パン・クムチュなる慰安婦は実在するのか?

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80大谷その1
1997年9月17日号「ダカーポ」大谷昭宏『ニュース虫瞰図』第34回
『従軍慰安婦に、キチンと向き合わない日本人たちへ』

 この夏、チョゴリを着た七十五歳のお年寄りを、大阪に迎えた。韓国・ソウル
からやってきてくれたハルモニ(おばあさん)、黄錦周(ファンクムジュ)さん
である。黄さんは、元・従軍慰安婦である。
 私の事務所の大将、黒田清さんは、この従軍慰安婦の事実を教科書に載せるな、
強制連行はなかった、などとたわごとを言っている人たちを厳しく批判してきた。
それに、昨年秋には、女性の立場から、この従軍慰安婦問題をライフワークのよ
うに追い続けている事務所の若手記者、栗原佳子をソウルの黄さんのお宅に派遣、
短い間だったけど一緒に生活させてもらっている。
81大谷その2:2001/05/23(水) 00:37 ID:TCdIhoT2
 毎年八月、大阪では、通天閣で「平和のための大阪戦争展」が開かれ、私たち
の事務所はいつもなんかの形で協賛させていただいている。そこで今年は、栗原
を娘のようにかわいがってくれている黄さんをお招きして、慰安婦の事実につい
て、辛いだろうけど、ぜひその重い事実を語っていただこうということになった
のだ。
(この後従軍慰安婦問題の経緯を大谷的にまとめている)
82大谷その3:2001/05/23(水) 00:38 ID:TCdIhoT2
 黄さんが、連行されたのは、一九三九年、いまでは北朝鮮になっているハムフ
ンという町からだった。この年、当時、日本の植民地だった朝鮮全土に、徴用令
が敷かれ、一家から一人、工場に供出させることになった。だが、工場で働くに
しては、女の子がいる家では女の子の供出を、というのが条件で、それに従わな
い家では、配給が止められることになっていた。当時、十八才だった黄さんは、
こうして、当時の満州(中国東北部)の吉林に連れて行かれたのだ。それが「処
女供出(コンチュル)」である。
「朝鮮では、結婚していない娘は肌を見せないというと『朝鮮人のくせに』と言
って撲られ、チマを銃剣で裂かれ、パンツを切られて気を失った。気がついたら
裸で、股から血や液が流れていた……」
83大谷その4:2001/05/23(水) 00:39 ID:TCdIhoT2
「それから一日二十回、三十回、祝日にはもっとたくさん。コンドームをつけな
い兵隊もいて、病気をうつされ、妊娠したのは三回、そのたびに、606号とい
う注射を打たれて堕胎させられた」
 性器は腫れ上がり、終戦後、黄さんの子宮はボロボロにくさっていて、全摘出
手術を受けた。黄さんは、いまも絶対に口にしないものがある。牛乳と、マヨネ
ーズ。一日二十五回、七年間も精液を浴びせ続けられた記憶は、一生消えること
はないのだ。
84大谷その5(最終):2001/05/23(水) 00:48 ID:TCdIhoT2
 通天閣の証言会場、黄さんはついに感極まって、涙とも声ともつかない叫びを
上げて、チョゴリの下部をずり下げた。そのお腹には、ざっくりと子宮を取った
傷のあとがついていた。
「謝らない、謝らないなら、この体を十八歳に戻してくれっ」
 黄さんは、民間の基金を拒絶している理由についてもこう話していた。
「だって、悪かったとも言わないお金をどうして受け取れるか。そうしたら、結
局、お金のためだったことになってしまう」
 当たり前すぎるほど当たり前のことである。なのに、黄さんたちのこの証言を、
作り話、金目当て、強制連行でない、と言っている学者、とりわけわれわれの仲
間であるジャーナリストたち。一体、何を根拠にそんなことを言っているのか。

(以下、「御用ジャーナリスト」たちを罵る文章が続く)