とりあえず、本人から許可が出たので3スレぶりにこのネタを引っ張ってみます。
>簡単。少なくとも「姜子」が「おせち」を食する事に「宗教行事」を意味する部分が無い。
「食する事」自体がキョウコ理論では宗教行事を意味している部分です。
>無論「内道」の意見だ。
>というより、オレの意見はすべて「内道」を前提としている。
>そして「仮に内道が正しいとして」と意見している。
>「ゆえに」
>>自分が宗教行事と認識していなくても、余裕で宗教行事であり、帰依になると
>コレは「神道」では無く「仏法」に相当している。「はにわ教」ではどうなの?
>ちなみに「参詣」は「レノ教」でも「宗教行為」だよ。こう書くと誤解するかな。
ならばなぜ第九を歌うのは文化ですか?前スレ
>>92との差というのはそういうことを
聞いているのですが。
>別レスだが、「由来はどうでも良い」って書いたよ。
>多くの人の「御節行為」がコレに相当しているだろうか?
>「姜子」は表現がヘタって事を大抵の「コテハン」に言われたケド、
>上記は「はにわの解読力」の方が心配だが?
・・・。「自分で意識してなくても余裕で宗教行事」とのレスの違いはどのようにご説明される
おつもりでしょう?と何度か書きました。
「由来はどうでもいい」けど一般人が神社へ行くと「余裕で宗教行事」ですか?
神道への帰依を意識してなくても(参拝は)宗教行事だけど、おせちにこめられた宗教的
意味合いは無視可能なのですか?キョウコタンはそこに一度も答えていません。
>多くの人の「御節行為」がコレに相当しているだろうか?
ちなみに↑も何度か書きましたがキョウコ理論では>余裕で宗教行事<です。
つづく