山崎正友が人殺し依頼?!

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207政教分離名無しさん
池田大作・研究ノートから 投稿者:法太郎  投稿日: 3月31日(土)20時39分37秒

※右翼と池田大作。

山崎正友・『懺悔の告発』に於て、佐郷屋某に池田大作が命を狙われ、カネで解決したことが述べられている

昭和38年。塚本素山(塚本総業社長※武器商人=朝鮮戦争・ベトナム戦争)塚本素山ビル。
元創価学会顧問、日蓮正宗法華講員、

塚本素山氏の仲介により、塚本素山ビルに於て創価学会藤原行正他、学会幹部と広域暴力団の
手打ち式が行われた。(稲川?住吉?)

右翼の佐郷屋(佐郷屋嘉明)※護国団=昭和29年結成、団長・井上日召=血盟団事件(一人一殺事件で逮捕)
副団長・佐郷屋嘉明、小沼正、三上卓、松木良勝、児島玄之、辻信雄、

佐郷屋嘉明=血盟団事件で、昭和5年11月東京駅で浜口雄幸首相を狙撃して死刑を宣告された人物。
浜口首相はこのときの怪我が原因で後に死亡。佐郷屋は恩赦・減刑がなって仮出獄。
松木良勝=佐郷屋と組んで浜口首相暗殺に関与した人物。
小沼正=血盟団事件で元蔵相の井上準之助を射殺した犯人。
三上卓=5・15事件に連座した元海軍中尉。
児島玄之=戦時中に東条英機・暗殺を画策して逮捕。
石井一昌=『狂犬・斬人斬馬』と云われた護国団青年隊隊長。現在『全国有志大連合(全有連)』

この佐郷屋が『池田大作と差し違える』と云って池田大作を狙い続けたが、竹入義勝がサシで説得し思いとどまらせたという。※右翼は金でしか解決しないものだ。いくらの創価マネーが動いたのか不明。

その他、池田大作の生命を狙っていた暴力団が若干あり、塚本素山氏が動いて暴力団と金でハナシをつけたことが何度かあったらしい。

佐郷屋嘉明氏は右翼の中でも『暗殺集団』として名高く『石井一昌氏』は右翼の中でも大物であり、現在一線を引いて『全国有志連盟』を主宰、右翼関係者のみならず憂国の志のあるものを統合してひとつの流れを築いている指導者である。?
208政教分離名無しさん:02/06/07 03:00
創価王・池田大作の研究(1)  投稿者:法太郎  投稿日: 3月30日(金)20時55分35秒


強姦魔として世界に報道された創賊の池田大作ならぬ、池田強姦作(ゴカサク)
だが、今回もノーベル賞にノミネートすらされなかったのは蓋し、当然である。

金大中大統領がノーベル平和賞を貰ったのはまことに目出度いものである。
このように、実践として平和に寄与したものだけが、顕彰されるのがノーベル平和賞
である。

池田大作のように口先だけ、カネを積み上げての対談程度の小細工で貰えるほどやわな賞
ではない。(苦笑)、

ボクは定期的に大使館にメールを入れ、池田大作が如何に『反平和的』かを伝達している。(笑)、

創賊が反社会的事件を起こすたびに、スエーデン大使館に池田大作の正体メールでを告知
せしめているのだ。(笑)、

209政教分離名無しさん:02/06/07 03:00
【法賊・池田大作の出生】

法賊・池田大作がノリやの小せがれであることは、誰でも知っている。
慧妙編集部でもニュアンスだけでぼかしているが、彼の出生には謎めいているようなのだ。

池田は、生父子之吉が、妾と同居していた家庭で生まれたことは良く知られた事実である。

池田大作はじつは、生母の一から生まれたのではなく、この妾の子ではないかとも疑われ
ているのは事実である。

だが、ここにまた、新たな疑惑が生じてきている。

日本平和神軍のBBSに、ナント!池田大作が朝鮮人だと指摘した書き込みがあったのだ。
日本で活躍した人のなかには案外朝鮮人が多いのはよく知られたことである。

力道山は韓国の国境で上半身裸になり、『にいさん!にいさん!』と北朝鮮に向かって叫
んだことは有名な話であり、無くなったひばりさんもそうだったというハナシを聞いてい
る。

新御三家と呼ばれた人気歌手のなかにも(現役なので実名は勘弁してほしい)朝鮮人とい
われている人もいる。

だが、かの池田大作が朝鮮人だというのは初めて聞いた話であるが、右翼内部では噂され
ていたのだろうか。

生父の子之吉は紛れもなく日本人であると考えられるし妻の一はどうなのだろう。それと
も、ねのきちの妾が朝鮮人だったのだろうか。

これは、今後の研究・調査の成果を待ちたいものである。

名誉欲の権化となり果てた池田大作は一般の学会員を『末端』と呼ばせていることに何の
抵抗もないようである。

自身を『創価王』(強姦王=ゴウカオウでも可)と鼓舞し一般学会員が『末端』では人権
もクソもあったものではない。

昭和五十一年の低価大学の図書館落成式(漫画が多いらしい)のさいの文化祭で来賓にむ
かい、

『こんなものは、昨日も埼玉で見て、見飽きました。この連中は歌をうたわせておけばい
いんです』と云った言葉は周囲にいた来賓を唖然とさせたものである。
210政教分離名無しさん:02/06/07 03:01
創価王・池田大作の出生にまつわる謎を整理してみよう。

@池田大作は父・子之吉(ねのきち)の妾の子であった可能性。

A子之吉の妾は朝鮮人だった可能性。

以上であるが、池田大作の兄弟で一人だけ創賊の関連企業にいるらしい。恐らく、これら
の風聞は決して火のないところの煙ではなかろう。


【池田大作の少年期】

これに就いては書くことが無い。将来に於て我が国を代表する宗教の強姦魔として世界に
報道されるべきことを予測する何物も無いのである。

幼少期の大作は成績は中くらいで絵が下手だったことが知られているのみである。

大作の文字は『太作』であったが、これがタゴサクと云われてからかわれていたらしいが、
これはこれで愛嬌であろう。後にはタゴカサクというのは筆者の冗談である。(笑)、

少年航空兵が希望だったらしいが、貧乏一家のなかでは無理というもの。親のすすめで工
員になったが、17歳のときに結核だったらしいが、衰弱もなく、仕事もほとんど休んで
いない。

池田太作青年の大病といえば、『肛門性粘膜ビラン』すなわち『痔瘻』であった。

池田強姦作(ゴカサク)は終戦直後に知人にこう語っている。

『みていろな、おれは儲けるさ、人を動かして。利用できるものはみんな使いきってやる。
そのうち、おれがみんな神妙にさせてやるさ。世の中を自由に動かすんだ。くるなら、
ドンッとこいってなもんさ』と。

貧乏で何もなく、終戦で自由な雰囲気が漂っていた新しい時代を感じ取っていたものだろ
うか。これと同意のことは、竜年光先生も実際に聞いていて、この野郎は頭がおかしいと、
思ったことを述べられている。

池田大作の実父である子之吉のことを、もう少し委しく見てみたい。
211政教分離名無しさん:02/06/07 03:01
【強姦の血脈−池田家】

法賊・池田大作の実家である『池田家』は、海苔製造の本家ではなく、池田の本家はすぐ
近くにあったもので、祖父の代に大森海岸で海苔の生産を始め、一時は羽振りが良かった
といわれている。

池田大作の実父の子之吉は分家であり、本家の手伝い程度であったものだ。この時代は未
だ封建制の強い時代であり、跡継ぎ以外の兄弟は、本家の家業を手伝う『小作』ていどの
ものであった。

池田子之吉が独立もせずに本家の下請けに甘んじていたのは池田本家の意向にあったもの
であろうか、それとも子之吉の性格が優柔不断ででもあったものなのだろうか。

池田大作の実母の一(いち)が出産するときに近所の女性が手伝いにいくことになった。
その女性(池田大作の実父子之吉の妾)の姪のハナシによれば、

「それで、先生(強姦の先生=池田大作)のお母様が出産するとき、私の母の妹が手伝い
にいくことになりました。一日だけじゃなくて何日もね。

『そして、襲われたのお父様に。(池田大作の実父の子之吉)』叔母は(子之吉)の子供
を産みました。」

その後にこの襲われて犯された(強姦)女性は池田大作の実家で同居することになったの
である。

池田大作は、親子で強姦の血脈を創ったものである。

※この女性が朝鮮の女性であるかどうかは不明である。

法賊・池田大作が若かりしころ『協友会』という読書サークルに参加しており、東大出身
のリーダーを中心に政治・経済等の意見を発表しあい知識の吸収にいそしんだ、というこ

とが三文小説の『人間欠命』の第二巻に載っているが、人間欠命のなかで唯一異常な表現
になっている。三文小説の人間欠命は人名以外は全て実名を使用しているのだが、

この協友会のみはガセネタであり、事実は『郷友会』という右翼の集団であり、リーダー
は『須山秀吉』という愛宕山事件の唯一の生き残りであり、笹川良一氏・藤吉男氏等の、

右翼の大物に近い存在であった。

この右翼の須山秀吉こそ、池田大作の精神形成における、初期の師匠だったのである。

212政教分離名無しさん:02/06/07 03:02
【愛宕山事件】

日本がポツダム宣言を受諾した1945年8月14日。更に天皇の玉音放送がなされた
8月15日。日本の長い一日であった徹底抗戦派の陸軍の策謀は、阿南陸相の自決によ

って回避された。阿南陸相は『一死大罪を謝ス』との遺言を残し割腹を遂げた。まこと
に武人としての栄誉であり、大和魂の模範たる偉人である。

降伏に抵抗する一部の右翼と軍人は東京の港区の愛宕山にたてこもり徹底抗戦を叫んだ。
指導者は右翼の尊壌同士会の『摺建富士夫』であり拳銃や日本刀・手榴弾で武装してクー

デターの発生を期待したが警官隊に包囲され、児玉誉士夫氏の説得も失敗に終わり、警
官隊の一斉攻撃のまえに、全員輪になって手榴弾を爆破し爆死した。11人のうち生き

残ったのが須山秀吉ただ一人であった。後に郷友会を設立し右翼思想を宣布することに
なるが、その弟子のなかに池田大作がいたのである。

この郷友会の世話人だった茨田鏡次氏はいう。

『池田は吉田絃二郎を好きだった。きれいな?心の持ち主でした。彼(池田)は須山さん
の話を聞いて政治に関心を抱いたのではないでしょうか。私たちは銀座七丁目の

松村眼鏡店の二階の笹川良一氏(国粋同盟)の事務所へいったことがあります。そのとき
池田はいっしょじゃなかった。でも彼は別の機会にいっているとおもう』

次ぎに池田大作と同じ頃郷友会で活動していた某氏は、

『池田大作は確かに銀座の国粋同盟の事務所に出入りいていました。彼は右翼によって政
治の洗礼を受けたのです。選挙では豚箱に入る覚悟でなりふり構わず猛然とやらなくては
勝てない。と須山さんはいっていました。勝つか負けるかだ』と。

池田大作は紛れもなく右翼活動を通して大衆の扇動技術とその技法を学び取っていたので
ある。

更に、池田大作が須山秀吉に受けた講義の教科書はヒトラーの『マインカンプ=我が闘争』
であったことも事実である。

池田大作の思想的・行動的基礎を伝授した須山秀吉が傾倒していたのがヒトラーであったこ
とは、当時の郷友会の諸氏の一致した証言である。
 

世の中がきな臭くなってくると静かに売れる本がある。アイザック・ウオルトンの『釣り魚
大全』である。
213政教分離名無しさん:02/06/07 03:02
ある日、釣り竿を片手に釣りに出かけた若者が、釣り竿を置いて銃を取って戦地に赴く。そ
の反対に、世の中が浮かれ出してきたときにそれを苦々しく思う連中に読まれる本がある。
ヒトラーの『我が闘争(マインカンプ)』である。

貧しさのなかから口先三寸で権力の座についたヒトラーは、自分を見下した連中に異常なる
敵愾心と報復心を持つ者をかきたたせるものがある。

笹川良一氏の主宰していた国粋同盟の青年隊長であった須山秀吉は、弟子であった池田大作
にヒトラーの何を教えたのだろう。

池田大作の師匠であった須山秀吉は、笹川良一氏に頼ることなく町工場のプレーナー工とな
り、結核のために東京白十字病院で亡くなった。

須山秀吉もまた、マインカンプにより己力での覇権を夢見ていたのではないだろうか。

池田大作が、若い頃胸が悪かったと云っているが師匠であった須山秀吉と自分が重なってみ
えているのだろう。

法賊・池田大作の得意な言葉に『無冠の友』というのがある。

大作自身はグラスゴー大学、北京大学、フィリピン大学等の名誉学位等の貰い放題である
ことは『羞恥の事実』である。(笑)、

法賊・池田大作の得意の『無冠の友』とは末端と呼ばれる一般学会員に対して要求してい
ることなのだ。

法賊・池田大作はいう。「私は、国連の支援や、それぞれの国に尽くしていることに対し
て、数々の賞を受けております」と。

大作の受賞とは、それぞれの国に金を撒いて貰ったものであり、大作自身の知性や業績に
対してのものではないことは大作自身が吐露しているものなのだ。
214政教分離名無しさん:02/06/07 03:02
挑戦ネタとレイプネタをいつもあげてたのは法太郎だったんだね。
てっきり福永だとおもってたよ。
215政教分離名無しさん:02/06/07 03:03
池田大作は右翼思想の郷友会に就いては『人間欠命』にて読書サークルとウソを書いてい
る。その後の池田大作は郷友会の須山秀吉を通じて笹川良一氏と知り合い、笹川氏の国粋
同盟の事務所に出入りしていた。

須山秀吉は郷友会のリーダーというだけでなく、笹川良一氏の国粋同盟・青年隊長だった。

だが、須山亡き後も池田大作と笹川良一氏の交際はつづき、後に池田大作が『月刊・ペン』
事件のとき、池田大作自身のたっての要請で笹川良一氏が揉み消しに動いていたことは周知
の事実である。

意外に知られていないのが、笹川氏と並ぶ右翼の大物だった児玉誉志夫氏との関係である。

創価学会には、現在は無いが、かっては『創価学会顧問』という名誉職があり、戸田大宣院
の子息の喬一氏とともに、法華講連合会の初代会長だった平沢氏と同じく法華講の塚本素山
氏が就任していた。

この法華講の塚本素山氏とは、戦後日本の怪商といわれ政財界における裏世界の主役のひと
りでもあった。この塚本氏と昵懇だったのが右翼の大物、児玉誉志夫氏である。

池田大作は塚本素山氏を通じて児玉誉志夫氏と知り合いその後に直接のつき合いが始まった
と云われている。

児玉誉志夫氏がロッキード事件で世間の風当たりが強くなった頃までは北条浩が頻繁に児玉
氏の屋敷に出入りしてしていたことは周知の事実である。

それにしても、法賊・池田大作と信平信子氏との闘争の判決は納得のいかない判決であっ
た。

信平信子氏に対しては、古い事件なので致し方あるまい。

だが、事件を初めて知った夫君の分まで棄却されたことは、我が国の法曹界が如何に旧態
依然とした判例主義の権化であるかの証左であろう。

だが、国法に裁きを委ねたからには、国法の判断に従うのは、国民として当然のことと勘
がうるものである。

だが、ひとつだけハッキリと云える現証がある。日顕上人は法廷で堂々と事実無根を主張
されたが、池田大作は『ヤッテいない!とは、云っていない』のだ。(笑)、
216政教分離名無しさん:02/06/07 03:03
池田大作は、右翼の若きホープであった須山秀吉に直に師事してその大衆扇動のノウハウ
とヒトラーの『マインカンプ=我が闘争』を教材にして口先三寸で貧乏からのし上がる方
途を学んだ。

そして後に我が国の代表的右翼の大物と評価された児玉誉志夫氏・笹川良一氏・塚本素山
氏等と昵懇(じっこん=きわめて親しいこと)になったことは、周知の事実である。

※ここで閲覧者諸君が誤解を持っていたら困るので郷友会に就いての発端と活動について
 述べて おきたい。

郷友会のメンバーは主に『大森第四尋常小学校』の卒業生が主体となって組織されたもの
で、その活動の実体は、メンバーが戦災で焼き残ったなかから本をかき集めて、知識に飢

えていた多くの敗戦国民たちを対象に『貸本屋』を始め、同時に価値観の喪失にともなう
新時代について語り合う蒼き文化人の集まりを疑倣したものであり、その方途は須山秀吉
の病没によって霧散したものである。

だが、熱い血潮に燃えた新時代に対処すべき『ある男』は、不完全燃焼のままに新時代を
迎え、愚かなこの、池田大作という男は、時代の寵児ともなれずに欲求不満の人生を送る
ことになる。

池田大作という模倣しか取り柄のない独創性のない無能者は、こうして時代に流されて翻
弄されていることは常識である。

世界中の知識人に対面料を払って、わけのワカランことを語っていることが何の功績なの
だ?『無冠の帝王』を気取るのであれば今までカネで買った全てのブリキのメダルは失礼
のないように、返却すべきであろう。(苦笑)、

そして、模倣しか取り柄のない池田大作は、師事した須山秀吉亡き後に、その縁故であっ
た笹川良一氏に接近してその穴埋めを求め、児玉誉志夫氏から様々な指南を受けながら
創価学会の経営に勤(いそ)しむことになるのである。
217政教分離名無しさん:02/06/07 03:04
法賊・池田大作は戸田大宣院の指導を振り返って云った、『低俗な書などを読んでいると、
先生(戸田会長)は烈火の如く叱られた』と。(笑)、

@ここで注意すべきは、法賊・池田大作は低俗な書を愛読していたという事実。

A戸田会長の発行していた『月刊ルビー』の特集では「新婚伊豆廻り絵巻・花恥ずかし新
 婚の夢」「大特集、未亡人と性」などの特集を組み、下ネタで読者の関心を引いていた
 のである。

B故に、法賊・池田大作の云った『低俗な書などを読んでいると、先生(戸田会長)は烈
 火の如く叱られた』などというのは池田大作の作りバナシである。(笑)、

法賊・池田大作は、一般創賊にもっと自分の本を購読させんがためにこのような、でっち
あげの扇動を行っていたのである。(苦笑)、
****************************************

池田大作の人生の師とは、須山秀吉ではなかったろうか。大作が傾倒したのみならず、こ
の時期に『郷友会』に参加していた多くの青年達は、須山秀吉を心より尊敬していたこと
は、当時を知る幾人かの証言にあきらかである。
218政教分離名無しさん:02/06/07 03:05
【森ヶ先海岸】

池田大作は、多くの書籍を聖教新聞社の特別書籍のメンバーに代作させて金を稼いでいる。
これは、その先駆者であった原島崇氏の証言にあきらかなものだ。

だが、池田大作は作詞だけは自分でやっているということらしい。創賊歌の中の山本伸一
作詞というのは紛れもなく池田大作自身の作であることは、単純な歌詞、少ない語彙によ
っても首肯しうるものである。

池田大作が己の過去を語った数少ない歌の中に『森ヶ岬海岸』という歌がある。これは、
デュークエイセスも持ち歌にしているスタンダードなものとされている。

この歌は郷友会の活動の舞台であった森ヶ先海岸と無縁ではない。郷友会の同士たちは、

森ヶ岬海岸にあそび、語り、学びあったのである。

この歌は貧しい作者と友人が宗教を語り、キリスト教の信仰に進む友に惜別の心情を香り
たかくうたったものである。

森ヶ岬海岸一帯を活動の舞台としていた時代から遥かにへだたった時期に、この郷友会の
誰かを思いだし池田大作はその敬愛の心情を率直に歌ったのだ。

この友こそ愛宕山事件の生き残りであった、『須山秀吉』その人であったのだろう。
219政教分離名無しさん:02/06/07 03:05
法賊・池田大作が、聖教新聞に『昔の学会員は良くケンカをしたものだ(趣意)』
と、創賊員を日蓮正宗に対してケンカ=脅迫・殺人・殺人未遂・誘拐・放火・尾行、等を

教唆しているのだが、『森ヶ岬海岸』という創賊歌では、キリスト教を信仰するという友
にケンカどころか、歌にしてまで恋慕した友に対する惜別の情を吐露しているのは自語相

違以外の何物でもない。このような支離滅裂な扇動に乗る学会員は、ただの『能無し』と
いってさしつかえないだろう。

『洗脳』、まさに洗脳以外の何物でもない。一個の衆生というのは弱いものである。人間
の本能的な欲望に三つの要素がある、と説いたのは東大の心療内科の医師である。

@性欲、A食欲、B集団欲、である。創賊というのは『精神的互助会』であり、創賊にと
って宗教はそのスパイス以外の何物でもない。

だから創賊にとって偽物の本尊でもなんでも良く、法賊・池田大作が書写した曼陀羅であ
っても、なんら不都合なことは無いのだ。

だが、小心で臆病な池田大作は、日蓮正宗のバラサイトとなることに躍起となっている。
(苦笑)、

法賊・池田大作には、戸田大宣院の呪縛が効いているのだろう。(苦笑)、
220政教分離名無しさん:02/06/07 03:06
池田大作が、我が国の『影の支配者』といわれた笹川良一氏や児玉誉志夫氏と二人三脚の
状態で創価学会を経営してきたのは周知のことである。(塚本氏に就いては前述)

会長の秋谷や野崎が、時折両氏の自宅に出入りしていたのは何のためだろうか。笹川氏、
児玉氏等と親密な連携をとって影の権力者と密接な連携をとったのは、創価学会の事業に

関わる様々な裏社会との調和を保つ意味に於ても重要な課題であり、かつ、笹川・児玉両
氏の大物の右翼の思想を摂取するために、必要欠くべからず課題だったのである。

笹川氏が何故、無尽蔵とも思われている船舶関連の事業を独占し、政府も手出しできなか
ったのか。

不景気になると囁かれる『M資金』の運営者と噂された児玉氏。※M資金=MIYAKE
資金とも云われ、その正体は児玉氏が戦時中に軍部の闇活動を『児玉機関』として請け負

っていたときに得た資金だと云われているが、それに近い話として、戦後に児玉氏が帰国
したときに、莫大な金銀財宝を皇室に献上するために宮内庁に申し入れたが、宮内庁から

断られたといういきさつがあるが、真相は不明である。(以上、余談)
221政教分離名無しさん:02/06/07 03:06
創賊歌の『広布に走れ』はもともと学生部の歌として発表されたものだったが、男子部の歌
が失敗作だと、『池田大失敗作』に断定されて急遽、男子部歌として発表されたのだが、

そののちに青年部総体の歌とされてしまった。

この時の男子部歌は『広布の誉れ』というなかなかの男心を歌ったものであったが、発表直
後に歌われなくなってしまった。

♪片岡に立ち♪雄心の涙♪勝利(かち)の喜び♪分かたん君に♪という、断片的だがなかな
か良く出来た歌だったが、池田大作がこの作詞に因縁をつけ、『誰が創ったの?』と聞かれ

た創賊本部の男子部幹部(当時の溝口男子部長。)が、名前を挙げたら、もう一度池田大作
が、『誰が創ったの?』と云ったので、大作に詫びを入れ、

男子部の歌を作ってくださいと、平伏して学生部の歌を流用したのが『広布に走れ』であっ
た。

『♪今ほとばしる♪大河の中に♪語り尽くさなん♪銀波を浴びて♪』・・これが広布に走れ
の歌である。

池田大作が得意の絶頂期に歌った森ヶ岬海岸と同時期の作詞であり、対比すると不可思議な
表現がある。

『広布に走れ』の銀波は不思議な表現である。この銀波とは通常海の浪に対して表現するも
のであり、大河に摂したのは間違いではないが異質な感がある。

大河とは滔々と流れる創賊の未来に対する希望であり、銀波を浴びて語り合うというのは、
まさに池田大作には森ヶ岬海岸で歌った須山秀吉の面影が涌いていた時期なのである。

既に述べたが、池田大作は創価学会員の文化祭に際し、招待客に『こいつらはバカだから
歌うくらいしか能が無い(趣意)』と云って来客を唖然とさせた。
222政教分離名無しさん:02/06/07 03:07
池田大作が『広布に走れ』で歌った語り尽くすべき相手は学会員ではなく須山秀吉だった
のだ。この時期の得意絶頂期に池田大作は敬愛し尊敬していた須山秀吉に語りかけたのだ。

『須山さん、勝ちましたよ』と。

そして池田大作の錯覚の勝利は、正信覚醒運動によって粉みじんにうち砕かれることになる。

池田大作自身は、若い頃は病弱であり、胸が悪く結核であったと云っている。池田の兄弟
から取材したという池田本には『池田はいつも痰と寝汗に苦しんでいた。

寝間着からは絞ると汗がこぼれるほどにびっしょりに濡れ、』(池田大作論=央忠邦)と
云っているし、他の池田本にもそれに准じて書かれている。

しかし、池田大作は若い頃は結核でも無く、決して病弱でも無かった。当人が未だ会長に
就任する前に『宗教と信仰の心理学』という本の取材にこう、語っている。

『小学校では栄養不足で、三・四回も死にそこない、がんらい、身体が非常に弱かったん
 です。終戦の年には六回目の肋膜をしていましたし、肛門性のもので、耳や鼻などみん
 な悪く、血痰が出ていたんです』

以上である。どこに結核などと云っているか。単なる貧乏人の栄養失調で体が弱かったと
いうだけのハナシである。
223政教分離名無しさん:02/06/07 03:07
当時は敗戦直前から昭和三十年頃まで我が国は非常に貧乏国であり、貧しい家の子が栄養
不足で慢性の鼻炎、中耳炎、その他諸々の貧血症状が慢性的に支配しており、普通な時代
だった。

羽田小学校を通じて池田大作と一緒だった友人の佐藤正夫氏によれば、当時の小学校では
貧しい家の子は学校支給の制服が与えられるのだが、池田はそれを着ていたと証言してい
る。

支給品の制服と自前の制服の違いは『ボタン』であった。

自前の制服には『金ボタン』支給品には『貝のボタン』が付いていたので直ぐに貧乏人と
裕福者の違いが判ったのである。

池田大作が現在、勲章とか名誉学位にこだわる心性の根本は、子供のころ惨めな思いをし
たであろう『金ボタン』にあったのである。

『今に見ていろ!』これこそが池田少年の生涯かわらざる執念となって骨髄に染みていた
のである。

金ボタンに憧れた池田大作は後年狂ったように、勲章という金ボタンを求めるのである。

『今に見ていろ!』これこそが池田少年の生涯かわらざる執念となって骨髄に染みていた
のである。

これは、池田大作の青年期に実際に聞いた、龍年光先生が幾度となく表明していることが
らである。龍年光先生と初めて会った池田大作は、龍先生に『今に世界をあっと言わせる』

と云って、龍年光先生を唖然とさせた。その時龍先生は、『こいつは頭がイカレテイル』
と感じたようであるが、それは当たっていた。(笑)、
224政教分離名無しさん:02/06/07 03:08
池田大作の自伝的本としては『私の履歴書』が一般的だが、その悉くが後世に粉飾された
ものであり、商法ならば違法である。(笑)、

※池田大作は『現代』の1976年3月号に自身の少年時代を振り返ってこう語っている。


『当時の羽田は、浅草あたりの下町よりも、もっと田舎で、もっと土着的で、文化果て
 るところなんです。大井町に住みたいと思ったことがあります。大森でもいいなと思
 いました。
 あそこの一帯から抜け出すのには何か大きな触発なり、チャンスがなければできない
 んです』


池田大作にとって生まれ故郷である羽田というところは芥溜めのようなところだたのだろ
う。このゴミタメのような羽田をどうにかして脱出したかったという心境は理解できる。

だが、内地のような因習に縛られた土地柄ではなかなかそのようなことは簡単なものでは
なかったに違いない。

池田大作にもチャンスは来た。それが『創価学会』との出会いではなかったろうか。