HANBoardについて考える PART6

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830名無しさん@1周年
>>829
キンキロウに当時の在日がシンパシーを感じたということが、反日教育と直結する
とは思いません。サラ坊さんは、キンキロウ=日本に一泡食わせた英雄、という
位置づけでしか考えておられませんが、当時の在日がキンキロウに向けた視線は、
自分が受けている差別をよくぞ訴えてくれたという気持ちと、自分も同一視されては
たまらんという気持ちという複雑な気持ちであり、一筋縄でいくものではありません。

韓国における慰安婦支援にも見られたことですが、運動家が自分の主義主張を強める
ために利用するということが、キンキロウ氏においても見られたことも事実ではあると
思います。

しかし、それは在日に見られるというよりも、運動家一般に見られることとして判断
すべき問題であり、在日というマイノリティの中で自分たちの立場をよくしようとする
運動が盛んであるというのに留めるべきではないですか。

フェミニスト運動家も、在日運動家も、この点では似ているでしょうが、マジョリティ
とマイノリティの権利が同等と呼べるレベルに達したとしても、差別を見つけ出し、それを
訴えていかなければいけない、という自己矛盾に陥っていると思います。
要するに、マイノリティのマジョリティが、昔はいろいろと差別があったが、今では
ずいぶんとマシになった、ということで、その運動を評価したとしても、彼らがそれで
満足してしまっては、その運動は終焉してしまう。だから、運動家はその理想を厳密に
追い続けなければいけなくなってしまう。その理想のためには、客観視することも
出来なくなり、そのマイノリティの中に見られる差別性にのみ目がいってしまう。
これにより、ダブルスタンダードが生まれてしまうのです。