朝鮮征伐の時、日本軍が進軍していくと一般大衆は
土地の両斑や王を襲撃しなぶり殺しにし、日本軍を
歓迎した。日本軍に捕らえられた王子の一人は日本軍
に手厚く優遇され、返還の時も暴徒化した大衆から守
るために護衛をつけられ無事帰郷し、そのおり感激した王子は感謝状
を清正に贈っている。
このことは当時の朝鮮での悪政圧政を物語っており、日本軍
は「解放軍」として一般大衆に歓迎されたのである。
朝鮮征伐の概念は再考の余地があるだろう。
参考 名越二荒之助「日韓2000年の真実」
今もこの感謝状は紀州徳川家に伝わっている。
3 :
名無しさん:2001/05/03(木) 00:11 ID:WgekCFHw
何故加藤家から徳川家に渡ったの?
4 :
>:2001/05/03(木) 00:11 ID:Oo36BGxs
まあ、敵の中にも味方をつくるのは普通の戦術だからねえ。。。
日本敗戦でアメリカ軍が韓国に
上陸してきた時のこと。
アメリカ軍に取り入られようといるいろいろな政治
一派が近づくが一瞥もされない。
それどころか上陸してきたアメリカ軍を歓迎しようと
韓国人たちを待っていたのはアメリカ軍の一斉射撃。
多数の死者が出る。まさに韓国の悲劇。
韓国人の事大は続く。
加藤家、豊臣家、徳川家じゃあないのかな。
紀州徳川家に問い合わせてくれ
7 :
名無しさん:2001/05/03(木) 00:38 ID:snoi9ejk
紀州徳川の初代頼宣が加藤清正の娘(あま・瑶林院)と結婚したからだと思われ
8 :
>:2001/05/03(木) 00:41 ID:Oo36BGxs
マッカーサーが天皇との会見写真を売りにしたこと忘れちゃいかん。
9 :
無明:2001/05/03(木) 00:46 ID:nWVj0Gpc
できれば原文を読みたい。
10 :
粕谷真人:2001/05/03(木) 01:15 ID:gCs1RhR.
>それどころか上陸してきたアメリカ軍を歓迎しようと
韓国人たちを待っていたのはアメリカ軍の一斉射撃。
多数の死者が出る。まさに韓国の悲劇。
それホント?米軍は警戒して、いつでも発射できるように、
大砲には実弾を詰めたままという橋は聞いたことがあるが、
それは聞いたことはない。
11 :
774-3:2001/05/03(木) 01:26 ID:0YwZ0G66
>>3 >>7 加藤家が、2代目で改易されていることも影響しているかもしれませね。
12 :
名無し:2001/05/03(木) 02:11 ID:lCnnMjUw
>10
ホッジ中将率いる米軍が9月8日(昭和20年)に仁川に着くと
「朝鮮人民共和国」の代表が迎えに出たが、全く相手にされなかった。
総督府から市民外出を禁止する指示があったのに500人ほどの朝鮮人
が太極旗や赤旗を掲げ、花束や贈り物を持ってアメリカ軍に近寄ろう
としたところ、警備していたアメリカの警察部隊が勘違いして発砲
、死者5人を含む多くの重傷者が出た。しかし、ホッジ中将は警官の
処置は正しかったといって褒めた。
名越二荒之助「日韓2000年の真実」
13 :
AAA:2001/05/03(木) 02:24 ID:VDxZ4I1k
王子たちの高官は感激して秀吉に手紙を送っている。
「清正は利欲を求めず、ただ正事に奔走した。朝鮮北部を席巻すること、
勇猛果敢であって、その姿は神か人か、男子の中の男子であった。会寧
で両王子を捕らえた時は、辞を低くし、謙虚そのものであった。この姿
に日本の風格を見る思いがした。両王子を釜山に送るまでの態度は一貫し
いた。これこそ真の仁人であり、君子中の君子である。貴国の忠臣名将録に
記録して明らかにすべきではないか」
本妙寺所蔵(熊本県)
名越二荒之助「日韓2000年の真実」より
15 :
名無し:2001/05/03(木) 02:45 ID:lCnnMjUw
こういう証拠が残っている歴史事実こそ両国の歴史教科書に
掲載すべきだ。もっとも韓国人は捏造資料だと言うだろうが。
こんど外務大臣に就任する人物にはある程度の近隣諸国関係史
を心得ていてほしい。
>>13 警官はほめられたって書いてあるだろうが!
ほめられてるのに何でかわいそうなんだよ、バカか?
17 :
無明:2001/05/03(木) 09:24 ID:eY/pKRMc
>14
これですか。
丁重に両王子を遇したのは知ってたけど
随分感謝されてるね。
でも
>朝鮮北部を席巻すること、
>勇猛果敢であって、その姿は神か人か、男子の中の男子であった。
これは・・・・。
戦死した朝鮮の義兵とかが読んだら悔しくて泣くだろうな・・・。
それに、加藤清正はどこかの城市で大虐殺してなかっただろうか。
18 :
名無しさん:2001/05/03(木) 10:40 ID:X398S4cw
>それに、加藤清正はどこかの城市で大虐殺してなかっただろうか。
捏造だったりして
韓国の歴史だと、加藤清正は朝鮮半島で死んだことになってるぐらいだし
19 :
虎退治:2001/05/03(木) 13:06 ID:AScV28B2
両王子は京城(今のソウル)に帰ってから、清正公の恩を忘れないために、京城の南
大門外に清正公の廟を作った。そこには肖像画を掲げて生きながらの社とし、両王子
は親しく祭文を読み上げた。
「日韓2000年の真実」 国際企画
20 :
名無しさん:2001/05/03(木) 14:16 ID:vl223t.s
そう言えば、ある歴史雑誌でこんなことが書いてあった。
慶長の役(第二次朝鮮出兵)が起こったのは朝鮮が講和状に次のような
ことがかいてあったのが原因だそうです。
本当は明の救援軍が来たので、勝ち目無し、と見た秀吉は、侵略を諦め
講和することにし、明の使者(沈惟敬)を宴を開いてもてなし、講和状を
受け取って、帰した。しかし、講和状を調べてみると、
「日本(日本国王秀吉)は朝鮮の家臣になる」
とかかれてあって、このたったひとつの文章のせいで、第二次朝鮮出兵が
行われた。
これが事実かどうかは怪しいけど、確かに第一次朝鮮出兵のときは全く
虐殺が無かったのになぜか第二次朝鮮出兵だと虐殺が多発してるから、
本当かも知れません。
正直言ってとても信頼できない話しですが、誰か詳しい方居ないで
しょうか?
21 :
虎退治:2001/05/03(木) 15:23 ID:.pslCq1E
壬辰元年七月二十四日に捕らわれてから礼遇され、厚い保護を受け、衣服
糧食を与えられ、至れり尽せりの待遇を受けた。このたび関白殿下に上申
して釜山から京城に送り還された。その慈悲は仏のごとくである。もし、
一行の者がこの恩を忘れ後日、日本及び清正公に対し、僅かでも背く
ようなことがあったら、人情を弁えぬ者であって天地の神々もこれを知って
いるであろう。
朝鮮王子から清正にあてた書状 紀州徳川家所蔵
22 :
棄て:2001/05/03(木) 16:32 ID:5Xsi/TAI
>>21 韓国ネイティブの意見が聞きたいね。
なんていうのか、何となく判るけど。
23 :
粕谷真人:2001/05/04(金) 01:28 ID:0YiReAOU
>10
レスをありがとうございます。
朝鮮人は救いがないな。
24 :
ななし:2001/05/18(金) 15:30 ID:b5PgBj7s
25 :
反省汁:2001/05/18(金) 16:18 ID:5m0O27n2
その資料を韓国側に見せたところで
「捏造」と言われるのは目に見えてるな。
韓国側の飼料とクロスでチェックしないと
信頼性のある資料とは認められないだろう。
ま、たとえ、「信頼性」のある資料だと
客観的に分ったとしても、
先方が何て言ってくるかは目に見えているな。
清正に殉死した朝鮮人
金宦は文禄の役の時、加藤清正の軍門に降った。その後は、案内役になって
日本軍に貢献した。もともと彼は気概のある人物だったので李氏朝鮮の国政
紊乱や人心の腐敗に耐えられなかった。それに比べて日本軍は志操堅固で義
烈の風があった。特に清正の温情の厚さに感謝して熊本まで付き従った。
熊本に住みついた彼は、近習役として二百石を貰った。
慶長十六年清正が死ぬと彼は恩義に感じて清正に殉死した。墓は清正の墓
の南側にあり、今でも「金宦さん」として地元熊本では親しまれている。
「日韓2000年の真実」から
朝鮮征伐の時、朝鮮人が強制連行されたというが多くの場合、自らの意志で
来日し優遇され、祖国よりすばらしい日本に満足して日本の土となった。
併合時代、多くの朝鮮人が日本にあこがれて来日したがその構図は400年
前にすでにあったのである。鳩山氏や田中真紀子氏には正しい日韓史を勉強した
上で「新しい歴史教科書」に言及してもらいたいものだ。
>25さんへ
おっしゃることはよーくわかる。おいらもそう思う。しかし、考えてみれば、
400年前の我々先祖が今日の韓国の異常な反日政策によって子孫が迷惑を
被ることを予測しただろうか。そこまで予測して捏造文書を作成したとは言
い難い。鑑定すれば当時の文書であることは明白なのだから。
28 :
名無しさん@お腹いっぱい:
>「日本(日本国王秀吉)は朝鮮の家臣になる」
「日本は明の家臣である」か「朕(明皇帝)は汝(日本国王秀吉)を日本国王と認める。せいぜい精進してがんばれ」の間違いとかと思われ