創価・公明板雑談専用スレッド Part7

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>「文化」や「慣例」だからといって、それが宗教行為にならないワケが無いという話だ。
>そしてソレを「内道」からみた見解を述べている。そして「レノ教」においても「宗教行為」になる。
>で、「はにわ教」ではならないという話だよな?
>「文化」や「慣例」の言葉のもとの「行為」であっても
>「宗教行為」に相当している場合がある、というのがオレの結論。
 文化や慣例でも宗教行為なのですか。なら、なぜ第九を歌うのは宗教行為ではないのですか?

>モノに影響される事はある。(一念三千の理論)
>ただ、それに「何らかの行動を示す」事が「文化」だろうが「慣例」だろうが、
>「宗教行為」である、という話だろう。また、「モノ」が元になっている「行為」の話のハズ。
>(はにわやファンたんが神社やそれに関わる行事を作成したワケではないだろう。)
>ほんで、「日本人のメンタリティ」として「参詣」するなら、
>「メンタリティ」が示しているとおり、「おせち」とは別話。
>「宗教」や「ホウボウ」「祈願」「帰依」は「モノ」では無く「人の行為」だよ。
(・Α・)ハア・・・。だから「人の行為」が「モノ」と不可分だという話をしているのに・・・。
「神社参拝」から「神社」を分けれるはずがないでしょう。
たとえば、層化は「題目」は何に向かって行っていますか?
空ですか?海ですか?大地ですか?学会本部ですか?Σ( ̄□ ̄;)!!が知る限り
「御本尊」という紙に重要とされる字が書いてあるモノに向かって行っているようですが。
題目からはご本尊は分離できますか?

>なるほど、「明確」な立てわけか。
>まず、すべての人に共通はしないんだけど (注1)
>「それは何の為にやるんだ」ってところ。
「自分で意識してなくても余裕で宗教行事」ではありませんでしたか?
その点との差を説明してください。

つづく