1 :
ぴよ:
豊臣秀吉が朝鮮半島に攻め入った時に「この戦には利がない」
という意味のことを言って、そのまま朝鮮に住みついてしまった
日本人がいて、ひとつの村を作ったとのこと。
その後彼らは現地の住民と混血したのでしょうか。それとも
在朝鮮日本人同胞として混血しなかった(とすれば今も朝鮮に
一部日本人の血をもつ子孫がいる?)のかなどについて教えて下さい。
2 :
朴性器:2001/05/29(火) 09:04 ID:czVXLUYI
沙耶加ちゃ〜ん。
3 :
ブラック:2001/05/29(火) 09:54 ID:eKzO..0I
>>2 の言うとおり。沙耶加と名乗ったとされる。
加藤清正配下の武将といわれているが、詳細は不明。
朝鮮に投降したが、その理由については諸説あり、
朝鮮出兵した別の大名の記録によれば、「清正に叱責されて出奔した」
朝鮮側の記録では、「朝鮮の文化や伝統に感銘を受け、戦争に疑問を持った」というのが理由との事。
(どちらにしても、自分に都合の良い記録しか残らないからね。)
別の研究でも、補給路を断たれ、飢餓に苦しんで投降したケースが散見されるという。
投降後「沙耶加」は、鉄砲技術や戦術の指南役を受け持ち、朝鮮王(?)に厚遇されたらしい。
その特殊技能、出身地から「雑賀衆」の流れをくむ人物であり、「沙耶加」という名前はその発音から来ていると推測する研究者もいる。
沙耶加の定住した村落(住民はその子孫)は、現在では観光地となっていて、日本人も訪れているようだ。
4 :
1:2001/05/29(火) 12:02 ID:Kftc0Jgk
>>3 ご丁寧なレスを有難うございました。
沙耶加の定住した村落が残っているということは、彼らは混血しなかったわけ
ですか? その観光地の人達は血は日本人で、在韓国朝鮮同胞ということに
なるわけですか?
5 :
ななし:2001/05/29(火) 12:02 ID:Cpt3FVY6
以前、NHKだったかな?この沙耶加についての詳しい放送がTVでやっていたよう
だったがね。沙耶加と言う人物の日本名を歴史上の資料から検証してた内容だった
と思うけど。
>朝鮮側の記録では、「朝鮮の文化や伝統に感銘を受け、戦争に疑問を持った」というのが理由。
こんな理由で寝返ることは戦国武将はしないな。
6 :
:2001/05/29(火) 12:11 ID:2OWYmbXM
>>4 あの国でチョパリが朝鮮人と融合できる訳ないだろ。
何しろ獣なんだから。
7 :
ななし:2001/05/29(火) 12:13 ID:xL2LQTFg
>>4 当然混血してますよ。ソウルオリンピックの前にこの村の事を報道してた
けど、その村人の顔付きは朝鮮人そのものだったよ。しかし、この村には沙耶加を祭る
廟があり、その村の一族はその廟を大切にしてるとのこと。また、そこの村の人達は日本人の
戦国武将の末裔であることをとても誇りにしてたね。
戦国時代のロマンの一つですね。
8 :
千里馬:2001/05/29(火) 12:29 ID:Aoy4n2yc
司馬遼太郎の街道を行く 見たよ 王様から貴族の称号ヤンバン
だったけ もらったのに 田舎で田畑を一生耕していたそうだよ
サヤカが家のかくんに けしておごってはならない田畑をおとなしく
耕すのじゃぞと言って 子孫代代までかくんとして残っているそうだ
沈ジュカン先生が私も渡来人なのでわかるといった
最初から朝鮮に行ったら願えるつもりだったんだよと聴いたよ
朝鮮の文化とや伝統 こんなことないだろう 今だから言える言葉だよ
9 :
蚯蚓:2001/05/29(火) 12:45 ID:Cy2Hi3Z.
10 :
1、4:2001/05/29(火) 12:49 ID:Kftc0Jgk
>>6,
>>7 レス有難うございます。
混血に関しては明確な答えがないようですね。これに関する文献的
記録がないのかなあ。
見た目については中国残留孤児が中国人に見えるのでこれも決めて
とは言い難いと思われますし。
もし、半島に戦国時代から日本人の血が流れている人達が残って
いたら、なんかロマンを感じるんですけどね〜。
11 :
ななし:2001/05/29(火) 13:04 ID:lSO76Gyw
沙耶加と名乗る武将が朝鮮に寝返ったといっても、その部下を含めても
当然男ばかりだから、現地の女と結婚しないと子孫は出来ませんよ(w
また、秀吉が死んで朝鮮より日本軍が撤退後は、朝鮮の北より進入してくる
外国の軍隊と戦い戦功があったそうです。
また朝鮮に最新の鉄砲製造技術を教えたのもこの沙耶加だそうです。
確か、何かの本で読んだんだけど。
12 :
終わりかな?:2001/05/29(火) 13:07 ID:ITAFurcE
10年くらい前だったかな、やはり特集があったよ。
それによると、カンコクの水田はゆがんでいるが、その村の水田だけはきちっとまっすぐだった。
良い暗示だな。
13 :
10:2001/05/29(火) 13:25 ID:Kftc0Jgk
>>11 >その部下を含めても当然男ばかり〜
ほ、ほんまや〜!! こんな簡単なこと何故気づかなかったんだ
ろう。 あ〜あ、ボクのロマンは終了(笑)。
14 :
雑賀孫一:2001/05/29(火) 17:56 ID:L31n4RO6
もしかして俺の話か?
15 :
虎退治:2001/05/29(火) 18:32 ID:wFCywu8M
宮本徳蔵の小説「虎砲記」は沙耶加を加藤清正の家臣の一人と設定した小説です。
>「この戦には利がない」
ではなく「理がない」でしょうね。
たしか金海金氏を賜ったということでしたね。
16 :
uud:2001/05/29(火) 18:49 ID:NoiMy1cM
やはり差別されてたんでしょうか?
17 :
蚯蚓:2001/05/29(火) 18:55 ID:Cy2Hi3Z.
あの。
>>9のリンク先も少しは見てね。
彼は壬辰倭乱だけでなく、その後の李クァルの乱、丙子胡乱などにも参戦し、
三乱功臣とまで呼ばれた。その後はここ友鹿里に定着、家訓と郷約を作って
住民と子孫の教育指導に専念し、仁祖20年、72歳で亡くなった。この青年倭
将が賜姓(サソン)金海金氏または右録金氏の始祖だ。
18 :
:2001/05/29(火) 18:57 ID:crSIFW4w
>>16 なんで?
立派な両班ですよ。
本貫の祖が外国人(多くは中国のようだが)であることは珍しく
ありませんし、それを誇りにしている「名家」もありますよ。
19 :
1:2001/05/29(火) 19:05 ID:Kftc0Jgk
>>蚯蚓さま
リンク先、拝見致しました。混血のことも書いてありました。
ごめんなさい、ありがとう。
20 :
千里馬:2001/05/29(火) 20:23 ID:o.Vrz7kY
>韓国の道徳の教科書どうして 歴史の教科書にのせないのでしよ
英雄じゃないか りせいけい将軍は歴史に載っているじゃないか 日本人だから
乗せないのか 彼の活躍は大きかったと思うんですよ
21 :
名無し:2001/05/29(火) 21:02 ID:EcjexVUc
雑賀孫一が、朝鮮で秀吉に反抗して朝鮮人に火縄銃の指導を
したと聞いたことがあるが、そのことか?
22 :
CHINDARURE:2001/05/29(火) 21:16 ID:l1wujScc
>>21 沙耶加の創始は“金忠善”とか言わなかったっけ?
俺の記憶違いかなー?
23 :
:2001/05/29(火) 21:28 ID:GhGmXttk
沙耶加は日本から朝鮮への帰化人ですよ。
>こんな理由で寝返ることは戦国武将はしないな。
へー、
戦国の世に寝返り、謀反などはざらにあったことじゃないのかね、
あのころに「日本軍」などという観念がどこまであったことか。
24 :
日本@名無し:2001/05/29(火) 21:29 ID:EcjexVUc
やはり雑賀孫一のことでしたね。
日本史板よりのコピペ
雑賀孫一について昔こんな話を聞きました。
秀吉によって紀州征伐を受けた後、彼は九州は肥後国に移っていたそうです。
その後の九州征伐、さらに肥後一揆などに反秀吉方として奮戦したそうです。
その後、縁あって入国してきた加藤清正の配下になって朝鮮出兵に同道します。
当時の朝鮮は鉄砲が伝播しておらず、苦戦を続けました。朝鮮側は使い手を敵方である日本から密かに募集します。
厭戦気分も漂い始めた戦線からの離脱者はかなりの数に上ったそうです。
その中に孫一の姿もありました。朝鮮の役にあって蹂躙される姿を自らの故郷を失った姿と重ねたのかも知れません。
その後、慶長の役のさい、ウルサン城の攻防でかつての主である清正が苦戦していたその時、孫一が使者を送ったのか、
翌日に総攻撃をかける旨を伝えたのです。清正は彼の寝返りを責めることなくありがたくその情報を頂戴しました。
清正の奮戦は別の項に譲るとして、孫一はその後朝鮮において重きを置かれたそうです。
彼の使ったとされる鉄砲が韓国に残っているし、彼の末裔もまだ健在です。
韓国名はサヤカという(漢字を忘れた!)そうです。
戦時中は韓国人でもなく、また日本からは売国奴・非国民として扱われたそうです。
25 :
日本@名無し:2001/05/29(火) 21:31 ID:EcjexVUc
これにて一件落着!
26 :
日本@名無し:2001/05/29(火) 21:33 ID:EcjexVUc
シャムの山田長政、ルソンの高山右近
と並んで当時海外で活躍した日本人の代表格だな
27 :
蚯蚓:2001/05/29(火) 21:34 ID:Kb49ghiM
>>19 1さん、気にせんといてね。
私もリンクだけだといかないこと多いから。
それにしても、サヤカは韓国ではSAYAGAと濁るから、ますます雑賀(さいが)衆ぽく
なりますん。
28 :
日本@名無し:2001/05/29(火) 21:40 ID:EcjexVUc
>>5 >>朝鮮側の記録では、「朝鮮の文化や伝統に感銘を受け、戦争に疑問を持った」というのが理由。
>こんな理由で寝返ることは戦国武将はしないな
たしかに、戦国の梟雄雑賀孫一がそんな理由で寝返るはずがない。
29 :
ななし:2001/05/29(火) 21:46 ID:JCEooCWM
>>24 以前、NHKでこの沙耶加がどういう人物か、かなり詳しく検証していたと思うが。
雑賀孫一とか、雑賀衆の誰かなど色々検証して、ある武将にほぼ確定していたはずだけどね。
誰か覚えてない?
雑賀孫一ではなかったはずだけどなー。
30 :
名無しさん:2001/05/29(火) 21:48 ID:dGkVY8ag
雑賀孫一(さいか まごいち)
雑賀孫市とも書く。 紀伊の鉄砲集団雑賀衆の頭領である。
鈴木重朝か鈴木重秀のどちらが雑賀孫一であるかは不明。
石山本願寺と織田信長が争ったとき、織田軍を悩ませた。
雑賀衆の鉄砲の命中度は高かったため織田軍は苦戦した。
毛利が本願寺に兵糧などを補給するため、水軍で大阪湾に入ったときも、
それを迎撃しようとした織田水軍を雑賀鉄砲隊が援護射撃をし織田軍を破った。
手を焼いた信長は雑賀衆の本拠地を攻撃した。 最初の戦況は優勢だったが、寡兵のために劣勢になり降伏した。
その時は和睦したがその後も信長に抵抗をした。
のち、信長の跡を継いだ羽柴秀吉にも抵抗したが、天正十三年四月、藤堂高虎に誘い出され死んだ。
戦死か毒殺されたのかは不明である。
31 :
ブラック:2001/05/29(火) 21:55 ID:LRCHxawk
32 :
:2001/05/29(火) 22:03 ID:nc7s0NGE
宮本徳蔵の「虎砲記」も岡本越後守説ですね。
雑賀孫一は音が「沙也可」に似ていることからいわれ出したのでしょうが、
とても一件落着などとはいかないようですね
33 :
日本@名無し:2001/05/30(水) 11:53 ID:T.ADSM.M
雑賀孫一は複数人物説が唱えられる謎の人物。
紀州ゆかりのものが異国で雑賀と名乗ったとしても
何の不思議もない。
あるいは本当に複数いた雑賀孫一の中の一人ではないのか?
34 :
疑問:
3000人という数は多すぎる。
兵制から見ても考えられない。
投降したときは少人数だったろう。
一度に投降したと書物に書いてあったのを記憶するが大いに疑問。
朝鮮側が投降兵を集結させてその総大将にしたのだと考えられる。
問題は投降の時期。
「釜山上陸後」に投降したとあるがこれも首をかしげる。
初期、投降兵はことごとく朝鮮側は殺していた。後に利用する方向に
変化したから後の時期ではないか。
文禄慶長の役は前期、中間の戦闘中断期、後役と戦列が組替えられ、
その途中も大きな変更がしばしばだった。上陸後、単純な理念から即
投降したというよりも陣中の不満など複雑な要素が絡んでいたのではないか。
このあたりの情報キボンヌ。