どうしてこのスレは韓国人の悪口ばかりなの?

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474ななしくん。
>>72
「台湾人と日本精神」 蔡焜燦 2000年 日本教文社
絶版になっちゃったの〜〜〜〜(涙)
以下、抜粋なの〜〜〜。

(エピソードその1なの〜)

心の切り替えができない私は、誰から見ても敗戦で肩を落とした日本人に見えたのだろう。
また日本兵の軍服で汽車に乗り込んでいた私は、8月15日をもって急に威張りはじめた連中
(注:朝鮮人のこと)の嫌がらせを受けた。 座席の中に置いた新品の飯盒を朝鮮人に盗まれ、
それを奪い返そうとすると、「なんだお前、朝鮮人をバカにするな!降りて来い!」と、たちまち
数人に取り囲まれてしまった。多勢に無勢、勝ち目はない。こうなっては「すみません、私の記憶
違いでした」と謝り、難を逃れるしか術はなかった。

それから佐世保に到着するまでの30時間、連中は執拗に私を含め多くの日本人乗客をいびり続けた。

若い女性がトイレに行こうとすると通路を塞ぎ、次の駅で窓から降りるよう指示するなど、この連中の
あまりにも情けない行状を、私ははらわたが煮え繰り返る思いで眺めていた。ただ黙って見ている
しかなかったのである。

引き揚げ列車の中で、私を含め敗戦で意気消沈する日本人をいびり続け、肩をいからせていた朝鮮人
たちが、「中華民国台湾青年隊」の腕章をつけた我々におべっかを使って擦り寄ってきたのである。
それは中華民国が連合軍の一員であったからに他ならない。弱い者には威張りちらし、強い者には
媚びへつらう、そんな彼らの極端な習性を目の当たりにした思いがした。
475ななしくん。:2001/07/25(水) 19:34 ID:ZUl0JzJE

(その2なの〜〜〜)

昭和二十年八月十五日、終戦の勅令下る。
山奥での作業中に年輩の応召兵が「敗けた!」と隊からの伝令を口にしたまま、呆然と立ちすくんでいた。
我々は何が起こったのかさっぱりつかめない。無理もない、玉音放送があることすら知らされていなかった。
ただ中隊長の青ざめた表情は事態の深刻さを物語っていた。しばらくして、敗戦の事実が我々台湾出身生徒
にも正式に伝達されたとき、悔しさと無念の気持でいっぱいになり、とめどなく込み上げる涙で頬を濡らした
ことはいまでも鮮明に覚えている。
無性に悔しかった。それは他の台湾出身生徒も同じ心境だった。

他方、朝鮮出身の生徒達は、その日から食糧倉庫、被服倉庫を集団で強奪するなど、したい放題のありさまで、
我々は複雑な心境でただそれを眺めていた。日本人を殴って、「戦勝国になったんだ」と威張りちらす者も
いれば、「独立だ!」と気勢を上げる輩もいる。敗戦の報は、それまで一つだった”国民”を三つの国民に
分けてしまったのである。

そして八月十七日の夕方、連合軍の命令で我が隊の武装解除がはじまり、日本人は復員することが決定した。
もちろんこれで例の”本土決戦”の計画も自動的についえた。しかし残務整理は日本人事務官でこなせるものの、
兵隊がいなくなってしまっては武器庫や飛行機などの警備ができない。そこで進駐軍がやって来るまでのおよそ
二ヶ月間、学校、練兵場、格納庫、武器庫など、あらゆる軍の施設を我々四十名の台湾人生徒が守ることになった
のである。

「朝鮮人は信用できない。だから君たち台湾人が守ってほしい」
そう言い残して去っていった上官の言葉を、これまで経験してきたもろもろに照らし合わせて了解した。


引用なの〜〜〜〜〜〜〜〜。参考にして欲しいの〜〜〜〜〜〜〜〜〜。