってくるでしょう。
「【事実】実際に起こった、または存する事柄」から科学ははみ出すわけにはいかないでしょうが、
宗教は実によくはみ出しているように思います。
580 :
乾闥婆 :02/10/06 23:53 ID:ATi7u6Tx
>>572 (続き)
> 宗教の説くものが自由に信じたいものを信じる、というほど安易で軽いものとは思えま
せん。
そうですね。だから争いが絶えないのでしょうね。
信じている者にとってその教義は「真実」であり「事実」ですらある必要があるからですね。
>しかし教義内容が「願いであり祈りであり誓いですらある」ことを否定はしません。
しかしそれを真実とよぶのはふさわしくないと思います。
「事実」と呼ぶにはふさわしくないとは思いますが、
その人にとってそのような祈りは「真実」ではないでしょうか。
581 :
乾闥婆 :02/10/06 23:54 ID:ATi7u6Tx
>>573 > 信仰におけるものがそのようなものであるわけがありません。熱いとか辛いとかいう
「感覚」を客観的に伝えられないのと同様、信仰心も例えそれが生じるまでの過程を唯物
的に説明できたとしても、その敬虔な気持ちというものを客観的に証明する必要も意味も
ありません。それはただ感じるものなのですから。「そのようなものが確かに自身の心に
在る」と観察するということが「見出す」ということです。信じるというプロセスは必要
ありません。
>>566 において、私の言っていることも、そういうことなのです。
その見出だされた理念に信頼を置く、そのことを信仰というと思っています。
信じるプロセスがあるから見出すのではなく、見出したものを信じる、ということです。
なぜ信じる必要があるのか。
それはその信じた理念が誰にでも妥当する必要があるからです。
それが宗教でしょう。自分だけの感じ方に留まっていてよいのであれば、
信じる必要がないのです。
そして私たちはそのような構造がどのような宗教にも当てはまるだろうことを知り得ます。
私が述べてきていることはそういう俯瞰図のようなことなのです。
582 :
乾闥婆 :02/10/06 23:55 ID:ATi7u6Tx
>>573 (続き)
> 僕は、愛情や信頼というものが信じるから生じるとは全く考えていません。
愛や信頼には「信じる」という跳躍が必要不可欠だと言っているのです。
愛を相手に語るときにはすでに信じているということが前提となっています。
相手や自分を疑いながら愛を告白しているのであればそれは虚偽になります。
愛の告白とは単に事実を言っているのではなく一つの宣言であるはずです。
因果であるというよりも同時的存在なのだと思うのです。
>猫が自分の仔を愛おしく思い、時に命をかけて守るのは信じるからなのですか?
猫に対する愛情は愛玩に近いのではないでしょうか。
そうではなくて、相手も自分と同じ認識主体である人間同士の愛や信頼について言っています。
>「信じる」ことは信じるに足る対象に対し、自然に湧き出る感情です。
つまり「信じる」わけですね。
>「信じよう」と思って「信じる」ことは、ある意味で自分を欺く行為です。
だからストレスを生じるというのです。
ですからそのような信じ方はやめればいいと言っています。
583 :
乾闥婆 :02/10/06 23:57 ID:ATi7u6Tx
>>573 (続き)
> 例えばその一つは
設問:成仏できる者とできない者があるのだろうか
答え:全てが等しく成仏できる
といったものでしょう。
そしてその答えの仏の教えとしての「正しさ」を、
ひゃっきまるさんは批判していたのではないでしょうか。
法華経非仏説である以上、仏の「正しい」説とする根拠がない、と。
次に御書はどうでしょうか。
「四十四年未顕真実」は御書において「正しい」答えですね。
しかし正しくないわけです。
つまり御書も法華経も「よい」「悪い」以前の困った本ななるわけでしょう、
ひゃっきまるさんによれば。
584 :
乾闥婆 :02/10/07 00:00 ID:GRRhMKt6
>>574 >古今、宗教家たちや哲人たちは、全ての人にとってそうであるような
普遍的なものを求めてきた、ということがいいたいのです。
もちろん求めてきたことでしょう。
しかしすべての人たちにとって「真実」足りうる本はなかなか書かれなかった。
大江健三郎は文壇的にも国際的にも評価はされましたが、
読者がちゃんとついてきているかというとそうでもなくて、
やはり多くの人たちに理解されず敬遠されていることも事実でしょう。
私が言いたいのは結局人が受け入れるものは多様であるということです。
読みにくいものが嫌な人は「普遍性」などと関係がなく嫌なのです。
「水は0℃になると氷になる」ようにはいかないのです。
>自身にとっての真実を追求することは即ち万人にとっての真実を追求することと同じであるということです。
自分にだけ通用するものを真実とは呼びません。
ではなぜひゃっきまるさんは折伏しないのですか。
勤行・唱題はするわけですよね。
自分にとって「真実」であるわけですよね?
それは自分にだけ通用するものであってはならないわけですよね?
それで折伏しないとはどういうことですか?
585 :
乾闥婆 :02/10/07 00:01 ID:GRRhMKt6
>>574 (続き)
>「現代にも」というのはひっかかる言い回しです。乾さんは現代において宗教が生き残
ることが困難である理由をどのように考えていますか?
いまさら言うまでもないでしょう。
法華経はゴータマ・ブッダの直説ではないし、
多数説かれた経典の中で唯一正しく説かれた教えでもないし、
それを疑ったとしても頭が七部に割れるわけでもないし、
念仏を唱えたからといって地獄に堕ちるわけでもないし、
・・・
まあ、そういう事柄です。
そんな事柄を乗り越えて信じうる方法を考えると言うことです。
586 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :02/10/07 00:07 ID:X3ou1de5
スレタイ通り強固だね〜
こないだ座談会いったんです座談会 そしたらなんか人が一杯で入れないの お前等な、昼間っから座談会来てるんじゃね〜よ よくみたら 親子連れとかも来てて 『よしパパ勤行3回』 アホかと、馬鹿かと もう、見てられない。 作り笑顔して、耳障りの良いこと言って拝んでるだけで ひとつ偉くなった気分になって。 座談会はな、ひざ突き合わせて、もっと殺伐としてるのがいいんじゃねえか。 そしたら、今度隣のやつが、『折伏した』とか言いやがって また、ぶち切れですよ。 折伏?お前ほんとに折伏できるのかよ! 折伏したって、言いたかっただけじゃねえのか? ほんとに折伏したのか問いたい、問い詰めたい、 小一時間問い詰めたい。 座談会通のおれから言わせてもらえば 折伏なんてきょうび流行らない 『キンマンコしる?』 これだね! しかし、これを使うと婦人部から目をつけられる両羽の剣 っまあ素人はお勧めできない おまいらシロートは『折伏』でもしてろ
589 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :02/10/08 09:24 ID:3bTLlLoW
>588 お前は、キンマンコ と言いたいだけじゃないのか?(糞
590 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :02/10/08 09:44 ID:kgYDyNnd
>>589 「と言いたいだけじゃないのか?」
と、言いたいだけじゃないのか? 589-590 自作 THE END!(ワラ
591 :
2チャンネルで超有名 :02/10/08 10:05 ID:0Gvyc7TK
↑会員の副業?
593 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :02/10/08 11:05 ID:VF+O2STU
信仰するのに信じることは大事だ。 でも信じることを強制されるのはちょっと違う、と思う。 まして脅されるのはひどい。 信じる者も信じない者も宿業ゆえか?と考えてみる。
594 :
nitro microphone underground :02/10/08 14:09 ID:fZ/auj71
「苦は楽」てMC牛耳るには、うってつけです。 解釈が違うから、学会員はどんな苦労でも買ってでる。 でもそうじゃないだよね、人間の幸せは…。
595 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :02/10/09 03:19 ID:SjM6Ty0O
>>588 オメー、んとに座談会通かあ?
どこの地区の座談会に出てんだあ?あー?
座談会がどういう風に進行していくのか小一時間問いつめ…。
んとは出たことなんかねーんだろ?
この煽りトーシロがぁ。
596 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :02/10/09 03:28 ID:/CsLTjsO
横レスです。
>>582 >猫に対する愛情は愛玩に近いのではないでしょうか。
そうではなくて、相手も自分と同じ認識主体である人間同士の愛や信頼について言っています。
ひゃっきまるさんは「人間」の「猫」に対する愛情をいっているのでなく、
「猫」の「自分の子供」に対する愛情のことをいっていると思われ。
597 :
乾闥婆 :02/10/09 09:22 ID:xocb3QQ8
>>596 あ、本当だ。
でも、猫の心は分からないです。
心があれば、ですけれど。
598 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :02/10/09 10:37 ID:bmqj+1YN
創価学会の批判にお答えします。09010579924
599 :
2チャンネルで超有名 :02/10/09 10:47 ID:GK88vNr9
600 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :02/10/09 14:38 ID:Bb2W+G1D
アンチに対する苦情、批判を受けます。 09010579924
601 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :02/10/09 14:41 ID:RHCbXKEH
>>600 削除依頼の対象だよ。
他でも書いているようだけれど、分かってカキコしているの?
603 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :02/10/09 15:02 ID:RHCbXKEH
604 :
600 :02/10/09 15:04 ID:Bb2W+G1D
もっとageてくれ
605 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :02/10/09 15:06 ID:J1YVyPrb
606 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :02/10/09 15:06 ID:RHCbXKEH
>>602 工作員のみにhage言う
やはりキミもhage
依頼したのは工作員hageか
悩む前に0120−2323
hage
607 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :02/10/09 17:31 ID:Be/1WUz9
>>597 「信じる」行為が人間の専売特許だとの考えは傲慢。
心は人間にしかない、
と規定しているところがアナタの仏法の限界。
608 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :02/10/09 18:11 ID:xRlhjyE/
>>607 >>「信じる」行為が人間の専売特許だとの考えは傲慢。
それだ!俺が言いたかったのは、それだ!
後「善行」「ボランティア」「輝き生きる」とかって
何も創価の専売特許じゃないですな。
「創価に入らなきゃ、「善行」じゃない」
「創価に入らなきゃ、ホントの意味で貢献じゃない」
「創価に入らなきゃ、いいことしても自分に返ってこない」
とかよく真顔でいう人いるけど、やばい。
609 :
乾闥婆 :02/10/09 18:46 ID:soNiyPKP
>>607 >「信じる」行為が人間の専売特許だとの考えは傲慢。
はあ、考えていませんが。
>心は人間にしかない、と規定しているところが
はあ、規定していませんが。
私は猫の言葉を解しませんので、
猫の言葉を理解できる人に猫の心のことはお尋ねください。
>アナタの仏法の限界。
よってあなたが「アナタの仏法」と思い違いした仏法が限界。
もしくは猫の言葉を理解できない私が限界。
>>608 そりゃ、やばいでしょう。
610 :
乾闥婆 :02/10/09 19:32 ID:/FtU2J1g
猫の心について話していて、 非情・有情ということを思い、 山川草木は非情に分類されるのでしょうが、 猫とかはどちらに分類されるのだろうと、ちょっと疑問に思いました。 蓮祖は、といいますか、天台からでしょうか、草木成仏をいいますから、 どちらでもいいのかも知れませんが、気になりました。 どなたかご存じでないでしょうか。
>>610 猫を殺して
大作が「お前は首!」といえば「有情」
大作が「別にいいよ」といえば「非情」
分かりますか?
612 :
乾闥婆 :02/10/10 00:42 ID:lJFxbX7x
さあ、分かりません。
613 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :02/10/10 02:51 ID:3URL1zl9
>もしくは猫の言葉を理解できない私が限界。 人間の言葉なら理解してるつもりになってる貴方が限界。
614 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :02/10/10 09:33 ID:C3pacjRC
ここって自分の携帯番号載せるとつかまんの?
615 :
乾闥婆 :02/10/10 23:57 ID:iv/kikCk
>>613 >人間の言葉なら理解してるつもりになってる貴方が限界。
この文脈で使われている「理解」と、
猫の言葉を「理解」できる・できないという文脈で使われている「理解」とは、
言葉の属する層が違うでしょう。
「人間の言葉なら理解してるつもりになってる貴方」という否定的な響きのうちに語られる「理解」は、
猫の言葉を理解できる・できないとは違うニュアンスにあるはずです。
つまり「人間の言葉なら理解してるつもりになってる貴方」とは私ではないし、
私はそのようなニュアンスにおいて語られる、
言葉の持つ多義性やコミュニケーションにおける齟齬のようなものはよくわきまえているつもりです。
そうでなければひゃっきまるさんとこのように対話を進めることはできないでしょう?
そういう意味のずらしによって相手をやりこめたつもりになるような態度こそ、詭弁を弄する姿なのでしょう。
616 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :02/10/11 04:45 ID:GLv9l8ST
>「人間の言葉なら理解してるつもりになってる貴方」という否定的な響きのうちに語られる「理解」は、 猫の言葉を理解できる・できないとは違うニュアンスにあるはずです。 ―――――――――――――― どう違うのでしょう?教えて。 >言葉の持つ多義性やコミュニケーションにおける齟齬のようなものはよくわきまえているつもりです。 ―――――――――――――― そう、それ。 「よくわきまえているつもり」→「理解しているつもりになっている」ってことじゃないの? >そういう意味のずらしによって相手をやりこめたつもりになるような態度こそ、詭弁を弄する姿なのでしょう。 ―――――――――――――― >心があれば、ですけれど。(597) ↓ >はあ、規定していませんが。(609) これって「意味のずらし」「詭弁」にはならないの? 597で言ってるのって、猫には心がないってことでしょ。他人はともかく貴方はそう規定してるってことじゃないの? 貴方をやりこめるつもりは毛頭ないけど、少なくも615は詭弁になってるよ。 もう一度読んでみて。 貴方に敵意はない。 なんか言葉の泉に溺れて苦しそうに見えたもんだから。
617 :
乾闥婆 :02/10/11 08:33 ID:11vVVFjt
>>616 >どう違うのでしょう?教えて。
同じ種の同じ言語をもつ者同士との会話とそうでない者との会話の違い。
例えば猫と私が、ひゃっきまるさんとの間で交わしているような抽象的な話ができますか?
>「よくわきまえているつもり」→「理解しているつもりになっている」ってことじゃないの?
また、違う言葉の層にずらして煙に巻く。
「言葉の持つ多義性やコミュニケーションにおける齟齬のようなもの」がないなって、
決めつけて話しているわけではないということでしょう。
そういうことをわきまえているということです。
そのようなずらしをはじめたら無限遡及的にどこにもたどり着けないでしょう。
>これって「意味のずらし」「詭弁」にはならないの?
>他人はともかく貴方はそう規定してるってことじゃないの?
違うでしょう。
「分からない」とまずはじめに宣言していますよね。
「分からない」とは規定する意思とは違う言葉ですよ。
「心があれば、ですけれど」は少なくとも私にはそのように思えないけれど、
ということです。
規定とは私たちが会話をする上で「猫に心はない」と決める、ということです。
私はそのような規定の共有を貴方に強要していない。私自身にも強要していない。
ただ「分からない」といっているのであり、今のところそのようには思えない、といっているだけです。
それは規定ではありません。
だから「私は猫の言葉を解しませんので、猫の言葉を理解できる人に猫の心のことはお尋ねください」
といいました。
>なんか言葉の泉に溺れて苦しそうに見えたもんだから。
そうかもしれない。
618 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :02/10/13 05:17 ID:uZiRZHJ7
>>617 616です。
たびたびでごめんなさい。
でもちょっと気になったもんだから。
>同じ種の同じ言語をもつ者同士との会話とそうでない者との会話の違い。
人間と猫は同じ種の同じ言語でない、と誰が決めたのですか?
少なくともわたしたち人間がそう思ってるだけでしょ。
こんなこと書くと、私が猫と話ができるとでも言い出しそうな“痛い”ヤツのようだけど、
上に書いたことはあくまでも例えで、
ここで言いたいのは、あまりにも人間の独断による常識を前提にして考えをすすめていないか、ということ。
>例えば猫と私が、ひゃっきまるさんとの間で交わしているような抽象的な話ができますか?
だから〜、言葉が交わせるから、抽象的な会話ができるからといって、
「より理解し合えてる」とは限らないわけで。
愛猫家の中には、人間よりは猫との方がずっと理解し合えてると思ってる人だって少なくないっしょ?
又、言葉の通じる日本人より、言葉の通じない外国人との方が理解し合えたってことだってあるっしょ。
貴方にとって「理解」の尺度は言葉だけ?
貴方にとって「理解」とは何?
619 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :02/10/13 05:19 ID:uZiRZHJ7
続き >また、違う言葉の層にずらして煙に巻く。 言葉の層って何ですか? >そういうことをわきまえているということです。 ん?わきまえているから何ですか? 少なくとも言葉の持つ曖昧さをわきまえて人間相手に会話している。 だから言葉を使って会話のできない(とりあえず貴方は)猫とよりは理解し合ってる、と言いたいのですか? 上にも書きましたが、言葉を交わせることが「理解」の最大根拠と考えている貴方にとっては、 「言葉の持つ多義性やコミュニケーションにおける齟齬のようなもの」をわきまえてるかどうかが大問題かも知れませんが、 そもそも「理解」するのに言葉だけを頼りにするのが変なのでは? まさか貴方はここの書き込みだけで相手を理解しようなどとは思ってないでしょ? あと、規定の話だけど、会話の前提を強要するか、しないかが規定か否かの違いじゃないと思う。 貴方自身の中に「猫には心がない」との規定があるからこそ、 「心があれば、ですけれど」という書き込みになったんじゃないんですか?という意味だったんだけど。
620 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :02/10/13 11:13 ID:PBy7aHcB
よく層化の人が「日本は信仰心が極めて希薄」とかいってるだろ? 大間違いだよ。 層化の言い分は「盆と正月・クリスマス」これ が一緒にセレモニー化されている事をよく引き合いに出す。これは 本来日本が古来から持つ宗教意識そのものなの。 原始神道知ってる人だったら分かると思うが「八百万の神」と言って 全ての物(物品含む)森羅万象に神が宿るとされている。 昔から 日本は他の宗教に対しとても寛容だった。 800万の神の集団に 他の神様(キリストやアラー等)が入ってきても全然かまわないわけ。 だから、日本はヨーロッパとは違い、宗教を巡る大きな戦争は起きてない。
621 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :02/10/13 11:13 ID:PBy7aHcB
続き で、解りやすく言えば、一神教の神がやってきたら アマテラスは座布団とお茶を用意して、「どうぞこちらへ」という 感覚。 対して一神教の神は、「神は俺が唯一、お前らは消えれ」 といってお茶と座布団を蹴飛ばす。 そんな感じな。 話しは戻るが、日本ほど生活に信仰心が密接に関わっている国は無い。 太陽をみれば、「お天道様」であり、山を見たら神秘的な気持ちになる。 仏壇も神棚もあるのもなんの間違えでも無い。 日本が誇って言い宗教 文化である。 クリスマスを楽しむ(?)のも日本が一神教の教義を 持たず、神様の一人として受け入れている証拠。 物に対して「コイツは調子が悪くて・・」と擬人化させるのも宗教意識の 1つ。
記念カキコ
池田あほ作、死ね。
>>624 間違い
キリストは神じゃないが、アラーは神だよ。
池田デブ作も、神じゃないぞ。 変態だぞ。ボケ老人だぞ。
>>626 最初から池田氏を神と呼ぶ人なんていないよ。
>>624 クリスチャンの立場からすれば、三位一体説で神なのでは?
素人なんでアフォカキコだったらスマソ
クリスチャンの立場なら、神、かもしれないです。 旧約新約の各聖書を確証するコーランから見ると、人、です。
630 :
628 :02/10/15 22:48 ID:???
>>628-629 中世だったら火あぶりだもんなあ。
信教の自由っていいもんだ。
レスありがとです。
>乾さん レスが遅くなってすみません。少しずつ書いていたのですが、一度にレスしようとする のは大変ですね。どうも議論が錯綜しているようです。また、お互いの言葉の定義上の誤 解もあるようですし。ただ、なんとなく乾さんの考えと僕の考えはそんなに隔たっている わけではない、というように感じていますが・・・。まとめなおしながらレスすることに します。 議論の順です↓
>>516-517 (乾さん)
>それは別に事実でも真実でもないのでしょう。
>ただそれを事実である真実であると信じることで、その「ものの見方」は効用を発揮す
るのです。
>>529 (私)
>信じ込むことで成立するようなものは真実でもなんでもありません(そもそも「信じ込
む」と言っている時点で、それが偽りだと認めているではありませんか)。
>>532 (乾さん)
>では、現行の宗教はほぼすべて真実ではないということでよろしいでしょうか。
>信じることによって生じるものはすべて「偽り」ですか。では人間の抱く愛情や友情、
信頼というものは「偽り」ですか?
>>550 (私)
>乾さんの宗教へのとらえ方には、とても大きな「飛躍」があるように思います。それは
宗教が科学に否定される時代の詭弁にしか聞こえません。
>「信じることによってはじめて成立するようなものを真実というのはおかしい」とい
う、非常に当り前なことを述べたまでです。
>>566 (乾さん)
>つまり愛情や友情や信頼は虚偽であるということですか。
>「水は0℃になると氷になる」というのと同じ明解さで、誰の目にも明らかに
愛が成立していることが分かる、観察されうる現象とは何か説明できますか?
信じることを必要としない愛とはなんですか?
>>571-573 (私)
>宗教とは「不変の真実」に対しての信仰といったほうがよく、その真実が人の心次第で
変わるというのは一般的な考え方といえるでしょうか?
>その敬虔な気持ちというものを客観的に証明する必要も意味もありません。それはただ
感じるものなのですから。
> 僕は、愛情や信頼というものが信じるから生じるとは全く考えていません。猫が自分
の仔を愛おしく思い、時に命をかけて守るのは信じるからなのですか?
この議論のテーマは、「真実」と「信じる」ことについてですね。文脈の枝分かれが激
しく混線しているようです。
まず、乾さんは
>>516-517 で、そもそも真実を否定されているようです。ここが分かりに
くいところなのですね。しかしこの辺をそもそも言葉で論理的に説明できるはずもな
い・・・、かもしれません。僕の率直な感想を簡単に言えば、乾さんは信仰者としての真
実への捉え方と、それを外側からみる観察者としての捉え方と、二重の真実を持っている
ように見え、それが混乱させるのです。
この後、僕は「真実」という概念の捉え方についてこだわったレスをさせてもらいまし
た(
>>529 )。
それに対しての乾さんのレスは、僕の発言は全ての宗教を否定するものである、という
ものでした。仏教における(乾さんの考える)真実の内容だけではなく。
だから僕は、それは飛躍した宗教への捉え方であるのみならず、仏教の教えでもないだ
ろう、といいました。(
>>550 ,
>>571 )
それに対しては、愛情、友情、信頼、などの客観的に証明できる対象以外のものは真実
ではないのか、というレス(
>>566 )でしたが、
>>573 で説明するようにこれは単純に勘違い
と思われます。しかしここで新たにでてきた問題提起として、愛情、友情、信頼は信じる
から生じるのか、というものが出てきました。
そこで僕は、哺乳動物の子供への本能を引き合いにだして、信じることと愛することに
は関連がないということを示しました(
>>573 )。
本筋の「真実」と「信じる」ことについてですが、僕の
>>571 への乾さんの
>>575 のレス
は意図的にしたとしか思えないほどひどい誤解です。どのような誤解かは、以上の議論の
流れをもってこたえます。
>>576 >そうでなければ、それぞれの「不変の真実」を抱えたいくつもの宗教が並び立つこと
を、否定しなければならないでしょう。
>一つの「真実」である教義を残して、他のすべての宗教は滅び去るべきなのですか?
宗教の対立は確かに大きな問題です。宗教が心の平安どころか争いを生んできた、とい
う恥じるべき忌まわしい歴史をもっていることも知っています。しかし、その争いが起
こったのはなぜでしょうか? それは、各々の宗教がそれぞれの「真実」を主張して譲ら
なかったからです。もし宗教における「真実」が乾さんの考えるもののようであったな
ら、そもそもこのような争いはおこらなかったでしょう。
「真実」の生み出す難しい問題と、「真実」のもつべき“条件・資格”とは別に考える
べきものです。
乾さんは真実をぼやかして真実の価値までもぼやかそうとしているように見えます。何
が真実かを議論することは大事なことです。今の倫理観は、あらゆる暴力的手段(物理的
なものはもちろん、その他でも)を良しとしないことで過去の過ちを回避するというもの
です。
レスに直接的に答えるならば、僕は万人に普遍的に存在するものを信じています。それ
は形として表れる多様性の根源であるものです。例えば地上の諸々の生物が様々で全く統
一がとれていないように見えても、その祖先は一つであり、セントラルドグマに代表され
るような基本的な仕組みが同じであるということによって喩えられるでしょう。
>>577-578 事実はともかくとして、真実をとても辞書どおりの意味で用いているとはいえないと思
います。もっとも、この辞書の定義では私達の議論の指標とするには不十分すぎますが。
乾さんのいう真実は、むしろ「方便」とでもよんだほうが似つかわしく思います。
僕は事実は真実の一部を為すと考えています。だから事実と真実が食い違うことはない
と言うのです。科学と宗教に関しての乾さんと僕の考えは大いに異なっているようです。
例えば、僕は科学の解きあかす法則にある種の神性を感じ、感動することがあります。そ
の意味で、「真実」とは「価値」そのものという言い方できると思います。真実を追求す
ることそのものが神聖な行為であり、それゆえそれが価値的であると僕は考えます。
さて、「事実」の実在性と、それが客観的に証明できる(誰の目にも明らかに成立して
いることが分かる)かどうかは別問題です。これを乾さんは読み違えておられるようで
す。AがBを殺したという事実があったとして、それを証明できるとは限らないでしょう。
「我思う故に我有り」とはデカルトの哲学(科学)の最要諦でありますが、では我が有
るということを客観的に証明できるでしょうか。
>といいますか、比較対象として、水の形態の変化を持ってこられても、人の心や、こと
に信仰心のようなものを考える上では不適合ではないか、と言っているのです。
「信じることによって必ず願いが叶う」と言った場合、それは真なのでしょうか、偽な
のでしょうか。
>>579 >そのような認識の変更の意思が、どうして人間に対する希望に基づかないと言い切れる
のですか?
この文脈に沿って僕の考えを述べれば、内観によって見いだされた人間の心や世界の構
造に基づいて、自己を改革していく方法を提示したのが仏教(宗教)である、ということ
です。心の構造と改革の方法とは同一ではありません。心の構造を勝手にああだとかこう
だとか決められるのは変ではありませんか?
>>587 乾さんの「信じる」ということがどういうことなのかよく分かりませんが、僕は母猫は
仔猫に愛(慈しみと言った方がいいでしょうか)を感じていると思います。愛だけではな
く、怒り、悲しみ、喜びなどの感情もあるでしょう。それは犬や猫を飼ったことのある人
ならば誰しもそう思うでしょう。ところで何故「愛玩」は愛ではないのですか? 僕は愛
の一つの形であると思います。同様に性欲といったものもまた愛の一つであると思いま
す。
>>587 >つまり御書も法華経も「よい」「悪い」以前の困った本ななるわけでしょう、
そんな意地悪な解釈をされるとは思いませんでした。御書にしても、法華経にしても、
それをいわゆる「原理主義」的に読めば当然、誤りが書いてある悪い本、ということにな
るでしょう。しかしそれらは当時の時代状況を考慮して読むべきです。デモクリトスが紀
元前から原子の存在を説いていたこと、そう考えた理由・哲学、それは尊重すべきでも、
その具体的内容までも全て正しいはずがありません。書いた人間が何を狙ったのか、何を
見いだし悟ったのか、それは現代からではまた違った読み方をせねばなりません。我々は
そのように書物を読むのが当然であり、前提であるのではないのですか?
信仰の名の元に何ものかを絶対正しいとする読み方も間違っていると思いますし、だか
らといって何が正しいのかの議論を放棄することも間違っているということです。
>>584 >読みにくいものが嫌な人は「普遍性」などと関係がなく嫌なのです。
>「水は0℃になると氷になる」ようにはいかないのです。
万人にとって理解されないことと、それが万人にとって事実であるかということは当然
のことながら別です。相対性理論を理解する人は多くはないでしょうが、そのことによっ
て理論の正しさが影響を受けるわけではありません。理論のみによって理解できたのは、
おそらくアインシュタイン唯一人だったでしょう。理論で分からない人間は、例えによっ
て理解します。例えによっても理解しない人間は、実際の実験や観測結果によってはじめ
て、それが事実であることを確信できます(日食時に太陽の背後にある星が空間の歪みに
よって位置がずれて観測された)。
大江健三郎の著書が万人に読まれなくとも、彼の鋭い人間への洞察はいろいろな意味で
社会に影響を及ぼし、無意味ではないのです。
639 :
ひゃっきまる ◆t7Soul.N6M :02/10/19 20:45 ID:8u0p4dqj
>>584 >それは自分にだけ通用するものであってはならないわけですよね?
>それで折伏しないとはどういうことですか?
僕は形の上でのものに絶対性を見いだしません。唱題とは僕にとっての信仰心を顕わす
形式であると、以前に言いました。また、特定の宗教やイデオロギーを広めることが自身
の見いだした法に帰依するということだとは考えていません。信仰とはもっと自身の生活
そのものによって表現するものです。何を念頭におき生活するか、何を心に思うか、何を
語るのか、そういうことではありませんか? 八正道とはそのようなもののはずです。
>>585 >まあ、そういう事柄です。
>そんな事柄を乗り越えて信じうる方法を考えると言うことです。
そうまでして保ちたいものとはなんでしょうか? 信じ難いことを無理に信じる必要は
ないのではないですか? そのことには乾さんは同意したと思ったのですが。
640 :
ライブ中継 :02/10/19 20:57 ID:+aCx8gk5
すごいなぁ そんなに難しいものなのかな・・・? おっと、レス無用です!
ご祈念あげ。
横スレごめん 先ず御書と法華経を一緒のレベルで語るのが間違い 法華経>御書の立場で話ししないと。 あ!わり、ガカイーンはそれできないだったね。 忘れてた(藁
流れを読めない厨が一匹・・・
644 :
乾闥婆 :02/11/03 23:27 ID:???
>>631 ひゃっきまるさん、ご無沙汰しています。レス、大分遅れてしまいました。
正直、このまま続けることに躊躇していました。
大体ひゃっきまるさんとの相違点や合意点は確認できましたし、
些末な部分での行き違いに消耗するのもつまらないように思いました。
それこそレスを書いている時間で題目を上げた方がいいのでは、などと思ったり。
でも一応、これっきりというのも尻切れトンボなので、レスすることにします。
>>636 >さて、「事実」の実在性と、それが客観的に証明できる(誰の目にも明らかに成立して
いることが分かる)かどうかは別問題です。
ひゃっきまるさんは、一貫して科学的方法による「真実」の追求を持って、
私の宗教観を批判してきたわけです。
そのような方法論によらない「真実」の探求など無価値だとさえいったはずです。
「全てにとって一致する普遍」でなければ「真実」ではないといったはずです。
それを急に「事実」の実在性は「客観的に証明」されなくてもかまわないといわれても困ります。
それでは私の言っていることとあまり変わらないのではないでしょうか。
>「我思う故に我有り」とはデカルトの哲学(科学)の最要諦でありますが、では我が有
るということを客観的に証明できるでしょうか。
それは認識主体を証明不要な地点として括弧に入れたということではないでしょうか。
認識対象の話とは違うと思います。
その点をふまえて論を展開させてもらいます。
646 :
乾闥婆 :02/11/03 23:30 ID:???
>>634 >僕の率直な感想を簡単に言えば、乾さんは信仰者としての真実への捉え方と、
それを外側からみる観察者としての捉え方と、二重の真実を持っている
ように見え、それが混乱させるのです。
その通りです。前者を「真実」と言い、後者を「事実」と言い分けました。
後者を前者に含ませることに異議はありませんが、
必ずしも前者が後者の要件を満たすわけではない、と言ってきたのです。
前者を後者の上位概念に据えて話を進めてきたわけです。
それに対しひゃっきまるさんはあくまで同位の概念として二つの用語を使用されました。
そこに私たちの齟齬があります。
その二語が同位である場合、お互いがその概念を拘束しあわなければならなくなります。
「事実」であることは「真実」であり(これに私は異論がありません)
「真実」であることは「事実」でなければならない(これに異論を挟んできました)
つまり「真実」であるには「実際に起こった、または存する事柄」である必要が生じるわけです。
647 :
乾闥婆 :02/11/03 23:32 ID:???
>>634 (続き)
『事実に反する真実はない』とおっしゃるひゃっきまるさんに私は反論してきました。
そうでなければ宗教の語る「真実」は、多くが「偽り」になってしまうと考えたからです。
ところがひゃっきまるさんは、そのような私の反論を「飛躍」であり「詭弁」であるといわれました。
それが私には分からないのです。
「水は0℃になると氷になる」ように観測されうる「事実」を元にした
宗教でなければいけないのですか、と私は問うているのです。
それに対してひゃっきまるさんはこう答えています。
>>573 信仰におけるものがそのようなものであるわけがありません。熱いとか辛いとかいう
「感覚」を客観的に伝えられないのと同様、信仰心も例えそれが生じるまでの過程を唯物
的に説明できたとしても、その敬虔な気持ちというものを客観的に証明する必要も意味も
ありません。それはただ感じるものなのですから。「そのようなものが確かに自身の心に
在る」と観察するということが「見出す」ということです。信じるというプロセスは必要
ありません。
648 :
乾闥婆 :02/11/03 23:33 ID:???
>>634 (続き)
つまり宗教上観察されたことを、
「懐疑主義、実験主義、経験主義、反証主義など」の「方法論」によって、
検証する必要はない、できない、とおっしゃっています。
でしたら私の言っていることと同じではありませんでしょうか。
見出したことを検証して「事実」と確定できないから「信じる」わけでしょう。
信頼を置く、とも私は言いました。
見出すことに「信じるというプロセス」は必要なくとも
その見出されたものを「信じるというプロセス」は宗教である以上必要だといっているのです。
そしてそのように信じられたものもまた「真実」ではありませんか、といってきました。
「客観的に証明する必要も意味もありません」と
ひゃっきまるさんも言い切られる信仰心を「真実」と呼べないのですか、と。
649 :
乾闥婆 :02/11/03 23:34 ID:???
>>634 (続き)
愛についても同じですね。
愛もまた「懐疑主義、実験主義、経験主義、反証主義など」の「方法論」によって、
検証できないものです。
といいますかそのような検証をおこなった時点でその愛は損なわれてしまうでしょう。
そのような検証は「疑う」ことを必要とするからです。
つまり愛という「事実」は確定できないものです。
「哺乳動物の子供への本能」は観測されうる現象ですが、それは愛ではなくて本能です。
そこに愛を見るとすれば、それは愛という概念を有する人間が
「哺乳動物の子供への本能」という表象に愛を仮想する、ということです。
もしくはそのような表象群から愛という概念を抽出して、
人間の住む言語世界に援用する、ということです。
愛は「事実」に対する名称なのではなくて概念なのです。
そしてそのような概念である愛は裏切られることもあり、疑われることもあります。
それでも愛を口にするとは「信じる」ことを含まないではいられないと思うのです。
そのようにして誓われる愛があるのであれば、
私は「客観的に証明する」ことができないような、「事実」と確定し得ない事象であったとしても、
その心を「真実」と呼びたいと思います。
そう呼ばなければそもそもそれは愛ではないからです。
疑いを残す愛、は愛ではないのです。
650 :
乾闥婆 :02/11/03 23:36 ID:???
>>634 (続き)
私たちに議論のズレは「信じる」ことの作為性をめぐっているように思います。
ひゃっきまるさんは「信じる」こと自体を否定しているのではなくて、
信じがたいことを強制されて信じることを否定しているわけですね。
私もそれには同意しているわけです。
それでも「信じる」という心的行為は、
構造上、宗教には(愛という概念もまた)避け難くつきまとうということを、
私は言っているのです。
651 :
乾闥婆 :02/11/03 23:37 ID:???
>>636 >僕は事実は真実の一部を為すと考えています。
ひゃっきまるさんは「一部」と考えているのではなくイコールと考えているはずです。
イコールでなければ、「だから事実と真実が食い違うことはない」とはなりません。
「事実は真実の一部」である場合、「事実」ではない「真実」が生じてしまうからです。
それは私の主張です。
>「信じることによって必ず願いが叶う」と言った場合、それは真なのでしょうか、偽な
のでしょうか。
信じられている教義体系内において、信じて祈ることが願いの成就への道であるとされているのなら、
その体系内の人にとって「真実」でしょう。
私の「真実」の用語法がそのようであることは話し続けてきた経過でお分かりですね?
652 :
乾闥婆 :02/11/03 23:38 ID:???
>>637 >心の構造と改革の方法とは同一ではありません。心の構造を勝手にああだとかこう
だとか決められるのは変ではありませんか?
心の構造を縁起の理法に見るという認識それ自体が、生き方の改革であったはずです。
勝手に決めたといいますか、そのように考えた方が生きるのに楽だ、ということでしょう。
この辺は卵・鶏のどちらが先かに似ている議論ですね。
ひゃっきまるさんは、認識される前にその事柄はどこかに既に存在しており、
それを人間が発見し言葉を付与する、と考えているようですね。
私は、人間が言語によって事象を切り取ることによって、
はじめてその事柄は存在しはじめる、と考えています。
特に概念についてはそのように考える方が自然なように思います。
>ところで何故「愛玩」は愛ではないのですか? 僕は愛の一つの形であると思います。
そうですね。
私は同一条件下の認識主体同士における愛について語っていたので、
ちょっと議論からずれると思いました。
愛玩はほとんど一方通行であろうと思います。
愛の一つの形ではあっても、信じる・信じないをほとんど問題としなくてよいケースでしょう。
その意思は自分一人にかかっているので、自分の心に疑いさえ持たなければ成立しますね。
>同様に性欲といったものもまた愛の一つであると思います。
本能ですね。愛がなくとも性欲はありますから。
653 :
乾闥婆 :02/11/03 23:39 ID:???
>>638 >しかしそれらは当時の時代状況を考慮して読むべきです。
「意地悪な解釈」をしてしまいすみませんでした。
しかし私はひゃっきまるんさんからこのような返事を聞きたかったのです。
「時代状況を考慮して読む」
法華経も、日蓮もそのようにして読むべきですね。
そしてそのエッセンスを汲み取っていけばいいのですね。
>大江健三郎の著書が万人に読まれなくとも、彼の鋭い人間への洞察はいろいろな意味で
社会に影響を及ぼし、無意味ではないのです。
大江の一ファンとしては嬉しい言葉です。新作の『憂い顔の童子』は読まれましたか?
今読み途中ですが楽しみ味わいながら読んでおります。
ただ社会に影響を及ぼしているかどうかは疑問ですね。
読まれなければ、どのように優れた作品でも社会に影響を及ぼすことができません。
例えば今度の新刊はどれほどの人たちに読まれているのでしょうね。
おそらく村上春樹の「海辺のカフカ」ほどは読まれていないでしょう。
もちろん私も大江作品を無意味ではないと思っています。
といいますか、話を元の筋に戻せば、物語もまた「真実」を語るということでよろしいでしょうか?
654 :
乾闥婆 :02/11/03 23:41 ID:???
>>639 >信仰とはもっと自身の生活そのものによって表現するものです。
何を念頭におき生活するか、何を心に思うか、何を語るのか、そういうことではありませんか?
その「何」が私たちの場合、南無妙法蓮華経なわけですよね。
私も折伏をしませんが、それは私の抱える南無妙法蓮華経は一つの物語にすぎないと、
自身を理解させているからです。
ひゃっきまるさんはそのような相対主義を拒否される。
それにも関わらず、「真実」である南無妙法蓮華経を広めようとはしない。
それは矛盾ではないですか、と問うているのです。
題目はもちろん形式です。ミサも形式でしょう。
形式を超える何ものかを信じている、そのようなものこそ信仰だ、
というのであれば、形式に関しては相対主義なわけですね。
それなら私とあまり変わらないように思います。
形式という言葉を私は物語と言ったにすぎません。
信じるという行程が構造上必要であろうという点での宗教の共通項を私は認めています。
>そうまでして保ちたいものとはなんでしょうか?
南無妙法蓮華経です。
>信じ難いことを無理に信じる必要はないのではないですか?
そうです。南無妙法蓮華経を支える根拠としては用いません。
655 :
乾闥婆 :02/11/03 23:44 ID:???
656 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :02/11/08 04:16 ID:n8Doknz3
>>644 乾さん
御無沙汰です。最近なかなか書き込めません。ここまで話がいろいろに及んでしまう
と、正式な手続きを踏んだ議論というのはとても難しいかもしれません。議論と思うと、
「答えを出さなくてはいけない」と思ってしまうかもしれないので、お互いの意見交換を
する、という感じで気軽に続けていくのでよいのではないですか。僕も周りにあまり乾さ
んのような考えをもった学会員がいないので、良いストレス解消(?)になっています。
ところでこのスレ、私達二人で占拠してよいのでしょうか?(^^; 「創価・公明
板」上のニッチ(位置付け)を考えると、どのような方向性に議論をすすめていくと、
もっとも有意義といえるのでしょうかね?
>>645 > ひゃっきまるさんは、一貫して科学的方法による「真実」の追求を持って、
私の宗教観を批判してきたわけです。
いいえ、それは全くの誤解です。まず、「真実」の追求が科学的方法のみによるとも
言っていませんし、科学的方法によって証明された真実のみが真実たりうる、といったこ
とも言っていません。「科学」を例にあげたのは、それが明確に「真実に至るための方法
論」を確立しているからです。
「方法論」は一つではないはずです。例えばその一つは、仏教を含む諸々の宗教で行わ
れてきた、「自己をみつめる」という「内観法」であります。これは深層心理学でも用い
られてきました(それゆえにこの学問は客観性を欠くという理由で廃れたのですが、それ
は深層心理など存在しない、ということではありません)。
僕が批判したのは、乾さんの「真実」への定義の仕方、捉え方です。普遍性をもたな
かったり、各人によって勝手に規定されるもの、規定してもよいものを真実とするのはお
かしい、といっているだけです。またそのようなものを信仰対象にすることもおかしい
し、不可能です。
「我思う故に我有り」とは、全てが人間にとって確かではない、と考えたデカルトが、
何が絶対に確かといえるのか、と考え、至ったものだと思います。デカルトにとってもっ
とも真実といえるのは、「我」の存在だったわけです。
>>646 > 前者を後者の上位概念に据えて話を進めてきたわけです。
>>651 >ひゃっきまるさんは「一部」と考えているのではなくイコールと考えているはずです。
この場合、「上位概念」とはどのような意味でしょうか? 上位概念と下位概念が拮抗
した場合、上位概念が優先されるという意味でしょうか。あえて、事実と真実という言葉
を使い分ける場合、真実とは単なる事実を超えたものとして使われるでしょう。それに意
義はありません。僕のイメージでは、真実とは形而上学的領域に属する(つまり事実の背
後にある)ものです。
ぶっちゃけて言ってしまうと、乾さんの言う「真実」というものがどうしても僕には
「事実」より「偉い」ものとは思えないのです。それは人の心を軽視しているとかそうい
うことではなく。
例えば、「真実」が明らかになることによって、「事実」が変更される、というのな
ら、「真実」の方が実在性という意味において「事実」より優先される、ということがわ
かります。しかし、「真実」が人によって変更され、「事実」が動かし難く普遍なのなら
ば、「事実」の方が確かなこと、と考えられるのではないでしょうか。乾さんの言う「真
実」は、「主観的認識」と言い換えた方がよいように思うのですが、どうでしょうか。
>それに対しひゃっきまるさんはあくまで同位の概念として二つの用語を使用されまし た。 僕の考える「事実」と「真実」の関係は上記の通りであり、だからこそこの二つが「矛 盾」することはありえないというのです。それは同位の概念というのとは全く違います。
>>647 >そうでなければ宗教の語る「真実」は、多くが「偽り」になってしまうと考えたからで
す。
「事実」が宗教の「真実」を暴き、それを「迷信」であるとした---これは現代では多く
の宗教でおこっていることです。これこそが、「事実」が(その意味での)「真実」より
も確かであると認識されている直接的証拠でもあります。また、「事実」と「真実」が矛
盾しない、というのも多くの人の考えです。この考えのため、キリスト教ではスコラ哲学
が発達し、仏教では大乗非仏説を踏まえた再解釈が行われているのでしょう?
「人の益になる」という理由で、旧来まで信じられてきた真実を守り、そのために「事
実と反してもよい」などと言うのはいさぎがよくない。偽りは偽りと認めるべきなので
す。それを認めた上で、新たな「真実」をまた見いだしていくのが本来ではないですか?
> ところがひゃっきまるさんは、そのような私の反論を「飛躍」であり「詭弁」であると
いわれました。
「飛躍」「詭弁」とは、乾さんの宗教への考え方(つまり「事実」「真実」への考え
方)に対してのものです。
>見出したことを検証して「事実」と確定できないから「信じる」わけでしょう。 意味が全くわかりません。「見出したもの」、少なくとも「見出した体験」は事実で しょう。そしてそれは自分自身の体験であるので、それが事実であるかないか、などとい う検証など必要ありません。 ところで、「信じる」ということを殊更に強調する宗教ばかりでもないと思いますが。 「感じる」という宗教があってもよいし、「思惟する」という宗教、「精進する」という 宗教、いろいろあるでしょう。その前提として「信じる」が必要なのだ、とおっしゃるか もしれません。しかし僕はそれは必須ではないし、必須ではない方が自然だと思います。 「人生」というものがそうです。「信じる」ということをモットーにしている人はたぶん 力強く生きることができるでしょうが、「感じる」という生き方が自分にとって心地よ い、という人もいるでしょう。
>>649 >愛は「事実」に対する名称なのではなくて概念なのです。
まず、人が用いる言語とは、全て「概念」でしょう? そして、その概念はなんらかの
事実、もしくは事実への説明付けや解釈に対して名付けられたものでしょう。言葉(概
念)から生み出された言葉(概念)ももちろんあるでしょうが、それにしても「事実」か
ら切り離された「言葉」などありませんし、あるとすればそれは何の意味ももたないもの
です。
愛を客観的に定義する方法などいくらでもあります。乱暴な話をすれば、愛情を感じて
いるときに興奮している脳の部位でさえも特定できるでしょう。抽象的すぎるのならば、
他者を「愛おしいと思う」「守りたいと思う」「自分に関心をもってもらいたいと思う」
「一緒にいたいと思う」と言った要素に分け、それぞれ実験をしてもかまわないでしょ
う。むろんこれらは主観的な経験であることは言うまでもありませんが。
なぜその検証を行うと「愛が損なわれる」のでしょうか??? 母親に向かって、「あ
なたは本当にお子さんを愛していますか?」と質問すると、愛が逃げるのでしょうか?
(あるいは母親が自分で自分に) 疑うだとか信じるだとかが愛となぜ関係あるのかが
さっぱりわかりません。
>私は「客観的に証明する」ことができないような、「事実」と確定し得ない事象であっ たとしても、その心を「真実」と呼びたいと思います。 くどいですが、念のためもう一度説明すると、僕は客観的に証明できるもののみを「事 実」としているわけでもありません。また、「事実」の範疇からもれる事象を「真実」と よぶことにする、というのも奇妙です。「事象」とは「事実」だからです。
>>650 >ひゃっきまるさんは「信じる」こと自体を否定しているのではなくて、信じがたいこと
を強制されて信じることを否定しているわけですね。
上記までで「ズレ」が修正されればよいと思っているのですが、どうなのでしょう。僕
は「信じること」を教義として掲げる宗教は、否定まではしませんが、少なくとも個人的
には受け付けにくい、といったところです。ただ、「法灯明、自灯明」の思想は尊重して
います。要は、ある団体なり組織なりのイデオロギーに染まることによる「熱狂」(これ
はしばしば人物崇拝を伴う)を信仰の原動力にしているようなものに対して警戒心という
か不審感があるのですね。というか、そういう信仰をしたくともできない、といったとこ
ろでしょうか。この辺は乾さんと同意と思います。
>>651 >信じられている教義体系内において、信じて祈ることが願いの成就への道であるとされ
ているのなら、その体系内の人にとって「真実」でしょう。
僕が
>>636 でした質問の意図は、乾さんの定義する「事実」と「真実」の関係を探ること
です。「願い」とは必ず「事実」に対してのものです。「癌が治る」ことを信じて祈っ
た、しかし癌は治らなかった---それでも、まだなお、「信じることによって必ず願いが叶
う」と言い張るのであれば、それは詐欺以外の何ものでもないでしょう。それでも嘘では
ない、事実と違うけれど真実なんだ、と言い張る宗教を誰が信仰しますか。事実に関与し
ない真実など意味があるのでしょうか。
>>652 > この辺は卵・鶏のどちらが先かに似ている議論ですね。
このことに関しては誤解はないようです。
> その意思は自分一人にかかっているので、自分の心に疑いさえ持たなければ成立します
ね。
ふ〜む、乾さんのいう「愛」とは、「互いに愛しあっていることを信じること」だった
のですか? 僕の今まで言ってきた「愛」とは、一方通行なものなのですが。例えば仏の
「慈悲」ですが、これは相手がどのような悪人であろうとも注がれるものですよね。相手
も自分を愛さなければ愛してあげない、というのはむしろ利己的な愛のように思います
が。
>>653 >しかし私はひゃっきまるんさんからこのような返事を聞きたかったのです。
なぜそのようなことをわざわざ言わせる必要があったのかよくわかりませんが・・・。
>新作の『憂い顔の童子』は読まれましたか?
読書は苦手なもので、大江氏の著作は一冊も読んだことがありません。
>読まれなければ、どのように優れた作品でも社会に影響を及ぼすことができません。
彼の本に本当に力があるのならば、たとえ読んだ人が一人であろうとも、その人には確
実に影響を与えるわけです。一人の人の影響というのは未知数です。その人がとても大き
なことを成し遂げるかもしれません。また、社会への影響はぬきにして、人の人生に大き
な影響を与える本という存在は、すごいと思います。
>物語もまた「真実」を語るということでよろしいでしょうか?
それに異論はありません。
669 :
ひゃっきまる ◆t7Soul.N6M :02/11/10 19:51 ID:XNqcVRZV
>>654 >それにも関わらず、「真実」である南無妙法蓮華経を広めようとはしない。
南無妙法蓮華経は「文字」です。これが真実なのではなく、この記号があらわすものが
「真実」なのでしょう。記号を真実と見誤ると、呪術信仰に堕してしまいます。唱題を広
めることではなく、例えば「人を尊敬する」という態度を広めることが、真の広宣流布で
あると思うのですが、どうでしょうか。
670 :
29男 :02/11/10 20:23 ID:???
671 :
乾闥婆 :02/11/11 00:47 ID:???
>>657 >、お互いの意見交換をする、という感じで気軽に続けていくのでよいのではないですか。
そうですね。齟齬と合意点を確認しながら進めましょう。
>僕も周りにあまり乾さんのような考えをもった学会員がいないので、
良いストレス解消(?)になっています。
確かに私の考えているようなことをいう学会員は私のまわりにもいませんね。
またひゃっきまるさんのような考えの学会員もあまり見かけません。
どちらかというと外部の人と話しているような感じがします。
672 :
乾闥婆 :02/11/11 00:49 ID:???
>>658 >いいえ、それは全くの誤解です。
そうでしたか。
常に私の宗教観を批判されるときに科学的方法を持ち出されていたので、
そのような方法論によって証明できないような宗教の掲げる「真実」は、
「虚偽」であると主張されているのだといました。
では「真実」は客観的に証明されなくとも「真実」でありうるという、
私の主張にそって話を進めましょう。
>普遍性をもたなかったり、各人によって勝手に規定されるもの、
規定してもよいものを真実とするのはおかしい、といっているだけです。
またそのようなものを信仰対象にすることもおかしいし、不可能です。
ではイエス・キリストの復活は「真実」でしょうか、「虚偽」でしょうか。
クリスチャンは「真実」と言うことでしょう。
仏教徒はそうは言わないと思います。
ということは「普遍性」を持たない、信仰対象にすることができない事柄、
つまり「真実」ではなく「虚偽」である、ということになるのでしょうか。
673 :
乾闥婆 :02/11/11 00:59 ID:???
>>659 >この場合、「上位概念」とはどのような意味でしょうか?
>>646 に書いたとおり、上位概念が下位概念を包摂する、ということです。
たとえば花という言葉と、キク、バラという言葉の関係ですね。
花はキクやバラの上位概念になります。
当然、両者は拮抗しませんし、どちらかが優先されるということもありません。
> ぶっちゃけて言ってしまうと、乾さんの言う「真実」というものがどうしても僕には
「事実」より「偉い」ものとは思えないのです。
つまり偉くも何ともないわけです。範囲が広いというだけで。
>乾さんの言う「真実」は、「主観的認識」と言い換えた方がよいように思うのですが、どうでしょうか。
といいますか「主観的認識」も含む、ということですね。
674 :
乾闥婆 :02/11/11 01:14 ID:???
>>660 >僕の考える「事実」と「真実」の関係は上記の通りであり、だからこそこの二つが「矛
盾」することはありえないというのです。それは同位の概念というのとは全く違います。
では私の考えと同じということでよろしいでしょうか?
私の主張も「真実」が上位概念にスライドしているために「事実」と矛盾しません。
ただし「真実」は「事実」を十分条件としえても必要条件とはしない、ということですね。
675 :
乾闥婆 :02/11/11 01:16 ID:???
>>661 >「人の益になる」という理由で、旧来まで信じられてきた真実を守り、そのために「事
実と反してもよい」などと言うのはいさぎがよくない。偽りは偽りと認めるべきなので
す。それを認めた上で、新たな「真実」をまた見いだしていくのが本来ではないですか?
ですからその方法の一つとして私は宗教は物語であるといってきたわけです。
そして物語もまた「真実」を語るということに、
ひゃっきまるんさんはこのたび明確に同意してくれました。
676 :
乾闥婆 :02/11/11 01:18 ID:???
>>662 >意味が全くわかりません。「見出したもの」、少なくとも「見出した体験」は事実で
しょう。そしてそれは自分自身の体験であるので、それが事実であるかないか、などとい
う検証など必要ありません。
それこそ「主観的認識」というものでしょう。
一認識主体が見出した宗教的事象をすべて無批判に「事実」であるというのでしたら、
宗教を物語としてみる私よりも、よっぽど危険なことではないでしょうか。
いきなり唯心論に転向されても困ります。
ひゃっきまるさんは私のそういった傾向を批判していたのではないでしょうか。
神を信じないクリスチャンはいますか?
極楽浄土を信じない浄土教の門徒、というのはおかしくありませんか?
仏性の存在を信じない学会員がいるなら学会員である必要がないと思いませんか?
それら見出したものを信仰者は信じているはずです。
ただ単に「事実」だから信じるまでもなく受け入れている、というのではないでしょう。
信じるまでもない「事実」であるなら、なぜ多くの宗教間において矛盾が生じているのですか?
「神を信じる」という言葉がなぜ聖書に出てくるのですか?
なぜ日蓮は信じることの重要さを強調したのですか?
「感じる」「思惟する」「精進する」という宗教行為は信仰を土台としているはずです。
神を感じるとは、その存在への信仰がなければならないでしょう。
仏性を内観し思惟することも、その存在を信じていなければ不可能です。
精進する方法を信じていないでなぜ精進できますか。
宗教的対象を観るとは石を見たり水を見たりすることと違うのです。
信じるまでもなく受け入れることができる事象とは違うのです。
677 :
乾闥婆 :02/11/11 01:21 ID:???
>>663 >それにしても「事実」から切り離された「言葉」などありませんし、
そういうことはいっていません。「事実」を「言葉」が切り取るのです。
>愛を客観的に定義する方法などいくらでもあります。
脳の部位の話など生理現象でしょう。
そうではなくて概念の話をしているのです。
「興奮している脳の部位でさえも特定」しえたところで、
愛という概念の客観的定義になりません。
性欲という生理現象の定義には使えそうですが。
「実験をしてもかまわない」といいますが、
ひゃっきまるさんは誰かを好きになり、つきあいはじめて、
その状況の客観的な真実を得るために実験を二人の関係に施しますか。
様々な反証に堪えうるのかどうか試してみますか。
そのように試してみたら、二人の関係はおかしくなりはしませんか。
例えば愛を告白するときに
「私はあなたを愛していると思うけれど、実際のところは分からない、
しばらくすればあなたを裏切るかも知れないし、そういう可能性はゼロとは言えない、
実験をしてみてもいいが、死に至るまで裏切らないということを、
100%保証できるような実験結果は望めないように思う、
保証できない以上裏切る可能性があることを前提としてつきあってもらいたい」
などといったら、そのような告白は愛の告白と言えないと思うのですが。
自分の心を信じる、相手の心を信じる、その心をお互いに表明し誓い合う、
そしてその完遂を心掛ける。それが愛だと思うのですが。
それらのすべてに疑いをかけて検証する、などということは、
愛を損なうことはあってもその証明にはなりません。
678 :
乾闥婆 :02/11/11 01:24 ID:???
>>666 >「癌が治る」ことを信じて祈った、しかし癌は治らなかった---それでも、
まだなお、「信じることによって必ず願いが叶う」と言い張るのであれば、
それは詐欺以外の何ものでもないでしょう。
同意です。私もそのようなことは口にしません。
そして学会の中でそのようなことを言う人がいることも知っています。
私は「信じて題目をあげれば癌が治る」を「真実」だとは思っていません。
「信じて題目をあげて癌と闘う」ことを「真実」だと思っています。
「闘う姿勢」を「事実」と呼ぶかどうかは知りません。
語感的におかしなものを感じるので「真実」という言葉の方がしっくりきます。
ただ「闘う」方向付けとして「信じることによって必ず願いが叶う」という表現を、
私自身は言えないものの「方便」として否定はしきれないとも感じています。
679 :
乾闥婆 :02/11/11 01:26 ID:???
>>667 >ふ〜む、乾さんのいう「愛」とは、「互いに愛しあっていることを信じること」だった
のですか?
そうですね。
>>652 に書いたように「同一条件下の認識主体同士における愛について語っていた」のでした。
分かり難くてごめんなさい。
>>668 >なぜそのようなことをわざわざ言わせる必要があったのかよくわかりませんが・・・。
大乗非仏説をもって日本の仏教を批判してくる人に対しては、
「そのようなことをわざわざ言わせる必要」を感じているのです。
不愉快な思いをさせてしまい、すみませんでした。
>それに異論はありません。
嬉しいです。
では法華経という物語もまた「真実」を語りうるということでよろしいですね。
>>669 >唱題を広めることではなく、例えば「人を尊敬する」という態度を広めることが、
真の広宣流布であると思うのですが、どうでしょうか。
その場合、形態としてはどのようなものであってもかまわないということですか?
神への信仰であっても、阿弥陀仏への信仰であっても、大日如来への信仰であっても。
ならば、ますます私と言っていることは違わなくなります。
680 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :02/11/11 01:37 ID:fie13i2t
ひゃっきまると乾闥婆って創価板以外はどの板に出入りしてるの? よかったら教えて。
sage
乾さん
>>671 乾さんもかなり学会員ぽくないですが・・・(^^;
>>672 >常に私の宗教観を批判されるときに科学的方法を持ち出されていたので、
>そのような方法論によって証明できないような宗教の掲げる「真実」は、
>「虚偽」であると主張されているのだといました。
ですから常にそのような誤解をうまないように注釈を入れているつもりでした
が・・・。僕は「実在性」「普遍性」ということにはこだわりましたし、それが
「真実」という概念が必然的に持つべき性質であるとまで言ったと思いますが、
「証明」ということに勝手にこだわったのは乾さんの方です。
しかし確かに「客観」にはこだわったつもりです。これには哲学上様々な立場
があると思います。僕には「客観」に関して乾さんがどのような立場なのかいま
いち見えないところがあります・・・。
>ではイエス・キリストの復活は「真実」でしょうか、「虚偽」でしょうか。 >クリスチャンは「真実」と言うことでしょう。 >仏教徒はそうは言わないと思います。 その真実というのは、まさしく「客観的にそうである」、という意味で「真 実」といっているのでしょう。復活が「事実」ではなく、「神話」である、とす るクリスチャンはいるのでしょうか? 別の例をあげるのならば、なぜダーウィ ン以来、「進化論」について議論がなされているのでしょうか? >ということは「普遍性」を持たない、信仰対象にすることができない事柄、 >つまり「真実」ではなく「虚偽」である、ということになるのでしょうか。 詭弁です。乾さんは、「万人が認めることができる」という意味と「客観的事 実」という意味を摺り替えています。「普遍性を持つもの」が必ずしも万人に認 められるとは限りません。
>>673 >たとえば花という言葉と、キク、バラという言葉の関係ですね。
>花はキクやバラの上位概念になります。
非常に単純に解釈すると、乾さんの言いたいのは、↓
「真実」=「客観的事実」+「主観的認識」
というわけでしょうか・・・。確かにそう考えれば、今までの乾さんの説に全
て筋が通りますが・・・。この「足し算」はあまりに単純すぎはしないでしょう
か。
>>674 >では私の考えと同じということでよろしいでしょうか?
もし乾さんが上記のように考えているのだとすれば、僕の考えは全くそれと異
なります。
家が「事実」だとすれば、「真実」は地面のようなものです。地面が無く立つ
家などありません。
生物が「事実」だとすれば、「真実」は物質のようなものです。物質のない生
物などありません。生物は物質のとる形態の一つです。また物質の法則に反する
生物などいません。
>>675 では、
>>661 の内容に乾さんは同意したと考えてよろしいのでしょうか? 人は
まず「事実と信じるもの」に対して信仰をもつ、ということに。それが「事実」
ではなくなったとき、それまでの信仰心の行き場として「神話」や「哲学的解
釈」を持ち出すということに。
>>676 >それこそ「主観的認識」というものでしょう。
>一認識主体が見出した宗教的事象をすべて無批判に「事実」であるというので
したら、
>宗教を物語としてみる私よりも、よっぽど危険なことではないでしょうか。
「主観的認識」を否定したこともありませんし、むしろ肯定する発言をこれま
でにいくつかしてきたつもりですが・・・。しかし「主観的経験が事実では無い
かも知れない」という立場はとります。ややこしいですが、さらに、「少なくと
も主観的には経験した、そのことは事実である」ということも言います。
>宗教的対象を観るとは石を見たり水を見たりすることと違うのです。
>信じるまでもなく受け入れることができる事象とは違うのです。
乾さんが例にあげたような、「信じる」ことを第一義とする宗教に僕は「少
し」批判的です。むしろ、「石を見たり水を見たりするように」受け入れること
のできるものを対象にしてこそ真の信仰となるのではないかと考えているので
す。
>>677 >「私はあなたを愛していると思うけれど、実際のところは分からない、
>しばらくすればあなたを裏切るかも知れないし、そういう可能性はゼロとは言えない、
>実験をしてみてもいいが、死に至るまで裏切らないということを、
>100%保証できるような実験結果は望めないように思う、
>保証できない以上裏切る可能性があることを前提としてつきあってもらいたい」
面白いジョークですね(^^; 僕は、「愛」は事実存在する、と言っている
だけです。信じなければ存在しないようなものではありませんよ。愛の告白は、
「僕はあなたを愛している」それだけで充分ではありませんか。猫の親は我が仔
を信じようと信じまいと愛していると思いますよ。
>>679 >
>>652 に書いたように「同一条件下の認識主体同士における愛について語って
いた」のでした。
今、「愛」には「信」が前提として必要か、という話をしていたのでしたね。
とすれば、乾さんの「愛」の定義にはもともと「信」が含まれていた、というこ
とになってしまうと思うのですが・・・。
>>679 >その場合、形態としてはどのようなものであってもかまわないということです
か?
>神への信仰であっても、阿弥陀仏への信仰であっても、大日如来への信仰で
あっても。
信仰対象は単に名前が違う、というだけではなく、背景にある歴史や哲学も違
うのでしょうから、なんであってもかまわない、とは思いません。
語弊を招くかもしれませんが、僕は、「邪教」と呼んでさしつかえないような
宗教、人を不幸にする宗教、悪質な宗教はあると思います。
688 :
ひゃっきまる ◆xuSOULGIL. :02/11/17 21:45 ID:PU8PH3Ot
>>680 今はここぐらいしか出入りしていません。
689 :
乾闥婆 :02/11/18 01:05 ID:TOFso3YI
>>682 >乾さんもかなり学会員ぽくないですが・・・(^^;
本当に、お互い様ですね。
>「証明」ということに勝手にこだわったのは乾さんの方です。
そうですね。
ただ、
>>515 のような表現がひゃっきまるさんにはあったのです。
歴史的文脈の中で仏教を捉えることによって、
創価学会の持つ宗派性を和らげたいという思いを、
科学のような「明白な真実に近づく方法論」を持たない以上無価値だと言われました。
>>550 などもありました。
「水は0℃になると氷になる」というように信じる・信じないに関わらず、
誰にも観察されるものが「真実」であると。
「真実」であることと証明が必要であることは、関係がないのでしたら、
なぜ科学のような方法論を持たない思考は無価値だと言ったりしたのでしょうか。
なぜ「水は0℃になると氷になる」といった観察可能なものこそ「真実」だといって、
人が「真実」だと「信じている」ものを否定されようとしたのでしょうか。
690 :
乾闥婆 :02/11/18 01:06 ID:TOFso3YI
>>683 >なぜダーウィン以来、「進化論」について議論がなされているのでしょうか?
神が世界を創造した、という信仰を基礎にして「進化論」を否定するという現象を、
ひゃっきまるさんはどう思われますか。
私はそのような議論を虚しいと思うのですね。
聖書を事実とする考え方がそのような無益な議論を招いていると思うのです。
聖書は「真実」を語る物語であるとしてしまえば、科学と共存できると思うのです。
積極的にダブル・シンキングをおこなえばよいと。
>「万人が認めることができる」という意味と「客観的事実」という意味を摺り替えています。
いえ、すり替えていません。
「万人が認めることができる」も「客観的事実」という意味も、
ともに否定されてしまうのではないですか、といっているのですから。
イエスの復活という物語を信じる、その信じるかたちに普遍性は宿る、
そう言いたいわけです。
691 :
乾闥婆 :02/11/18 01:07 ID:TOFso3YI
>>685 >人はまず「事実と信じるもの」に対して信仰をもつ、ということに。
それが「事実」ではなくなったとき、それまでの信仰心の行き場として
「神話」や「哲学的解釈」を持ち出すということに。
同意です。
そして私たち二世は「事実」に対する信仰の段階ではなく、
その解釈の段階に早い時期から投げ出されているわけですね。
私が宗教を物語と見るという方法もまた信仰心の行き場としての解釈であるわけです。
>「主観的経験が事実では無いかも知れない」
>「少なくとも主観的には経験した、そのことは事実である」
つまり主観的経験自体は「事実」であるかどうかはわからない、
しかしそのような経験をした「私」があることは「事実」だ、ということですね。
私はその主観的認識が宗教となるには信仰が必要なのだ、といってきたわけです。
自分が認識したにすぎない、という状況から普遍性へと連なるには、
自分だけの認識ではない、という信仰が必要だと。
ただし主観的経験自体を「事実」だ、といってしまえば危険だと思うのです。
認識主体における「真実」、つまり物語であることを知っておく方が安全なのですね。
宗教としての力は弱まるでしょうが、無益な争いは避けられるでしょう。
>むしろ、「石を見たり水を見たりするように」受け入れること
のできるものを対象にしてこそ真の信仰となるのではないかと考えているので
す。
残念ながら、神も阿弥陀如来も仏性も、「石を見たり水を見たりする」ようには、
見ることができないようです。
692 :
乾闥婆 :02/11/18 01:09 ID:TOFso3YI
>>686 >「僕はあなたを愛している」それだけで充分ではありませんか。
その告白は、もう、誓いであるのですけれどね・・・
>乾さんの「愛」の定義にはもともと「信」が含まれていた
もちろんです。
age
694 :
ギャグ係 ◆WMhl/ZkObw :02/11/19 09:45 ID:e/b7cYW/
うわ! 懐かしい。。。スカちゃん戻って来ないかな。。。
>694 来たよん。 なんか妙なスレになっている様だな。
696 :
ギャグ係 ◆WMhl/ZkObw :02/11/20 23:42 ID:kDsy5TM4
おぉ! スカちゃんも!!
697 :
乾闥婆 :02/11/21 00:38 ID:3kTxEQQ2
姜子さん、随分長く留守にしてたから。 金木犀の季節?
698 :
ギャグ係 ◆WMhl/ZkObw :02/11/23 01:07 ID:hRR+QcRN
ナンチテさんも復帰して! 上げ
699 :
ひゃっきまる ◆t7Soul.N6M :02/11/23 04:17 ID:8YnveURS
>乾さん
>>687 > 「真実」であることと証明が必要であることは、関係がないのでしたら、
>なぜ科学のような方法論を持たない思考は無価値だと言ったりしたのでしょうか。
文章を読み違えています。「科学のような方法論」でなければ真実は得られない、と
言った訳ではありません。科学が求める真実は真実の一部です。しかし、「どこからどこ
までが」科学の領域であるか定義され、それを前提に方法論が確立されています。
真実には科学で求めることのできないものもあるでしょう。それは、「科学の方法論」
は逆に無効となります。その真実の性質や定義にそった方法論が必要なのです。その例と
して、何回か「内観法」というものを挙げました。
乾さんのおっしゃるやり方では、方法論が設定されないままに勝手に答えがひねりださ
れているようで、真実の追求とはいいがたい、ということです。
>なぜ「水は0℃になると氷になる」といった観察可能なものこそ「真実」だといって、
>人が「真実」だと「信じている」ものを否定されようとしたのでしょうか。
至極当然です。信じているものが真実とは限らないからです。昔の人は地球が平である
と信じていました。しかし間違っていました。観察可能、とはおかしな言い回しです。無
形なものは観察不能とでもいうのでしょうか。心の動きを考えてみてください。自身の心
はもちろん、他人の心でさえも1日たりとて観察しない人間はいません。「怒り」などな
い、と思うことで「怒り」が消えるのでしょうか。そうではありません。「心」にも「法
則」や「仕組み」があるのです。人が勝手に決められるものではありません。
700 :
ひゃっきまる ◆t7Soul.N6M :02/11/23 04:17 ID:8YnveURS
>>690 > 神が世界を創造した、という信仰を基礎にして「進化論」を否定するという現象を、
>ひゃっきまるさんはどう思われますか。
僕が「進化論」を例に挙げたのは、クリスチャンは神の創造を「神話」などと言って誤
魔化したりはしない、ということを言いたかったためです。2つの対立した意見があった
場合、どちらも正しいか、どちらかが正しいか、どちらも間違っているか、答えは3通り
しかありません。争いを好まない人間はどちらも正しいと思いたがるでしょうが、それは
人間が恣意的に決める筋合いのものではありません。
このような議論が虚しいとは思いません。議論は、まさに「真実への階段」として人間
に与えられた偉大な手段としてあるのですから。そのような議論を放棄して進歩のない歴
史を刻む方がよほど無益であると思います。
>聖書は「真実」を語る物語であるとしてしまえば、科学と共存できると思うのです。
>積極的にダブル・シンキングをおこなえばよいと。
それは宗教と科学との対立を緩和させる唯一の方法ですね。しかし、その考えは、まさ
に、「科学がその真実性という面において宗教に完全に勝利したからこそ」導かれた倫理
観だということをお忘れです。かつては宗教は精神の領域だけではなく、物質の領域をも
支配した真実でした。しかし、科学が物質の領域を侵略し、結果的に「科学ではわからな
いもの」が宗教の取り分として残ったにすぎません。
乾さんは具体的な「創造論」と「進化論」の議論を御存じでしょうか。「創造論」者
は、決して、聖書に書いてあるから、などという内容の反論などしません。科学の言葉を
用いて進化論者に反論するのです。だからこそ議論が成立するわけですが。
> イエスの復活という物語を信じる、その信じるかたちに普遍性は宿る、
>そう言いたいわけです。
事実でなく、物語だと認識しているのならば、それは虚偽と認めていることではないの
ですか? 信じるとは、「イエスは事実神の子であるということを信じる」ということの
他の意味はないはずです。
701 :
ひゃっきまる ◆t7Soul.N6M :02/11/23 04:18 ID:8YnveURS
>>691 >そして私たち二世は「事実」に対する信仰の段階ではなく、
>その解釈の段階に早い時期から投げ出されているわけですね。
例えば、『「事実」に対する信仰』は、「創価学会が唯一正しい団体である」「祈りに
よって必ず願いが叶う」というものでもよかったりするわけです。僕の考えでは、このよ
うなことを信じられなくなる(事実ではないと認識する)状態は、もはや信仰を失った状
態であると思います。その意味で、乾さんの「物語」という言い方はどうも納得がいかな
いのです。ただ、法華経が心の中に確かに存在するものを象徴して物語として表現してい
る、ということならわかります。例えば「夢」というのは実際には存在していない出来事
ですが、本人にとっては心の中で展開される一種の「現実」なわけです。
>残念ながら、神も阿弥陀如来も仏性も、「石を見たり水を見たりする」ようには、
>見ることができないようです。
そうでしょう。それは「信じる」ものなのですから。しかし、初期の仏教においては、
四諦や十二因縁がまさにそうでありましょうが、世の実相を「石を見たり水を見たりす
る」ようにはっきりと観察し、認識する(悟る)ことが修行内容であったのではないで
しょうか。このような考え方は何も特殊だとは思いません。例えば、ソクラテスに代表さ
れるような哲学者の一派はこのような方法(知)によって真善美というような生活を改善
する倫理観を身につけることを主張していました(主知主義)。
702 :
ひゃっきまる ◆t7Soul.N6M :02/11/23 04:18 ID:8YnveURS
>>692 >>667 で言ったように、乾さんのいう「愛」とは、「互いに愛しあっていることを信じる
こと」なのだとしたら、「愛」には「信」が必要なのか、という議論がそもそも無意味で
はありませんか。また、愛の定義の中に愛という言葉が含まれていれば定義としてはおか
しいではないですか。僕がいうような、仏の衆生に向けられた慈悲は乾さんの定義では愛
ではないのですか?
何度でも言いますが、「愛」はその存在を信じようと信じまいと「在る」ものです。そ
れがあなたに対してありますよ、と宣言することは、「告白」ではあっても「誓い」であ
る必要はありません。
>ギャグ係 久しぶりりあんとぐりーん。 ボラがんばってる? >乾闥婆 金木犀はとうに過ぎているな。 「乾闥婆」自身にあれ以来の変化はあったのか? >ひゃっきまる 相変わらず長ぇよ。 >「愛」はその存在を信じようと信じまいと「在る」ものです。 >それがあなたに対してありますよ、と宣言することは、 >「告白」ではあっても「誓い」である必要はありません。 それはそうだろう。 だが、「表現」する事は「ベクトル」を指すものだ。 それは「決意」≒「誓い」に似たものでもあるな。 それは「生命の法則」ってヤツだ。 それは認識するかしないか、程度の事では無いと考えるな。 んでわ。
704 :
ギャグ係 ◆WMhl/ZkObw :02/11/23 23:58 ID:NF8P/99f
>>703 お、スカちゃん。ボラやってるよ〜。明日もあるし。
先日は早い忘年会&送別会(今年のリーダーがセラピストとして遠くから
引き抜かれちゃってね)をやったんだけど、若者とトークバトルしちゃった(ワラ
いや、こっちはそんなつもりなくて普通に話してたつもりなんだけど、
酒が入ってて声が大きかったのかな? 若者は反論に慣れてないのかな?
まぁ周りの子からそう言われちった。反省反省。
でも2次会のカラオケは盛り上がったからいいけどね。
705 :
ギャグ係 ◆WMhl/ZkObw :02/11/24 00:00 ID:IhPjkETm
あ、忘れた。ぶりりあんとぐりーんのぼーかるもいいけど どぅあずいんふぃにてぃのぼーかるがめちゃいいなぁ。
>>705 超個人的なら、ブリグリのボーカルの方が良いかな。
707 :
乾闥婆 :02/11/24 22:30 ID:Rh8TwHcy
>>703 >「乾闥婆」自身にあれ以来の変化はあったのか?
地区の活動者会にときどき顔を出すようになりました。
>ひゃっきまるさん
最近仕事が忙しくて・・・
また返事します、言いたいことはいっぱいあるのでちょっと、待ってて下さいね。
>>707 長々読んで無いものでね。
目的地を見定めないでの「フライト」はありえない。
しかし
「そうようきびにふして」と言う言葉は
オレ自身、一つの真理ではあると実感してるな。
709 :
乾闥婆 :02/11/26 01:53 ID:GjaUFmII
>>699 >文章を読み違えています。
>その例として、何回か「内観法」というものを挙げました。
>>481 >>493 >>515 >>529 >>550 「科学の方法論」を例に挙げての私に対する批判です。
それに対して「内観法」という言葉は、ようやく
>>658 に登場します。
といいますか、そこだけです。
もし私が読み違えているのだとしたら、読み違えてもおかしくないような展開を、
ひゃっきまるさんはされているのではないでしょうか。
710 :
乾闥婆 :02/11/26 01:54 ID:GjaUFmII
>>699 (続き)
さらにひゃっきまるさんは「内観法」について、
>これは深層心理学でも用いられてきました
(それゆえにこの学問は客観性を欠くという理由で廃れたのですが、
それは深層心理など存在しない、ということではありません)。
といった発言を続けます。
つまり「内観法」は「科学の方法論」の互するほどの、
明確な「真実に至るための方法論」を確立していないと言えませんでしょうか。
私は「内観法」といったものを否定したことはありませんし、
むしろ内観されたものを「信じる」ことが宗教には必要だ、といってきました。
内観されたものはそのまま誰にも「事実」であるから「信じる」必要がない、
というのであれば、なぜ各宗教間の内観されたものの相違や、
それに基づく争いが起こるのでしょうか、とも問いました。
この点、どうお考えでしょうか。
>観察可能、とはおかしな言い回しです。無形なものは観察不能とでもいうのでしょうか。
そうではなくて、誰が見ても同じ結果が導き出されるような実験による観測
(水は0℃になると氷になる)ができないもの、について言っているわけです。
観測主体によって結果が変化してしまうようなものについて、
例えば内観されるものが人によって違ってしまうような、宗教的対象に関して、
「真実」であるにはどうすればいいのか、ということです。
神や阿弥陀如来や仏性はどのように「真実」足りうるのか、ということです。
711 :
乾闥婆 :02/11/26 01:55 ID:GjaUFmII
>>700 >このような議論が虚しいとは思いません。議論は、まさに「真実への階段」として人間
に与えられた偉大な手段としてあるのですから。そのような議論を放棄して進歩のない歴
史を刻む方がよほど無益であると思います。
議論にとどまればいいのですが、宗教間の「真実」をめぐる争いは、
結果として憎しみを生んだり果てには殺し合いや戦争にまで発展するわけです。
なんのための「真実への階段」なのでしょうか。
「真実への階段」が人を不幸にすることほど無益なことはないのでは。
>しかし、その考えは、まさに、「科学がその真実性という面において
宗教に完全に勝利したからこそ」導かれた倫理観だということをお忘れです。
忘れていません。私たちの話はそもそもそれが出発点ではないですか。
>科学の言葉を用いて進化論者に反論するのです。
「科学の言葉」を用いて、神が世界や人間を創造したことを立証して、
進化論を否定するのですか? 驚きました。
>事実でなく、物語だと認識しているのならば、それは虚偽と認めていることではないのですか?
以前にも書きましたが、物語を物語と認識していれば虚偽ではありません。
物語を「事実」であると言い張ったときに虚偽となります。
712 :
乾闥婆 :02/11/26 01:56 ID:GjaUFmII
>>701 >ただ、法華経が心の中に確かに存在するものを象徴して物語として表現している、
ということならわかります。
そういうことです。
そして物語もまた「真実」を語るということについて同意していただきましたね。
そうであるならばその物語は信仰の対象足り得る、と私は考えているのです。
>そうでしょう。それは「信じる」ものなのですから。
そうですね。
そして初期仏教からは大きく変化してしまっているのですね。
内観されたもの、例えば無我というものに対して、
一種の価値評価をして展開している、ということでしょうか。
ひゃっきまるさんは事実判断にとどまる宗教を評価されているのだと思います。
価値判断に踏み込んだ宗教を、つまり判断された価値観を「信頼する」
必要のある宗教を好まない、ということなのではないでしょうか。
713 :
乾闥婆 :02/11/26 02:02 ID:GjaUFmII
>>708 「犀の角のようにただ独り歩め」と初期仏典にはあります。
「一人立て」ともいいますね。(ちょっと違うかな)
「きびにふす」も、また一面の真理ではあるのでしょうが。
714 :
乾闥婆 :02/11/26 02:12 ID:8EVS8Qsy
>>702 愛という範疇の大きな言葉を使ったことが誤りの元でした。
異性間の愛ということをいいたかったのですが、うまい言葉がなかったのです。
性愛ではニュアンスが伝わらないし。慈悲という愛とは違うものでしょうね。
>「告白」ではあっても「誓い」である必要はありません。
異性間の愛についてなら、それは間違いなく「誓い」です。
そうでなければ、裏切ったとき・裏切られたとき、
「あのとき愛しているといったのに!」という詰問が成り立ちません。
なぜそう問い詰めるのか。
それはその愛の告白が「誓い」の意味を含むからです。
その「誓い」を裏切ったから、その「誓い」を信じていた自分を裏切ったからです。
ひゃっきまるさんはそのような状況に陥ったことはありませんか。
715 :
乾闥婆 :02/11/27 23:46 ID:V2eq5dMv
>>702 (続き)
愛に対応するサンスクリット語としてトゥリシュナーとプレーマンがあるそうです。
トゥリシュナーは渇愛、愛欲といった内容で、十二因縁などにも組み込まれる、
初期仏教では特に否定されるべき、煩悩としての愛です。
プレーマンは分け隔てのない愛情を注ぐことで、慈悲はこちらの内容に近いものでしょう。
子に対する親の愛情のように純粋な愛で一切衆生を慈しむべきである、という理想・理念です。
慈悲は仏・菩薩の徳目であり、目指されるべき姿です。
そのような理念に対してはもちろん誓願が立てられるでしょう。
四弘誓願の衆生無辺誓願度は、慈悲実践のための「誓い」であるはずです。
ただ単に「在る」ものではないはずです。
716 :
ひゃっきまる ◆xuSOULGIL. :02/12/01 12:44 ID:rjiAZ5m9
>乾さん
>>709 僕は「科学」を「例」として出すとき、それが真実に至る唯一の方法である、
という誤解をされないように細心の注意をしていたつもりです。またそのような
主張をしたことが一度でもあったでしょうか。
>>709 で乾さんがあげたものでその
ようなものがあるのでしょうか。
「内観法」という単語を「何度か使った」というのは勘違いのようですが、そ
れでも読み違えるほど誤解を生むような文章を書いたとは思われません。
僕は「宗教」や、「宗教の説く真実」を批判しているわけではありません。乾
さんの、乾さんだけの、「真実」への考え方に意義をとなえているのです。
717 :
ひゃっきまる ◆xuSOULGIL. :02/12/01 12:46 ID:rjiAZ5m9
>>710 >内観されたものはそのまま誰にも「事実」であるから「信じる」必要がない、
>というのであれば、なぜ各宗教間の内観されたものの相違や、
>それに基づく争いが起こるのでしょうか、とも問いました。
>この点、どうお考えでしょうか。
内観法は「客観性を欠く」ため、「科学の方法としては」限界があった、とい
うことではあります。しかしそれが「科学」としては語られなくても、例えば
「人生観」「哲学」といった形で語られてきているでしょう。
そして、僕は『内観されたものはそのまま誰にも「事実」である』などと言っ
たことはありません。内観されたものが間違いである可能性もあるでしょう。そ
う思うからこそ、「普遍的な真実」という主張をしているのです。例えば仏教に
も「邪見」「常見」「断見」といった、誤ったものを内観する場合があるという
ことを説いています。
仏説の中で有名なのは六師外道の説などですが、乾さんはあらゆる宗教や考え
方を全て正しいとする立場をとるのでしょうか。
>例えば内観されるものが人によって違ってしまうような、宗教的対象に関して、
>「真実」であるにはどうすればいいのか、ということです。
おそらくこの辺は乾さんと僕との世界観の違いが如実に出るところだと思いま
す。僕は「内観されるものが人によって違ってしまう」ようなものは普遍的なも
のではないと考えています。ですから、それを「真実」と呼ぶ資格も必要もない
と考えています。
718 :
ひゃっきまる ◆xuSOULGIL. :02/12/01 12:50 ID:rjiAZ5m9
>>711 >議論にとどまればいいのですが、宗教間の「真実」をめぐる争いは、
>結果として憎しみを生んだり果てには殺し合いや戦争にまで発展するわけで
す。
そのことについては
>>635 ですでに答えています。
>「真実」の生み出す難しい問題と、「真実」のもつべき“条件・資格”とは別に考える
>べきものです。
>何が真実かを議論することは大事なことです。今の倫理観は、あらゆる暴力的手段(物理的
>なものはもちろん、その他でも)を良しとしないことで過去の過ちを回避するというもの
>です。
>「科学の言葉」を用いて、神が世界や人間を創造したことを立証して、
>進化論を否定するのですか?
その通りです。しかし「創造を立証」するのではありません。主には「進化
論」が科学的に不完全な説であることを指摘するやり方で、です。
>物語を「事実」であると言い張ったときに虚偽となります。
ですから、クリスチャンはイエスが神の子であるという信条を「物語」ではな
く「事実」としており、そうだからこそ信仰が成り立つ、ということを言ったの
ですが。同様に、創価学会員も日蓮大聖人が仏であるということ、唱題に不思議
な効力があるということを「物語」ではなく「事実」であるとしているからこそ
信仰が成り立つのではないですか?
719 :
ひゃっきまる ◆xuSOULGIL. :02/12/01 12:52 ID:rjiAZ5m9
>>712 >価値判断に踏み込んだ宗教を、つまり判断された価値観を「信頼する」
>必要のある宗教を好まない、ということなのではないでしょうか。
どうなのでしょうか。「信じる」ことを中心においた宗教を、「価値判断に踏
み込んだ」とみているわけではありません。むしろ、安易な人間の心理を見てし
まいます。
720 :
ひゃっきまる ◆xuSOULGIL. :02/12/01 12:54 ID:rjiAZ5m9
>>714 乾さん
>異性間の愛についてなら、それは間違いなく「誓い」です。
>そうでなければ、裏切ったとき・裏切られたとき、
>「あのとき愛しているといったのに!」という詰問が成り立ちません。
どうも議論が噛み合わない、と思っていたのですが、発端は以下で、
>>532 >信じることによって生じるものはすべて「偽り」ですか。
>では人間の抱く愛情や友情、信頼というものは「偽り」ですか?
>裏切られる可能性がゼロでない限り「偽り」ですか? 愛は?
>ひゃっきまるさんは信じるという人間の心が有する働きの効用を、
>まったく理解しないような人間なのですか?
僕は「愛」が「信じることによって生じる」、ということはおかしい、という
話をしてきたのですが、おそらく乾さんの視点ははじめから違っていたのです
ね。乾さんは「愛」そのものは「信じる」ことを条件にしていない、ということ
をすでに認めているでしょう。
「愛の告白」をするとき、そこに「誓い」の意味を込める人もいるでしょう。
それはそれですばらしいことだと思いますが、僕は「誓い」の部分はあくまで二
次的なものと思っています。僕自身で考えれば、そこに「誓い」の要素を介在さ
せることは窮屈な感じがします。結婚であればそれは「契約」なので、誓いが必
要であるかもしれませんが。「あのとき愛しているといったのに!」と言われた
ら、「でも今は愛していないんだ」と答える他の方法があるでしょうか。愛して
いないのに「誓い」だから愛するふりをするなんて馬鹿げているでしょう。乾さ
んに言わせれば、「信じる」ことによってその愛が不変のものとなる、というこ
となのでしょうか。しかし僕は「信じる」ことによるそのような作用は極めて疑
わしい、自身に対する詐欺行為なのではないかと思っています。
721 :
ひゃっきまる ◆xuSOULGIL. :02/12/01 12:55 ID:rjiAZ5m9
>>715 > 四弘誓願の衆生無辺誓願度は、慈悲実践のための「誓い」であるはずです。
>ただ単に「在る」ものではないはずです。
修行という意味合いで考えればそうかもしれません。
722 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :02/12/01 20:04 ID:b0wRpEUF
なんか、ここまでくれば学者まではいかないが、ひゃっきも乾も学者になれる くらい仏法に興味あるのがわかるな。専門家になれば?
723 :
乾闥婆 :02/12/02 00:33 ID:???
>>717 >内観されたものが間違いである可能性もあるでしょう。そう思うからこそ、
「普遍的な真実」という主張をしているのです。
内観されたものがどのようにして「普遍的な真実」とされるのか、
それが問題だと思います。
私はその方法がわからないので、内観されたものの普遍性を信じるしかないと思ったのです。
『内観されたものはそのまま誰にも「事実」である』ことはないので、
「信じる」という過程は必要になるのだと。
ひゃっきまるさんは『内観されたものはそのまま誰にも「事実」である』こともないし、
「信じる」必要もないといわれます。
では内観されたものの「普遍的な真実」はどのように確立するのでしょうか。
724 :
乾闥婆 :02/12/02 00:35 ID:???
>>717 (続き)
>乾さんはあらゆる宗教や考え方を全て正しいとする立場をとるのでしょうか。
すべてということはありません。ただし私には下記のような実感があります。
私事なのですが、教会の礼拝に通い聖書を日常的に読む時期がありました。
私にとってその期間、神は「真実」であったように思います。
そして、いまは、仏性の「真実」を信じています。
しかし振り返ってみて、神を「真実」と感じた自分の心は否定できない。
またそこへ戻ろうと思えば戻ることもできるようにさえ思います。
>僕は「内観されるものが人によって違ってしまう」ようなものは普遍的なも
のではないと考えています。
では各宗教間における「普遍性」の齟齬はどのように説明されるのでしょうか。
例えば上記したような状況に私はいます。
ひゃっきまるさんのように言われると、私の心的状況はなんなのかと悩みます。
世界や人間は神によって創られたのでしょうか、縁起によって成り立っているのでしょうか。
どちらが「普遍的な真実」なのでしょうか。
私はそのような齟齬を「信じる」という心の作用によって乗り越え、
宗教は普遍的でありえると考えました。
ひゃっきまるさんはそのような齟齬をどのように克服されるのでしょうか。
縁起説によって創造説を否定するのでしょうか。
725 :
乾闥婆 :02/12/02 00:37 ID:???
>>718 >クリスチャンはイエスが神の子であるという信条を「物語」ではなく「事実」としており、
そうだからこそ信仰が成り立つ、
>創価学会員も日蓮大聖人が仏であるということ、唱題に不思議な効力があるということを
「物語」ではなく「事実」であるとしているからこそ信仰が成り立つのではないですか?
微妙な言い回しの齟齬なのですが、おそらくひゃっきまるさんとの決定的な違いになると思います。
「事実」とする、ではなく、「事実」と「信じる」ということではないでしょうか。
だから「信・仰」というのではないでしょうか。
ひゃっきまるさんと話を続けてきて、確かに物語を信仰対象とすることに、
自分なりに無理を感じるようになってきました。
結局はその語られた物語を「事実」と「信じる」ことを、
「信・仰」を通してやってしまっているのではないか。
これは自分の信仰理解への批判です。
しかし法華経で語られたことそのままを「事実」と「信じる」のではなく、
表象されたものとしての理念と受け止めるにとどめるべきだという考え方に、
変更を加えるつもりはありません。
そしてその理念を「真実」だと信じています。
その理念を「事実」と信じる、というのは表現として据わりが悪いようです。
しかしそれは私なりの語感に対する好悪の問題にすぎないのかも知れません。
726 :
乾闥婆 :02/12/02 00:39 ID:???
>>720 >乾さんは「愛」そのものは「信じる」ことを条件にしていない、
ということをすでに認めているでしょう。
愛という理念には自身を積極的に他者へ投企していかなければならない、
という側面があると私は考えています。
そうでなければ誠実でないと。愛はそのような誠実を要求するものだと。
それが「信じる」「誓う」という言葉となって表れたのでしょう。
本能とは違う概念的な働きとして愛を考えていたので、
ただ「在る」という言い方に拒絶反応を起こしました。
愛は「信じることによって生じる」というべきではなかったのでしょうね。
愛は信じなければならない、というべきだったのでしょう。
>乾さんに言わせれば、「信じる」ことによってその愛が不変のものとなる、
ということなのでしょうか。
愛は「不変」のものへとあらしめなければならない、と考えています。
それが「信じる」「誓う」という心的作用を要求するのだと。
皮肉なことですが、私がまだ若かった頃、そのことで悩んだ末に、
愛という言葉を使わないことを誓いました。
愛は不可能である、というのが二十歳前後の私の認識でした。
そのような不誠実な表現を私はしない、と思い詰めました。
きょうは私事が多いですね。すみません。
727 :
乾闥婆 :02/12/02 01:06 ID:8WbdY4t4
>>722 (笑)私は一介の労働者ですし、職を辞して学問をするほどの資産もありません。
素人の範囲で、そして信仰者として、少しずつ学んでいきたいと思います。
>>722 古語も中国語もサンスクリット語も読めませんので・・・。
それに僕は宗教としての仏教に興味があるのであって、考古学的意味では興味は全くありません。
>乾闥婆 わざわざ「sage」にする必要などないな。
730 :
乾闥婆 :02/12/03 21:56 ID:nDqTH66d
>>729 いえ、sageでまとめて書き込んで、最後にageているのです。
731 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :02/12/03 22:08 ID:lstdWXy7
乾さん
>>723 >内観されたものがどのようにして「普遍的な真実」とされるのか、それが問題だと思います。
自然科学における真実の探究の他にどのようなものがあるかと考えていくと、その一部は数学
や論理学、もしくはそういった哲学の一分野ということになろうかと思います。数学とは自然物
を対象にせず、むしろその背後にあり自然物を成り立たせている根源である「イデア」的なもの
を追求しているという意味で我々の議論に多少なりとも関係があるのではないかと思っています
(比喩的、相似的な意味で、と注釈しておいた方が良いでしょうか・・・)。
数学とはある種、全く理屈のみの世界であります。ということは人間の頭の中だけで組み立て
られ、研究が可能な分野でありますが、僕にはこれが非常に不思議なことと思います。物理現象、
化学現象、またこれが相互作用して生じる生物現象といったものは数学の言語で記述され、また
数学を基本ルールとしているように思えます。つまり、人間が「内観的に」追求し、得た「真実」
にやはり自然界も従うということです。このことには「卵が先か、鶏が先か」という問題もあり
ましょうが、事実、実験が重視されなかった古代ギリシアの哲学において、近代科学の重大な発
見の先取りと言える発想がほぼ出そろっていたことは驚嘆に値すると思います。近代科学は古代
ギリシア哲学の注釈にすぎない、といった類いの言葉はよく聞きます。
「普遍的な真実」であることが判るためには、それこそ「唯仏与仏」なのかもしれません。そ
もそも仏道修行とはそのようなもののはずで、歴劫が必要なほど難しいものらしいですし。個人
の努力だけではなく、人類全体の進歩も条件に入るかもしれません。また根本的に人間存在であ
るかぎり、認識力、思考力には限界があります。
内観されたものの「普遍的な真実」はどのように確立するかと問われれば、おそらく時代時代
の宗教家、思想家、哲学者がそれを求め、あるいは到達したと宣言するような形で提示してきた
のでしょう。ただ、そこには「普遍的な真実」がある、という立場に立たなければなりません。
>>724 僕は、異なる宗教であっても、それが「同じものを見ている」ということは充分にありうると
思っています。というよりかは、むしろそうでなくてはおかしいとすら思います。しかし中には
邪悪な思想に染まってしまった宗教というのもまたあると思っています。宗教の正邪について考
えたり学んだりすることは大切なことと思います。
>ひゃっきまるさんはそのような齟齬をどのように克服されるのでしょうか。
>縁起説によって創造説を否定するのでしょうか。
齟齬、という言葉のニュアンスがよく理解できていないかもしれませんが、一応お答えします。
1)まず、「誤り」は存在する、という立場を僕はとります。今の宇宙論を考えますと、世界が神
によって創造されたと考える必要はありません。それよりは縁起説の方が普遍性のある考え方で
しょう。
2)次に、答えが二者択一とは限らない、第三番目の答えがあるかもしれない、と考えます。仮
に神による世界の創造が事実だったとしても、それさえも縁起説に含むことができます(つまり
は両方とも正しいという考え方は可能)。また、両方とも誤りである、ということもありうるこ
とですから、それを考慮に入れるべきです。
3)最後に、言葉が意味するところを一つと考えず、いろいろな可能性を考えてみます。「神が
世界を創造した」ということの意味は、神が世界の全存在を愛している、ということの別の表現
かもしれません。
しかし最終的には、自分自身が正しいと思う道を歩むしかないでしょう。宗教における真実と
は自身の中の他に探す場所はないはずです。
>>725 乾さんの考えはよく解りました。最終的には僕も同じような考えだと思います。
>>726 >愛は不可能である、というのが二十歳前後の私の認識でした。
>そのような不誠実な表現を私はしない、と思い詰めました。
確かに僕も似たようなことで悩んだことがあります。「こうあらねばならない」という考え方
に僕は陥りやすいようで、そのために常にストレスを抱えるような形になってしまいます。だか
らこそ、「あるがままに受け止める」という見方を身につけたいと思っています。「愛」とは幻
想にしか存在しないものならば、それを現実に要求するべきではないし、要求されれば例え相手
に嫌われようとも正直にそれを話さなければならないと思います。「あるがまま」の飾らない自
分をきちんと表現できたとき、そこから成長がはじまると思いますし、またその姿のままでちゃ
んと「素晴らしい」と言えるのではないでしょうか。
735 :
乾闥婆 :02/12/08 00:17 ID:???
>>732 数学に詳しくはないのですが、その「正しさ」というのは、
その公理系内での「正しさ」であって、
その外に出てしまうと違ってくる、というように聞いたことがあります。
「正しさ」が成り立つにはその成り立つべき基盤が必要なのでしょうね。
宗教上内観されるものもまた「真実」足りうるにはその内観される文脈といいますか、
歴史的・文化的必然性が下地として必要とされるのでしょう。
>おそらく時代時代の宗教家、思想家、哲学者がそれを求め、
あるいは到達したと宣言するような形で提示してきたのでしょう。
そうですね。そのような時代時代の流れのなかで表出されたものなのでしょうね。
日蓮もまた、その時代や文化の継承のなかで、「真実」を主張されたことでしょう。
そしてそれは別に主張された法然の「真実」を攻撃するかたちとなって現れたわけです。
私はもちろん日蓮を宗祖と仰ぐ者ですから、法然の「真実」を肯定しませんが、
それを「真実」とする者もまたいる、ことでしょう。
>ただ、そこには「普遍的な真実」がある、という立場に立たなければなりません。
「普遍的な真実」がある、としたときに、やはり日蓮の言動のように、
破折・折伏は避けがたいこととはなりませんでしょうか。
それとも多数の異なった「普遍的な真実」の存在を受け入れるべきでしょうか。
736 :
乾闥婆 :02/12/08 00:18 ID:???
>>733 >僕は、異なる宗教であっても、それが「同じものを見ている」ということは
充分にありうると思っています。
各種の宗教はその「同じものを見ている」ことによって、
教義の違いを乗り越えて、理解し合える、ということでしょうか。
そうなると、やはり多数の異なった「普遍的な真実」の存在を、
受け入れるということになるのでしょうか。
教義は形式にすぎないのでその多様性は受け入れられる、といってしまえば、
各教義自体にはなんら普遍性はない、ということになってしまいます。
そこは分離しがたいと思います。
>宗教の正邪について考えたり学んだりすることは大切なことと思います。
それはそのとうりですね。
737 :
乾闥婆 :02/12/08 00:19 ID:???
>>733 (続き)
縁起説と創造説について。
1)は同意です。
2)はよくわかりませんでした。
縁起によって成り立っているのであれば、すべては無自性ですから、
すべての関係から独立した自性の神が存在することは否定されますし、
その神によって世界や人間が創られるということはなおさら否定されなければなりません。
両方とも誤りであるならば、それに替わる世界観が提示されなければいけません。
3)は私の好むところです。解釈することによって受け入れる。
それはいまの時代に必要な作業と考えます。
>宗教における真実とは自身の中の他に探す場所はないはずです。
そうですね。その求める心的作用に、私は宗教の持つ普遍性を感じます。
各種の教義の相違を乗り越えるのは、その信仰心だと思っています。
738 :
乾闥婆 :02/12/08 00:20 ID:???
>>734 >要求されれば例え相手に嫌われようとも正直にそれを話さなければならないと思います。
本当に嫌われますけれど。(笑)もちろん覚悟してのことです。
739 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :02/12/08 08:56 ID:R1rJgwzA
なんか空虚な言葉の羅列で期待はずれ。 それよっか、リーダーの余りにも俗っぽい 不祥事をどうかばうか教えてほしい。 だれかの陰謀だとか被害者を脅かすようじゃ 説得力に欠けるよ。(麻原とか金などの団体と 同じに見られてる)
740 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :02/12/08 09:50 ID:UbUUfG0G
>スカプロ 「主役」不在のまま随分と進んだな。このスレ。
>乾さん
>>735 > 数学に詳しくはないのですが、その「正しさ」というのは、
>その公理系内での「正しさ」であって、
おそらく乾さんのおっしゃっているのは非ユークリッド幾何学やゲーデルの不
完全性定理にまつわる話であると思います。検索しましたらよくまとまっている
サイトがありましたので御覧ください。
www11.big.or.jp/~hata/lecture/hata/hukanzen.htm
ここで注意したいのは、論理や数学が不完全である(虚無的性質を持ってい
る)、ということではありません。また、完全なる論理が存在するとして、そこ
に至ること(あるいは至ったと認識すること)は人間には不可能、という仮定を
持つことも可能です(そう考えなければ論理とはなんぞや?という話になってし
まいます)。
さらに、頭の中だけで構築することのできる数学という学問の体系内のみなら
ず、われわれは「直感的に」自然界が数学の法則に支配されていると言うことを
知っています(こちらの方が出発点だと思いますが)。僕がたびたび物質的な現
象を例にあげてきたのもこれ(論理と自然の法則に関連があること)を強調する
ためです。
> 「正しさ」が成り立つにはその成り立つべき基盤が必要なのでしょうね。 僕はそう単純な話ではないと思います。「ある体系内では正しい」というよう に、「正しさ」は相対的性質を持つものではないと考えます。またそういう前提 に立つものこそが宗教であると思います。もちろん誰もが納得する確固たる「正 しさ」が存在しない現代においては、さしあたって「ある体系内では正しい」と 考えて寛容的行動をすることが、多様で平和な世界を実現する道であると思いま す。 >「普遍的な真実」がある、としたときに、やはり日蓮の言動のように、破折・ >折伏は避けがたいこととはなりませんでしょうか。 >それとも多数の異なった「普遍的な真実」の存在を受け入れるべきでしょう >か。 日蓮大聖人の当時の行動は時代を考慮してもやはり種々の批判がされるところ です。単に「そういう時代だったから」では見過ごせないこともあったでしょ う。月並みな意見ですが、「功罪あった」と僕は思っています。 「真実を確信し た」から、「攻撃的思想になった」とするのは安易です。釈尊やイエスのよう に、真実を確信しても、むしろ、だからこそ徹底して従順的布教方法をとった宗 教者も多数います。
>>736 >各教義自体にはなんら普遍性はない、ということになってしまいます。
>そこは分離しがたいと思います。
さあ、そうでしょうか。アナロジーになってしまいますが、「dog」でも「犬」
でも意味するところが同じであるならよいのではないですか。はじめは同じもの
を指しているとなかなか理解しあうことができないかもしれませんが。
>>737 >縁起によって成り立っているのであれば、すべては無自性ですから、
>すべての関係から独立した自性の神が存在することは否定されますし、
>その神によって世界や人間が創られるということはなおさら否定されなければ
>なりません。
>両方とも誤りであるならば、それに替わる世界観が提示されなければいけませ
>ん。
>>733 の2)の説明はあまり適切ではなかったかもしれません。仏教では神(天)
を否定しているわけではないのですから、創造神(大梵天ということになるので
しょうか) も縁起説に含むことができると思ったのです。
しかしこれでは単に仏教がキリスト教より優れている、という安易な結論を導
くのみで、お互いの信仰を共に成り立たせる、ということにはなりません。
僕にはキリスト教の絶対神と仏教の仏とかなり概念的に重なるところがあると
思っているのですが(以前話題にあがった、三位一体と仏の三身の比較)、絶対
神が「無自性」である、という解釈は不可能なのでしょうか。
747 :
乾闥婆 :02/12/18 00:32 ID:+7flWsS8
>>743 >「ある体系内では正しい」というように、「正しさ」は相対的性質を持つものではないと考えます。
体系が存在しない状態で「正しさ」を主張することは不可能なのではないでしょうか。
体系がないのであればもちろん体系内部の「正しさ」は存在しませんし、
体系外部もありえないので、体系を超えての「正しさ」も存在しなくなりませんでしょうか?
体系はあるし、「正しさ」は体系内部に拘束されるはずです。
体系の外部に見出される「正しさ」が存在するのであれば、
つまりは各体系間の共通する「正しさ」が認識されるような、
さらに上位の体系が形成されつつあるということなのではないでしょうか。
>「真実を確信した」から、「攻撃的思想になった」とするのは安易です。
蓮祖の確信したことは、法華誹謗は重罪であり、
そのことを知って諫めないことも罪悪である、ということです。
単に「真実を確信した」からではなく、「確信した」その内容ゆえに、
法華誹謗の他宗を破折する必要があったはずです。
>釈尊やイエスのように、真実を確信しても、むしろ、
だからこそ徹底して従順的布教方法をとった宗教者も多数います。
ゴータマ・ブッダ在世中の布教方法を私は知りません。
イエス自身の布教方法というのもよく分かりませんが、
十字架にかけられるほどのラディカルさは当時の祭司や律法学者に対してあったのでは。
748 :
乾闥婆 :02/12/18 00:33 ID:+7flWsS8
>>744 他言語間の名詞の指し示すところの同一性と、教義の類似性を同列に扱うのはどうかと思います。
違った構造を持った教義はやはり違ったものです。
その類似性を見出してゆく作業は「犬」のように単純なことではないでしょう。
749 :
乾闥婆 :02/12/18 00:35 ID:+7flWsS8
>>745 >創造神(大梵天ということになるのでしょうか)も縁起説に含むことができると思ったのです。
仏教では造物主によって世界が創られたとは考えないと思います。
>絶対神が「無自性」である、という解釈は不可能なのでしょうか。
すべては無自性であると捉えた瞬間に「絶対神」の「絶対」は否定されると思います。
万物の創造主たる神が「空」であって「無常」な存在であるとされては、
クリスチャンもユダヤ教徒も納得しないのではないでしょうか。
「仏」とはすべてが無自性であると知った「人」のことです。
三身論は悟られた法自体への信仰と悟った人格であるブッダとへの信仰の、
整合を求めて発展した考え方のようです。
750 :
乾闥婆 :02/12/18 22:12 ID:EjH1j+Dn
>ひゃっきまるさん 補足しますね。 日蓮の主張は一元的な宗教的価値観を実現することが理想とされていると思うのです。 そしてひゃっきまるさんの主張にも同種のものを感じてしまうのですが、いかがでしょうか。 私は多元的な価値観の共有できる基盤を作っていくことの方に関心があります。 特に宗教において「唯一絶対の真実」を強く主張することは危険であると思っています。 文脈の中でそれぞれの真実を捉えて、その真実のあり方を検討してゆく、 そして宗教という大きな枠組みのなかで、共存してゆく、 それでいいのではないでしょうか。
ただのちょっとした対抗「age」なんだが、 半年以上経って、なにかしらの変化はあったのかいな。 もうクリスマスだぜぃ!
>>752 まぁ板の住人が淋しがると可哀相だから、
クリスマスでも出現しても良いよ。
>乾さん
>>747 >体系が存在しない状態で「正しさ」を主張することは不可能なのではないで
しょうか。
ここで乾さんが言われていることと全く同じ文脈での議論が数学でもなされて
おり、それは超数学とよばれています。
>>742 でのリンクを参照してみてくださ
い。これは大変難しい問題だと思いますので、これについて本格的な議論をする
ためには準備が少なすぎるでしょう。
>「確信した」その内容ゆえに、法華誹謗の他宗を破折する必要があったはずで
す。
これについては滝山さんのスレで議論したいと思いますが、日蓮大聖人がいっ
たい何を確信し、その確信したものの性質とはどのようなものなのか、というこ
とに関わってくるでしょう。まず言えるのは大聖人は単純な法華経原理主義者で
はなく、文底という言葉に代表されるように、そこにいろいろな恣意的解釈が混
じっていたということです。
どちらにしても『「真実を確信した」から、「攻撃的思想になった」とするの
は安易』という僕の主張は変わりません。
>ゴータマ・ブッダ在世中の布教方法を私は知りません。
>イエス自身の布教方法というのもよく分かりませんが、
確かにイエスの布教方法には過激なものがあったようですから、「徹底して従
順的布教方法」をとったというのはイエスに関しては撤回いたします。
しかしブッダの布教方法とは後期成立の大乗仏典を除けば、ほぼ一貫している
ように感じます(もちろん初期成立の仏典ではより確かに)。ブッダに限らなく
とも、ガンジーのように思索の末に従順的方法に至ったという人は少なくないで
しょう。
>>748 > 他言語間の名詞の指し示すところの同一性と、教義の類似性を同列に扱うのは
どうかと思います。
え〜と、ですからアナロジーであると断ったのですが(^^; 「各教義自体
には普遍性はない」という乾さんの言葉に答えて、普遍性がなくともかまわな
い、というのが僕の考えです。しかし教義がなくなってしまったら「犬」を指す
言葉がなくなってしまいますから、やはり必要なのです。
>>749 > 仏教では造物主によって世界が創られたとは考えないと思います。
もう少し詳しくいいますが、三十三天に代表されるように仏教はインドの神話
等を否定しているわけではありませんね。ブラフマン(梵天)は世界創造(加え
て維持と破壊)の原理であると考えられているし、天人と阿修羅の綱引きによっ
て世界が生まれたという創世神話もあります。
>すべては無自性であると捉えた瞬間に「絶対神」の「絶対」は否定されると思
>います。
>万物の創造主たる神が「空」であって「無常」な存在であるとされては、
絶対神の絶対とは単なる絶対という概念を越えた意味での絶対なのでは。つま
り、「絶対」と言葉で表現してしまえばそれは真の絶対ではない、という理屈な
のですが。そのような意味で人間の考えられる範疇を超えた絶対なのですね。そ
れが「無常」を越えた(彼岸に至った)仏と同一視されるのは十分に可能である
と思うのですが。
三身論を単に整合を求めるためのものだと考えてもよいでしょうが、似たよう
な考え方、信仰のあり方がキリスト教でもおこったということに注目したいので
す。
>>750 >日蓮の主張は一元的な宗教的価値観を実現することが理想とされていると思う
>のです。
>そしてひゃっきまるさんの主張にも同種のものを感じてしまうのですが、いか
>がでしょうか。
おそらくそういうスタンスで議論されているだろうなあ、という雰囲気は感じ
ていましたが(^^; 乾さんのお考えはよくわかりますし、むしろ僕の考えに
近いとも思っています。それでも同意できない点があるからこそ議論が続いてい
るわけですが。
「多元的な価値観の共有できる基盤」といっても、それ自体が絶対になってし
まうのではないか、とか、それに大きく外れる教義(唯一絶対を主張する宗教が
まさにそうでしょうが)は良しとされないのか、とかいう問題もあります。
自身の宗教に閉じこもって、他の宗教に干渉しないという危険な閉鎖性を生む
可能性もあります。「真実がただ一つである」という前提があってこそ、お互い
の心が通じ合う可能性、お互いを理解しようとする意思、そういった議論の意味
が成立すると思うのです。
今のところ最低限のことが言えるとすれば、有形のものを絶対にしてはいけな
いということです。それは、ある特定の人物、団体、教典、本尊、などですが。
>>756 >自身の宗教に閉じこもって、他の宗教に干渉しないという危険な閉鎖性を生む
>可能性もあります。「真実がただ一つである」という前提があってこそ、お互い
>の心が通じ合う可能性、お互いを理解しようとする意思、そういった議論の意味
>が成立すると思うのです。
> 今のところ最低限のことが言えるとすれば、有形のものを絶対にしてはいけな
>いということです。それは、ある特定の人物、団体、教典、本尊、などですが
納得できる部分ですね。
私も、そのように考えております。
おひさ〜♥ 姜子たん、おげんこ〜? ナンチテ
あれれ?トリップが変わってるよん?なんで??? まあそれはそれとして、ひゃっきまる たん割り込んでゴメンネ。 ナンチテ
760 :
乾闥婆 :02/12/23 00:50 ID:ve5iky1Z
>>754 >これについて本格的な議論をするためには準備が少なすぎるでしょう。
そうですね。HPは読ませていただきました。分かりやすくまとまっていますね。
以前ブルーバックスの不完全性定理を読んだのですが細かいところは忘れてしまいました。
>これについては滝山さんのスレで議論したいと思いますが、
そうですね。
なんとなくスレの雰囲気に合わないような気がして書きためらっています。
でも、いずれ書き込みをしたいと思っています。
>『「真実を確信した」から、「攻撃的思想になった」とするのは安易』
少し言葉が足りなかったのかも知れません。
唯一の真実を確信したから、ということを言いたかったのです。
これ以外の思想を認めない、といった唯一性の傾向は攻撃性を生むのでは、ということです。
761 :
乾闥婆 :02/12/23 00:52 ID:ve5iky1Z
>>755 >普遍性がなくともかまわない、というのが僕の考えです。
題目でも、念仏でも、神への祈りでも、かまわないということでしょうか。
私自身はそのように考える人間ですが、題目をあげる以上は題目の普遍性を信じています。
>仏教はインドの神話等を否定しているわけではありませんね。
仏教においてはインドの神々も所詮は一有情にすぎないはずです。
仏教では四劫を言います。成・住・壊・空を繰り返す、という世界観です。
無始無終に成・住・壊・空を繰り返すのですね。
梵天がどのように仏教内部に組み込まれていったのかは私も分かりません。
>似たような考え方、信仰のあり方がキリスト教でもおこったということに注目したいのです。
宗教間の対話を行う上で、そのようなスタンスは大事なこととなるのでしょう。
違うところはそれとして認識しつつ共通するベクトルを探るという作業は私も否定しません。
762 :
乾闥婆 :02/12/23 00:53 ID:ve5iky1Z
>>756 >乾さんのお考えはよくわかりますし、むしろ僕の考えに近いとも思っています。
それでも同意できない点があるからこそ議論が続いているわけですが。
そうですね。私もそう思います。
相違点は微妙な表現のズレでもあるようですし、本質的な部分でもあるようです。
そのことを知りたくて続けているのかも知れません。
勉強にもなりますし。
>「多元的な価値観の共有できる基盤」といっても、それ自体が絶対になってしまうのではないか
地球規模で考えてゆくのであればそのようなスタンダードが生じるのは時代の趨勢だと思います。
大事なことは個々の文化圏の固有性を破らないかたちで、
それができないだろうか、ということでしょう。
>自身の宗教に閉じこもって、他の宗教に干渉しないという危険な閉鎖性を生む可能性もあります。
基盤作りは対話をもってしか進まないと思います。
「多元的な価値観の共有できる基盤」を探ることはそのまま対話を意味するでしょう。
>今のところ最低限のことが言えるとすれば、有形のものを絶対にしてはいけな
いということです。それは、ある特定の人物、団体、教典、本尊、などですが。
その固有性を守りつつ、共有できる基盤を探るということです。
しかし、その固有な教義、経典、本尊は信仰する者にとっては、絶対でしょう。
そこを踏まえつつ、宗教間対話をするべきなのだと思います。
創価学会が国内外においてそういう行動を起こせればいいのですが。
あげるよん。
γ'',, '''…、 〆.' ' ̄'' ヽヽ . i;;i' 'i;i .i;;;i' u .i; .i;:/ ..二_ヽ '_二`,:: l''l~.{..-‐ }- {.¬....}l'l ヽ| .`ー '. `ー ´|/ | ノ、l |,ヽ .ノ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ヽ~(、___, )ノ < 関東人は、やっぱり、アカン・・・ /|.ヽ..__ ___/| \___________ /l \ //l\ ヽ \/ / \/▽ヽ
広東人ならどうなんだ?
γ'',, '''…、 〆.' ' ̄'' ヽヽ . i;;i' 'i;i .i;;;i' u .i; .i;:/ ..二_ヽ '_二`,:: l''l~.{..-‐ }- {.¬....}l'l ヽ| .`ー '. `ー ´|/ | ノ、l |,ヽ .ノ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ヽ~(、___, )ノ < スカプロは、逝ってよろしやろ? /|.ヽ..__ ___/| \___________ /l \ //l\ ヽ \/ / \/▽ヽ
767 :
山崎渉 :03/01/07 09:07 ID:???
(^^)
乾さん
>>760 最近うまく書き込めません。他のワープロソフトで打って、コピペを
するというやり方ができなくなってしまった??? 長文を打つときは
とても不便ですね。セーブできないのも怖いですし。
>唯一の真実を確信したから、ということを言いたかったのです。
>これ以外の思想を認めない、といった唯一性の傾向は攻撃性を生むのでは、ということです。
唯一性と攻撃性には確かに関連があることを認めなければならないかも
しれません。他に虐げられているような人間にとってはコンプレックスの
裏返しとしての優越性が出てしまうようなこともありそうな気がします。
しかし、それは真実が唯一であることに非があるわけではなく、むしろ
その人間の精神性に非があるというべきではないでしょうか。真実が唯一
であるかどうかの議論にその問題は無関係であるということです。
法華経の内容では唯一の真実(一仏乗)を説いてはいても、実はそれまで
の教え(三乗)を否定してはいません。また、徹底的に攻撃的な布教方法
を禁じています。法華経における唯一性とは、他を否定して成り立つ唯一性
ではなく、他をすべて飲込んでしまうことによって成り立つ唯一性なのでは、
と思っています(少し単純すぎる説明の仕方ですが)。
スカプロというガラの悪い学会員ですが、この男は低脳低学歴の貧乏人だったのです。 幼稚園児の頃からの学会員なのですが、まじめに信心してないので落ちていたのです。 しかし、あら不思議。熱心に信心を再開すると、今じゃデカイビルで肩で風切って 歩いているそうです。ふははははははは。
>>762 >その固有性を守りつつ、共有できる基盤を探るということです。
>しかし、その固有な教義、経典、本尊は信仰する者にとっては、絶対でしょ
う。
まさにそれらは「絶対ではない」ということを説いたのが釈尊であると思うの
ですが・・・。守るのは固有性というよりはその奥にあるもののような気がしま
す。例えば文化というのは変化していくものです。しかし、その文化をその文化
たらしめているなにかがあるはずでしょう。日本で言えばわび・さびであるとか。
むろん日蓮正宗における板曼陀羅であるとか、キリスト教における聖遺物、神
道での三種の神器だとか、宗教上こだわらねばならない有形のものというのはあ
るのでしょう。それらに特別の思いを持っている人間の気持ちは尊重するべきだ
と思っています。
気になるものについてだけレスしました。他の内容については概ね同意です。
スカプロという能力が無く会社で閑職に追いやられクビまじかの学会員ですが、 この男は、会社で公明党への投票依頼をしたんだそうです。 世間一般の社会人の常識として、学会員とは、他の宗教の信者の人権を守らないし、 自分勝手で、題目あげて自分の幸せを祈り、学会に財産を吸い取られ、仕事も全然 やる気が無い自分さえ良ければ言いというダメ人間だと知っているので、左遷されたのです。 ここに書いている言葉使いを見ればわかるように、傲慢な馬鹿で終わっている人間です。
スカプロという学会員は、熱心な信者なので一日に最低5時間は仏壇の前で 題目を唱えているんですよ。学会の為に、新聞だの雑誌だの本だの財務だのと 収入の8割方を使っているんです。
スカプロという学会員は、学会が潤えば潤うほど嬉しいんだと信じているので、 全財産を学会に捧げたいと思っているのです。普通だったらそんな事をすれば 破産すると思うのですが、学会員は財務=寄付をすればするほど福運がついて 出したお金が数倍になって戻ってくるという、現証がすべての学会員に出ているのです。 そうだよな、スカプロよ。正しいよな。なんか言えよ。
>>773 安心しろ。たまには出現するから。
ちなみに今回はまだ「金銭面」の一面だけ見てみると返っては来てないな。
ついでに一日5時間あげてたらオレもう絶頂だろうな。
スカプロ。おまえは、信心が足りないし、財務の額も足りない。
776 :
乾闥婆 :03/01/18 00:40 ID:F1vpHdH0
>>728 >しかし、それは真実が唯一であることに非があるわけではなく、むしろ
その人間の精神性に非があるというべきではないでしょうか。真実が唯一
であるかどうかの議論にその問題は無関係であるということです。
攻撃性を生み出す論拠が唯一性にある以上、
それを無関係ということはできないのではないでしょうか。
「唯一の真実」がそうでないものを排除する構造を孕むことは否定できないはずです。
その排除の構造が攻撃性の原動力になる以上無関係とはいえないでしょう。
法華経が一仏乗を主張しながら二乗作仏という形で、
それまで成仏を授記されていなかった修行者をも含めて成仏の道を説いたことは、
確かに優れたことです。
しかしそれを蓮祖は他宗攻撃という形で読み込んだわけです。
なぜなら法華経は攻撃されその存在を危うくされていた時代であったからです。
「白法隠没」ですね。
唯一性を孕む主張は「時」によってその攻撃性を顕現してしまうのです。
777 :
乾闥婆 :03/01/18 00:41 ID:F1vpHdH0
>>770 >まさにそれらは「絶対ではない」ということを説いたのが釈尊であると思うの
ですが・・・。
しかしゴータマ・ブッダも、アートマンを否定したわけですね。
形而上学的議論にも無記を守りました。そのような態度は彼にとって絶対だったのでは。
なんらかの主張をするときに、そうではない主張を拒否することは、
当然の態度であって、そうでなければ教義、法が立てられる意味もないでしょう。
>守るのは固有性というよりはその奥にあるもののような気がします。
例えば文化というのは変化していくものです。しかし、その文化をその文化
たらしめているなにかがあるはずでしょう。
それはむしろ固有性よりも普遍性を志向する態度ですね。それはそれでよいのです。
ただ、普遍性が見出されたからといって、その固有の形の中に生きる我々の抱えた文化を、
絶対と思い受け入れることが否定されなければならないということはないのではないでしょうか。
例えば、私たちが唱題をしているときに、神のことを思い、イエスの十字架のことを思い、
祈ったりするでしょうか。
仏性はあるかも知れないけれど、私たちは原罪を背負っているので、
神に祈る以外に救われないのだ、と唱題をしながら思ったりするでしょうか。
題目もいいけれど、念仏もいいかも知れない、坐禅もよいだろう。
いっそう坐禅を組みながら題目と念仏を交互にあげてみよう、などと発想するでしょうか。
固有の形は守られなければならないと思います。
御本尊に向かって題目をあげる、という形はそれを信仰する者にとっては絶対です。
その上での対話です。
この良スレ住人なら即答だろう↓§^。^§。 法華経の主張(普賢菩薩歓発品)・・法華経のラストシーン ↓ 「法華経を読む人を嘲笑すると・・・」 @歯が折れたり抜けたりする。 A忌まわしい唇を持つようになる(ミツクチのこと?)。 B低い鼻を持つようになる(東洋人のこと?)。 C手足が逆になり、眼が逆さになる。 D体が悪臭を放つ。 Eライ病(その他もろもろ)にかかる(酷い差別発言だな)。 シャカのこの発言を受けて、聴衆は「歓喜」する。 これが法華経のラストシーン。 @どういう意味があるの? Aこの法華経の内容を知った上で、法華経に大賛成して帰依しているのかい?
779 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :03/01/18 00:58 ID:RyEVydCJ
スイマセン。ちょっとお尋ねしたいのですが、乾闥婆さんとひゃっきまるさんは 学会活動のほうはどういう態度でどのようにしておられるんでしょうか。教えて ください。
>>778 一般人さん
まず申し上げたいのは、あなたの質問の仕方はあまりに意図的な解答をひきだ
したがっているような風があります。誰しも初めから偏見をもっている人間に対
して答えるのは億劫なものです。レスのやりとりがどうしても意図の探り合いの
ようなものになってしまいますから。
>シャカのこの発言を受けて、聴衆は「歓喜」する。
これは間違いです。普賢菩薩歓発品は、「最後の五百年」における普賢菩薩の
請願を中心に話が進んでいきますが、そこでずっと法華経を護持することの功徳
が説かれ、最後に法華経を誹謗することへの報い(あなたの指摘する箇所)が説
かれ、次に普賢菩薩歓発品を聞いたことの功徳が説かれます。そして最後に、
「法華経を聞いたことに対して」歓喜する、というラストシーンになります。歓
喜するのは法華経に対してなのです。
>@どういう意味があるの? 法華経の「差別思想」についての問いと解釈してお答えします。まず、法華経 の中では当然法華経が正しい教えであるという前提で話が展開していますから、 その法に対して叛く行為には報い、罰があるということになります。この場合の 「法華経」というのを、文字通りの二十八品の法華経と捉える必要はありませ ん。「正しい法」と解釈するのがよいでしょう。 そして、「報い」として病気や身体的特徴があげられていることですが、仏教 では功徳や罰がこうした形であらわれることがよく出てきます。代表的なもので は仏の三十二相(仏には三十二の身体的特徴があり、それによって仏であること がわかる)というものです。 これは実際にそのような病気を持っている人間にとってすれば、非常に差別的 に感じられることと思いますが、法華経を説かれた当時ではそのような世界観で あった、というしかありません。 例えば、もっと深刻な差別問題としては男女差別があります。仏教は非常に厳 しく男女差別をしており、法華経でも女性はそのままでは成仏できず、男性に変 わってから成仏するという場面があります。おそらく当時のインド社会では男女 差別は当たり前のことだったのでしょう。宗教といえど、その時代的な制約から は逃れられていない、ということでもあると思います。
>Aこの法華経の内容を知った上で、法華経に大賛成して帰依しているのかい? あなたは法華経を信奉する人間は法華経の一字一句を正しいと思って信仰して いる、と思っているかもしれませんが、それは違います。大乗仏教自体が既存仏 教に対する再解釈であったように、仏教は教えの内容が変動していくものです (例えば日蓮教学では、文章そのままに読むことを「文上」、文章に秘められた 真意を読み解き解釈していく読み方を「文底」といいます)。 その中では上記にあげたような「時代の制約」ということも考慮に入れて仏典を 読み解いていかなければなりませんし、もっと大事なことは、自分自身の心の中 で正しいと思うような解釈の仕方をしていくということです。ただ盲目的に信じ ることは避けなければなりません。 「法華経の内容」といった場合、それは法華経の中心的な思想は何か、法華経 が一番説きたかったことはなにか、ということを考えねばなりません。それは一 般的には「三乗方便一乗真実」であるとか、「永遠の存在である釈尊」というこ とになります。あなたの指摘した箇所は大事な箇所ではありません。 加えて言うならば、現代の日蓮宗の諸派の信者で法華経の内容を知っている人 はおそらくあまりいませんし(少なくとも大多数ではない)、また知る必要もな いということになっています。それは教学上そうなっているということで、怠慢 だと言いたいわけではありません。「法華経」という存在をもっと象徴的な存在 に昇格して捉えているのだと思います。
783 :
波木井坊竜尊@日蓮宗葵講 ◆IByKs72gR2 :03/01/18 11:07 ID:YtMUCs6v
あっはっは。ひゃっきまるさんはよくみているねえ。
乾さん
>>776 >「唯一の真実」がそうでないものを排除する構造を孕むことは否定できないはずです。
>その排除の構造が攻撃性の原動力になる以上無関係とはいえないでしょう。
「唯一の真実」を主張するが、「攻撃性」は否定する、というスタンスがあっ
てもなんら不思議ではありませんし、法華経を含め多くの宗教はそうではありま
せんか?
「無関係」というのは、何度もいいますが、「真実が唯一か、それとも複数な
のか」、という議論と、「唯一性」が生む危険性や影響のことは無関係というこ
とです。
こうした話でよく思い起こすのが、学術学会の世界でのやりとりです。時に非
常に激しく論争が行われますし、それが深刻な派閥対派閥の対立になることもあ
ります。しかし彼らは最低限のルールは認識しています。それは、「真実に忠実
であれ」ということです。感情に振り回されて攻撃のためだけの攻撃、他人をお
としめるための論述などをしないということです。
ただ単に自分の主張を述べるのではなく、きちんとした根拠を提示しながら、
理性的に論理的に反駁することを心がけています。また、そうしなければ逆に恥
をかくことになります。
こうした論争は、「真実が唯一である」と皆が思っているからこそおこるので しょう。真実の唯一性には功罪あると言っていいでしょう。しかし人は、なるべ くその「罪」の部分を認識して制御しようとしてきたのです。 大聖人にしても、結論は法論で出すべきである、というお考えをもっていたと 思います。 ここで「攻撃性」の話題がよく出るのは、乾さんも僕も学会員の「攻撃性」を 目の当たりにしてきた、ということがあると思います。例えば、創価学会に無理 解な人に対して、「目が曇っている」という偏見を持つ学会員は多そうな気がし ます。聖教新聞に連日かき立てられる罵詈雑言の数々は宗教の機関誌とは思えな いほどです。しかしそれらは御書などに照らして、「正しい信仰のあり方ではな い」という立場をとることは充分に可能ですし、事実そうしたやり方を採ってい る日蓮宗の方々はおられるはずです。
乾さん
>>777 >なんらかの主張をするときに、そうではない主張を拒否することは、
>当然の態度であって、そうでなければ教義、法が立てられる意味もないでしょ
う。
それはそうです。それこそが、僕がずっと主張してきている、真実の唯一性と
いうことですから。つまり、僕の考えとして、「形あるものを絶対とする」もの
は間違いであると思っています。ただし、それを信仰する人間やその気持ちは尊
重すべきであるということです。例えば仏像を破壊したりするなどということは
とんでもないことです。
>いっそう坐禅を組みながら題目と念仏を交互にあげてみよう、などと発想する
でしょうか。
>固有の形は守られなければならないと思います。
>御本尊に向かって題目をあげる、という形はそれを信仰する者にとっては絶対
です。
誤解を与えたようですが、むろん僕にとっても「御本尊に向かって題目をあげ
る」という信仰形態は絶対ですし、おそらく今後も変わることはないでしょう。
しかし、「その先に見ているものは同じかもしれない、いや、きっと同じである
はずだ」、そう考えることもできるだろうと思っています。
また言葉の例えになってしまいますが、日本人として生まれれば日本語でしか
思考できませんし、日本語でしか表現できません。英語圏の人にとっても同様で
す。これが形ということです。しかし同じものを見て、それぞれのやり方で表現
することはできるはずです。無理に日本語と英語を合成して新しい言語をつくる
必要はありません。互いに学びあうことはできると思います。
最近調子にのってる一般人U。 ここまで完ぺきに論理的に叩きのめされるとは。 やっぱひゃっきはすご。 そのうえヤシの精神の貧しさまで露呈(w
788 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :03/01/18 23:21 ID:AXx/7MX2
おそらく当時のフランス社会では武力革命は当たり前のことだったのでしょう。 科学的社会主義といえど、その時代的な制約からは逃れられていない、ということでもあると思います。 あなたは共産主義を主張する人間は資本論の一字一句を正しいと思って活動している、と思っているかもしれませんが、それは違います。 「資本論を読む」(不破哲三著)自体が科学的社会主義に対する再解釈であったように、共産主義は綱領の内容が、その時代に適して変動していくものです。
あれ、こっちは訂正しないのかな? 他スレに貼り付けるつもりだったんでしょう?違う?
791 :
788 :03/01/18 23:42 ID:AXx/7MX2
>789 あい。間違いでした。 ×時代的な制約からは逃れられていない ○時代的な制約のなかで最良の方法を導き出す
792 :
788 :03/01/18 23:48 ID:AXx/7MX2
たびたびのかきこみ失礼します。 別に冷やかすつもりではなく、ひゃっきまるさんの言っていることで、 「その気持ち、よく分かるなぁ〜」という部分を勝手に引用して、勝手に書き換えちゃいました。 お騒がせしました。
>>791-792 ありゃ、書き込むスレはここでいいの?
それ自体が間違いなのかと思ったんだけど、そうだったんだ。
でも、反共思想の強い諸氏が多いここに書くと大変そうな内容だね。
794 :
乾闥婆 :03/01/19 00:11 ID:p7FOBQFd
795 :
乾闥婆 :03/01/19 00:12 ID:p7FOBQFd
>>784 >しかし彼らは最低限のルールは認識しています。それは、「真実に忠実
であれ」ということです。
つまりその忠実であるべき「真実」の解釈において、
私とひゃっきまるさんとのあいだにズレがあるために、
この議論は続いているわけです。
私は「真実」が成立するにはその文脈があり、それは文脈を違えばそれぞれ異なってしまう、
そのような構造を踏まえて「真実」を考えなければ、無益な争いが生じてしまう。
「唯一の真実」という言い方、そのような表現には、
文脈を超越した「真実」があり、その「唯一の真実」においてどのような文脈の「真実」も否定される、
といった強圧的な力が感じられてしまい、
そのために、その言い方に強く反発をしてきたわけです。
796 :
乾闥婆 :03/01/19 00:13 ID:p7FOBQFd
>>784 (続き)
ですから、
>「真実が唯一か、それとも複数なのか」、という議論と、
「唯一性」が生む危険性や影響のことは無関係ということです。
に私は同意できません。
真実は文脈によって相違する。そしてそう考えることによって、
攻撃性の激しい表出は和らぐ。
私は「真実が唯一か、それとも複数なのか」は言葉の使用法に過ぎず、
「複数である」と言うことの有効性を支持しているということです。
どう捉えることが有益なのか。
科学の発展などには真実を唯一とする語法が有効なのは明らかでしょう。
しかし宗教においてはどうなのか、と私は考えているのです。
宗教には多くの超えがたい壁があるでしょう。民族も言語も歴史も違う。
それらを強引に「唯一の真実」に統合しうると夢みることに私は反対です。
それぞれに真実である、そしてそのようなお互いの属する文脈に敬意を払う。
そこからしか意義のある対話は生まれないと思います。
その上で、各共同体が共有できる規範を探っていけばいいのです。
それは「唯一の真実」などではなく、地球規模でのルール作りということでしょう。
構成員の変化によってそのルールも変化していけばいいのです。
ひゃっきまるさんのいう各宗教の共通して見つめるものというのが、
このルールであるのでしたら、私たちはそれほど遠いところにはいないでしょう。
797 :
乾闥婆 :03/01/19 00:14 ID:p7FOBQFd
>>785 >ここで「攻撃性」の話題がよく出るのは、乾さんも僕も学会員の「攻撃性」を
目の当たりにしてきた、ということがあると思います。
そうですね。そしてその根源にあるものが、「唯一性」への志向だと私は考えました。
>>786 内容、ほぼ同意です。
>>779 創価学会の方針には疑問をもっています。会合には出るようにしていますが、
積極的な参加はしていません。就職で引っ越してからはほとんど会合にでていま
せんね。以前に住んでいたところではとても人が良かったので、好きで行ってい
たのですが。
自分からは発言などしませんが、話せる人と判断すれば、一対一で話すことは
あります。
最近は勤行はできていませんが、唱題はしています。
聖教新聞は現在はとっていますが、もうとるのをやめようかと思っています。
去年の財務は払いませんでした。一昨年は数千円だしましたが。
ひゃっきまるさん、レスありがとうございます。今、読みましたm(__)m。 仏教に無知な私にも、わかりやすいお答え、感謝します。 「時代の制約」これは予想していたとおりのお答えでしたが、 また百年たったら、まだまだあれもこれも、「時代の制約」だった、となりませんか? 「時代の制約」は現代人の価値観で計った、都合のよい「解釈」なのではないでしょうか? 「教え」が大事ならば、ひゃっきまるさんが法華経を「リライト」して教本とし、 法華経は捨てればよいのです。「法華経筆者<ひゃっきまるさん」と思いますから。 いずれにせよ、 ひゃっきまるさんが、法華経に「赤ペン」を入れているようで、痛快でした§^。^§。
800 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :03/01/19 00:54 ID:z6br7n48
>>798 お返事ありがとうございます。
積極的でなくても、会合に少しは出ているのでしたら、
部長や地区や支部の壮年部などから、折伏や啓蒙をするようにとの
圧迫があると思うのですが、それをどのようにかわしていますか?
よろしければ教えてください。
>>799 一般人さん
拙文お読みいただきありがとうございます。また誠意あるお返事ありがとうご
ざいます。ところで、Uの文字はおそらく機種依存文字で、僕のMacの画面上では
(監)と見えています。
>「時代の制約」は現代人の価値観で計った、都合のよい「解釈」なのではない
>でしょうか?
そう思うのも当然だと思います。釈尊は、犀の角のように(他を拠り所とする
ことなく)一人で歩め、と言っています。また、自らを灯明とし、法を灯明とせ
よ、とも言っています。また、法を乗り物にたとえ、目的を達したならば法にこ
だわることなく乗り捨てよ、とも言っています。
結局は何が正しいのか判断するのは自分自身であるし、またそれが仏教という
ものです。信仰者は、法華経や法華経信仰の中に自身が正しいと思うものを見い
だした、ということです。
法華経の中心思想は仏教の中でもユニークであり、また非常に優れたものだと
思っています。それは二千年経過した今でも充分に通じるものがありますし、む
しろ現代においてこそ革新的な意味合いさえあるように思います。
しかし、一般人さんがおっしゃる通り、それも時代が異なればまた違う捉え方
をされ、法華経そのものが力を失うということがあるかもしれません(中心思想
そのものが成り立たなければ、当然そうなります)。けれどもそれでよいので
す。その時代の人はその時代でまた新たなものを見いだすことでしょう。
>「教え」が大事ならば、ひゃっきまるさんが法華経を「リライト」して教本と >し、法華経は捨てればよいのです。「法華経筆者<ひゃっきまるさん」と思いま >すから。 僕は上記の通り法華経の価値を認めていますから、捨てる必要はありません。 だからといって、法華経を原理主義的に信じるわけでもありません。法華経を二 十八品の法華経と見るか、そうでないかで大分違うように思います。「教え」が 大事、とおっしゃいましたが、その「正しい教え」の名をもっともふさわしい呼 称をもって、法華経と名付けたということです。 僕は信仰とは、「最も尊いもの」に帰依することであると思っています。それ を美しく表現したものが法華経であると思っています。 ところで僕はまだ一般人さんが何を目的としてこの話をされているのかよく わかっていません。そのために話さなくともよいことまで話して、冗長になって いるかもしれません。一般人さんは、日蓮宗諸派に何か問題があると感じ、その 原因が法華経にあると思っているのでしょうか。
>>800 折伏、啓蒙への要請はおそらく地方によってかなり温度差があると思います
が、どこでも共通なのは相手の態度によって変わるということです。あなたがも
し強く要請されているようでしたら、相手にとってあなたは見込み有り、と見ら
れているということです。例えば、会合にめったに出ずに、出たらそれだけで
「偉いね」などと言われる人に対して、折伏しなさい、とは言わないでしょう。
基本的には自分自身がどうどうとしていることが大事です。自分の心の中に後
ろめたさや申し訳なさなどがあれば、必ずそれは相手に「隙」として映ります。
僕が前にいたところでは座談会やグループ会で、必ず「成果報告」のようなもの
がありました。皆が折伏のことを話す中で、僕は自分の仕事のことや生活の中で
頑張ったことなどを話していましたが、それを咎められたことは一度もありませ
ん。自分はこういう主義で行く、ということを相手に見せていれば、無理にそれ
を曲げようとは思わないと思います。いわゆる、「ああいう人だから」ですまさ
れるということです。
創価学会は非活動者に対してとても寛容な組織です。たとえば、「寝ている」
という表現も非情に優しいものだと思います。積極的に活動していなくても、た
とえ形だけ在籍するだけであっても、学会とつながってさえいればいつかはその
人は発心する、という考え方があるのです。
僕は議論が好きですから、相手によってはなぜ折伏や啓蒙をしないのか話すこ
ともありますし、創価学会への疑念も素直に話すこともあります。それが苦手で
あれば、「忙しいから」といった体のよい断り文句をつくっておいて、議論や話
し合いを避けることです。信仰的な信念をもっている人間に対して議論で勝つこ
とは非常に難しいですから。
ずいぶん余計なことまで書いてしまったようですが、以上です。長くなってし
まってすみません。
804 :
乾闥婆 :03/01/19 08:25 ID:yWqw9H0d
>>799 一般人さん、補足します。
>「時代の制約」は現代人の価値観で計った、都合のよい「解釈」なのではないでしょうか?
具象的な表現は時代時代の表象機能に拘束されるのですから、
二千年近い過去の表象を現代にそのまま受け入れることの方に無理があるのではないでしょうか。
>「教え」が大事ならば、ひゃっきまるさんが法華経を「リライト」して教本とし、
法華経は捨てればよいのです。「法華経筆者<ひゃっきまるさん」と思いますから。
それを行ったのが日蓮であったわけです。
「南無妙法蓮華経」は究極のリライトと言えるでしょう。
805 :
乾闥婆 :03/01/19 08:26 ID:yWqw9H0d
>>779 >>798 >>800 そうですか。
ひゃっきまるさんは公布部員であることと聖教新聞を取ることをやめていまいますか。
その二点はおそらく組織的に会員の位置をはかるぎりぎりの指標になっていると思いますので、
組織からはこれまで以上に遠い存在としてみられることになると思います。
私はその二点はやめないつもりです。
折伏や新聞啓蒙、選挙活動に関してはひゃっきまるさんの言うとおり、
自身の信念に基づいて堂々と対処すれば、
それほどおかしなことにはならないと思います。
私もほぼひゃっきまるさんと同じような態度で会合などには臨んでいます。
806 :
乾闥婆 :03/01/19 08:36 ID:Uv19uYkk
×ひゃっきまるさんは公布部員であることと聖教新聞を取ることをやめていまいますか。 ○ひゃっきまるさんは広布部員であることと聖教新聞を取ることをやめてしまいますか。 では、きょうも仕事に行ってきます。
>ひゃっきまるさん >一般人さんは、日蓮宗諸派に何か問題があると感じ、その 原因が法華経にあると思っているのでしょうか< そうです。 私の友人が、実に不愉快な形で強硬な折伏にあってしまいました。 こういうことがあることを、よくご存知のことと思います。 ↓ 私は友人が「被害にあった」と受け止めました。 ↓ ここにも抗議に来ました。 ↓ 折伏は日蓮が始めたと知りました。ただ非難するだけでは、嫌ですので、勉強を始めました。 ↓ 法華経を読みました。御書も買いました。今、読んでいます。 ↓ 法華経に描かれたシャカの差別発言に失望しました。 法華経信者がいることすら信じがたく思われました。 ↓ 昔の、シャカだの日蓮だの法華経筆者が「時代の制約」で言ってしまったことを根拠に、 「何のための会合なのか明らかにせずに誘っておいて、病気になる、不幸になると言って折伏する」 これは詐欺であり、ほかのカルトも行っている卑怯な勧誘行為である。 ↓ 「大躍進」というまったく誇大妄想的な、学会員の思い込み、思い上がりを指摘し、 少しでも現実に立ち返っていただきたい。詐欺的な勧誘行為をやめていただきたい。 拙文で、わかっていただけるかどうかわかりませんが、そういうことです。 では、おやすみなさい。 補足。私を中傷しても世界人口の0.15%にすぎないマイナーな宗教であるという現実は微動だにしませんよ。 >理性を失った一部の学会員へ(ひゃっきまるさん除く)
>乾闥婆さん >具象的な表現は時代時代の表象機能に拘束されるのですから、 二千年近い過去の表象を現代にそのまま受け入れることの方に無理があるのではないでしょうか。< 同意です。 >「南無妙法蓮華経」は究極のリライトと言えるでしょう。< そこです。どう言えばいいのか言葉がみつからないので、明日にさせていただきますが、 学会がカルトだと言われるのは、そこから始まっているのではないかと感じます。 どうして「法華経」から逃れられませんか? 来ている服のほころびは、その服を着たままではわからないものです。 一度脱いで、よく見る。よく見てもらう。そういうことも、時には必要です。 それが出来ないのはなぜか?考えてください。 世界の99%の人は、法華経信者ではありませんから、法華経に対してそれが出来ます。 世界の99%の人に出来ることを、あなた達は出来ないのですか?と言いたいのです。
修正。 「来ている服」→「着ている服」 修正版再録↓ どうして「法華経」から逃れられませんか? 着ている服のほころびは、その服を着たままではわからないものです。 一度脱いで、よく見る。よく見てもらう。そういうことも、時には必要です。 それが出来ないのはなぜか?考えてください。 世界の99%の人は、法華経信者ではありませんから、法華経に対してそれが出来ます。 世界の99%の人に出来ることを、あなた達は出来ないのですか?と言いたいのです。
810 :
乾闥婆 :03/01/20 08:54 ID:G1/cG6ar
>>808 >学会がカルトだと言われるのは、そこから始まっているのではないかと感じます。
なるほど。「南無妙法蓮華経」がカルトとしての傾向を生んでいるというのですね?
時間のあるときでいいですので、もう少し具体的に聞かせて下さい。
>どうして「法華経」から逃れられませんか?
どうして逃れる必要があるのでしょうか。
法華経から仏性への信仰を持つことを、なぜ捨てなければならないのでしょうか。
宗教は具体的な形態を必要とします。
それが私たちの場合、法華経のエッセンスとしての「南無妙法蓮華経」です。
>着ている服のほころびは、その服を着たままではわからないものです。
そのほころびは法華経の中心思想でないことはひゃっきまるさんも指摘していますね。
>それが出来ないのはなぜか?考えてください。
まず、なぜそれをしなければならないのか、一緒に考えてみましょう。
>世界の99%の人は、法華経信者ではありませんから、法華経に対してそれが出来ます。
世界の99%の人に出来ることを、あなた達は出来ないのですか?と言いたいのです。
法華経信者ではない人が法華経から逃れたりする必要はそもそもありませんね。
法華経信者との比較対象にはまったくなりません。
>>807 で一般人さんが言われている創価学会に対する不満はよく分かります。
私も詐欺的で強引な勧誘行為や誇大妄想は唾棄すべきものと考えています。
しかしそれと信仰を捨てることとは連動しません。
大日蓮展に行ってきたのですね。私も近々行くつもりです。
811 :
山崎渉 :03/01/20 13:18 ID:???
(^^;
812 :
800 :03/01/20 23:42 ID:???
>>803 ご丁寧にお答えいただきまして、ありがとうございます。
私は議論が苦手なほうなんで、ひゃっきまるさんのおっしゃるととおり
自分の信念でいきたいと思います。しかし、学会の輪の中に入っている身
としては、周りの学会員から「ああいう人だから」と低く見られるのは
キツくありませんか?学会では折伏やった人が誉められ、認められ、折伏
やってない人からは離れていってしまうし、折伏やってないと周りの学会員が
本音で話してくれないような気がします。
また、自分は仕事にがんばってますが、仕事に頑張ってても、折伏や新聞の啓蒙
をやってないと学会の場では「どうした?がんばってないじゃないか」と低く見られる
のが私はとてもいやです。。。
813 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :03/01/20 23:47 ID:/jnpUiM5
いい加減学会批判は辞めれ
814 :
800 :03/01/21 00:02 ID:???
乾闥婆さんて、会合ではどのようなお立場なのでしょうか。たまに会合出る くらいな感じですか?折伏等の要請(何月何日までに〜みたいなやつ)には どのように対応してますか?よろしければ、教えていただきたい。
815 :
800 :03/01/21 00:06 ID:???
あと、なぜ折伏やった人は「勝ち」でやれなかった人は「負け」なんでしょうか。 折伏の他に仕事や自分自身の生活の中での目標を実現できてればその人は「勝ち組」 ではないでしょうか。乾闥婆さん、ひゃっきまるさん、この点についてはどう考えて ますか?
816 :
幽霊学会員 ◆1xHBxpDZiY :03/01/21 00:07 ID:3rCuMCL9
>>812 横レス、スマソ。
他人からの評価が欲しいのなら、
学会以外の場に求めればいいのでは?
学会員に褒められなくても、
会社で褒めてもらえば良いことでしょ?
だいたい同じ信仰の徒なのに、
自分と違う頑張り方をしているだけで、
人を見下すのって、オカシイと思いませんか?
そもそも信仰していて「悩みが増えるだけ」の宗教なんて、
続ける必要があるのでしょうか?
僕は辞めました。
817 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :03/01/21 00:09 ID:0mVD9lRB
東京女子医大の脳外科クラークの畑清美は創価キチガイだ! 宗教ってもんを自分の恋愛探しの場に使ってる。 ヤツこそ破門すべきだ!
>>810 >なるほど。「南無妙法蓮華経」がカルトとしての傾向を生んでいるというのですね?
時間のあるときでいいですので、もう少し具体的に聞かせて下さい。<
結局言葉がみつからないので、たとえ話でいきます。
@キリスト教で、
「聖書最高」「聖書最高」「聖書最高」と毎日三度唱えると救われる、
という教義を持った一派があるとしましょう。
どうですか?なんとも可笑しな教義だと思えませんか?
しかし、これを笑うのは簡単ですが、聖書は長いし、三唱で聖書とのつながりが得られるのなら
あるいは意味ある行為かもしれない、とも思えます・・、とする。
>>818 の続き
Aこの一派からラエル師(仮名^^;)を中心とする一派が分化して、こう主張するとします。
「聖書には時代的制約の差別発言がたくさんある。細かいことはどうでもいいことで、
聖書最高、と唱えること自体に意味があるのだ。イエスの救済は志なかばで終わった。
本当の教えは、聖、書、最、高、この4文字に凝縮されているのだ。」
「聖書最高、と唱えてみないと実際の救済はわからない。
われわれの一派に、どうして入りもしないで批判するのか?
聖書の教えは、ラエル師(仮称^^;)の聖書最高、という言葉への道だったのだ」
「ついては広布の為に、一人最低一口1万円」
「だましてもいいから、講演会に誰かつれてきなさい、それがその人のためです。
さもないと地獄におちるよ。ガンにかかるかもしれない・・」
>>807 一般人さん
お答えいただきありがとうございます。経緯はよくわかりました。また、法華
経と御書をお読みになったとのこと。筋を通して抗議をするとの意気込みに敬服
いたします。
僕は昔の書物に関しては「いいとこどり」でよいと思っています。現在の知識
から見れば昔の偉人哲人の発言は間違いだらけですが、それは当たり前のことだ
し、それを責めるのは大人げないことです。
それが語られた当時の状況や、その著者の本意はなんだったのか? というこ
とを考えねばなりません。
率直にもうしあげれば、一般人さんの怒りの矛先を法華経に向けるのはおかし
いと思います。その人間の「詐欺的行為」や「精神の卑しさ」を責めるべきでは
ないでしょうか。
日本に仏教が入ったのは聖徳太子のころだと思いますが、法華経ははじめから
仏教の最重要の経典の一つとして入ってきたし、その後もずっと重要視されてき
ました。法華経に攻撃的性格が付け加わったのは、鎌倉時代の日蓮大聖人以降で
す。
・・
>>818 >>819 と下手なたとえ話をしてしまいましたが、
なにを言いたいのか、ご賢察いただければ、幸いです^^;^^;^^;。
他の宗教にはなく、法華経「だけ」で説いている「絶対の真理」とはなんでしょうか?
かってに「南無妙法蓮華経」に凝縮せず、
平易な言葉で、説明していただきたいものです。
いま、法華経の第十六を音読していて、不愉快になりました。
真理のためにはウソをついてもいい???・・・時代の制約ですね。
あるいは統一教会的、というべきか。
法華経の安楽行品をお読みになってください。どのような形であれ、他人を非 難することを法華経は禁じているのです。それをあえて解釈を変えねばならな かった鎌倉時代の状況というのもあったのかもしれません。 ところで、僕が法華経をすばらしいと思う理由の一つを話します。それは、常 不軽菩薩品です。宮沢賢治も熱心な日蓮宗の信者として知られていますが、「雨 ニモマケズ」は常不軽菩薩をモデルにしたと言われています。 >世界人口の0.15%にすぎないマイナーな宗教 確かに仏教自体が世界的に見ればマイナーな宗教です。発祥地のインドでさ え、数百年後には信仰が途絶えてしまったのですから。しかし、僕は仏教は非常 に優れた宗教だと思っていますし、それは数の問題で決まるものではないはずで す。キリスト教が広く信仰されているのには悪い意味の理由もあるでしょうし。
>>812 >>815 理想を言えば、「他人がどう思おうとも我が道を行くでいいんじゃない?」と
言いたいところですが、人と人との関係というのはそう単純なものではありませ
んよね(^^) 正直なところ、そのお気持ちはよくわかります。
僕の場合は周りの人がいい人たちばかりなものですから、折伏だとか信心だと
かだけで人を評価するという傾向はあまりありません。相手の良いところをどん
どん見つけ出していって、その人を成長させてあげるのが幹部の仕事なのですか
ら、折伏折伏とあなたを追い詰めるような幹部はあまり良いとは思えません。僕
のところでは仕事のことでもちゃんと評価してくれますよ。また、それで低く見
られるということもありません(と、僕が思っているだけなのかもしれません
が)。
宗教というのは同じものを信仰しているという「一体感」も重要なわけですか
ら、「学会内アンチ」である僕は、その一体感は味わえないわけです。寂しいで
すが、それは仕方のないことだと思っています。僕は、僕の判断する「正しいこ
と」に忠実になるということを決めているのですから。
仕事で成功すれば職場の人に認められるし、また一般的にも認められるわけで
す。そうなれば学会内でも認めざるを得ないでしょう。それに、「折伏」を布教
活動と思わなくてもよいと僕は思っています。例えば、人に親切にする、という
だけだって「菩薩行」という立派な仏教行為なわけです。
僕はそもそも仏教とはそのような生活の中に自然にあるものだと思っているの
で、無理に折伏しようと思わなくとも良心の呵責はありません。「信心即生活」
というではありませんか。仕事に頑張ること(=人に尽くすこと)だって、立派
な仏道修行なのです。
>>822 下手なたとえ話をしてしまいました。
「大日蓮展」で偉大なる法華経文化に触れました。
よくぞここまで、と言いたくなるくらい、あちこちの寺から
門外不出の資料が集められています。
金文字の法華経が何点かありましたが、圧倒されました。
アンチの私にも、決してバカにしてはいけない昔の方々の「気」が充溢しているのを感じました。
それとこれとは話が別で、法華経はいまや時代の制約から来るほころびが目だち、
信者ですら題目のみへと逃げ込むしかない、過去の遺物になってしまったのではないでしょうか?
あそこを読んで見てください、ここを読んで見てください、とおっしゃられるほど、
なんというか、「我が家は古くて狭いのですが、このハリ見てください、太いでしょう?」
と言われているようです。
でも、もう一度、心を静かにして、常不軽菩薩品を音読して寝ます。
失言の数々、お許しくだされば幸いです。
825 :
波木井坊竜尊@日蓮宗葵講 ◆IByKs72gR2 :03/01/21 01:10 ID:luVc3rpR
まあよく見ているね。 まさしくその通り。 でおれが改革してやるさ。(藁)
ああ書き込みがいりまじってしまいましたね。すみません。回線が細いもので。
良いスレage
>>823 ひゃっきまるさん、ありがとうございます。私も信心は続けていこうと思っているので
自分のペースで日々の生活をご本尊根本に進んでいきたいと思います。しっかりとした
生活をしていれば、そんなに無理に折伏しようとしなくても私に共感を持ってくれる人、
共鳴してくれる人が出てくることでしょうから。
>>821 一般人さん
その例え(
>>818-819 )ではなおさら法華経に非がある理由にはなりませんよ
ね???
法華経の主張は非常に単純だし、難しくもないです。僕は不軽菩薩品に凝縮され
ていると思っていますが。あと、法華経は「教え」というよりは、物語として読
むのがよいと思いますよ。
もしかしたら一般人さんは法華経をところどころつまみぐいしながら部分的に
読んでいるのでしょうか? 「ウソ」についての話が顕著に出てくるのは方便品
ですが・・・。
方便品の主張は、それぞれの人間がそれぞれにあったやり方で成仏することが
できる(三草二木の譬)、というものだと思います。
三乗=方便=それぞれのやり方
一仏乗=真実=成仏
本来は一つのものが様々な形をもって現れる、ということで、単純な嘘とは違
うように思います。ちなみに、仏教は不妄語戒といって、嘘をつくことは禁じら
れています。そのために「方便」が嘘ではない、という理由がながながと述べら
れるわけですが。
830 :
乾闥婆 :03/01/22 01:56 ID:kH0x/aSb
>>814-815 >たまに会合出るくらいな感じですか?
そうですね。誘われて仕事や用事がなければ出るようにしています。
>折伏等の要請(何月何日までに〜みたいなやつ)にはどのように対応してますか?
多人数の会合では沈黙していますね。
家庭訪問や少人数の活動者会でなら、自分として納得していないことはやらないと言います。
折伏の期限に関しては、化他行になぜ期限があるのか分からないので、あまり気にしてません。
>あと、なぜ折伏やった人は「勝ち」でやれなかった人は「負け」なんでしょうか。
そういう信念でその人は動いているからでしょうね。
そういう信念で生きていない人には勝ち負けの基準は違いますから。
>折伏の他に仕事や自分自身の生活の中での目標を実現できてればその人は「勝ち組」
ではないでしょうか。
勝つ人がいれば負ける人もいるのでしょう。
私はむしろ負ける人にこそ親近感を持ちます。
負ける人の気持ちもくめないような人間にはなりたくありませんから。
勝ち負けをこそ超越したいと私などは思っていますけれど。
基本は勤行・唱題であり、それを基にきちんとした生活を行うことでしょう。
そのような一日が送れたのであれば、それを勝ちといってもいいかも知れませんね。
そのような実証を示すことこそ、立派な信仰者の振る舞いではないでしょうか。
「教主釈尊の出世の本懐は人の振舞にて候けるぞ」
831 :
乾闥婆 :03/01/22 01:58 ID:kH0x/aSb
>>818 うーん。随分、たとえが変ですね。
聖書と法華経では経典・聖典としての構造がまったく違うと思います。
旧約などは世界誕生の物語から、民族の歴史書としての機能も果たし、
レビ記や民数記など、生活の細かな規則まで盛り込まれているわけでしょう。
そのときどきに現れる神の物語であるわけです。
新約に入って三つの共観福音書はイエスの伝記であるし、
ヨハネの福音書はロゴスとしてのイエスを描いていますので、法華経に近いものも感じますが、
後半は使徒の信徒たちへの手紙となります。
法華経は、最初からそのような歴史や生活を超えて、まったくの別世界に入ってしまうのです。
これを「二処三会」といいます。霊鷲山会から虚空会、そして再び霊鷲山会。
ほとんど大スペクタクル、SFと見まごうばかりです。
そこで表出されているものは永遠の仏(久遠実成の仏)という理念なのです。
そのような理念を語る経ゆえに、
その理念へ身を投じる意義をこめて「南無妙法蓮華経」と凝縮されているのです。
「南無」は「帰命」です。
私はそれを対象に対する積極的・主体的な自己投企と認識しております。
「最高」ではありません。
「聖書最高」というのを仏教において訳すならば、
『「大正大蔵経」「国訳一切経」「日蓮遺文」最高』とでも言えばいいのでしょうか。
わけが分かりません。
832 :
乾闥婆 :
03/01/22 01:59 ID:kH0x/aSb >>819 >聖書には時代的制約の差別発言がたくさんある。
あくまで差別的用語法にこだわっていらっしゃるようですが、
「具象的な表現は時代時代の表象機能に拘束されるのですから、
二千年近い過去の表象を現代にそのまま受け入れることの方に無理があるのではないでしょうか」
という私の発言には同意されているのですよね。
そのような表象を無謬的に自身の信仰に取り上げる人間がいるのであれば、
そのような人間がおかしいのであって、その人を攻撃すればいいはずです。
依拠する経典の無謬性を主張することこそ、その教団のカルト性を高めることと思います。
カルトを叩こうというあなたが経典の無謬性に固執して論を展開されるようでは、
本末転倒ではないでしょうか。
もちろん仏教の歴史の中で「業」という概念を考えるときに、
ある種の病がその表象ゆえに差別されてきたという事実があるのでしたら、
それは批判されるべきでしょう。
そしてそのよう批判は経典の無謬性を相対化することによって
はじめなければならないのではないでしょうか。
一般人さんのカルト批判の展開は自己矛盾をきたしていると思います。
>私も詐欺的で強引な勧誘行為や誇大妄想は唾棄すべきものと考えています。
しかしそれと信仰を捨てることとは連動しません。
これについてはいかがお考えでしょうか。