1 :
政教分離名無しさん:
平成十年八月二六日 朝日新聞
<竹入元公明党委員長が政界回顧> 深かった自民との関係
公明党の委員長を二十年間務めた竹入義勝氏(72)が、朝日新聞の求めに応じ、現役当時の政治活動を振り返った。これまで、個別の課題について述べたことはあるが、政治活動を全面的に語ったのは始めて。
創価学会を最大の支持母体とする「中道政党」のかじ取りの難しさ、自民、社会両党が対峙する五五年体制下で中道結集を提唱したが、各党の利害がぶつかって進展しなかった実態を明らかにした。(7面に連載「秘話55年体制のはざまで」)
注目されるのは、予想を上回る自民党との深い関わりだ。「特に田中角栄先生とは、助けたり助けられたりの関係」で、日中国国交正常化では。交渉の仲立ちをして中国側の共同声明草案を持ち帰った。
大平正芳元首相とは自民党の四十日抗争の時、真剣に連立の協議をしたこと、中曽根康弘元首相が「ポスト鈴木」で動きだしたとき、田中元首相の協力取り付けに動いたことなどの秘話も語った。
2 :
政教分離名無しさん:02/01/03 10:24
平成10年8月26日 朝日新聞記載
秘話@ 55年体制のはざまで
田中角栄元首相に対して野党の立場から厳しく追及したが、政治的にも、人間的にもすばらしい人だった。政治家としての考え方、政策、実行力が尊敬できた。今の政治家、政策マンで彼に匹敵する人はいない。
お互いに助けてもらったり助けたりして、親密になった。一九七二年、首相就任の直後に、日中国交正常化の橋渡し役を果たす巡り合わせになり、まさに政治家みょうりに尽きる。
元首相と親しくなったのは、国会の質問で貸しを作ったことだった。公明党の参院側が、田中さんの国有地払い下げ問題や女性問題を取り上げるということになった。
六八年六月にジャーナリストが仲立ちし、東京・紀尾井町の料理屋で話をした。
田中さんは「女性問題は、責任をとっているので取り上げるのはやめてほしい」と率直に訴えてきた。最初は、よくしゃべる人だなあという印象だった。駆け出しの私に誠心誠意、話をするなあと感心した。
この会談があって、党の参院幹部に「自民党の中で相当伸びる人だし」ということで女性問題の質問はやめてもらった。
六九年末に表面化した言論出版妨害のときは、佐藤栄作首相と自民党幹事長をしていた田中さんには、助けられ、感謝している。終生忘れない。国会ではばり雑言を浴びせられ、ほかのだれも助けてくれる人はいなかった。
創価学会批判の本が出るというので、私が田中さんに頼んで仲介に動いてもらったのだが、田中さんは追究されると、「竹入に頼まれたのではない。幹事長だから勝手におせっかいをやいているだけだ」と釈明していた。これには感激した。
3 :
政教分離名無しさん:02/01/03 10:26
家の周りは、新聞記者に囲まれて出られない。電話で連絡を取った。「ここも新聞記者でいっぱいで出られないぞ」
「すまんなあ」
「いいよ、幹事長やめりゃあいいんだから」
「それじゃあ、こっちも委員長をやめなくちゃあ」
「いやあ、まあまあ、成り行きだ。こんな泥沼、いつでもあるんだから」
こんなやりとりをしたのを思い出す。
佐藤さんは、関係者の証人喚問要求をのらりくらりと時間かせぎをしてくれた。国会の委員会先送りしてくれるなどいろいろ配慮をしてくれた。
言論出版問題は田中さんらに大きな負い目になった。国会対策でも田中幹事長時代に、よく頼まれ、党の基本政策に抵触しない限り、対応した。日中正常化ができたとき、「これで仮が返せたな」と正木良明政審会長と喜びあったものだ。
日中が終わると、田中さんとは,いっそう「おれ」「おまえ」の間柄なった。田中派の中でも、田中さんに直接ものがいえず、私に「仲介してくれないか」とと頼んでくる幹部がいた。
親友・角栄 助けられたり、助けたり
選挙になると、よく、全国の候補者リストに、ところどころ赤いアンダーラインを付けたのが送られてきた。「よろしく頼む。越山角栄」と書いてある。
応援してくれないかというわけだ。公明党候補のいないところはまだしも、乱暴な要求も飛んできた。
田中さんとの親しさは、実態以上に宣伝されたきらいはある。東京・目白の自宅に行ったのも、それほど多くない。いつも夫人のはなさんがウイスキーとすしを持ってくる。
田中さんは、小皿にしょうゆをたっぷり入れ、すしをつける。崩れたご飯を皿に口を付けながら食べる。ウイスキーを飲みながら食べるのだから体にいいわけはない。
田中さんとはお金のつき合いはなかった。金丸信さん(元自民党副総裁)が幹事長になったときに、ホテルで食事をごちそうになったが、そのとき金の入った紙袋を渡され、思わず紙袋を放り投げたことがある。
「失礼なことをした」と謝られたので、「こちらも大人げなかった」と頭を下げ、食事をした。
4 :
政教分離名無しさん:02/01/03 10:26
田中さんは「金で話をするようなことことがあったら、付き合いは終わりだ」といっていたし、「いつでもきばをむけるようにしておかねば」と、心構えもしていた。
七四年に田中さんは首相を退いたが、退陣表明の前に自宅に電話があった。「辞めざるを得ない。しょうがない。捲土重来を期す」。元気そうな声で、簡潔だった。
カラ元気だなと思った。「そうか,大変だったなあ」。金脈問題で苦況に立っていたので、あえて慰留はしなかった。
田中さんにまつわるカネの話はいろいろ聞いていた。官僚出身の福田赳夫さん(元首相)と違って人脈もない。のし上がるとすれば、カネを集める以外にない。理解はできないが、ある意味では当時の政治の世界の中では仕方がなかったのかな、と思っている。
ロッキード事件で逮捕されるなんて思いもしなかった。真相はいまだによくわからない。自民党の体質から出てきた事件といっていいだろう。
「中道」の躍進 無視できず
竹入氏の政治活動は田中角栄抜きには語れない。一九六八年の最初の出会いは国会での田中攻撃質問を巡ってだ。当時、田中氏の一度目の自民党幹事長をこなし、次のポスト待ちだった。
竹入氏は前年の衆院選で初当選し、委員長になったばかり。その格の違いにもかかわらず、率直な話し方が竹入氏の警戒心を解いた。
六九年に起きた言論出版問題は、評論家の藤原弘達氏が創価学会批判の本を出そうとしたのを、創価学会や公明党が出版社や書店に圧力をかけた問題で、とくに田中氏を介しての圧力が問題とされた。
今回、竹入氏は自らの働きかけを初めて認めたわけだが、国会の追究を乗りきることでも田中氏が協力し、二人の関係は強まったようだ。
言論問題では公明党は佐藤栄作首相にかばってもらったが、自民党は自社対決を軸にした国会運営で中間政党を少しでも取り込んで国会対策を有利に進めようとした。
六九年総選挙で公明党は四十七議席と躍進し、無視できない勢力になってもいた。
竹入氏は七二年の日中国交正常化で橋渡し役を果たし、田中氏との関係は不同のものになったが、七四年に田中氏は金脈問題で失脚した。晩年は、八四年秋の自民党総裁選で二階堂進氏の擁立問題が起き、一時関係が冷却化した。
5 :
政教分離名無しさん:02/01/03 10:26
<竹入義勝氏の経歴>
長野県生まれ、国鉄職員、東京・文京区議、東京都議を経て、一九六七年から衆院議員、旧東京十区で当選八回。
六四年に公明党を結成とともに副書記長となり、六七年、公明党第三代委員長に就任した。二十年間、矢野書記長とコンビを組み、公明党を中道政党として育てあげた。
言論出版問題や支持母体の創価学会と共産党の共存を目指した『創共協定』などで党が大きく揺れたが、路線を巧みに切り替えるなどして危機を乗り切った。
日中国交正常化では、日中国交正常化では、七二年の二度目の訪中の際、国交正常化では、七二年の二度目の訪中の際、国交回復の共同宣言に関する中国側の草案。いわゆる「竹入メモ)を持ち帰り、正常化交渉の橋渡し役を果たした。
陸軍航空特別幹部候補生のとき敗戦、結核を病み、創価学会に入信、六三年に副理事長、公明党委員長退任後、最高顧問を務めていたが、九〇年に政界を引退した。七二歳 (署名は自筆)
6 :
政教分離名無しさん:02/01/03 10:53
名スレの予感
7 :
政教分離名無しさん:02/01/03 10:58
大変でしょうけど頑張って書いて下さい。当方読みそこなったので。
8 :
さとりん@池田太作.org:02/01/03 11:00
意外なことを書くが、竹入回顧録にはさとりん、批判的なんだよ。
創価と立場は違うがね。
どういうことかといえば、自分が手を染めた、あまり人にいえない話を
公開していない。
大量替え玉投票や、昭和45年の言論弾圧事件など、重要な話に口をつぐんでいる。
9 :
政教分離名無しさん:02/01/03 11:11
彼だって言いたい事はたくさんあったと思うよ。
でもこれが限界だったのでは?家族もいるしね。
10 :
創価は互助会:02/01/03 12:04
為にする議論は避けたいという、良識だと判断した。
創価に喧嘩売ったわけではない。
異常反応したのが大作の方だ。
言ってることは批判ではないし、ました、暴露が目的でもないのでは。
待ってました!全文読みたかったんだよ。ありがとう。
>>8 逆に言えば、それらを隠していても攻撃の対象になったわけですよね。
でもまあ、それでも情報を提供してくださったのですから、竹入さんには感謝せねばね。
13 :
政教分離名無しさん:02/01/03 16:25
このスレで「回顧録」がすぺて揃ったら
どこかにまとめましょう。
よろしくお願いしますです。
図書館に行って朝日新聞の縮刷版をコピーすればすむのに。
平成10年8月27日
秘話A 幻の連立 献金禁止、大平動かず
10年猶予の提案をしたが
「どうだ、内閣に入って、いっしょにやらないか」
「条件は変わらない。一つは憲法擁護、もう一つは企業献金をやめるということだ」
「必要悪だ。企業献金をやめるなんて自民党はまとまらない」
「企業献金をやめる約束をすれば、一気に連立に行くぞ。やめるまで十年くらい余裕を持っていい」
「必要悪だ、企業献金をやめることはできないな」
一九七九年十月の総選挙後に自民党の四十日抗争が起きた。
助けを求めてきた大平正芳首相と、東京・築地の料理屋で、公明党と連立を組むかどうか真剣なやりとりが続いた。大平さんは憲法擁護に反対しなかった。企業献金廃止が最大の問題だった。だが、こちらから思い切って出した十年の猶予付きの助け船にも動かなかった。
連立の誘いは、このときが初めてではなかった。大平さんが首相になってから、予算修正問題などで苦況に立った時、何回か打診を受けた。すぐ、企業献金問題のやりとりになった。
「お金で左右される政治ではだめだ。企業献金はひも付きだ。やめないと、自民党は腐っていく。あなたはクリスチャンなんだから、ちゃんとしなくては」と、説得した。もちろん、企業献金廃止を打ち出せば、自民党内で政権維持が難しくなる。
だが、それを言い出せる人はこの人しかないと確信していた。方向性を出してくれるなら、十年の猶予は長すぎるとは思わなかった。この提案にも乗ってこなかったのは、自民党にとって企業献金は生命線と判断したからだろう。
16 :
第2回つづき:02/01/03 16:29
連立するといっても、政策的には安保・自衛隊が大きな課題だった。当時の公明党は、日米安全保障条約は段階的解消を掲げていたし、自衛隊も違憲性が強く、国土防衛隊への改組を主張していたから、時間をかけて、調整していく必要があった。
しかし、ロッキード事件などに表れた自民党の腐敗体質の追究を宣言しさえしてくれたら、手を組んでも良いと考えた。
自民党は主流、非主流の対立が激しく、首相指名へ一本化できず、分裂投票となった。その数日前、朝早く電話があった。
「助けてくれよ。自民党は首相指名で助けることはできないよ。何票足りないんだ」
「今のところ五分五分だ。あと二、三票欲しい」
「それなら新自由クラブがいるではないか、河野洋平代表に話して見よう」
河野さんとは親しくしていただいたので、大平さんへの協力を打診した。二、三日すると、受けるというので、大平さんに電話した。「これで四票増えるな」「ありがとう」「必ず、ポストを回せよ」「渡す、渡す」といったやりとりをした。
このときは、河野さんが入閣するものだとばかり思っていたが、新自由クラブの調整ができずに、結局、文相を大平さんが兼務した。
七九年六月の東京サミット(主要国首脳会議)の時は、終わると電話がかかってきた。「すぐ来てくれ」東京・瀬田の家に行くと「竹入君、やったよ。サッチャーをやっつけたよ」と大変な喜びようだった。
石油の輸入抑制問題でサッチャー英首相はさんざん攻撃され、大平さんが最後に押し返し、会議をまとめあげたというのだ。
「ところで消費税の導入をどう思うか。このままでは財政がだめになる。どうしても必要だ」
「もう首相を辞めるつもりなのか。そんなものは通らないよ。選挙で必ず負ける。国民は支持しない」
「国民も分かってくれるはずだ。国民を信頼する」
十月の総選挙で負ける原因となった。一般消費税導入の構想を熱心に説明した。選挙前まで議論したが、大平さんは持論を変えなかった。
選挙戦に入って、やはり反発が強いと分かって、大平さんは一般消費税構想を引っ込めた。公明党は反対だったが、私個人は、日本経済の将来を考えれば、消費税反対一本やりでは済むまいと感じていた。
17 :
第2回ラスト:02/01/03 16:29
大平さんとは田中内閣の外相になってからのつき合いだ。七二年の訪中前に何度かホテルで会い、政府の考えを聞こうとしたが、「色々なルートで中国の意向を探っている」と言うだけだったが、うそはつかなかった。日中の国交正常化の仲立ちをしたあと、互いに信頼感を深めた。
よく、自宅に呼ばれ、報道陣に分からないように裏口から忍んでいた。大平さんは大蔵省出身のエリートといっても苦労してきた。田中角栄さん(元首相)に通じるところがある。人間的に信頼できると何でも離す。
政治家としては田中さん、人間としては大平さん、というところか。大平さんは権謀術数では田中さんにはとてもかなわないが、書生っぽいところがあって、国のためにはやらねばなららいことはやると言う信念を感じさせた。だから、大平さんと気が合った。
首相指名、党内調整つかず
大平首相の時代は自民党の田中・反田中を軸とする派閥抗争が過熱化する一方、与野党の伯仲による綱渡りの国会運営が強いられた。そのため、中道政党との連立を探る動きもあった。
大平政権が誕生したのは一九七八年十一月の自民党内の調整がつかず、国会の首相指名投票で、大平、福田両氏の対立を背景に、構想相が続いた。
七九年十月の総選挙は四十日間にわたる激しい攻防が行われた。自民党内の調整がつかず、国会の首相指名投票で、大平、福田両氏が争うという前代未聞の出来事まであった。
八〇年五月、社会党の提出した内閣不信任案は、非主流派が大量に欠席したため可決され、大平氏は衆院解散に踏み切り、参院との同日選挙になった。自民党は分裂選挙に突入したが、大平氏が心筋梗塞で死去し、党内抗争が収まって圧勝した。
新自由クラブは三木内閣の時に、腐敗との決別を叫んで自民党を脱党した人たちが結成し、一時はブームを呼んだ。
18 :
政教分離名無しさん:02/01/03 16:30
>>14 なるべく多くの人に読んでもらったほうがいいでしょ
平成10年8月28日 朝日新聞
秘話B 中曽根支援 田中に口利き、後で煮え湯
一九八二年秋、中曽根康弘さん(元首相)が突然、一人で議員会館の私の部屋を訪ねてきた。
「総裁選があれば、後継の総裁になりたいので、田中角栄元首相に取り次いで欲しい」といった。どんな条件か聞くと、
「人事などすべて元首相のいう通りやる」
当時、田中さんと中曽根さんの関係は良くなかった。だから、まず二階堂進さん(元自民党副総裁)に電話をした。「そりゃ絶対だめだ。本人が直接頼べばいいではないか」と、田中さんが受け入れるはずがないという。そこで、私が直接電話した。
「考えてみてくれないか」「だめだめ.何いってんだ」。こんな調子だった。「首相になって以来、他人の意見を聞かなくなったようだ。人が変わったのか。
三角大福の中で、首相になっていないナマ仏はもう中曽根さんしかいないではないか」とやりとりしているうちに、「考えてみるか」といった。
中曽根さんは田中さんに脈があるとみるや、今度は東京・紀尾井町の料理屋に私を呼んだ。別の部屋で開いている派閥の会合から抜け出して部屋にやってきたようだった。「やるだけの事はやる」と言うと、中曽根さんは「何か要望はあるか」と聞いてきた。
「憲法改正には触れないこと」
「議論をしてもだめか」
「議論は結構だが、改正に進ことに反対する」
「守ります」
「具体的には踏み出さないことだ」
「やりません」
その確信を受けて、田中さんに再三、要請した。そんな側面的な支援が効いたのかどうか、田中派は中曽根さんを支援する事になった。総裁選挙は中曽根さんの圧勝だった。
この総裁選は鈴木善幸首相が十月十二日に再出馬せずと表明したため、急にいろいろな動きがでてきた。記憶がはっきりしないが、、当時の行動日程をみると、中曽根さんが接触してきたのは鈴木さんの不出馬表明より前だったと思う。
政権づくりにいろいろかかわったが、政権が実際に誕生したと言う点では、中曽根政権とのかかわりが一番深かった。田中さんには、公明党が世話になったある人の入閣を頼んでいたが、この内閣で要望をかなえてくれた。
中曽根さんは、それほど親しくはないし、むしろ警戒すべき政治家と見ていた。このときは「三角大福中」の最後のランナーだからと、仏心を出してしまった。総裁選支援のお礼なのか、中曽根さんが首相になってから、地元群馬・下仁田のネギが送られてきた。
しかし、こちらはすごく助けてやったつもりでも、中曽根さんにはそれほどの意識はなかったようだ。だから煮え湯を飲まされたような気持ちになったことが、何度かある。驚いたのは、靖国神社の公式参拝。「もう、顔も見たくない」と、これには怒った。
八三年十二月のロッキード事件・田中判決選挙で、自民党が負け中曽根内閣が苦しくなった時に、「いっしょにやりませんか」「中曽根さんに会いませんか」と山口敏夫さん(元労相)が言ってきたが、はねつけた。
八七年七月の衆参同日選挙は強引なやり口だった。中曽根さんは自民党幹事長だった金丸信さん(元自民党副総裁)にやられた。。裏で公明党の一部に同日選で動いていたので、こちらにも問題があった。
私は、中曽根さんが同日選を構えていることなど全く知らずに、定数是正をやろうと、自民党と一生懸命折衝していた。後で思うと、私ひとりでカンカン踊りをやっていたようなものだ。
自民党の長老たちは同日選に反対していて、特に当時、総務会長の宮沢喜一さん(元首相)とは共同戦線を張った。別に会談することはなかったが、電話でやりとりした。しかし、、自民党内の同日選待望論に押し切られてしまった。
21 :
第3回ラスト:02/01/03 16:35
公明党側としては、創価学会の了承なしには同日選はやれない。当時書記長だった矢野さんたちが、衆参同日選やむなしと学会側を説得したのだろう。準備なしでは困るが、準備さえしていれば何とかなるから。この辺は委員長として不覚だった。
中曽根さんだけでなく、自民党のタカ派といわれる人たちにも日中関係で接触した、親台湾派の灘尾弘吉さん(元衆議院議長)には、日中友好平和条約を結ぶムードづくりに訪中を打診した。「言ってみたい。しかし、私が行ったら、どんなことになるか。
竹入君も台湾に行けないのと同じことだよ」といっていた。何度も説得したが、「古い友人は裏切れない」と毅然としていた。サムライだった。
椎名悦三郎さん(元自民党副総裁)にも訪中を勧めた。「行きたい、戦前に中国にいたことがあり、どんなに変わったか」積極的だった。」しかし、体調が整わず実現できなかった。
死んだふりで強引解散
鈴木善幸首相は八二年十月十二日に退陣表明をしたが、中曽根氏は事前に察知して、田中角栄元首相らと活発に接触している。
中曽根氏は回顧録などで、竹入氏の支援について全く触れていない、「竹入さんお部屋に行ったことはないが、料理屋で会ったことはある。政策問題を中心に話をした。
憲法問題も含まれていただろう。竹入さんと田中さんは仲が良いので、よしなに頼むといった程度のことは言ったかもしれないと)とコメントした。
総裁選は、話し合いが不調に終わり、予備選挙が行われ、田中、鈴木両派の支援を受けた中曽根氏が圧勝した。田中派を変調したため「田中曽根内閣」「角影内閣」などといわれた。
中曽根氏は「戦後政治の総決算」を掲げ、八五年八月に靖国神社への公式参拝をするなど右傾化の動きが目立った。八三年十二月の総選挙で敗北。新自由クラブと連立を組んだ。八七年七月の衆参同日選挙は「死んだふり解散」といわれる。
通常国会で衆院の定数是正が行われ、三十日の周知期間を設定衆院解散はないと見られていたが、改めて臨時国会を召集し、解散にふみきった。
平成10年8月29日
秘話C二階堂擁立 鈴木の腰砕けに激怒
一九八四年秋の自民党総裁選で、二階堂副総裁を擁立しようと工作したことは、野党もかんで自民党総裁を決めようと言うのだから、歴史的な一大事だった。
九月二十八日、中国大使館のレセプショウンの後、二階堂さん、鈴木善幸さん(元首相)と示し合わせて、東京・築地の料理屋へ向かった。鈴木さんが総裁戦に二階堂さんを担ぎ、中曽根康弘首相の再選を阻止する抗争を示した。
福田赳夫さん(元首相)らも話をし、鈴木派で立候補に必要な推薦人五十人は、間違いなく用意すると言った。
私は「この問題は政策の問題であるから、一人で突っ走るわけにはいかない。保留させてほしい」といって別れた。
鈴木さんは首相を辞めて中曽根さんにバトンタッチしたが、中曽根さんから無視されたり、無能だといわんばかりの発言が出たりして、腹に据えかねているようだった。
兵庫県西宮市で開かれていた文化祭に行ったら、池田大作名誉会長から芦屋にある別荘に招かれ、二人きりで話をした。そこで「鈴木さんから二階堂さんを擁立しようという話が来ている。私は乗りたいと思う」っと説明した。
名誉会長は「本当にできるのかなあ」といったので、「今のところ実現する気がする」と答えた。それで「ゴー」ということになった。党としては本格的に動きだした。
鈴木さんとの二回目の三者会談で「私もやる。ただ、野党だから自民党の事に直接、首を突っ込むわけにはいかない。陰に陽に応援しよう」といって、民社党の強力を求めることになった。
鈴木さんは「二階堂政権ができたら、たまには首相官邸で、メシを食おうよ」と調子がよかった。
鈴木さんから田中角栄元首相に会う話が出たが、「会うときは一人で会わずに、必ず私と一緒に会うように」といった。
鈴木さんは「わかった」といったので安心した。
ところが、鈴木さんが中国旅行から帰ってくるや、田中さんに一人で会って、決戦通告もできずに帰ってしまった。
がっかりした。二階堂さんも、田中さんに反対され、竹下登さん(元首相)や金丸信さん(元自民党副総裁)や後藤田正晴さん(元副総理)らの説得で降りてしまった。
推薦人も鈴木派から五十人集まらずに万事休すだ。民社党の佐々木良作さん(元委員長)や矢野さんもよくやってくれた。
この擁立劇で一番しっかりしていたのは福田さんだった。自民党の最高顧問会議で最後まで「二階堂君の話を聞こう」と突っ張った。二階堂さんが最後のかけで勝負にでたらおもしろかったと思う。
工作に加わって一カ月後の十月二十八日にすべてが終わった。田中さんに話に行くとき佐々木さんが一人で言ってしまったのが敗因のように思えて、腹がたった。
派閥事務所にいる鈴木さんに電話したら、電話口にも出てこないので「ゼンコウー」と思わず怒鳴ってしまった。
田中さんに反旗をひるがえしたのは、擁立工作の少し前に、田中派の議員研修会で「憲法改正問題では公明党は自民党と一緒になれる」とか、「公明、民社を指導している」などと、とんでもない発言をし、これに反発したことも底流にあった。
24 :
政教分離名無しさん:02/01/03 23:40
age
二階堂擁立問題で田中さんは相当なショックを受けた。私が弓を引いたこともこたえたようだった。
脳こうそくで倒れる前の八五年二月に、東京・紀尾井町のホテルで、二階堂さんと手打ち式をやった。私が設営した。田中さんは「おまえはひどいやつだ」と怒っていたが、会談に応じた。
田中さんの言い分はこうだった。二階堂さんが総裁選に出るのは反対ではない。しかし「統帥権を渡せ」と言ってきた。
「それには応じられない」行きすぎだ。田中派は私がつくったもので、統帥権の侵犯だ。とんでもないことだ」と怒っ。−−と言うのだ。
「派閥の統帥権」にずいぶんこだわるなあ、と思うとともに、首相復帰の夢を捨てていないなと感じた。
「もうそれは終わったことだ。二階堂さんに頭を下げた。このままけんか状態のままでいくのか」「そういうわけではない」とやり合っているうちに、気分も和んできた。
「それでは次の二階堂総理・総裁でいくんだな」といったら、「そうだ」と答えた。「間違いないな」と念押ししたら、田中さんも肯定し、二階堂さんもそれでよいといった。
「私が証人だ」といって、手打ちになった。みんなさっぱりした気分になった。
田中さんはウイスキーをグイグイ飲んで、「腹の調子がおかしい」と二度三度トイレに立った。「先に帰っていいか。おれは帰るぞ」といって引き揚げた。「体をもっと大切にしろよ」といって見送った。元気な姿の最後だった。
26 :
第4回LAST:02/01/04 15:36
「田中支配」崩壊の第一歩 朝日新聞の囲み記事
一九八四年十月の自民党総裁選に向けて中曽根首相は早くから再選に意欲を示し、田中派も支持を固めていた。反対派の動きは盛り上がらず、再選確実といわれた中で起きたのが「二階堂擁立劇」だった。
二階堂氏の回顧録によると、鈴木氏は八四年四月の段階から接触。鈴木氏は二階堂氏の後に宮沢喜一政権を実現することも狙っていた。
このため、中曽根氏側から宮沢氏を総務会長に登用する話が伝えられると、鈴木氏の決意は微妙に揺らいだ−−と分析している。
クーデター一歩手前までいったのは、中曽根氏の政治姿勢に対する不満が広くあったからだ。決着時には中曽根氏が党風刷新、党内融和に努める所感を示している。
また、この擁立工作が遠因となって八五年二月から竹下登氏らが創政会を結成「田中支配の崩壊」の第一歩となった。
擁立劇の後、竹入氏は公明党中央委員会で、中曽根政治、田中支配の打破を目指したものと説明し、
「今回は外野席からハンカチを振ってフレーフレーと激励した程度だったが、連立の方向は時代の流れで避けて通れないのだから、次の機会には上着を脱いでやってもよい」と連立への意欲を示した。
27 :
政教分離名無しさん:02/01/04 23:48
読んでいますage
28 :
政教分離名無しさん:02/01/05 09:28
疑問に思うことがあるんですけど、竹入氏は回想録で別に学会や池田氏の批判を
したわけでもないのに、なぜ学会から叩かれてるんでしょう?(関係の無い家族
の中傷もやってますよね)書かれて悪いことでもあったのか?
平成10年9月2日 秘話D−1
社公民結集 煮え切らぬ飛鳥田
社公民だ江公民だ、と野党結集ではいろいろ動いた。自民党との連立志向が強い民社党と、左翼イデオロギーの呪縛から抜けきれず、全野党路線をとる社会党のの間で、どれだけエネルギーを消耗させたか。
一時は本気で社公民でやろうとしたが、いつも煮えきらない社会党の態度に意気をそがれる結果になっている。
野党グループの結集が叫ばれたのは一九七〇年頃だった。三木武夫さん(元首相)とも首相になるまで毎月のように会い、お互いに政界再編を意識して意見交換していた。
この人はいざとなったら自民党を出るのかなと感じさせたが、具体的な構想を語っていたわけではない。
社会、公明、民社三党の提携で焦点となったのが江田三郎さん(元社会党書記長)だった。社会党全体で中道革新連合に加わる可能性はほとんどなかったので、右派勢力のリーダーだった江田さんの動向がカギを握っていた。
江田さんは党大会のたびに「左派と決別して絶対に出る」といっていた。「四十人はつれて出るから」「出られないのでは」といったやりとりが続いた、次は「二十五人は出る」「あなただけでいいから出てください。
新党ができたら党首にしますから」。それでも出てこなかった。
七六年の衆院選に落選し、七七年三月に社会市民連合の発足を表明し、一人で離党したが、時すでに遅しだった。
七六年にできた「新しい日本を考える会」を軸にした中道結集も、江田さんと春日一幸さん(元民社党委員長)にうまく利用されているような感じがあったので、私は早々と後ろに引いてしまった。
後は矢野公明党書記長、江田社会党副委員長、佐々木良作民社党副委員長の江公民トリオに移った。
31 :
政教分離名無しさん:02/01/11 23:51
続きage
32 :
政教分離名無しさん:02/02/02 04:22
もうおわりかな〜
33 :
政教分離名無しさん:02/02/02 04:36
がんばれー! 楽しみにしてますー!
34 :
政教分離名無しさん:02/02/02 06:32
しかし学会員のかきこみは無いの?
35 :
政教分離名無しさん:02/02/02 09:17
学会員は卑怯者のクズです。都合が悪くなるとさっと引いていきます。
ゴキブリに似ています。
36 :
政教分離名無しさん:02/02/02 15:28
>しかし学会員のかきこみは無いの?
正論の前に反論の余地なし。ただ眺めるだけ。哀れ学会員。
竹入は、政治の面でただの使い走り。
「周恩来と池田大作」 南開大学周恩来研究センター(周恩来の卒業大学)出版
王 永祥 編者 監修 西園寺一晃 日本出版社 樺ゥ日ソノラマ
に史実が詳細に出ています。一読を進めます。竹入氏の名前は一言も書かれて
入ません。
当時の田中首相も表で動いただけで本当に、勧めてのは池田大作会長(当時)だった。
3/6 486号のダカーポを参考にすれば面白い。
38 :
波木井坊竜尊@日蓮宗葵講 ◆O3Y3j8s2 :02/02/22 23:34
いや竹入さんだった。(爆)
南開大学は中国では、相当の権威のある大学で、そこからの出版物はほとんど
中国では、教科書として利用されている。
王 永祥氏の前書きを読めば解る。
竹入回顧録掲載の朝日新聞社が創価学会に正式謝罪をしている。
当時の政治家はほとんど、知っていることです。故福田元総理は亡くなる直前
「創価学会を大事にするようにと言って」亡くなっている。
竹入さんが独立して日中正常化のために尽くしたのであれば、少なくとも
当時の公明党は、学会や池田さんのコントロールを離れて独立に政策決定を
行えていたということになり、外部からの政教一体批判をかわす材料として、
学会はこれを使えるのではないかと思うのですが…
逆に、池田さんが正常化の真の立て役者であって、竹入さんは使い走りに過ぎ
なかったのであれば、政教一体ここに極まれりということで、アンチサイドに
とってはいい攻撃材料となるのではないでしょうか…
それで真相はどちらが本当っぽいのでしょうか?
41 :
政教分離名無しさん:02/02/22 23:40
>>37 その本だったら、仕掛けはもう暴かれてるよ(藁)
南開大学の連中がその本出す前に創価大学訪問してる。
モアハウス大学のカーター氏と同じ手口ね(藁)。
中立を装うのは創価学会員の特徴だよね。
イヤダイヤダ・・・。
「創価学会員@公明党員」にすれば?>>無政党
43 :
政教分離名無しさん:02/02/22 23:45
>>37 過去スレからコピペ
339 名前: 特撮オタ 投稿日: 2000/11/28(火) 18:52
池田発言と公明党の「二つの中国問題」に関するドタバタ喜劇のおさらい(他スレよりコピペ再掲失礼)
このあたりは60年代後半の佐藤内閣時代の創価学会と公明党、中国政府の動きを
学習していただく必要があるようですね(ちなみに1970年5月以前は政教分離前ですのでお間違えなく)。
公明党:1968年までは内政不干渉に基づく「二つの中国」政策路線をとる
創価学会:1968年9月8日池田会長が突然中華人民共和国ヨイショを始める
公明党:1969年1月21日、「一つの中国」(ただし池田会長はここまでは明
言していない)を第7回党大会で明記(ただし決定打となる「日台
条約の破棄」は回避しようとしていた)
中国政府:「日台条約の破棄」がない限り、公明党訪中団の受け入れをしない
方向で動く
創価学会:1970年5月16日、池田会長「公明党の右寄りは残念」と発言。
公明党:1971年5月19日参院選で社会党支援を約束する。
公明党:1971年6月8日、竹入委員長、神戸にて「日台条約の破棄」を発言。
中国政府:竹入発言の数時間後、公明党訪中団の受け入れを発表。
公明党:1971年6月15日から2週間中国訪問。この時、周恩来首相のペースに
引き込まれた形で中国に有利な内容での共同声明文が出る事になる。
後日談:この訪中団の成果は「公明党の左傾化」ととられ、政府の不信感を招いた。
また9月21日竹入委員長が日蓮宗狂信者に刺されるという事態を引き
起こした。
ふむ、ニクソンの訪中はいつだったでしょうか?
45 :
政教分離名無しさん:02/02/23 00:00
>>45 ありがとうございます。
ざっと見ただけですが、リンク先の周・竹入会談は面白いですね。
日共を敵視する周恩来の発言がありましたが、中共と公明党の密な関係は、野党サイドに対する
日中正常化への日共の妨害を押さえるという意図もあったのではないかとも勘ぐれますね。
48 :
波木井坊竜尊@日蓮宗葵講 ◆O3Y3j8s2 :02/02/23 00:17
>>46 林彪ねえ。
ソビエトに亡命途中にトライデント機が墜落して死亡したが、ここでも
悪者になってますなあ・・・。
実際は謀殺でしょうに・・・。
49 :
政教分離名無しさん:02/02/23 00:23
池田は勿論、竹入も、日中国交正常化とはなんの関係もありません。
密使などはパシリです。
竹入さんは周恩来の言ってることを、なんか丸呑みしてるきらいが
なきにしもあらず。
野党外交の限界なのでしょうか。
51 :
波木井坊竜尊@日蓮宗葵講 ◆O3Y3j8s2 :02/02/23 00:24
>>47 いやその通りです。当時、日中両共産党は決裂していたのですよ。
ものすごく文化大革命を批判していた。>代々木。
その見方で正解です。
52 :
波木井坊竜尊@日蓮宗葵講 ◆O3Y3j8s2 :02/02/23 00:27
竹入さんは自民党の政治大学校の出身で田中派とは親密なパイプがあった。
これは言論弾圧事件で証明されてますね。
竹入さんは完全に田中さんの名代としていってます。
ここで日中平和五原則を提示し終結の可能性を占った。
竹入さんの報告を聞いてそれから七かさんがたしか9月に北京に飛んだ、
というそういう流れですわ。
53 :
波木井坊竜尊@日蓮宗葵講 ◆O3Y3j8s2 :02/02/23 00:28
それから田中さんが、に修正
54 :
波木井坊竜尊@日蓮宗葵講 ◆O3Y3j8s2 :02/02/23 00:32
当時の中国は、かなり厳しくソビエトと国境問題や東欧、第三世界の
問題やなんやかやで対立していた。実際国境ではソビエト軍と人民軍の
小競り合いが年中でしたし。
そしてなんたって文化大革命でそれまでの大躍進時代の成果を台無しに
してしまった。毛の経済政策が完全に破綻していて、どうにもならない
状態だった。
中国にとって日中国交回復は”最期のカード”中国復興の切り札だったんです。
だから誰とでも会った。池田さんとも会った。(笑)そういうことですが、
実際は田中ー竹入ラインを最重要視していた、というワケです。
>>52波木井坊竜尊さん
田中角栄と公明党が近かったことは以前から言われていますね。
自民党が台湾派への遠慮から正面切って行えなかったことを、
いわば公明党をダミーとして行っていたということなのですね。
公明と旧田中派のラインはいまでも健在ですよね。
>>54 アメリカも対ソ戦略上、中国に接近する必要がありましたし、アメリカの世界戦略の
一環として、日本もそれに組み込む必要があった。
その意味では、公明党の日中正常化への貢献も、詰まるところはアメリカの掌の上で踊って
いただけなのでしょうか。
こうしてみるとニクソン訪中は晴天の霹靂でもなんでもなく、すべてはシナリオ通りだった
ということになりますね。
57 :
政教分離名無しさん:02/02/23 01:09
>>56 中共→日本、中共→アメリカの視点で見れば
>>54の通り
日本→中共で見ると、田中が中共を日本産業の市場として
捉えていた。そのため池田逮捕(大阪事件)、言論出版
妨害事件で貸しを作ってあった創価学会・公明党をパシリで使った。
アメリカ→中共で見ると、自国防衛用の反ソカードとアメリカ
産業の市場として捉えていた。そのため後から食い込んできた日本
(の田中派。佐藤・岸は親米路線)が邪魔であった。
(後に中東の石油利権などと併せて、田中はロッキード事件の形で
報復粛正された)
>>57 なるほどなるほど。
ロッキード事件は、対米従属路線を微妙に修正しだした田中をパージする意図があったと
いう話は聞いたことがあります。
ただ、日中正常化がアメリカの意志に反してなされたというのは、私には俄には信じが
たい話です。
上のほうが大荒れなので、今日はsageつつ退却なのです。
59 :
政教分離名無しさん:02/02/23 02:10
>日中正常化がアメリカの意志に反してなされた
これは間違い。 アメリカは絵を描いていた。
>ロッキード事件は、対米従属路線を微妙に修正しだした>田中をパージする意図があった
これ正解。田中は外為法違反にはめられたのは間違いない。
age
61 :
政教分離名無しさん:
続けてほしいあげ