学会に対する批判にお答えしましょう その13

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905乾闥婆
>>863
>また、「事実」はこの場合宗教的真実に関する主張ですから主観的事実です。
宗教における主観的事実の重要性については、
私も、ひゃっきまるさんへのレスの中で触れています。
このスレッド内にありますのでご参照下さい。

>宗教的真実は宗派の数だけ存在するわけだからその思想・教義は相互批判
という状況に置かれざるを得ないと思うしそれを避けるべきでないと思う。

私もそのことを言っています。

>逆に宗派どうしが相互批判をやめて共存をはかるようなら
それは宗教的堕落・欺瞞のように思うけど。

私は相互批判をやめるべきだ、とはいっていません。
お互いが議論をするのであるならば、共有しうる価値基準を探るべきだと言っています。
そうでなければ不毛な憎しみ合いが広がるばかりだと。
そのような倫理観を持たない宗教こそ堕落していると考えるべきです。

私が言っているのは、宗教的「事実」の多くは、
主観的事実にとどまっていることをはっきりと知るべきだ、ということです。

日蓮において、自身の正統性の主張は、主観的事実の範囲を超えて、
絶対的・歴史的事実として、経典すべてがブッダの一代の説法であり、
その最高峰に法華経があり、無量義経において「四十余年未見真実」が
明らかにされる、という点にあると思うのです。

もちろん法華経における二乗作仏・久遠実成の思想的優位を語る部分はあるのですが、
なんといっても決め手は歴史的事実としての法華経最第一なのであり、
それ故に自分は法華経の通り生きているので「正しい」のだ、
身命を期せるのだ、という主張なのではないでしょうか。

折伏、という方法に、私はそのことを強く感じます。
正法を護持し、邪法を破折する。その正邪、とは果たして、あなたの言う
主観的事実に基づいた「正しさ」の主張から出てくるものでしょうか。
それが歴史的事実であると確信しているからこそ、
その激しさは必然的に要請されるのではないでしょうか。

この日蓮において自覚されている「事実」の相を現代において見誤ると、
かみ合うことのない不毛な争いが絶えなくなると思うのです。
その状況を不合理と私は感じています。