創価・公明板雑談専用スレッド Part9

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304Roach ◆XYc9hl7E
>303
私は、聖教新聞や体験発表などのマインドコントロールによって「病気は必ず治る」と確信していた。
しかし、皮肉にも、現代の医学では治癒しない病気にかかったとき、
学会に「何かが違う」という以前からの考えが、より濃厚になった。

> 学会の信仰は現世利益をさかんに訴えるが、死を平穏に迎えられるように
> してあげられるようにしているのだろうか。?不幸にして死病にとりつかれた
> 人の名誉を守ってあげられる信仰なのであろうか。

母親の最も信頼していた姉が死病に至ったとき、お見舞いに行きたかった母への指導は「地元で頑張りなさい」だった。
「生も歓喜、死も歓喜」というが、「死」を見送ることをさせないのは、明らかな間違いである。
その数年後、祖母−母親の母親−が入院したときに、
普段ならケチな私が、母親の仏壇の前に旅費を置いてきたのは、言うまでもない。

「死病」ではないが「難病」罹患者として、
学会の教義ではない、ある宗教評論家エッセイの方が、
よっぽど「病」というものを受け入れるのに、納得ゆくのは、なぜだろうか?