1 :
名無しさん@1周年:
実態はどんなもん。
戦闘の経緯は?。占領地はどんな感じだったの?。略奪やレイプは?
明の援軍はどの程度のもん?。規律なんかはよかったの?。
朝鮮の文化財や文献の多くは、このとき焼失したの?
日本の陶磁器の産地の多くは、このとき強制移住させた朝鮮人がルーツなの?
いまだに加藤清正を恐れる余り、北朝鮮のミサイルが熊本を向いてるって本当?。
…
とにかく酷いものでした。朝鮮人の耳や鼻を塩ずけにして日本に送ったり、
とにかく野蛮人ですよ日本人は。
3 :
名無しさん:2000/07/12(水) 15:29
泗川の戦い
島津義弘軍7000余りが明・朝鮮軍20万を破り、斬首4万…
凄い…
4 :
名無しさん@1周年:2000/07/12(水) 15:33
やっぱ首を持ってきた方が良かったかな?>2
朝鮮人は顔がでかいからやたら嵩張るんだよね(苦笑)。
5 :
名無しさん@1周年:2000/07/12(水) 15:38
>2
日本軍の従軍僧が書いてた記録があるけど、ほんと酷かったらしいね。
でも鼻を切りとって送ったのはボディカウンティングの一種では?
鼻と一緒に上唇も切りとって髭が付いてなかったら無効だったとか。
6 :
名無しさん@1周年:2000/07/12(水) 15:50
>2
ところでおたく在日?
7 :
名無しさん@そうだ選挙にいこう:2000/07/12(水) 16:01
朝鮮人に味方して戦った日本人もいるでしょ
8 :
名無しさん@1周年:2000/07/12(水) 16:01
弱小国を攻めて何が悪いの?
9 :
名無しさん@1周年:2000/07/12(水) 16:06
400年前と今じゃ野蛮の概念も全然違うしね。
10 :
名無しさん@1周年:2000/07/12(水) 16:11
>島津義弘軍7000余りが明・朝鮮軍20万を破り
そんな弱かったの?(大笑)
結局日本の植民地になる経過もやっぱり同じ理由かな。
11 :
名無しさん@1周年:2000/07/12(水) 16:12
しかし、何故そんな弱いのだろう?
12 :
名無しさん@1周年:2000/07/12(水) 16:16
やる気と日頃の鍛錬の差でしょう。
体格はともかく、長引く戦国の世で鍛えられた日本武士団は恐らく当時世界最強であったろうと言われております。
空理空論ばかりを唱えて国防を疎かにしていた両班が支配する朝鮮人がかなう訳がありません。
が、陸上に限ります。(泣)
13 :
>泗川の戦い:2000/07/12(水) 16:27
泗川の戦いは朝鮮撤退に伴う退却戦でおきた非常に厳しい局面の戦いである。
退却する日本軍の殿軍に指名されたのが名将として名高い島津義弘であった。
島津義弘はあらかじめ城のまわりに火薬をつめた樽を置き、明軍が攻めかかってくるやいなや、その樽を鉄砲隊に撃たせた。
すると轟音とともに樽は爆発し、明軍は混乱状態へと陥る。
そこへ薩摩の誇る抜刀隊が斬りこみ明軍敗走。
当時の武士達の歩兵を主戦力とした陸上戦の強さは世界最強クラスであったことは間違いない。
14 :
>12:2000/07/12(水) 16:27
確か、当時世界の銃の半分は日本にあったと言われてますからな。
15 :
名無しさん@1周年:2000/07/12(水) 16:28
>12
いや明治維新以降でみても日本軍と清軍の錬度にはかなり差があったみたいだよ。
どうも、中国で軍隊と言うと「烏合の衆」とか「夜盗」とかに近い面があったようだ。
中華文化圏では武人は尊敬されず、社会の底辺のクズがやる職業らしいね。
16 :
名無しさん@1周年:2000/07/12(水) 16:36
朝鮮人って自分勝手だから統率が取りにくいのでは
ないかな。20万人いたって戦力は19万9千人
くらいかもしれませんよ。
17 :
大金 隆晴:2000/07/12(水) 16:39
李舜臣が日本の水軍を徹底的に撃破した事を忘れるなよ!
露梁海鮮で日本水軍を破った時に戦死なんて、愛国心溢れる
朝鮮人らしい死に方だな。軍のトップが真っ先に逃げ出したり、
一般市民を人間の盾にしたりするどこかの国の連中とは、まったく
違うな。
18 :
>17:2000/07/12(水) 16:43
プッ
明に後ろ盾してもらわなかったら、そっこー滅亡のくせに(わら
19 :
名無しさん@1周年:2000/07/12(水) 16:43
現代日本では戦争に強いと言うのは「軍国的」とか「帝国主義的」とか言われて
一方的に非難される事が多いけれど、世界史的に見るとどうもそうではない。
はっきり言って文明度が高いところが戦争にも強いって面は否定できないよ。
ひとつは兵器の差でこれは文明度の差と大きな関係がある。もうひとつは組織力の差。
特に歩兵の場合はこれが重要。ローマ人vsゲルマン人なんて本当に少数のローマ軍が
何度も何度もゲルマン軍を叩きのめしているよ。
ま、戦争「しか」強くない国は軽蔑されるだろうけど、実際には戦争が強い国は
戦争以外でも強い場合が多いんだな。
20 :
名無しさん@1周年:2000/07/12(水) 16:46
>15
ここの趣旨とは外れるが、支那で武人の地位が低下したのは北宋以降のことですね。
それまではずっと武断政治で武人の方が権力に近かったはずです。
釈迦に説法なら申し訳無い。
21 :
名無しさん@1周年:2000/07/12(水) 16:49
む、大金 隆清発見!
おまえ他のとこで一杯レス求められてるんだからちゃんといけよ!
逃げると負けを認めたと見なすからな!
22 :
名無しさん@1周年:2000/07/12(水) 16:50
字間違えた。隆晴でした。
23 :
名無しさん@1周年:2000/07/12(水) 16:51
日本だって常に武人に権力が集まったわけではない。
平和な時代は文官に権力が集まるし、争乱の時代は武人が強い権力を持つ。
ちょーせんの問題は常に文官がいばっていることだな。
しかもその割には経済、文化ともにしょぼすぎ(わら
24 :
名無しさん@1周年:2000/07/12(水) 16:56
>23
源頼朝以降は、ほぼ一貫して武家政権だったといっていいだろ。
それに朝鮮が文治主義に大きく傾いたのは、李朝以降といっていいと思うよ。
25 :
名無しさん@1周年:2000/07/12(水) 16:58
露梁海戦は日本の勝利では?
26 :
名無しさん@1周年:2000/07/12(水) 17:02
>李舜臣が日本の水軍を徹底的に撃破した事を忘れるなよ!
徹底的には撃破されていません。
日本水軍にはまだ余力は十分あり、秀吉の死によって撤退しただけですよ。
もし秀吉が死んでいなければ、李瞬臣の死によって、
朝鮮水軍は司令官不在のまま戦わなければならなかったのですよ。
ちゃんと歴史を勉強しましょうね(プッ
27 :
名無しさん@1周年:2000/07/12(水) 17:06
ヌルハチと組めば勝てた!
28 :
名無しさん@1周年:2000/07/12(水) 17:09
池宮彰一郎の「島津奔る」によると、李舜臣をやったのも島津軍になってる。
これホント?
29 :
朝鮮高校生:2000/07/12(水) 17:12
>26
歴史を勉強してる国民なら、なぜ世界中から「自分達の犯した戦争犯罪を
贖罪すらしない馬鹿な国家」とバカにされてるのですか?
30 :
名無しさん@1周年:2000/07/12(水) 17:14
武士=武官ではないとおもうが。
江戸期は文官に権力集まってる。
現代も官僚=文官とすればある意味そうでしょ。
31 :
26>29:2000/07/12(水) 17:17
そんなことを本気で思っているのは貴方のような民族だけですよ。
あなた達の言う戦争犯罪って捏造ばかりじゃないですか(ぷぷっ
32 :
>14:2000/07/12(水) 17:18
当時ヨーロッパ最強のフランス陸軍の銃の保有数が1万に対して
日本は10万近く持ってたらしいね。
これはヨーロッパ中の銃よりも多かったらしい。
33 :
名無しさん@1周年:2000/07/12(水) 17:20
>当時って16世紀後半を指してるんなら、スペインのテルシオが最強だったと思いますが?
34 :
名無しさん@1周年:2000/07/12(水) 17:22
19世紀初頭なれば異存はありませんが。
35 :
>20:2000/07/12(水) 17:22
いや、元々中国の歴史を見てると秦の時代以降は農民や夜盗崩れの軍隊が
主流だったのでは?
もちろん正規軍と呼ばれる物はあっただろうが・・・
漢の開祖も町でぶらぶらしてたようなおっさんだしね(笑)
36 :
>29:2000/07/12(水) 17:22
世界中から正真正銘の馬鹿国家と認識されている北朝鮮を支持しているクセに
よく言えるもんだね、その台詞。
恥ずかしくないの、マジで?
37 :
>28:2000/07/12(水) 17:23
ほんとかなぁ?
島津に水軍なんてあったとは思えん。
あんとき水軍率いてたのは九鬼とかでは?
38 :
32>33:2000/07/12(水) 17:24
んー、わかりません。
銃の保有数うんぬんはあってると思います。
39 :
20:2000/07/12(水) 17:28
>35
時代の切り方が悪かったようですね。三国、晋代以降五代十国までは武断政治、というべきかと思います。
40 :
名無しさん@1周年:2000/07/12(水) 17:28
>29
朝鮮人どもが戦争犯罪などといって
言いがかりを付けているのはほとんど
が捏造されたものだ。これは正しい。
朝鮮人はもっと多角的観点から歴史を
見てみるとよい。自国の教育がいかに偏った
ものかが分かるぞ。そしたらあなたのような
発言はもう出来ないでしょう。
41 :
>33:2000/07/12(水) 17:28
テルシオってどうゆう風に強かったん?
具体的な戦果おせーて!!
42 :
33:2000/07/12(水) 17:30
>41
すんまへん、手元に資料がないので家帰ってからレスしますんで、ちょっと待っててね。
43 :
名無しさん@1周年:2000/07/12(水) 17:31
テルシオてなに?
越後?
44 :
>32:2000/07/12(水) 17:33
アイリス・チャンは認めていない。彼女によると、当時の
日本は鉄砲など造れるはずのない「知恵遅れの国」だったそうです。
45 :
名無しさん@1周年:2000/07/12(水) 17:33
>30
いやいや、鎌倉幕府を成立させた武士は「官僚」というより「独立自営農場主」
これが時代が下るに従い封建体制化が進んで「領主」になってくる。
戦国時代は、そこここにある小領主をまとめ上げることに成功したものが
戦国大名としてのし上がってくるわけで、家臣はまだまだ官僚ではない。
江戸時代でも初期は藩士は藩内に自分の領地がある場合が多かったが、
末期になるとサラリーマン化して文官化官僚化してくる。
試験によって選抜された優秀な官僚が国を治めるという一見合理的な
方式よりも、世襲の領主が国を支配した日本やヨーロッパのほうが
長い目で見れば善政が敷かれたのは皮肉なことですな。
46 :
>42:2000/07/12(水) 17:34
期待して待ってます。
>14
嘘言いなさんな
48 :
>44:2000/07/12(水) 17:36
そうなの?
しょーもなー。
東アジアの中世史勉強した人間なら誰でも知ってることを。
49 :
名無しさん@1周年:2000/07/12(水) 17:43
普通はスレッドなんてこんな感じのはずだよなぁ・・・。
50 :
>45:2000/07/12(水) 17:57
文官=官僚とは考えていないのですが、武官、文官の定義がおおざっぱだったかもしれません。
私は単純に武官は軍事、文官は政治、経済をやるって考えていたもので。
戦国時代はそこらへんが結構あいまいだけど、末期は明確に両者区別されてませんか?
関が原なんかは根っこに武断派(福島、加藤)、文治派(五奉行)の対立がありますし。
私は既に戦国末期には武官、文官の区別はあったと考えているのですがどうでしょうか?
51 :
名無しさん@1周年:2000/07/12(水) 18:00
>49
ちょっとさみしいけどいいかんじね。
荒らしの前の静けさか。藁
52 :
名無しさん@1周年:2000/07/12(水) 18:21
李舜臣って400年間 反逆の人だったんでは?
日露戦争の時 日本軍が李舜臣のことを、研究してた
のを、最近の韓国人が知って一躍英雄になったん
じゃなかったけ?
日本は謝罪しろ!!!我々は決して忘れはしないぞ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
54 :
名無しさん@1周年:2000/07/12(水) 18:24
オランケには、言わないのですか?
55 :
名無しさん@1周年:2000/07/12(水) 18:25
少ない脳みそにはそんなんしか入ってないんだね。(藁
56 :
名無しさん@1周年:2000/07/12(水) 18:32
>50
この話元に戻ると、前近代における日本と朝鮮の政治体制の違いの問題だから、
「武」VS「文」と言う切り口よりも
「日本的封建体制」VS「中国的官僚体制」という切り口のほうがうまく説明できると
考えています。その意味では文治派であれなんであれ、主君から領地を
もらい(又は安堵され)代わりに軍役を課せられた軍人であることに違いはありません。
江戸時代に大名に課せられた各種の公共土木工事も軍役の一種です。
一方李朝の文官は基本的には科挙に合格した者が貴族化したものでしょ。
やっていることは似ているようでも過程はずいぶん違いますね。
57 :
>44:2000/07/12(水) 19:32
確かアイリス・チャンは
「江戸幕府は16世紀初頭に始まった」
「江戸時代を通じて日本は剣と弓の戦争から脱することが出来なかった」
とか書いてましたな。
日本史の基礎知識もない人間が歴史を論じるという時点で、トンデモ丸わかりですな。
58 :
>57:2000/07/12(水) 20:05
妄言吐きまくりだねぇ。
世界で初めて組織的な銃の使い方をしたり、鉄騎馬隊という
騎馬の上から鉄砲を撃つ戦法を始めたのも日本でしょ。
そんなでたらめばかり言ってるアホをなぜアメリカの人は
信じるのかねぇ・・・
59 :
>58:2000/07/12(水) 20:20
鉄砲騎馬ってなんか嘘くさい。
伊達がやり始めたって話だけど、戦国時代の野生馬って現代のポニーみたいにちっこいやつでしょ。
当時の火縄銃なら反動が強いだろうからポニーのような貧弱な馬じゃ落馬しかねんだろうし、轟音に馬が暴れるだろ。
誰かくわしいこと知ってる?
60 :
名無しさん@1周年:2000/07/12(水) 20:20
チョーセンの王子は、加藤清正に生け捕りにされてしまいました。
チョーセンは、最も大切な王子を守る事すら出来ませんでした。
61 :
名無しさん@1周年:2000/07/12(水) 20:21
>58
>世界で初めて組織的な銃の使い方
これも違うみたいだぞ。
62 :
名無しさん@1周年:2000/07/12(水) 20:22
>58
長篠の3段撃ちも史実でないようだ。
63 :
名無しさん@1周年:2000/07/12(水) 20:23
なぜ朝鮮は銃を作って反撃しなかったのですか?
作れなかったのですか?すいません素人です。
64 :
>61:2000/07/12(水) 20:27
やっぱりそうなんだ。
なんか、あの時代の鉄砲系の話は嘘が多い気がするぞ。
だいたい、長篠の合戦の鉄砲のつるべ打ちも間違いらしいって話だよね。
あれはただ単に馬防柵をつかったトーチカ戦術らしいからな。
65 :
>59:2000/07/12(水) 20:27
66 :
名無しさん@1周年:2000/07/12(水) 20:28
>63
もともとは中国式の火砲しかなかったので、
日本人捕虜に作らせたけど、いいのが出来なかったそうな。
でも、あっちの教科書にはたしかさっそく日本の銃を作って反撃
したとか書いてあったと思う。
67 :
>63:2000/07/12(水) 20:29
反撃しました。
日本の雑賀衆のサヤカってやろうが寝返って、朝鮮に鉄砲の技術を伝えたようです。
なんだかんだいって、ちょーせんじんは日本人に助けてもらってやんの。
68 :
>61:2000/07/12(水) 20:30
しかし、当時鉄砲隊とか組織ができるほど銃があった国は
日本かヨーロッパの大国くらいでしょ?
69 :
名無しさん@1周年:2000/07/12(水) 20:30
63です。ありがとうございます
70 :
名無しさん@1周年:2000/07/12(水) 20:30
トーチカ戦術が効いたんだよ。
71 :
名無しさん@1周年:2000/07/12(水) 20:31
だいたい、あの当時の黒色火薬?でバコバコ撃ったら何にも見えなく
なってしまうがな。
72 :
>65:2000/07/12(水) 20:33
なるほど、了解いたしました。
嘘じゃないんだ・・・・
73 :
>66:2000/07/12(水) 20:35
でも、独自に作ったわけではなく、日本人に作ってもらったんだけどな。
朝鮮しょぼー
74 :
名無しさん@1周年:2000/07/12(水) 21:19
でもどーしてそんな便利なもんをご先祖様達はすっぱり捨て去ったのでせう?
世界史上の一大珍事でありんすな。
75 :
名無しさん@1周年:2000/07/12(水) 21:22
>74
それも間違い。決して鉄砲を捨てたりしてないよ。
76 :
名無しさん@1周年:2000/07/12(水) 21:25
とにかく米人の書いた「鉄砲を捨てた日本」?だっけか、全部ウソ。
注意しまひょ。
77 :
名無しさん@1周年:2000/07/12(水) 21:25
進化させて使うほど興味を示さなくなったっていうとこかな
78 :
名無しさん@1周年:2000/07/12(水) 21:29
>75
捨てはしなかったけど、○○流という伝承芸にしてしまい、
兵器としての発展性の芽は摘んだよな。
79 :
>78:2000/07/12(水) 21:33
あと狩猟用に平和利用したってとこかな。
大砲の技術は花火に・・・
80 :
>46:2000/07/12(水) 21:39
42です。まだ見てるかな?
テルシオとはそのまま訳せば連隊ですが、
16世紀前半にスペインのコルドバ公ゴンサーロがそれまでの重装歩兵と軽騎兵による密集戦術を
軽装歩兵と重騎兵その他機動力中心の編成に作り変え、それまでの軍事常識を覆すような改革を行い
主にイタリアで赫々たる戦果をあげました。その率直の部隊がテルシオと呼ばれるものです。
↑見つかんないんでうろ覚えの記憶からサルベージしましたので間違いはビシビシ訂正して下さい。
で、主な戦いについてはまだ資料捜索中ですが、この板でいいのかな?軍事板の方がもっと詳しい人いるんじゃないかな?
81 :
>80:2000/07/12(水) 22:09
説明有難うございます。
世界史版にでも16世紀末最強の陸軍は?でスレ立ててみます。
82 :
名無しさん@1周年:2000/07/12(水) 22:12
三段撃ちが無いとか言ってるアホ発見。
83 :
>82:2000/07/12(水) 22:24
どういった根拠でそういっているのですか?
教えて欲しいです。
84 :
83訂正:2000/07/12(水) 22:25
根拠というよりも文献、学説を教えてください。
85 :
名無しさん@1周年:2000/07/12(水) 22:26
素人意見ですまんが。
スペイン軍は30万人もの陸軍を持ってたの?
数も考慮に入れれば日本のほうが上だったのでは?
86 :
>85:2000/07/12(水) 22:31
当時欧州最強の話です<テルシオ
87 :
85:2000/07/12(水) 22:34
>86
本当だ、よく読んでなかったみいたい。
ごめんなさい。
88 :
名無しさん@1周年:2000/07/12(水) 22:38
しかし三段打ちがなかったのなら、三段打ちの伝説はどこから出てき
たのだろう?実際に合理的な作戦であることは確かだし、そんなに新
しい伝説とも思えん。長篠で信長が初めて使ったというのは神話でも、
戦国時代にはそういう戦法は使われてたんじゃないのか?詳しい情報
求む。
89 :
>86:2000/07/12(水) 22:42
あ、そうなんだ。
話のながれから世界最強だと勘違いしちゃったよ。
世界史版にそのまんまスレたてちゃった。ごめんね。>86
90 :
>88:2000/07/12(水) 22:43
82が説明してくれるよ。きっと
91 :
名無しさん@1周年:2000/07/12(水) 22:44
国レベルでみれば人口密度の低い欧州は一国の動員力は多寡が知れてますね。
当時日本は全国で60万人以上の動員が可能(1万石当り250人として2600万石で)
なので一対一なら最強でしょう。
動員力だけみたら明が一番ですが、元がただの農民の上、装備も士気も最低とあっては・・。
92 :
名無しさん@1周年:2000/07/12(水) 22:46
>88
3段撃ちは江戸時代の講談だったか、軍記物だったかが初出だと聞いた。
信長公記には出てこない、のだそうな。
93 :
名無しさん@1周年:2000/07/12(水) 22:49
82、はよ出てこい。
94 :
88:2000/07/12(水) 23:05
>92
さっき速攻で「信長公記」の長篠の部分読んだけど、確かに三段打
ち話はないみたいね。
95 :
名無しさん@1周年:2000/07/12(水) 23:28
三段撃ちは無かったってのが定説になりつつあるけど、それに近いものは
あったんじゃないかな。例えば、撃ち手とそれをサポート(弾を詰めたり)する役
を別々にしたりとか。上手い人に撃たせた方が命中率も上がるし効率的だと思う。
信長だったらやりそう。
つーか、こんな糞板で盛り上がるより日本史板逝こうよ。あっちのがおもろいよ。
96 :
>95:2000/07/12(水) 23:32
1列に並んで時間差で撃つというくらいならやったかも
97 :
名無しさん@1周年:2000/07/12(水) 23:33
確かにつめ方と撃ち方に分けると良いかもね。
98 :
名無しさん@1周年:2000/07/12(水) 23:40
>95
糞板で盛り上がっていて悪かったな。
お前、日本史板の寂しいスレの専門家だろう。一人で逝きな。
99 :
名無しさん@1周年:2000/07/12(水) 23:53
あー、うざい、
大金の野郎古典で散々論破してやったのにまだこんなこと言ってるとは、
早く古典教えてよ、在日の人間らしきレス一つもねーぞ。
秀吉が焼いたからなんて言わせねーからな。
>52
>李舜臣って400年間 反逆の人だったんでは?
>日露戦争の時 日本軍が李舜臣のことを、研究してた
>のを、最近の韓国人が知って一躍英雄になったん
>じゃなかったけ?
その通り、日本人が認めなきゃ英雄にもならない国よ。
他に誰かいたの?明の人あげちゃだめよ。
ま、日本人も馬鹿な大阪の教員軍団の圧力に教科書会社が負けて
そんな程度の奴の名前覚えないと点とれないなんて情けない状態だけどね。
>95
三段撃ちそのものはどうか分からないけど、昔、足利のりよし(字忘れた)
の評価本にチラッと書いてあったけど、弓矢の射法でそういうのがあったはずです。
昔の弓でも4、5秒は掛かっているはず、それが15秒に変わっただけですね。
信長の偉いところは産業を発達させ大量の鉄砲を製造し、軍のとき圧倒的な
数で勝てる軍しかしなかったことですね。
>29
相変わらず謝罪か400年もたってダメージ回復できないお前の国って何いったい?
前の戦争も50年超えてもあの程度の国か?
悪いこと言わないそんなに嫌なら地上の楽園に帰れ
いいな、朝鮮人は地上の楽園があって、うちら真面目に働くしかねーからな。
100 :
>98:2000/07/13(木) 00:10
まぁいいじゃん。日本人同士でケンカすんなよ。
とりあえす朝鮮は戦争弱いって事で。
101 :
名無しさん@1周年:2000/07/13(木) 00:35
102 :
名無しさん@1周年:2000/07/13(木) 00:47
99>101
三段撃ちがあったかなかったで盛り上がるスレではないけれど
一言だけ、講談本などで三段撃ちがでると言うことは兵法の一つで
弓などで既にあったのでそれを元にして脚色したかも知れません。
前スレで書いたように産業基盤の充実により従来250石につき兵士
一人(それも半農半兵から専任兵士)の打破にあった事です。
ま、こんな話は歴史板でしましょう、テーマは唐入りについてです。
(文禄・慶長の役や朝鮮征伐などと呼ぶの止めましょう、我々の
先祖はあくまでも明と戦争したのであって朝鮮は単なる植民地で
あることが定説でうから。ププこの煽りについてこれるかな)
103 :
名無しさん@1周年:2000/07/13(木) 00:48
定説でうから==>定説ですから
失礼間違えました。
104 :
名無しさん@1周年:2000/07/13(木) 01:27
>102
明が主敵だから朝鮮成敗は止めましょうは、まだ分かるけど、
文禄・慶長の役がなんで駄目なの?。
105 :
名無しさん@1周年:2000/07/13(木) 01:38
結論
オスマントルコ≒スペイン>>他のヨーロッパ諸国>>>日本>>明>>>>>>>>>>>朝鮮
106 :
名無しさん@1周年:2000/07/13(木) 01:49
アメリカ合衆国、元はどの辺ですか?
107 :
>106:2000/07/13(木) 01:54
16世紀末限定です
108 :
>105:2000/07/13(木) 02:02
馬鹿。
オスマントルコはともかくスペイン、ヨーロッパ諸国よりは
強かったよ(藁
109 :
名無しさん@1周年:2000/07/13(木) 02:04
ポルトガルが入ってない・・・
110 :
名無しさん@1周年:2000/07/13(木) 02:06
ポルトガル、イギリス、オランダの順位は?
111 :
名無しさん@1周年:2000/07/13(木) 02:06
朝鮮最弱で異議ありませんか?
112 :
名無しさん@1周年:2000/07/13(木) 02:08
nai
113 :
名無しさん@1周年:2000/07/13(木) 02:12
102>104
文禄・慶長の役と言うのは後の話なんです。(明治以降だと思った)
当時の認識はあくまでも「唐入り」これで統一したいからなんです。
壬申倭乱や文禄・慶長の役というと戦った相手が違うと勘違いするからなんです。
(単なる提案です。もちろん決めるのはこのスレの人です)
ま、僕が明と戦ったという言い証拠は李将軍以外の人物って半島側から
具体的に誰も出てない証拠から分かると思います。
(もし、出して頂ければ不勉強誤ります「心からの謝罪」はしないよ)
114 :
名無しさん@1周年:2000/07/13(木) 02:13
最近では「文禄・慶長の役」と言うより、「壬辰・丁酉の倭乱」
という言い方が年々増加してます。
山川出版の世界史用語集では、18冊の教科書の内
「文禄・慶長の役」が4冊で、「壬辰・丁酉の倭乱」が11冊と
なっております。
日本の教育の荒廃ここに極まれりってところでしょうか。
115 :
>108:2000/07/13(木) 02:14
そこに至った考察
1.オスマントルコと日本
比べ物にならん。
2.オスマントルコとヨーロッパ諸国
16世紀末には強大だったオスマントルコもハンガリーを奪還されたりして、ヨーロッパ勢が盛り返す。ここから衰退へ。
3.ヨーロッパ諸国の中ではスペイン最強
よって
オスマントルコ≒スペイン>>他のヨーロッパ諸国>>>日本>>明>>>>>>>>>>>朝鮮
116 :
名無しさん@1周年:2000/07/13(木) 02:18
トルコは何故に親日でげすか?
117 :
名無しさん@1周年:2000/07/13(木) 02:19
>114
アカも同和まきこんで汚い事するね。
流石に同和・在日・アカと並ばれちゃ普通の会社じゃ絶えられないもんね。
118 :
名無しさん@1周年:2000/07/13(木) 02:21
>116
ロシアに勝ったからです。
世界史の奇跡、モンゴル以来の有色人VS白人の勝者だからです。
119 :
訂正:2000/07/13(木) 02:23
2.オスマントルコとヨーロッパ諸国
16世紀末には強大だったオスマントルコもハンガリーを奪還されたりして、ヨーロッパ勢が盛り返す。ここから衰退へ。
これやっぱおかしいわ。ハンガリーを奪われたのは1699年でした。
でも1571にレバントの海戦でスペインにやぶれてるから、16世紀末にはオスマントルコとヨーロッパ諸国の軍事的技術は拮抗してきたと思う。
120 :
名無しさん@1周年:2000/07/13(木) 02:24
フィンランドも親日だね。
親韓(親朝?)の国はどこですか?
121 :
名無しさん@1周年:2000/07/13(木) 02:29
ちうごく
122 :
>118:2000/07/13(木) 02:30
その理屈で、アメリカに勝ったベトナムを評価する国ってあんまり
無いんじゃないかな。
イラク人やリビア人が親ベトナムだって話は聞かない。
俺が知らないだけかもしれんが。
123 :
名無しさん@1周年:2000/07/13(木) 02:35
118>122
そりゃそうさ、あの戦争は正々堂々と行ったからさ。
どっかの共産主義や原理主義みたいにゲリラやテロなんかしてないからね。
当時の戦争って第3国の武官が謁見可能だから戦争するにも正しいルール
の元でやってるからね。
その評価は、日本>>>>ロシアだからね。
124 :
名無しさん@1周年:2000/07/13(木) 02:42
>114
でも「壬辰・丁酉の倭乱」こそ、よっぽど差別的で侮蔑的な表現じゃないのか。
白村江の頃ならともかく、当時はとっくに日本だろ。なんで倭なんだ。
大体「倭」って字は、元々矮小の矮なんかに通ずる字だろ。
それに乱。まるで格下の叛乱ってイメージじゃないか。
だから朝鮮はムカツクんだよな。
125 :
名無しさん@1周年:2000/07/13(木) 02:45
>101
何だ、やっぱり三段打ちあったんじゃん。それも信長より早くに
雑賀衆が考えてたんだね。長篠の伝説より天才信長の神話が一つ
崩れたことが私的には悲しい。
>105
16世紀最強の王朝はインドのムガール帝国だったってトインビ
ーか誰かが言ってなかったっけ?あれは軍隊の強さじゃなくて経
済などもひっくるめた総合的な国力のことなのかな?それに当時
の日本は陸上戦ならどう考えてもそこまで弱くはないのでは?
>120
モンゴルは親韓の国ですよ。
126 :
名無しさん@1周年:2000/07/13(木) 02:46
118>124
その当時国でもない彼らの自尊心を満足するには、
妄言はくしかしょうがないかも知れませんね。
可哀想で藁藁
127 :
名無しさん@1周年:2000/07/13(木) 02:47
日本は親韓じゃないの?
128 :
名無しさん@1周年:2000/07/13(木) 02:48
世界一の親韓国は日本だと思います。
129 :
名無しさん@1周年:2000/07/13(木) 02:54
だけど半強制的
130 :
名無しさん@1周年:2000/07/13(木) 02:58
>125
ムガル帝国は強いらしいけど軍隊の詳細がちょっとわからないもんでオミットさせてもらいました。
日本とオスマントルコについては火力が違いすぎると思います。
1453年のコンスタンチノープル攻略戦で既に大砲を所持していたとか。
日本では1586年に大友宗麟が丹生島城防衛戦で国崩という大砲を使ったのが初めてでしょう。
あとイェニチェリという歩兵部隊がバカ強らしいです。
よって日本武士団が強いってのは妄言(^^;
131 :
>129:2000/07/13(木) 03:00
そうか?日本は左翼さんが多いじゃない。
彼等は自らの意志で親韓貫いていると思うが?
132 :
名無しさん@1周年:2000/07/13(木) 03:01
>125
モンゴルが親韓って意外。日本や中国に対してはどうなんでしょう。
133 :
125:2000/07/13(木) 03:01
>130
なるほど。
134 :
名無しさん@1周年:2000/07/13(木) 03:07
韓国ではモンゴルに自分達のルーツを求めることが多いそうです。
だからモンゴルに対する国民感情もよくて、経済的な援助や文化な
どの交流も盛んで、結果モンゴルも親韓なのだそうです。
そういえば前に日本のボクサー倒して世界チャンピョンになったモ
ンゴルのボクサーが「モンゴル及び韓国のみなさんに感謝します」
みたいなこと言ってたような。確かな記憶じゃないですが。
135 :
名無しさん@1周年:2000/07/13(木) 03:08
>130
近接白兵戦の強さは、古来より日本の伝統芸です。
銃剣突撃万歳。
ただ日本の場合、城郭都市がなかったので、大筒や投石器
といった兵器が発展しなかったとも聞いたことがありますが
どうなんでしょう。
136 :
名無しさん@1周年:2000/07/13(木) 03:09
118>131
いやいや、アカさまは本当は、アカが大好きです。
昔はソ連・中国・北とわかれていたんです。もちろん反日日本人ね。
ソ連崩壊・中国は経済解放・北はあの通り、で周りをみたら反日でまともな国って
韓国だけなのが現状だから軍事独裁国家なのに目をつぶって親韓よそおっているだけです。
本当は、厚底ブーツに黒目がね、おばさんパーマの人が大好きなんです。
137 :
全斗換3 :2000/07/13(木) 03:09
>130
イェニチェリという歩兵部隊は、キリスト教民をイスラム教徒に
改宗させて、軍事教練を施した、スルタン直属の歩兵隊で、嫁を
もらうことを禁じられていたね!!
あと、シパーヒーという騎士団もあったね!!
138 :
名無しさん@1周年:2000/07/13(木) 03:13
オスマントルコ>>>>>>>>>>>>>>ローマ帝国
139 :
>135:2000/07/13(木) 03:15
日本でも大阪の陣では大砲が使われたというから、城攻めにおいての大砲の有効性は認識していたはずです。
ただ、入手が困難だったんでしょうね。
また、近接戦闘においてもイェニチェリは非常に強く、死をまったく恐れなかったらしいです。(要はイスラムに洗脳されていたから信仰の為に死ねる)
日本で対抗できるのは薩摩隼人くらいでしょう・・・・
140 :
名無しさん@1周年:2000/07/13(木) 03:16
ソープランド>>>>>オスマントルコ>>>>>>>>>キーセン
141 :
名無しさん@1周年:2000/07/13(木) 03:16
>135
>ただ日本の場合、城郭都市がなかったので、大筒や投石器
そうか?大阪の陣ではドカドカとやってたぞ。大筒そろえてね。
142 :
名無しさん@1周年:2000/07/13(木) 03:20
>137
宗教がかってるのは怖いよね。聖戦で死ねば天国(時には極楽)だしな。
黄巾党か一向一揆かイ・イ戦争のイランか…。
143 :
名無しさん@1周年:2000/07/13(木) 03:21
女が戦場で男を逆レイプしたという話はついぞ聞いたことがないな。
144 :
名無しさん@1周年:2000/07/13(木) 03:23
オスマントルコマンセー!!!!!
145 :
名無しさん@1周年:2000/07/13(木) 03:24
2ちゃんとヤフーとハンボードがある時点で日本は世界最強の
親韓国家です。
146 :
名無しさん@1周年:2000/07/13(木) 03:25
朝鮮人のみなさまへ
当時の日本武士団が世界最強であることを証明するためにはどのように歴史を歪曲すればよいのでしょうか?
レクチャアしてくださいませ。
147 :
名無しさん@1周年:2000/07/13(木) 03:27
>141
戦国時代の大規模な城攻めって、小田原と大阪の陣くらいだろ。
それに大阪の陣は戦国も最後というか、既に江戸幕府が出来た後だし、
ドカドカぶっぱなずほど、大筒の数は無かったはず。
その後の島原の乱ではどうだったんだろう。
これが西欧や中国の戦争になると、都市が丸ごと城郭の場合も
あるから、攻める方も大変だったらしいぞ。
148 :
名無しさん@1周年:2000/07/13(木) 03:29
>143
戦場でなくても、そんなのあるのか?
149 :
名無しさん@1周年:2000/07/13(木) 03:31
>148
日本でもあるらしいぞ、とくにショタコン。
150 :
名無しさん@1周年:2000/07/13(木) 03:36
ただね、日本の鉄砲隊の質は世界クラスだったと思うよ。
早込め(簡易薬莢)や雨の日にも撃てるような工夫がされていたというし。
151 :
名無しさん@1周年:2000/07/13(木) 03:42
>143
ソ連女性兵士が、捕虜の日本兵にやったとか。
152 :
名無しさん@1周年:2000/07/13(木) 03:54
武士団の世界的強さは強さとして、結局その戦争によって
利益を得ることが出来なかったんだから失敗だよね。
ところで、李舜臣の水軍はどこがそんなに優れていたため
強かったのでしょう。亀甲がどのこうのという話を聞いているが…
153 :
名無しさん@1周年:2000/07/13(木) 03:59
| ________________ |
| | ______ | |
| | | モナー党 | | |
| |  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
| | ∧_∧ < 武士の就職先に文禄・慶長の役をやったモナー
| | ( ´∀`) \_______
| | __(___つ__ | |
| | | 秀吉モナー候補 | | |
|  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ |
|_____________|
154 :
名無しさん@1周年:2000/07/13(木) 04:01
亀甲船はほとんど詳細が不明です。
潜水艦のようなものだと聞いたりもしたが、それもあやしいらしい。
結局、何もわかっていない。
155 :
名無しさん@1周年:2000/07/13(木) 04:03
||
||
|| ∧_∧ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
|| (=) (´ー` ) < 当時の日本は世界最強の
|| c□☆ ) │陸軍だったモナー
|| / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄/ | │ だから、徳川幕府は安泰だったモナー
||/ □ / /| │ 外国が攻めてこれなかったモナー
(=) □ / / | \___________
/ ∧ ∧ / /
/__( @`@`)__/ / ┌─────────
|| ̄ ̄/ | ̄ ̄||/ < 当時の船は大量に兵員を輸送できなかったギコ
|| @` (___ノ || └─────────
/
156 :
名無しさん:2000/07/13(木) 04:18
明の援軍・・・・10万位です。韓国の教科書にはその記述がないです。
日本兵が撤退した後、民軍も、朝鮮国土を荒らしまくり荒廃させました。
それも当然ありません。
朝鮮を焦土へと荒廃させたと言えば、元もやってますね。
仏国寺は日本軍侵略の際、燃えたと聞きます。後の再建されています。
157 :
>156:2000/07/13(木) 04:20
仏国寺はその前にも燃えています。
秀吉軍が初めて燃やしたみたいなこと言ってるのは嘘です。
158 :
名無しさん@1周年:2000/07/13(木) 04:25
朝鮮出兵で一番おもしろい妄想は「日本は朝鮮に文化的コンプレクスを
持っていたから侵略した」ってやつだな。どう考えたらそんな結論が出
るのか疑問でしかたない。ようするに彼等は願望と現実の区別がついて
ないってことなのかな?
159 :
名無しさん@1周年:2000/07/13(木) 04:29
自分達がアングロサクソンの原型だと勘違いしとるような
連中だからな。
160 :
名無しさん@1周年:2000/07/13(木) 04:33
>159
それは本当か?。いくらなんでも…って思うけど、でもありそう。
161 :
名無しさん:2000/07/13(木) 04:38
>仏国寺はその前にも燃えています。
不勉強ですいません。もうちょっと詳しく教えて下さい。
メモるので。
>159
コリアンはドイツ人みたいなもん?でも日本人はアングロサクソン
=優秀な民族と考えるから、そういう妄想が生まれちゃうんだよねー。
日本を認めているようなものだな。
162 :
名無しさん@1周年:2000/07/13(木) 04:50
>147
>ドカドカぶっぱなずほど、大筒の数は無かったはず。
いや、驚くほどの投入量だった。手元に資料がないけど外国製のを買い付けたり
してたよ。ただ、使い方が上手だったかは不明だけど。城内の女どもを驚かす
には効果ありだった。
163 :
>157:2000/07/13(木) 05:12
これ本当?秀吉に燃やされたって書いてあるのをよく見るけど。
でも何度も再建されたみたいなことも書いてあったかな。
燃えもせず再建されるのもおかしいしな。
>162
淀君が吃驚して、速攻で講和話に乗ったようだけど、
反面、実際の攻城戦には、あまり役にたたなかった
ようだから、てっきり大した数じゃないと思ってたよ。
165 :
>101:2000/07/13(木) 09:08
そこに三段撃ちを否定しうる根拠は書いてねーけど?
むしろそれ以前から日本には三段撃ちがあったとされている。
大体8時間まともに戦える分けないじゃん。総攻撃の時間なんてせいぜい一時間ぐらいだろう・
それに鉄砲が千の引用先も明らかにしていない。堺と近江に鉄砲鍛冶集落を作らせてまで鉄砲にこだわった信長が1000で済むわけないと思うが。
166 :
名無しさん@1周年:2000/07/13(木) 09:35
こうやって見ていくと韓国の歴史って
嘘ばっかりじゃん。
167 :
名無しさん@1周年:2000/07/13(木) 10:29
「日韓歴史克服の道」(展転社)によるとソウルの城を焼いたのは李朝に不平を
持っていた朝鮮人だったそうです。
168 :
名無しさん@1周年:2000/07/13(木) 10:33
>166
朝鮮は、神話と歴史とがまだ分化していない段階だからね。
169 :
名無しさん@1周年:2000/07/13(木) 10:38
>168
え?まだ原人段階だと思ってたよ<半島
170 :
名無しさん@1周年:2000/07/13(木) 10:41
奴等って熊の子孫なんでしょ?
そもそも人類でも何でもないよ。
171 :
名無しさん@1周年:2000/07/13(木) 12:45
人と熊の共通祖先ってなんじゃろ?
172 :
>171:2000/07/13(木) 12:48
細胞
173 :
名無しさん@1周年:2000/07/13(木) 12:51
既に人と分化した熊の子じゃあ、人間ではないよ。
174 :
名無しさん@1周年:2000/07/13(木) 12:56
あの本能的ワイルドさは、熊の血が入ってるから。
私、もうだめ。
はあ−。
175 :
名無しさん@1周年:2000/07/13(木) 12:58
熊ってかわいいと思うけど
みんな嫌いなの?
176 :
名無しさん@1周年:2000/07/13(木) 13:06
おとなしければかわいい。
でもチョンはおとなしくてもかわいくない。
177 :
名無しさん@1周年:2000/07/13(木) 13:19
テディベアってチョンがモデルだったのか!
ショック〜。(藁
178 :
名無しさん@1周年:2000/07/13(木) 13:22
ルーズベルトも在日だったのか!!!
179 :
名無しさん@1周年:2000/07/13(木) 13:29
長篠・鉄砲三段打ち否定でおもしろいのは鈴木なんとか氏の
『鉄砲と日本人』ですね。
ひとりひとりが鉄砲持って、いっせいに入れ替わるのは
よっぽど訓練が必要だし非効率。
百歩譲っても撃ち方、弾ごめ役、銃身掃除役の三人分業のほうが
よっぽど効率的だ。云々」
180 :
名無しさん@1周年:2000/07/13(木) 13:35
前に何かの対談記事で見かけたんだけど、
朝鮮人に日本人と似た奴が多いのは、文禄・慶長の役の際、
日本兵が朝鮮女を手当たり次第に犯しまくったのが原因だって、
そんなことを大真面目に騙っていた朝鮮人の学者か文化人かが
いた。
本当か???
181 :
名無しさん@1周年:2000/07/13(木) 13:39
確か、降伏してそのまま朝鮮に居ついっちゃった奴が居たと思います。
前、テレビに子孫の人が出てた。
182 :
名無しさん@1周年:2000/07/13(木) 15:12
>181
サヤカです。
183 :
名無しさん@1周年:2000/07/13(木) 15:19
サヤカは雑賀のナマリ?
184 :
>180:2000/07/13(木) 15:24
そういう女性の本貫調べてけば嘘かどうかわかるんじゃないの?
185 :
>179:2000/07/13(木) 15:45
どこが非効率的なんだ?
分業こそ非効率だろう。3人のうち誰かが死んだらそのグループは使えなくなるんだぞ。
鉄砲を扱うのなら、一人で撃てるだけの訓練を受けるのはあたりまえ。
大体その程度の訓練が難しいとか言ってる時点で、馬鹿振りをさらけ出してるね。
伏兵や陣形の訓練のほうがよっぽど難しい。
186 :
名無しさん@1周年:2000/07/13(木) 15:56
>185
誰かが死んだら、生き残った奴が、死んだ奴の分も分担するのが日本人。
グループが使えなくなるなんて、朝鮮人的発想だな。
お前、その一方的な主張の仕方といい朝鮮人だろう。
187 :
名無しさん@1周年:2000/07/13(木) 16:11
>186
に一票
188 :
>165:2000/07/13(木) 16:25
ここでの論旨は長篠で三段撃ちがあったか?です。
結論からいうと長篠で信長が三段撃ちをやった証拠は何ひとつありません。
雑賀衆が三段撃ちをやっていたなんていうのも、雑賀衆が日本一の鉄砲部隊だからそれくらいはしていたかもしれんっていう程度の想像だと思う。
また、鉄砲の数も諸説ありはっきりとしたことはわかりません。
とにかく無いと考えるのが普通では?
189 :
>183:2000/07/13(木) 16:32
サヤカは確か漢字で沙也可です。
たぶん朝鮮に投降した雑賀衆がなまってサヤカと現地で呼ばれたのだと思います。
もとは加藤清正の配下で朝鮮に投降し、鉄砲と火薬の製造法を教えた功により金忠善の姓名を賜わったと言われています。
現在も末裔が半島にいるらしい。
190 :
名無しさん@1周年:2000/07/13(木) 16:33
そのわりにははっきりと信長は三段打ちをくらったって言い切って
るが・・・。とにかく長篠では知らんが三段打ちは戦国時代にあっ
たと考えたほうがいいのでは?それが信長が考えたものではなく、
結構一般的に使われていた戦法だったのを、後世に信長の発明とい
うことにしちゃったんじゃないかな?長篠で使われてても全くおか
しくはないと思う。
191 :
>190:2000/07/13(木) 16:46
192 :
名無しさん@1周年:2000/07/13(木) 16:50
トーチカって、
塹壕戦術だな、塹壕戦は近代戦の特徴だ。
もっとも長篠以降もあんまり使われなかったみたいだが
193 :
名無しさん@1周年:2000/07/13(木) 16:53
>分業こそ非効率だろう
産業革命ってなんだったんだろう?
それ以前の国の人かナ。
194 :
名無しさん@1周年:2000/07/13(木) 19:26
鉄砲の運用に長けてた信長の戦術が、わかり易いように、三段撃ちとなったのであろう
つまり、鉄砲を要塞に備え付け、情報戦で、武田騎馬軍の士気を高揚させ、鉄砲の射程距離
におびき出し、遊軍を使って、武田軍を撹乱したという説を堂々日本史でやってたよ
だから、鉄砲だけでなく、総合的な戦術の中に鉄砲があっただけで、三段撃ちは今のところ
信憑性に低いのが通説です
195 :
名無しさん@1周年:2000/07/13(木) 19:30
実際に分業でやってみたところ、一人でやるのと比べて殆どスピードアップ
は無かったそうです。
つまり効率は1/3になります。
196 :
>186:2000/07/13(木) 20:00
あほか?
それなら結局みんな訓練いるじゃねーか。
それに一人死んだらその分を余所から連れてこないと駄目になる(二人では計画通りに撃てない)けど、そのときの役割分担とかややこしくなるだろうが。
各自鉄砲を持たせて、弾ごめから撃つまでを一人で出来るようにしておけば、戦況に応じた戦力の移動も容易だろ。
197 :
>191:2000/07/13(木) 20:05
何処が一般的なんだ?
数人(一人?)が主張してるようにしかみえんが。
198 :
名無しさん@1周年:2000/07/13(木) 20:44
NHKのTVではひとりで全部やると何サイクルかでバテバテになってたがなあ。
射手は一人で疲れさせない方が賢明じゃないかな。
>192
>トーチカって、塹壕戦術だな、塹壕戦は近代戦の特徴だ。
>もっとも長篠以降もあんまり使われなかったみたいだが
家康vs秀吉の戦いではトーチカだか塹壕だかで膠着状態で和解したと記憶してる
が、違ったかな?
199 :
名無しさん@そうだ選挙にいこう:2000/07/13(木) 21:17
秀吉は信長の野望を継いで明に戦いを挑んだんですか?
200 :
>198:2000/07/13(木) 21:19
歩兵突撃の斬り合いとどっちが疲れると思う?(笑)
201 :
>197:2000/07/13(木) 21:21
じゃ一般的ではない根拠を示せ。
いまどき三段撃ち主張するやつはただのへそまがりだろ。
202 :
名無しさん@1周年:2000/07/13(木) 21:25
>200
意味不明、あほ
203 :
>200:2000/07/13(木) 21:26
海鮮チジミでも食って寝ろ
204 :
名無しさん@1周年:2000/07/13(木) 21:28
まあ、撃つ人、掃除する人、弾を篭める人で1チームになって
銃を3丁用意して撃つのがウマイ人が撃ち続けるという戦法くらいは
やってたんじゃないの?
205 :
名無しさん@1周年:2000/07/14(金) 00:32
age
206 :
>201:2000/07/14(金) 01:04
三段撃ちはなかったって言う方がへそ曲がりだと思うが
207 :
名無しさん@1周年:2000/07/14(金) 01:25
加藤清正の虎退治はなかったって言う方がへそ曲がりだと思うが
208 :
名無しさん@1周年:2000/07/14(金) 15:54
あげとくよ
209 :
名無しさん@1周年:2000/07/14(金) 18:15
210 :
名無しさん@1周年:2000/07/14(金) 18:21
330郡県中136ヶ所もやられれば十分だと思うが。
勝ち戦というなら元寇みたいに水際で叩き落とさないとね(笑)
211 :
名無しさん@1周年:2000/07/14(金) 19:15
>7年間の戦争の果てに倭軍は莫大な被害だけ受けて撤軍したが
虎の皮と、陶工を手に入れたんじゃなかった?
212 :
名無しさん@1周年:2000/07/14(金) 19:20
全国の330郡県の中で、倭軍の被害を受けたのは136カ所だけであり
て、ほぼ挑戦の半分近くで被害甚大だと思うが。どうなのよ
213 :
>212:2000/07/14(金) 19:26
まあ、気の持ちよう。
言い方なんだろうな。
214 :
名無しさん@1周年:2000/07/14(金) 19:54
朝鮮は「勝った」はともかく「倭軍を撃退した」とは言えるんじゃないの。
日本は「負けた」というより「失敗した」
これも言いよう、気の持ちようだが。
215 :
>214:2000/07/14(金) 19:56
日本は戦術的には勝ったが戦略的には負けた。
216 :
名無しさん@1周年:2000/07/14(金) 20:12
ソウルと平壌落とされて、さらに明の援軍を呼んで撃退したのに、「勝ち戦」とはナァ。
停戦交渉の席にも呼ばれなかったくせに(藁)
217 :
>216:2000/07/14(金) 20:20
暇人は黙ってなさい おバカさん
218 :
>217:2000/07/14(金) 20:39
人をバカ呼ばわりするならせめて根拠を挙げようよ。
219 :
名無しさん@1周年:2000/07/14(金) 20:45
馬鹿チョンよ、句読点くらい打て。
220 :
名無しさん@1周年:2000/07/14(金) 21:37
勝ちは勝ちなんじゃないかな?
この場合、守る側は敵を撃退すれば勝ちなんじゃない?
もちろん「ウリナラがチョッパリに勝った」ではなくて「朝鮮と明の
連合軍」が「朝鮮に攻めてきた秀吉軍」に勝ったってことだけど。
>209
負けだなんて見なしてないと思うよ。韓国の教科書での記述を読んで
みなよ。官僚レベルでは負けていたけど、民族としては日本より優れ
ていたから勝った。みたいなこと書いてるんだよ。「それじゃあ近代
に植民地かされたのは日本民族が優れていたからか?」とも聞きたく
なるけれど、それ以上に堂々と教科書に「我が民族は日本民族よりも
優れている」と書いてるってことが気になる。従軍慰安婦の記述なん
かより遥かに問題だと思うんだけど。
221 :
209:2000/07/14(金) 22:23
>220
ありがと、解ったようで判らんが、おれ頭悪いから、もう寝るわ。
結局、ウリナラ挑戦が勝手に勝利宣言で、我国は失敗こいたて理解でええのかな?
222 :
名無しさん@1周年:2000/07/15(土) 00:12
>221
つまり秀吉の時代は朝鮮民族が優秀だったけど
日帝時代にはその優位は覆っていたと、自分達で認めておるわけですわ。
223 :
名無しさん@1周年:2000/07/17(月) 01:55
224 :
名無しさん@1周年:2000/07/18(火) 22:26
age
225 :
名無しさん@1周年:2000/07/18(火) 22:44
age
226 :
名無しさん@1周年:2000/07/18(火) 22:57
age
227 :
名無しさん@1周年:2000/07/19(水) 00:09
>>223 <引用>
日本軍の侵攻−1592年の春、日本の豊臣秀吉が当時の中国(大明国)を
討つ口実のもとに軍勢を繰り出してきたとき、百戦錬磨の日本軍の前に
朝鮮王国の官軍はもろくも崩れました。日本軍は破竹の勢いで朝鮮全土
をほとんど踏みにじりました。しかしその後、全国各地で民間の儒学者
と民衆僧侶が義兵として決起してから戦局が変わり、また西海に進出す
る日本軍の海路を阻んで通さなかった朝鮮水軍の名将、李舜臣提督の決
死の奪戦によって日本の侵略軍は押し返され、7年にわたった壬辰倭乱
(日本では文禄、慶長の役と呼ぶ)も全国土を焦土化させたまま、1598
年豊臣秀吉の死と共に終わりを告げました。
</引用>
明の援軍の話はどこに?
228 :
名無しさん@1周年:2000/07/19(水) 00:35
都合の悪い明は、削除しました。
229 :
名無しさん@1周年:2000/07/19(水) 00:48
李舜臣この人も 逆賊として最近まで、奸臣じゃなかったの?
230 :
名無しさん@1周年:2000/07/20(木) 01:45
コピペ
日本軍の侵攻−1592年の春、日本の豊臣秀吉が当時の中国(大明国)を討つ口実の
もとに軍勢を繰り出してきたとき、百戦錬磨の日本軍の前に朝鮮王国の官軍はもろ
くも崩れました。日本軍は破竹の勢いで朝鮮全土をほとんど踏みにじりました。
しかしその後、全国各地で民間の儒学者と民衆僧侶が義兵として決起してから戦局
が変わり、また西海に進出する日本軍の海路を阻んで通さなかった朝鮮水軍の名将、
李舜臣提督の決死の奪戦によって日本の侵略軍は押し返され、7年にわたった壬辰倭
乱(日本では文禄、慶長の役と呼ぶ)も全国土を焦土化させたまま、1598年豊臣秀吉
の死と共に終わりを告げました。
231 :
名無しさん@1周年:2000/07/20(木) 01:53
>227
なんか凄いな、
>民間の儒学者??儒学者=朱子学=読書人=実労働せず
民衆僧侶=李朝の僧侶=朱子学のはるか下=乞食同然???
そんなのが義兵=ゲリラ=便衣兵???
嘘、くせーなはっきり明が人海戦術したって書けよ。
李舜臣?その名前しか聞かないけど(しかも、日本発)
他の将軍は、在日さま教えてくだせー、その時の王様は?
誰もしらねー在日さま教えてくだせー、日本人はパス
232 :
名無しさん@1周年:2000/07/20(木) 02:13
朝鮮人と日本人の外見が似ているのは、この時に日本兵が
朝鮮女を手当たり次第に犯しまくったのが原因だと、
朝鮮の学者か文化人の発言を見たことがありますが、
本当なのでしょうか?
233 :
名無しさん@1周年:2000/07/20(木) 02:30
>>232 ウソでしょう。こんな話に尾ひれが付くと「南京話」みたくデッチアゲのひとつも
作られかねませんよ。
それにもしホントなら、今頃朝鮮人はもっと優秀になってたことでしょう。
234 :
名無しさん@1周年:2000/07/20(木) 02:35
>232
信長の兵を軍規の厳しさを知らないのかな?
上杉・武田などは略奪・強姦を許していたけど
信長の軍でそれをやると首ですよ。
そんな、妄言信じるとは、やきがまわりましたね。
しかし、その学者も併合時代ではそんなことなかったって分かって
いたから、秀吉の時代にもってきたのでしょう。
(つまり、自然と従軍慰安婦や併合時代の妄言が論破できてしまった)
そんな妄言はくなら、騎馬民族をだすまでもなく、釜山から対馬経由で
1日で船で到着できるのだから交流があって混血が進んだと考えるの
が普通でしょう。
235 :
名無しさん@1周年:2000/07/20(木) 02:56
>234
それまでの戦の度に農民を徴兵していた武将達の常識を破ったのが
信長の職業武士制度(あぁ、名前をド忘れ)で、徹底されてましたね。
その流れを秀吉も受け継ぎ、緒武将も倣ったと覚えています。
そうしなければ、戦国末期では生き残れなかったんでしょう。
まぁ、確かに敵兵は容赦なく殺すでしょうし、恩賞の査定にひびきますから
鼻を削いで手柄の証拠はバッチリ残したでしょう。
それと強姦は別でしょうね。中には不心得者も居たかもしれませんが。
236 :
名無しさん@1周年:2000/07/20(木) 03:00
>234
いや、織田軍でも略奪や強姦はあったでしょう。
多分、三好一党に荒らされた京都を維持せんと、織田軍が初めて
京都に進駐した際、女に戯れようとした兵を信長が切り捨てた話
をいっているのでしょうが、あれは京都の治安維持の為に進駐した為、軍律・風紀の維持に神経質になっていたの
であって、通常の戦場とは少し違う背景があります。
もちろん、大ぴらに認めてはなかっただろうけど、織田軍でも
どこの兵士でも、けっこうあったと思いますよ。
織田ではありませんが、大阪の陣の絵巻では、大阪城が落城した際
逃げ惑う女中たちと、追いかけ襲いかかる雑兵なんかが多数描かれて
いるそうです。
237 :
名無しさん@1周年:2000/07/20(木) 04:45
234>235@`236
うーん、戦争の時の強姦の話はそりゃ1部ではあると思います。
ただ、信長はあの当時宗教者と以前の支配者と比べると治安維持・
規制撤廃(楽市楽座)・減税などを行っていたので当然秀吉もまね
しているはずです。特に不心得ものに対する処罰は有名な話です。
ま、多少の認識不足はご勘弁下さい。
ただ、以下の件の認識は一緒かなと思います。(あんまりこれに執着
すると3段構えみたいにスレ長くなっちゃうから。)
1.1部の不心得ものを覗き、朝鮮女を手当たり次第に犯しまくった
事実はない。(少なくても当時の戦争目的の一つではない)
2.従って、朝鮮人と日本人の外見が似ているのは単にモンゴロイド
系であるにすぎない。
(もし、そうなら韓国は日本人と半島人の混血でありまた煽りネタが増える)
3.2.の朝鮮人と日本人の外見が似ているのは云々の話しならば
併合期間の方が期間が長いので混血が進んでいるはずである
当然事実ならば韓国側からとっくに指摘があるはずである。
従って、半島の治安は良かったものと考える。
4.従軍慰安婦(この件の反論は長くなるから別の板立ててください)
も同様、そんな事やっていれば数十年前にあったことだから
秀吉の軍も女狩りしていたという話になるはず、そんな話しは聞いたことがない。
PS.前のスレで書いてあったけど、これ僕も知りたい。他にいないの?
李舜臣?その名前しか聞かないけど(しかも、日本発)
他の将軍は、在日さま教えてくだせー、その時の王様は?
誰もしらねー在日さま教えてくだせー、日本人はパス
238 :
名無しさん@1周年:2000/07/20(木) 17:11
age
239 :
名無しさん@1周年:2000/07/20(木) 19:47
age
240 :
名無しさん@1周年:2000/07/20(木) 23:29
興味深々もう、テレホだからあげ
241 :
名無しさん@1周年:2000/07/21(金) 03:38
コピペ
231だけど、誰も答えられる人いないんだ。
李将軍しかしらないで、日本に勝ったねえ。ふー疲れた。寝よう。
>227
なんか凄いな、
>民間の儒学者??儒学者=朱子学=読書人=実労働せず
民衆僧侶=李朝の僧侶=朱子学のはるか下=乞食同然???
そんなのが義兵=ゲリラ=便衣兵???
嘘、くせーなはっきり明が人海戦術したって書けよ。
李舜臣?その名前しか聞かないけど(しかも、日本発)
他の将軍は、在日さま教えてくだせー、その時の王様は?
誰もしらねー在日さま教えてくだせー、日本人はパス
242 :
名無しさん@1周年:2000/07/22(土) 01:12
age
243 :
名無しさん@1周年:2000/07/22(土) 09:14
age
244 :
名無しさん@1周年:2000/07/22(土) 17:25
age
245 :
名無しさん@1周年:2000/07/23(日) 07:55
なんか、在日逃げたな。
そりゃ、李舜臣名前日本発でしか知らない厨房だもんね。
それ以外の名前なんて知るほど勉強してないのだろうな。
241さん残念でした。
246 :
名無しさん@1周年:2000/07/24(月) 04:52
戦争初期の頃は日本を馬鹿にして
降倭皆殺
とかやってたくせに
247 :
名無しさん@1周年:2000/07/24(月) 05:24
李舜臣が監禁されているあいだに戦っていた大将いたけど連戦連敗で
コリャアカンってことで抜擢されたのが李舜臣でしょ?
248 :
名無しさん@1周年:2000/07/24(月) 08:06
あーあ、なんか、耳・鼻・古典・陶器についての文句論破されると
本とに逃げるね、学校休みだから李将軍以外に誰も浮かんでこない
というのだろうね。凄いよね向こう大河ドラマではないのかな。
こっちの大河ドラマなら少なくと10人は武将の名前あがるけどな。
249 :
名無しさん@1周年:2000/07/24(月) 08:52
真面目に日本相手に戦争やった将軍は李舜臣しかいなかったってことじゃないか?
他の将軍達はあまりにみっともないんで名前を出すに出せないんだろう。
250 :
名無しさん@1周年:2000/07/24(月) 17:00
あいまいな記憶で申し訳ないが、どっかのサヨが自分の本で朝鮮の武将のたてた
武勲とやらを自慢(?)していたと思う。
なんでもその内の一人は一人で1000人の倭兵を討ち取ったとか。(妖術使いもあったかな?)
その文化人は得意げに書いていたが、三国志じゃあるまいし、んなことできるわけ
ないだろって心の中で突っ込んだよ。
とりあえず当時の朝鮮の将軍や、戦後行賞にありついたやつらはこういう大法螺吹きの
ろくでなしが多かったのは確かなんじゃないかな
251 :
名無しさん@1周年:2000/07/24(月) 21:18
>250
そうだよね、サヨの本も調べないで被害者意識+選民意識で
困るね30年前の日本と一緒だね(韓国は日本の一体どこ抜かしたのかな)
で、結局は答えられるほど勉強してないのね。
在日が答えるまでヒントだけだしてアゲ続けましょう。
ドキュンがくるから。
253 :
名無しさん@1周年:2000/07/25(火) 00:06
降倭皆殺ってなんですか?
知りたいのでage。
254 :
名無しさん@1周年:2000/07/25(火) 00:25
捕虜(降)の日本人(倭)は皆殺しってこと?
255 :
名無しさん@1周年:2000/07/25(火) 00:38
>251
じゃあ暇つぶしに「壬辰録」の話でもする?
おまけで水滸後伝でもつけて。
256 :
名無しさん@1周年:2000/07/25(火) 01:00
251>255
スゲーなそこまで知ってるんだ。
水滸伝は読んだけど後伝は流石に、それより岳飛や韓将軍の話しなら
知ってるけど、160郡部が占領されて勝ったなんて、斉の田単じゃ
あるまいし、半島の田単にあたる人ってひょっとして明の人?
257 :
名無しさん@そうだ選挙にいこう:2000/07/25(火) 01:39
田単は物量攻めオンリーの人じゃないからちょっと比較はできそうにないよ・・・
それより後伝面白いよ、まあ筋書きは壬辰録と変わらんけど。
なにせ水滸伝でメジャーどころはだいたい氏んでるから残りの名前と獲物しか分からん
ような連中が主人公。まあバットとかヤムチャ、独眼鉄、邪武なんかが
主役のファミコンジャンプだと思いねえ。
こういう奴らが象にのった猛将、関白と闘う。モンドの極み。
258 :
名無しさん@1周年:2000/07/25(火) 02:16
251>257
水滸伝の主人公が関羽と戦うの?前京劇で関羽と秦しゅくほう(字忘れた)
の話しが地方であると聞いたけどそれって為朝と七本槍がチャンバラ
するのと一緒だね。(うぷ。こう言っても参加できない奴ら可哀想)
259 :
名無しさん@1周年:2000/07/25(火) 02:18
258、字思い出した、秦叔宝だ、あとウチツケイトクとかもいたね。
260 :
名無しさん@そうだ選挙にいこう:2000/07/25(火) 02:32
いや、関羽じゃなくって“関白”。
多分、(秀吉+清正)÷2じゃないかと思われる。
で、こいつを妖術で倒す(卑怯!)のがあの公孫勝・・・って
おい!てめーのワガママのせいで梁山泊が壊滅したんじゃねーか!
どのつら下げて戻ってきたんだ?周りの連中も何故突っ込まない?
261 :
名無しさん@そうだ選挙にいこう:2000/07/25(火) 02:36
てなわけで卑劣にも妖術で倭奴どもをぶちのめす、
というオチでは壬辰録も水滸後伝も同じでふ。
262 :
名無しさん@1周年:2000/07/25(火) 02:53
あー関白ね、がはは失礼。
しかし、公孫勝が主人公かはは、400年前といい首領さまといい
進歩してないね。
昔の歴史上の人物当てはめて物語作るなら、せめて忠臣蔵ぐらい
上手く作れないのかね。大星とか。。なんでよりによって公孫勝か
そういや古典スレでチラと出てたけど中身誰も言えなかったな。
しかし、ドキュン来ませんね2人でこのスレと古典スレまで
煽ってるのに。
PS.明日また煽りに来ます。神様ドキュンが来るようにお願い。
263 :
名無しさん@1周年:2000/07/25(火) 20:13
帰って来ました。262です。
古典スレまで煽ってるのに。 =>古典の話しまでしているのに
でした。
あああ結局だれもこずか、「騎馬民族」「新羅は倭人の国か」のレス
も結局下がっちゃったし。
まともな話しできないから糞レスが溜まりましたね。
彼らは自分の国の歴史知ってるのかな、理系の僕でさえ知ってる
ことも知らない坊やばっかりでヘナヘナ・シクシクです。
264 :
名無しさん@1周年:2000/07/25(火) 23:47
まあ夏だからってことにしといてあげましょうよ。
でもちょっと図書館いって調べれば分かるようなことばっかなのに
在日からのまともなレスが全然こないってことは、自分で確かめる、という
考えが思い浮かばんほどに洗脳されちまってるんでしょうかね。
265 :
名無しさん@1周年:2000/07/26(水) 00:04
そうですね。
拉致のスレでも困った坊やが騒いでいるけど、
質問ばかりで困ったちゃんなのよ。
(ちなみにそこでは100を名乗ってます)
昔の新聞かNEW−WEEKの日本語版のバックナンバー読めばいくらでも
わかることに五月蝿くて日本人も大差ねーな。
本当に400年前モラルが五月蝿くないときなんで民族浄化しなかった
のかなと一瞬でも思ってしまう自分が怖いですね。
266 :
名無しさん@1周年:2000/07/27(木) 01:08
結局24時間後に戻ってきてもレスなし。
本格的に逃げてるな。
267 :
名無しさん@1周年:2000/07/27(木) 19:40
怒涛の荒らし攻撃の中、このスレだけが荒らしを免れてるのは
このスレを下げたかったって事かな。
アゲてみよう。
268 :
名無しさん@1周年:2000/07/27(木) 21:18
李舜臣をやったのは
小西行長軍らしい
269 :
名無しさん@1周年:2000/07/27(木) 21:33
がんがんアゲろ。
270 :
名無しさん@1周年:2000/07/28(金) 04:28
怒涛の荒らし攻撃の中、このスレだけが荒らしを免れてるのは
このスレを下げたかったって事かな。
アゲてみよう。
271 :
名無しさん@1周年:2000/07/28(金) 15:28
あげあげ
272 :
名無しさん@1周年:2000/07/29(土) 01:48
李舜臣をやったのは小西行長軍という根拠は?
興味ありますね。
いずれにせよ、この役に関する公平な軍事的研究というのは
戦後、ほとんど進展していません。
非常にイデオロギー的に、または、偏狭に表現された文学的著述ばかりです。
最近も倭城の研究家が共著を出していますが、片方の著者がひどい書生崩れの
文体で本を台無しにしています。
この本もダメ。
というわけで、戦前の参謀本部の編纂したものから、大筋こえたものはありません。
韓国人の書いた研究大著がずっと前から出てますが、これも一方的。
疑問個所いっぱいあります。
上記の李舜臣の話も、その一つ。
273 :
名無しさん@1周年:2000/07/29(土) 01:54
262>272
まじめなレス久しぶりでうれしいです。
僕も在日・半島の逃げまくりに参ってたんです。
でも、結局秀吉軍が半島で云々の暴言に対するカウンターの
資料はすっかり集まったみたいですね。
274 :
名無しさん@:2000/07/29(土) 02:05
祇園精舎の鐘の声
諸行無常の響きあり
沙羅双樹の花の色
盛者必衰の理をあらはす
おごれる人も久しからず
ただ春の夜の夢のごとし
たけき者もついには滅びぬ
ひとえに風の前の塵に同じ
275 :
名無しさん@1周年:2000/07/29(土) 09:19
李舜臣の死に際については、これを美しく語った朝鮮側の史料にもとづくもの
だろう。
日本なら鉄砲の三段打ちとかいろいろ、問題が提起されながら歴史を
相対化する試みがなされているが、そろそろ、そういうものにも目を向ける
べきじゃないかな。
だいたい、最後の海戦で小西軍が後でゆうゆうと引き上げている(つまり敵艦隊
がいなくなった海)のだから、あれは、島津軍がよく戦闘目的を達した
ってことで、戦略的勝利だよね。
ソロモンなどの海戦で、米国側の主張に追随して、
「戦術的には日本は勝ったが戦略的には敗北した」
と安易に書く戦史書が多いけど、
その反面、あの海戦には書かないね。
もっとも、戦闘の内容も互角だったように思えるが。
これに対する朝鮮側の言い分というと、たしか
「本当は戦う余力を持っていたが、無能なな指揮官がいてできなかった」
という、いつもの言い訳。(朝鮮史料にはこれが多いんだよ)
半島の半分くらいしか荒らされなかったから、
あの戦争は勝った、という著作があるとのHPを見ましたが、
それなら、
人口が三分の一になった
とその被害の大きさを宣伝してきた意味がなくなるのじゃないかと
心配します。
もともとそんなに人口いなかったのじゃないでしょうか。
それに、朝鮮北部は当時の日本人の目には多くが不毛の地に
見えたのでは。穀倉地帯は南だから。
だから唐入りをあきらめた二度目の役ははっきり南部に限定した
行動をしている。
277 :
名無しさん@1周年:2000/07/29(土) 21:59
民間の儒学者??儒学者=朱子学=読書人=実労働せず
民衆僧侶=李朝の僧侶=朱子学のはるか下=乞食同然???
そんなのが義兵=ゲリラ=便衣兵???
嘘、くせーなはっきり明が人海戦術したって書けよ。
李舜臣?その名前しか聞かないけど(しかも、日本発)
他の将軍は、在日さま教えてくだせー、その時の王様は?
誰もしらねー在日さま教えてくだせー、日本人はパス
278 :
名無しさん@1周年:2000/07/29(土) 22:11
チョンコウは
清正・島津
しか知らず
李舜臣叫べど
他は知らない
(三十一文字でやってみました)
279 :
名無しさん@1周年:2000/07/29(土) 23:50
サゲたいみたいね。
280 :
名無しさん@1周年:2000/07/30(日) 00:05
明国の役後のチョーセンジンに対する大暴れも、
きちんと教育しようよ。
281 :
名無しさん@1周年:2000/07/30(日) 03:15
がんがんage
282 :
名無しさん@1周年:2000/07/30(日) 06:50
くそレスがつかないね、本当に
sageたいのはこのスレなのかな?
日本史板の人たち来てくれないかな?
283 :
名無しさん@1周年:2000/07/30(日) 06:58
無理無理、奴ら勉強してないもん。
この板と古典板と拉致板は奴らに対するカウンター
284 :
名無しさん@そうだ選挙にいこう:2000/07/30(日) 08:00
>>277 僧侶が立ち上がったのは本当らしい。
黄 文雄「立ち直れない韓国」P60
>...たとえば文録の役の当時、大義名分を唱えつづけてきた朱子学者
>が逃げ惑うといった醜態を演じたのとは逆に、「倭軍」の進入に対して、
>大寺院の名僧は、決起して義僧軍を五千人も集め、国土防衛に大活躍
>したこともあった。
激しい仏教に対する弾圧のなかにあっても、という文脈で語られている
エピソードなのですが、「倭軍」が去った後、僧たちはまた弾圧された
そうです。
朱子学者っていったい……。
285 :
名無しさん@1周年:2000/07/30(日) 08:06
そうそう、黄 文雄の本は今読んでけどいいこと書いてあるね。
ちょっと古いけど
「「龍」を気取る中国「虎」の威を借る韓国」もよい本よ。
でも、名前も残さないとは。。。
本当にあの国は李将軍しか知らないかも。怖いもんあるな。
286 :
名無しさん@1周年:2000/07/30(日) 08:14
>本当にあの国は李将軍しか知らないかも。怖いもんあるな。
花郎道とかの武道サイトには僧兵の活躍が武道の伝承に関連してよく
書かれてる。そして僧院にて武術が秘伝(ここがミソ)された云々とね。
知らないわけじゃないみたい。
287 :
名無しさん@1周年:2000/07/30(日) 09:30
答えちゃダメね。そんかいヒントあげたら調べる、ザイ君たちが
ことは簡単だから何日で在日からのレスが来るか調査中だから。
ちなみに最初の質問はこれだったみたい。10日もたってるのに
耳とか鼻とか論破されると逃げるなんて。
231 名前: 名無しさん@1周年 投稿日: 2000/07/20(木) 01:53
>227
なんか凄いな、
>民間の儒学者??儒学者=朱子学=読書人=実労働せず
民衆僧侶=李朝の僧侶=朱子学のはるか下=乞食同然???
そんなのが義兵=ゲリラ=便衣兵???
嘘、くせーなはっきり明が人海戦術したって書けよ。
李舜臣?その名前しか聞かないけど(しかも、日本発)
他の将軍は、在日さま教えてくだせー、その時の王様は?
誰もしらねー在日さま教えてくだせー、日本人はパス
288 :
名無しさん@1周年:2000/07/30(日) 09:32
287 訂正
ミス:答えちゃダメね。そんかいヒントあげたら調べる、ザイ君たちが
正: 答えちゃダメね。そんかいヒントあげたら、ザイ君たちが調べる
289 :
名無しさん@1周年:2000/07/30(日) 09:37
チョーセンの武将の名前を教えてください。
290 :
名無しさん@1周年:2000/07/30(日) 09:53
>289
金 大作っていうのがいるよ。いまでも日本で活躍してる。
291 :
名無しさん@1周年:2000/07/30(日) 09:59
290さんナイスなご意見。
292 :
名無しさん@そうだ選挙にいこう:2000/07/30(日) 12:31
293 :
名無しさん@1周年:2000/07/30(日) 13:29
朝鮮武将の英雄。
義兵では郭再祐、軍では権慄といったところか。
294 :
ageがわりに:2000/07/30(日) 23:13
295 :
名無しさん@1周年:2000/07/31(月) 00:21
>294
日本でも沖縄では県民に米兵が襲撃されることがあるんだって。
気持ちいいよね、いつもやられっぱなしだから。本土の連中も
見習おう。
296 :
名無しさん@1周年:2000/07/31(月) 09:57
あげ
297 :
名無しさん@そうだ選挙にいこう:2000/07/31(月) 15:10
あげ
298 :
名無しさん@そうだ選挙にいこう:2000/07/31(月) 20:38
日本の圧勝
299 :
名無しさん@1周年:2000/07/31(月) 21:32
>293
やっと、でた。君はどっち?
で、業績は?
300 :
名無しさん@1周年:2000/07/31(月) 22:07
川が干からびたら日本軍が攻めてくるとか言ったやつだろ。
言っただけじゃん。
301 :
名無しさん@1周年:2000/08/01(火) 00:26
>300
それは郭再祐のことであろう。
彼は役が始まってから直後、義兵を挙げ、逃走する官軍の武器食料を確保し、
たびたび日本軍を撃破し、彼を見るや日本軍は恐れてじきに逃げ出したほどの
豪勇であった。
権慄は役を通じて、陸上において常に日本軍を撃破し、ことに、
ソウル郊外の幸州山城の一戦では、
攻め寄せる大軍を寡勢でもって撃退しかつ甚大な損害を与え、
この大勝を機に日本側は講和の道を探らざるを得ず、
日明講和へと繋がったのである。
朝鮮勝利にとって忘れざるを得ない陸将として後世に名を残している。
種々の兵器、その運用、義兵の潜在能力、これらを総合して、
朝鮮が国防能力において日本を凌駕していたのは、
教科書にあるように疑いの余地をはさまない。
302 :
>301:2000/08/01(火) 00:56
朝鮮半島ではそう言う優れた人物が身分制度で在野に埋もれてたのね。
そりゃー、国も滅びるわ。
303 :
名無しさん@1周年:2000/08/01(火) 19:04
幸州山城…か。
あれは、食料に困った日本軍が、食料を相手が十分蓄えたところを
狙って、食料の奪取と城取りの一挙両得を目論んだやつじゃなかったかな。
たしかに食料は得たが、被害も多く、石田三成もけがをしたらしい。
だけど、講和のきっかけというのはどうかな。
ヘキテイカンで明が戦意を失い、講和は既定路線だったはずだが。
304 :
名無しさん@1周年:2000/08/01(火) 22:00
>301
単に日本が飽きて帰っただけなのに良く言うよ。
無茶苦茶な教科書だな。
戦闘能力に格段の差があるなら普通余勢をかって日本に攻め
に来るのが普通だけど不思議だな。
当然、日本側と中国側の資料と比較して書いてあるんでしょうね。
(ま、ここまで思いこみの激しい教科書とは思わんかった。)
age
306 :
名無しさん@1周年:2000/08/02(水) 23:54
307 :
名無しさん@1周年:2000/08/03(木) 00:07
沈寿官氏の存在があるように、朝鮮から日本へと連れてこられた
人も多いですが、逆に朝鮮へ降伏した人も多かったのです。
当時の日本人は、戦乱の時代だったので朝鮮に入ると
朝鮮の豊かさに感じ入って降伏したのでした。
加藤清正は慶長の役において蔚山で篭城しましたが、
落城寸前になって岡本越後という元加藤部隊の部下で、
今は朝鮮軍に下っている将に、降伏を勧められ、
その勧告に甘んじて、
命からがら、蔚山城を逃げ出しました。
蔚山城の日本軍の敗北は、日本のこの役での敗北を
決定づけたのでした。
(以上、6、7年前にあったNHK歴史番組での解説。
制作佐賀放送局。出演=沈寿官氏ら)
308 :
名無しさん@そうだ選挙にいこう:2000/08/03(木) 00:10
ヘイテキカン
平壌の小西行長軍が日本軍最強部隊だと勘違いした、
明軍が一気に滅ぼそうと攻めてきたが、
西日本大名オールスターとも言うべき連中にぶつかって、
大敗した戦いでしょ?
309 :
名無しさん@そうだ選挙にいこう:2000/08/03(木) 00:11
慶長の役は降伏した日本人は配下にしたけど、
文禄の役の時は降倭皆殺と言って、
捕虜の日本人を皆殺しにしたらしい。
まあそのころはどこでも一緒だったんだろうけど。
310 :
名無しさん@そうだ選挙にいこう:2000/08/03(木) 00:14
>307
ウルサン城の戦いは、
宇喜多秀家と毛利輝元が応援に来て、
囲みを突破できたんじゃなかった?
大体加藤清正は日本軍の大将(だと向こうは思ってた)なのに
逃がしてどうするの?
朝鮮側の作り話じゃないの?
311 :
名無しさん@そうだ選挙にいこう:2000/08/03(木) 00:15
朝鮮が戦場なのに、日明講話とは泣かせるね(笑
そーいや、その時、半島に住んだ人の子孫の村行くと
雰囲気全然違ったとか言っていたな。
田んぼのあぜ道は日本と同じで真っ直ぐだし、稲の発育の
良さも格段に上だし、ゴミとか落ちてないって言っていたな。
基本的に村が綺麗なんだって。
313 :
名無しさん@1周年:2000/08/03(木) 00:44
>301
そんなに国防力が優れていたのだったら、あっさり撃退できるはず。
21世紀も間近な現代においても、文禄慶長の役の恨み辛みを主張
し続けなくてもすんだと思うけどね。
というか単なる煽りだろ。
314 :
301:2000/08/03(木) 01:03
>313
煽りではありません。
教科書に書いてあることと、日本人の書いた本を参照させて
いただきました。
315 :
名無しさん@1周年:2000/08/03(木) 01:06
307
はNHKが本当に放送した内容です。
これは、数度再放送がなされました。
解説文句も間違っていません。
史実と異なるかどうかはともかく、NHKが
この放送をしたのは事実ですし、
必ずどこか録画ビデオは残っているはずです。
316 :
名無しさん@1周年:2000/08/03(木) 01:09
岡本越後にさとされた翌日
「命からがら城を逃げ出しました」
という文句は今でもシッカリよく覚えてますよ。
つまり、加藤清正は豪傑なんかではなかったのです。
317 :
名無しさん@そうだ選挙にいこう:2000/08/03(木) 01:12
301は初めて2chに来たのです。
2chの馬鹿どもに今までの韓国の学校で習った知識を披露しただけなのです。
許してやってください。
318 :
>310:2000/08/03(木) 01:13
NHKの解説によると、
昔の領袖だから、恩返しのような意味で、さとした、
ということだったと覚えています。
つまり、朝鮮側に帰依すると、そのような人倫が備わって
くるということでしょう。
319 :
名無しさん@そうだ選挙にいこう:2000/08/03(木) 01:17
>315,316
だから自分の頭で考えて。
なんで敵の大将を包囲してるのに。
囲みを抜けて逃げれるの?
そんなに包囲してる方は馬鹿なの?
そーいや、半島がわの武将ってなんだかんだ言って全滅だけど、日本の
武将で殺されたり捕虜になった奴いねーけど??
>つまり、朝鮮側に帰依すると、そのような人倫が備わって
>くるということでしょう。
がはは、オウムみてーな事いうな。
実態はこんな民族相手にしても国益にならないから止めろってことだろ。
今、身に染みて分かっているからな。
321 :
名無しさん@1周年:2000/08/03(木) 02:14
>319
それは岡本越後の画策によってうまく逃げることができたのです。
(たぶん)
322 :
そりゃおかしいよ:2000/08/03(木) 15:16
どう考えてもおかしいですね。
どなたかが言われたように、あのとき、蔚山は援軍によって
包囲軍の攻囲を解くことができました。
清正が蔚山を退いたのはその後だったように思うのですが。
それと、あの戦いで明側は2万近い戦死者を出したといいます。
日本側は守兵2000そこそこといわれますから、
鉄砲による防御のすさまじさがいかんなく発揮されました。
敗走に等しかったといってよろしいでしょう。
それにあれが、「日本敗北」を決定づけたというのも、
なにやら大本営発表みたいですね。
一年後にも同様に明の大軍の攻撃を受けた蔚山でしたが、
完成した城は寄せ手を受付けず、
城内で清正は左団扇でいたといいます。
その後は例の島津の大暴れなどが役のしめくくりをするわけです。
なんだか、妙な戦史がまかりとおっているのですなあ。
323 :
名無しさん@1周年:2000/08/03(木) 16:09
島津義弘さいこ〜
もう惚れちゃうよ〜!
これ、インド人もビックリの飛んでも歴史だな。
中国2万対2000でも余裕だったのが民衆に負ける?
そんな強い国がその後明に無茶苦茶やられる?
妄想・妄言・洗脳の世界だ。
325 :
名無しさん@1周年:2000/08/04(金) 00:54
>中国2万対2000でも余裕だったのが民衆に負ける?
>そんな強い国がその後明に無茶苦茶やられる?
何を根拠にそういった事を?
確かに明軍を無茶苦茶にした事はあるがね・・・
324>325
ははは、そうだよね、李自成の乱で明が滅亡後、旧明の人間が
清に反抗したとき、清の手先になって無茶苦茶やったよね。
親分がつくと無茶やる国ってヤクザの名前だすチンピラと一緒ね。
327 :
>324:2000/08/04(金) 01:20
兵士の志気の問題かと。
基本的に漢民族の兵士ってまとまらないから
他民族に負けっぱなしの歴史だし。
328 :
名無しさん@1周年:2000/08/04(金) 01:23
>327
やっぱり負け犬なのね。
中国軍は弱いですよ
伝統的に
韓国はそれよりもはるかに下で
他国を征服したことがありません
330 :
名無しさん@1周年:2000/08/04(金) 12:41
李舜臣の活躍は認める。
たしかに、この指揮官がいなかったら、秀吉軍は
半島東側を俎上し、ソウルに直接兵糧を送り、
そこを釜山のようにして、遼東半島を狙ったろう。
この辺の海戦で勝つと、そこを兵站に山海関付近に上陸して、
北京城を包囲したかもしれない。
当時、明国最強の兵団が実際にこの役で戦って、
その答えを出しているのをみると、困難はあっても、
北京城に20万の秀吉軍がなだれ込んだ可能性もなくはない。
なんてことを考える。その後の推移はわからんが。
李舜臣のいない朝鮮水軍が慶長の役で藤堂高虎などに壊滅させられて
いるのを見ると、あの指揮官の存在の大きさは否定できない。
331 :
名無しさん@1周年:2000/08/04(金) 14:05
日本軍が制海権の概念を知らず、陸上兵力を以って港を制圧しなかったのが苦戦の一因。
332 :
名無しさん@1周年:2000/08/04(金) 15:37
万が一うまくいって秀吉が唐入りしても、国内で徳川が謀反起こしそう。
唐・朝鮮よりも、とにかく国内が疲弊してるわ、まとまっていないわで
なんにしても、あの役の成功はなかった気がする・・・・
333 :
名無しさん@1周年:2000/08/04(金) 15:46
成功って明朝を打倒できたら成功?
334 :
名無しさん@そうだ選挙にいこう:2000/08/04(金) 15:46
>331
同時に、明、朝鮮側にもそういうものがなかったような気がする。
本にはよく、李舜臣の活躍で日本側が制海権を失った
と簡単に書いてるのが多いけど、日本側は肝心な海路の
制海権は失ってない。
釜山までの補給路は安泰だった。
ことに後役にあっては緒戦で朝鮮水軍の主力が壊滅したので
基本的には日本側にあった。
制海権を掌握する重要性を認識し、かつ、それに対応
できる力を備えていたら、本当に半島の秀吉軍を干上がらせる
ことができたかもしれない。
現実には目先の秀吉軍に対抗するのが精一杯だった。
このへんが相互の歴史的限界だったのでしょうね。
335 :
>333:2000/08/04(金) 17:45
まぁ唐の占領ですね。
秀吉が当初妄想してたのは南京だか(まちがってるかも。うろ覚え)に首都を
を置き、自身もそこに移住することじゃないっけ?
ちょっと自身無し。
336 :
名無しさん@1周年:2000/08/04(金) 17:49
>まぁ唐の占領ですね
唐?まさかこれモロコシと読むべきなのか?
337 :
327:2000/08/04(金) 17:58
まあ、腐りきって自分の金のことしか目がない朝鮮の正規軍より
義士の方が強かったと言うことは十分に考えられるかと。
338 :
名無しさん@1周年:2000/08/04(金) 18:01
明です。
唐=カラ
と読ませたいのでしょうな335は、きっと。
340 :
名無しさん@1周年:2000/08/04(金) 19:05
>唐?まさかこれモロコシと読むべきなのか?
ん?なんでそうなるの?
訳わからん。
341 :
名無しさん@そうだ選挙にいこう:2000/08/04(金) 22:11
ようするに日本の勝利と
342 :
名無しさん@そうだ選挙にいこう:2000/08/04(金) 23:20
勝利!
343 :
名無しさん@1周年:2000/08/05(土) 03:14
撤兵の理由は秀吉の死であるし、少なくとも朝鮮に負けたからではないのは
明らかなのにね〜。
344 :
馬鹿は日本の歴史学者たち:2000/08/05(土) 03:16
>341
勝利」とは言えない。
戦争目的を達成しなかった。
「失敗」
というのが正解だろう。
「敗北」
というのは他に意図のある修飾の混じった表現。
韓国や韓国人が「勝利」と呼ぶのは差し支えない。
問題なのは、「敗北」という言葉を好んで使う
日本の学界、マスコミ、文化人。
345 :
名無しさん@1周年:2000/08/05(土) 03:22
どうしても
「敗北」
にしたい、あるいは、そうでしかないと、日本の学者が主張
しているなら、勝手にしてくれというしかない。
ただし、心の中では、こいつらは馬鹿だと思うだけ。
346 :
名無しさん@1周年:2000/08/05(土) 09:47
朝鮮が戦争に勝ったことあるの?
347 :
名無しさん@1周年:2000/08/05(土) 14:46
348 :
名無しさん@1周年:2000/08/06(日) 02:30
内乱ばっか騒擾を起こすしか能のない国
349 :
名無しさん@1周年:2000/08/06(日) 03:32
アメリカがベトナムで負けたと言う事なら
日本も負けたと言う事になると思う。
350 :
名無しさん@1周年:2000/08/06(日) 07:09
>349
まあ、そういうことかな。
344@`355のような意見は韓国人から見れば、
「歴史事実を直視したくない日本人の特性」
ってことになるのでしょうな。
何が「直視」かって問題にもなるんだけど。
351 :
名無しさん@1周年:2000/08/06(日) 07:12
で、アメリカ人は学校で、
ベトナム戦争で、わが国は「敗北した」
という形容で教えているのでしょうか?
日本のマスコミはしきりに、
「敗北、敗北」
と形容しているが。
352 :
名無しさん@1周年:2000/08/06(日) 07:33
まあ、普通の国じゃしないよね。多分USも撤退か失敗だろうね。
そうすっと戦前の教科書と変わらないね、もう半島・中共の顔色
伺うのやめよう。
>352
俺もそう思うんだがなあ。(失敗、撤退)
354 :
名無しさん@1周年:2000/08/06(日) 08:59
フランスがディエンビエンフーで負けた。
あれは「敗北」としかいいようがないな。
フランス人はどう子供たちや一般国民に伝えて
いるんだろう。
わがフランスは、ベトナムで「敗北」し、インドシナでの
勢力を失いました。
という具合に、キチンと教えてるのでしょうか。
腐乱酢は発展途上国。ベトナム以下。
以上。
356 :
名無しさん@1周年:2000/08/06(日) 16:24
朝鮮はもっと下。
弱い奴にはやりたい放題。
最低。
強きを助け弱きを憎むがジョークじゃない国。
サイアク。
がんがんあげあげ
358 :
名無しさん@1周年:2000/08/07(月) 05:28
ちょんには負けてねーぞ。
359 :
名無しさん@1周年:2000/08/07(月) 06:13
アメリカは教科書はともかく、ドキュメンタリーで
朝鮮で行き詰まり、ベトナムで敗退したが
湾岸でアメリカの威信を 取り戻した。
見たいな感じの言い方を聞いた。
360 :
名無しさん@1周年:2000/08/07(月) 08:08
とっとと同族同士で殺し合え
チョンなんていらね〜
361 :
名無しさん@そうだ選挙にいこう:2000/08/07(月) 12:45
いらね〜
362 :
名無しさん@1周年:2000/08/07(月) 20:12
第2の信長・秀吉・博文でてこい。
363 :
名無しさん@1周年:2000/08/08(火) 14:08
なんか、世界史板にここの関連スレが立ってたけど当時の日本軍って別にそんな精強ってわけじゃなかったらしいぞ。もちろん、朝鮮軍よりは強かったみたいだが・・・
364 :
名無しさん@1周年:2000/08/08(火) 14:12
>>363 とりあえず、鉄砲の数が当時のヨーロッパ全体の陸軍の保有数を
あわせたより多くて鉄砲を絡めた戦術を一番発展させてたのは
確かだよ。
歴史系の板は基本的に反日的でしょ
366 :
名無しさん@1周年:2000/08/08(火) 15:48
age
367 :
名無しさん@1周年:2000/08/08(火) 16:14
369 :
JR九州にお願い:2000/08/08(火) 18:02
次は是非「元寇史跡巡り」を希望。
370 :
名無しさん@1周年:2000/08/08(火) 19:21
あまり関係無いけど、家の地元下関あたり(多分県西部一帯も)
で、子供がぐずって言う事を聞かないときは
「言う事聞かんとゴンゴンチーが来るよ」って言うんですよ、
で、この由来は響灘沿岸に上陸してきた元寇の指揮官の名前
らしいです。
ゴンゴンチーって名前がいかにも怖そうなんで、子供の頃は
ビビって言う事聞いてました(笑
371 :
名無しさん@1周年:2000/08/09(水) 01:17
>365
ここは、日本寄りすぎ?(W
372 :
名無しさん@1周年:2000/08/09(水) 01:49
>371
NO。
客観的事実を語っているだけ。
それを日本寄りと読むところが洗脳の反映?。
373 :
名無しさん@1周年:2000/08/09(水) 01:51
世界史版は、ここほど詳細に論じてなかったよ。
374 :
名無しさん@1周年:2000/08/09(水) 01:54
>372
客観的ってのはかなり痛いよ
375 :
名無しさん@1周年:2000/08/09(水) 01:59
痛く感じる奴は逝ってよし
376 :
名無しさん@1周年:2000/08/09(水) 02:00
>370
ともだち(秋田県人)の所では、「ゆうこときかんとモッコ来るでぇ」と
いってたそうな。この「モッコ」、蒙古のことだそうだけど、何故秋田?
377 :
只今ゼネコン社員:2000/08/09(水) 02:11
なまはげの一族じゃないの?<もっこ(藁
378 :
名無しさん@1周年:2000/08/09(水) 02:22
>373
そりゃそうさ、世界史理解している在すくないもん、彼らはハングル
No1だから比較できんの。
この板はいいカウンター(特に耳とか鼻とか清正が文化を撲滅した
とか言えないための大金以外在の跡見つけにくいでしょ。)
でも一時期、231=251名のって255=250さんと歴史話ししてたのが懐かしいな。
380 :
名無しさん@1周年:2000/08/09(水) 22:13
うーむ・・・
あれは歴史だったのか(爆)
381 :
名無しさん@1周年:2000/08/09(水) 22:25
>380
あれって?(w
382 :
名無しさん@1周年:2000/08/10(木) 00:26
>374
どう痛いのか説明してください。
>382
いじめちゃ可哀想だよ、もう煽るしかザイ君達参加できないんだもん。
民族教育の教科書の抜粋でしか語れなくなって、今逃げ中だもん。
大体、李将軍以外の武将だせと言ってから10日もかかって内容、妄言。
中途半端だね。。
384 :
名無しさん@1周年:2000/08/10(木) 04:33
あげあげ
385 :
名無しさん@1周年:2000/08/10(木) 04:50
>>383 文禄・慶長の役に参加した武将を述べよと俺達に言われれば
簡単に2@`3人出てくるのになんでやつらは出せないんだろう・・
386 :
>383@`385:2000/08/10(木) 07:41
実質は船を漕がされていただけなんだから
民族教科書にはそんなこと書けないし
罪の厨房いじめちゃだめよん。
387 :
名無しさん@1周年:2000/08/10(木) 23:33
383>385@`386
いや、今の消防・厨房って教科書で無理やり李将軍の名前覚えさせられるけど、
良く調べたら日本発って分かったのにザイ君が李将軍と耳塚鼻塚の話ししないから
まさかと思ってあげたらAnswer10日それもサヨっぽい人(ザイ以外回答しないで
ってあげたのに 藁藁)知的レベル分かるよね。
388 :
名無しさん@1周年:2000/08/12(土) 18:55
在日の不勉強を記念してあげ
389 :
名無しさん@1周年:2000/08/15(火) 00:04
在日の不勉強を記念してあげ
2日も書きこみなし、結局これも捏造だったのね。
390 :
名無しさん@1周年:2000/08/15(火) 00:58
当分この板下げようとがんばってたしね。
391 :
名無しさん@1周年:2000/08/15(火) 01:17
朝鮮は、歴史上のヒーローの数少ないね。
392 :
名無しさん@1周年:2000/08/15(火) 19:54
お得意の自作自演でかなり作ってるけどね。
393 :
名無しさん@1周年:2000/08/15(火) 23:57
387さん来ませんな。
夏休みと盆休み重なって先生に聞けないのかな?図書館って知ってる?
394 :
名無しさん@1周年:2000/08/16(水) 02:43
キミたちは、朝鮮の当時の進んだ軍事技術を知らない。
たまたま、日本軍に不意打ちを食らっただけで、
鉄砲の技術を取り入れると、サヤカ(降倭)の進言を導入し、
たちまち、反撃に転じて勝利に導いた。
日本軍の表面的な勝利はひとえに、西洋から拝借した鉄砲技術に
あったにすぎない。わずかな戦闘期間で、朝鮮軍はそれを習得する
ことができたのである(沈寿官氏)
当時の日本軍は馬鹿だから、朝鮮軍のシンテンライなどの爆薬や
火砲をくらうと驚きあわてふためいて混乱した。
馬鹿な日本の兵士は、城内に朝鮮軍の打った砲弾が飛び込むと
それを遊びのマリだとおもって転がしているうちに、
大爆発して大勢が吹っ飛んだりした。
野蛮な連中に過ぎなかったのだ。当時の日本の武士というのは。
たいした事はなかったのだというのが定説なのだ(世界史版にも
たいしたことなかったという人いるよ)
395 :
名無しさん@1周年:2000/08/16(水) 02:46
そんな連中に負ける馬鹿がいるとは、、、朝鮮も必死だ。
396 :
名無しさん@1周年:2000/08/16(水) 03:25
定説、、ぷっ
397 :
>394:2000/08/16(水) 03:37
ネタ?
398 :
名無しさん@1周年:2000/08/16(水) 04:04
しかし、何日も待った挙句こんなドキュン話しかでないなんて、
炸裂弾なんて元寇の時に経験ずみじゃねーか。
大体英雄談や成功談なんか書かれても、具体的な戦略・戦術・軍団編成
も挙げずに軍事技術と言われてもな。前スレも見ずに脊髄レスいてーな。
399 :
名無しさん@1周年:2000/08/16(水) 04:09
シンテンライ<なんだこれ?
どう考えても日本語だと思うが・・・
ライは雷か?
テンは天かな?
シンは震かねぇ
400 :
名無しさん@1周年:2000/08/16(水) 04:41
「辛転来」だと半島系の料理屋名みたいだな。
カラくてクチャい爆弾だったのだろうか?
401 :
名無しさん@1周年:2000/08/16(水) 15:27
元寇の話をごっちゃにしてごまかしてる。
それに沈寿官って鹿児島の大昔に韓国から連れてこられた人の子孫だよね?
確か韓国のテレビ局が取材に来て「祖国から無理矢理つれてこられて苦労したでしょう」
とか言われて
「バカヤロー俺は日本人だ」ときれたはなしも有名だよ。
それにこのスレッド見ても分かるだろうけど、日本は勝てないから逃げたんじゃなくて、
秀吉が死んだから帰ったんだよ。
402 :
名無しさん@1周年:2000/08/16(水) 23:19
なんか、哀れに思えてきた。
ここまで無知だと困ったもんだ。沈寿官さんも発言捏造させられて可哀想。
403 :
名無しさん@1周年:2000/08/16(水) 23:31
test
404 :
名無しさん@1周年:2000/08/17(木) 00:54
>402
ちがう。NHKの番組で沈氏はそのように語ったのである。
話し方は穏便だったが。
それに沈氏は
「当時の日本の兵士は内乱続きで、それと比べて朝鮮の豊かさ
に帰依したのが「降倭」とよばれた人たちである」
というようなことも語っている。
NHKに聞いてみなさい。
405 :
名無しさん@1周年:2000/08/17(木) 00:59
402>404
それで、シンテンライかい?
それで、優秀な軍事技術かい?
それも言ったのか?
401の有名な話しも知らないの?
はいはい、チョン君おやすみ。
>391
伊藤博文刺したテロリストが英雄で紙幣(硬貨?)になってるよ。
猿真似500ウォンやめてよね、腸腺
407 :
名無しさん@1周年:2000/08/19(土) 01:30
また、ドアホな394@`404みたいな不勉強なレス期待してアゲ
408 :
名無しさん@1周年:2000/08/20(日) 22:21
age
409 :
名無しさん@1周年:2000/08/20(日) 23:04
安重根・・・。
でもなんで彼が当時の日本人に英雄視されたんだろう?
410 :
名無しさん@1周年:2000/08/20(日) 23:14
>409
在日にな、
歴史研究者にも多いみたいだからな。
411 :
名無しさん@そうだ選挙にいこう:2000/08/20(日) 23:48
>399
軍事板より参上。
震天雷のオリジナルは投石器より発射される又は人が
投擲する炸裂弾です。
元々は金(女真)のもので元(モンゴル)がコピッた物です。
元寇の際に既に使われており元と共に侵略してきた高麗が
またコピッたのが何時の間にか朝鮮オリジナルの様に
在日の方には教育されているのではないでしょうか?
412 :
>409:2000/08/21(月) 00:39
それはね、当時の日本人が「自分を犠牲にしてまで、組織の
ために行動した」ということに純粋に感動してしまったからだよ。
明治の教育の賜物なんだけどね。
どうも昔から現在まで、日本の教育は教科書に忠実な人間を
生みやすく、曲がった見方をする人間を生みにくいようだね。
実際、伊藤博文や大久保利通のようなあまり純粋でない人間は
日本人にも人気が無いしね。
413 :
名無しさん@1周年:2000/08/21(月) 00:49
>>411 震天雷をシンテンライと呼ぶなんてまんま日本語やんけ。
絶対韓国語ではそう言わんと思うぞ。
414 :
>409:2000/08/21(月) 01:01
韓国のメディアのドキュンぶりには腹を立ててる俺だが、
基本的には韓国や韓国人は好きだ。
安重根や朴ジョンヒについても、一代の傑物であったと
尊敬の念を持っている。
415 :
>414:2000/08/21(月) 01:28
金賢妃もかい?
416 :
名無しさん@1周年:2000/08/21(月) 02:01
>>409 イギリス公使館を焼き討ちした高杉晋作と同じとでも思ったんじゃない?
417 :
名無しさん@1周年:2000/08/23(水) 02:49
おっと落ちそう。あげ
418 :
名無しさん@1周年 :2000/08/25(金) 14:33
連中は日本征伐なんてほざいてんだろ。
419 :
名無しさん@1周年 :2000/08/27(日) 03:10
NHKの放送なんて都合のいいところをカットカットで作るから
その人の思想なんて分かったもんじゃないからね
420 :
名無しさん@1周年 :2000/08/27(日) 03:48
おう、俺もそう思っていた。NHKみて歴史学んだなんて奴いたから聞いたら
大河ドラマだって。イタイイタイ。
ただ、金だけはあるみたいね、取材費の単位が1万2万じゃなくてウン10万だって
(1980年代名古屋大のサークルに取材に来て学生が1・2万のつもりで幾らかくれと
言ったらディレクターが払えないとかいうのでそのぐらいの領収書切らないと
落ちないから只でやってくれだって。おいおい、無理やり金取って何やってんだ。)
421 :
名無しさん@1周年 :2000/08/28(月) 01:22
震天雷というのは爆雷みたいなものだ。驚くには驚くとしても、
威力は知れているだろう。そもそも効果的な運用はできまい。
422 :
>406 :2000/08/28(月) 01:23
安重根は お札ではなくて 200ウォンの切手になってます。
423 :
>411 :2000/08/28(月) 14:31
李氏朝鮮の「飛撃震天雷」(これが正式名称)、金・元代のオリジナルの
まんまじゃありません。
16世紀後半の段階では、おそらく世界で唯一、むき出しの導火線ではなく
時限曳火信管(導火線を収めた筒を弾丸内に挿入)を用いた炸裂弾です。
発射方法も、大碗口という臼砲を用い、数百メートルの射程がありました。
424 :
名無しさん@1周年 :2000/08/28(月) 14:49
>>418 いつでも来なさい、わが自衛隊が返り討ちにしてくれます。
もっとも韓国/北朝鮮は日本に攻め込むような力無いけどね。
425 :
小林よしのり(義徳) :2000/08/28(月) 15:07
戦争は、わしあんまし好きとちゃうなぁ〜〜、なんでやゆうたらな、あの世
行ったわしのじいさまがなぁ〜死ぬ間際までうなされとるがな、「勘弁やっ!」
ゆうてな、殺した中国人が幽霊になって出てきてたらしいで、怖いがな、なにゆうても
せやろ、お化けはあかんわ〜〜、それとな、戦友のチョンコのじじいが、片足
ないねん、そいつ、お金借りにきよんねん、片目もなかったな、そういやぁ〜
わしのじいさんがそいつに命助けられたゆうて、お金かしよったんや、なんしに
貸すんか、なぁ〜そんなもん、昔のこっちゃやないかい、なぁ〜せやろ?
426 :
名無しさん@1周年 :2000/08/28(月) 15:14
>425
おやおや、一転してどうなされたのですか?
さっきまでの威勢はどこへ行かれてしまったのでしょうか??
そう、偽善者ぶるのは非常によくない。
もっと朝鮮人らしさを存分にアピールしてくださいよ!
相手すんなって。国際情勢板にも似たようなのでてきてるぞ
428 :
名無しさん@1周年 :2000/08/29(火) 14:24
と言うことでチョン全敗(2ch含む)を記念してage
429 :
名無しさん@1周年 :2000/08/29(火) 15:26
でも朝鮮に出兵したお陰で有田焼や萩焼が出来て、東郷茂徳も生まれた
のだから、やっぱ侵略しといてよかったね。
430 :
名無しさん@1周年 :2000/08/31(木) 01:47
あげあげ
431 :
名無しさん@1周年 :2000/08/31(木) 01:51
怖いのは、軍隊じゃなくて、ゲリラですよ。
432 :
名無しさん@1周年 :2000/08/31(木) 03:27
お、ゲリラか便意兵だな、これで思いっきりうしうし。
便意兵に人権はないから、前の時みたいに手ぬるいことしないぞ。
433 :
名無しさん@1周年 :2000/08/31(木) 10:46
妙な煽り方をしている人がいますが、
このスレの質をわざと下げているのですか?
史実に即した議論をして下さい。
434 :
名無しさん@1周年 :2000/09/02(土) 07:48
文禄慶長の役ツアーというのは、侵略秀吉を非難する大学習会の様相を
呈しているんじゃないか?
435 :
名無しさん@1周年 :2000/09/02(土) 09:40
レイプしまくり
436 :
名無しさん@1周年 :2000/09/04(月) 01:17
負け続けてるので
もう議論に参加できるチョンはいない模様
437 :
名無しさん@1周年 :2000/09/05(火) 06:40
この役について、韓国人の視点から書いた小説等が
翻訳してどこかから出ていませんか?
日本武将の立場から見た小説は何冊か読みましたが、
韓国人はどの様に書いているのか凄く気になりますので。
438 :
名無しさん@1周年 :2000/09/06(水) 02:10
age
439 :
名無しさん@1周年 :2000/09/06(水) 04:22
>437
10日ぐらい待ちましょう、李将軍以外の人も10日ぐらい
>>385参照
>>401参照
明日あたり民族学校の先生に聞いて書きこむのゆっくり待ちましょう。
440 :
名無しさん@1周年 :2000/09/06(水) 21:52
民族学校の先生にそう言う難しいことを聞くと
祖国の栄光を踏みにじるニダか
とどやされるので無理でしょう
ほんとは先生も知らないだけだけど
441 :
名無しさん@1周年 :2000/09/07(木) 13:03
奴らが質問して帰ってくるまで
あげあげ
442 :
>437 :2000/09/07(木) 20:56
あります。
題名は忘れましたが、上下二冊で出ています。
最後が尻すぼみの小説で出来がいいとは思えなかった。
ひとつ、注目した点があります。あとがきか、まえがきで、著者は、
「当時の日本武士団の軍事力というのはアジア最強であった」
とはっきり述べています。
これは、日本を誉めるというよりも、その日本に打ち勝った
自民族の行為を際立たせようとの文意に取れました。
皮肉なものですね。
443 :
名無しさん@1周年 :2000/09/07(木) 21:00
もうひとつあります。
これは、不可思議なもので、442に掲げたのと同じ小説ではない
と思うのですが、
今から、7、8年前、新潮45という雑誌で半年くらい連載された
韓国人による翻訳小説がありました。
ところが、なぜか突如、連載は中止されました。
なんでも、契約上の問題があったとかですが、
真相は新潮社以外の人には分からないようです。
当時は慰安婦問題などで韓国への注目どが高まっていた時節で
タイムリーな企画と思って雑誌社は目論んだのでしょうが、
読者としてはとんだものをくわされたという印象でした。
中味はれいによっての、韓国英雄譚。
444 :
名無しさん@1周年 :2000/09/07(木) 21:08
あと、昭和30年代くらいに書かれた記録物の大書がありますが
絶版になっているはずです。図書館で見れます。
豊富な図面も駆使しており、旧日本軍に属した元軍人さん(韓国人)
が書いたものです。
自民族の活躍を記しており、日本側の戦果を過小評価、韓国側
の戦果を過大評価している点が特徴です。
「日本が民に攻め入るなどチャンチャラ可笑しい。ほんとは
韓国に攻め入りたかったのだが失敗した。かりに明に攻め入ったとしても
当時勃興していた清によって、日本の弱兵などたわいなく
殲滅されていたに違いない」
というのが、この人の結論です。
これは、韓国側の基本的な視点であると同時に、
今日までこの役を紹介してきた「日本学者」
やマスコミも好んで引用する文献のようです。
445 :
名無しさん@1周年 :2000/09/07(木) 22:21
実際は 明VS日本 だったんでしょう?
韓国は場所提供でやられぱっなしだったんでしょう?
歴史上の史実はどうなんですか?
446 :
名無しさん@1周年 :2000/09/08(金) 23:59
その通りです。
講和条約も朝鮮はまったく加わることが出来ませんでした。
447 :
名無しさん@1周年 :2000/09/09(土) 03:32
実際は、
明朝鮮連合軍ー日本
です。
このどちらが欠けても、歴史に現れたごとく、日本軍の明土進入を防いだ
という成果は得られなかったでしょう。
朝鮮群もよく頑張りました。李舜臣は英雄です。
448 :
名無しさん@1周年 :2000/09/09(土) 03:35
失礼しました。朝鮮群→朝鮮軍
449 :
名無しさん@1周年 :2000/09/09(土) 03:51
朝鮮軍ではありません。
李舜臣ががんばったのです。
他の人は足を引っ張っただけ。
ひとの功績を横取りするのはやめてください。
450 :
名無しさん@1周年 :2000/09/09(土) 04:10
だから、447ちゃんと前スレ読め。
李なんか日本海軍発だろ、半島で正当な評価されず日本が評価したから英雄だろ。
それまで、単なる地方軍人の反逆者だろ。脊髄レスやめろ。
451 :
名無しさん@1周年 :2000/09/09(土) 04:17
>>450 せっかく新しいおもちゃが来たんだからすぐに壊すのやめようよ。
もうちょっとみんなで遊んでから。
452 :
名無しさん@1周年 :2000/09/09(土) 04:21
450>451
だってちょっと学術的なこと言うと10日も返事しなかったり、
シンテイライなど訳わかんないこと言うんだもん。
ずっと前のデジュン2や大金みたいのこないかな。
453 :
名無しさん@1周年 :2000/09/09(土) 04:27
ほんとにたった一撃で壊れちゃったか(汗)
454 :
名無しさん@1周年 :2000/09/09(土) 04:31
>442
秀吉・朝鮮の乱(上・下)だと思う。作者名は、失念!
当時の、朝鮮軍の脆弱ぶりを正直に書いてて俺は好感持てたけど・・・(w
455 :
437 :2000/09/09(土) 04:41
レスありがとうございます。
この板を見てから朝鮮出兵について興味が沸き、
自分でも大きな書店で本を探すなどして調べたいと思いました。
しかし、資料が少ないため日本・東アジアの歴史から断片的な事実を
拾うことしかできず、県立図書館まで出かけて2冊の資料を借りて読みました。
韓国側の見方として、済州島出身の金奉鉉による「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」
日本側は日本歴史学会編集・北島万次著「豊臣秀吉の朝鮮侵略」の2冊です。
読んでみると、この板と書かれている事と両書の相違がいくつかあったので、
気になる部分を挙げたいとおもいます。
456 :
437 :2000/09/09(土) 04:44
金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)
韓国人はこの役による朝鮮軍の敗北をどうとらえているのか期待しました。
韓国人らしく、秀吉の悪口ばかりで「禿げねずみ」「無知蒙昧」ととにかく
罵っています。また、この役が「八紘一宇」「大東亜共栄圏」の先駆けと
断定し、「有名な三光政策の原形がそでにここにあったことが知らされる」と
書いています。
しかし、朝鮮内部の動揺や支配者層の無策無能ぶり、民衆からの搾取などは
詳しく、参考になりました。
反論したい部分はいくつかありますが、スレッドの趣旨から外れるので既出の
話題に関する部分に限定しておきました。
457 :
437 :2000/09/09(土) 04:45
朝鮮の武将について
・鄭撥(チョンパル、チョンの漢字はなかったので近いものを使いました)
日本軍の釜山上陸時、仮道入明を拒否し、鎮城に篭城。黒衣将軍と呼ばれる。
血の海と化した城内でも顔色を変えず先頭に立って奮戦。
部下からの退却要請を拒否し、銃弾に倒れる。城兵千人も壮絶な最後を遂げた。
・朴泓(バクホン)、慶南道左水営の守備管轄
担当海域に1船の偵察船も出さず、みすみす大軍を上陸させる。
海防の責任者だが、日本軍に圧倒されると軍糧と機材を焼き、居城を捨てて
朝廷への報告を口実に山林に逃げ隠れた後、不意の変を政府に通報。
彼の戦列の離脱により水軍の指揮系統は支離滅裂になる。
・李王(カクは王を二つ並べた字、イーカク)慶南道左兵使
上陸の報を聞いて馬を東莱城へ馳せ向けたがプサン城が落ちたとの報を聞くと
日本軍の凄まじさに恐れおののき、後方の蘇山駅を守るのだという口実を付け
て戦わずに逃げ隠れた。
・宋象賢(ソンサンヒョン)
東莱城の主将で、以前から侵攻を予期し城を補修修築し、兵を訓練していた。
小西行長の軍隊より「戦わば則ち戦え、戦わずんば、則ち道を仮せ」との札が
立てられると「戦死するは易し、道を仮すは難し」と返書を投げて闘い戦死。
日本軍もその死を惜しみ、厚く葬って祭った。
・朴晋(パクシン)、密陽の市長
蘇山駅を守っていたが日本軍に敗れ、密陽城に急ぎ帰って兵を集め、天険の
要害を抑えて食い止めようとしたが、日本軍は山の背後に黒蟻がへばりつく
ように散開して攻めたため、守備兵はその光景を望見しただけで潰散した。
朴晋はやむなく火を放って軍器倉庫を焼き、城を捨てて山に入る。
・李イル(イーイル)、慶尚道臨時宰相兼軍司令官
兵が動揺して逃げ散ったため部下の権吉(クオンキル)が村落を捜索し農民を
集める。しかし日本兵に敵わず、戦死者の死体が累々と連なる中、馬を捨て
衣服を脱ぎ、髪を振り乱して遁走する。
・シンリブ
天嶮の地、鳥嶺で日本軍を防ごうとするが、山の尾根があまりにも険しいの
で、主力の騎馬兵を動かせる平地で戦うほうが有利と考える。
対して、政治犯として投獄中だった参謀の金汝ムル(キムムヨムル)は東南地方
第一の要害地である鳥嶺で防ごうと諌めた。
しかし彼は効き入れず、金汝ムルは必ず敗れることを知り「男児国に死するは
もとより本懐とするところ…」と子に書を送っている。
彼の予言は的中し、シンリブは突撃する日本兵に茫然自失してなすすべなく、
敵数人を殺した後、子と共に河に投身自殺する。
・李陽元(イヤンウォン)、留都大将(首都防衛司令官)
国王宣祖がソウルを退去した後、千余名を率いて国都を防衛する任に就くが
日本軍がソウル近郊まで進撃してきたとの報に戦意を無くし、兵器を河に沈め
変装して北へ逃げる。
・申キル(シンキル)、部隊長
12000の兵をもって鴨緑江を挟み、日本軍と対峙したが、日本軍は退去する
とみせかけて攻撃を誘い、老将の劉克良(ユククリャン)は渡江の軽挙妄動を戒めたが
彼は一蹴し、渡江を決行し伏兵の奇襲にあい潰滅戦死。
劉克良は下馬して地面に座り、これ、われの死所なりと叫び矢が尽きるまで弓を
放ったが戦死する。
他にも大勢いますが、多すぎるのでこのあたりでやめます
458 :
437 :2000/09/09(土) 04:45
蔚山(ウルサン)の攻防戦について
・明軍3万5900人、朝鮮軍1万3800人が参加、一部は日本軍の牽制にあたる
・日本軍は兵糧が尽き、城内の士気喪失は頂点に達していた。
・加藤は偽って降伏を約束したが,それは救援を待つ時間稼ぎが狙いだった。
・蔚山救援軍を見た朝・明連合軍は総攻撃を敢行した。攻撃兵は意気盛んで猛烈を
極めたが、城兵も死に物狂いで防戦。ときあたかも大雨と寒さのため、人馬が
多く死ぬので、攻撃を中止して一旦撤収。
(明・朝鮮軍は苦戦したとか飢えたとかいう記述は無し)
・朝・明連合軍は蔚山城を完全に攻略できなかったが、二万余の大軍のうち大半を
殲滅し、敵兵を生き地獄にとじこめて恐怖と不安におののくようにした。
泗川(サチヨン)の闘いについて
・朝・明連合軍は3万6000名
・泗川旧城を守っていた川上忠実は門を開いて出撃してみたが、とても勝ち目のない
ことを悟り、敵は新城に逃げ込むのがやっとであった。
・10月1日の早朝、3万6700人の連合軍は総攻撃を敢行。
・これに対し、島津義弘はただちに強力な反撃を命じた。
・連合軍は戦況が不利と知るや、南江を渡って星州まで退いた。
・この戦闘で島津勢は3万8717の鼻を削いだが約半数は付近一帯の老若男女の
非戦闘員が無残にも殺されたのである。絶望的な戦争を強いられた再侵略時の
日本軍の残虐行為はあまりにも際立っていた。
以上の様に、朝鮮方に都合良く書かれた記述が目立ち、
「いよいよ朝鮮軍の攻撃によって、侵略軍は蔚山・泗川・順天の一角においつめられた
にもかかわらず、なかなか日本へ撤退しようとはせず、相変わらずの人面獣心の蛮行を
繰り返した。そのため、朝鮮軍は(略)9月に敵軍が朝鮮から総退却するまで掃討作戦を
ひっきりなしに展開した」
「このように朝鮮軍の徹底的な掃討作戦により、侵略軍は日増しに夥しい死傷者を出し、
恐怖のどん底にはまり、(略)はては鼠取りに血眼になる、というみじめであわれなあり
さまだった」
とあります。
この撤退時の混乱については下著には述べられていないので正確な史実は不明です。
459 :
437 :2000/09/09(土) 04:46
北島万次著「豊臣秀吉の朝鮮侵略」(吉川弘文館)
前著があまりにも感情剥き出しでしたので、対になる資料として選びました。
とはいってもどの程度客観的かは不明ですが、それなりに読めます。
蔚山(ウルサン)の攻防戦について
・明提督麻貴兵馬4万4800を率いて聞慶に到着、軍議を開く。
・明軍は城攻めにかかったが、石垣は堅険無比で用意に陥るものではなかった。
・兵糧と水が欠乏し、兵の逃亡が続出した上、明軍が投降を勧誘したので清正は城門を
閉ざして日本兵の出入りを厳禁した。
・12月28日は終日氷雨であり、連合軍は飢えと寒さで戦闘心を失っていた。
・朝鮮軍と降倭は城下の火攻めと城外の水源を埋める作戦に出たが、日本軍の銃撃が
激しく、目的を達することができなかった。
・1月2日、明軍は日本救援隊の遮断を試みるが、寒気のため兵士は皆凍え、軍馬は
飢饉のため倒れ、士気は振るわなかった。
・大晦日以来、明側は清正を和談に引き出そうといろいろ接触してきたが、結局応じず
明側の清正降誘作は功を奏しなかった。
・そのために明軍は総攻撃にかかったが、日本軍は夜明けとともに迎撃し、援軍も蔚山に
迫っていた。明軍は全軍に撤退を命じ、日本軍はこれを追撃、そして明軍は全軍に武器
食料を焼き捨てるよう命じ、慶州へと退却した。
・蔚山から撤兵する明兵は暴徒と化し、財産を略奪、婦女を暴行するなど暴虐をほしいま
まにした。また、攻略失敗の責任を朝鮮に転嫁し、皇帝には戦勝として奏上した。
泗川(サチヨン)の闘いについて
・島津勢は周辺の兵を本城に引き上げ、わざと弱弱しく振舞ったがこれは島津氏の策略だった。
・9月30日、川上忠実は旧城を脱出。翌日には連合軍が新城に迫ったが鉄砲で撃退した。
・蔚山倭城は普請なかばだったが、泗川倭城は鉄砲隊の戦術に見合った城郭普請が完了して
いたのである。
「島津はしる」に書かれているような大勝は2冊ともに記述されていませんでした。
素っ気無く、撃退したとあるだけです。
本当のところはどうだったのか、自分でももう少し調べたいと思いますが、
誰か教えていただけないでしょうか。
460 :
名無しさん@1周年 :2000/09/09(土) 07:02
個々の戦闘の細かな描写は、書く人間によって大きく異なるのは、
この戦役の特徴です。
おおむね、日本においても日本側に悪く書くようにするのが近年の暗黙の了解に
なっているようです。
はなはだしきは、史実を変えてまで脚色するものもあります。
こうした脚色、主観が戦史に混じるというのは由々しきところですが、
大まかにとらえれば、蔚山、泗川など末期の戦いは、日本側が朝鮮南部
を恒久的に支配下に置こうとして築城したところに、反撃態勢を整えた
明朝鮮軍を迎撃、これを撃退したというのが事実です。
461 :
名無しさん@1周年 :2000/09/09(土) 07:18
慶長の役では、日本側の意図は米の豊富な朝鮮南側をわがものに
しようというものでした。侵略という言葉を与えられても仕方
ありません。
例によって緒戦に南朝鮮ほぼ全域を蹂躙しましたが、秋以降になると
南岸に退き城作りを始めました。
理由は
@北方は明側の守備態勢ができている。
A補給線が伸びる
B冬期に入る
といったものだったようですが、もうひとつ、当時、明側が
「40万の兵力で日本本土を攻める」
といったデマを流したということが後年の文書に見られ、
これが事実だとしたら、当時の日本軍が警戒したことも
あげられましょう。
日本軍は南岸に退いた後、半数の兵力を本土に撤収させており、
この理由がハッキリせず、
@半島に大兵力を置くことの負担(兵糧の確保)
というのがもっともらしいのですが、前記事実があったとすれば、
戦略上の配置だったのかもしれません。
朝鮮の城は日本の城と構造が異なっているため、日本軍にとっては
守りにくかったようです。日本式の城をずらりと南岸の
要衝に築いたのもそのためです。蔚山城はその普請中に襲われ、
苦戦をしましたが、10ヵ月後の再攻撃にはほとんど打撃は
蒙りませんでした。
他の城も主要なものは無傷であり、日本側の策略は成功したと
いえましょう。
当時、これら要衝では朝鮮住民との交易もあったようで、
日本側が恒久的な支配を進めようとしていたことが推察されます。
ただ、計画的なものではなかったようで、秀吉が死ぬとさっさと
引き上げてしまいました。
462 :
名無しさん@1周年 :2000/09/09(土) 07:23
南岸に城を築いたのは、そうしてみると、戦況に対応した
というよりも、当初からの予定だったような気がします。
463 :
名無しさん@1周年 :2000/09/10(日) 02:05
・鄭撥(チョンパル、チョンの漢字はなかったので近いものを使いました)
日本軍の釜山上陸時、仮道入明を拒否し、鎮城に篭城。黒衣将軍と呼ばれる。
血の海と化した城内でも顔色を変えず先頭に立って奮戦。
部下からの退却要請を拒否し、銃弾に倒れる。城兵千人も壮絶な最後を遂げた。
こういうの見てていつも思うんだけど
全員死んだ(と書かれている)のに何でこういう逸話がのこってるの?
こういうのを見ると、
まあ死んだひとの話だから何とでもかけるわな
と思ってしまう私は性悪?
464 :
名無しさん@1周年 :2000/09/10(日) 02:05
・鄭撥(チョンパル、チョンの漢字はなかったので近いものを使いました)
日本軍の釜山上陸時、仮道入明を拒否し、鎮城に篭城。黒衣将軍と呼ばれる。
血の海と化した城内でも顔色を変えず先頭に立って奮戦。
部下からの退却要請を拒否し、銃弾に倒れる。城兵千人も壮絶な最後を遂げた。
こういうの見てていつも思うんだけど
全員死んだ(と書かれている)のに何でこういう逸話がのこってるの?
こういうのを見ると、
まあ死んだひとの話だから何とでもかけるわな
と思ってしまう私は性悪?
465 :
名無しさん@1周年 :2000/09/10(日) 02:13
・この戦闘で島津勢は3万8717の鼻を削いだが約半数は付近一帯の老若男女の
非戦闘員が無残にも殺されたのである。絶望的な戦争を強いられた再侵略時の
日本軍の残虐行為はあまりにも際立っていた。
この38717の数の帳尻あわせを自分のが弱かったとは言えないからごまかしてるところを見ると
この数字は本物と見て良いんじゃないの?
それにしても
この本(朝鮮側)でもこの半数は明朝鮮軍のものと認めているんだから
すさまじい大敗なのは間違いないんじゃないの?
島津方は数千しかいなかったわけだし
466 :
名無しさん@1周年 :2000/09/10(日) 02:30
結論として、
このとき対海軍をきちんとやっておけば、
半島は今ごろ日本のものだったって事でよろしいか?
ところで、その本にはチヨヨン舞の記事あった?
468 :
名無しさん@1周年 :2000/09/10(日) 03:45
大体文禄の時に降倭皆殺とかいって捕虜殺しまくったのは
国際法違反だ!!!
469 :
437 :2000/09/10(日) 06:27
<463@`464
記事によれば、城内には兵の他避難した釜山の住民が一万近くいたらしい
です。吉野日記には切り首3万とありますが、他の文献では8500人が
討ち取られたとのことで、生き残りの住民もいたはずです。
470 :
チヨヨン舞@名無しさん :2000/09/10(日) 06:53
いやこれは全員死んだという主張と逸話が残っていると言うのを同時に書いて
筆者は何とも思わなかったのかなと言う疑問だと思います。
471 :
チヨヨン舞@名無しさん :2000/09/10(日) 07:01
↑は結局、物語と史実の違いでしょう。
物語は歴史じゃないしね、三国志と三国志演技ぐらいの差があると思えば
いいんじゃないですか?
最初に小説と言ってあったはずですから。
(耳鼻の残虐性も何処まで加筆してあるか割り引かないとね)
472 :
チヨヨン舞@名無しさん :2000/09/10(日) 17:54
>>471 韓国側の見方として、済州島出身の金奉鉉による「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」
日本側は日本歴史学会編集・北島万次著「豊臣秀吉の朝鮮侵略」の2冊です。
とあるので小説ではありません。
小説なら誰も相手にしませんよ
473 :
名無しさん@1周年 :2000/09/11(月) 07:18
韓国側の当時の資料としては、
「懲ひ録」「看羊録」というのがあります。題名から類推できるように、
日本を見下したものですが、役に近い時期に書かれたものなので
貴重な資料と申せましょう。
474 :
名無しさん@1周年 :2000/09/11(月) 14:07
秀吉公は、蒙古と同盟を結んで日本を侵略した、凶悪な民族に天誅を加えた立派
な人物です。高麗人に侵略された側の苦しみを教えるため、あのような行動に出た
のです。高麗人も侵略される苦しみが分かったなら、早く日本人に謝りなさい。
475 :
437 :2000/09/11(月) 23:53
ご指摘有難うございました。
とりあえずこのまま疑問にしておく訳にはいかず、新たな資料を借りてまいりました。
蘇峰徳猪一郎著『近世日本国民史 第九巻 朝鮮役下巻』(時事通信社 昭和三十九年二月十日発行)
大正十年七月十五日に脱稿された本であり、旧仮名遣いで書かれているためちょっと読みづらいです。
様々な資料から原文をそのまま載せ、解説を加えているのでかなり信頼できると思います。
これをもって再び蔚山、泗川の闘いを見てみますと、
蔚山(ウルサン)の攻防戦について
篭城者の手記や宣祖實緑の原文を提示しながらかなり詳しく書かれてましたが、長過ぎるので経過のみ
・我軍は城普請のみに力を入れて、敵の眼前の來り迫るを知らなかつた。我軍は全く敵情偵察に於いて、缺陷があった。
・12月22日早暁不時に襲撃せられ、苦戦の末退却した。二十三日は城の一部を奪われた。
・蔚山城を守ったのは二千名余(宣祖實緑)、攻撃軍四萬人(両朝平壌録)、朝鮮軍三千五百(宣祖實緑)
・敵死骸数壹萬三百八拾六人(浅野文書)
この戦は大勝利だったと結論づけています。戦前の文書である事を差し引いても、日本が勝利したのは間違い無いでしょう。
泗川(サチヨン)の闘いについて
此の一戦の為に、日本軍の威力は、数百年の後迄も轟いた。
此の一戦の敵にあたへたる打撃は洵に痛快であった。徹底的であった。明人が石曼子の名に恐怖した影響は、恐らくは
明治二十七八年役迄も、計上せねばなるまい。
・島津側に於いては、恒に明軍の来襲に備へ、がうも油断なかった。
・然も敵は大勢也、味方は小勢也。さればその勢力を、泗川新城に集合するに若かずとは義弘の軍略であった。
・明軍は幾許あった乎。あるいは十萬騎といひ(島津家記)、あるいは二十萬騎といひ(征韓録)、又た朝鮮側では
一萬三千五百人(燃(略)室記述)といふ。なほ宣祖實緑には、中路の天兵二萬六千八百、我が(朝鮮)兵二千二百十五名とある。
・流石の文飾的明将も、此の大敗走を誤魔化す訳にはならなかった。
宣祖實緑によれば「國を辱め威を損ず、深く痛恨すべし。、菫一元は級を降して功を立てしめよ」と重々しく書かれています。
476 :
437 :2000/09/12(火) 00:05
この記録からするに、大勝利だったのは間違い無いでしょう。その後和議が結ばれたともあります。
蛇足になりますが、島津勢の泗川城撤退後に入った菫一元は朝鮮王宮より奪われた宝物を目にするが
彼はそれを城ごと焼いたらしいです(文章の解釈が間違ってたら申し訳ありませんが、城を焼いたの
は確実)。また、城に入ると残っていた兵糧二千五百石、馬三百、倭器刀塀を奪い、32顆の首を斬首
したらしいですが、それは朝鮮人捕虜か傷病者との説があります。
477 :
437 :2000/09/12(火) 00:11
この記録からするに、大勝利だったのは間違い無いでしょう。その後和議が結ばれたともあります。
蛇足になりますが、島津勢の泗川城撤退後に入った菫一元は朝鮮王宮より奪われた宝物を目にするが
彼はそれを城ごと焼いたらしいです(文章の解釈が間違ってたら申し訳ありませんが、城を焼いたの
は確実)。また、城に入ると残っていた兵糧二千五百石、馬三百、倭器刀塀を奪い、32顆の首を斬首
したらしいですが、それは朝鮮人捕虜か傷病者との説があります。
当時朝鮮は日本人の首一つを切れば、直ちに武官に採用し、科を許すとの触れを出しましたが、
明軍が朝鮮人の首を切って、日本人の首とするのはしばしばあったらしいです。当然朝鮮人同士での
首切りもあり、日本軍の耳鼻切りと大差が無い様に思えます。
そして、日本軍が朝鮮人を数多く連行した事も知られていますが、記録によれば明軍も引き上げる時
多くの女子を取り、皆率いて去ったそうです。その数は数万人を下らないとか…。
478 :
名無しさん@1周年 :2000/09/12(火) 05:56
これも全部日本のせいになってるんだよな
479 :
437 :2000/09/12(火) 06:25
476と477がかぶってしまいました…。
申し訳ありません。
480 :
名無しさん@1周年 :2000/09/12(火) 07:08
>この記録からするに、大勝利だったのは間違い無いでしょう。
>その後和議が結ばれたともあります。
前段は正解だが、後段は間違っているのでは。
蔚山で敗退した明は以後一年間、兵勢を立て直すことが出来ず、
対峙状態に入った。
一年後、秀吉の死を機に再度攻撃してきたのが、第二次蔚山や
泗川、順天だった。しかし、いずれも指摘のとおり攻撃は失敗している。
その後、日本側は一方的に撤退。
したがって、その戦いを機に和議が結ばれたというのではない。
481 :
名無しさん@1周年 :2000/09/12(火) 07:11
>そして、日本軍が朝鮮人を数多く連行した事も知られていますが、記録によれば明軍も引き上げる時
多くの女子を取り、皆率いて去ったそうです。その数は数万人を下らないとか…。
まったく、踏んだり蹴ったりとはこのことだな。
同情する。
482 :
名無しさん@1周年 :2000/09/12(火) 07:16
出回っているおびただしい書籍での説明よりも、このスレのほうが
数等まともな記述だな。
今の書籍は何かにおびえて、びくびくもので出版しているから、このスレで書かれた
史実についてはひた隠し、嘘に近い記述をしている。
483 :
名無しさん@1周年 :2000/09/13(水) 03:51
今上がってる馬鹿スレよりこういうスレッドの方がいい
484 :
名無しさん@1周年 :2000/09/13(水) 04:04
チョンコは氏ね
485 :
名無しさん@1周年 :2000/09/13(水) 04:05
486 :
名無しさん@1周年 :2000/09/13(水) 04:37
でも、最初は大金が暴れていたんだよな。
懐かしいな、チヨヨンとまた違った味わいがあったな。
487 :
名無しさん@1周年 :2000/09/13(水) 05:53
薄汚いチョンの話だ。最初から汚れてるよ(ワラ
488 :
名無しさん@1周年 :2000/09/13(水) 06:49
その蔚山篭城戦(最初)では明側が1万とも2万とも言われる犠牲者を出して
退き、再興した兵力で再び攻めても失敗した事実がありながら、
NHKは
「この戦い(蔚山)をきっかけに日本軍の敗北は決定的となった」
と形容して放送してたのだよ。
どう思う?
489 :
名無しさん@1周年 :2000/09/13(水) 07:09
何をして敗北とするかだね。
北京まで攻め込むつもりだったんなら敗北かもね。
膠着状態になってしまったんだから。
490 :
ななしさん :2000/09/13(水) 11:06
日本は古来より朝貢国であった朝鮮の無礼に対し「征伐」をしたのであって
朝鮮に対しては勝利とか敗北とかは関係ありません。
このときは明が主敵ですので
>>489に賛同します。
491 :
名無しさん@1周年 :2000/09/13(水) 14:21
>489@`490
この場合ポイントは、「蔚山をきっかけに」というところのあるのでは。
敗北にしろ失敗にしろ、それをいうなら、文禄の役で小西行長が
平城から後退した時点ではないかな。
以後、北進する能力を持たなかったのだから。
蔚山で決定的というのはどうみても、脚色が強すぎる。
蔚山で明は勝てなかったゆえ、決定的に日本軍を追い出すことが
出来なかったというのが史実。
492 :
名無しさん@1周年 :2000/09/13(水) 18:37
っていうか
NHKの馬鹿プロデューサーが
韓国の言うことばかり聞いて
そのまま番組作っただけだろ
493 :
名無しさん@1周年 :2000/09/14(木) 02:11
>492
正解。
「加藤清正神話」は、戦前の典型的な愛国歴史教育の素材でしたから、
それを破壊することに、何か価値を見出しているのでしょうね。
インテリの唯我独尊というやつで、
いまの人など、清正の虎退治も知らないのが現実なのにね。
一種のお笑いです。
494 :
名無しさん@1周年 :2000/09/14(木) 02:18
ここらで、朝鮮義兵による対日本軍の「掃討作戦」
なる戦史の詳細をうかがいたいものですね。
晋州城の防戦、幸州山城の防戦といった「大勝」の話をうかがいたいもの
です。
朝鮮軍もよく頑張りましたもの。
495 :
名無しさん@1周年 :2000/09/14(木) 02:34
韓国の名将がすごい作戦で日本軍を全滅させました
めでたしめでたし
496 :
名無しさん@1周年 :2000/09/14(木) 04:22
あげ
497 :
名無しさん@1周年 :2000/09/14(木) 18:11
戦後に発見された武功夜話は、役後20年以内に書かれた本で、
たいへんに貴重な内容が記してある。
幸州山城の攻めについては、
「これまでの中で、もっとも厳しき取り合いなり」(取り合い=城攻め)
「手負い討ち死に4000人」
と書いている。討ち取る首級4000ヶとも書いているが、城の手兵は
数千といわれているから、死傷者は同数か日本側のほうが多かったかも
しれない。
結局、廓のいくつかを日本側は占拠し、食料庫を奪取した。これが
ひとつの狙いだった節がある。
食料庫を奪取した鍋島かどこかの武将が賞を受けている。
この戦いの後に、日本軍がソウルを撤退したのは事実であり、
朝鮮側が「これをきっかけに勝利した。大勝」というのも、
ある程度うなずける。
498 :
437 :2000/09/15(金) 08:28
480さん、指摘ありがとうございます。
蘇峰徳猪一郎著『近世日本国民史 第九巻 朝鮮役下巻』(時事通信社 昭和三十九年二月十日発行)によれば、
秀吉の死去後、五大老は朝鮮の諸将に撤兵を命を出し、順天、泗川では明軍は敗戦で戦意を失っていたため
早々と講和が締結されたらしいです。順天では提督の劉延が降倭の沙也可を使者として小西行長に和議を
持ちこみ、人質として劉天を差し出しました。朝鮮の資料「宣祖實緑」では順天城の攻防における劉延の
無能ぶりを「(略)提督事を行ふ、正に魂を奪はれたる人の如し。将卒皆軽侮す。適ゝ泗川の敗報を見、(略)
意を決して兵を退く。尤も痛泣を為す。(漢字を一部略字に変更してますので間違いがあればすいません)」
日本軍に手痛く迎撃されられた上に、泗川の敗報に報して日本諸将の撤兵意思を好材料として和を講じたの
でしょう。しかし、明と朝鮮の連合軍はそれを反故にして後に押し寄せることとなります。
泗川での講和
明側の資料、「両朝平攘録」には「(略)中路使督陣茅國科、撫臺の激を持し、金パクを賚して義弘に見え、動すに
大儀を以てし、諭すに利害を以てす。郭國安傍より之を賛す。義弘許諾す。」とあり、
日本側の資料「征韓録」には「十月八日に、徳水式部卿法印壽昌(略)、泗川の新塞に来て、殿下の厳命なりとて
和議の次第、貢税の品、掃陣の行を述らる。その掃陣の期限は、十一月十五日を期として、諸将相倶に釜山浦へ
(略)、然るに十月十三日に、参謀史龍添(略)、此の塞に来り、和議を請ふ。(略)彼の人質を請取(略)和議と相成りて
掃陣の催しあり」
ともかく、泗川の大勝によって明軍を和議に向かわせたのは資料から確実と思われます。
前のレスを補足すると和議を結んだから撤退したのではなく、撤退の過程で和議が結ばれた、という事ですね。
義兵のことですが、彼等の活発な活動が日本軍を苦しめたのは疑いありません。
ただ、支配者層は義兵の反日抗争を自らの階級支配の道具に組み入れようとやっきになったそうです。
金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)によれば、戦争初期においては義兵を官軍に引きこむため、
義兵将らにたいして高い職位を授ける措置をとったが、やがて義兵闘争が官軍の補助的役割をするようになると
義兵には厳しい統制と圧力がくわえられ、政府は義兵達が巡察使(道内の軍務を巡察する官職臨時軍司令官)及び
体察使(臨時宰相兼軍司令官)の指揮を受けるようにしたが、それらの指揮官は殆どの者が正確な指揮をなしえなかった。
戦争末期には、為政者たちは義兵の存在を十分留意していた。すなわちかれらは戦闘の経験を有し、武器を多数
備え、権力者にとって恐ろしい存在である事を認識し、義兵にたいする統率と圧力をより一層強化するとともに
迫害を加えた。そのため、義兵達は組織された部隊として機能できなくなった。
しかも、義兵部隊の核心的活動家はほとんどが被圧迫階級で、体を張って貢献したにも関わらず、政府はかれらを
正当に評価せず、戦争が終わると義兵たちはまたもや農奴的身分におとしめ、過酷な収奪を繰り返した。
義兵闘争の過程で官職を授けられた義兵将も、国家権力によって廃履のように捨てられるが、党派の政争に組み込まれて
権力者らの猜忌や謀略により迫害され、はては流配か死刑かの不遇な生涯を送らねばならなかったそうです。
499 :
480>498 :2000/09/16(土) 08:34
講和の件に関する疑問個所は、蔚山(第一次)に対するものと
考えていました。
翌年後半の一連の戦い後の講和の動きについては、御教示いただき、有難う
ございました。
500 :
437 :2000/09/18(月) 06:27
この役が明に与えた影響ですが、少なくなかった様です。
日本軍は慶長3年12月には釜山を引き上げたが、明兵は萬暦27年(慶長4年4月)に一部が撤退を始め、
最後まで残った二万四千の兵が引き上げたのは萬暦28年(慶長5年)でした。
当時明は万暦帝の治世でしたが、1582年の寧夏ボバイの乱に始まり、朝鮮の役、97年の播州の楊応竜の乱は
万暦の三大征と呼ばれ、それぞれ二百余万両、七百余万両、二、三百万両を費やし明の財政に大打撃を与えました。
くわえて1597年に宮中の三殿が焼けると、用材を遠く貴州からも運ばせて造営工事を始め、材木一本9000両、
総工費は朝鮮の役を上回ったそうです。そのため銀がますます必要となり盛んになった商品流通を目当てに商税を
取りたてる事が決まり、宦官が全国に派遣されて税金の取り立てが行われました。これが悪名高い『礦税の禍』です。
明人の詩人は「倭奴朝鮮に逼る。虚費百億萬。竭盡す中國の膏。聞かず隻箭に蹶すを」と詠じ、慶長3年に朝鮮の李恒
福が北京に赴いた時、彼は「東征事起、府庫虚耗」(朝天記聞)と記しています。
慶長の朝鮮再役は日本では不人気でしたが、明にとっても不人気であったと思われます。
日本軍も明と戦う気は無かったのですが、朝鮮の強い要請で両者は再び激突しました。
役が終わって後に明の~宗は朝鮮国王宣祖に向かって、「王、舊物を還すと雖も、實は新造に同じ。凋を振ひ敝を起し、
爲に力倍ゝ艱まむ。宜しく薪に臥し膽を嘗め、前恥を忘るる無かるぺし。」と諭した(明史)。
国力の疲弊した明は1644年に滅亡します。朝鮮の役はその原因とは言わないまでも、様々な要因の一つであるのは
確かなこととおもわれます。
蛇足ですが、以前のレスで明兵が多くの人間を連れかえった事を書きこみましたが原文は「亂中雜録」で
「天兵多く我が國の女子を取り、還えるに及びて皆な率ゐて去る。山海關に至りて入るを得ず。乃ち房子等を與へ、
配と作して奇住せしむ。前後並に數萬人」とあるのを個人的に解釈して書きこんだのですが、間違っていたらすいません。
501 :
名無しさん@1周年 :2000/09/18(月) 07:36
徳富蘇峰『近世日本国民史』
講談社学術文庫からもう一度復刊してほしい。
この本ほど小説家から元ネタにされながら
その事実が隠されてるものはない、という人もいるくらい。
(蘇峰は軍国主義の筆頭格だから)
502 :
名無しさん@1周年 :2000/09/19(火) 11:22
秀吉は朝鮮国土を「赤国」「青国」とか、色で別称していたらしい。
ある本では、これをして、
「秀吉の幼稚な性格がわかる」
という説明をしていた。
しかし、こうしたニックネームは、今でも軍がよくやることで、
秀吉の感覚は不自然ではない。
こうなると文禄慶長の役に関する近年の本というのは研究というより
歴史イメージの刷り込みという様相の気がするね。
503 :
名無しさん@1周年 :2000/09/21(木) 01:53
もう、おしまい?
504 :
名無しさん@1周年 :2000/09/21(木) 04:04
>>502 中国への単なる通り道くらいにしか思ってなかったのでしょう。
505 :
名無シーク :2000/09/21(木) 04:09
このスレにまじめに参加してるのはほんの2、3名?
506 :
437 :2000/09/21(木) 22:45
金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)には、朝鮮側が使用した兵器についても説明されています。
官・義軍がもっとも広範かつ一般的に使用した武器は弓箭だったそうです。
朝鮮が鳥銃と呼ぶ鉄砲が初めて朝鮮に伝わったのは、対馬藩の宗義智が1589年、朝鮮政府に献上したのが最初と
ありました。1592年李恒福(イハンボク)は「王朝軍は日本軍と戦うとき、接近して戦ってはいけない。それは
敵の先鋒には鉄砲と刀があるからだ」と警告し、『懲録』には「日本人は戦争に習熟し、しかも機械は精巧である。
昔は鉄砲はなかったが、今はそれを所有している。有効射程や命中率は弓矢に倍する。…弓矢の技は百歩にすぎず、
鉄砲は数百歩におよび。飛んでくるさまは、雨あられのよう。とても抗せるものではない」と鉄砲の威力を示している
とのことです。
その他の武器については「戈垣必備(クワウォンピルビィ)」(李王朝の武器に関する書)に説明があり、火器の種類は
二十余種類がある、とされています。
少し引用しますと、
飛撃震天雷
昔の火雷砲・地雷砲・衝天雷らの神法によってつくられた。これは敵をだます爆弾であるから大碗口から発射する。
発射するときは煙飛火烈して砲声が天地を震撼させる。よって飛撃震天雷砲という。明の飛空撃賊震雷砲と同様の
ものと思われる。古来から王朝にあったものではなく、軍器寺(兵器を製造する役所)の火砲匠の李長孫(イジャンソン)
が考案したもので、発射すると500歩飛んで地に落ち、しばらくして爆発する。敵はこれをたいそう恐れた、とある。
震天雷は鉄丸で、中に鉄片を入れて導火線を穴から出し、碗口の薬室に点火して発火する火器である。やや迫撃砲に
似ている。
大碗口は広範に使用された威力ある火砲であった。李瞬臣将軍は熊川浦戦闘において大碗口で震天雷を発射して敵軍を
掃蕩した。
大将軍砲は、大碗口とともに亀甲船や兵船の艦砲として威力を発揮した火砲であった。
虎蹲砲(ホジュンポ)は砲身の全長一尺九寸、重さ三十六斤、発射するとき四斤六両の火薬が必要だった。
佛狼機砲(ブルランキポ)
小説「高麗秘帖」によれば、ヨーロッパ各国で製造された艦載砲を模造した後装式の大火砲だそうです。
また、「車制対策」によれば、飛行機の原始的な形態ともいえる「飛車」が発明され、人が乗り城に入り、また人が
乗って外に出たとある。
507 :
437 :2000/09/21(木) 22:46
ただ、どの程度信頼できるかといえば「火車」について、北島万次著「豊臣秀吉の朝鮮侵略」(吉川弘文館)では
荷台の上の装置から火箭を一斉に放つ、とありますが金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)では
「いまでいえば装甲車のようなもの」と食い違う説明をしていますので、話半分に受け止めました。
日本軍では加藤清正と黒田長政が晋州城の闘いにおいて亀甲車を考案し、城北面の石壁を崩したと本にあります。
この亀甲車とは、4輪車に櫃を取り付け、その中に兵が入り、轍を前方に回して前進し、退くときは車の後尾に結んだ
綱を後方にひそむ兵が引く仕掛けになっており、牛の生き皮数枚を剥いで裏返しに覆い(毛の部分が内側)火に耐えられる
ようになっていたとのことです。城からは巨岩を落として抵抗したものの、金梃で城壁の数カ所に孔を開け、崩した
らしいです。
話は変わりますが、金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)では出兵以前の日本についてこのように
説明がなされていました。
「各地に割拠した大領主のあいだに火花を散らす大戦乱は、民百姓の生活を極度に疲弊せしめ、経済的に破滅した
庶民のなかには流避離散する者さえいれば、あるいは、みなが一致団結して反封建の農民一揆が相次いで発生した」
「封建領主間の権力争奪戦は、織田信長が(略)天下統一の歩みを進めたが(略)京都の本能寺に宿をとった時、不意に
部下の明智光秀におそわれて殺された。本能寺の変は、秀吉にとって天下を狙える千載一遇のチャンスである」
一部ですが、日本人の感覚とはちょっとズレていると感じました。
また、明についてはこれでもかこれでもかという程倭寇の被害を並べ立てています。
当時の資料に倭寇のうち真倭は十に一つとはっきり書かれているにも関わらず、全部日本がやった様に説明されている
のは納得しかねます。
508 :
437 :2000/09/22(金) 23:32
当時の朝鮮の状況について
金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)によると、当時朝鮮では特権階級によって農民からあらゆる名目で
収奪を繰り返し、農民は居住地から離散逃亡したり、両班の奴婢として「物をいう道具」と見なされたりとにかく酷い
時代だったと説明されています。田税米を収める場合、徴収官−地方官−官庫に入るまでに中間受納者によって搾取
され、実質負担は法律の7倍以上にも及んだとあります。
田税以外にも、農民らは居住地の特産物を貢納せねばならなかったが、実際はその地方に生産できないものも多く指定
され、そればかりかとっくに生産の途絶えた物品が課される場合もあった。
例をあげれば、鹿の産地でないのに鹿の尾、鹿の舌、快脯(鹿の肉を薄く切って乾かした物)を賦課されたり、済州島に
は鉄、会寧、鏡城、富寧はテンの皮などを賦課された。
その場合、遠く開城やソウルの常設市場で同じ品物を高価で買い求め、あるいは京商について購入し、上納せねばなら
なかった。極端な例として、全羅道海辺諸邑には伽藍鳥の油が賦課されたが、これはもともと朝鮮の鳥ではなく、邑が
輪番で民間より金品を多く集め、遠く平安道(中国と国境を接する朝鮮半島の北部)に赴いて買い求めた。
まさに南端より北端に赴き買わざるをえなかった。このような矛盾がまかりとおっていたが、本ではおのずと交易を促
進する原因となったとしている。
生魚が産地では米一升にすぎないのに、遠地で急に求めるようになるから負担は四、五斗にもなってしまったとあります。
509 :
437 :2000/09/22(金) 23:35
軍隊に話を変えましょう。
当時は16歳以上60歳までの成年男子が兵役の義務を負っていましたが、木綿二匹(米12斗価格分)を収めると兵役を
免除する「収布代役制」が広く行われ、地方の軍司令官やその官属が自己の私利私欲を満たすため、盛んに布を受け取って
いた。そのため、軍布を負担しえない貧しい者だけが軍人に召集されたので軍隊の質が低下した。
十六世紀後半には軍隊編成の基本というべき軍籍は、実質的にただ軍布を徴収するための「人頭税の台帳」にすぎなくなって
いた。これはこの時期、対内外的にこれという程の大事変が無かったからで、大衆の反乱は頻発したが、闘争が小規模で
分散していたので、政府は過酷な弾圧で十分鎮圧することができたからである。
支配階級は軍隊の訓練より軍布の徴収に血眼になり、人民から搾り取る最重要な方法となった。
当時、軍籍に登録された者は「病弱傭食之人」だけだったと「宣祖實緑」に記録されています。しかも軍布徴収は中央政府
や五軍営だけでなく、地方の官庁や兵営まで独自的に割り当てられた軍布を徴収したため、1人について2重3重に収奪され
る場合が多く、彼等が納める軍布の量はやはり所属によって二匹あるいは3匹とまちまちで、一匹の長さも一定してなかった
特に政府は財政事情が逼迫するにつれ、軍布徴収量を増額配分した結果、いわゆる「黄口簽丁(ファンクチョムチョン、子供
を大人と見なして課税すること)」、「族徴(チョクチン、国家に対する負担を担った者が逃亡した場合、その親族から強制的に
保布を代理徴収すること)、隣徴(リンチン、隣近所から代理徴収すること)」、「白骨徴布(ベルコルチンポ、死者にまで課税
し、軍布を徴収すること)」などの弊害が横行した。
この時酷使されたのは水軍兵士で、水軍の苦役は法令の規定に宮殿の造営とか、他の土木工事のあるごとに徴発して他の用務
に使役されたし、上官が自己の利を営むための塩たき、採藻などをはじめさまざまな仕事に使役されたから、水兵の家族は
積もる怨念の涙で天に叫び地に訴えた。
510 :
名無しさん@1周年 :2000/12/05(火) 02:01
480さん、指摘ありがとうございます。
蘇峰徳猪一郎著『近世日本国民史 第九巻 朝鮮役下巻』(時事通信社 昭和三十九年二月十日発行)によれば、
秀吉の死去後、五大老は朝鮮の諸将に撤兵を命を出し、順天、泗川では明軍は敗戦で戦意を失っていたため
早々と講和が締結されたらしいです。順天では提督の劉延が降倭の沙也可を使者として小西行長に和議を
持ちこみ、人質として劉天を差し出しました。朝鮮の資料「宣祖實緑」では順天城の攻防における劉延の
無能ぶりを「(略)提督事を行ふ、正に魂を奪はれたる人の如し。将卒皆軽侮す。適ゝ泗川の敗報を見、(略)
意を決して兵を退く。尤も痛泣を為す。(漢字を一部略字に変更してますので間違いがあればすいません)」
日本軍に手痛く迎撃されられた上に、泗川の敗報に報して日本諸将の撤兵意思を好材料として和を講じたの
でしょう。しかし、明と朝鮮の連合軍はそれを反故にして後に押し寄せることとなります。
泗川での講和
明側の資料、「両朝平攘録」には「(略)中路使督陣茅國科、撫臺の激を持し、金パクを賚して義弘に見え、動すに
大儀を以てし、諭すに利害を以てす。郭國安傍より之を賛す。義弘許諾す。」とあり、
日本側の資料「征韓録」には「十月八日に、徳水式部卿法印壽昌(略)、泗川の新塞に来て、殿下の厳命なりとて
和議の次第、貢税の品、掃陣の行を述らる。その掃陣の期限は、十一月十五日を期として、諸将相倶に釜山浦へ
(略)、然るに十月十三日に、参謀史龍添(略)、此の塞に来り、和議を請ふ。(略)彼の人質を請取(略)和議と相成りて
掃陣の催しあり」
ともかく、泗川の大勝によって明軍を和議に向かわせたのは資料から確実と思われます。
前のレスを補足すると和議を結んだから撤退したのではなく、撤退の過程で和議が結ばれた、という事ですね。
義兵のことですが、彼等の活発な活動が日本軍を苦しめたのは疑いありません。
ただ、支配者層は義兵の反日抗争を自らの階級支配の道具に組み入れようとやっきになったそうです。
金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)によれば、戦争初期においては義兵を官軍に引きこむため、
義兵将らにたいして高い職位を授ける措置をとったが、やがて義兵闘争が官軍の補助的役割をするようになると
義兵には厳しい統制と圧力がくわえられ、政府は義兵達が巡察使(道内の軍務を巡察する官職臨時軍司令官)及び
体察使(臨時宰相兼軍司令官)の指揮を受けるようにしたが、それらの指揮官は殆どの者が正確な指揮をなしえなかった。
戦争末期には、為政者たちは義兵の存在を十分留意していた。すなわちかれらは戦闘の経験を有し、武器を多数
備え、権力者にとって恐ろしい存在である事を認識し、義兵にたいする統率と圧力をより一層強化するとともに
迫害を加えた。そのため、義兵達は組織された部隊として機能できなくなった。
しかも、義兵部隊の核心的活動家はほとんどが被圧迫階級で、体を張って貢献したにも関わらず、政府はかれらを
正当に評価せず、戦争が終わると義兵たちはまたもや農奴的身分におとしめ、過酷な収奪を繰り返した。
義兵闘争の過程で官職を授けられた義兵将も、国家権力によって廃履のように捨てられるが、党派の政争に組み込まれて
権力者らの猜忌や謀略により迫害され、はては流配か死刑かの不遇な生涯を送らねばならなかったそうです。
511 :
名無しさん@1周年:2000/12/05(火) 02:02
480さん、指摘ありがとうございます。
蘇峰徳猪一郎著『近世日本国民史 第九巻 朝鮮役下巻』(時事通信社 昭和三十九年二月十日発行)によれば、
秀吉の死去後、五大老は朝鮮の諸将に撤兵を命を出し、順天、泗川では明軍は敗戦で戦意を失っていたため
早々と講和が締結されたらしいです。順天では提督の劉延が降倭の沙也可を使者として小西行長に和議を
持ちこみ、人質として劉天を差し出しました。朝鮮の資料「宣祖實緑」では順天城の攻防における劉延の
無能ぶりを「(略)提督事を行ふ、正に魂を奪はれたる人の如し。将卒皆軽侮す。適ゝ泗川の敗報を見、(略)
意を決して兵を退く。尤も痛泣を為す。(漢字を一部略字に変更してますので間違いがあればすいません)」
日本軍に手痛く迎撃されられた上に、泗川の敗報に報して日本諸将の撤兵意思を好材料として和を講じたの
でしょう。しかし、明と朝鮮の連合軍はそれを反故にして後に押し寄せることとなります。
泗川での講和
明側の資料、「両朝平攘録」には「(略)中路使督陣茅國科、撫臺の激を持し、金パクを賚して義弘に見え、動すに
大儀を以てし、諭すに利害を以てす。郭國安傍より之を賛す。義弘許諾す。」とあり、
日本側の資料「征韓録」には「十月八日に、徳水式部卿法印壽昌(略)、泗川の新塞に来て、殿下の厳命なりとて
和議の次第、貢税の品、掃陣の行を述らる。その掃陣の期限は、十一月十五日を期として、諸将相倶に釜山浦へ
(略)、然るに十月十三日に、参謀史龍添(略)、此の塞に来り、和議を請ふ。(略)彼の人質を請取(略)和議と相成りて
掃陣の催しあり」
ともかく、泗川の大勝によって明軍を和議に向かわせたのは資料から確実と思われます。
前のレスを補足すると和議を結んだから撤退したのではなく、撤退の過程で和議が結ばれた、という事ですね。
義兵のことですが、彼等の活発な活動が日本軍を苦しめたのは疑いありません。
ただ、支配者層は義兵の反日抗争を自らの階級支配の道具に組み入れようとやっきになったそうです。
金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)によれば、戦争初期においては義兵を官軍に引きこむため、
義兵将らにたいして高い職位を授ける措置をとったが、やがて義兵闘争が官軍の補助的役割をするようになると
義兵には厳しい統制と圧力がくわえられ、政府は義兵達が巡察使(道内の軍務を巡察する官職臨時軍司令官)及び
体察使(臨時宰相兼軍司令官)の指揮を受けるようにしたが、それらの指揮官は殆どの者が正確な指揮をなしえなかった。
戦争末期には、為政者たちは義兵の存在を十分留意していた。すなわちかれらは戦闘の経験を有し、武器を多数
備え、権力者にとって恐ろしい存在である事を認識し、義兵にたいする統率と圧力をより一層強化するとともに
迫害を加えた。そのため、義兵達は組織された部隊として機能できなくなった。
しかも、義兵部隊の核心的活動家はほとんどが被圧迫階級で、体を張って貢献したにも関わらず、政府はかれらを
正当に評価せず、戦争が終わると義兵たちはまたもや農奴的身分におとしめ、過酷な収奪を繰り返した。
義兵闘争の過程で官職を授けられた義兵将も、国家権力によって廃履のように捨てられるが、党派の政争に組み込まれて
権力者らの猜忌や謀略により迫害され、はては流配か死刑かの不遇な生涯を送らねばならなかったそうです。
512 :
名無しさん@1周年:2000/12/05(火) 02:02
480さん、指摘ありがとうございます。
蘇峰徳猪一郎著『近世日本国民史 第九巻 朝鮮役下巻』(時事通信社 昭和三十九年二月十日発行)によれば、
秀吉の死去後、五大老は朝鮮の諸将に撤兵を命を出し、順天、泗川では明軍は敗戦で戦意を失っていたため
早々と講和が締結されたらしいです。順天では提督の劉延が降倭の沙也可を使者として小西行長に和議を
持ちこみ、人質として劉天を差し出しました。朝鮮の資料「宣祖實緑」では順天城の攻防における劉延の
無能ぶりを「(略)提督事を行ふ、正に魂を奪はれたる人の如し。将卒皆軽侮す。適ゝ泗川の敗報を見、(略)
意を決して兵を退く。尤も痛泣を為す。(漢字を一部略字に変更してますので間違いがあればすいません)」
日本軍に手痛く迎撃されられた上に、泗川の敗報に報して日本諸将の撤兵意思を好材料として和を講じたの
でしょう。しかし、明と朝鮮の連合軍はそれを反故にして後に押し寄せることとなります。
泗川での講和
明側の資料、「両朝平攘録」には「(略)中路使督陣茅國科、撫臺の激を持し、金パクを賚して義弘に見え、動すに
大儀を以てし、諭すに利害を以てす。郭國安傍より之を賛す。義弘許諾す。」とあり、
日本側の資料「征韓録」には「十月八日に、徳水式部卿法印壽昌(略)、泗川の新塞に来て、殿下の厳命なりとて
和議の次第、貢税の品、掃陣の行を述らる。その掃陣の期限は、十一月十五日を期として、諸将相倶に釜山浦へ
(略)、然るに十月十三日に、参謀史龍添(略)、此の塞に来り、和議を請ふ。(略)彼の人質を請取(略)和議と相成りて
掃陣の催しあり」
ともかく、泗川の大勝によって明軍を和議に向かわせたのは資料から確実と思われます。
前のレスを補足すると和議を結んだから撤退したのではなく、撤退の過程で和議が結ばれた、という事ですね。
義兵のことですが、彼等の活発な活動が日本軍を苦しめたのは疑いありません。
ただ、支配者層は義兵の反日抗争を自らの階級支配の道具に組み入れようとやっきになったそうです。
金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)によれば、戦争初期においては義兵を官軍に引きこむため、
義兵将らにたいして高い職位を授ける措置をとったが、やがて義兵闘争が官軍の補助的役割をするようになると
義兵には厳しい統制と圧力がくわえられ、政府は義兵達が巡察使(道内の軍務を巡察する官職臨時軍司令官)及び
体察使(臨時宰相兼軍司令官)の指揮を受けるようにしたが、それらの指揮官は殆どの者が正確な指揮をなしえなかった。
戦争末期には、為政者たちは義兵の存在を十分留意していた。すなわちかれらは戦闘の経験を有し、武器を多数
備え、権力者にとって恐ろしい存在である事を認識し、義兵にたいする統率と圧力をより一層強化するとともに
迫害を加えた。そのため、義兵達は組織された部隊として機能できなくなった。
しかも、義兵部隊の核心的活動家はほとんどが被圧迫階級で、体を張って貢献したにも関わらず、政府はかれらを
正当に評価せず、戦争が終わると義兵たちはまたもや農奴的身分におとしめ、過酷な収奪を繰り返した。
義兵闘争の過程で官職を授けられた義兵将も、国家権力によって廃履のように捨てられるが、党派の政争に組み込まれて
権力者らの猜忌や謀略により迫害され、はては流配か死刑かの不遇な生涯を送らねばならなかったそうです。
513 :
名無しさん@1周年:2000/12/05(火) 02:04
480さん、指摘ありがとうございます。
蘇峰徳猪一郎著『近世日本国民史 第九巻 朝鮮役下巻』(時事通信社 昭和三十九年二月十日発行)によれば、
秀吉の死去後、五大老は朝鮮の諸将に撤兵を命を出し、順天、泗川では明軍は敗戦で戦意を失っていたため
早々と講和が締結されたらしいです。順天では提督の劉延が降倭の沙也可を使者として小西行長に和議を
持ちこみ、人質として劉天を差し出しました。朝鮮の資料「宣祖實緑」では順天城の攻防における劉延の
無能ぶりを「(略)提督事を行ふ、正に魂を奪はれたる人の如し。将卒皆軽侮す。適ゝ泗川の敗報を見、(略)
意を決して兵を退く。尤も痛泣を為す。(漢字を一部略字に変更してますので間違いがあればすいません)」
日本軍に手痛く迎撃されられた上に、泗川の敗報に報して日本諸将の撤兵意思を好材料として和を講じたの
でしょう。しかし、明と朝鮮の連合軍はそれを反故にして後に押し寄せることとなります。
泗川での講和
明側の資料、「両朝平攘録」には「(略)中路使督陣茅國科、撫臺の激を持し、金パクを賚して義弘に見え、動すに
大儀を以てし、諭すに利害を以てす。郭國安傍より之を賛す。義弘許諾す。」とあり、
日本側の資料「征韓録」には「十月八日に、徳水式部卿法印壽昌(略)、泗川の新塞に来て、殿下の厳命なりとて
和議の次第、貢税の品、掃陣の行を述らる。その掃陣の期限は、十一月十五日を期として、諸将相倶に釜山浦へ
(略)、然るに十月十三日に、参謀史龍添(略)、此の塞に来り、和議を請ふ。(略)彼の人質を請取(略)和議と相成りて
掃陣の催しあり」
ともかく、泗川の大勝によって明軍を和議に向かわせたのは資料から確実と思われます。
前のレスを補足すると和議を結んだから撤退したのではなく、撤退の過程で和議が結ばれた、という事ですね。
義兵のことですが、彼等の活発な活動が日本軍を苦しめたのは疑いありません。
ただ、支配者層は義兵の反日抗争を自らの階級支配の道具に組み入れようとやっきになったそうです。
金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)によれば、戦争初期においては義兵を官軍に引きこむため、
義兵将らにたいして高い職位を授ける措置をとったが、やがて義兵闘争が官軍の補助的役割をするようになると
義兵には厳しい統制と圧力がくわえられ、政府は義兵達が巡察使(道内の軍務を巡察する官職臨時軍司令官)及び
体察使(臨時宰相兼軍司令官)の指揮を受けるようにしたが、それらの指揮官は殆どの者が正確な指揮をなしえなかった。
戦争末期には、為政者たちは義兵の存在を十分留意していた。すなわちかれらは戦闘の経験を有し、武器を多数
備え、権力者にとって恐ろしい存在である事を認識し、義兵にたいする統率と圧力をより一層強化するとともに
迫害を加えた。そのため、義兵達は組織された部隊として機能できなくなった。
しかも、義兵部隊の核心的活動家はほとんどが被圧迫階級で、体を張って貢献したにも関わらず、政府はかれらを
正当に評価せず、戦争が終わると義兵たちはまたもや農奴的身分におとしめ、過酷な収奪を繰り返した。
義兵闘争の過程で官職を授けられた義兵将も、国家権力によって廃履のように捨てられるが、党派の政争に組み込まれて
権力者らの猜忌や謀略により迫害され、はては流配か死刑かの不遇な生涯を送らねばならなかったそうです。
d
514 :
名無しさん@1周年:2000/12/05(火) 02:05
480さん、指摘ありがとうございます。
蘇峰徳猪一郎著『近世日本国民史 第九巻 朝鮮役下巻』(時事通信社 昭和三十九年二月十日発行)によれば、
秀吉の死去後、五大老は朝鮮の諸将に撤兵を命を出し、順天、泗川では明軍は敗戦で戦意を失っていたため
早々と講和が締結されたらしいです。順天では提督の劉延が降倭の沙也可を使者として小西行長に和議を
持ちこみ、人質として劉天を差し出しました。朝鮮の資料「宣祖實緑」では順天城の攻防における劉延の
無能ぶりを「(略)提督事を行ふ、正に魂を奪はれたる人の如し。将卒皆軽侮す。適ゝ泗川の敗報を見、(略)
意を決して兵を退く。尤も痛泣を為す。(漢字を一部略字に変更してますので間違いがあればすいません)」
日本軍に手痛く迎撃されられた上に、泗川の敗報に報して日本諸将の撤兵意思を好材料として和を講じたの
でしょう。しかし、明と朝鮮の連合軍はそれを反故にして後に押し寄せることとなります。
泗川での講和
明側の資料、「両朝平攘録」には「(略)中路使督陣茅國科、撫臺の激を持し、金パクを賚して義弘に見え、動すに
大儀を以てし、諭すに利害を以てす。郭國安傍より之を賛す。義弘許諾す。」とあり、
日本側の資料「征韓録」には「十月八日に、徳水式部卿法印壽昌(略)、泗川の新塞に来て、殿下の厳命なりとて
和議の次第、貢税の品、掃陣の行を述らる。その掃陣の期限は、十一月十五日を期として、諸将相倶に釜山浦へ
(略)、然るに十月十三日に、参謀史龍添(略)、此の塞に来り、和議を請ふ。(略)彼の人質を請取(略)和議と相成りて
掃陣の催しあり」
ともかく、泗川の大勝によって明軍を和議に向かわせたのは資料から確実と思われます。
前のレスを補足すると和議を結んだから撤退したのではなく、撤退の過程で和議が結ばれた、という事ですね。
義兵のことですが、彼等の活発な活動が日本軍を苦しめたのは疑いありません。
ただ、支配者層は義兵の反日抗争を自らの階級支配の道具に組み入れようとやっきになったそうです。
金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)によれば、戦争初期においては義兵を官軍に引きこむため、
義兵将らにたいして高い職位を授ける措置をとったが、やがて義兵闘争が官軍の補助的役割をするようになると
義兵には厳しい統制と圧力がくわえられ、政府は義兵達が巡察使(道内の軍務を巡察する官職臨時軍司令官)及び
体察使(臨時宰相兼軍司令官)の指揮を受けるようにしたが、それらの指揮官は殆どの者が正確な指揮をなしえなかった。
戦争末期には、為政者たちは義兵の存在を十分留意していた。すなわちかれらは戦闘の経験を有し、武器を多数
備え、権力者にとって恐ろしい存在である事を認識し、義兵にたいする統率と圧力をより一層強化するとともに
迫害を加えた。そのため、義兵達は組織された部隊として機能できなくなった。
しかも、義兵部隊の核心的活動家はほとんどが被圧迫階級で、体を張って貢献したにも関わらず、政府はかれらを
正当に評価せず、戦争が終わると義兵たちはまたもや農奴的身分におとしめ、過酷な収奪を繰り返した。
義兵闘争の過程で官職を授けられた義兵将も、国家権力によって廃履のように捨てられるが、党派の政争に組み込まれて
権力者らの猜忌や謀略により迫害され、はては流配か死刑かの不遇な生涯を送らねばならなかったそうです。 u
515 :
名無しさん@1周年:2000/12/05(火) 02:05
480さん、指摘ありがとうございます。
蘇峰徳猪一郎著『近世日本国民史 第九巻 朝鮮役下巻』(時事通信社 昭和三十九年二月十日発行)によれば、
秀吉の死去後、五大老は朝鮮の諸将に撤兵を命を出し、順天、泗川では明軍は敗戦で戦意を失っていたため
早々と講和が締結されたらしいです。順天では提督の劉延が降倭の沙也可を使者として小西行長に和議を
持ちこみ、人質として劉天を差し出しました。朝鮮の資料「宣祖實緑」では順天城の攻防における劉延の
無能ぶりを「(略)提督事を行ふ、正に魂を奪はれたる人の如し。将卒皆軽侮す。適ゝ泗川の敗報を見、(略)
意を決して兵を退く。尤も痛泣を為す。(漢字を一部略字に変更してますので間違いがあればすいません)」
日本軍に手痛く迎撃されられた上に、泗川の敗報に報して日本諸将の撤兵意思を好材料として和を講じたの
でしょう。しかし、明と朝鮮の連合軍はそれを反故にして後に押し寄せることとなります。
泗川での講和
明側の資料、「両朝平攘録」には「(略)中路使督陣茅國科、撫臺の激を持し、金パクを賚して義弘に見え、動すに
大儀を以てし、諭すに利害を以てす。郭國安傍より之を賛す。義弘許諾す。」とあり、
日本側の資料「征韓録」には「十月八日に、徳水式部卿法印壽昌(略)、泗川の新塞に来て、殿下の厳命なりとて
和議の次第、貢税の品、掃陣の行を述らる。その掃陣の期限は、十一月十五日を期として、諸将相倶に釜山浦へ
(略)、然るに十月十三日に、参謀史龍添(略)、此の塞に来り、和議を請ふ。(略)彼の人質を請取(略)和議と相成りて
掃陣の催しあり」
ともかく、泗川の大勝によって明軍を和議に向かわせたのは資料から確実と思われます。
前のレスを補足すると和議を結んだから撤退したのではなく、撤退の過程で和議が結ばれた、という事ですね。
義兵のことですが、彼等の活発な活動が日本軍を苦しめたのは疑いありません。
ただ、支配者層は義兵の反日抗争を自らの階級支配の道具に組み入れようとやっきになったそうです。
金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)によれば、戦争初期においては義兵を官軍に引きこむため、
義兵将らにたいして高い職位を授ける措置をとったが、やがて義兵闘争が官軍の補助的役割をするようになると
義兵には厳しい統制と圧力がくわえられ、政府は義兵達が巡察使(道内の軍務を巡察する官職臨時軍司令官)及び
体察使(臨時宰相兼軍司令官)の指揮を受けるようにしたが、それらの指揮官は殆どの者が正確な指揮をなしえなかった。
戦争末期には、為政者たちは義兵の存在を十分留意していた。すなわちかれらは戦闘の経験を有し、武器を多数
備え、権力者にとって恐ろしい存在である事を認識し、義兵にたいする統率と圧力をより一層強化するとともに
迫害を加えた。そのため、義兵達は組織された部隊として機能できなくなった。
しかも、義兵部隊の核心的活動家はほとんどが被圧迫階級で、体を張って貢献したにも関わらず、政府はかれらを
正当に評価せず、戦争が終わると義兵たちはまたもや農奴的身分におとしめ、過酷な収奪を繰り返した。
義兵闘争の過程で官職を授けられた義兵将も、国家権力によって廃履のように捨てられるが、党派の政争に組み込まれて
権力者らの猜忌や謀略により迫害され、はては流配か死刑かの不遇な生涯を送らねばならなかったそうです。 s
516 :
名無しさん@1周年:2000/12/05(火) 02:06
480さん、指摘ありがとうございます。
蘇峰徳猪一郎著『近世日本国民史 第九巻 朝鮮役下巻』(時事通信社 昭和三十九年二月十日発行)によれば、
秀吉の死去後、五大老は朝鮮の諸将に撤兵を命を出し、順天、泗川では明軍は敗戦で戦意を失っていたため
早々と講和が締結されたらしいです。順天では提督の劉延が降倭の沙也可を使者として小西行長に和議を
持ちこみ、人質として劉天を差し出しました。朝鮮の資料「宣祖實緑」では順天城の攻防における劉延の
無能ぶりを「(略)提督事を行ふ、正に魂を奪はれたる人の如し。将卒皆軽侮す。適ゝ泗川の敗報を見、(略)
意を決して兵を退く。尤も痛泣を為す。(漢字を一部略字に変更してますので間違いがあればすいません)」
日本軍に手痛く迎撃されられた上に、泗川の敗報に報して日本諸将の撤兵意思を好材料として和を講じたの
でしょう。しかし、明と朝鮮の連合軍はそれを反故にして後に押し寄せることとなります。
泗川での講和
明側の資料、「両朝平攘録」には「(略)中路使督陣茅國科、撫臺の激を持し、金パクを賚して義弘に見え、動すに
大儀を以てし、諭すに利害を以てす。郭國安傍より之を賛す。義弘許諾す。」とあり、
日本側の資料「征韓録」には「十月八日に、徳水式部卿法印壽昌(略)、泗川の新塞に来て、殿下の厳命なりとて
和議の次第、貢税の品、掃陣の行を述らる。その掃陣の期限は、十一月十五日を期として、諸将相倶に釜山浦へ
(略)、然るに十月十三日に、参謀史龍添(略)、此の塞に来り、和議を請ふ。(略)彼の人質を請取(略)和議と相成りて
掃陣の催しあり」
ともかく、泗川の大勝によって明軍を和議に向かわせたのは資料から確実と思われます。
前のレスを補足すると和議を結んだから撤退したのではなく、撤退の過程で和議が結ばれた、という事ですね。
義兵のことですが、彼等の活発な活動が日本軍を苦しめたのは疑いありません。
ただ、支配者層は義兵の反日抗争を自らの階級支配の道具に組み入れようとやっきになったそうです。
金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)によれば、戦争初期においては義兵を官軍に引きこむため、
義兵将らにたいして高い職位を授ける措置をとったが、やがて義兵闘争が官軍の補助的役割をするようになると
義兵には厳しい統制と圧力がくわえられ、政府は義兵達が巡察使(道内の軍務を巡察する官職臨時軍司令官)及び
体察使(臨時宰相兼軍司令官)の指揮を受けるようにしたが、それらの指揮官は殆どの者が正確な指揮をなしえなかった。
戦争末期には、為政者たちは義兵の存在を十分留意していた。すなわちかれらは戦闘の経験を有し、武器を多数
備え、権力者にとって恐ろしい存在である事を認識し、義兵にたいする統率と圧力をより一層強化するとともに
迫害を加えた。そのため、義兵達は組織された部隊として機能できなくなった。
しかも、義兵部隊の核心的活動家はほとんどが被圧迫階級で、体を張って貢献したにも関わらず、政府はかれらを
正当に評価せず、戦争が終わると義兵たちはまたもや農奴的身分におとしめ、過酷な収奪を繰り返した。
義兵闘争の過程で官職を授けられた義兵将も、国家権力によって廃履のように捨てられるが、党派の政争に組み込まれて
権力者らの猜忌や謀略により迫害され、はては流配か死刑かの不遇な生涯を送らねばならなかったそうです。
517 :
名無しさん@1周年:2000/12/05(火) 02:07
480さん、指摘ありがとうございます。
蘇峰徳猪一郎著『近世日本国民史 第九巻 朝鮮役下巻』(時事通信社 昭和三十九年二月十日発行)によれば、
秀吉の死去後、五大老は朝鮮の諸将に撤兵を命を出し、順天、泗川では明軍は敗戦で戦意を失っていたため
早々と講和が締結されたらしいです。順天では提督の劉延が降倭の沙也可を使者として小西行長に和議を
持ちこみ、人質として劉天を差し出しました。朝鮮の資料「宣祖實緑」では順天城の攻防における劉延の
無能ぶりを「(略)提督事を行ふ、正に魂を奪はれたる人の如し。将卒皆軽侮す。適ゝ泗川の敗報を見、(略)
意を決して兵を退く。尤も痛泣を為す。(漢字を一部略字に変更してますので間違いがあればすいません)」
日本軍に手痛く迎撃されられた上に、泗川の敗報に報して日本諸将の撤兵意思を好材料として和を講じたの
でしょう。しかし、明と朝鮮の連合軍はそれを反故にして後に押し寄せることとなります。
泗川での講和
明側の資料、「両朝平攘録」には「(略)中路使督陣茅國科、撫臺の激を持し、金パクを賚して義弘に見え、動すに
大儀を以てし、諭すに利害を以てす。郭國安傍より之を賛す。義弘許諾す。」とあり、
日本側の資料「征韓録」には「十月八日に、徳水式部卿法印壽昌(略)、泗川の新塞に来て、殿下の厳命なりとて
和議の次第、貢税の品、掃陣の行を述らる。その掃陣の期限は、十一月十五日を期として、諸将相倶に釜山浦へ
(略)、然るに十月十三日に、参謀史龍添(略)、此の塞に来り、和議を請ふ。(略)彼の人質を請取(略)和議と相成りて
掃陣の催しあり」
ともかく、泗川の大勝によって明軍を和議に向かわせたのは資料から確実と思われます。
前のレスを補足すると和議を結んだから撤退したのではなく、撤退の過程で和議が結ばれた、という事ですね。
義兵のことですが、彼等の活発な活動が日本軍を苦しめたのは疑いありません。
ただ、支配者層は義兵の反日抗争を自らの階級支配の道具に組み入れようとやっきになったそうです。
金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)によれば、戦争初期においては義兵を官軍に引きこむため、
義兵将らにたいして高い職位を授ける措置をとったが、やがて義兵闘争が官軍の補助的役割をするようになると
義兵には厳しい統制と圧力がくわえられ、政府は義兵達が巡察使(道内の軍務を巡察する官職臨時軍司令官)及び
体察使(臨時宰相兼軍司令官)の指揮を受けるようにしたが、それらの指揮官は殆どの者が正確な指揮をなしえなかった。
戦争末期には、為政者たちは義兵の存在を十分留意していた。すなわちかれらは戦闘の経験を有し、武器を多数
備え、権力者にとって恐ろしい存在である事を認識し、義兵にたいする統率と圧力をより一層強化するとともに
迫害を加えた。そのため、義兵達は組織された部隊として機能できなくなった。
しかも、義兵部隊の核心的活動家はほとんどが被圧迫階級で、体を張って貢献したにも関わらず、政府はかれらを
正当に評価せず、戦争が終わると義兵たちはまたもや農奴的身分におとしめ、過酷な収奪を繰り返した。
義兵闘争の過程で官職を授けられた義兵将も、国家権力によって廃履のように捨てられるが、党派の政争に組み込まれて
権力者らの猜忌や謀略により迫害され、はては流配か死刑かの不遇な生涯を送らねばならなかったそうです。
518 :
名無しさん@1周年:2000/12/05(火) 02:08
480さん、指摘ありがとうございます。
蘇峰徳猪一郎著『近世日本国民史 第九巻 朝鮮役下巻』(時事通信社 昭和三十九年二月十日発行)によれば、
秀吉の死去後、五大老は朝鮮の諸将に撤兵を命を出し、順天、泗川では明軍は敗戦で戦意を失っていたため
早々と講和が締結されたらしいです。順天では提督の劉延が降倭の沙也可を使者として小西行長に和議を
持ちこみ、人質として劉天を差し出しました。朝鮮の資料「宣祖實緑」では順天城の攻防における劉延の
無能ぶりを「(略)提督事を行ふ、正に魂を奪はれたる人の如し。将卒皆軽侮す。適ゝ泗川の敗報を見、(略)
意を決して兵を退く。尤も痛泣を為す。(漢字を一部略字に変更してますので間違いがあればすいません)」
日本軍に手痛く迎撃されられた上に、泗川の敗報に報して日本諸将の撤兵意思を好材料として和を講じたの
でしょう。しかし、明と朝鮮の連合軍はそれを反故にして後に押し寄せることとなります。
泗川での講和
明側の資料、「両朝平攘録」には「(略)中路使督陣茅國科、撫臺の激を持し、金パクを賚して義弘に見え、動すに
大儀を以てし、諭すに利害を以てす。郭國安傍より之を賛す。義弘許諾す。」とあり、
日本側の資料「征韓録」には「十月八日に、徳水式部卿法印壽昌(略)、泗川の新塞に来て、殿下の厳命なりとて
和議の次第、貢税の品、掃陣の行を述らる。その掃陣の期限は、十一月十五日を期として、諸将相倶に釜山浦へ
(略)、然るに十月十三日に、参謀史龍添(略)、此の塞に来り、和議を請ふ。(略)彼の人質を請取(略)和議と相成りて
掃陣の催しあり」
ともかく、泗川の大勝によって明軍を和議に向かわせたのは資料から確実と思われます。
前のレスを補足すると和議を結んだから撤退したのではなく、撤退の過程で和議が結ばれた、という事ですね。
義兵のことですが、彼等の活発な活動が日本軍を苦しめたのは疑いありません。
ただ、支配者層は義兵の反日抗争を自らの階級支配の道具に組み入れようとやっきになったそうです。
金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)によれば、戦争初期においては義兵を官軍に引きこむため、
義兵将らにたいして高い職位を授ける措置をとったが、やがて義兵闘争が官軍の補助的役割をするようになると
義兵には厳しい統制と圧力がくわえられ、政府は義兵達が巡察使(道内の軍務を巡察する官職臨時軍司令官)及び
体察使(臨時宰相兼軍司令官)の指揮を受けるようにしたが、それらの指揮官は殆どの者が正確な指揮をなしえなかった。
戦争末期には、為政者たちは義兵の存在を十分留意していた。すなわちかれらは戦闘の経験を有し、武器を多数
備え、権力者にとって恐ろしい存在である事を認識し、義兵にたいする統率と圧力をより一層強化するとともに
迫害を加えた。そのため、義兵達は組織された部隊として機能できなくなった。
しかも、義兵部隊の核心的活動家はほとんどが被圧迫階級で、体を張って貢献したにも関わらず、政府はかれらを
正当に評価せず、戦争が終わると義兵たちはまたもや農奴的身分におとしめ、過酷な収奪を繰り返した。
義兵闘争の過程で官職を授けられた義兵将も、国家権力によって廃履のように捨てられるが、党派の政争に組み込まれて
権力者らの猜忌や謀略により迫害され、はては流配か死刑かの不遇な生涯を送らねばならなかったそうです。 e
519 :
名無しさん@1周年:2000/12/05(火) 02:08
480さん、指摘ありがとうございます。
蘇峰徳猪一郎著『近世日本国民史 第九巻 朝鮮役下巻』(時事通信社 昭和三十九年二月十日発行)によれば、
秀吉の死去後、五大老は朝鮮の諸将に撤兵を命を出し、順天、泗川では明軍は敗戦で戦意を失っていたため
早々と講和が締結されたらしいです。順天では提督の劉延が降倭の沙也可を使者として小西行長に和議を
持ちこみ、人質として劉天を差し出しました。朝鮮の資料「宣祖實緑」では順天城の攻防における劉延の
無能ぶりを「(略)提督事を行ふ、正に魂を奪はれたる人の如し。将卒皆軽侮す。適ゝ泗川の敗報を見、(略)
意を決して兵を退く。尤も痛泣を為す。(漢字を一部略字に変更してますので間違いがあればすいません)」
日本軍に手痛く迎撃されられた上に、泗川の敗報に報して日本諸将の撤兵意思を好材料として和を講じたの
でしょう。しかし、明と朝鮮の連合軍はそれを反故にして後に押し寄せることとなります。
泗川での講和
明側の資料、「両朝平攘録」には「(略)中路使督陣茅國科、撫臺の激を持し、金パクを賚して義弘に見え、動すに
大儀を以てし、諭すに利害を以てす。郭國安傍より之を賛す。義弘許諾す。」とあり、
日本側の資料「征韓録」には「十月八日に、徳水式部卿法印壽昌(略)、泗川の新塞に来て、殿下の厳命なりとて
和議の次第、貢税の品、掃陣の行を述らる。その掃陣の期限は、十一月十五日を期として、諸将相倶に釜山浦へ
(略)、然るに十月十三日に、参謀史龍添(略)、此の塞に来り、和議を請ふ。(略)彼の人質を請取(略)和議と相成りて
掃陣の催しあり」
ともかく、泗川の大勝によって明軍を和議に向かわせたのは資料から確実と思われます。
前のレスを補足すると和議を結んだから撤退したのではなく、撤退の過程で和議が結ばれた、という事ですね。
義兵のことですが、彼等の活発な活動が日本軍を苦しめたのは疑いありません。
ただ、支配者層は義兵の反日抗争を自らの階級支配の道具に組み入れようとやっきになったそうです。
金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)によれば、戦争初期においては義兵を官軍に引きこむため、
義兵将らにたいして高い職位を授ける措置をとったが、やがて義兵闘争が官軍の補助的役割をするようになると
義兵には厳しい統制と圧力がくわえられ、政府は義兵達が巡察使(道内の軍務を巡察する官職臨時軍司令官)及び
体察使(臨時宰相兼軍司令官)の指揮を受けるようにしたが、それらの指揮官は殆どの者が正確な指揮をなしえなかった。
戦争末期には、為政者たちは義兵の存在を十分留意していた。すなわちかれらは戦闘の経験を有し、武器を多数
備え、権力者にとって恐ろしい存在である事を認識し、義兵にたいする統率と圧力をより一層強化するとともに
迫害を加えた。そのため、義兵達は組織された部隊として機能できなくなった。
しかも、義兵部隊の核心的活動家はほとんどが被圧迫階級で、体を張って貢献したにも関わらず、政府はかれらを
正当に評価せず、戦争が終わると義兵たちはまたもや農奴的身分におとしめ、過酷な収奪を繰り返した。
義兵闘争の過程で官職を授けられた義兵将も、国家権力によって廃履のように捨てられるが、党派の政争に組み込まれて
権力者らの猜忌や謀略により迫害され、はては流配か死刑かの不遇な生涯を送らねばならなかったそうです。 e
520 :
名無しさん@1周年:2000/12/05(火) 02:09
480さん、指摘ありがとうございます。
蘇峰徳猪一郎著『近世日本国民史 第九巻 朝鮮役下巻』(時事通信社 昭和三十九年二月十日発行)によれば、
秀吉の死去後、五大老は朝鮮の諸将に撤兵を命を出し、順天、泗川では明軍は敗戦で戦意を失っていたため
早々と講和が締結されたらしいです。順天では提督の劉延が降倭の沙也可を使者として小西行長に和議を
持ちこみ、人質として劉天を差し出しました。朝鮮の資料「宣祖實緑」では順天城の攻防における劉延の
無能ぶりを「(略)提督事を行ふ、正に魂を奪はれたる人の如し。将卒皆軽侮す。適ゝ泗川の敗報を見、(略)
意を決して兵を退く。尤も痛泣を為す。(漢字を一部略字に変更してますので間違いがあればすいません)」
日本軍に手痛く迎撃されられた上に、泗川の敗報に報して日本諸将の撤兵意思を好材料として和を講じたの
でしょう。しかし、明と朝鮮の連合軍はそれを反故にして後に押し寄せることとなります。
泗川での講和
明側の資料、「両朝平攘録」には「(略)中路使督陣茅國科、撫臺の激を持し、金パクを賚して義弘に見え、動すに
大儀を以てし、諭すに利害を以てす。郭國安傍より之を賛す。義弘許諾す。」とあり、
日本側の資料「征韓録」には「十月八日に、徳水式部卿法印壽昌(略)、泗川の新塞に来て、殿下の厳命なりとて
和議の次第、貢税の品、掃陣の行を述らる。その掃陣の期限は、十一月十五日を期として、諸将相倶に釜山浦へ
(略)、然るに十月十三日に、参謀史龍添(略)、此の塞に来り、和議を請ふ。(略)彼の人質を請取(略)和議と相成りて
掃陣の催しあり」
ともかく、泗川の大勝によって明軍を和議に向かわせたのは資料から確実と思われます。
前のレスを補足すると和議を結んだから撤退したのではなく、撤退の過程で和議が結ばれた、という事ですね。
義兵のことですが、彼等の活発な活動が日本軍を苦しめたのは疑いありません。
ただ、支配者層は義兵の反日抗争を自らの階級支配の道具に組み入れようとやっきになったそうです。
金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)によれば、戦争初期においては義兵を官軍に引きこむため、
義兵将らにたいして高い職位を授ける措置をとったが、やがて義兵闘争が官軍の補助的役割をするようになると
義兵には厳しい統制と圧力がくわえられ、政府は義兵達が巡察使(道内の軍務を巡察する官職臨時軍司令官)及び
体察使(臨時宰相兼軍司令官)の指揮を受けるようにしたが、それらの指揮官は殆どの者が正確な指揮をなしえなかった。
戦争末期には、為政者たちは義兵の存在を十分留意していた。すなわちかれらは戦闘の経験を有し、武器を多数
備え、権力者にとって恐ろしい存在である事を認識し、義兵にたいする統率と圧力をより一層強化するとともに
迫害を加えた。そのため、義兵達は組織された部隊として機能できなくなった。
しかも、義兵部隊の核心的活動家はほとんどが被圧迫階級で、体を張って貢献したにも関わらず、政府はかれらを
正当に評価せず、戦争が終わると義兵たちはまたもや農奴的身分におとしめ、過酷な収奪を繰り返した。
義兵闘争の過程で官職を授けられた義兵将も、国家権力によって廃履のように捨てられるが、党派の政争に組み込まれて
権力者らの猜忌や謀略により迫害され、はては流配か死刑かの不遇な生涯を送らねばならなかったそうです。 a
521 :
名無しさん@1周年:2000/12/05(火) 02:09
480さん、指摘ありがとうございます。
蘇峰徳猪一郎著『近世日本国民史 第九巻 朝鮮役下巻』(時事通信社 昭和三十九年二月十日発行)によれば、
秀吉の死去後、五大老は朝鮮の諸将に撤兵を命を出し、順天、泗川では明軍は敗戦で戦意を失っていたため
早々と講和が締結されたらしいです。順天では提督の劉延が降倭の沙也可を使者として小西行長に和議を
持ちこみ、人質として劉天を差し出しました。朝鮮の資料「宣祖實緑」では順天城の攻防における劉延の
無能ぶりを「(略)提督事を行ふ、正に魂を奪はれたる人の如し。将卒皆軽侮す。適ゝ泗川の敗報を見、(略)
意を決して兵を退く。尤も痛泣を為す。(漢字を一部略字に変更してますので間違いがあればすいません)」
日本軍に手痛く迎撃されられた上に、泗川の敗報に報して日本諸将の撤兵意思を好材料として和を講じたの
でしょう。しかし、明と朝鮮の連合軍はそれを反故にして後に押し寄せることとなります。
泗川での講和
明側の資料、「両朝平攘録」には「(略)中路使督陣茅國科、撫臺の激を持し、金パクを賚して義弘に見え、動すに
大儀を以てし、諭すに利害を以てす。郭國安傍より之を賛す。義弘許諾す。」とあり、
日本側の資料「征韓録」には「十月八日に、徳水式部卿法印壽昌(略)、泗川の新塞に来て、殿下の厳命なりとて
和議の次第、貢税の品、掃陣の行を述らる。その掃陣の期限は、十一月十五日を期として、諸将相倶に釜山浦へ
(略)、然るに十月十三日に、参謀史龍添(略)、此の塞に来り、和議を請ふ。(略)彼の人質を請取(略)和議と相成りて
掃陣の催しあり」
ともかく、泗川の大勝によって明軍を和議に向かわせたのは資料から確実と思われます。
前のレスを補足すると和議を結んだから撤退したのではなく、撤退の過程で和議が結ばれた、という事ですね。
義兵のことですが、彼等の活発な活動が日本軍を苦しめたのは疑いありません。
ただ、支配者層は義兵の反日抗争を自らの階級支配の道具に組み入れようとやっきになったそうです。
金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)によれば、戦争初期においては義兵を官軍に引きこむため、
義兵将らにたいして高い職位を授ける措置をとったが、やがて義兵闘争が官軍の補助的役割をするようになると
義兵には厳しい統制と圧力がくわえられ、政府は義兵達が巡察使(道内の軍務を巡察する官職臨時軍司令官)及び
体察使(臨時宰相兼軍司令官)の指揮を受けるようにしたが、それらの指揮官は殆どの者が正確な指揮をなしえなかった。
戦争末期には、為政者たちは義兵の存在を十分留意していた。すなわちかれらは戦闘の経験を有し、武器を多数
備え、権力者にとって恐ろしい存在である事を認識し、義兵にたいする統率と圧力をより一層強化するとともに
迫害を加えた。そのため、義兵達は組織された部隊として機能できなくなった。
しかも、義兵部隊の核心的活動家はほとんどが被圧迫階級で、体を張って貢献したにも関わらず、政府はかれらを
正当に評価せず、戦争が終わると義兵たちはまたもや農奴的身分におとしめ、過酷な収奪を繰り返した。
義兵闘争の過程で官職を授けられた義兵将も、国家権力によって廃履のように捨てられるが、党派の政争に組み込まれて
権力者らの猜忌や謀略により迫害され、はては流配か死刑かの不遇な生涯を送らねばならなかったそうです。 a
522 :
名無しさん@1周年:2000/12/05(火) 02:09
480さん、指摘ありがとうございます。
蘇峰徳猪一郎著『近世日本国民史 第九巻 朝鮮役下巻』(時事通信社 昭和三十九年二月十日発行)によれば、
秀吉の死去後、五大老は朝鮮の諸将に撤兵を命を出し、順天、泗川では明軍は敗戦で戦意を失っていたため
早々と講和が締結されたらしいです。順天では提督の劉延が降倭の沙也可を使者として小西行長に和議を
持ちこみ、人質として劉天を差し出しました。朝鮮の資料「宣祖實緑」では順天城の攻防における劉延の
無能ぶりを「(略)提督事を行ふ、正に魂を奪はれたる人の如し。将卒皆軽侮す。適ゝ泗川の敗報を見、(略)
意を決して兵を退く。尤も痛泣を為す。(漢字を一部略字に変更してますので間違いがあればすいません)」
日本軍に手痛く迎撃されられた上に、泗川の敗報に報して日本諸将の撤兵意思を好材料として和を講じたの
でしょう。しかし、明と朝鮮の連合軍はそれを反故にして後に押し寄せることとなります。
泗川での講和
明側の資料、「両朝平攘録」には「(略)中路使督陣茅國科、撫臺の激を持し、金パクを賚して義弘に見え、動すに
大儀を以てし、諭すに利害を以てす。郭國安傍より之を賛す。義弘許諾す。」とあり、
日本側の資料「征韓録」には「十月八日に、徳水式部卿法印壽昌(略)、泗川の新塞に来て、殿下の厳命なりとて
和議の次第、貢税の品、掃陣の行を述らる。その掃陣の期限は、十一月十五日を期として、諸将相倶に釜山浦へ
(略)、然るに十月十三日に、参謀史龍添(略)、此の塞に来り、和議を請ふ。(略)彼の人質を請取(略)和議と相成りて
掃陣の催しあり」
ともかく、泗川の大勝によって明軍を和議に向かわせたのは資料から確実と思われます。
前のレスを補足すると和議を結んだから撤退したのではなく、撤退の過程で和議が結ばれた、という事ですね。
義兵のことですが、彼等の活発な活動が日本軍を苦しめたのは疑いありません。
ただ、支配者層は義兵の反日抗争を自らの階級支配の道具に組み入れようとやっきになったそうです。
金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)によれば、戦争初期においては義兵を官軍に引きこむため、
義兵将らにたいして高い職位を授ける措置をとったが、やがて義兵闘争が官軍の補助的役割をするようになると
義兵には厳しい統制と圧力がくわえられ、政府は義兵達が巡察使(道内の軍務を巡察する官職臨時軍司令官)及び
体察使(臨時宰相兼軍司令官)の指揮を受けるようにしたが、それらの指揮官は殆どの者が正確な指揮をなしえなかった。
戦争末期には、為政者たちは義兵の存在を十分留意していた。すなわちかれらは戦闘の経験を有し、武器を多数
備え、権力者にとって恐ろしい存在である事を認識し、義兵にたいする統率と圧力をより一層強化するとともに
迫害を加えた。そのため、義兵達は組織された部隊として機能できなくなった。
しかも、義兵部隊の核心的活動家はほとんどが被圧迫階級で、体を張って貢献したにも関わらず、政府はかれらを
正当に評価せず、戦争が終わると義兵たちはまたもや農奴的身分におとしめ、過酷な収奪を繰り返した。
義兵闘争の過程で官職を授けられた義兵将も、国家権力によって廃履のように捨てられるが、党派の政争に組み込まれて
権力者らの猜忌や謀略により迫害され、はては流配か死刑かの不遇な生涯を送らねばならなかったそうです。 qw
523 :
名無しさん@1周年:2000/12/05(火) 02:09
480さん、指摘ありがとうございます。
蘇峰徳猪一郎著『近世日本国民史 第九巻 朝鮮役下巻』(時事通信社 昭和三十九年二月十日発行)によれば、
秀吉の死去後、五大老は朝鮮の諸将に撤兵を命を出し、順天、泗川では明軍は敗戦で戦意を失っていたため
早々と講和が締結されたらしいです。順天では提督の劉延が降倭の沙也可を使者として小西行長に和議を
持ちこみ、人質として劉天を差し出しました。朝鮮の資料「宣祖實緑」では順天城の攻防における劉延の
無能ぶりを「(略)提督事を行ふ、正に魂を奪はれたる人の如し。将卒皆軽侮す。適ゝ泗川の敗報を見、(略)
意を決して兵を退く。尤も痛泣を為す。(漢字を一部略字に変更してますので間違いがあればすいません)」
日本軍に手痛く迎撃されられた上に、泗川の敗報に報して日本諸将の撤兵意思を好材料として和を講じたの
でしょう。しかし、明と朝鮮の連合軍はそれを反故にして後に押し寄せることとなります。
泗川での講和
明側の資料、「両朝平攘録」には「(略)中路使督陣茅國科、撫臺の激を持し、金パクを賚して義弘に見え、動すに
大儀を以てし、諭すに利害を以てす。郭國安傍より之を賛す。義弘許諾す。」とあり、
日本側の資料「征韓録」には「十月八日に、徳水式部卿法印壽昌(略)、泗川の新塞に来て、殿下の厳命なりとて
和議の次第、貢税の品、掃陣の行を述らる。その掃陣の期限は、十一月十五日を期として、諸将相倶に釜山浦へ
(略)、然るに十月十三日に、参謀史龍添(略)、此の塞に来り、和議を請ふ。(略)彼の人質を請取(略)和議と相成りて
掃陣の催しあり」
ともかく、泗川の大勝によって明軍を和議に向かわせたのは資料から確実と思われます。
前のレスを補足すると和議を結んだから撤退したのではなく、撤退の過程で和議が結ばれた、という事ですね。
義兵のことですが、彼等の活発な活動が日本軍を苦しめたのは疑いありません。
ただ、支配者層は義兵の反日抗争を自らの階級支配の道具に組み入れようとやっきになったそうです。
金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)によれば、戦争初期においては義兵を官軍に引きこむため、
義兵将らにたいして高い職位を授ける措置をとったが、やがて義兵闘争が官軍の補助的役割をするようになると
義兵には厳しい統制と圧力がくわえられ、政府は義兵達が巡察使(道内の軍務を巡察する官職臨時軍司令官)及び
体察使(臨時宰相兼軍司令官)の指揮を受けるようにしたが、それらの指揮官は殆どの者が正確な指揮をなしえなかった。
戦争末期には、為政者たちは義兵の存在を十分留意していた。すなわちかれらは戦闘の経験を有し、武器を多数
備え、権力者にとって恐ろしい存在である事を認識し、義兵にたいする統率と圧力をより一層強化するとともに
迫害を加えた。そのため、義兵達は組織された部隊として機能できなくなった。
しかも、義兵部隊の核心的活動家はほとんどが被圧迫階級で、体を張って貢献したにも関わらず、政府はかれらを
正当に評価せず、戦争が終わると義兵たちはまたもや農奴的身分におとしめ、過酷な収奪を繰り返した。
義兵闘争の過程で官職を授けられた義兵将も、国家権力によって廃履のように捨てられるが、党派の政争に組み込まれて
権力者らの猜忌や謀略により迫害され、はては流配か死刑かの不遇な生涯を送らねばならなかったそうです。 qw
524 :
名無しさん@1周年:2000/12/05(火) 02:10
480さん、指摘ありがとうございます。
蘇峰徳猪一郎著『近世日本国民史 第九巻 朝鮮役下巻』(時事通信社 昭和三十九年二月十日発行)によれば、
秀吉の死去後、五大老は朝鮮の諸将に撤兵を命を出し、順天、泗川では明軍は敗戦で戦意を失っていたため
早々と講和が締結されたらしいです。順天では提督の劉延が降倭の沙也可を使者として小西行長に和議を
持ちこみ、人質として劉天を差し出しました。朝鮮の資料「宣祖實緑」では順天城の攻防における劉延の
無能ぶりを「(略)提督事を行ふ、正に魂を奪はれたる人の如し。将卒皆軽侮す。適ゝ泗川の敗報を見、(略)
意を決して兵を退く。尤も痛泣を為す。(漢字を一部略字に変更してますので間違いがあればすいません)」
日本軍に手痛く迎撃されられた上に、泗川の敗報に報して日本諸将の撤兵意思を好材料として和を講じたの
でしょう。しかし、明と朝鮮の連合軍はそれを反故にして後に押し寄せることとなります。
泗川での講和
明側の資料、「両朝平攘録」には「(略)中路使督陣茅國科、撫臺の激を持し、金パクを賚して義弘に見え、動すに
大儀を以てし、諭すに利害を以てす。郭國安傍より之を賛す。義弘許諾す。」とあり、
日本側の資料「征韓録」には「十月八日に、徳水式部卿法印壽昌(略)、泗川の新塞に来て、殿下の厳命なりとて
和議の次第、貢税の品、掃陣の行を述らる。その掃陣の期限は、十一月十五日を期として、諸将相倶に釜山浦へ
(略)、然るに十月十三日に、参謀史龍添(略)、此の塞に来り、和議を請ふ。(略)彼の人質を請取(略)和議と相成りて
掃陣の催しあり」
ともかく、泗川の大勝によって明軍を和議に向かわせたのは資料から確実と思われます。
前のレスを補足すると和議を結んだから撤退したのではなく、撤退の過程で和議が結ばれた、という事ですね。
義兵のことですが、彼等の活発な活動が日本軍を苦しめたのは疑いありません。
ただ、支配者層は義兵の反日抗争を自らの階級支配の道具に組み入れようとやっきになったそうです。
金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)によれば、戦争初期においては義兵を官軍に引きこむため、
義兵将らにたいして高い職位を授ける措置をとったが、やがて義兵闘争が官軍の補助的役割をするようになると
義兵には厳しい統制と圧力がくわえられ、政府は義兵達が巡察使(道内の軍務を巡察する官職臨時軍司令官)及び
体察使(臨時宰相兼軍司令官)の指揮を受けるようにしたが、それらの指揮官は殆どの者が正確な指揮をなしえなかった。
戦争末期には、為政者たちは義兵の存在を十分留意していた。すなわちかれらは戦闘の経験を有し、武器を多数
備え、権力者にとって恐ろしい存在である事を認識し、義兵にたいする統率と圧力をより一層強化するとともに
迫害を加えた。そのため、義兵達は組織された部隊として機能できなくなった。
しかも、義兵部隊の核心的活動家はほとんどが被圧迫階級で、体を張って貢献したにも関わらず、政府はかれらを
正当に評価せず、戦争が終わると義兵たちはまたもや農奴的身分におとしめ、過酷な収奪を繰り返した。
義兵闘争の過程で官職を授けられた義兵将も、国家権力によって廃履のように捨てられるが、党派の政争に組み込まれて
権力者らの猜忌や謀略により迫害され、はては流配か死刑かの不遇な生涯を送らねばならなかったそうです。
525 :
名無しさん@1周年:2000/12/05(火) 02:10
480さん、指摘ありがとうございます。
蘇峰徳猪一郎著『近世日本国民史 第九巻 朝鮮役下巻』(時事通信社 昭和三十九年二月十日発行)によれば、
秀吉の死去後、五大老は朝鮮の諸将に撤兵を命を出し、順天、泗川では明軍は敗戦で戦意を失っていたため
早々と講和が締結されたらしいです。順天では提督の劉延が降倭の沙也可を使者として小西行長に和議を
持ちこみ、人質として劉天を差し出しました。朝鮮の資料「宣祖實緑」では順天城の攻防における劉延の
無能ぶりを「(略)提督事を行ふ、正に魂を奪はれたる人の如し。将卒皆軽侮す。適ゝ泗川の敗報を見、(略)
意を決して兵を退く。尤も痛泣を為す。(漢字を一部略字に変更してますので間違いがあればすいません)」
日本軍に手痛く迎撃されられた上に、泗川の敗報に報して日本諸将の撤兵意思を好材料として和を講じたの
でしょう。しかし、明と朝鮮の連合軍はそれを反故にして後に押し寄せることとなります。
泗川での講和
明側の資料、「両朝平攘録」には「(略)中路使督陣茅國科、撫臺の激を持し、金パクを賚して義弘に見え、動すに
大儀を以てし、諭すに利害を以てす。郭國安傍より之を賛す。義弘許諾す。」とあり、
日本側の資料「征韓録」には「十月八日に、徳水式部卿法印壽昌(略)、泗川の新塞に来て、殿下の厳命なりとて
和議の次第、貢税の品、掃陣の行を述らる。その掃陣の期限は、十一月十五日を期として、諸将相倶に釜山浦へ
(略)、然るに十月十三日に、参謀史龍添(略)、此の塞に来り、和議を請ふ。(略)彼の人質を請取(略)和議と相成りて
掃陣の催しあり」
ともかく、泗川の大勝によって明軍を和議に向かわせたのは資料から確実と思われます。
前のレスを補足すると和議を結んだから撤退したのではなく、撤退の過程で和議が結ばれた、という事ですね。
義兵のことですが、彼等の活発な活動が日本軍を苦しめたのは疑いありません。
ただ、支配者層は義兵の反日抗争を自らの階級支配の道具に組み入れようとやっきになったそうです。
金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)によれば、戦争初期においては義兵を官軍に引きこむため、
義兵将らにたいして高い職位を授ける措置をとったが、やがて義兵闘争が官軍の補助的役割をするようになると
義兵には厳しい統制と圧力がくわえられ、政府は義兵達が巡察使(道内の軍務を巡察する官職臨時軍司令官)及び
体察使(臨時宰相兼軍司令官)の指揮を受けるようにしたが、それらの指揮官は殆どの者が正確な指揮をなしえなかった。
戦争末期には、為政者たちは義兵の存在を十分留意していた。すなわちかれらは戦闘の経験を有し、武器を多数
備え、権力者にとって恐ろしい存在である事を認識し、義兵にたいする統率と圧力をより一層強化するとともに
迫害を加えた。そのため、義兵達は組織された部隊として機能できなくなった。
しかも、義兵部隊の核心的活動家はほとんどが被圧迫階級で、体を張って貢献したにも関わらず、政府はかれらを
正当に評価せず、戦争が終わると義兵たちはまたもや農奴的身分におとしめ、過酷な収奪を繰り返した。
義兵闘争の過程で官職を授けられた義兵将も、国家権力によって廃履のように捨てられるが、党派の政争に組み込まれて
権力者らの猜忌や謀略により迫害され、はては流配か死刑かの不遇な生涯を送らねばならなかったそうです。
526 :
名無しさん@1周年:2000/12/05(火) 02:10
480さん、指摘ありがとうございます。
蘇峰徳猪一郎著『近世日本国民史 第九巻 朝鮮役下巻』(時事通信社 昭和三十九年二月十日発行)によれば、
秀吉の死去後、五大老は朝鮮の諸将に撤兵を命を出し、順天、泗川では明軍は敗戦で戦意を失っていたため
早々と講和が締結されたらしいです。順天では提督の劉延が降倭の沙也可を使者として小西行長に和議を
持ちこみ、人質として劉天を差し出しました。朝鮮の資料「宣祖實緑」では順天城の攻防における劉延の
無能ぶりを「(略)提督事を行ふ、正に魂を奪はれたる人の如し。将卒皆軽侮す。適ゝ泗川の敗報を見、(略)
意を決して兵を退く。尤も痛泣を為す。(漢字を一部略字に変更してますので間違いがあればすいません)」
日本軍に手痛く迎撃されられた上に、泗川の敗報に報して日本諸将の撤兵意思を好材料として和を講じたの
でしょう。しかし、明と朝鮮の連合軍はそれを反故にして後に押し寄せることとなります。
泗川での講和
明側の資料、「両朝平攘録」には「(略)中路使督陣茅國科、撫臺の激を持し、金パクを賚して義弘に見え、動すに
大儀を以てし、諭すに利害を以てす。郭國安傍より之を賛す。義弘許諾す。」とあり、
日本側の資料「征韓録」には「十月八日に、徳水式部卿法印壽昌(略)、泗川の新塞に来て、殿下の厳命なりとて
和議の次第、貢税の品、掃陣の行を述らる。その掃陣の期限は、十一月十五日を期として、諸将相倶に釜山浦へ
(略)、然るに十月十三日に、参謀史龍添(略)、此の塞に来り、和議を請ふ。(略)彼の人質を請取(略)和議と相成りて
掃陣の催しあり」
ともかく、泗川の大勝によって明軍を和議に向かわせたのは資料から確実と思われます。
前のレスを補足すると和議を結んだから撤退したのではなく、撤退の過程で和議が結ばれた、という事ですね。
義兵のことですが、彼等の活発な活動が日本軍を苦しめたのは疑いありません。
ただ、支配者層は義兵の反日抗争を自らの階級支配の道具に組み入れようとやっきになったそうです。
金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)によれば、戦争初期においては義兵を官軍に引きこむため、
義兵将らにたいして高い職位を授ける措置をとったが、やがて義兵闘争が官軍の補助的役割をするようになると
義兵には厳しい統制と圧力がくわえられ、政府は義兵達が巡察使(道内の軍務を巡察する官職臨時軍司令官)及び
体察使(臨時宰相兼軍司令官)の指揮を受けるようにしたが、それらの指揮官は殆どの者が正確な指揮をなしえなかった。
戦争末期には、為政者たちは義兵の存在を十分留意していた。すなわちかれらは戦闘の経験を有し、武器を多数
備え、権力者にとって恐ろしい存在である事を認識し、義兵にたいする統率と圧力をより一層強化するとともに
迫害を加えた。そのため、義兵達は組織された部隊として機能できなくなった。
しかも、義兵部隊の核心的活動家はほとんどが被圧迫階級で、体を張って貢献したにも関わらず、政府はかれらを
正当に評価せず、戦争が終わると義兵たちはまたもや農奴的身分におとしめ、過酷な収奪を繰り返した。
義兵闘争の過程で官職を授けられた義兵将も、国家権力によって廃履のように捨てられるが、党派の政争に組み込まれて
権力者らの猜忌や謀略により迫害され、はては流配か死刑かの不遇な生涯を送らねばならなかったそうです。 qwe
527 :
名無しさん@1周年:2000/12/05(火) 02:10
480さん、指摘ありがとうございます。
蘇峰徳猪一郎著『近世日本国民史 第九巻 朝鮮役下巻』(時事通信社 昭和三十九年二月十日発行)によれば、
秀吉の死去後、五大老は朝鮮の諸将に撤兵を命を出し、順天、泗川では明軍は敗戦で戦意を失っていたため
早々と講和が締結されたらしいです。順天では提督の劉延が降倭の沙也可を使者として小西行長に和議を
持ちこみ、人質として劉天を差し出しました。朝鮮の資料「宣祖實緑」では順天城の攻防における劉延の
無能ぶりを「(略)提督事を行ふ、正に魂を奪はれたる人の如し。将卒皆軽侮す。適ゝ泗川の敗報を見、(略)
意を決して兵を退く。尤も痛泣を為す。(漢字を一部略字に変更してますので間違いがあればすいません)」
日本軍に手痛く迎撃されられた上に、泗川の敗報に報して日本諸将の撤兵意思を好材料として和を講じたの
でしょう。しかし、明と朝鮮の連合軍はそれを反故にして後に押し寄せることとなります。
泗川での講和
明側の資料、「両朝平攘録」には「(略)中路使督陣茅國科、撫臺の激を持し、金パクを賚して義弘に見え、動すに
大儀を以てし、諭すに利害を以てす。郭國安傍より之を賛す。義弘許諾す。」とあり、
日本側の資料「征韓録」には「十月八日に、徳水式部卿法印壽昌(略)、泗川の新塞に来て、殿下の厳命なりとて
和議の次第、貢税の品、掃陣の行を述らる。その掃陣の期限は、十一月十五日を期として、諸将相倶に釜山浦へ
(略)、然るに十月十三日に、参謀史龍添(略)、此の塞に来り、和議を請ふ。(略)彼の人質を請取(略)和議と相成りて
掃陣の催しあり」
ともかく、泗川の大勝によって明軍を和議に向かわせたのは資料から確実と思われます。
前のレスを補足すると和議を結んだから撤退したのではなく、撤退の過程で和議が結ばれた、という事ですね。
義兵のことですが、彼等の活発な活動が日本軍を苦しめたのは疑いありません。
ただ、支配者層は義兵の反日抗争を自らの階級支配の道具に組み入れようとやっきになったそうです。
金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)によれば、戦争初期においては義兵を官軍に引きこむため、
義兵将らにたいして高い職位を授ける措置をとったが、やがて義兵闘争が官軍の補助的役割をするようになると
義兵には厳しい統制と圧力がくわえられ、政府は義兵達が巡察使(道内の軍務を巡察する官職臨時軍司令官)及び
体察使(臨時宰相兼軍司令官)の指揮を受けるようにしたが、それらの指揮官は殆どの者が正確な指揮をなしえなかった。
戦争末期には、為政者たちは義兵の存在を十分留意していた。すなわちかれらは戦闘の経験を有し、武器を多数
備え、権力者にとって恐ろしい存在である事を認識し、義兵にたいする統率と圧力をより一層強化するとともに
迫害を加えた。そのため、義兵達は組織された部隊として機能できなくなった。
しかも、義兵部隊の核心的活動家はほとんどが被圧迫階級で、体を張って貢献したにも関わらず、政府はかれらを
正当に評価せず、戦争が終わると義兵たちはまたもや農奴的身分におとしめ、過酷な収奪を繰り返した。
義兵闘争の過程で官職を授けられた義兵将も、国家権力によって廃履のように捨てられるが、党派の政争に組み込まれて
権力者らの猜忌や謀略により迫害され、はては流配か死刑かの不遇な生涯を送らねばならなかったそうです。 qwe
528 :
名無しさん@1周年:2000/12/05(火) 02:10
480さん、指摘ありがとうございます。
蘇峰徳猪一郎著『近世日本国民史 第九巻 朝鮮役下巻』(時事通信社 昭和三十九年二月十日発行)によれば、
秀吉の死去後、五大老は朝鮮の諸将に撤兵を命を出し、順天、泗川では明軍は敗戦で戦意を失っていたため
早々と講和が締結されたらしいです。順天では提督の劉延が降倭の沙也可を使者として小西行長に和議を
持ちこみ、人質として劉天を差し出しました。朝鮮の資料「宣祖實緑」では順天城の攻防における劉延の
無能ぶりを「(略)提督事を行ふ、正に魂を奪はれたる人の如し。将卒皆軽侮す。適ゝ泗川の敗報を見、(略)
意を決して兵を退く。尤も痛泣を為す。(漢字を一部略字に変更してますので間違いがあればすいません)」
日本軍に手痛く迎撃されられた上に、泗川の敗報に報して日本諸将の撤兵意思を好材料として和を講じたの
でしょう。しかし、明と朝鮮の連合軍はそれを反故にして後に押し寄せることとなります。
泗川での講和
明側の資料、「両朝平攘録」には「(略)中路使督陣茅國科、撫臺の激を持し、金パクを賚して義弘に見え、動すに
大儀を以てし、諭すに利害を以てす。郭國安傍より之を賛す。義弘許諾す。」とあり、
日本側の資料「征韓録」には「十月八日に、徳水式部卿法印壽昌(略)、泗川の新塞に来て、殿下の厳命なりとて
和議の次第、貢税の品、掃陣の行を述らる。その掃陣の期限は、十一月十五日を期として、諸将相倶に釜山浦へ
(略)、然るに十月十三日に、参謀史龍添(略)、此の塞に来り、和議を請ふ。(略)彼の人質を請取(略)和議と相成りて
掃陣の催しあり」
ともかく、泗川の大勝によって明軍を和議に向かわせたのは資料から確実と思われます。
前のレスを補足すると和議を結んだから撤退したのではなく、撤退の過程で和議が結ばれた、という事ですね。
義兵のことですが、彼等の活発な活動が日本軍を苦しめたのは疑いありません。
ただ、支配者層は義兵の反日抗争を自らの階級支配の道具に組み入れようとやっきになったそうです。
金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)によれば、戦争初期においては義兵を官軍に引きこむため、
義兵将らにたいして高い職位を授ける措置をとったが、やがて義兵闘争が官軍の補助的役割をするようになると
義兵には厳しい統制と圧力がくわえられ、政府は義兵達が巡察使(道内の軍務を巡察する官職臨時軍司令官)及び
体察使(臨時宰相兼軍司令官)の指揮を受けるようにしたが、それらの指揮官は殆どの者が正確な指揮をなしえなかった。
戦争末期には、為政者たちは義兵の存在を十分留意していた。すなわちかれらは戦闘の経験を有し、武器を多数
備え、権力者にとって恐ろしい存在である事を認識し、義兵にたいする統率と圧力をより一層強化するとともに
迫害を加えた。そのため、義兵達は組織された部隊として機能できなくなった。
しかも、義兵部隊の核心的活動家はほとんどが被圧迫階級で、体を張って貢献したにも関わらず、政府はかれらを
正当に評価せず、戦争が終わると義兵たちはまたもや農奴的身分におとしめ、過酷な収奪を繰り返した。
義兵闘争の過程で官職を授けられた義兵将も、国家権力によって廃履のように捨てられるが、党派の政争に組み込まれて
権力者らの猜忌や謀略により迫害され、はては流配か死刑かの不遇な生涯を送らねばならなかったそうです。 fer
529 :
名無しさん@1周年:2000/12/05(火) 02:11
480さん、指摘ありがとうございます。
蘇峰徳猪一郎著『近世日本国民史 第九巻 朝鮮役下巻』(時事通信社 昭和三十九年二月十日発行)によれば、
秀吉の死去後、五大老は朝鮮の諸将に撤兵を命を出し、順天、泗川では明軍は敗戦で戦意を失っていたため
早々と講和が締結されたらしいです。順天では提督の劉延が降倭の沙也可を使者として小西行長に和議を
持ちこみ、人質として劉天を差し出しました。朝鮮の資料「宣祖實緑」では順天城の攻防における劉延の
無能ぶりを「(略)提督事を行ふ、正に魂を奪はれたる人の如し。将卒皆軽侮す。適ゝ泗川の敗報を見、(略)
意を決して兵を退く。尤も痛泣を為す。(漢字を一部略字に変更してますので間違いがあればすいません)」
日本軍に手痛く迎撃されられた上に、泗川の敗報に報して日本諸将の撤兵意思を好材料として和を講じたの
でしょう。しかし、明と朝鮮の連合軍はそれを反故にして後に押し寄せることとなります。
泗川での講和
明側の資料、「両朝平攘録」には「(略)中路使督陣茅國科、撫臺の激を持し、金パクを賚して義弘に見え、動すに
大儀を以てし、諭すに利害を以てす。郭國安傍より之を賛す。義弘許諾す。」とあり、
日本側の資料「征韓録」には「十月八日に、徳水式部卿法印壽昌(略)、泗川の新塞に来て、殿下の厳命なりとて
和議の次第、貢税の品、掃陣の行を述らる。その掃陣の期限は、十一月十五日を期として、諸将相倶に釜山浦へ
(略)、然るに十月十三日に、参謀史龍添(略)、此の塞に来り、和議を請ふ。(略)彼の人質を請取(略)和議と相成りて
掃陣の催しあり」
ともかく、泗川の大勝によって明軍を和議に向かわせたのは資料から確実と思われます。
前のレスを補足すると和議を結んだから撤退したのではなく、撤退の過程で和議が結ばれた、という事ですね。
義兵のことですが、彼等の活発な活動が日本軍を苦しめたのは疑いありません。
ただ、支配者層は義兵の反日抗争を自らの階級支配の道具に組み入れようとやっきになったそうです。
金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)によれば、戦争初期においては義兵を官軍に引きこむため、
義兵将らにたいして高い職位を授ける措置をとったが、やがて義兵闘争が官軍の補助的役割をするようになると
義兵には厳しい統制と圧力がくわえられ、政府は義兵達が巡察使(道内の軍務を巡察する官職臨時軍司令官)及び
体察使(臨時宰相兼軍司令官)の指揮を受けるようにしたが、それらの指揮官は殆どの者が正確な指揮をなしえなかった。
戦争末期には、為政者たちは義兵の存在を十分留意していた。すなわちかれらは戦闘の経験を有し、武器を多数
備え、権力者にとって恐ろしい存在である事を認識し、義兵にたいする統率と圧力をより一層強化するとともに
迫害を加えた。そのため、義兵達は組織された部隊として機能できなくなった。
しかも、義兵部隊の核心的活動家はほとんどが被圧迫階級で、体を張って貢献したにも関わらず、政府はかれらを
正当に評価せず、戦争が終わると義兵たちはまたもや農奴的身分におとしめ、過酷な収奪を繰り返した。
義兵闘争の過程で官職を授けられた義兵将も、国家権力によって廃履のように捨てられるが、党派の政争に組み込まれて
権力者らの猜忌や謀略により迫害され、はては流配か死刑かの不遇な生涯を送らねばならなかったそうです。 fer
530 :
名無しさん@1周年:2000/12/05(火) 02:11
480さん、指摘ありがとうございます。
蘇峰徳猪一郎著『近世日本国民史 第九巻 朝鮮役下巻』(時事通信社 昭和三十九年二月十日発行)によれば、
秀吉の死去後、五大老は朝鮮の諸将に撤兵を命を出し、順天、泗川では明軍は敗戦で戦意を失っていたため
早々と講和が締結されたらしいです。順天では提督の劉延が降倭の沙也可を使者として小西行長に和議を
持ちこみ、人質として劉天を差し出しました。朝鮮の資料「宣祖實緑」では順天城の攻防における劉延の
無能ぶりを「(略)提督事を行ふ、正に魂を奪はれたる人の如し。将卒皆軽侮す。適ゝ泗川の敗報を見、(略)
意を決して兵を退く。尤も痛泣を為す。(漢字を一部略字に変更してますので間違いがあればすいません)」
日本軍に手痛く迎撃されられた上に、泗川の敗報に報して日本諸将の撤兵意思を好材料として和を講じたの
でしょう。しかし、明と朝鮮の連合軍はそれを反故にして後に押し寄せることとなります。
泗川での講和
明側の資料、「両朝平攘録」には「(略)中路使督陣茅國科、撫臺の激を持し、金パクを賚して義弘に見え、動すに
大儀を以てし、諭すに利害を以てす。郭國安傍より之を賛す。義弘許諾す。」とあり、
日本側の資料「征韓録」には「十月八日に、徳水式部卿法印壽昌(略)、泗川の新塞に来て、殿下の厳命なりとて
和議の次第、貢税の品、掃陣の行を述らる。その掃陣の期限は、十一月十五日を期として、諸将相倶に釜山浦へ
(略)、然るに十月十三日に、参謀史龍添(略)、此の塞に来り、和議を請ふ。(略)彼の人質を請取(略)和議と相成りて
掃陣の催しあり」
ともかく、泗川の大勝によって明軍を和議に向かわせたのは資料から確実と思われます。
前のレスを補足すると和議を結んだから撤退したのではなく、撤退の過程で和議が結ばれた、という事ですね。
義兵のことですが、彼等の活発な活動が日本軍を苦しめたのは疑いありません。
ただ、支配者層は義兵の反日抗争を自らの階級支配の道具に組み入れようとやっきになったそうです。
金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)によれば、戦争初期においては義兵を官軍に引きこむため、
義兵将らにたいして高い職位を授ける措置をとったが、やがて義兵闘争が官軍の補助的役割をするようになると
義兵には厳しい統制と圧力がくわえられ、政府は義兵達が巡察使(道内の軍務を巡察する官職臨時軍司令官)及び
体察使(臨時宰相兼軍司令官)の指揮を受けるようにしたが、それらの指揮官は殆どの者が正確な指揮をなしえなかった。
戦争末期には、為政者たちは義兵の存在を十分留意していた。すなわちかれらは戦闘の経験を有し、武器を多数
備え、権力者にとって恐ろしい存在である事を認識し、義兵にたいする統率と圧力をより一層強化するとともに
迫害を加えた。そのため、義兵達は組織された部隊として機能できなくなった。
しかも、義兵部隊の核心的活動家はほとんどが被圧迫階級で、体を張って貢献したにも関わらず、政府はかれらを
正当に評価せず、戦争が終わると義兵たちはまたもや農奴的身分におとしめ、過酷な収奪を繰り返した。
義兵闘争の過程で官職を授けられた義兵将も、国家権力によって廃履のように捨てられるが、党派の政争に組み込まれて
権力者らの猜忌や謀略により迫害され、はては流配か死刑かの不遇な生涯を送らねばならなかったそうです。 aq
531 :
名無しさん@1周年:2000/12/05(火) 02:11
480さん、指摘ありがとうございます。
蘇峰徳猪一郎著『近世日本国民史 第九巻 朝鮮役下巻』(時事通信社 昭和三十九年二月十日発行)によれば、
秀吉の死去後、五大老は朝鮮の諸将に撤兵を命を出し、順天、泗川では明軍は敗戦で戦意を失っていたため
早々と講和が締結されたらしいです。順天では提督の劉延が降倭の沙也可を使者として小西行長に和議を
持ちこみ、人質として劉天を差し出しました。朝鮮の資料「宣祖實緑」では順天城の攻防における劉延の
無能ぶりを「(略)提督事を行ふ、正に魂を奪はれたる人の如し。将卒皆軽侮す。適ゝ泗川の敗報を見、(略)
意を決して兵を退く。尤も痛泣を為す。(漢字を一部略字に変更してますので間違いがあればすいません)」
日本軍に手痛く迎撃されられた上に、泗川の敗報に報して日本諸将の撤兵意思を好材料として和を講じたの
でしょう。しかし、明と朝鮮の連合軍はそれを反故にして後に押し寄せることとなります。
泗川での講和
明側の資料、「両朝平攘録」には「(略)中路使督陣茅國科、撫臺の激を持し、金パクを賚して義弘に見え、動すに
大儀を以てし、諭すに利害を以てす。郭國安傍より之を賛す。義弘許諾す。」とあり、
日本側の資料「征韓録」には「十月八日に、徳水式部卿法印壽昌(略)、泗川の新塞に来て、殿下の厳命なりとて
和議の次第、貢税の品、掃陣の行を述らる。その掃陣の期限は、十一月十五日を期として、諸将相倶に釜山浦へ
(略)、然るに十月十三日に、参謀史龍添(略)、此の塞に来り、和議を請ふ。(略)彼の人質を請取(略)和議と相成りて
掃陣の催しあり」
ともかく、泗川の大勝によって明軍を和議に向かわせたのは資料から確実と思われます。
前のレスを補足すると和議を結んだから撤退したのではなく、撤退の過程で和議が結ばれた、という事ですね。
義兵のことですが、彼等の活発な活動が日本軍を苦しめたのは疑いありません。
ただ、支配者層は義兵の反日抗争を自らの階級支配の道具に組み入れようとやっきになったそうです。
金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)によれば、戦争初期においては義兵を官軍に引きこむため、
義兵将らにたいして高い職位を授ける措置をとったが、やがて義兵闘争が官軍の補助的役割をするようになると
義兵には厳しい統制と圧力がくわえられ、政府は義兵達が巡察使(道内の軍務を巡察する官職臨時軍司令官)及び
体察使(臨時宰相兼軍司令官)の指揮を受けるようにしたが、それらの指揮官は殆どの者が正確な指揮をなしえなかった。
戦争末期には、為政者たちは義兵の存在を十分留意していた。すなわちかれらは戦闘の経験を有し、武器を多数
備え、権力者にとって恐ろしい存在である事を認識し、義兵にたいする統率と圧力をより一層強化するとともに
迫害を加えた。そのため、義兵達は組織された部隊として機能できなくなった。 dr
しかも、義兵部隊の核心的活動家はほとんどが被圧迫階級で、体を張って貢献したにも関わらず、政府はかれらを
正当に評価せず、戦争が終わると義兵たちはまたもや農奴的身分におとしめ、過酷な収奪を繰り返した。
義兵闘争の過程で官職を授けられた義兵将も、国家権力によって廃履のように捨てられるが、党派の政争に組み込まれて
権力者らの猜忌や謀略により迫害され、はては流配か死刑かの不遇な生涯を送らねばならなかったそうです。 aq
532 :
名無しさん@1周年:2000/12/05(火) 02:11
480さん、指摘ありがとうございます。
蘇峰徳猪一郎著『近世日本国民史 第九巻 朝鮮役下巻』(時事通信社 昭和三十九年二月十日発行)によれば、
秀吉の死去後、五大老は朝鮮の諸将に撤兵を命を出し、順天、泗川では明軍は敗戦で戦意を失っていたため
早々と講和が締結されたらしいです。順天では提督の劉延が降倭の沙也可を使者として小西行長に和議を
持ちこみ、人質として劉天を差し出しました。朝鮮の資料「宣祖實緑」では順天城の攻防における劉延の
無能ぶりを「(略)提督事を行ふ、正に魂を奪はれたる人の如し。将卒皆軽侮す。適ゝ泗川の敗報を見、(略)
意を決して兵を退く。尤も痛泣を為す。(漢字を一部略字に変更してますので間違いがあればすいません)」
日本軍に手痛く迎撃されられた上に、泗川の敗報に報して日本諸将の撤兵意思を好材料として和を講じたの
でしょう。しかし、明と朝鮮の連合軍はそれを反故にして後に押し寄せることとなります。
泗川での講和
明側の資料、「両朝平攘録」には「(略)中路使督陣茅國科、撫臺の激を持し、金パクを賚して義弘に見え、動すに
大儀を以てし、諭すに利害を以てす。郭國安傍より之を賛す。義弘許諾す。」とあり、
日本側の資料「征韓録」には「十月八日に、徳水式部卿法印壽昌(略)、泗川の新塞に来て、殿下の厳命なりとて
和議の次第、貢税の品、掃陣の行を述らる。その掃陣の期限は、十一月十五日を期として、諸将相倶に釜山浦へ
(略)、然るに十月十三日に、参謀史龍添(略)、此の塞に来り、和議を請ふ。(略)彼の人質を請取(略)和議と相成りて
掃陣の催しあり」
ともかく、泗川の大勝によって明軍を和議に向かわせたのは資料から確実と思われます。
前のレスを補足すると和議を結んだから撤退したのではなく、撤退の過程で和議が結ばれた、という事ですね。
義兵のことですが、彼等の活発な活動が日本軍を苦しめたのは疑いありません。
ただ、支配者層は義兵の反日抗争を自らの階級支配の道具に組み入れようとやっきになったそうです。
金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)によれば、戦争初期においては義兵を官軍に引きこむため、
義兵将らにたいして高い職位を授ける措置をとったが、やがて義兵闘争が官軍の補助的役割をするようになると
義兵には厳しい統制と圧力がくわえられ、政府は義兵達が巡察使(道内の軍務を巡察する官職臨時軍司令官)及び
体察使(臨時宰相兼軍司令官)の指揮を受けるようにしたが、それらの指揮官は殆どの者が正確な指揮をなしえなかった。
戦争末期には、為政者たちは義兵の存在を十分留意していた。すなわちかれらは戦闘の経験を有し、武器を多数
備え、権力者にとって恐ろしい存在である事を認識し、義兵にたいする統率と圧力をより一層強化するとともに
迫害を加えた。そのため、義兵達は組織された部隊として機能できなくなった。
しかも、義兵部隊の核心的活動家はほとんどが被圧迫階級で、体を張って貢献したにも関わらず、政府はかれらを
正当に評価せず、戦争が終わると義兵たちはまたもや農奴的身分におとしめ、過酷な収奪を繰り返した。
義兵闘争の過程で官職を授けられた義兵将も、国家権力によって廃履のように捨てられるが、党派の政争に組み込まれて
権力者らの猜忌や謀略により迫害され、はては流配か死刑かの不遇な生涯を送らねばならなかったそうです。 ert
533 :
名無しさん@1周年:2000/12/05(火) 02:11
480さん、指摘ありがとうございます。
蘇峰徳猪一郎著『近世日本国民史 第九巻 朝鮮役下巻』(時事通信社 昭和三十九年二月十日発行)によれば、
秀吉の死去後、五大老は朝鮮の諸将に撤兵を命を出し、順天、泗川では明軍は敗戦で戦意を失っていたため
早々と講和が締結されたらしいです。順天では提督の劉延が降倭の沙也可を使者として小西行長に和議を
持ちこみ、人質として劉天を差し出しました。朝鮮の資料「宣祖實緑」では順天城の攻防における劉延の
無能ぶりを「(略)提督事を行ふ、正に魂を奪はれたる人の如し。将卒皆軽侮す。適ゝ泗川の敗報を見、(略)
意を決して兵を退く。尤も痛泣を為す。(漢字を一部略字に変更してますので間違いがあればすいません)」
日本軍に手痛く迎撃されられた上に、泗川の敗報に報して日本諸将の撤兵意思を好材料として和を講じたの
でしょう。しかし、明と朝鮮の連合軍はそれを反故にして後に押し寄せることとなります。
泗川での講和
明側の資料、「両朝平攘録」には「(略)中路使督陣茅國科、撫臺の激を持し、金パクを賚して義弘に見え、動すに
大儀を以てし、諭すに利害を以てす。郭國安傍より之を賛す。義弘許諾す。」とあり、
日本側の資料「征韓録」には「十月八日に、徳水式部卿法印壽昌(略)、泗川の新塞に来て、殿下の厳命なりとて
和議の次第、貢税の品、掃陣の行を述らる。その掃陣の期限は、十一月十五日を期として、諸将相倶に釜山浦へ
(略)、然るに十月十三日に、参謀史龍添(略)、此の塞に来り、和議を請ふ。(略)彼の人質を請取(略)和議と相成りて
掃陣の催しあり」
ともかく、泗川の大勝によって明軍を和議に向かわせたのは資料から確実と思われます。
前のレスを補足すると和議を結んだから撤退したのではなく、撤退の過程で和議が結ばれた、という事ですね。
義兵のことですが、彼等の活発な活動が日本軍を苦しめたのは疑いありません。
ただ、支配者層は義兵の反日抗争を自らの階級支配の道具に組み入れようとやっきになったそうです。
金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)によれば、戦争初期においては義兵を官軍に引きこむため、
義兵将らにたいして高い職位を授ける措置をとったが、やがて義兵闘争が官軍の補助的役割をするようになると
義兵には厳しい統制と圧力がくわえられ、政府は義兵達が巡察使(道内の軍務を巡察する官職臨時軍司令官)及び
体察使(臨時宰相兼軍司令官)の指揮を受けるようにしたが、それらの指揮官は殆どの者が正確な指揮をなしえなかった。
戦争末期には、為政者たちは義兵の存在を十分留意していた。すなわちかれらは戦闘の経験を有し、武器を多数
備え、権力者にとって恐ろしい存在である事を認識し、義兵にたいする統率と圧力をより一層強化するとともに
迫害を加えた。そのため、義兵達は組織された部隊として機能できなくなった。
しかも、義兵部隊の核心的活動家はほとんどが被圧迫階級で、体を張って貢献したにも関わらず、政府はかれらを
正当に評価せず、戦争が終わると義兵たちはまたもや農奴的身分におとしめ、過酷な収奪を繰り返した。
義兵闘争の過程で官職を授けられた義兵将も、国家権力によって廃履のように捨てられるが、党派の政争に組み込まれて
権力者らの猜忌や謀略により迫害され、はては流配か死刑かの不遇な生涯を送らねばならなかったそうです。 ert
534 :
名無しさん@1周年:2000/12/05(火) 02:12
480さん、指摘ありがとうございます。
蘇峰徳猪一郎著『近世日本国民史 第九巻 朝鮮役下巻』(時事通信社 昭和三十九年二月十日発行)によれば、
秀吉の死去後、五大老は朝鮮の諸将に撤兵を命を出し、順天、泗川では明軍は敗戦で戦意を失っていたため
早々と講和が締結されたらしいです。順天では提督の劉延が降倭の沙也可を使者として小西行長に和議を
持ちこみ、人質として劉天を差し出しました。朝鮮の資料「宣祖實緑」では順天城の攻防における劉延の
無能ぶりを「(略)提督事を行ふ、正に魂を奪はれたる人の如し。将卒皆軽侮す。適ゝ泗川の敗報を見、(略)
意を決して兵を退く。尤も痛泣を為す。(漢字を一部略字に変更してますので間違いがあればすいません)」
日本軍に手痛く迎撃されられた上に、泗川の敗報に報して日本諸将の撤兵意思を好材料として和を講じたの
でしょう。しかし、明と朝鮮の連合軍はそれを反故にして後に押し寄せることとなります。
泗川での講和
明側の資料、「両朝平攘録」には「(略)中路使督陣茅國科、撫臺の激を持し、金パクを賚して義弘に見え、動すに
大儀を以てし、諭すに利害を以てす。郭國安傍より之を賛す。義弘許諾す。」とあり、
日本側の資料「征韓録」には「十月八日に、徳水式部卿法印壽昌(略)、泗川の新塞に来て、殿下の厳命なりとて
和議の次第、貢税の品、掃陣の行を述らる。その掃陣の期限は、十一月十五日を期として、諸将相倶に釜山浦へ
(略)、然るに十月十三日に、参謀史龍添(略)、此の塞に来り、和議を請ふ。(略)彼の人質を請取(略)和議と相成りて
掃陣の催しあり」
ともかく、泗川の大勝によって明軍を和議に向かわせたのは資料から確実と思われます。
前のレスを補足すると和議を結んだから撤退したのではなく、撤退の過程で和議が結ばれた、という事ですね。
義兵のことですが、彼等の活発な活動が日本軍を苦しめたのは疑いありません。
ただ、支配者層は義兵の反日抗争を自らの階級支配の道具に組み入れようとやっきになったそうです。
金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)によれば、戦争初期においては義兵を官軍に引きこむため、
義兵将らにたいして高い職位を授ける措置をとったが、やがて義兵闘争が官軍の補助的役割をするようになると
義兵には厳しい統制と圧力がくわえられ、政府は義兵達が巡察使(道内の軍務を巡察する官職臨時軍司令官)及び
体察使(臨時宰相兼軍司令官)の指揮を受けるようにしたが、それらの指揮官は殆どの者が正確な指揮をなしえなかった。
戦争末期には、為政者たちは義兵の存在を十分留意していた。すなわちかれらは戦闘の経験を有し、武器を多数
備え、権力者にとって恐ろしい存在である事を認識し、義兵にたいする統率と圧力をより一層強化するとともに
迫害を加えた。そのため、義兵達は組織された部隊として機能できなくなった。
しかも、義兵部隊の核心的活動家はほとんどが被圧迫階級で、体を張って貢献したにも関わらず、政府はかれらを
正当に評価せず、戦争が終わると義兵たちはまたもや農奴的身分におとしめ、過酷な収奪を繰り返した。
義兵闘争の過程で官職を授けられた義兵将も、国家権力によって廃履のように捨てられるが、党派の政争に組み込まれて
権力者らの猜忌や謀略により迫害され、はては流配か死刑かの不遇な生涯を送らねばならなかったそうです。
535 :
名無しさん@1周年:2000/12/05(火) 02:12
480さん、指摘ありがとうございます。
蘇峰徳猪一郎著『近世日本国民史 第九巻 朝鮮役下巻』(時事通信社 昭和三十九年二月十日発行)によれば、
秀吉の死去後、五大老は朝鮮の諸将に撤兵を命を出し、順天、泗川では明軍は敗戦で戦意を失っていたため
早々と講和が締結されたらしいです。順天では提督の劉延が降倭の沙也可を使者として小西行長に和議を
持ちこみ、人質として劉天を差し出しました。朝鮮の資料「宣祖實緑」では順天城の攻防における劉延の
無能ぶりを「(略)提督事を行ふ、正に魂を奪はれたる人の如し。将卒皆軽侮す。適ゝ泗川の敗報を見、(略)
意を決して兵を退く。尤も痛泣を為す。(漢字を一部略字に変更してますので間違いがあればすいません)」
日本軍に手痛く迎撃されられた上に、泗川の敗報に報して日本諸将の撤兵意思を好材料として和を講じたの
でしょう。しかし、明と朝鮮の連合軍はそれを反故にして後に押し寄せることとなります。
泗川での講和
明側の資料、「両朝平攘録」には「(略)中路使督陣茅國科、撫臺の激を持し、金パクを賚して義弘に見え、動すに
大儀を以てし、諭すに利害を以てす。郭國安傍より之を賛す。義弘許諾す。」とあり、
日本側の資料「征韓録」には「十月八日に、徳水式部卿法印壽昌(略)、泗川の新塞に来て、殿下の厳命なりとて
和議の次第、貢税の品、掃陣の行を述らる。その掃陣の期限は、十一月十五日を期として、諸将相倶に釜山浦へ
(略)、然るに十月十三日に、参謀史龍添(略)、此の塞に来り、和議を請ふ。(略)彼の人質を請取(略)和議と相成りて
掃陣の催しあり」
ともかく、泗川の大勝によって明軍を和議に向かわせたのは資料から確実と思われます。
前のレスを補足すると和議を結んだから撤退したのではなく、撤退の過程で和議が結ばれた、という事ですね。
義兵のことですが、彼等の活発な活動が日本軍を苦しめたのは疑いありません。
ただ、支配者層は義兵の反日抗争を自らの階級支配の道具に組み入れようとやっきになったそうです。
金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)によれば、戦争初期においては義兵を官軍に引きこむため、
義兵将らにたいして高い職位を授ける措置をとったが、やがて義兵闘争が官軍の補助的役割をするようになると
義兵には厳しい統制と圧力がくわえられ、政府は義兵達が巡察使(道内の軍務を巡察する官職臨時軍司令官)及び
体察使(臨時宰相兼軍司令官)の指揮を受けるようにしたが、それらの指揮官は殆どの者が正確な指揮をなしえなかった。
戦争末期には、為政者たちは義兵の存在を十分留意していた。すなわちかれらは戦闘の経験を有し、武器を多数
備え、権力者にとって恐ろしい存在である事を認識し、義兵にたいする統率と圧力をより一層強化するとともに
迫害を加えた。そのため、義兵達は組織された部隊として機能できなくなった。
しかも、義兵部隊の核心的活動家はほとんどが被圧迫階級で、体を張って貢献したにも関わらず、政府はかれらを
正当に評価せず、戦争が終わると義兵たちはまたもや農奴的身分におとしめ、過酷な収奪を繰り返した。
義兵闘争の過程で官職を授けられた義兵将も、国家権力によって廃履のように捨てられるが、党派の政争に組み込まれて
権力者らの猜忌や謀略により迫害され、はては流配か死刑かの不遇な生涯を送らねばならなかったそうです。
536 :
名無しさん@1周年:2000/12/05(火) 02:12
480さん、指摘ありがとうございます。
蘇峰徳猪一郎著『近世日本国民史 第九巻 朝鮮役下巻』(時事通信社 昭和三十九年二月十日発行)によれば、
秀吉の死去後、五大老は朝鮮の諸将に撤兵を命を出し、順天、泗川では明軍は敗戦で戦意を失っていたため
早々と講和が締結されたらしいです。順天では提督の劉延が降倭の沙也可を使者として小西行長に和議を
持ちこみ、人質として劉天を差し出しました。朝鮮の資料「宣祖實緑」では順天城の攻防における劉延の
無能ぶりを「(略)提督事を行ふ、正に魂を奪はれたる人の如し。将卒皆軽侮す。適ゝ泗川の敗報を見、(略)
意を決して兵を退く。尤も痛泣を為す。(漢字を一部略字に変更してますので間違いがあればすいません)」
日本軍に手痛く迎撃されられた上に、泗川の敗報に報して日本諸将の撤兵意思を好材料として和を講じたの
でしょう。しかし、明と朝鮮の連合軍はそれを反故にして後に押し寄せることとなります。
泗川での講和
明側の資料、「両朝平攘録」には「(略)中路使督陣茅國科、撫臺の激を持し、金パクを賚して義弘に見え、動すに
大儀を以てし、諭すに利害を以てす。郭國安傍より之を賛す。義弘許諾す。」とあり、
日本側の資料「征韓録」には「十月八日に、徳水式部卿法印壽昌(略)、泗川の新塞に来て、殿下の厳命なりとて
和議の次第、貢税の品、掃陣の行を述らる。その掃陣の期限は、十一月十五日を期として、諸将相倶に釜山浦へ
(略)、然るに十月十三日に、参謀史龍添(略)、此の塞に来り、和議を請ふ。(略)彼の人質を請取(略)和議と相成りて
掃陣の催しあり」
ともかく、泗川の大勝によって明軍を和議に向かわせたのは資料から確実と思われます。
前のレスを補足すると和議を結んだから撤退したのではなく、撤退の過程で和議が結ばれた、という事ですね。
義兵のことですが、彼等の活発な活動が日本軍を苦しめたのは疑いありません。
ただ、支配者層は義兵の反日抗争を自らの階級支配の道具に組み入れようとやっきになったそうです。
金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)によれば、戦争初期においては義兵を官軍に引きこむため、
義兵将らにたいして高い職位を授ける措置をとったが、やがて義兵闘争が官軍の補助的役割をするようになると
義兵には厳しい統制と圧力がくわえられ、政府は義兵達が巡察使(道内の軍務を巡察する官職臨時軍司令官)及び
体察使(臨時宰相兼軍司令官)の指揮を受けるようにしたが、それらの指揮官は殆どの者が正確な指揮をなしえなかった。
戦争末期には、為政者たちは義兵の存在を十分留意していた。すなわちかれらは戦闘の経験を有し、武器を多数
備え、権力者にとって恐ろしい存在である事を認識し、義兵にたいする統率と圧力をより一層強化するとともに
迫害を加えた。そのため、義兵達は組織された部隊として機能できなくなった。
しかも、義兵部隊の核心的活動家はほとんどが被圧迫階級で、体を張って貢献したにも関わらず、政府はかれらを
正当に評価せず、戦争が終わると義兵たちはまたもや農奴的身分におとしめ、過酷な収奪を繰り返した。
義兵闘争の過程で官職を授けられた義兵将も、国家権力によって廃履のように捨てられるが、党派の政争に組み込まれて
権力者らの猜忌や謀略により迫害され、はては流配か死刑かの不遇な生涯を送らねばならなかったそうです。 aaa
537 :
名無しさん@1周年:2000/12/05(火) 02:12
480さん、指摘ありがとうございます。
蘇峰徳猪一郎著『近世日本国民史 第九巻 朝鮮役下巻』(時事通信社 昭和三十九年二月十日発行)によれば、
秀吉の死去後、五大老は朝鮮の諸将に撤兵を命を出し、順天、泗川では明軍は敗戦で戦意を失っていたため
早々と講和が締結されたらしいです。順天では提督の劉延が降倭の沙也可を使者として小西行長に和議を
持ちこみ、人質として劉天を差し出しました。朝鮮の資料「宣祖實緑」では順天城の攻防における劉延の
無能ぶりを「(略)提督事を行ふ、正に魂を奪はれたる人の如し。将卒皆軽侮す。適ゝ泗川の敗報を見、(略)
意を決して兵を退く。尤も痛泣を為す。(漢字を一部略字に変更してますので間違いがあればすいません)」
日本軍に手痛く迎撃されられた上に、泗川の敗報に報して日本諸将の撤兵意思を好材料として和を講じたの
でしょう。しかし、明と朝鮮の連合軍はそれを反故にして後に押し寄せることとなります。
泗川での講和
明側の資料、「両朝平攘録」には「(略)中路使督陣茅國科、撫臺の激を持し、金パクを賚して義弘に見え、動すに
大儀を以てし、諭すに利害を以てす。郭國安傍より之を賛す。義弘許諾す。」とあり、
日本側の資料「征韓録」には「十月八日に、徳水式部卿法印壽昌(略)、泗川の新塞に来て、殿下の厳命なりとて
和議の次第、貢税の品、掃陣の行を述らる。その掃陣の期限は、十一月十五日を期として、諸将相倶に釜山浦へ
(略)、然るに十月十三日に、参謀史龍添(略)、此の塞に来り、和議を請ふ。(略)彼の人質を請取(略)和議と相成りて
掃陣の催しあり」
ともかく、泗川の大勝によって明軍を和議に向かわせたのは資料から確実と思われます。
前のレスを補足すると和議を結んだから撤退したのではなく、撤退の過程で和議が結ばれた、という事ですね。
義兵のことですが、彼等の活発な活動が日本軍を苦しめたのは疑いありません。
ただ、支配者層は義兵の反日抗争を自らの階級支配の道具に組み入れようとやっきになったそうです。
金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)によれば、戦争初期においては義兵を官軍に引きこむため、
義兵将らにたいして高い職位を授ける措置をとったが、やがて義兵闘争が官軍の補助的役割をするようになると
義兵には厳しい統制と圧力がくわえられ、政府は義兵達が巡察使(道内の軍務を巡察する官職臨時軍司令官)及び
体察使(臨時宰相兼軍司令官)の指揮を受けるようにしたが、それらの指揮官は殆どの者が正確な指揮をなしえなかった。
戦争末期には、為政者たちは義兵の存在を十分留意していた。すなわちかれらは戦闘の経験を有し、武器を多数
備え、権力者にとって恐ろしい存在である事を認識し、義兵にたいする統率と圧力をより一層強化するとともに
迫害を加えた。そのため、義兵達は組織された部隊として機能できなくなった。
しかも、義兵部隊の核心的活動家はほとんどが被圧迫階級で、体を張って貢献したにも関わらず、政府はかれらを
正当に評価せず、戦争が終わると義兵たちはまたもや農奴的身分におとしめ、過酷な収奪を繰り返した。
義兵闘争の過程で官職を授けられた義兵将も、国家権力によって廃履のように捨てられるが、党派の政争に組み込まれて
権力者らの猜忌や謀略により迫害され、はては流配か死刑かの不遇な生涯を送らねばならなかったそうです。 aaa
538 :
名無しさん@1周年:2000/12/05(火) 02:12
480さん、指摘ありがとうございます。
蘇峰徳猪一郎著『近世日本国民史 第九巻 朝鮮役下巻』(時事通信社 昭和三十九年二月十日発行)によれば、
秀吉の死去後、五大老は朝鮮の諸将に撤兵を命を出し、順天、泗川では明軍は敗戦で戦意を失っていたため
早々と講和が締結されたらしいです。順天では提督の劉延が降倭の沙也可を使者として小西行長に和議を
持ちこみ、人質として劉天を差し出しました。朝鮮の資料「宣祖實緑」では順天城の攻防における劉延の
無能ぶりを「(略)提督事を行ふ、正に魂を奪はれたる人の如し。将卒皆軽侮す。適ゝ泗川の敗報を見、(略)
意を決して兵を退く。尤も痛泣を為す。(漢字を一部略字に変更してますので間違いがあればすいません)」
日本軍に手痛く迎撃されられた上に、泗川の敗報に報して日本諸将の撤兵意思を好材料として和を講じたの
でしょう。しかし、明と朝鮮の連合軍はそれを反故にして後に押し寄せることとなります。
泗川での講和
明側の資料、「両朝平攘録」には「(略)中路使督陣茅國科、撫臺の激を持し、金パクを賚して義弘に見え、動すに
大儀を以てし、諭すに利害を以てす。郭國安傍より之を賛す。義弘許諾す。」とあり、
日本側の資料「征韓録」には「十月八日に、徳水式部卿法印壽昌(略)、泗川の新塞に来て、殿下の厳命なりとて
和議の次第、貢税の品、掃陣の行を述らる。その掃陣の期限は、十一月十五日を期として、諸将相倶に釜山浦へ
(略)、然るに十月十三日に、参謀史龍添(略)、此の塞に来り、和議を請ふ。(略)彼の人質を請取(略)和議と相成りて
掃陣の催しあり」
ともかく、泗川の大勝によって明軍を和議に向かわせたのは資料から確実と思われます。
前のレスを補足すると和議を結んだから撤退したのではなく、撤退の過程で和議が結ばれた、という事ですね。
義兵のことですが、彼等の活発な活動が日本軍を苦しめたのは疑いありません。
ただ、支配者層は義兵の反日抗争を自らの階級支配の道具に組み入れようとやっきになったそうです。
金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)によれば、戦争初期においては義兵を官軍に引きこむため、
義兵将らにたいして高い職位を授ける措置をとったが、やがて義兵闘争が官軍の補助的役割をするようになると
義兵には厳しい統制と圧力がくわえられ、政府は義兵達が巡察使(道内の軍務を巡察する官職臨時軍司令官)及び
体察使(臨時宰相兼軍司令官)の指揮を受けるようにしたが、それらの指揮官は殆どの者が正確な指揮をなしえなかった。
戦争末期には、為政者たちは義兵の存在を十分留意していた。すなわちかれらは戦闘の経験を有し、武器を多数
備え、権力者にとって恐ろしい存在である事を認識し、義兵にたいする統率と圧力をより一層強化するとともに
迫害を加えた。そのため、義兵達は組織された部隊として機能できなくなった。
しかも、義兵部隊の核心的活動家はほとんどが被圧迫階級で、体を張って貢献したにも関わらず、政府はかれらを
正当に評価せず、戦争が終わると義兵たちはまたもや農奴的身分におとしめ、過酷な収奪を繰り返した。
義兵闘争の過程で官職を授けられた義兵将も、国家権力によって廃履のように捨てられるが、党派の政争に組み込まれて
権力者らの猜忌や謀略により迫害され、はては流配か死刑かの不遇な生涯を送らねばならなかったそうです。 aaa
539 :
名無しさん@1周年:2000/12/05(火) 02:13
480さん、指摘ありがとうございます。
蘇峰徳猪一郎著『近世日本国民史 第九巻 朝鮮役下巻』(時事通信社 昭和三十九年二月十日発行)によれば、
秀吉の死去後、五大老は朝鮮の諸将に撤兵を命を出し、順天、泗川では明軍は敗戦で戦意を失っていたため
早々と講和が締結されたらしいです。順天では提督の劉延が降倭の沙也可を使者として小西行長に和議を
持ちこみ、人質として劉天を差し出しました。朝鮮の資料「宣祖實緑」では順天城の攻防における劉延の
無能ぶりを「(略)提督事を行ふ、正に魂を奪はれたる人の如し。将卒皆軽侮す。適ゝ泗川の敗報を見、(略)
意を決して兵を退く。尤も痛泣を為す。(漢字を一部略字に変更してますので間違いがあればすいません)」
日本軍に手痛く迎撃されられた上に、泗川の敗報に報して日本諸将の撤兵意思を好材料として和を講じたの
でしょう。しかし、明と朝鮮の連合軍はそれを反故にして後に押し寄せることとなります。
泗川での講和
明側の資料、「両朝平攘録」には「(略)中路使督陣茅國科、撫臺の激を持し、金パクを賚して義弘に見え、動すに
大儀を以てし、諭すに利害を以てす。郭國安傍より之を賛す。義弘許諾す。」とあり、
日本側の資料「征韓録」には「十月八日に、徳水式部卿法印壽昌(略)、泗川の新塞に来て、殿下の厳命なりとて
和議の次第、貢税の品、掃陣の行を述らる。その掃陣の期限は、十一月十五日を期として、諸将相倶に釜山浦へ
(略)、然るに十月十三日に、参謀史龍添(略)、此の塞に来り、和議を請ふ。(略)彼の人質を請取(略)和議と相成りて
掃陣の催しあり」
ともかく、泗川の大勝によって明軍を和議に向かわせたのは資料から確実と思われます。
前のレスを補足すると和議を結んだから撤退したのではなく、撤退の過程で和議が結ばれた、という事ですね。
義兵のことですが、彼等の活発な活動が日本軍を苦しめたのは疑いありません。
ただ、支配者層は義兵の反日抗争を自らの階級支配の道具に組み入れようとやっきになったそうです。
金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)によれば、戦争初期においては義兵を官軍に引きこむため、
義兵将らにたいして高い職位を授ける措置をとったが、やがて義兵闘争が官軍の補助的役割をするようになると
義兵には厳しい統制と圧力がくわえられ、政府は義兵達が巡察使(道内の軍務を巡察する官職臨時軍司令官)及び
体察使(臨時宰相兼軍司令官)の指揮を受けるようにしたが、それらの指揮官は殆どの者が正確な指揮をなしえなかった。
戦争末期には、為政者たちは義兵の存在を十分留意していた。すなわちかれらは戦闘の経験を有し、武器を多数
備え、権力者にとって恐ろしい存在である事を認識し、義兵にたいする統率と圧力をより一層強化するとともに
迫害を加えた。そのため、義兵達は組織された部隊として機能できなくなった。
しかも、義兵部隊の核心的活動家はほとんどが被圧迫階級で、体を張って貢献したにも関わらず、政府はかれらを
正当に評価せず、戦争が終わると義兵たちはまたもや農奴的身分におとしめ、過酷な収奪を繰り返した。
義兵闘争の過程で官職を授けられた義兵将も、国家権力によって廃履のように捨てられるが、党派の政争に組み込まれて
権力者らの猜忌や謀略により迫害され、はては流配か死刑かの不遇な生涯を送らねばならなかったそうです。
540 :
名無しさん@1周年:2000/12/05(火) 02:13
480さん、指摘ありがとうございます。
蘇峰徳猪一郎著『近世日本国民史 第九巻 朝鮮役下巻』(時事通信社 昭和三十九年二月十日発行)によれば、
秀吉の死去後、五大老は朝鮮の諸将に撤兵を命を出し、順天、泗川では明軍は敗戦で戦意を失っていたため
早々と講和が締結されたらしいです。順天では提督の劉延が降倭の沙也可を使者として小西行長に和議を
持ちこみ、人質として劉天を差し出しました。朝鮮の資料「宣祖實緑」では順天城の攻防における劉延の
無能ぶりを「(略)提督事を行ふ、正に魂を奪はれたる人の如し。将卒皆軽侮す。適ゝ泗川の敗報を見、(略)
意を決して兵を退く。尤も痛泣を為す。(漢字を一部略字に変更してますので間違いがあればすいません)」
日本軍に手痛く迎撃されられた上に、泗川の敗報に報して日本諸将の撤兵意思を好材料として和を講じたの
でしょう。しかし、明と朝鮮の連合軍はそれを反故にして後に押し寄せることとなります。
泗川での講和
明側の資料、「両朝平攘録」には「(略)中路使督陣茅國科、撫臺の激を持し、金パクを賚して義弘に見え、動すに
大儀を以てし、諭すに利害を以てす。郭國安傍より之を賛す。義弘許諾す。」とあり、
日本側の資料「征韓録」には「十月八日に、徳水式部卿法印壽昌(略)、泗川の新塞に来て、殿下の厳命なりとて
和議の次第、貢税の品、掃陣の行を述らる。その掃陣の期限は、十一月十五日を期として、諸将相倶に釜山浦へ
(略)、然るに十月十三日に、参謀史龍添(略)、此の塞に来り、和議を請ふ。(略)彼の人質を請取(略)和議と相成りて
掃陣の催しあり」
ともかく、泗川の大勝によって明軍を和議に向かわせたのは資料から確実と思われます。
前のレスを補足すると和議を結んだから撤退したのではなく、撤退の過程で和議が結ばれた、という事ですね。
義兵のことですが、彼等の活発な活動が日本軍を苦しめたのは疑いありません。
ただ、支配者層は義兵の反日抗争を自らの階級支配の道具に組み入れようとやっきになったそうです。
金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)によれば、戦争初期においては義兵を官軍に引きこむため、
義兵将らにたいして高い職位を授ける措置をとったが、やがて義兵闘争が官軍の補助的役割をするようになると
義兵には厳しい統制と圧力がくわえられ、政府は義兵達が巡察使(道内の軍務を巡察する官職臨時軍司令官)及び
体察使(臨時宰相兼軍司令官)の指揮を受けるようにしたが、それらの指揮官は殆どの者が正確な指揮をなしえなかった。
戦争末期には、為政者たちは義兵の存在を十分留意していた。すなわちかれらは戦闘の経験を有し、武器を多数
備え、権力者にとって恐ろしい存在である事を認識し、義兵にたいする統率と圧力をより一層強化するとともに
迫害を加えた。そのため、義兵達は組織された部隊として機能できなくなった。
しかも、義兵部隊の核心的活動家はほとんどが被圧迫階級で、体を張って貢献したにも関わらず、政府はかれらを
正当に評価せず、戦争が終わると義兵たちはまたもや農奴的身分におとしめ、過酷な収奪を繰り返した。
義兵闘争の過程で官職を授けられた義兵将も、国家権力によって廃履のように捨てられるが、党派の政争に組み込まれて
権力者らの猜忌や謀略により迫害され、はては流配か死刑かの不遇な生涯を送らねばならなかったそうです。
541 :
名無しさん@1周年:2000/12/05(火) 02:14
480さん、指摘ありがとうございます。
蘇峰徳猪一郎著『近世日本国民史 第九巻 朝鮮役下巻』(時事通信社 昭和三十九年二月十日発行)によれば、
秀吉の死去後、五大老は朝鮮の諸将に撤兵を命を出し、順天、泗川では明軍は敗戦で戦意を失っていたため
早々と講和が締結されたらしいです。順天では提督の劉延が降倭の沙也可を使者として小西行長に和議を
持ちこみ、人質として劉天を差し出しました。朝鮮の資料「宣祖實緑」では順天城の攻防における劉延の
無能ぶりを「(略)提督事を行ふ、正に魂を奪はれたる人の如し。将卒皆軽侮す。適ゝ泗川の敗報を見、(略)
意を決して兵を退く。尤も痛泣を為す。(漢字を一部略字に変更してますので間違いがあればすいません)」
日本軍に手痛く迎撃されられた上に、泗川の敗報に報して日本諸将の撤兵意思を好材料として和を講じたの
でしょう。しかし、明と朝鮮の連合軍はそれを反故にして後に押し寄せることとなります。
泗川での講和
明側の資料、「両朝平攘録」には「(略)中路使督陣茅國科、撫臺の激を持し、金パクを賚して義弘に見え、動すに
大儀を以てし、諭すに利害を以てす。郭國安傍より之を賛す。義弘許諾す。」とあり、
日本側の資料「征韓録」には「十月八日に、徳水式部卿法印壽昌(略)、泗川の新塞に来て、殿下の厳命なりとて
和議の次第、貢税の品、掃陣の行を述らる。その掃陣の期限は、十一月十五日を期として、諸将相倶に釜山浦へ
(略)、然るに十月十三日に、参謀史龍添(略)、此の塞に来り、和議を請ふ。(略)彼の人質を請取(略)和議と相成りて
掃陣の催しあり」
ともかく、泗川の大勝によって明軍を和議に向かわせたのは資料から確実と思われます。
前のレスを補足すると和議を結んだから撤退したのではなく、撤退の過程で和議が結ばれた、という事ですね。
義兵のことですが、彼等の活発な活動が日本軍を苦しめたのは疑いありません。
ただ、支配者層は義兵の反日抗争を自らの階級支配の道具に組み入れようとやっきになったそうです。
金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)によれば、戦争初期においては義兵を官軍に引きこむため、
義兵将らにたいして高い職位を授ける措置をとったが、やがて義兵闘争が官軍の補助的役割をするようになると
義兵には厳しい統制と圧力がくわえられ、政府は義兵達が巡察使(道内の軍務を巡察する官職臨時軍司令官)及び
体察使(臨時宰相兼軍司令官)の指揮を受けるようにしたが、それらの指揮官は殆どの者が正確な指揮をなしえなかった。
戦争末期には、為政者たちは義兵の存在を十分留意していた。すなわちかれらは戦闘の経験を有し、武器を多数
備え、権力者にとって恐ろしい存在である事を認識し、義兵にたいする統率と圧力をより一層強化するとともに
迫害を加えた。そのため、義兵達は組織された部隊として機能できなくなった。
しかも、義兵部隊の核心的活動家はほとんどが被圧迫階級で、体を張って貢献したにも関わらず、政府はかれらを
正当に評価せず、戦争が終わると義兵たちはまたもや農奴的身分におとしめ、過酷な収奪を繰り返した。
義兵闘争の過程で官職を授けられた義兵将も、国家権力によって廃履のように捨てられるが、党派の政争に組み込まれて
権力者らの猜忌や謀略により迫害され、はては流配か死刑かの不遇な生涯を送らねばならなかったそうです。 qwe
542 :
名無しさん@1周年:2000/12/05(火) 02:14
480さん、指摘ありがとうございます。
蘇峰徳猪一郎著『近世日本国民史 第九巻 朝鮮役下巻』(時事通信社 昭和三十九年二月十日発行)によれば、
秀吉の死去後、五大老は朝鮮の諸将に撤兵を命を出し、順天、泗川では明軍は敗戦で戦意を失っていたため
早々と講和が締結されたらしいです。順天では提督の劉延が降倭の沙也可を使者として小西行長に和議を
持ちこみ、人質として劉天を差し出しました。朝鮮の資料「宣祖實緑」では順天城の攻防における劉延の
無能ぶりを「(略)提督事を行ふ、正に魂を奪はれたる人の如し。将卒皆軽侮す。適ゝ泗川の敗報を見、(略)
意を決して兵を退く。尤も痛泣を為す。(漢字を一部略字に変更してますので間違いがあればすいません)」
日本軍に手痛く迎撃されられた上に、泗川の敗報に報して日本諸将の撤兵意思を好材料として和を講じたの
でしょう。しかし、明と朝鮮の連合軍はそれを反故にして後に押し寄せることとなります。
泗川での講和
明側の資料、「両朝平攘録」には「(略)中路使督陣茅國科、撫臺の激を持し、金パクを賚して義弘に見え、動すに
大儀を以てし、諭すに利害を以てす。郭國安傍より之を賛す。義弘許諾す。」とあり、
日本側の資料「征韓録」には「十月八日に、徳水式部卿法印壽昌(略)、泗川の新塞に来て、殿下の厳命なりとて
和議の次第、貢税の品、掃陣の行を述らる。その掃陣の期限は、十一月十五日を期として、諸将相倶に釜山浦へ
(略)、然るに十月十三日に、参謀史龍添(略)、此の塞に来り、和議を請ふ。(略)彼の人質を請取(略)和議と相成りて
掃陣の催しあり」
ともかく、泗川の大勝によって明軍を和議に向かわせたのは資料から確実と思われます。
前のレスを補足すると和議を結んだから撤退したのではなく、撤退の過程で和議が結ばれた、という事ですね。
義兵のことですが、彼等の活発な活動が日本軍を苦しめたのは疑いありません。
ただ、支配者層は義兵の反日抗争を自らの階級支配の道具に組み入れようとやっきになったそうです。
金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)によれば、戦争初期においては義兵を官軍に引きこむため、
義兵将らにたいして高い職位を授ける措置をとったが、やがて義兵闘争が官軍の補助的役割をするようになると
義兵には厳しい統制と圧力がくわえられ、政府は義兵達が巡察使(道内の軍務を巡察する官職臨時軍司令官)及び
体察使(臨時宰相兼軍司令官)の指揮を受けるようにしたが、それらの指揮官は殆どの者が正確な指揮をなしえなかった。
戦争末期には、為政者たちは義兵の存在を十分留意していた。すなわちかれらは戦闘の経験を有し、武器を多数
備え、権力者にとって恐ろしい存在である事を認識し、義兵にたいする統率と圧力をより一層強化するとともに
迫害を加えた。そのため、義兵達は組織された部隊として機能できなくなった。
しかも、義兵部隊の核心的活動家はほとんどが被圧迫階級で、体を張って貢献したにも関わらず、政府はかれらを
正当に評価せず、戦争が終わると義兵たちはまたもや農奴的身分におとしめ、過酷な収奪を繰り返した。
義兵闘争の過程で官職を授けられた義兵将も、国家権力によって廃履のように捨てられるが、党派の政争に組み込まれて
権力者らの猜忌や謀略により迫害され、はては流配か死刑かの不遇な生涯を送らねばならなかったそうです。
543 :
名無しさん@1周年:2000/12/05(火) 02:14
480さん、指摘ありがとうございます。
蘇峰徳猪一郎著『近世日本国民史 第九巻 朝鮮役下巻』(時事通信社 昭和三十九年二月十日発行)によれば、
秀吉の死去後、五大老は朝鮮の諸将に撤兵を命を出し、順天、泗川では明軍は敗戦で戦意を失っていたため
早々と講和が締結されたらしいです。順天では提督の劉延が降倭の沙也可を使者として小西行長に和議を
持ちこみ、人質として劉天を差し出しました。朝鮮の資料「宣祖實緑」では順天城の攻防における劉延の
無能ぶりを「(略)提督事を行ふ、正に魂を奪はれたる人の如し。将卒皆軽侮す。適ゝ泗川の敗報を見、(略)
意を決して兵を退く。尤も痛泣を為す。(漢字を一部略字に変更してますので間違いがあればすいません)」
日本軍に手痛く迎撃されられた上に、泗川の敗報に報して日本諸将の撤兵意思を好材料として和を講じたの
でしょう。しかし、明と朝鮮の連合軍はそれを反故にして後に押し寄せることとなります。
泗川での講和
明側の資料、「両朝平攘録」には「(略)中路使督陣茅國科、撫臺の激を持し、金パクを賚して義弘に見え、動すに
大儀を以てし、諭すに利害を以てす。郭國安傍より之を賛す。義弘許諾す。」とあり、
日本側の資料「征韓録」には「十月八日に、徳水式部卿法印壽昌(略)、泗川の新塞に来て、殿下の厳命なりとて
和議の次第、貢税の品、掃陣の行を述らる。その掃陣の期限は、十一月十五日を期として、諸将相倶に釜山浦へ
(略)、然るに十月十三日に、参謀史龍添(略)、此の塞に来り、和議を請ふ。(略)彼の人質を請取(略)和議と相成りて
掃陣の催しあり」
ともかく、泗川の大勝によって明軍を和議に向かわせたのは資料から確実と思われます。
前のレスを補足すると和議を結んだから撤退したのではなく、撤退の過程で和議が結ばれた、という事ですね。
義兵のことですが、彼等の活発な活動が日本軍を苦しめたのは疑いありません。
ただ、支配者層は義兵の反日抗争を自らの階級支配の道具に組み入れようとやっきになったそうです。
金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)によれば、戦争初期においては義兵を官軍に引きこむため、
義兵将らにたいして高い職位を授ける措置をとったが、やがて義兵闘争が官軍の補助的役割をするようになると
義兵には厳しい統制と圧力がくわえられ、政府は義兵達が巡察使(道内の軍務を巡察する官職臨時軍司令官)及び
体察使(臨時宰相兼軍司令官)の指揮を受けるようにしたが、それらの指揮官は殆どの者が正確な指揮をなしえなかった。
戦争末期には、為政者たちは義兵の存在を十分留意していた。すなわちかれらは戦闘の経験を有し、武器を多数
備え、権力者にとって恐ろしい存在である事を認識し、義兵にたいする統率と圧力をより一層強化するとともに
迫害を加えた。そのため、義兵達は組織された部隊として機能できなくなった。
しかも、義兵部隊の核心的活動家はほとんどが被圧迫階級で、体を張って貢献したにも関わらず、政府はかれらを
正当に評価せず、戦争が終わると義兵たちはまたもや農奴的身分におとしめ、過酷な収奪を繰り返した。
義兵闘争の過程で官職を授けられた義兵将も、国家権力によって廃履のように捨てられるが、党派の政争に組み込まれて
権力者らの猜忌や謀略により迫害され、はては流配か死刑かの不遇な生涯を送らねばならなかったそうです。 sw
544 :
名無しさん@1周年:2000/12/05(火) 02:15
480さん、指摘ありがとうございます。
蘇峰徳猪一郎著『近世日本国民史 第九巻 朝鮮役下巻』(時事通信社 昭和三十九年二月十日発行)によれば、
秀吉の死去後、五大老は朝鮮の諸将に撤兵を命を出し、順天、泗川では明軍は敗戦で戦意を失っていたため
早々と講和が締結されたらしいです。順天では提督の劉延が降倭の沙也可を使者として小西行長に和議を
持ちこみ、人質として劉天を差し出しました。朝鮮の資料「宣祖實緑」では順天城の攻防における劉延の
無能ぶりを「(略)提督事を行ふ、正に魂を奪はれたる人の如し。将卒皆軽侮す。適ゝ泗川の敗報を見、(略)
意を決して兵を退く。尤も痛泣を為す。(漢字を一部略字に変更してますので間違いがあればすいません)」
日本軍に手痛く迎撃されられた上に、泗川の敗報に報して日本諸将の撤兵意思を好材料として和を講じたの
でしょう。しかし、明と朝鮮の連合軍はそれを反故にして後に押し寄せることとなります。
泗川での講和
明側の資料、「両朝平攘録」には「(略)中路使督陣茅國科、撫臺の激を持し、金パクを賚して義弘に見え、動すに
大儀を以てし、諭すに利害を以てす。郭國安傍より之を賛す。義弘許諾す。」とあり、
日本側の資料「征韓録」には「十月八日に、徳水式部卿法印壽昌(略)、泗川の新塞に来て、殿下の厳命なりとて
和議の次第、貢税の品、掃陣の行を述らる。その掃陣の期限は、十一月十五日を期として、諸将相倶に釜山浦へ
(略)、然るに十月十三日に、参謀史龍添(略)、此の塞に来り、和議を請ふ。(略)彼の人質を請取(略)和議と相成りて
掃陣の催しあり」
ともかく、泗川の大勝によって明軍を和議に向かわせたのは資料から確実と思われます。
前のレスを補足すると和議を結んだから撤退したのではなく、撤退の過程で和議が結ばれた、という事ですね。
義兵のことですが、彼等の活発な活動が日本軍を苦しめたのは疑いありません。
ただ、支配者層は義兵の反日抗争を自らの階級支配の道具に組み入れようとやっきになったそうです。
金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)によれば、戦争初期においては義兵を官軍に引きこむため、
義兵将らにたいして高い職位を授ける措置をとったが、やがて義兵闘争が官軍の補助的役割をするようになると
義兵には厳しい統制と圧力がくわえられ、政府は義兵達が巡察使(道内の軍務を巡察する官職臨時軍司令官)及び
体察使(臨時宰相兼軍司令官)の指揮を受けるようにしたが、それらの指揮官は殆どの者が正確な指揮をなしえなかった。
戦争末期には、為政者たちは義兵の存在を十分留意していた。すなわちかれらは戦闘の経験を有し、武器を多数
備え、権力者にとって恐ろしい存在である事を認識し、義兵にたいする統率と圧力をより一層強化するとともに
迫害を加えた。そのため、義兵達は組織された部隊として機能できなくなった。
しかも、義兵部隊の核心的活動家はほとんどが被圧迫階級で、体を張って貢献したにも関わらず、政府はかれらを
正当に評価せず、戦争が終わると義兵たちはまたもや農奴的身分におとしめ、過酷な収奪を繰り返した。
義兵闘争の過程で官職を授けられた義兵将も、国家権力によって廃履のように捨てられるが、党派の政争に組み込まれて
権力者らの猜忌や謀略により迫害され、はては流配か死刑かの不遇な生涯を送らねばならなかったそうです。 sw
545 :
名無しさん@1周年:2000/12/05(火) 02:15
480さん、指摘ありがとうございます。
蘇峰徳猪一郎著『近世日本国民史 第九巻 朝鮮役下巻』(時事通信社 昭和三十九年二月十日発行)によれば、
秀吉の死去後、五大老は朝鮮の諸将に撤兵を命を出し、順天、泗川では明軍は敗戦で戦意を失っていたため
早々と講和が締結されたらしいです。順天では提督の劉延が降倭の沙也可を使者として小西行長に和議を
持ちこみ、人質として劉天を差し出しました。朝鮮の資料「宣祖實緑」では順天城の攻防における劉延の
無能ぶりを「(略)提督事を行ふ、正に魂を奪はれたる人の如し。将卒皆軽侮す。適ゝ泗川の敗報を見、(略)
意を決して兵を退く。尤も痛泣を為す。(漢字を一部略字に変更してますので間違いがあればすいません)」
日本軍に手痛く迎撃されられた上に、泗川の敗報に報して日本諸将の撤兵意思を好材料として和を講じたの
でしょう。しかし、明と朝鮮の連合軍はそれを反故にして後に押し寄せることとなります。
泗川での講和
明側の資料、「両朝平攘録」には「(略)中路使督陣茅國科、撫臺の激を持し、金パクを賚して義弘に見え、動すに
大儀を以てし、諭すに利害を以てす。郭國安傍より之を賛す。義弘許諾す。」とあり、
日本側の資料「征韓録」には「十月八日に、徳水式部卿法印壽昌(略)、泗川の新塞に来て、殿下の厳命なりとて
和議の次第、貢税の品、掃陣の行を述らる。その掃陣の期限は、十一月十五日を期として、諸将相倶に釜山浦へ
(略)、然るに十月十三日に、参謀史龍添(略)、此の塞に来り、和議を請ふ。(略)彼の人質を請取(略)和議と相成りて
掃陣の催しあり」
ともかく、泗川の大勝によって明軍を和議に向かわせたのは資料から確実と思われます。
前のレスを補足すると和議を結んだから撤退したのではなく、撤退の過程で和議が結ばれた、という事ですね。
義兵のことですが、彼等の活発な活動が日本軍を苦しめたのは疑いありません。
ただ、支配者層は義兵の反日抗争を自らの階級支配の道具に組み入れようとやっきになったそうです。
金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)によれば、戦争初期においては義兵を官軍に引きこむため、
義兵将らにたいして高い職位を授ける措置をとったが、やがて義兵闘争が官軍の補助的役割をするようになると
義兵には厳しい統制と圧力がくわえられ、政府は義兵達が巡察使(道内の軍務を巡察する官職臨時軍司令官)及び
体察使(臨時宰相兼軍司令官)の指揮を受けるようにしたが、それらの指揮官は殆どの者が正確な指揮をなしえなかった。
戦争末期には、為政者たちは義兵の存在を十分留意していた。すなわちかれらは戦闘の経験を有し、武器を多数
備え、権力者にとって恐ろしい存在である事を認識し、義兵にたいする統率と圧力をより一層強化するとともに
迫害を加えた。そのため、義兵達は組織された部隊として機能できなくなった。
しかも、義兵部隊の核心的活動家はほとんどが被圧迫階級で、体を張って貢献したにも関わらず、政府はかれらを
正当に評価せず、戦争が終わると義兵たちはまたもや農奴的身分におとしめ、過酷な収奪を繰り返した。
義兵闘争の過程で官職を授けられた義兵将も、国家権力によって廃履のように捨てられるが、党派の政争に組み込まれて
権力者らの猜忌や謀略により迫害され、はては流配か死刑かの不遇な生涯を送らねばならなかったそうです。
546 :
名無しさん@1周年:2000/12/05(火) 02:16
480さん、指摘ありがとうございます。
蘇峰徳猪一郎著『近世日本国民史 第九巻 朝鮮役下巻』(時事通信社 昭和三十九年二月十日発行)によれば、
秀吉の死去後、五大老は朝鮮の諸将に撤兵を命を出し、順天、泗川では明軍は敗戦で戦意を失っていたため
早々と講和が締結されたらしいです。順天では提督の劉延が降倭の沙也可を使者として小西行長に和議を
持ちこみ、人質として劉天を差し出しました。朝鮮の資料「宣祖實緑」では順天城の攻防における劉延の
無能ぶりを「(略)提督事を行ふ、正に魂を奪はれたる人の如し。将卒皆軽侮す。適ゝ泗川の敗報を見、(略)
意を決して兵を退く。尤も痛泣を為す。(漢字を一部略字に変更してますので間違いがあればすいません)」
日本軍に手痛く迎撃されられた上に、泗川の敗報に報して日本諸将の撤兵意思を好材料として和を講じたの
でしょう。しかし、明と朝鮮の連合軍はそれを反故にして後に押し寄せることとなります。
泗川での講和
明側の資料、「両朝平攘録」には「(略)中路使督陣茅國科、撫臺の激を持し、金パクを賚して義弘に見え、動すに
大儀を以てし、諭すに利害を以てす。郭國安傍より之を賛す。義弘許諾す。」とあり、
日本側の資料「征韓録」には「十月八日に、徳水式部卿法印壽昌(略)、泗川の新塞に来て、殿下の厳命なりとて
和議の次第、貢税の品、掃陣の行を述らる。その掃陣の期限は、十一月十五日を期として、諸将相倶に釜山浦へ
(略)、然るに十月十三日に、参謀史龍添(略)、此の塞に来り、和議を請ふ。(略)彼の人質を請取(略)和議と相成りて
掃陣の催しあり」
ともかく、泗川の大勝によって明軍を和議に向かわせたのは資料から確実と思われます。
前のレスを補足すると和議を結んだから撤退したのではなく、撤退の過程で和議が結ばれた、という事ですね。
義兵のことですが、彼等の活発な活動が日本軍を苦しめたのは疑いありません。
ただ、支配者層は義兵の反日抗争を自らの階級支配の道具に組み入れようとやっきになったそうです。
金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)によれば、戦争初期においては義兵を官軍に引きこむため、
義兵将らにたいして高い職位を授ける措置をとったが、やがて義兵闘争が官軍の補助的役割をするようになると
義兵には厳しい統制と圧力がくわえられ、政府は義兵達が巡察使(道内の軍務を巡察する官職臨時軍司令官)及び
体察使(臨時宰相兼軍司令官)の指揮を受けるようにしたが、それらの指揮官は殆どの者が正確な指揮をなしえなかった。
戦争末期には、為政者たちは義兵の存在を十分留意していた。すなわちかれらは戦闘の経験を有し、武器を多数
備え、権力者にとって恐ろしい存在である事を認識し、義兵にたいする統率と圧力をより一層強化するとともに
迫害を加えた。そのため、義兵達は組織された部隊として機能できなくなった。
しかも、義兵部隊の核心的活動家はほとんどが被圧迫階級で、体を張って貢献したにも関わらず、政府はかれらを
正当に評価せず、戦争が終わると義兵たちはまたもや農奴的身分におとしめ、過酷な収奪を繰り返した。
義兵闘争の過程で官職を授けられた義兵将も、国家権力によって廃履のように捨てられるが、党派の政争に組み込まれて
権力者らの猜忌や謀略により迫害され、はては流配か死刑かの不遇な生涯を送らねばならなかったそうです。
1
547 :
名無しさん@1周年:2000/12/05(火) 02:16
480さん、指摘ありがとうございます。
蘇峰徳猪一郎著『近世日本国民史 第九巻 朝鮮役下巻』(時事通信社 昭和三十九年二月十日発行)によれば、
秀吉の死去後、五大老は朝鮮の諸将に撤兵を命を出し、順天、泗川では明軍は敗戦で戦意を失っていたため
早々と講和が締結されたらしいです。順天では提督の劉延が降倭の沙也可を使者として小西行長に和議を
持ちこみ、人質として劉天を差し出しました。朝鮮の資料「宣祖實緑」では順天城の攻防における劉延の
無能ぶりを「(略)提督事を行ふ、正に魂を奪はれたる人の如し。将卒皆軽侮す。適ゝ泗川の敗報を見、(略)
意を決して兵を退く。尤も痛泣を為す。(漢字を一部略字に変更してますので間違いがあればすいません)」
日本軍に手痛く迎撃されられた上に、泗川の敗報に報して日本諸将の撤兵意思を好材料として和を講じたの
でしょう。しかし、明と朝鮮の連合軍はそれを反故にして後に押し寄せることとなります。
泗川での講和
明側の資料、「両朝平攘録」には「(略)中路使督陣茅國科、撫臺の激を持し、金パクを賚して義弘に見え、動すに
大儀を以てし、諭すに利害を以てす。郭國安傍より之を賛す。義弘許諾す。」とあり、
日本側の資料「征韓録」には「十月八日に、徳水式部卿法印壽昌(略)、泗川の新塞に来て、殿下の厳命なりとて
和議の次第、貢税の品、掃陣の行を述らる。その掃陣の期限は、十一月十五日を期として、諸将相倶に釜山浦へ
(略)、然るに十月十三日に、参謀史龍添(略)、此の塞に来り、和議を請ふ。(略)彼の人質を請取(略)和議と相成りて
掃陣の催しあり」
ともかく、泗川の大勝によって明軍を和議に向かわせたのは資料から確実と思われます。
前のレスを補足すると和議を結んだから撤退したのではなく、撤退の過程で和議が結ばれた、という事ですね。
義兵のことですが、彼等の活発な活動が日本軍を苦しめたのは疑いありません。
ただ、支配者層は義兵の反日抗争を自らの階級支配の道具に組み入れようとやっきになったそうです。
金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)によれば、戦争初期においては義兵を官軍に引きこむため、
義兵将らにたいして高い職位を授ける措置をとったが、やがて義兵闘争が官軍の補助的役割をするようになると
義兵には厳しい統制と圧力がくわえられ、政府は義兵達が巡察使(道内の軍務を巡察する官職臨時軍司令官)及び
体察使(臨時宰相兼軍司令官)の指揮を受けるようにしたが、それらの指揮官は殆どの者が正確な指揮をなしえなかった。
戦争末期には、為政者たちは義兵の存在を十分留意していた。すなわちかれらは戦闘の経験を有し、武器を多数
備え、権力者にとって恐ろしい存在である事を認識し、義兵にたいする統率と圧力をより一層強化するとともに
迫害を加えた。そのため、義兵達は組織された部隊として機能できなくなった。
しかも、義兵部隊の核心的活動家はほとんどが被圧迫階級で、体を張って貢献したにも関わらず、政府はかれらを
正当に評価せず、戦争が終わると義兵たちはまたもや農奴的身分におとしめ、過酷な収奪を繰り返した。
義兵闘争の過程で官職を授けられた義兵将も、国家権力によって廃履のように捨てられるが、党派の政争に組み込まれて
権力者らの猜忌や謀略により迫害され、はては流配か死刑かの不遇な生涯を送らねばならなかったそうです。
548 :
名無しさん@1周年:2000/12/05(火) 02:17
480さん、指摘ありがとうございます。
蘇峰徳猪一郎著『近世日本国民史 第九巻 朝鮮役下巻』(時事通信社 昭和三十九年二月十日発行)によれば、
秀吉の死去後、五大老は朝鮮の諸将に撤兵を命を出し、順天、泗川では明軍は敗戦で戦意を失っていたため
早々と講和が締結されたらしいです。順天では提督の劉延が降倭の沙也可を使者として小西行長に和議を
持ちこみ、人質として劉天を差し出しました。朝鮮の資料「宣祖實緑」では順天城の攻防における劉延の
無能ぶりを「(略)提督事を行ふ、正に魂を奪はれたる人の如し。将卒皆軽侮す。適ゝ泗川の敗報を見、(略)
意を決して兵を退く。尤も痛泣を為す。(漢字を一部略字に変更してますので間違いがあればすいません)」
日本軍に手痛く迎撃されられた上に、泗川の敗報に報して日本諸将の撤兵意思を好材料として和を講じたの
でしょう。しかし、明と朝鮮の連合軍はそれを反故にして後に押し寄せることとなります。
泗川での講和
明側の資料、「両朝平攘録」には「(略)中路使督陣茅國科、撫臺の激を持し、金パクを賚して義弘に見え、動すに
大儀を以てし、諭すに利害を以てす。郭國安傍より之を賛す。義弘許諾す。」とあり、
日本側の資料「征韓録」には「十月八日に、徳水式部卿法印壽昌(略)、泗川の新塞に来て、殿下の厳命なりとて
和議の次第、貢税の品、掃陣の行を述らる。その掃陣の期限は、十一月十五日を期として、諸将相倶に釜山浦へ
(略)、然るに十月十三日に、参謀史龍添(略)、此の塞に来り、和議を請ふ。(略)彼の人質を請取(略)和議と相成りて
掃陣の催しあり」
ともかく、泗川の大勝によって明軍を和議に向かわせたのは資料から確実と思われます。
前のレスを補足すると和議を結んだから撤退したのではなく、撤退の過程で和議が結ばれた、という事ですね。
義兵のことですが、彼等の活発な活動が日本軍を苦しめたのは疑いありません。
ただ、支配者層は義兵の反日抗争を自らの階級支配の道具に組み入れようとやっきになったそうです。
金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)によれば、戦争初期においては義兵を官軍に引きこむため、
義兵将らにたいして高い職位を授ける措置をとったが、やがて義兵闘争が官軍の補助的役割をするようになると
義兵には厳しい統制と圧力がくわえられ、政府は義兵達が巡察使(道内の軍務を巡察する官職臨時軍司令官)及び
体察使(臨時宰相兼軍司令官)の指揮を受けるようにしたが、それらの指揮官は殆どの者が正確な指揮をなしえなかった。
戦争末期には、為政者たちは義兵の存在を十分留意していた。すなわちかれらは戦闘の経験を有し、武器を多数
備え、権力者にとって恐ろしい存在である事を認識し、義兵にたいする統率と圧力をより一層強化するとともに
迫害を加えた。そのため、義兵達は組織された部隊として機能できなくなった。
しかも、義兵部隊の核心的活動家はほとんどが被圧迫階級で、体を張って貢献したにも関わらず、政府はかれらを
正当に評価せず、戦争が終わると義兵たちはまたもや農奴的身分におとしめ、過酷な収奪を繰り返した。
義兵闘争の過程で官職を授けられた義兵将も、国家権力によって廃履のように捨てられるが、党派の政争に組み込まれて
権力者らの猜忌や謀略により迫害され、はては流配か死刑かの不遇な生涯を送らねばならなかったそうです。 wer
549 :
名無しさん@1周年:2000/12/05(火) 02:18
480さん、指摘ありがとうございます。 ftyrwfffgh
蘇峰徳猪一郎著『近世日本国民史 第九巻 朝鮮役下巻』(時事通信社 昭和三十九年二月十日発行)によれば、
秀吉の死去後、五大老は朝鮮の諸将に撤兵を命を出し、順天、泗川では明軍は敗戦で戦意を失っていたため
早々と講和が締結されたらしいです。順天では提督の劉延が降倭の沙也可を使者として小西行長に和議を
持ちこみ、人質として劉天を差し出しました。朝鮮の資料「宣祖實緑」では順天城の攻防における劉延の
無能ぶりを「(略)提督事を行ふ、正に魂を奪はれたる人の如し。将卒皆軽侮す。適ゝ泗川の敗報を見、(略)
意を決して兵を退く。尤も痛泣を為す。(漢字を一部略字に変更してますので間違いがあればすいません)」
日本軍に手痛く迎撃されられた上に、泗川の敗報に報して日本諸将の撤兵意思を好材料として和を講じたの
でしょう。しかし、明と朝鮮の連合軍はそれを反故にして後に押し寄せることとなります。
泗川での講和
明側の資料、「両朝平攘録」には「(略)中路使督陣茅國科、撫臺の激を持し、金パクを賚して義弘に見え、動すに
大儀を以てし、諭すに利害を以てす。郭國安傍より之を賛す。義弘許諾す。」とあり、
日本側の資料「征韓録」には「十月八日に、徳水式部卿法印壽昌(略)、泗川の新塞に来て、殿下の厳命なりとて
和議の次第、貢税の品、掃陣の行を述らる。その掃陣の期限は、十一月十五日を期として、諸将相倶に釜山浦へ
(略)、然るに十月十三日に、参謀史龍添(略)、此の塞に来り、和議を請ふ。(略)彼の人質を請取(略)和議と相成りて
掃陣の催しあり」
ともかく、泗川の大勝によって明軍を和議に向かわせたのは資料から確実と思われます。
前のレスを補足すると和議を結んだから撤退したのではなく、撤退の過程で和議が結ばれた、という事ですね。
義兵のことですが、彼等の活発な活動が日本軍を苦しめたのは疑いありません。
ただ、支配者層は義兵の反日抗争を自らの階級支配の道具に組み入れようとやっきになったそうです。
金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)によれば、戦争初期においては義兵を官軍に引きこむため、
義兵将らにたいして高い職位を授ける措置をとったが、やがて義兵闘争が官軍の補助的役割をするようになると
義兵には厳しい統制と圧力がくわえられ、政府は義兵達が巡察使(道内の軍務を巡察する官職臨時軍司令官)及び
体察使(臨時宰相兼軍司令官)の指揮を受けるようにしたが、それらの指揮官は殆どの者が正確な指揮をなしえなかった。
戦争末期には、為政者たちは義兵の存在を十分留意していた。すなわちかれらは戦闘の経験を有し、武器を多数
備え、権力者にとって恐ろしい存在である事を認識し、義兵にたいする統率と圧力をより一層強化するとともに
迫害を加えた。そのため、義兵達は組織された部隊として機能できなくなった。
しかも、義兵部隊の核心的活動家はほとんどが被圧迫階級で、体を張って貢献したにも関わらず、政府はかれらを
正当に評価せず、戦争が終わると義兵たちはまたもや農奴的身分におとしめ、過酷な収奪を繰り返した。
義兵闘争の過程で官職を授けられた義兵将も、国家権力によって廃履のように捨てられるが、党派の政争に組み込まれて
権力者らの猜忌や謀略により迫害され、はては流配か死刑かの不遇な生涯を送らねばならなかったそうです。 wer
550 :
名無しさん@1周年:2000/12/05(火) 02:18
480さん、指摘ありがとうございます。
蘇峰徳猪一郎著『近世日本国民史 第九巻 朝鮮役下巻』(時事通信社 昭和三十九年二月十日発行)によれば、
秀吉の死去後、五大老は朝鮮の諸将に撤兵を命を出し、順天、泗川では明軍は敗戦で戦意を失っていたため
早々と講和が締結されたらしいです。順天では提督の劉延が降倭の沙也可を使者として小西行長に和議を
持ちこみ、人質として劉天を差し出しました。朝鮮の資料「宣祖實緑」では順天城の攻防における劉延の
無能ぶりを「(略)提督事を行ふ、正に魂を奪はれたる人の如し。将卒皆軽侮す。適ゝ泗川の敗報を見、(略)
意を決して兵を退く。尤も痛泣を為す。(漢字を一部略字に変更してますので間違いがあればすいません)」
日本軍に手痛く迎撃されられた上に、泗川の敗報に報して日本諸将の撤兵意思を好材料として和を講じたの
でしょう。しかし、明と朝鮮の連合軍はそれを反故にして後に押し寄せることとなります。
泗川での講和
明側の資料、「両朝平攘録」には「(略)中路使督陣茅國科、撫臺の激を持し、金パクを賚して義弘に見え、動すに
大儀を以てし、諭すに利害を以てす。郭國安傍より之を賛す。義弘許諾す。」とあり、
日本側の資料「征韓録」には「十月八日に、徳水式部卿法印壽昌(略)、泗川の新塞に来て、殿下の厳命なりとて
和議の次第、貢税の品、掃陣の行を述らる。その掃陣の期限は、十一月十五日を期として、諸将相倶に釜山浦へ
(略)、然るに十月十三日に、参謀史龍添(略)、此の塞に来り、和議を請ふ。(略)彼の人質を請取(略)和議と相成りて
掃陣の催しあり」
ともかく、泗川の大勝によって明軍を和議に向かわせたのは資料から確実と思われます。
前のレスを補足すると和議を結んだから撤退したのではなく、撤退の過程で和議が結ばれた、という事ですね。
義兵のことですが、彼等の活発な活動が日本軍を苦しめたのは疑いありません。
ただ、支配者層は義兵の反日抗争を自らの階級支配の道具に組み入れようとやっきになったそうです。
金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)によれば、戦争初期においては義兵を官軍に引きこむため、
義兵将らにたいして高い職位を授ける措置をとったが、やがて義兵闘争が官軍の補助的役割をするようになると
義兵には厳しい統制と圧力がくわえられ、政府は義兵達が巡察使(道内の軍務を巡察する官職臨時軍司令官)及び
体察使(臨時宰相兼軍司令官)の指揮を受けるようにしたが、それらの指揮官は殆どの者が正確な指揮をなしえなかった。
戦争末期には、為政者たちは義兵の存在を十分留意していた。すなわちかれらは戦闘の経験を有し、武器を多数
備え、権力者にとって恐ろしい存在である事を認識し、義兵にたいする統率と圧力をより一層強化するとともに
迫害を加えた。そのため、義兵達は組織された部隊として機能できなくなった。
しかも、義兵部隊の核心的活動家はほとんどが被圧迫階級で、体を張って貢献したにも関わらず、政府はかれらを
正当に評価せず、戦争が終わると義兵たちはまたもや農奴的身分におとしめ、過酷な収奪を繰り返した。
義兵闘争の過程で官職を授けられた義兵将も、国家権力によって廃履のように捨てられるが、党派の政争に組み込まれて
権力者らの猜忌や謀略により迫害され、はては流配か死刑かの不遇な生涯を送らねばならなかったそうです。
551 :
名無しさん@1周年:2000/12/05(火) 02:18
480さん、指摘ありがとうございます。
蘇峰徳猪一郎著『近世日本国民史 第九巻 朝鮮役下巻』(時事通信社 昭和三十九年二月十日発行)によれば、
秀吉の死去後、五大老は朝鮮の諸将に撤兵を命を出し、順天、泗川では明軍は敗戦で戦意を失っていたため
早々と講和が締結されたらしいです。順天では提督の劉延が降倭の沙也可を使者として小西行長に和議を
持ちこみ、人質として劉天を差し出しました。朝鮮の資料「宣祖實緑」では順天城の攻防における劉延の
無能ぶりを「(略)提督事を行ふ、正に魂を奪はれたる人の如し。将卒皆軽侮す。適ゝ泗川の敗報を見、(略)
意を決して兵を退く。尤も痛泣を為す。(漢字を一部略字に変更してますので間違いがあればすいません)」
日本軍に手痛く迎撃されられた上に、泗川の敗報に報して日本諸将の撤兵意思を好材料として和を講じたの
でしょう。しかし、明と朝鮮の連合軍はそれを反故にして後に押し寄せることとなります。
泗川での講和
明側の資料、「両朝平攘録」には「(略)中路使督陣茅國科、撫臺の激を持し、金パクを賚して義弘に見え、動すに
大儀を以てし、諭すに利害を以てす。郭國安傍より之を賛す。義弘許諾す。」とあり、
日本側の資料「征韓録」には「十月八日に、徳水式部卿法印壽昌(略)、泗川の新塞に来て、殿下の厳命なりとて
和議の次第、貢税の品、掃陣の行を述らる。その掃陣の期限は、十一月十五日を期として、諸将相倶に釜山浦へ
(略)、然るに十月十三日に、参謀史龍添(略)、此の塞に来り、和議を請ふ。(略)彼の人質を請取(略)和議と相成りて
掃陣の催しあり」
ともかく、泗川の大勝によって明軍を和議に向かわせたのは資料から確実と思われます。
前のレスを補足すると和議を結んだから撤退したのではなく、撤退の過程で和議が結ばれた、という事ですね。
義兵のことですが、彼等の活発な活動が日本軍を苦しめたのは疑いありません。
ただ、支配者層は義兵の反日抗争を自らの階級支配の道具に組み入れようとやっきになったそうです。
金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)によれば、戦争初期においては義兵を官軍に引きこむため、
義兵将らにたいして高い職位を授ける措置をとったが、やがて義兵闘争が官軍の補助的役割をするようになると
義兵には厳しい統制と圧力がくわえられ、政府は義兵達が巡察使(道内の軍務を巡察する官職臨時軍司令官)及び
体察使(臨時宰相兼軍司令官)の指揮を受けるようにしたが、それらの指揮官は殆どの者が正確な指揮をなしえなかった。
戦争末期には、為政者たちは義兵の存在を十分留意していた。すなわちかれらは戦闘の経験を有し、武器を多数
備え、権力者にとって恐ろしい存在である事を認識し、義兵にたいする統率と圧力をより一層強化するとともに
迫害を加えた。そのため、義兵達は組織された部隊として機能できなくなった。
しかも、義兵部隊の核心的活動家はほとんどが被圧迫階級で、体を張って貢献したにも関わらず、政府はかれらを
正当に評価せず、戦争が終わると義兵たちはまたもや農奴的身分におとしめ、過酷な収奪を繰り返した。
義兵闘争の過程で官職を授けられた義兵将も、国家権力によって廃履のように捨てられるが、党派の政争に組み込まれて
権力者らの猜忌や謀略により迫害され、はては流配か死刑かの不遇な生涯を送らねばならなかったそうです。 78
552 :
名無しさん@1周年:2000/12/05(火) 02:18
480さん、指摘ありがとうございます。
蘇峰徳猪一郎著『近世日本国民史 第九巻 朝鮮役下巻』(時事通信社 昭和三十九年二月十日発行)によれば、
秀吉の死去後、五大老は朝鮮の諸将に撤兵を命を出し、順天、泗川では明軍は敗戦で戦意を失っていたため
早々と講和が締結されたらしいです。順天では提督の劉延が降倭の沙也可を使者として小西行長に和議を
持ちこみ、人質として劉天を差し出しました。朝鮮の資料「宣祖實緑」では順天城の攻防における劉延の
無能ぶりを「(略)提督事を行ふ、正に魂を奪はれたる人の如し。将卒皆軽侮す。適ゝ泗川の敗報を見、(略)
意を決して兵を退く。尤も痛泣を為す。(漢字を一部略字に変更してますので間違いがあればすいません)」
日本軍に手痛く迎撃されられた上に、泗川の敗報に報して日本諸将の撤兵意思を好材料として和を講じたの
でしょう。しかし、明と朝鮮の連合軍はそれを反故にして後に押し寄せることとなります。
泗川での講和
明側の資料、「両朝平攘録」には「(略)中路使督陣茅國科、撫臺の激を持し、金パクを賚して義弘に見え、動すに
大儀を以てし、諭すに利害を以てす。郭國安傍より之を賛す。義弘許諾す。」とあり、
日本側の資料「征韓録」には「十月八日に、徳水式部卿法印壽昌(略)、泗川の新塞に来て、殿下の厳命なりとて
和議の次第、貢税の品、掃陣の行を述らる。その掃陣の期限は、十一月十五日を期として、諸将相倶に釜山浦へ
(略)、然るに十月十三日に、参謀史龍添(略)、此の塞に来り、和議を請ふ。(略)彼の人質を請取(略)和議と相成りて
掃陣の催しあり」
ともかく、泗川の大勝によって明軍を和議に向かわせたのは資料から確実と思われます。
前のレスを補足すると和議を結んだから撤退したのではなく、撤退の過程で和議が結ばれた、という事ですね。
義兵のことですが、彼等の活発な活動が日本軍を苦しめたのは疑いありません。
ただ、支配者層は義兵の反日抗争を自らの階級支配の道具に組み入れようとやっきになったそうです。
金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)によれば、戦争初期においては義兵を官軍に引きこむため、
義兵将らにたいして高い職位を授ける措置をとったが、やがて義兵闘争が官軍の補助的役割をするようになると
義兵には厳しい統制と圧力がくわえられ、政府は義兵達が巡察使(道内の軍務を巡察する官職臨時軍司令官)及び
体察使(臨時宰相兼軍司令官)の指揮を受けるようにしたが、それらの指揮官は殆どの者が正確な指揮をなしえなかった。
戦争末期には、為政者たちは義兵の存在を十分留意していた。すなわちかれらは戦闘の経験を有し、武器を多数
備え、権力者にとって恐ろしい存在である事を認識し、義兵にたいする統率と圧力をより一層強化するとともに
迫害を加えた。そのため、義兵達は組織された部隊として機能できなくなった。
しかも、義兵部隊の核心的活動家はほとんどが被圧迫階級で、体を張って貢献したにも関わらず、政府はかれらを
正当に評価せず、戦争が終わると義兵たちはまたもや農奴的身分におとしめ、過酷な収奪を繰り返した。
義兵闘争の過程で官職を授けられた義兵将も、国家権力によって廃履のように捨てられるが、党派の政争に組み込まれて
権力者らの猜忌や謀略により迫害され、はては流配か死刑かの不遇な生涯を送らねばならなかったそうです。
553 :
名無しさん@1周年:2000/12/05(火) 02:19
480さん、指摘ありがとうございます。
蘇峰徳猪一郎著『近世日本国民史 第九巻 朝鮮役下巻』(時事通信社 昭和三十九年二月十日発行)によれば、
秀吉の死去後、五大老は朝鮮の諸将に撤兵を命を出し、順天、泗川では明軍は敗戦で戦意を失っていたため
早々と講和が締結されたらしいです。順天では提督の劉延が降倭の沙也可を使者として小西行長に和議を
持ちこみ、人質として劉天を差し出しました。朝鮮の資料「宣祖實緑」では順天城の攻防における劉延の
無能ぶりを「(略)提督事を行ふ、正に魂を奪はれたる人の如し。将卒皆軽侮す。適ゝ泗川の敗報を見、(略)
意を決して兵を退く。尤も痛泣を為す。(漢字を一部略字に変更してますので間違いがあればすいません)」
日本軍に手痛く迎撃されられた上に、泗川の敗報に報して日本諸将の撤兵意思を好材料として和を講じたの
でしょう。しかし、明と朝鮮の連合軍はそれを反故にして後に押し寄せることとなります。
泗川での講和
明側の資料、「両朝平攘録」には「(略)中路使督陣茅國科、撫臺の激を持し、金パクを賚して義弘に見え、動すに
大儀を以てし、諭すに利害を以てす。郭國安傍より之を賛す。義弘許諾す。」とあり、
日本側の資料「征韓録」には「十月八日に、徳水式部卿法印壽昌(略)、泗川の新塞に来て、殿下の厳命なりとて
和議の次第、貢税の品、掃陣の行を述らる。その掃陣の期限は、十一月十五日を期として、諸将相倶に釜山浦へ
(略)、然るに十月十三日に、参謀史龍添(略)、此の塞に来り、和議を請ふ。(略)彼の人質を請取(略)和議と相成りて
掃陣の催しあり」
ともかく、泗川の大勝によって明軍を和議に向かわせたのは資料から確実と思われます。
前のレスを補足すると和議を結んだから撤退したのではなく、撤退の過程で和議が結ばれた、という事ですね。
義兵のことですが、彼等の活発な活動が日本軍を苦しめたのは疑いありません。
ただ、支配者層は義兵の反日抗争を自らの階級支配の道具に組み入れようとやっきになったそうです。
金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)によれば、戦争初期においては義兵を官軍に引きこむため、
義兵将らにたいして高い職位を授ける措置をとったが、やがて義兵闘争が官軍の補助的役割をするようになると
義兵には厳しい統制と圧力がくわえられ、政府は義兵達が巡察使(道内の軍務を巡察する官職臨時軍司令官)及び
体察使(臨時宰相兼軍司令官)の指揮を受けるようにしたが、それらの指揮官は殆どの者が正確な指揮をなしえなかった。
戦争末期には、為政者たちは義兵の存在を十分留意していた。すなわちかれらは戦闘の経験を有し、武器を多数
備え、権力者にとって恐ろしい存在である事を認識し、義兵にたいする統率と圧力をより一層強化するとともに
迫害を加えた。そのため、義兵達は組織された部隊として機能できなくなった。
しかも、義兵部隊の核心的活動家はほとんどが被圧迫階級で、体を張って貢献したにも関わらず、政府はかれらを
正当に評価せず、戦争が終わると義兵たちはまたもや農奴的身分におとしめ、過酷な収奪を繰り返した。
義兵闘争の過程で官職を授けられた義兵将も、国家権力によって廃履のように捨てられるが、党派の政争に組み込まれて
権力者らの猜忌や謀略により迫害され、はては流配か死刑かの不遇な生涯を送らねばならなかったそうです。 wwe423t6
554 :
名無しさん@1周年:2000/12/05(火) 02:19
480さん、指摘ありがとうございます。
蘇峰徳猪一郎著『近世日本国民史 第九巻 朝鮮役下巻』(時事通信社 昭和三十九年二月十日発行)によれば、
秀吉の死去後、五大老は朝鮮の諸将に撤兵を命を出し、順天、泗川では明軍は敗戦で戦意を失っていたため
早々と講和が締結されたらしいです。順天では提督の劉延が降倭の沙也可を使者として小西行長に和議を
持ちこみ、人質として劉天を差し出しました。朝鮮の資料「宣祖實緑」では順天城の攻防における劉延の
無能ぶりを「(略)提督事を行ふ、正に魂を奪はれたる人の如し。将卒皆軽侮す。適ゝ泗川の敗報を見、(略)
意を決して兵を退く。尤も痛泣を為す。(漢字を一部略字に変更してますので間違いがあればすいません)」
日本軍に手痛く迎撃されられた上に、泗川の敗報に報して日本諸将の撤兵意思を好材料として和を講じたの
でしょう。しかし、明と朝鮮の連合軍はそれを反故にして後に押し寄せることとなります。
泗川での講和
明側の資料、「両朝平攘録」には「(略)中路使督陣茅國科、撫臺の激を持し、金パクを賚して義弘に見え、動すに
大儀を以てし、諭すに利害を以てす。郭國安傍より之を賛す。義弘許諾す。」とあり、
日本側の資料「征韓録」には「十月八日に、徳水式部卿法印壽昌(略)、泗川の新塞に来て、殿下の厳命なりとて
和議の次第、貢税の品、掃陣の行を述らる。その掃陣の期限は、十一月十五日を期として、諸将相倶に釜山浦へ
(略)、然るに十月十三日に、参謀史龍添(略)、此の塞に来り、和議を請ふ。(略)彼の人質を請取(略)和議と相成りて
掃陣の催しあり」
ともかく、泗川の大勝によって明軍を和議に向かわせたのは資料から確実と思われます。
前のレスを補足すると和議を結んだから撤退したのではなく、撤退の過程で和議が結ばれた、という事ですね。
義兵のことですが、彼等の活発な活動が日本軍を苦しめたのは疑いありません。
ただ、支配者層は義兵の反日抗争を自らの階級支配の道具に組み入れようとやっきになったそうです。
金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)によれば、戦争初期においては義兵を官軍に引きこむため、
義兵将らにたいして高い職位を授ける措置をとったが、やがて義兵闘争が官軍の補助的役割をするようになると
義兵には厳しい統制と圧力がくわえられ、政府は義兵達が巡察使(道内の軍務を巡察する官職臨時軍司令官)及び
体察使(臨時宰相兼軍司令官)の指揮を受けるようにしたが、それらの指揮官は殆どの者が正確な指揮をなしえなかった。
戦争末期には、為政者たちは義兵の存在を十分留意していた。すなわちかれらは戦闘の経験を有し、武器を多数
備え、権力者にとって恐ろしい存在である事を認識し、義兵にたいする統率と圧力をより一層強化するとともに
迫害を加えた。そのため、義兵達は組織された部隊として機能できなくなった。
しかも、義兵部隊の核心的活動家はほとんどが被圧迫階級で、体を張って貢献したにも関わらず、政府はかれらを
正当に評価せず、戦争が終わると義兵たちはまたもや農奴的身分におとしめ、過酷な収奪を繰り返した。
義兵闘争の過程で官職を授けられた義兵将も、国家権力によって廃履のように捨てられるが、党派の政争に組み込まれて
権力者らの猜忌や謀略により迫害され、はては流配か死刑かの不遇な生涯を送らねばならなかったそうです。
555 :
名無しさん@1周年:2000/12/05(火) 02:19
480さん、指摘ありがとうございます。
蘇峰徳猪一郎著『近世日本国民史 第九巻 朝鮮役下巻』(時事通信社 昭和三十九年二月十日発行)によれば、
秀吉の死去後、五大老は朝鮮の諸将に撤兵を命を出し、順天、泗川では明軍は敗戦で戦意を失っていたため
早々と講和が締結されたらしいです。順天では提督の劉延が降倭の沙也可を使者として小西行長に和議を
持ちこみ、人質として劉天を差し出しました。朝鮮の資料「宣祖實緑」では順天城の攻防における劉延の
無能ぶりを「(略)提督事を行ふ、正に魂を奪はれたる人の如し。将卒皆軽侮す。適ゝ泗川の敗報を見、(略)
意を決して兵を退く。尤も痛泣を為す。(漢字を一部略字に変更してますので間違いがあればすいません)」
日本軍に手痛く迎撃されられた上に、泗川の敗報に報して日本諸将の撤兵意思を好材料として和を講じたの
でしょう。しかし、明と朝鮮の連合軍はそれを反故にして後に押し寄せることとなります。
泗川での講和
明側の資料、「両朝平攘録」には「(略)中路使督陣茅國科、撫臺の激を持し、金パクを賚して義弘に見え、動すに
大儀を以てし、諭すに利害を以てす。郭國安傍より之を賛す。義弘許諾す。」とあり、
日本側の資料「征韓録」には「十月八日に、徳水式部卿法印壽昌(略)、泗川の新塞に来て、殿下の厳命なりとて
和議の次第、貢税の品、掃陣の行を述らる。その掃陣の期限は、十一月十五日を期として、諸将相倶に釜山浦へ
(略)、然るに十月十三日に、参謀史龍添(略)、此の塞に来り、和議を請ふ。(略)彼の人質を請取(略)和議と相成りて
掃陣の催しあり」
ともかく、泗川の大勝によって明軍を和議に向かわせたのは資料から確実と思われます。
前のレスを補足すると和議を結んだから撤退したのではなく、撤退の過程で和議が結ばれた、という事ですね。
義兵のことですが、彼等の活発な活動が日本軍を苦しめたのは疑いありません。
ただ、支配者層は義兵の反日抗争を自らの階級支配の道具に組み入れようとやっきになったそうです。
金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)によれば、戦争初期においては義兵を官軍に引きこむため、
義兵将らにたいして高い職位を授ける措置をとったが、やがて義兵闘争が官軍の補助的役割をするようになると
義兵には厳しい統制と圧力がくわえられ、政府は義兵達が巡察使(道内の軍務を巡察する官職臨時軍司令官)及び
体察使(臨時宰相兼軍司令官)の指揮を受けるようにしたが、それらの指揮官は殆どの者が正確な指揮をなしえなかった。
戦争末期には、為政者たちは義兵の存在を十分留意していた。すなわちかれらは戦闘の経験を有し、武器を多数
備え、権力者にとって恐ろしい存在である事を認識し、義兵にたいする統率と圧力をより一層強化するとともに
迫害を加えた。そのため、義兵達は組織された部隊として機能できなくなった。
しかも、義兵部隊の核心的活動家はほとんどが被圧迫階級で、体を張って貢献しsたにも関わらず、政府はかれらを
正当に評価せず、戦争が終わると義兵たちはまたもや農奴的身分におとしめ、過酷な収奪を繰り返した。
義兵闘争の過程で官職を授けられた義兵将も、国家権力によって廃履のように捨てられるが、党派の政争に組み込まれて
権力者らの猜忌や謀略により迫害され、はては流配か死刑かの不遇な生涯を送らねばならなかったそうです。
556 :
名無しさん@1周年:2000/12/05(火) 02:20
480さん、指摘ありがとうございます。
蘇峰徳猪一郎著『近世日本国民史 第九巻 朝鮮役下巻』(時事通信社 昭和三十九年二月十日発行)によれば、
秀吉の死去後、五大老は朝鮮の諸将に撤兵を命を出し、順天、泗川では明軍は敗戦で戦意を失っていたため
早々と講和が締結されたらしいです。順天では提督の劉延が降倭の沙也可を使者として小西行長に和議を
持ちこみ、人質として劉天を差し出しました。朝鮮の資料「宣祖實緑」では順天城の攻防における劉延の
無能ぶりを「(略)提督事を行ふ、正に魂を奪はれたる人の如し。将卒皆軽侮す。適ゝ泗川の敗報を見、(略)
意を決して兵を退く。尤も痛泣を為す。(漢字を一部略字に変更してますので間違いがあればすいません)」
日本軍に手痛く迎撃されられた上に、泗川の敗報に報して日本諸将の撤兵意思を好材料として和を講じたの
でしょう。しかし、明と朝鮮の連合軍はそれを反故にして後に押し寄せることとなります。
泗川での講和
明側の資料、「両朝平攘録」には「(略)中路使督陣茅國科、撫臺の激を持し、金パクを賚して義弘に見え、動すに
大儀を以てし、諭すに利害を以てす。郭國安傍より之を賛す。義弘許諾す。」とあり、
日本側の資料「征韓録」には「十月八日に、徳水式部卿法印壽昌(略)、泗川の新塞に来て、殿下の厳命なりとて
和議の次第、貢税の品、掃陣の行を述らる。その掃陣の期限は、十一月十五日を期として、諸将相倶に釜山浦へ
(略)、然るに十月十三日に、参謀史龍添(略)、此の塞に来り、和議を請ふ。(略)彼の人質を請取(略)和議と相成りて
掃陣の催しあり」
ともかく、泗川の大勝によって明軍を和議に向かわせたのは資料から確実と思われます。
前のレスを補足すると和議を結んだから撤退したのではなく、撤退の過程で和議が結ばれた、という事ですね。
義兵のことですが、彼等の活発な活動が日本軍を苦しめたのは疑いありません。
ただ、支配者層は義兵の反日抗争を自らの階級支配の道具に組み入れようとやっきになったそうです。
金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)によれば、戦争初期においては義兵を官軍に引きこむため、
義兵将らにたいして高い職位を授ける措置をとったが、やがて義兵闘争が官軍の補助的役割をするようになると
義兵には厳しい統制と圧力がくわえられ、政府は義兵達が巡察使(道内の軍務を巡察する官職臨時軍司令官)及び
体察使(臨時宰相兼軍司令官)の指揮を受けるようにしたが、それらの指揮官は殆どの者が正確な指揮をなしえなかった。
戦争末期には、為政者たちは義兵の存在を十分留意していた。すなわちかれらは戦闘の経験を有し、武器を多数
備え、権力者にとって恐ろしい存在である事を認識し、義兵にたいする統率と圧力をより一層強化するとともに
迫害を加えた。そのため、義兵達は組織された部隊として機能できなくなった。
しかも、義兵部隊の核心的活動家はほとんどが被圧迫階級で、体を張って貢献したにも関わらず、政府はかれらを
正当に評価せず、戦争が終わると義兵たちはまたもや農奴的身分におとしめ、過酷な収奪を繰り返した。
義兵闘争の過程で官職を授けられた義兵将も、国家権力によって廃履のように捨てられるが、党派の政争に組み込まれて
権力者らの猜忌や謀略により迫害され、はては流配か死刑かの不遇な生涯sを送らねばならなかったそうです。
557 :
名無しさん@1周年:2000/12/05(火) 02:20
480さん、指摘ありがとうございます。
蘇峰徳猪一郎著『近世日本国民史 第九巻 朝鮮役下巻』(時事通信社 昭和三十九年二月十日発行)によれば、
秀吉の死去後、五大老は朝鮮の諸将に撤兵を命を出し、順天、泗川では明軍は敗戦で戦意を失っていたため
早々と講和が締結されたらしいです。順天では提督の劉延が降倭の沙也可を使者として小西行長に和議を
持ちこみ、人質として劉天を差し出しました。朝鮮の資料「宣祖實緑」では順天城の攻防における劉延の
無能ぶりを「(略)提督事を行ふ、正に魂を奪はれたる人の如し。将卒皆軽侮す。適ゝ泗川の敗報を見、(略)
意を決して兵を退く。尤も痛泣を為す。(漢字を一部略字に変更してますので間違いがあればすいません)」
日本軍に手痛く迎撃されられた上に、泗川の敗報に報して日本諸将の撤兵意思を好材料として和を講じたの
でしょう。しかし、明と朝鮮の連合軍はそれを反故にして後に押し寄せることとなります。
泗川での講和
明側の資料、「両朝平攘録」には「(略)中路使督陣茅國科、撫臺の激を持し、金パクを賚して義弘に見え、動すに
大儀を以てし、諭すに利害を以てす。郭國安傍より之を賛す。義弘許諾す。」とあり、
日本側の資料「征韓録」には「十月八日に、徳水式部卿法印壽昌(略)、泗川の新塞に来て、殿下の厳命なりとて
和議の次第、貢税の品、掃陣の行を述らる。その掃陣の期限は、十一月十五日を期として、諸将相倶に釜山浦へ
(略)、然るに十月十三日に、参謀史龍添(略)、此の塞に来り、和議を請ふ。(略)彼の人質を請取(略)和議と相成りて
掃陣の催しあり」
ともかく、泗川の大勝によって明軍を和議に向かわせたのは資料から確実と思われます。
前のレスを補足すると和議を結んだから撤退したのではなく、撤退の過程で和議が結ばれた、という事ですね。
義兵のことですが、彼等の活発な活動が日本軍を苦しめたのは疑いありません。
ただ、支配者層は義兵の反日抗争を自らの階級支配の道具に組み入れようとやっきになったそうです。
金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)によれば、戦争初期においては義兵を官軍に引きこむため、
義兵将らにたいして高い職位を授ける措置をとったが、やがて義兵闘争が官軍の補助的役割をするようになると
義兵には厳しい統制と圧力がくわえられ、政府は義兵達が巡察使(道内の軍務を巡察する官職臨時軍司令官)及び
体察使(臨時宰相兼軍司令官)の指揮を受けるようにしたが、それらの指揮官は殆どの者が正確な指揮をなしえなかった。
戦争末期には、為政者たちは義兵の存在を十分留意していた。すなわちかれらは戦闘の経験を有し、武器を多数
備え、権力者にとって恐ろしい存在である事を認識し、義兵にたいする統率と圧力をより一層強化するとともに
迫害を加えた。そのため、義兵達は組織された部隊として機能できなくなった。
しかも、義兵部隊の核心的活動家はほとんどが被圧迫階級で、体を張って貢献したにも関わらず、政府はかれらを
正当に評価せず、戦争が終わると義兵たちはまたもや農奴的身分におとしめ、過酷な収奪を繰り返した。
義兵闘争の過程で官職を授けられた義兵将も、国家権力によって廃履のように捨てられるが、党派の政争に組み込まれて
権力者らの猜忌や謀略により迫害され、はては流配か死刑かの不遇な生涯を送らねばならなかったそうです。
558 :
名無しさん@1周年:2000/12/05(火) 02:20
480さん、指摘ありがとうございます。
蘇峰徳猪一郎著『近世日本国民史 第九巻 朝鮮役下巻』(時事通信社 昭和三十九年二月十日発行)によれば、
秀吉の死去後、五大老は朝鮮の諸将に撤兵を命を出し、順天、泗川では明軍は敗戦で戦意を失っていたため
早々と講和が締結されたらしいです。順天では提督の劉延が降倭の沙也可を使者として小西行長に和議を
持ちこみ、人質として劉天を差し出しました。朝鮮の資料「宣祖實緑」では順天城の攻防における劉延の
無能ぶりを「(略)提督事を行ふ、正に魂を奪はれたる人の如し。将卒皆軽侮す。適ゝ泗川の敗報を見、(略)
意を決して兵を退く。尤も痛泣を為す。(漢字を一部略字に変更してますので間違いがあればすいません)」
日本軍に手痛く迎撃されられた上に、泗川の敗報に報して日本諸将の撤兵意思を好材料として和を講じたの
でしょう。しかし、明と朝鮮の連合軍はそれを反故にして後に押し寄せることとなります。
泗川での講和
明側の資料、「両朝平攘録」には「(略)中路使督陣茅國科、撫臺の激を持し、金パクを賚して義弘に見え、動すに
大儀を以てし、諭すに利害を以てす。郭國安傍より之を賛す。義弘許諾す。」とあり、
日本側の資料「征韓録」には「十月八日に、徳水式部卿法印壽昌(略)、泗川の新塞に来て、殿下の厳命なりとて
和議の次第、貢税の品、掃陣の行を述らる。その掃陣の期限は、十一月十五日を期として、諸将相倶に釜山浦へ
(略)、然るに十月十三日に、参謀史龍添(略)、此の塞に来り、和議を請ふ。(略)彼の人質を請取(略)和議と相成りて
掃陣の催しあり」
ともかく、泗川の大勝によって明軍を和議に向かわせたのは資料から確実と思われます。
前のレスを補足すると和議を結んだから撤退したのではなく、撤退の過程で和議が結ばれた、という事ですね。
義兵のことですが、彼等の活発な活動が日本軍を苦しめたのは疑いありません。
ただ、支配者層は義兵の反日抗争を自らの階級支配の道具に組み入れようとやっきになったそうです。
金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)によれば、戦争初期においては義兵を官軍に引きこむため、
義兵将らにたいして高い職位を授ける措置をとったが、やがて義兵闘争が官軍の補助的役割をするようになると
義兵には厳しい統制と圧力がくわえられ、政府は義兵達が巡察使(道内の軍務を巡察する官職臨時軍司令官)及び
体察使(臨時宰相兼軍司令官)の指揮を受けるようにしたが、それらの指揮官は殆どの者が正確な指揮をなしえなかった。
戦争末期には、為政者たちは義兵の存在を十分留意していた。すなわちかれらは戦闘の経験を有し、武器を多数
備え、権力者にとって恐ろしい存在である事を認識し、義兵にたいする統率と圧力をより一層強化するとともに
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しかも、義兵部隊の核心的活動家はほとんどが被圧迫階級で、体を張って貢献したにも関わらず、政府はかれらを
正当に評価せず、戦争が終わると義兵たちはまたもや農奴的身分におとしめ、過酷な収奪を繰り返した。
義兵闘争の過程で官職を授けられた義兵将も、国家権力によって廃履のように捨てられるが、党派の政争に組み込まれて
権力者らの猜忌や謀略により迫害され、はては流配か死刑かの不遇な生zzz涯を送らねばならなかったそうです。
559 :
名無しさん@1周年:2000/12/05(火) 02:20
480さん、指摘ありがとうございます。
蘇峰徳猪一郎著『近世日本国民史 第九巻 朝鮮役下巻』(時事通信社 昭和三十九年二月十日発行)によれば、
秀吉の死去後、五大老は朝鮮の諸将に撤兵を命を出し、順天、泗川では明軍は敗戦で戦意を失っていたため
早々と講和が締結されたらしいです。順天では提督の劉延が降倭の沙也可を使者として小西行長に和議を
持ちこみ、人質として劉天を差し出しました。朝鮮の資料「宣祖實緑」では順天城の攻防における劉延の
無能ぶりを「(略)提督事を行ふ、正に魂を奪はれたる人の如し。将卒皆軽侮す。適ゝ泗川の敗報を見、(略)
意を決して兵を退く。尤も痛泣を為す。(漢字を一部略字に変更してますので間違いがあればすいません)」
日本軍に手痛く迎撃されられた上に、泗川の敗報に報して日本諸将の撤兵意思を好材料として和を講じたの
でしょう。しかし、明と朝鮮の連合軍はそれを反故にして後に押し寄せることとなります。
泗川での講和
明側の資料、「両朝平攘録」には「(略)中路使督陣茅國科、撫臺の激を持し、金パクを賚して義弘に見え、動すに
大儀を以てし、諭すに利害を以てす。郭國安傍より之を賛す。義弘許諾す。」とあり、
日本側の資料「征韓録」には「十月八日に、徳水式部卿法印壽昌(略)、泗川の新塞に来て、殿下の厳命なりとて
和議の次第、貢税の品、掃陣の行を述らる。その掃陣の期限は、十一月十五日を期として、諸将相倶に釜山浦へ
(略)、然るに十月十三日に、参謀史龍添(略)、此の塞に来り、和議を請ふ。(略)彼の人質を請取(略)和議と相成りて
掃陣の催しあり」
ともかく、泗川の大勝によって明軍を和議に向かわせたのは資料から確実と思われます。
前のレスを補足すると和議を結んだから撤退したのではなく、撤退の過程で和議が結ばれた、という事ですね。
義兵のことですが、彼等の活発な活動が日本軍を苦しめたのは疑いありません。
ただ、支配者層は義兵の反日抗争を自らの階級支配の道具に組み入れようとやっきになったそうです。
金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)によれば、戦争初期においては義兵を官軍に引きこむため、
義兵将らにたいして高い職位を授ける措置をとったが、やがて義兵闘争が官軍の補助的役割をするようになると
義兵には厳しい統制と圧力がくわえられ、政府は義兵達が巡察使(道内の軍務を巡察する官職臨時軍司令官)及び
体察使(臨時宰相兼軍司令官)の指揮を受けるようにしたが、それらの指揮官は殆どの者が正確な指揮をなしえなかった。
戦争末期には、為政者たちは義兵の存在を十分留意していた。すなわちかれらは戦闘の経験を有し、武器を多数
備え、権力者にとって恐ろしい存在である事を認識し、義兵にたいする統率と圧力をより一層強化するとともに
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しかも、義兵部隊の核心的活動家はほとんどが被圧迫階級で、体を張って貢献したにも関わらず、政府はかれらを
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義兵闘争の過程で官職を授けられた義兵将も、国家権力によって廃履のように捨てられるが、党派の政争に組み込まれて
権力者らの猜忌や謀略により迫害され、はては流配か死刑かの不遇な生涯を送らねばならなかったそうです。
560 :
名無しさん@1周年:2000/12/05(火) 02:21
480さん、指摘ありがとうございます。
蘇峰徳猪一郎著『近世日本国民史 第九巻 朝鮮役下巻』(時事通信社 昭和三十九年二月十日発行)によれば、
秀吉の死去後、五大老は朝鮮の諸将に撤兵を命を出し、順天、泗川では明軍は敗戦で戦意を失っていたため
早々と講和が締結されたらしいです。順天では提督の劉延が降倭の沙也可を使者として小西行長に和議を
持ちこみ、人質として劉天を差し出しました。朝鮮の資料「宣祖實緑」では順天城の攻防における劉延の
無能ぶりを「(略)提督事を行ふ、正に魂を奪はれたる人の如し。将卒皆軽侮す。適ゝ泗川の敗報を見、(略)
意を決して兵を退く。尤も痛泣を為す。(漢字を一部略字に変更してますので間違いがあればすいません)」
日本軍に手痛く迎撃されられた上に、泗川の敗報に報して日本諸将の撤兵意思を好材料として和を講じたの
でしょう。しかし、明と朝鮮の連合軍はそれを反故にして後に押し寄せることとなります。
泗川での講和
明側の資料、「両朝平攘録」には「(略)中路使督陣茅國科、撫臺の激を持し、金パクを賚して義弘に見え、動すに
大儀を以てし、諭すに利害を以てす。郭國安傍より之を賛す。義弘許諾す。」とあり、
日本側の資料「征韓録」には「十月八日に、徳水式部卿法印壽昌(略)、泗川の新塞に来て、殿下の厳命なりとて
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ともかく、泗川の大勝によって明軍を和議に向かわせたのは資料から確実と思われます。
前のレスを補足すると和議を結んだから撤退したのではなく、撤退の過程で和議が結ばれた、という事ですね。
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ただ、支配者層は義兵の反日抗争を自らの階級支配の道具に組み入れようとやっきになったそうです。
金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)によれば、戦争初期においては義兵を官軍に引きこむため、
義兵将らにたいして高い職位を授ける措置をとったが、やがて義兵闘争が官軍の補助的役割をするようになると
義兵には厳しい統制と圧力がくわえられ、政府は義兵達が巡察使(道内の軍務を巡察する官職臨時軍司令官)及び
体察使(臨時宰相兼軍司令官)の指揮を受けるようにしたが、それらの指揮官は殆どの者が正確な指揮をなしえなかった。
戦争末期には、為政者たちは義兵の存在を十分留意していた。すなわちかれらは戦闘の経験を有し、武器を多数
備え、権力者にとって恐ろしい存在である事を認識し、義兵にたいする統率と圧力をより一層強化するとともに
迫害を加えた。そのため、義兵達は組織された部隊として機能できなくなった。
しかも、義兵部隊の核心的活動家はほとんどが被圧迫階級で、体を張って貢献したにも関わらず、政府はかれらを
正当に評価せず、戦争が終わると義兵たちはまたもや農奴的身分におとしめ、過酷な収奪を繰り返した。
義兵闘争の過程で官職を授けられた義兵将も、国家権力によって廃履のように捨てられるが、党派の政争に組み込まれて
権力者らの猜忌や謀略により迫害され、はては流配か死刑かの不遇な生涯を送らねばならなかったそうです。 tyu7554
561 :
名無しさん@1周年:2000/12/05(火) 02:21
480さん、指摘ありがとうございます。
蘇峰徳猪一郎著『近世日本国民史 第九巻 朝鮮役下巻』(時事通信社 昭和三十九年二月十日発行)によれば、
秀吉の死去後、五大老は朝鮮の諸将に撤兵を命を出し、順天、泗川では明軍は敗戦で戦意を失っていたため
早々と講和が締結されたらしいです。順天では提督の劉延が降倭の沙也可を使者として小西行長に和議を
持ちこみ、人質として劉天を差し出しました。朝鮮の資料「宣祖實緑」では順天城の攻防における劉延の
無能ぶりを「(略)提督事を行ふ、正に魂を奪はれたる人の如し。将卒皆軽侮す。適ゝ泗川の敗報を見、(略)
意を決して兵を退く。尤も痛泣を為す。(漢字を一部略字に変更してますので間違いがあればすいません)」
日本軍に手痛く迎撃されられた上に、泗川の敗報に報して日本諸将の撤兵意思を好材料として和を講じたの
でしょう。しかし、明と朝鮮の連合軍はそれを反故にして後に押し寄せることとなります。
泗川での講和
明側の資料、「両朝平攘録」には「(略)中路使督陣茅國科、撫臺の激を持し、金パクを賚して義弘に見え、動すに
大儀を以てし、諭すに利害を以てす。郭國安傍より之を賛す。義弘許諾す。」とあり、
日本側の資料「征韓録」には「十月八日に、徳水式部卿法印壽昌(略)、泗川の新塞に来て、殿下の厳命なりとて
和議の次第、貢税の品、掃陣の行を述らる。その掃陣の期限は、十一月十五日を期として、諸将相倶に釜山浦へ
(略)、然るに十月十三日に、参謀史龍添(略)、此の塞に来り、和議を請ふ。(略)彼の人質を請取(略)和議と相成りて
掃陣の催しあり」
ともかく、泗川の大勝によって明軍を和議に向かわせたのは資料から確実と思われます。
前のレスを補足すると和議を結んだから撤退したのではなく、撤退の過程で和議が結ばれた、という事ですね。
義兵のことですが、彼等の活発な活動が日本軍を苦しめたのは疑いありません。
ただ、支配者層は義兵の反日抗争を自らの階級支配の道具に組み入れようとやっきになったそうです。
金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)によれば、戦争初期においては義兵を官軍に引きこむため、
義兵将らにたいして高い職位を授ける措置をとったが、やがて義兵闘争が官軍の補助的役割をするようになると
義兵には厳しい統制と圧力がくわえられ、政府は義兵達が巡察使(道内の軍務を巡察する官職臨時軍司令官)及び
体察使(臨時宰相兼軍司令官)の指揮を受けるようにしたが、それらの指揮官は殆どの者が正確な指揮をなしえなかった。
戦争末期には、為政者たちは義兵の存在を十分留意していた。すなわちかれらは戦闘の経験を有し、武器を多数
備え、権力者にとって恐ろしい存在である事を認識し、義兵にたいする統率と圧力をより一層強化するとともに
迫害を加えた。そのため、義兵達は組織された部隊として機能できなくなった。
しかも、義兵部隊の核心的活動家はほとんどが被圧迫階級で、体を張って貢献したにも関わらず、政府はかれらを
正当に評価せず、戦争が終わると義兵たちはまたもや農奴的身分におとしめ、過酷な収奪を繰り返した。
義兵闘争の過程で官職を授けられた義兵将も、国家権力によって廃履のように捨てられるが、党派の政争に組み込まれて
権力者らの猜忌や謀略により迫害され、はては流配か死刑かの不遇な生涯を送らねばならなかったそうです。 xsewq
562 :
名無しさん@1周年:2000/12/05(火) 02:21
480さん、指摘ありがとうございます。
蘇峰徳猪一郎著『近世日本国民史 第九巻 朝鮮役下巻』(時事通信社 昭和三十九年二月十日発行)によれば、
秀吉の死去後、五大老は朝鮮の諸将に撤兵を命を出し、順天、泗川では明軍は敗戦で戦意を失っていたため
早々と講和が締結されたらしいです。順天では提督の劉延が降倭の沙也可を使者として小西行長に和議を
持ちこみ、人質として劉天を差し出しました。朝鮮の資料「宣祖實緑」では順天城の攻防における劉延の
無能ぶりを「(略)提督事を行ふ、正に魂を奪はれたる人の如し。将卒皆軽侮す。適ゝ泗川の敗報を見、(略)
意を決して兵を退く。尤も痛泣を為す。(漢字を一部略字に変更してますので間違いがあればすいません)」
日本軍に手痛く迎撃されられた上に、泗川の敗報に報して日本諸将の撤兵意思を好材料として和を講じたの
でしょう。しかし、明と朝鮮の連合軍はそれを反故にして後に押し寄せることとなります。
泗川での講和
明側の資料、「両朝平攘録」には「(略)中路使督陣茅國科、撫臺の激を持し、金パクを賚して義弘に見え、動すに
大儀を以てし、諭すに利害を以てす。郭國安傍より之を賛す。義弘許諾す。」とあり、
日本側の資料「征韓録」には「十月八日に、徳水式部卿法印壽昌(略)、泗川の新塞に来て、殿下の厳命なりとて
和議の次第、貢税の品、掃陣の行を述らる。その掃陣の期限は、十一月十五日を期として、諸将相倶に釜山浦へ
(略)、然るに十月十三日に、参謀史龍添(略)、此の塞に来り、和議を請ふ。(略)彼の人質を請取(略)和議と相成りて
掃陣の催しあり」
ともかく、泗川の大勝によって明軍を和議に向かわせたのは資料から確実と思われます。
前のレスを補足すると和議を結んだから撤退したのではなく、撤退の過程で和議が結ばれた、という事ですね。
義兵のことですが、彼等の活発な活動が日本軍を苦しめたのは疑いありません。
ただ、支配者層は義兵の反日抗争を自らの階級支配の道具に組み入れようとやっきになったそうです。
金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)によれば、戦争初期においては義兵を官軍に引きこむため、
義兵将らにたいして高い職位を授ける措置をとったが、やがて義兵闘争が官軍の補助的役割をするようになると
義兵には厳しい統制と圧力がくわえられ、政府は義兵達が巡察使(道内の軍務を巡察する官職臨時軍司令官)及び
体察使(臨時宰相兼軍司令官)の指揮を受けるようにしたが、それらの指揮官は殆どの者が正確な指揮をなしえなかった。
戦争末期には、為政者たちは義兵の存在を十分留意していた。すなわちかれらは戦闘の経験を有し、武器を多数
備え、権力者にとって恐ろしい存在である事を認識し、義兵にたいする統率と圧力をより一層強化するとともに
迫害を加えた。そのため、義兵達は組織された部隊として機能できなくなった。
しかも、義兵部隊の核心的活動家はほとんどが被圧迫階級で、体を張って貢献したにも関わらず、政府はかれらを
正当に評価せず、戦争が終わると義兵たちはまたもや農奴的身分におとしめ、過酷な収奪を繰り返した。
義兵闘争の過程で官職を授けられた義兵将も、国家権力によって廃履のように捨てられるが、党派の政争に組み込まれて
権力者らの猜忌や謀略により迫害され、はては流配か死刑かの不遇な生涯を送らねばならなかったそうです。 swqa2222
563 :
名無しさん@1周年:2000/12/05(火) 02:22
480さん、指摘ありがとうございます。
蘇峰徳猪一郎著『近世日本国民史 第九巻 朝鮮役下巻』(時事通信社 昭和三十九年二月十日発行)によれば、
秀吉の死去後、五大老は朝鮮の諸将に撤兵を命を出し、順天、泗川では明軍は敗戦で戦意を失っていたため
早々と講和が締結されたらしいです。順天では提督の劉延が降倭の沙也可を使者として小西行長に和議を
持ちこみ、人質として劉天を差し出しました。朝鮮の資料「宣祖實緑」では順天城の攻防における劉延の
無能ぶりを「(略)提督事を行ふ、正に魂を奪はれたる人の如し。将卒皆軽侮す。適ゝ泗川の敗報を見、(略)
意を決して兵を退く。尤も痛泣を為す。(漢字を一部略字に変更してますので間違いがあればすいません)」
日本軍に手痛く迎撃されられた上に、泗川の敗報に報して日本諸将の撤兵意思を好材料として和を講じたの
でしょう。しかし、明と朝鮮の連合軍はそれを反故にして後に押し寄せることとなります。
泗川での講和
明側の資料、「両朝平攘録」には「(略)中路使督陣茅國科、撫臺の激を持し、金パクを賚して義弘に見え、動すに
大儀を以てし、諭すに利害を以てす。郭國安傍より之を賛す。義弘許諾す。」とあり、
日本側の資料「征韓録」には「十月八日に、徳水式部卿法印壽昌(略)、泗川の新塞に来て、殿下の厳命なりとて
和議の次第、貢税の品、掃陣の行を述らる。その掃陣の期限は、十一月十五日を期として、諸将相倶に釜山浦へ
(略)、然るに十月十三日に、参謀史龍添(略)、此の塞に来り、和議を請ふ。(略)彼の人質を請取(略)和議と相成りて
掃陣の催しあり」
ともかく、泗川の大勝によって明軍を和議に向かわせたのは資料から確実と思われます。
前のレスを補足すると和議を結んだから撤退したのではなく、撤退の過程で和議が結ばれた、という事ですね。
義兵のことですが、彼等の活発な活動が日本軍を苦しめたのは疑いありません。
ただ、支配者層は義兵の反日抗争を自らの階級支配の道具に組み入れようとやっきになったそうです。
金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)によれば、戦争初期においては義兵を官軍に引きこむため、
義兵将らにたいして高い職位を授ける措置をとったが、やがて義兵闘争が官軍の補助的役割をするようになると
義兵には厳しい統制と圧力がくわえられ、政府は義兵達が巡察使(道内の軍務を巡察する官職臨時軍司令官)及び
体察使(臨時宰相兼軍司令官)の指揮を受けるようにしたが、それらの指揮官は殆どの者が正確な指揮をなしえなかった。
戦争末期には、為政者たちは義兵の存在を十分留意していた。すなわちかれらは戦闘の経験を有し、武器を多数
備え、権力者にとって恐ろしい存在である事を認識し、義兵にたいする統率と圧力をより一層強化するとともに
迫害を加えた。そのため、義兵達は組織された部隊として機能できなくなった。
しかも、義兵部隊の核心的活動家はほとんどが被圧迫階級で、体を張って貢献したにも関わらず、政府はかれらを
正当に評価せず、戦争が終わると義兵たちはまたもや農奴的身分におとしめ、過酷な収奪を繰り返した。
義兵闘争の過程で官職を授けられた義兵将も、国家権力によって廃履のように捨てられるが、党派の政争に組み込まれて
権力者らの猜忌や謀略により迫害され、はては流配か死刑かの不遇な生涯を送らねばならなかったそうです。 ppp
564 :
名無しさん@1周年:2000/12/05(火) 02:22
480さん、指摘ありがとうございます。
蘇峰徳猪一郎著『近世日本国民史 第九巻 朝鮮役下巻』(時事通信社 昭和三十九年二月十日発行)によれば、
秀吉の死去後、五大老は朝鮮の諸将に撤兵を命を出し、順天、泗川では明軍は敗戦で戦意を失っていたため
早々と講和が締結されたらしいです。順天では提督の劉延が降倭の沙也可を使者として小西行長に和議を
持ちこみ、人質として劉天を差し出しました。朝鮮の資料「宣祖實緑」では順天城の攻防における劉延の
無能ぶりを「(略)提督事を行ふ、正に魂を奪はれたる人の如し。将卒皆軽侮す。適ゝ泗川の敗報を見、(略)
意を決して兵を退く。尤も痛泣を為す。(漢字を一部略字に変更してますので間違いがあればすいません)」
日本軍に手痛く迎撃されられた上に、泗川の敗報に報して日本諸将の撤兵意思を好材料として和を講じたの
でしょう。しかし、明と朝鮮の連合軍はそれを反故にして後に押し寄せることとなります。
泗川での講和
明側の資料、「両朝平攘録」には「(略)中路使督陣茅國科、撫臺の激を持し、金パクを賚して義弘に見え、動すに
大儀を以てし、諭すに利害を以てす。郭國安傍より之を賛す。義弘許諾す。」とあり、
日本側の資料「征韓録」には「十月八日に、徳水式部卿法印壽昌(略)、泗川の新塞に来て、殿下の厳命なりとて
和議の次第、貢税の品、掃陣の行を述らる。その掃陣の期限は、十一月十五日を期として、諸将相倶に釜山浦へ
(略)、然るに十月十三日に、参謀史龍添(略)、此の塞に来り、和議を請ふ。(略)彼の人質を請取(略)和議と相成りて
掃陣の催しあり」
ともかく、泗川の大勝によって明軍を和議に向かわせたのは資料から確実と思われます。
前のレスを補足すると和議を結んだから撤退したのではなく、撤退の過程で和議が結ばれた、という事ですね。
義兵のことですが、彼等の活発な活動が日本軍を苦しめたのは疑いありません。
ただ、支配者層は義兵の反日抗争を自らの階級支配の道具に組み入れようとやっきになったそうです。
金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)によれば、戦争初期においては義兵を官軍に引きこむため、
義兵将らにたいして高い職位を授ける措置をとったが、やがて義兵闘争が官軍の補助的役割をするようになると
義兵には厳しい統制と圧力がくわえられ、政府は義兵達が巡察使(道内の軍務を巡察する官職臨時軍司令官)及び
体察使(臨時宰相兼軍司令官)の指揮を受けるようにしたが、それらの指揮官は殆どの者が正確な指揮をなしえなかった。
戦争末期には、為政者たちは義兵の存在を十分留意していた。すなわちかれらは戦闘の経験を有し、武器を多数
備え、権力者にとって恐ろしい存在である事を認識し、義兵にたいする統率と圧力をより一層強化するとともに
迫害を加えた。そのため、義兵達は組織された部隊として機能できなくなった。
しかも、義兵部隊の核心的活動家はほとんどが被圧迫階級で、体を張って貢献したにも関わらず、政府はかれらを
正当に評価せず、戦争が終わると義兵たちはまたもや農奴的身分におとしめ、過酷な収奪を繰り返した。
義兵闘争の過程で官職を授けられた義兵将も、国家権力によって廃履のように捨てられるが、党派の政争に組み込まれて
権力者らの猜忌や謀略により迫害され、はては流配か死刑かの不遇な生涯を送らねばならなかったそうです。
565 :
名無しさん@1周年:2000/12/05(火) 02:23
480さん、指摘ありがとうございます。
蘇峰徳猪一郎著『近世日本国民史 第九巻 朝鮮役下巻』(時事通信社 昭和三十九年二月十日発行)によれば、
秀吉の死去後、五大老は朝鮮の諸将に撤兵を命を出し、順天、泗川では明軍は敗戦で戦意を失っていたため
早々と講和が締結されたらしいです。順天では提督の劉延が降倭の沙也可を使者として小西行長に和議を
持ちこみ、人質として劉天を差し出しました。朝鮮の資料「宣祖實緑」では順天城の攻防における劉延の
無能ぶりを「(略)提督事を行ふ、正に魂を奪はれたる人の如し。将卒皆軽侮す。適ゝ泗川の敗報を見、(略)
意を決して兵を退く。尤も痛泣を為す。(漢字を一部略字に変更してますので間違いがあればすいません)」
日本軍に手痛く迎撃されられた上に、泗川の敗報に報して日本諸将の撤兵意思を好材料として和を講じたの
でしょう。しかし、明と朝鮮の連合軍はそれを反故にして後に押し寄せることとなります。
泗川での講和
明側の資料、「両朝平攘録」には「(略)中路使督陣茅國科、撫臺の激を持し、金パクを賚して義弘に見え、動すに
大儀を以てし、諭すに利害を以てす。郭國安傍より之を賛す。義弘許諾す。」とあり、
日本側の資料「征韓録」には「十月八日に、徳水式部卿法印壽昌(略)、泗川の新塞に来て、殿下の厳命なりとて
和議の次第、貢税の品、掃陣の行を述らる。その掃陣の期限は、十一月十五日を期として、諸将相倶に釜山浦へ
(略)、然るに十月十三日に、参謀史龍添(略)、此の塞に来り、和議を請ふ。(略)彼の人質を請取(略)和議と相成りて
掃陣の催しあり」
ともかく、泗川の大勝によって明軍を和議に向かわせたのは資料から確実と思われます。
前のレスを補足すると和議を結んだから撤退したのではなく、撤退の過程で和議が結ばれた、という事ですね。
義兵のことですが、彼等の活発な活動が日本軍を苦しめたのは疑いありません。
ただ、支配者層は義兵の反日抗争を自らの階級支配の道具に組み入れようとやっきになったそうです。
金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)によれば、戦争初期においては義兵を官軍に引きこむため、
義兵将らにたいして高い職位を授ける措置をとったが、やがて義兵闘争が官軍の補助的役割をするようになると
義兵には厳しい統制と圧力がくわえられ、政府は義兵達が巡察使(道内の軍務を巡察する官職臨時軍司令官)及び
体察使(臨時宰相兼軍司令官)の指揮を受けるようにしたが、それらの指揮官は殆どの者が正確な指揮をなしえなかった。
戦争末期には、為政者たちは義兵の存在を十分留意していた。すなわちかれらは戦闘の経験を有し、武器を多数
備え、権力者にとって恐ろしい存在である事を認識し、義兵にたいする統率と圧力をより一層強化するとともに
迫害を加えた。そのため、義兵達は組織された部隊として機能できなくなった。
しかも、義兵部隊の核心的活動家はほとんどが被圧迫階級で、体を張って貢献したにも関わらず、政府はかれらを
正当に評価せず、戦争が終わると義兵たちはまたもや農奴的身分におとしめ、過酷な収奪を繰り返した。
義兵闘争の過程で官職を授けられた義兵将も、国家権力によって廃履のように捨てられるが、党派の政争に組み込まれて
権力者らの猜忌や謀略により迫害され、はては流配か死刑かの不遇な生涯を送らねばならなかったそうです。 fffferwr
566 :
名無しさん@1周年:2000/12/05(火) 02:24
480さん、指摘ありがとうございます。
蘇峰徳猪一郎著『近世日本国民史 第九巻 朝鮮役下巻』(時事通信社 昭和三十九年二月十日発行)によれば、
秀吉の死去後、五大老は朝鮮の諸将に撤兵を命を出し、順天、泗川では明軍は敗戦で戦意を失っていたため
早々と講和が締結されたらしいです。順天では提督の劉延が降倭の沙也可を使者として小西行長に和議を
持ちこみ、人質として劉天を差し出しました。朝鮮の資料「宣祖實緑」では順天城の攻防における劉延の
無能ぶりを「(略)提督事を行ふ、正に魂を奪はれたる人の如し。将卒皆軽侮す。適ゝ泗川の敗報を見、(略)
意を決して兵を退く。尤も痛泣を為す。(漢字を一部略字に変更してますので間違いがあればすいません)」
日本軍に手痛く迎撃されられた上に、泗川の敗報に報して日本諸将の撤兵意思を好材料として和を講じたの
でしょう。しかし、明と朝鮮の連合軍はそれを反故にして後に押し寄せることとなります。
泗川での講和
明側の資料、「両朝平攘録」には「(略)中路使督陣茅國科、撫臺の激を持し、金パクを賚して義弘に見え、動すに
大儀を以てし、諭すに利害を以てす。郭國安傍より之を賛す。義弘許諾す。」とあり、
日本側の資料「征韓録」には「十月八日に、徳水式部卿法印壽昌(略)、泗川の新塞に来て、殿下の厳命なりとて
和議の次第、貢税の品、掃陣の行を述らる。その掃陣の期限は、十一月十五日を期として、諸将相倶に釜山浦へ
(略)、然るに十月十三日に、参謀史龍添(略)、此の塞に来り、和議を請ふ。(略)彼の人質を請取(略)和議と相成りて
掃陣の催しあり」
ともかく、泗川の大勝によって明軍を和議に向かわせたのは資料から確実と思われます。
前のレスを補足すると和議を結んだから撤退したのではなく、撤退の過程で和議が結ばれた、という事ですね。
義兵のことですが、彼等の活発な活動が日本軍を苦しめたのは疑いありません。
ただ、支配者層は義兵の反日抗争を自らの階級支配の道具に組み入れようとやっきになったそうです。
金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)によれば、戦争初期においては義兵を官軍に引きこむため、
義兵将らにたいして高い職位を授ける措置をとったが、やがて義兵闘争が官軍の補助的役割をするようになると
義兵には厳しい統制と圧力がくわえられ、政府は義兵達が巡察使(道内の軍務を巡察する官職臨時軍司令官)及び
体察使(臨時宰相兼軍司令官)の指揮を受けるようにしたが、それらの指揮官は殆どの者が正確な指揮をなしえなかった。
戦争末期には、為政者たちは義兵の存在を十分留意していた。すなわちかれらは戦闘の経験を有し、武器を多数
備え、権力者にとって恐ろしい存在である事を認識し、義兵にたいする統率と圧力をより一層強化するとともに
迫害を加えた。そのため、義兵達は組織された部隊として機能できなくなった。
しかも、義兵部隊の核心的活動家はほとんどが被圧迫階級で、体を張って貢献したにも関わらず、政府はかれらを
正当に評価せず、戦争が終わると義兵たちはまたもや農奴的身分におとしめ、過酷な収奪を繰り返した。
義兵闘争の過程で官職を授けられた義兵将も、国家権力によって廃履のように捨てられるが、党派の政争に組み込まれて
権力者らの猜忌や謀略により迫害され、はては流配か死刑かの不遇な生涯を送らねばならなかったそうです。 zzxq1
567 :
名無しさん@1周年:2000/12/05(火) 02:24
480さん、指摘ありがとうございます。
蘇峰徳猪一郎著『近世日本国民史 第九巻 朝鮮役下巻』(時事通信社 昭和三十九年二月十日発行)によれば、
秀吉の死去後、五大老は朝鮮の諸将に撤兵を命を出し、順天、泗川では明軍は敗戦で戦意を失っていたため
早々と講和が締結されたらしいです。順天では提督の劉延が降倭の沙也可を使者として小西行長に和議を
持ちこみ、人質として劉天を差し出しました。朝鮮の資料「宣祖實緑」では順天城の攻防における劉延の
無能ぶりを「(略)提督事を行ふ、正に魂を奪はれたる人の如し。将卒皆軽侮す。適ゝ泗川の敗報を見、(略)
意を決して兵を退く。尤も痛泣を為す。(漢字を一部略字に変更してますので間違いがあればすいません)」
日本軍に手痛く迎撃されられた上に、泗川の敗報に報して日本諸将の撤兵意思を好材料として和を講じたの
でしょう。しかし、明と朝鮮の連合軍はそれを反故にして後に押し寄せることとなります。
泗川での講和
明側の資料、「両朝平攘録」には「(略)中路使督陣茅國科、撫臺の激を持し、金パクを賚して義弘に見え、動すに
大儀を以てし、諭すに利害を以てす。郭國安傍より之を賛す。義弘許諾す。」とあり、
日本側の資料「征韓録」には「十月八日に、徳水式部卿法印壽昌(略)、泗川の新塞に来て、殿下の厳命なりとて
和議の次第、貢税の品、掃陣の行を述らる。その掃陣の期限は、十一月十五日を期として、諸将相倶に釜山浦へ
(略)、然るに十月十三日に、参謀史龍添(略)、此の塞に来り、和議を請ふ。(略)彼の人質を請取(略)和議と相成りて
掃陣の催しあり」
ともかく、泗川の大勝によって明軍を和議に向かわせたのは資料から確実と思われます。
前のレスを補足すると和議を結んだから撤退したのではなく、撤退の過程で和議が結ばれた、という事ですね。
義兵のことですが、彼等の活発な活動が日本軍を苦しめたのは疑いありません。
ただ、支配者層は義兵の反日抗争を自らの階級支配の道具に組み入れようとやっきになったそうです。
金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)によれば、戦争初期においては義兵を官軍に引きこむため、
義兵将らにたいして高い職位を授ける措置をとったが、やがて義兵闘争が官軍の補助的役割をするようになると
義兵には厳しい統制と圧力がくわえられ、政府は義兵達が巡察使(道内の軍務を巡察する官職臨時軍司令官)及び
体察使(臨時宰相兼軍司令官)の指揮を受けるようにしたが、それらの指揮官は殆どの者が正確な指揮をなしえなかった。
戦争末期には、為政者たちは義兵の存在を十分留意していた。すなわちかれらは戦闘の経験を有し、武器を多数
備え、権力者にとって恐ろしい存在である事を認識し、義兵にたいする統率と圧力をより一層強化するとともに
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しかも、義兵部隊の核心的活動家はほとんどが被圧迫階級で、体を張って貢献したにも関わらず、政府はかれらを
正当に評価せず、戦争が終わると義兵たちはまたもや農奴的身分におとしめ、過酷な収奪を繰り返した。
義兵闘争の過程で官職を授けられた義兵将も、国家権力によって廃履のように捨てられるが、党派の政争に組み込まれて
権力者らの猜忌や謀略により迫害され、はては流配か死刑かの不遇な生涯を送らねばならなかったそうです。
568 :
名無しさん@1周年:2000/12/05(火) 02:25
480さん、指摘ありがとうございます。
蘇峰徳猪一郎著『近世日本国民史 第九巻 朝鮮役下巻』(時事通信社 昭和三十九年二月十日発行)によれば、
秀吉の死去後、五大老は朝鮮の諸将に撤兵を命を出し、順天、泗川では明軍は敗戦で戦意を失っていたため
早々と講和が締結されたらしいです。順天では提督の劉延が降倭の沙也可を使者として小西行長に和議を
持ちこみ、人質として劉天を差し出しました。朝鮮の資料「宣祖實緑」では順天城の攻防における劉延の
無能ぶりを「(略)提督事を行ふ、正に魂を奪はれたる人の如し。将卒皆軽侮す。適ゝ泗川の敗報を見、(略)
意を決して兵を退く。尤も痛泣を為す。(漢字を一部略字に変更してますので間違いがあればすいません)」
日本軍に手痛く迎撃されられた上に、泗川の敗報に報して日本諸将の撤兵意思を好材料として和を講じたの
でしょう。しかし、明と朝鮮の連合軍はそれを反故にして後に押し寄せることとなります。
泗川での講和
明側の資料、「両朝平攘録」には「(略)中路使督陣茅國科、撫臺の激を持し、金パクを賚して義弘に見え、動すに
大儀を以てし、諭すに利害を以てす。郭國安傍より之を賛す。義弘許諾す。」とあり、
日本側の資料「征韓録」には「十月八日に、徳水式部卿法印壽昌(略)、泗川の新塞に来て、殿下の厳命なりとて
和議の次第、貢税の品、掃陣の行を述らる。その掃陣の期限は、十一月十五日を期として、諸将相倶に釜山浦へ
(略)、然るに十月十三日に、参謀史龍添(略)、此の塞に来り、和議を請ふ。(略)彼の人質を請取(略)和議と相成りて
掃陣の催しあり」
ともかく、泗川の大勝によって明軍を和議に向かわせたのは資料から確実と思われます。
前のレスを補足すると和議を結んだから撤退したのではなく、撤退の過程で和議が結ばれた、という事ですね。
義兵のことですが、彼等の活発な活動が日本軍を苦しめたのは疑いありません。
ただ、支配者層は義兵の反日抗争を自らの階級支配の道具に組み入れようとやっきになったそうです。
金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)によれば、戦争初期においては義兵を官軍に引きこむため、
義兵将らにたいして高い職位を授ける措置をとったが、やがて義兵闘争が官軍の補助的役割をするようになると
義兵には厳しい統制と圧力がくわえられ、政府は義兵達が巡察使(道内の軍務を巡察する官職臨時軍司令官)及び
体察使(臨時宰相兼軍司令官)の指揮を受けるようにしたが、それらの指揮官は殆どの者が正確な指揮をなしえなかった。
戦争末期には、為政者たちは義兵の存在を十分留意していた。すなわちかれらは戦闘の経験を有し、武器を多数
備え、権力者にとって恐ろしい存在である事を認識し、義兵にたいする統率と圧力をより一層強化するとともに
迫害を加えた。そのため、義兵達は組織された部隊として機能できなくなった。
しかも、義兵部隊の核心的活動家はほとんどが被圧迫階級で、体を張って貢献したにも関わらず、政府はかれらを
正当に評価せず、戦争が終わると義兵たちはまたもや農奴的身分におとしめ、過酷な収奪を繰り返した。
義兵闘争の過程で官職を授けられた義兵将も、国家権力によって廃履のように捨てられるが、党派の政争に組み込まれて
権力者らの猜忌や謀略により迫害され、はては流配か死刑かの不遇な生涯を送らねばならなかったそうです。 vb@`
569 :
名無しさん@1周年:2000/12/05(火) 02:25
480さん、指摘ありがとうございます。
蘇峰徳猪一郎著『近世日本国民史 第九巻 朝鮮役下巻』(時事通信社 昭和三十九年二月十日発行)によれば、
秀吉の死去後、五大老は朝鮮の諸将に撤兵を命を出し、順天、泗川では明軍は敗戦で戦意を失っていたため
早々と講和が締結されたらしいです。順天では提督の劉延が降倭の沙也可を使者として小西行長に和議を
持ちこみ、人質として劉天を差し出しました。朝鮮の資料「宣祖實緑」では順天城の攻防における劉延の
無能ぶりを「(略)提督事を行ふ、正に魂を奪はれたる人の如し。将卒皆軽侮す。適ゝ泗川の敗報を見、(略)
意を決して兵を退く。尤も痛泣を為す。(漢字を一部略字に変更してますので間違いがあればすいません)」
日本軍に手痛く迎撃されられた上に、泗川の敗報に報して日本諸将の撤兵意思を好材料として和を講じたの
でしょう。しかし、明と朝鮮の連合軍はそれを反故にして後に押し寄せることとなります。
泗川での講和
明側の資料、「両朝平攘録」には「(略)中路使督陣茅國科、撫臺の激を持し、金パクを賚して義弘に見え、動すに
大儀を以てし、諭すに利害を以てす。郭國安傍より之を賛す。義弘許諾す。」とあり、
日本側の資料「征韓録」には「十月八日に、徳水式部卿法印壽昌(略)、泗川の新塞に来て、殿下の厳命なりとて
和議の次第、貢税の品、掃陣の行を述らる。その掃陣の期限は、十一月十五日を期として、諸将相倶に釜山浦へ
(略)、然るに十月十三日に、参謀史龍添(略)、此の塞に来り、和議を請ふ。(略)彼の人質を請取(略)和議と相成りて
掃陣の催しあり」
ともかく、泗川の大勝によって明軍を和議に向かわせたのは資料から確実と思われます。
前のレスを補足すると和議を結んだから撤退したのではなく、撤退の過程で和議が結ばれた、という事ですね。
義兵のことですが、彼等の活発な活動が日本軍を苦しめたのは疑いありません。
ただ、支配者層は義兵の反日抗争を自らの階級支配の道具に組み入れようとやっきになったそうです。
金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)によれば、戦争初期においては義兵を官軍に引きこむため、
義兵将らにたいして高い職位を授ける措置をとったが、やがて義兵闘争が官軍の補助的役割をするようになると
義兵には厳しい統制と圧力がくわえられ、政府は義兵達が巡察使(道内の軍務を巡察する官職臨時軍司令官)及び
体察使(臨時宰相兼軍司令官)の指揮を受けるようにしたが、それらの指揮官は殆どの者が正確な指揮をなしえなかった。
戦争末期には、為政者たちは義兵の存在を十分留意していた。すなわちかれらは戦闘の経験を有し、武器を多数
備え、権力者にとって恐ろしい存在である事を認識し、義兵にたいする統率と圧力をより一層強化するとともに
迫害を加えた。そのため、義兵達は組織された部隊として機能できなくなった。
しかも、義兵部隊の核心的活動家はほとんどが被圧迫階級で、体を張って貢献したにも関わらず、政府はかれらを
正当に評価せず、戦争が終わると義兵たちはまたもや農奴的身分におとしめ、過酷な収奪を繰り返した。
義兵闘争の過程で官職を授けられた義兵将も、国家権力によって廃履のように捨てられるが、党派の政争に組み込まれて
権力者らの猜忌や謀略により迫害され、はては流配か死刑かの不遇な生涯を送らねばならなかったそうです。
570 :
名無しさん@1周年:2000/12/05(火) 02:25
480さん、指摘ありがとうございます。
蘇峰徳猪一郎著『近世日本国民史 第九巻 朝鮮役下巻』(時事通信社 昭和三十九年二月十日発行)によれば、
秀吉の死去後、五大老は朝鮮の諸将に撤兵を命を出し、順天、泗川では明軍は敗戦で戦意を失っていたため
早々と講和が締結されたらしいです。順天では提督の劉延が降倭の沙也可を使者として小西行長に和議を
持ちこみ、人質として劉天を差し出しました。朝鮮の資料「宣祖實緑」では順天城の攻防における劉延の
無能ぶりを「(略)提督事を行ふ、正に魂を奪はれたる人の如し。将卒皆軽侮す。適ゝ泗川の敗報を見、(略)
意を決して兵を退く。尤も痛泣を為す。(漢字を一部略字に変更してますので間違いがあればすいません)」
日本軍に手痛く迎撃されられた上に、泗川の敗報に報して日本諸将の撤兵意思を好材料として和を講じたの
でしょう。しかし、明と朝鮮の連合軍はそれを反故にして後に押し寄せることとなります。
泗川での講和
明側の資料、「両朝平攘録」には「(略)中路使督陣茅國科、撫臺の激を持し、金パクを賚して義弘に見え、動すに
大儀を以てし、諭すに利害を以てす。郭國安傍より之を賛す。義弘許諾す。」とあり、
日本側の資料「征韓録」には「十月八日に、徳水式部卿法印壽昌(略)、泗川の新塞に来て、殿下の厳命なりとて
和議の次第、貢税の品、掃陣の行を述らる。その掃陣の期限は、十一月十五日を期として、諸将相倶に釜山浦へ
(略)、然るに十月十三日に、参謀史龍添(略)、此の塞に来り、和議を請ふ。(略)彼の人質を請取(略)和議と相成りて
掃陣の催しあり」
ともかく、泗川の大勝によって明軍を和議に向かわせたのは資料から確実と思われます。
前のレスを補足すると和議を結んだから撤退したのではなく、撤退の過程で和議が結ばれた、という事ですね。
義兵のことですが、彼等の活発な活動が日本軍を苦しめたのは疑いありません。
ただ、支配者層は義兵の反日抗争を自らの階級支配の道具に組み入れようとやっきになったそうです。
金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)によれば、戦争初期においては義兵を官軍に引きこむため、
義兵将らにたいして高い職位を授ける措置をとったが、やがて義兵闘争が官軍の補助的役割をするようになると
義兵には厳しい統制と圧力がくわえられ、政府は義兵達が巡察使(道内の軍務を巡察する官職臨時軍司令官)及び
体察使(臨時宰相兼軍司令官)の指揮を受けるようにしたが、それらの指揮官は殆どの者が正確な指揮をなしえなかった。
戦争末期には、為政者たちは義兵の存在を十分留意していた。すなわちかれらは戦闘の経験を有し、武器を多数
備え、権力者にとって恐ろしい存在である事を認識し、義兵にたいする統率と圧力をより一層強化するとともに
迫害を加えた。そのため、義兵達は組織された部隊として機能できなくなった。
しかも、義兵部隊の核心的活動家はほとんどが被圧迫階級で、体を張って貢献したにも関わらず、政府はかれらを
正当に評価せず、戦争が終わると義兵たちはまたもや農奴的身分におとしめ、過酷な収奪を繰り返した。
義兵闘争の過程で官職を授けられた義兵将も、国家権力によって廃履のように捨てられるが、党派の政争に組み込まれて
権力者らの猜忌や謀略により迫害され、はては流配か死刑かの不遇な生涯を送らねばならなかったそうです。 zx132
571 :
名無しさん@1周年:2000/12/05(火) 02:26
480さん、指摘ありがとうございます。
蘇峰徳猪一郎著『近世日本国民史 第九巻 朝鮮役下巻』(時事通信社 昭和三十九年二月十日発行)によれば、
秀吉の死去後、五大老は朝鮮の諸将に撤兵を命を出し、順天、泗川では明軍は敗戦で戦意を失っていたため
早々と講和が締結されたらしいです。順天では提督の劉延が降倭の沙也可を使者として小西行長に和議を
持ちこみ、人質として劉天を差し出しました。朝鮮の資料「宣祖實緑」では順天城の攻防における劉延の
無能ぶりを「(略)提督事を行ふ、正に魂を奪はれたる人の如し。将卒皆軽侮す。適ゝ泗川の敗報を見、(略)
意を決して兵を退く。尤も痛泣を為す。(漢字を一部略字に変更してますので間違いがあればすいません)」
日本軍に手痛く迎撃されられた上に、泗川の敗報に報して日本諸将の撤兵意思を好材料として和を講じたの
でしょう。しかし、明と朝鮮の連合軍はそれを反故にして後に押し寄せることとなります。
泗川での講和
明側の資料、「両朝平攘録」には「(略)中路使督陣茅國科、撫臺の激を持し、金パクを賚して義弘に見え、動すに
大儀を以てし、諭すに利害を以てす。郭國安傍より之を賛す。義弘許諾す。」とあり、
日本側の資料「征韓録」には「十月八日に、徳水式部卿法印壽昌(略)、泗川の新塞に来て、殿下の厳命なりとて
和議の次第、貢税の品、掃陣の行を述らる。その掃陣の期限は、十一月十五日を期として、諸将相倶に釜山浦へ
(略)、然るに十月十三日に、参謀史龍添(略)、此の塞に来り、和議を請ふ。(略)彼の人質を請取(略)和議と相成りて
掃陣の催しあり」
ともかく、泗川の大勝によって明軍を和議に向かわせたのは資料から確実と思われます。
前のレスを補足すると和議を結んだから撤退したのではなく、撤退の過程で和議が結ばれた、という事ですね。
義兵のことですが、彼等の活発な活動が日本軍を苦しめたのは疑いありません。
ただ、支配者層は義兵の反日抗争を自らの階級支配の道具に組み入れようとやっきになったそうです。
金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)によれば、戦争初期においては義兵を官軍に引きこむため、
義兵将らにたいして高い職位を授ける措置をとったが、やがて義兵闘争が官軍の補助的役割をするようになると
義兵には厳しい統制と圧力がくわえられ、政府は義兵達が巡察使(道内の軍務を巡察する官職臨時軍司令官)及び
体察使(臨時宰相兼軍司令官)の指揮を受けるようにしたが、それらの指揮官は殆どの者が正確な指揮をなしえなかった。
戦争末期には、為政者たちは義兵の存在を十分留意していた。すなわちかれらは戦闘の経験を有し、武器を多数
備え、権力者にとって恐ろしい存在である事を認識し、義兵にたいする統率と圧力をより一層強化するとともに
迫害を加えた。そのため、義兵達は組織された部隊として機能できなくなった。
しかも、義兵部隊の核心的活動家はほとんどが被圧迫階級で、体を張って貢献したにも関わらず、政府はかれらを
正当に評価せず、戦争が終わると義兵たちはまたもや農奴的身分におとしめ、過酷な収奪を繰り返した。
義兵闘争の過程で官職を授けられた義兵将も、国家権力によって廃履のように捨てられるが、党派の政争に組み込まれて
権力者らの猜忌や謀略により迫害され、はては流配か死刑かの不遇な生涯を送らねばならなかったそうです。
572 :
名無しさん@1周年:2000/12/05(火) 02:26
480さん、指摘ありがとうございます。
蘇峰徳猪一郎著『近世日本国民史 第九巻 朝鮮役下巻』(時事通信社 昭和三十九年二月十日発行)によれば、
秀吉の死去後、五大老は朝鮮の諸将に撤兵を命を出し、順天、泗川では明軍は敗戦で戦意を失っていたため
早々と講和が締結されたらしいです。順天では提督の劉延が降倭の沙也可を使者として小西行長に和議を
持ちこみ、人質として劉天を差し出しました。朝鮮の資料「宣祖實緑」では順天城の攻防における劉延の
無能ぶりを「(略)提督事を行ふ、正に魂を奪はれたる人の如し。将卒皆軽侮す。適ゝ泗川の敗報を見、(略)
意を決して兵を退く。尤も痛泣を為す。(漢字を一部略字に変更してますので間違いがあればすいません)」
日本軍に手痛く迎撃されられた上に、泗川の敗報に報して日本諸将の撤兵意思を好材料として和を講じたの
でしょう。しかし、明と朝鮮の連合軍はそれを反故にして後に押し寄せることとなります。
泗川での講和
明側の資料、「両朝平攘録」には「(略)中路使督陣茅國科、撫臺の激を持し、金パクを賚して義弘に見え、動すに
大儀を以てし、諭すに利害を以てす。郭國安傍より之を賛す。義弘許諾す。」とあり、
日本側の資料「征韓録」には「十月八日に、徳水式部卿法印壽昌(略)、泗川の新塞に来て、殿下の厳命なりとて
和議の次第、貢税の品、掃陣の行を述らる。その掃陣の期限は、十一月十五日を期として、諸将相倶に釜山浦へ
(略)、然るに十月十三日に、参謀史龍添(略)、此の塞に来り、和議を請ふ。(略)彼の人質を請取(略)和議と相成りて
掃陣の催しあり」
ともかく、泗川の大勝によって明軍を和議に向かわせたのは資料から確実と思われます。
前のレスを補足すると和議を結んだから撤退したのではなく、撤退の過程で和議が結ばれた、という事ですね。
義兵のことですが、彼等の活発な活動が日本軍を苦しめたのは疑いありません。
ただ、支配者層は義兵の反日抗争を自らの階級支配の道具に組み入れようとやっきになったそうです。
金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)によれば、戦争初期においては義兵を官軍に引きこむため、
義兵将らにたいして高い職位を授ける措置をとったが、やがて義兵闘争が官軍の補助的役割をするようになると
義兵には厳しい統制と圧力がくわえられ、政府は義兵達が巡察使(道内の軍務を巡察する官職臨時軍司令官)及び
体察使(臨時宰相兼軍司令官)の指揮を受けるようにしたが、それらの指揮官は殆どの者が正確な指揮をなしえなかった。
戦争末期には、為政者たちは義兵の存在を十分留意していた。すなわちかれらは戦闘の経験を有し、武器を多数
備え、権力者にとって恐ろしい存在である事を認識し、義兵にたいする統率と圧力をより一層強化するとともに
迫害を加えた。そのため、義兵達は組織された部隊として機能できなくなった。
しかも、義兵部隊の核心的活動家はほとんどが被圧迫階級で、体を張って貢献したにも関わらず、政府はかれらを
正当に評価せず、戦争が終わると義兵たちはまたもや農奴的身分におとしめ、過酷な収奪を繰り返した。
義兵闘争の過程で官職を授けられた義兵将も、国家権力によって廃履のように捨てられるが、党派の政争に組み込まれて
権力者らの猜忌や謀略により迫害され、はては流配か死刑かの不遇な生涯を送らねばならなかったそうです。 @`./
573 :
名無しさん@1周年:2000/12/05(火) 02:27
480さん、指摘ありがとうございます。
蘇峰徳猪一郎著『近世日本国民史 第九巻 朝鮮役下巻』(時事通信社 昭和三十九年二月十日発行)によれば、
秀吉の死去後、五大老は朝鮮の諸将に撤兵を命を出し、順天、泗川では明軍は敗戦で戦意を失っていたため
早々と講和が締結されたらしいです。順天では提督の劉延が降倭の沙也可を使者として小西行長に和議を
持ちこみ、人質として劉天を差し出しました。朝鮮の資料「宣祖實緑」では順天城の攻防における劉延の
無能ぶりを「(略)提督事を行ふ、正に魂を奪はれたる人の如し。将卒皆軽侮す。適ゝ泗川の敗報を見、(略)
意を決して兵を退く。尤も痛泣を為す。(漢字を一部略字に変更してますので間違いがあればすいません)」
日本軍に手痛く迎撃されられた上に、泗川の敗報に報して日本諸将の撤兵意思を好材料として和を講じたの
でしょう。しかし、明と朝鮮の連合軍はそれを反故にして後に押し寄せることとなります。
泗川での講和
明側の資料、「両朝平攘録」には「(略)中路使督陣茅國科、撫臺の激を持し、金パクを賚して義弘に見え、動すに
大儀を以てし、諭すに利害を以てす。郭國安傍より之を賛す。義弘許諾す。」とあり、
日本側の資料「征韓録」には「十月八日に、徳水式部卿法印壽昌(略)、泗川の新塞に来て、殿下の厳命なりとて
和議の次第、貢税の品、掃陣の行を述らる。その掃陣の期限は、十一月十五日を期として、諸将相倶に釜山浦へ
(略)、然るに十月十三日に、参謀史龍添(略)、此の塞に来り、和議を請ふ。(略)彼の人質を請取(略)和議と相成りて
掃陣の催しあり」
ともかく、泗川の大勝によって明軍を和議に向かわせたのは資料から確実と思われます。
前のレスを補足すると和議を結んだから撤退したのではなく、撤退の過程で和議が結ばれた、という事ですね。
義兵のことですが、彼等の活発な活動が日本軍を苦しめたのは疑いありません。
ただ、支配者層は義兵の反日抗争を自らの階級支配の道具に組み入れようとやっきになったそうです。
金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)によれば、戦争初期においては義兵を官軍に引きこむため、
義兵将らにたいして高い職位を授ける措置をとったが、やがて義兵闘争が官軍の補助的役割をするようになると
義兵には厳しい統制と圧力がくわえられ、政府は義兵達が巡察使(道内の軍務を巡察する官職臨時軍司令官)及び
体察使(臨時宰相兼軍司令官)の指揮を受けるようにしたが、それらの指揮官は殆どの者が正確な指揮をなしえなかった。
戦争末期には、為政者たちは義兵の存在を十分留意していた。すなわちかれらは戦闘の経験を有し、武器を多数
備え、権力者にとって恐ろしい存在である事を認識し、義兵にたいする統率と圧力をより一層強化するとともに
迫害を加えた。そのため、義兵達は組織された部隊として機能できなくなった。
しかも、義兵部隊の核心的活動家はほとんどが被圧迫階級で、体を張って貢献したにも関わらず、政府はかれらを
正当に評価せず、戦争が終わると義兵たちはまたもや農奴的身分におとしめ、過酷な収奪を繰り返した。
義兵闘争の過程で官職を授けられた義兵将も、国家権力によって廃履のように捨てられるが、党派の政争に組み込まれて
権力者らの猜忌や謀略により迫害され、はては流配か死刑かの不遇な生涯を送らねばならなかったそうです。
574 :
名無しさん@1周年:2000/12/05(火) 02:27
480さん、指摘ありがとうございます。
蘇峰徳猪一郎著『近世日本国民史 第九巻 朝鮮役下巻』(時事通信社 昭和三十九年二月十日発行)によれば、
秀吉の死去後、五大老は朝鮮の諸将に撤兵を命を出し、順天、泗川では明軍は敗戦で戦意を失っていたため
早々と講和が締結されたらしいです。順天では提督の劉延が降倭の沙也可を使者として小西行長に和議を
持ちこみ、人質として劉天を差し出しました。朝鮮の資料「宣祖實緑」では順天城の攻防における劉延の
無能ぶりを「(略)提督事を行ふ、正に魂を奪はれたる人の如し。将卒皆軽侮す。適ゝ泗川の敗報を見、(略)
意を決して兵を退く。尤も痛泣を為す。(漢字を一部略字に変更してますので間違いがあればすいません)」
日本軍に手痛く迎撃されられた上に、泗川の敗報に報して日本諸将の撤兵意思を好材料として和を講じたの
でしょう。しかし、明と朝鮮の連合軍はそれを反故にして後に押し寄せることとなります。
泗川での講和
明側の資料、「両朝平攘録」には「(略)中路使督陣茅國科、撫臺の激を持し、金パクを賚して義弘に見え、動すに
大儀を以てし、諭すに利害を以てす。郭國安傍より之を賛す。義弘許諾す。」とあり、
日本側の資料「征韓録」には「十月八日に、徳水式部卿法印壽昌(略)、泗川の新塞に来て、殿下の厳命なりとて
和議の次第、貢税の品、掃陣の行を述らる。その掃陣の期限は、十一月十五日を期として、諸将相倶に釜山浦へ
(略)、然るに十月十三日に、参謀史龍添(略)、此の塞に来り、和議を請ふ。(略)彼の人質を請取(略)和議と相成りて
掃陣の催しあり」
ともかく、泗川の大勝によって明軍を和議に向かわせたのは資料から確実と思われます。
前のレスを補足すると和議を結んだから撤退したのではなく、撤退の過程で和議が結ばれた、という事ですね。
義兵のことですが、彼等の活発な活動が日本軍を苦しめたのは疑いありません。
ただ、支配者層は義兵の反日抗争を自らの階級支配の道具に組み入れようとやっきになったそうです。
金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)によれば、戦争初期においては義兵を官軍に引きこむため、
義兵将らにたいして高い職位を授ける措置をとったが、やがて義兵闘争が官軍の補助的役割をするようになると
義兵には厳しい統制と圧力がくわえられ、政府は義兵達が巡察使(道内の軍務を巡察する官職臨時軍司令官)及び
体察使(臨時宰相兼軍司令官)の指揮を受けるようにしたが、それらの指揮官は殆どの者が正確な指揮をなしえなかった。
戦争末期には、為政者たちは義兵の存在を十分留意していた。すなわちかれらは戦闘の経験を有し、武器を多数
備え、権力者にとって恐ろしい存在である事を認識し、義兵にたいする統率と圧力をより一層強化するとともに
迫害を加えた。そのため、義兵達は組織された部隊として機能できなくなった。
しかも、義兵部隊の核心的活動家はほとんどが被圧迫階級で、体を張って貢献したにも関わらず、政府はかれらを
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義兵闘争の過程で官職を授けられた義兵将も、国家権力によって廃履のように捨てられるが、党派の政争に組み込まれて
権力者らの猜忌や謀略により迫害され、はては流配か死刑かの不遇な生涯を送らねばならなかったそうです。 zxcde
575 :
名無しさん@1周年:2000/12/05(火) 02:27
480さん、指摘ありがとうございます。
蘇峰徳猪一郎著『近世日本国民史 第九巻 朝鮮役下巻』(時事通信社 昭和三十九年二月十日発行)によれば、
秀吉の死去後、五大老は朝鮮の諸将に撤兵を命を出し、順天、泗川では明軍は敗戦で戦意を失っていたため
早々と講和が締結されたらしいです。順天では提督の劉延が降倭の沙也可を使者として小西行長に和議を
持ちこみ、人質として劉天を差し出しました。朝鮮の資料「宣祖實緑」では順天城の攻防における劉延の
無能ぶりを「(略)提督事を行ふ、正に魂を奪はれたる人の如し。将卒皆軽侮す。適ゝ泗川の敗報を見、(略)
意を決して兵を退く。尤も痛泣を為す。(漢字を一部略字に変更してますので間違いがあればすいません)」
日本軍に手痛く迎撃されられた上に、泗川の敗報に報して日本諸将の撤兵意思を好材料として和を講じたの
でしょう。しかし、明と朝鮮の連合軍はそれを反故にして後に押し寄せることとなります。
泗川での講和
明側の資料、「両朝平攘録」には「(略)中路使督陣茅國科、撫臺の激を持し、金パクを賚して義弘に見え、動すに
大儀を以てし、諭すに利害を以てす。郭國安傍より之を賛す。義弘許諾す。」とあり、
日本側の資料「征韓録」には「十月八日に、徳水式部卿法印壽昌(略)、泗川の新塞に来て、殿下の厳命なりとて
和議の次第、貢税の品、掃陣の行を述らる。その掃陣の期限は、十一月十五日を期として、諸将相倶に釜山浦へ
(略)、然るに十月十三日に、参謀史龍添(略)、此の塞に来り、和議を請ふ。(略)彼の人質を請取(略)和議と相成りて
掃陣の催しあり」
ともかく、泗川の大勝によって明軍を和議に向かわせたのは資料から確実と思われます。
前のレスを補足すると和議を結んだから撤退したのではなく、撤退の過程で和議が結ばれた、という事ですね。
義兵のことですが、彼等の活発な活動が日本軍を苦しめたのは疑いありません。
ただ、支配者層は義兵の反日抗争を自らの階級支配の道具に組み入れようとやっきになったそうです。
金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)によれば、戦争初期においては義兵を官軍に引きこむため、
義兵将らにたいして高い職位を授ける措置をとったが、やがて義兵闘争が官軍の補助的役割をするようになると
義兵には厳しい統制と圧力がくわえられ、政府は義兵達が巡察使(道内の軍務を巡察する官職臨時軍司令官)及び
体察使(臨時宰相兼軍司令官)の指揮を受けるようにしたが、それらの指揮官は殆どの者が正確な指揮をなしえなかった。
戦争末期には、為政者たちは義兵の存在を十分留意していた。すなわちかれらは戦闘の経験を有し、武器を多数
備え、権力者にとって恐ろしい存在である事を認識し、義兵にたいする統率と圧力をより一層強化するとともに
迫害を加えた。そのため、義兵達は組織された部隊として機能できなくなった。
しかも、義兵部隊の核心的活動家はほとんどが被圧迫階級で、体を張って貢献したにも関わらず、政府はかれらを
正当に評価せず、戦争が終わると義兵たちはまたもや農奴的身分におとしめ、過酷な収奪を繰り返した。
義兵闘争の過程で官職を授けられた義兵将も、国家権力によって廃履のように捨てられるが、党派の政争に組み込まれて
権力者らの猜忌や謀略により迫害され、はては流配か死刑かの不遇な生涯を送らねばならなかったそうです。 zxcde
576 :
名無しさん@1周年:2000/12/05(火) 02:28
480さん、指摘ありがとうございます。
蘇峰徳猪一郎著『近世日本国民史 第九巻 朝鮮役下巻』(時事通信社 昭和三十九年二月十日発行)によれば、
秀吉の死去後、五大老は朝鮮の諸将に撤兵を命を出し、順天、泗川では明軍は敗戦で戦意を失っていたため
早々と講和が締結されたらしいです。順天では提督の劉延が降倭の沙也可を使者として小西行長に和議を
持ちこみ、人質として劉天を差し出しました。朝鮮の資料「宣祖實緑」では順天城の攻防における劉延の
無能ぶりを「(略)提督事を行ふ、正に魂を奪はれたる人の如し。将卒皆軽侮す。適ゝ泗川の敗報を見、(略)
意を決して兵を退く。尤も痛泣を為す。(漢字を一部略字に変更してますので間違いがあればすいません)」
日本軍に手痛く迎撃されられた上に、泗川の敗報に報して日本諸将の撤兵意思を好材料として和を講じたの
でしょう。しかし、明と朝鮮の連合軍はそれを反故にして後に押し寄せることとなります。
泗川での講和
明側の資料、「両朝平攘録」には「(略)中路使督陣茅國科、撫臺の激を持し、金パクを賚して義弘に見え、動すに
大儀を以てし、諭すに利害を以てす。郭國安傍より之を賛す。義弘許諾す。」とあり、
日本側の資料「征韓録」には「十月八日に、徳水式部卿法印壽昌(略)、泗川の新塞に来て、殿下の厳命なりとて
和議の次第、貢税の品、掃陣の行を述らる。その掃陣の期限は、十一月十五日を期として、諸将相倶に釜山浦へ
(略)、然るに十月十三日に、参謀史龍添(略)、此の塞に来り、和議を請ふ。(略)彼の人質を請取(略)和議と相成りて
掃陣の催しあり」
ともかく、泗川の大勝によって明軍を和議に向かわせたのは資料から確実と思われます。
前のレスを補足すると和議を結んだから撤退したのではなく、撤退の過程で和議が結ばれた、という事ですね。
義兵のことですが、彼等の活発な活動が日本軍を苦しめたのは疑いありません。
ただ、支配者層は義兵の反日抗争を自らの階級支配の道具に組み入れようとやっきになったそうです。
金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)によれば、戦争初期においては義兵を官軍に引きこむため、
義兵将らにたいして高い職位を授ける措置をとったが、やがて義兵闘争が官軍の補助的役割をするようになると
義兵には厳しい統制と圧力がくわえられ、政府は義兵達が巡察使(道内の軍務を巡察する官職臨時軍司令官)及び
体察使(臨時宰相兼軍司令官)の指揮を受けるようにしたが、それらの指揮官は殆どの者が正確な指揮をなしえなかった。
戦争末期には、為政者たちは義兵の存在を十分留意していた。すなわちかれらは戦闘の経験を有し、武器を多数
備え、権力者にとって恐ろしい存在である事を認識し、義兵にたいする統率と圧力をより一層強化するとともに
迫害を加えた。そのため、義兵達は組織された部隊として機能できなくなった。
しかも、義兵部隊の核心的活動家はほとんどが被圧迫階級で、体を張って貢献したにも関わらず、政府はかれらを
正当に評価せず、戦争が終わると義兵たちはまたもや農奴的身分におとしめ、過酷な収奪を繰り返した。
義兵闘争の過程で官職を授けられた義兵将も、国家権力によって廃履のように捨てられるが、党派の政争に組み込まれて
権力者らの猜忌や謀略により迫害され、はては流配か死刑かの不遇な生涯を送らねばならなかったそうです。
577 :
名無しさん@1周年:2000/12/05(火) 02:28
480さん、指摘ありがとうございます。
蘇峰徳猪一郎著『近世日本国民史 第九巻 朝鮮役下巻』(時事通信社 昭和三十九年二月十日発行)によれば、
秀吉の死去後、五大老は朝鮮の諸将に撤兵を命を出し、順天、泗川では明軍は敗戦で戦意を失っていたため
早々と講和が締結されたらしいです。順天では提督の劉延が降倭の沙也可を使者として小西行長に和議を
持ちこみ、人質として劉天を差し出しました。朝鮮の資料「宣祖實緑」では順天城の攻防における劉延の
無能ぶりを「(略)提督事を行ふ、正に魂を奪はれたる人の如し。将卒皆軽侮す。適ゝ泗川の敗報を見、(略)
意を決して兵を退く。尤も痛泣を為す。(漢字を一部略字に変更してますので間違いがあればすいません)」
日本軍に手痛く迎撃されられた上に、泗川の敗報に報して日本諸将の撤兵意思を好材料として和を講じたの
でしょう。しかし、明と朝鮮の連合軍はそれを反故にして後に押し寄せることとなります。
泗川での講和
明側の資料、「両朝平攘録」には「(略)中路使督陣茅國科、撫臺の激を持し、金パクを賚して義弘に見え、動すに
大儀を以てし、諭すに利害を以てす。郭國安傍より之を賛す。義弘許諾す。」とあり、
日本側の資料「征韓録」には「十月八日に、徳水式部卿法印壽昌(略)、泗川の新塞に来て、殿下の厳命なりとて
和議の次第、貢税の品、掃陣の行を述らる。その掃陣の期限は、十一月十五日を期として、諸将相倶に釜山浦へ
(略)、然るに十月十三日に、参謀史龍添(略)、此の塞に来り、和議を請ふ。(略)彼の人質を請取(略)和議と相成りて
掃陣の催しあり」
ともかく、泗川の大勝によって明軍を和議に向かわせたのは資料から確実と思われます。
前のレスを補足すると和議を結んだから撤退したのではなく、撤退の過程で和議が結ばれた、という事ですね。
義兵のことですが、彼等の活発な活動が日本軍を苦しめたのは疑いありません。
ただ、支配者層は義兵の反日抗争を自らの階級支配の道具に組み入れようとやっきになったそうです。
金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)によれば、戦争初期においては義兵を官軍に引きこむため、
義兵将らにたいして高い職位を授ける措置をとったが、やがて義兵闘争が官軍の補助的役割をするようになると
義兵には厳しい統制と圧力がくわえられ、政府は義兵達が巡察使(道内の軍務を巡察する官職臨時軍司令官)及び
体察使(臨時宰相兼軍司令官)の指揮を受けるようにしたが、それらの指揮官は殆どの者が正確な指揮をなしえなかった。
戦争末期には、為政者たちは義兵の存在を十分留意していた。すなわちかれらは戦闘の経験を有し、武器を多数
備え、権力者にとって恐ろしい存在である事を認識し、義兵にたいする統率と圧力をより一層強化するとともに
迫害を加えた。そのため、義兵達は組織された部隊として機能できなくなった。
しかも、義兵部隊の核心的活動家はほとんどが被圧迫階級で、体を張って貢献したにも関わらず、政府はかれらを
正当に評価せず、戦争が終わると義兵たちはまたもや農奴的身分におとしめ、過酷な収奪を繰り返した。
義兵闘争の過程で官職を授けられた義兵将も、国家権力によって廃履のように捨てられるが、党派の政争に組み込まれて
権力者らの猜忌や謀略により迫害され、はては流配か死刑かの不遇な生涯を送らねばならなかったそうです。
578 :
名無しさん@1周年:2000/12/05(火) 02:28
480さん、指摘ありがとうございます。
蘇峰徳猪一郎著『近世日本国民史 第九巻 朝鮮役下巻』(時事通信社 昭和三十九年二月十日発行)によれば、
秀吉の死去後、五大老は朝鮮の諸将に撤兵を命を出し、順天、泗川では明軍は敗戦で戦意を失っていたため
早々と講和が締結されたらしいです。順天では提督の劉延が降倭の沙也可を使者として小西行長に和議を
持ちこみ、人質として劉天を差し出しました。朝鮮の資料「宣祖實緑」では順天城の攻防における劉延の
無能ぶりを「(略)提督事を行ふ、正に魂を奪はれたる人の如し。将卒皆軽侮す。適ゝ泗川の敗報を見、(略)
意を決して兵を退く。尤も痛泣を為す。(漢字を一部略字に変更してますので間違いがあればすいません)」
日本軍に手痛く迎撃されられた上に、泗川の敗報に報して日本諸将の撤兵意思を好材料として和を講じたの
でしょう。しかし、明と朝鮮の連合軍はそれを反故にして後に押し寄せることとなります。
泗川での講和
明側の資料、「両朝平攘録」には「(略)中路使督陣茅國科、撫臺の激を持し、金パクを賚して義弘に見え、動すに
大儀を以てし、諭すに利害を以てす。郭國安傍より之を賛す。義弘許諾す。」とあり、
日本側の資料「征韓録」には「十月八日に、徳水式部卿法印壽昌(略)、泗川の新塞に来て、殿下の厳命なりとて
和議の次第、貢税の品、掃陣の行を述らる。その掃陣の期限は、十一月十五日を期として、諸将相倶に釜山浦へ
(略)、然るに十月十三日に、参謀史龍添(略)、此の塞に来り、和議を請ふ。(略)彼の人質を請取(略)和議と相成りて
掃陣の催しあり」
ともかく、泗川の大勝によって明軍を和議に向かわせたのは資料から確実と思われます。
前のレスを補足すると和議を結んだから撤退したのではなく、撤退の過程で和議が結ばれた、という事ですね。
義兵のことですが、彼等の活発な活動が日本軍を苦しめたのは疑いありません。
ただ、支配者層は義兵の反日抗争を自らの階級支配の道具に組み入れようとやっきになったそうです。
金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)によれば、戦争初期においては義兵を官軍に引きこむため、
義兵将らにたいして高い職位を授ける措置をとったが、やがて義兵闘争が官軍の補助的役割をするようになると
義兵には厳しい統制と圧力がくわえられ、政府は義兵達が巡察使(道内の軍務を巡察する官職臨時軍司令官)及び
体察使(臨時宰相兼軍司令官)の指揮を受けるようにしたが、それらの指揮官は殆どの者が正確な指揮をなしえなかった。
戦争末期には、為政者たちは義兵の存在を十分留意していた。すなわちかれらは戦闘の経験を有し、武器を多数
備え、権力者にとって恐ろしい存在である事を認識し、義兵にたいする統率と圧力をより一層強化するとともに
迫害を加えた。そのため、義兵達は組織された部隊として機能できなくなった。
しかも、義兵部隊の核心的活動家はほとんどが被圧迫階級で、体を張って貢献したにも関わらず、政府はかれらを
正当に評価せず、戦争が終わると義兵たちはまたもや農奴的身分におとしめ、過酷な収奪を繰り返した。
義兵闘争の過程で官職を授けられた義兵将も、国家権力によって廃履のように捨てられるが、党派の政争に組み込まれて
権力者らの猜忌や謀略により迫害され、はては流配か死刑かの不遇な生涯を送らねばならなかったそうです。
579 :
名無しさん@1周年:2000/12/05(火) 02:29
480さん、指摘ありがとうございます。
蘇峰徳猪一郎著『近世日本国民史 第九巻 朝鮮役下巻』(時事通信社 昭和三十九年二月十日発行)によれば、
秀吉の死去後、五大老は朝鮮の諸将に撤兵を命を出し、順天、泗川では明軍は敗戦で戦意を失っていたため
早々と講和が締結されたらしいです。順天では提督の劉延が降倭の沙也可を使者として小西行長に和議を
持ちこみ、人質として劉天を差し出しました。朝鮮の資料「宣祖實緑」では順天城の攻防における劉延の
無能ぶりを「(略)提督事を行ふ、正に魂を奪はれたる人の如し。将卒皆軽侮す。適ゝ泗川の敗報を見、(略)
意を決して兵を退く。尤も痛泣を為す。(漢字を一部略字に変更してますので間違いがあればすいません)」
日本軍に手痛く迎撃されられた上に、泗川の敗報に報して日本諸将の撤兵意思を好材料として和を講じたの
でしょう。しかし、明と朝鮮の連合軍はそれを反故にして後に押し寄せることとなります。
泗川での講和
明側の資料、「両朝平攘録」には「(略)中路使督陣茅國科、撫臺の激を持し、金パクを賚して義弘に見え、動すに
大儀を以てし、諭すに利害を以てす。郭國安傍より之を賛す。義弘許諾す。」とあり、
日本側の資料「征韓録」には「十月八日に、徳水式部卿法印壽昌(略)、泗川の新塞に来て、殿下の厳命なりとて
和議の次第、貢税の品、掃陣の行を述らる。その掃陣の期限は、十一月十五日を期として、諸将相倶に釜山浦へ
(略)、然るに十月十三日に、参謀史龍添(略)、此の塞に来り、和議を請ふ。(略)彼の人質を請取(略)和議と相成りて
掃陣の催しあり」
ともかく、泗川の大勝によって明軍を和議に向かわせたのは資料から確実と思われます。
前のレスを補足すると和議を結んだから撤退したのではなく、撤退の過程で和議が結ばれた、という事ですね。
義兵のことですが、彼等の活発な活動が日本軍を苦しめたのは疑いありません。
ただ、支配者層は義兵の反日抗争を自らの階級支配の道具に組み入れようとやっきになったそうです。
金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)によれば、戦争初期においては義兵を官軍に引きこむため、
義兵将らにたいして高い職位を授ける措置をとったが、やがて義兵闘争が官軍の補助的役割をするようになると
義兵には厳しい統制と圧力がくわえられ、政府は義兵達が巡察使(道内の軍務を巡察する官職臨時軍司令官)及び
体察使(臨時宰相兼軍司令官)の指揮を受けるようにしたが、それらの指揮官は殆どの者が正確な指揮をなしえなかった。
戦争末期には、為政者たちは義兵の存在を十分留意していた。すなわちかれらは戦闘の経験を有し、武器を多数
備え、権力者にとって恐ろしい存在である事を認識し、義兵にたいする統率と圧力をより一層強化するとともに
迫害を加えた。そのため、義兵達は組織された部隊として機能できなくなった。
しかも、義兵部隊の核心的活動家はほとんどが被圧迫階級で、体を張って貢献したにも関わらず、政府はかれらを
正当に評価せず、戦争が終わると義兵たちはまたもや農奴的身分におとしめ、過酷な収奪を繰り返した。
義兵闘争の過程で官職を授けられた義兵将も、国家権力によって廃履のように捨てられるが、党派の政争に組み込まれて
権力者らの猜忌や謀略により迫害され、はては流配か死刑かの不遇な生涯を送らねばならなかったそうです。
580 :
名無しさん@1周年:2000/12/05(火) 02:29
480さん、指摘ありがとうございます。
蘇峰徳猪一郎著『近世日本国民史 第九巻 朝鮮役下巻』(時事通信社 昭和三十九年二月十日発行)によれば、
秀吉の死去後、五大老は朝鮮の諸将に撤兵を命を出し、順天、泗川では明軍は敗戦で戦意を失っていたため
早々と講和が締結されたらしいです。順天では提督の劉延が降倭の沙也可を使者として小西行長に和議を
持ちこみ、人質として劉天を差し出しました。朝鮮の資料「宣祖實緑」では順天城の攻防における劉延の
無能ぶりを「(略)提督事を行ふ、正に魂を奪はれたる人の如し。将卒皆軽侮す。適ゝ泗川の敗報を見、(略)
意を決して兵を退く。尤も痛泣を為す。(漢字を一部略字に変更してますので間違いがあればすいません)」
日本軍に手痛く迎撃されられた上に、泗川の敗報に報して日本諸将の撤兵意思を好材料として和を講じたの
でしょう。しかし、明と朝鮮の連合軍はそれを反故にして後に押し寄せることとなります。
泗川での講和
明側の資料、「両朝平攘録」には「(略)中路使督陣茅國科、撫臺の激を持し、金パクを賚して義弘に見え、動すに
大儀を以てし、諭すに利害を以てす。郭國安傍より之を賛す。義弘許諾す。」とあり、
日本側の資料「征韓録」には「十月八日に、徳水式部卿法印壽昌(略)、泗川の新塞に来て、殿下の厳命なりとて
和議の次第、貢税の品、掃陣の行を述らる。その掃陣の期限は、十一月十五日を期として、諸将相倶に釜山浦へ
(略)、然るに十月十三日に、参謀史龍添(略)、此の塞に来り、和議を請ふ。(略)彼の人質を請取(略)和議と相成りて
掃陣の催しあり」
ともかく、泗川の大勝によって明軍を和議に向かわせたのは資料から確実と思われます。
前のレスを補足すると和議を結んだから撤退したのではなく、撤退の過程で和議が結ばれた、という事ですね。
義兵のことですが、彼等の活発な活動が日本軍を苦しめたのは疑いありません。
ただ、支配者層は義兵の反日抗争を自らの階級支配の道具に組み入れようとやっきになったそうです。
金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)によれば、戦争初期においては義兵を官軍に引きこむため、
義兵将らにたいして高い職位を授ける措置をとったが、やがて義兵闘争が官軍の補助的役割をするようになると
義兵には厳しい統制と圧力がくわえられ、政府は義兵達が巡察使(道内の軍務を巡察する官職臨時軍司令官)及び
体察使(臨時宰相兼軍司令官)の指揮を受けるようにしたが、それらの指揮官は殆どの者が正確な指揮をなしえなかった。
戦争末期には、為政者たちは義兵の存在を十分留意していた。すなわちかれらは戦闘の経験を有し、武器を多数
備え、権力者にとって恐ろしい存在である事を認識し、義兵にたいする統率と圧力をより一層強化するとともに
迫害を加えた。そのため、義兵達は組織された部隊として機能できなくなった。
しかも、義兵部隊の核心的活動家はほとんどが被圧迫階級で、体を張って貢献したにも関わらず、政府はかれらを
正当に評価せず、戦争が終わると義兵たちはまたもや農奴的身分におとしめ、過酷な収奪を繰り返した。
義兵闘争の過程で官職を授けられた義兵将も、国家権力によって廃履のように捨てられるが、党派の政争に組み込まれて
権力者らの猜忌や謀略により迫害され、はては流配か死刑かの不遇な生涯を送らねばならなかったそうです。
g
581 :
名無しさん@1周年:2000/12/05(火) 02:29
480さん、指摘ありがとうございます。
蘇峰徳猪一郎著『近世日本国民史 第九巻 朝鮮役下巻』(時事通信社 昭和三十九年二月十日発行)によれば、
秀吉の死去後、五大老は朝鮮の諸将に撤兵を命を出し、順天、泗川では明軍は敗戦で戦意を失っていたため
早々と講和が締結されたらしいです。順天では提督の劉延が降倭の沙也可を使者として小西行長に和議を
持ちこみ、人質として劉天を差し出しました。朝鮮の資料「宣祖實緑」では順天城の攻防における劉延の
無能ぶりを「(略)提督事を行ふ、正に魂を奪はれたる人の如し。将卒皆軽侮す。適ゝ泗川の敗報を見、(略)
意を決して兵を退く。尤も痛泣を為す。(漢字を一部略字に変更してますので間違いがあればすいません)」
日本軍に手痛く迎撃されられた上に、泗川の敗報に報して日本諸将の撤兵意思を好材料として和を講じたの
でしょう。しかし、明と朝鮮の連合軍はそれを反故にして後に押し寄せることとなります。
泗川での講和
明側の資料、「両朝平攘録」には「(略)中路使督陣茅國科、撫臺の激を持し、金パクを賚して義弘に見え、動すに
大儀を以てし、諭すに利害を以てす。郭國安傍より之を賛す。義弘許諾す。」とあり、
日本側の資料「征韓録」には「十月八日に、徳水式部卿法印壽昌(略)、泗川の新塞に来て、殿下の厳命なりとて
和議の次第、貢税の品、掃陣の行を述らる。その掃陣の期限は、十一月十五日を期として、諸将相倶に釜山浦へ
(略)、然るに十月十三日に、参謀史龍添(略)、此の塞に来り、和議を請ふ。(略)彼の人質を請取(略)和議と相成りて
掃陣の催しあり」
ともかく、泗川の大勝によって明軍を和議に向かわせたのは資料から確実と思われます。
前のレスを補足すると和議を結んだから撤退したのではなく、撤退の過程で和議が結ばれた、という事ですね。
義兵のことですが、彼等の活発な活動が日本軍を苦しめたのは疑いありません。
ただ、支配者層は義兵の反日抗争を自らの階級支配の道具に組み入れようとやっきになったそうです。
金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)によれば、戦争初期においては義兵を官軍に引きこむため、
義兵将らにたいして高い職位を授ける措置をとったが、やがて義兵闘争が官軍の補助的役割をするようになると
義兵には厳しい統制と圧力がくわえられ、政府は義兵達が巡察使(道内の軍務を巡察する官職臨時軍司令官)及び
体察使(臨時宰相兼軍司令官)の指揮を受けるようにしたが、それらの指揮官は殆どの者が正確な指揮をなしえなかった。
戦争末期には、為政者たちは義兵の存在を十分留意していた。すなわちかれらは戦闘の経験を有し、武器を多数
備え、権力者にとって恐ろしい存在である事を認識し、義兵にたいする統率と圧力をより一層強化するとともに
迫害を加えた。そのため、義兵達は組織された部隊として機能できなくなった。
しかも、義兵部隊の核心的活動家はほとんどが被圧迫階級で、体を張って貢献したにも関わらず、政府はかれらを
正当に評価せず、戦争が終わると義兵たちはまたもや農奴的身分におとしめ、過酷な収奪を繰り返した。
義兵闘争の過程で官職を授けられた義兵将も、国家権力によって廃履のように捨てられるが、党派の政争に組み込まれて
権力者らの猜忌や謀略により迫害され、はては流配か死刑かの不遇な生涯を送らねばならなかったそうです。
g
582 :
名無しさん@1周年:2000/12/05(火) 02:29
480さん、指摘ありがとうございます。
蘇峰徳猪一郎著『近世日本国民史 第九巻 朝鮮役下巻』(時事通信社 昭和三十九年二月十日発行)によれば、
秀吉の死去後、五大老は朝鮮の諸将に撤兵を命を出し、順天、泗川では明軍は敗戦で戦意を失っていたため
早々と講和が締結されたらしいです。順天では提督の劉延が降倭の沙也可を使者として小西行長に和議を
持ちこみ、人質として劉天を差し出しました。朝鮮の資料「宣祖實緑」では順天城の攻防における劉延の
無能ぶりを「(略)提督事を行ふ、正に魂を奪はれたる人の如し。将卒皆軽侮す。適ゝ泗川の敗報を見、(略)
意を決して兵を退く。尤も痛泣を為す。(漢字を一部略字に変更してますので間違いがあればすいません)」
日本軍に手痛く迎撃されられた上に、泗川の敗報に報して日本諸将の撤兵意思を好材料として和を講じたの
でしょう。しかし、明と朝鮮の連合軍はそれを反故にして後に押し寄せることとなります。
泗川での講和
明側の資料、「両朝平攘録」には「(略)中路使督陣茅國科、撫臺の激を持し、金パクを賚して義弘に見え、動すに
大儀を以てし、諭すに利害を以てす。郭國安傍より之を賛す。義弘許諾す。」とあり、
日本側の資料「征韓録」には「十月八日に、徳水式部卿法印壽昌(略)、泗川の新塞に来て、殿下の厳命なりとて
和議の次第、貢税の品、掃陣の行を述らる。その掃陣の期限は、十一月十五日を期として、諸将相倶に釜山浦へ
(略)、然るに十月十三日に、参謀史龍添(略)、此の塞に来り、和議を請ふ。(略)彼の人質を請取(略)和議と相成りて
掃陣の催しあり」
ともかく、泗川の大勝によって明軍を和議に向かわせたのは資料から確実と思われます。
前のレスを補足すると和議を結んだから撤退したのではなく、撤退の過程で和議が結ばれた、という事ですね。
義兵のことですが、彼等の活発な活動が日本軍を苦しめたのは疑いありません。
ただ、支配者層は義兵の反日抗争を自らの階級支配の道具に組み入れようとやっきになったそうです。
金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)によれば、戦争初期においては義兵を官軍に引きこむため、
義兵将らにたいして高い職位を授ける措置をとったが、やがて義兵闘争が官軍の補助的役割をするようになると
義兵には厳しい統制と圧力がくわえられ、政府は義兵達が巡察使(道内の軍務を巡察する官職臨時軍司令官)及び
体察使(臨時宰相兼軍司令官)の指揮を受けるようにしたが、それらの指揮官は殆どの者が正確な指揮をなしえなかった。
戦争末期には、為政者たちは義兵の存在を十分留意していた。すなわちかれらは戦闘の経験を有し、武器を多数
備え、権力者にとって恐ろしい存在である事を認識し、義兵にたいする統率と圧力をより一層強化するとともに
迫害を加えた。そのため、義兵達は組織された部隊として機能できなくなった。
しかも、義兵部隊の核心的活動家はほとんどが被圧迫階級で、体を張って貢献したにも関わらず、政府はかれらを
正当に評価せず、戦争が終わると義兵たちはまたもや農奴的身分におとしめ、過酷な収奪を繰り返した。
義兵闘争の過程で官職を授けられた義兵将も、国家権力によって廃履のように捨てられるが、党派の政争に組み込まれて
権力者らの猜忌や謀略により迫害され、はては流配か死刑かの不遇な生涯を送らねばならなかったそうです。
g
583 :
名無しさん@1周年:2000/12/05(火) 02:29
480さん、指摘ありがとうございます。
蘇峰徳猪一郎著『近世日本国民史 第九巻 朝鮮役下巻』(時事通信社 昭和三十九年二月十日発行)によれば、
秀吉の死去後、五大老は朝鮮の諸将に撤兵を命を出し、順天、泗川では明軍は敗戦で戦意を失っていたため
早々と講和が締結されたらしいです。順天では提督の劉延が降倭の沙也可を使者として小西行長に和議を
持ちこみ、人質として劉天を差し出しました。朝鮮の資料「宣祖實緑」では順天城の攻防における劉延の
無能ぶりを「(略)提督事を行ふ、正に魂を奪はれたる人の如し。将卒皆軽侮す。適ゝ泗川の敗報を見、(略)
意を決して兵を退く。尤も痛泣を為す。(漢字を一部略字に変更してますので間違いがあればすいません)」
日本軍に手痛く迎撃されられた上に、泗川の敗報に報して日本諸将の撤兵意思を好材料として和を講じたの
でしょう。しかし、明と朝鮮の連合軍はそれを反故にして後に押し寄せることとなります。
泗川での講和
明側の資料、「両朝平攘録」には「(略)中路使督陣茅國科、撫臺の激を持し、金パクを賚して義弘に見え、動すに
大儀を以てし、諭すに利害を以てす。郭國安傍より之を賛す。義弘許諾す。」とあり、
日本側の資料「征韓録」には「十月八日に、徳水式部卿法印壽昌(略)、泗川の新塞に来て、殿下の厳命なりとて
和議の次第、貢税の品、掃陣の行を述らる。その掃陣の期限は、十一月十五日を期として、諸将相倶に釜山浦へ
(略)、然るに十月十三日に、参謀史龍添(略)、此の塞に来り、和議を請ふ。(略)彼の人質を請取(略)和議と相成りて
掃陣の催しあり」
ともかく、泗川の大勝によって明軍を和議に向かわせたのは資料から確実と思われます。
前のレスを補足すると和議を結んだから撤退したのではなく、撤退の過程で和議が結ばれた、という事ですね。
義兵のことですが、彼等の活発な活動が日本軍を苦しめたのは疑いありません。
ただ、支配者層は義兵の反日抗争を自らの階級支配の道具に組み入れようとやっきになったそうです。
金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)によれば、戦争初期においては義兵を官軍に引きこむため、
義兵将らにたいして高い職位を授ける措置をとったが、やがて義兵闘争が官軍の補助的役割をするようになると
義兵には厳しい統制と圧力がくわえられ、政府は義兵達が巡察使(道内の軍務を巡察する官職臨時軍司令官)及び
体察使(臨時宰相兼軍司令官)の指揮を受けるようにしたが、それらの指揮官は殆どの者が正確な指揮をなしえなかった。
戦争末期には、為政者たちは義兵の存在を十分留意していた。すなわちかれらは戦闘の経験を有し、武器を多数
備え、権力者にとって恐ろしい存在である事を認識し、義兵にたいする統率と圧力をより一層強化するとともに
迫害を加えた。そのため、義兵達は組織された部隊として機能できなくなった。
しかも、義兵部隊の核心的活動家はほとんどが被圧迫階級で、体を張って貢献したにも関わらず、政府はかれらを
正当に評価せず、戦争が終わると義兵たちはまたもや農奴的身分におとしめ、過酷な収奪を繰り返した。
義兵闘争の過程で官職を授けられた義兵将も、国家権力によって廃履のように捨てられるが、党派の政争に組み込まれて
権力者らの猜忌や謀略により迫害され、はては流配か死刑かの不遇な生涯を送らねばならなかったそうです。
g
584 :
名無しさん@1周年:2000/12/05(火) 02:29
480さん、指摘ありがとうございます。
蘇峰徳猪一郎著『近世日本国民史 第九巻 朝鮮役下巻』(時事通信社 昭和三十九年二月十日発行)によれば、
秀吉の死去後、五大老は朝鮮の諸将に撤兵を命を出し、順天、泗川では明軍は敗戦で戦意を失っていたため
早々と講和が締結されたらしいです。順天では提督の劉延が降倭の沙也可を使者として小西行長に和議を
持ちこみ、人質として劉天を差し出しました。朝鮮の資料「宣祖實緑」では順天城の攻防における劉延の
無能ぶりを「(略)提督事を行ふ、正に魂を奪はれたる人の如し。将卒皆軽侮す。適ゝ泗川の敗報を見、(略)
意を決して兵を退く。尤も痛泣を為す。(漢字を一部略字に変更してますので間違いがあればすいません)」
日本軍に手痛く迎撃されられた上に、泗川の敗報に報して日本諸将の撤兵意思を好材料として和を講じたの
でしょう。しかし、明と朝鮮の連合軍はそれを反故にして後に押し寄せることとなります。
泗川での講和
明側の資料、「両朝平攘録」には「(略)中路使督陣茅國科、撫臺の激を持し、金パクを賚して義弘に見え、動すに
大儀を以てし、諭すに利害を以てす。郭國安傍より之を賛す。義弘許諾す。」とあり、
日本側の資料「征韓録」には「十月八日に、徳水式部卿法印壽昌(略)、泗川の新塞に来て、殿下の厳命なりとて
和議の次第、貢税の品、掃陣の行を述らる。その掃陣の期限は、十一月十五日を期として、諸将相倶に釜山浦へ
(略)、然るに十月十三日に、参謀史龍添(略)、此の塞に来り、和議を請ふ。(略)彼の人質を請取(略)和議と相成りて
掃陣の催しあり」
ともかく、泗川の大勝によって明軍を和議に向かわせたのは資料から確実と思われます。
前のレスを補足すると和議を結んだから撤退したのではなく、撤退の過程で和議が結ばれた、という事ですね。
義兵のことですが、彼等の活発な活動が日本軍を苦しめたのは疑いありません。
ただ、支配者層は義兵の反日抗争を自らの階級支配の道具に組み入れようとやっきになったそうです。
金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)によれば、戦争初期においては義兵を官軍に引きこむため、
義兵将らにたいして高い職位を授ける措置をとったが、やがて義兵闘争が官軍の補助的役割をするようになると
義兵には厳しい統制と圧力がくわえられ、政府は義兵達が巡察使(道内の軍務を巡察する官職臨時軍司令官)及び
体察使(臨時宰相兼軍司令官)の指揮を受けるようにしたが、それらの指揮官は殆どの者が正確な指揮をなしえなかった。
戦争末期には、為政者たちは義兵の存在を十分留意していた。すなわちかれらは戦闘の経験を有し、武器を多数
備え、権力者にとって恐ろしい存在である事を認識し、義兵にたいする統率と圧力をより一層強化するとともに
迫害を加えた。そのため、義兵達は組織された部隊として機能できなくなった。
しかも、義兵部隊の核心的活動家はほとんどが被圧迫階級で、体を張って貢献したにも関わらず、政府はかれらを
正当に評価せず、戦争が終わると義兵たちはまたもや農奴的身分におとしめ、過酷な収奪を繰り返した。
義兵闘争の過程で官職を授けられた義兵将も、国家権力によって廃履のように捨てられるが、党派の政争に組み込まれて
権力者らの猜忌や謀略により迫害され、はては流配か死刑かの不遇な生涯を送らねばならなかったそうです。
g
585 :
名無しさん@1周年:2000/12/05(火) 02:29
480さん、指摘ありがとうございます。
蘇峰徳猪一郎著『近世日本国民史 第九巻 朝鮮役下巻』(時事通信社 昭和三十九年二月十日発行)によれば、
秀吉の死去後、五大老は朝鮮の諸将に撤兵を命を出し、順天、泗川では明軍は敗戦で戦意を失っていたため
早々と講和が締結されたらしいです。順天では提督の劉延が降倭の沙也可を使者として小西行長に和議を
持ちこみ、人質として劉天を差し出しました。朝鮮の資料「宣祖實緑」では順天城の攻防における劉延の
無能ぶりを「(略)提督事を行ふ、正に魂を奪はれたる人の如し。将卒皆軽侮す。適ゝ泗川の敗報を見、(略)
意を決して兵を退く。尤も痛泣を為す。(漢字を一部略字に変更してますので間違いがあればすいません)」
日本軍に手痛く迎撃されられた上に、泗川の敗報に報して日本諸将の撤兵意思を好材料として和を講じたの
でしょう。しかし、明と朝鮮の連合軍はそれを反故にして後に押し寄せることとなります。
泗川での講和
明側の資料、「両朝平攘録」には「(略)中路使督陣茅國科、撫臺の激を持し、金パクを賚して義弘に見え、動すに
大儀を以てし、諭すに利害を以てす。郭國安傍より之を賛す。義弘許諾す。」とあり、
日本側の資料「征韓録」には「十月八日に、徳水式部卿法印壽昌(略)、泗川の新塞に来て、殿下の厳命なりとて
和議の次第、貢税の品、掃陣の行を述らる。その掃陣の期限は、十一月十五日を期として、諸将相倶に釜山浦へ
(略)、然るに十月十三日に、参謀史龍添(略)、此の塞に来り、和議を請ふ。(略)彼の人質を請取(略)和議と相成りて
掃陣の催しあり」
ともかく、泗川の大勝によって明軍を和議に向かわせたのは資料から確実と思われます。
前のレスを補足すると和議を結んだから撤退したのではなく、撤退の過程で和議が結ばれた、という事ですね。
義兵のことですが、彼等の活発な活動が日本軍を苦しめたのは疑いありません。
ただ、支配者層は義兵の反日抗争を自らの階級支配の道具に組み入れようとやっきになったそうです。
金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)によれば、戦争初期においては義兵を官軍に引きこむため、
義兵将らにたいして高い職位を授ける措置をとったが、やがて義兵闘争が官軍の補助的役割をするようになると
義兵には厳しい統制と圧力がくわえられ、政府は義兵達が巡察使(道内の軍務を巡察する官職臨時軍司令官)及び
体察使(臨時宰相兼軍司令官)の指揮を受けるようにしたが、それらの指揮官は殆どの者が正確な指揮をなしえなかった。
戦争末期には、為政者たちは義兵の存在を十分留意していた。すなわちかれらは戦闘の経験を有し、武器を多数
備え、権力者にとって恐ろしい存在である事を認識し、義兵にたいする統率と圧力をより一層強化するとともに
迫害を加えた。そのため、義兵達は組織された部隊として機能できなくなった。
しかも、義兵部隊の核心的活動家はほとんどが被圧迫階級で、体を張って貢献したにも関わらず、政府はかれらを
正当に評価せず、戦争が終わると義兵たちはまたもや農奴的身分におとしめ、過酷な収奪を繰り返した。
義兵闘争の過程で官職を授けられた義兵将も、国家権力によって廃履のように捨てられるが、党派の政争に組み込まれて
権力者らの猜忌や謀略により迫害され、はては流配か死刑かの不遇な生涯を送らねばならなかったそうです。
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名無しさん@1周年:2000/12/05(火) 02:31
480さん、指摘ありがとうございます。
蘇峰徳猪一郎著『近世日本国民史 第九巻 朝鮮役下巻』(時事通信社 昭和三十九年二月十日発行)によれば、
秀吉の死去後、五大老は朝鮮の諸将に撤兵を命を出し、順天、泗川では明軍は敗戦で戦意を失っていたため
早々と講和が締結されたらしいです。順天では提督の劉延が降倭の沙也可を使者として小西行長に和議を
持ちこみ、人質として劉天を差し出しました。朝鮮の資料「宣祖實緑」では順天城の攻防における劉延の
無能ぶりを「(略)提督事を行ふ、正に魂を奪はれたる人の如し。将卒皆軽侮す。適ゝ泗川の敗報を見、(略)
意を決して兵を退く。尤も痛泣を為す。(漢字を一部略字に変更してますので間違いがあればすいません)」
日本軍に手痛く迎撃されられた上に、泗川の敗報に報して日本諸将の撤兵意思を好材料として和を講じたの
でしょう。しかし、明と朝鮮の連合軍はそれを反故にして後に押し寄せることとなります。
泗川での講和
明側の資料、「両朝平攘録」には「(略)中路使督陣茅國科、撫臺の激を持し、金パクを賚して義弘に見え、動すに
大儀を以てし、諭すに利害を以てす。郭國安傍より之を賛す。義弘許諾す。」とあり、
日本側の資料「征韓録」には「十月八日に、徳水式部卿法印壽昌(略)、泗川の新塞に来て、殿下の厳命なりとて
和議の次第、貢税の品、掃陣の行を述らる。その掃陣の期限は、十一月十五日を期として、諸将相倶に釜山浦へ
(略)、然るに十月十三日に、参謀史龍添(略)、此の塞に来り、和議を請ふ。(略)彼の人質を請取(略)和議と相成りて
掃陣の催しあり」
ともかく、泗川の大勝によって明軍を和議に向かわせたのは資料から確実と思われます。
前のレスを補足すると和議を結んだから撤退したのではなく、撤退の過程で和議が結ばれた、という事ですね。
義兵のことですが、彼等の活発な活動が日本軍を苦しめたのは疑いありません。
ただ、支配者層は義兵の反日抗争を自らの階級支配の道具に組み入れようとやっきになったそうです。
金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)によれば、戦争初期においては義兵を官軍に引きこむため、
義兵将らにたいして高い職位を授ける措置をとったが、やがて義兵闘争が官軍の補助的役割をするようになると
義兵には厳しい統制と圧力がくわえられ、政府は義兵達が巡察使(道内の軍務を巡察する官職臨時軍司令官)及び
体察使(臨時宰相兼軍司令官)の指揮を受けるようにしたが、それらの指揮官は殆どの者が正確な指揮をなしえなかった。
戦争末期には、為政者たちは義兵の存在を十分留意していた。すなわちかれらは戦闘の経験を有し、武器を多数
備え、権力者にとって恐ろしい存在である事を認識し、義兵にたいする統率と圧力をより一層強化するとともに
迫害を加えた。そのため、義兵達は組織された部隊として機能できなくなった。
しかも、義兵部隊の核心的活動家はほとんどが被圧迫階級で、体を張って貢献したにも関わらず、政府はかれらを
正当に評価せず、戦争が終わると義兵たちはまたもや農奴的身分におとしめ、過酷な収奪を繰り返した。
義兵闘争の過程で官職を授けられた義兵将も、国家権力によって廃履のように捨てられるが、党派の政争に組み込まれて
権力者らの猜忌や謀略により迫害され、はては流配か死刑かの不遇な生涯を送らねばならなかったそうです。
w
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名無しさん@1周年:2000/12/05(火) 02:31
480さん、指摘ありがとうございます。
蘇峰徳猪一郎著『近世日本国民史 第九巻 朝鮮役下巻』(時事通信社 昭和三十九年二月十日発行)によれば、
秀吉の死去後、五大老は朝鮮の諸将に撤兵を命を出し、順天、泗川では明軍は敗戦で戦意を失っていたため
早々と講和が締結されたらしいです。順天では提督の劉延が降倭の沙也可を使者として小西行長に和議を
持ちこみ、人質として劉天を差し出しました。朝鮮の資料「宣祖實緑」では順天城の攻防における劉延の
無能ぶりを「(略)提督事を行ふ、正に魂を奪はれたる人の如し。将卒皆軽侮す。適ゝ泗川の敗報を見、(略)
意を決して兵を退く。尤も痛泣を為す。(漢字を一部略字に変更してますので間違いがあればすいません)」
日本軍に手痛く迎撃されられた上に、泗川の敗報に報して日本諸将の撤兵意思を好材料として和を講じたの
でしょう。しかし、明と朝鮮の連合軍はそれを反故にして後に押し寄せることとなります。
泗川での講和
明側の資料、「両朝平攘録」には「(略)中路使督陣茅國科、撫臺の激を持し、金パクを賚して義弘に見え、動すに
大儀を以てし、諭すに利害を以てす。郭國安傍より之を賛す。義弘許諾す。」とあり、
日本側の資料「征韓録」には「十月八日に、徳水式部卿法印壽昌(略)、泗川の新塞に来て、殿下の厳命なりとて
和議の次第、貢税の品、掃陣の行を述らる。その掃陣の期限は、十一月十五日を期として、諸将相倶に釜山浦へ
(略)、然るに十月十三日に、参謀史龍添(略)、此の塞に来り、和議を請ふ。(略)彼の人質を請取(略)和議と相成りて
掃陣の催しあり」
ともかく、泗川の大勝によって明軍を和議に向かわせたのは資料から確実と思われます。
前のレスを補足すると和議を結んだから撤退したのではなく、撤退の過程で和議が結ばれた、という事ですね。
義兵のことですが、彼等の活発な活動が日本軍を苦しめたのは疑いありません。
ただ、支配者層は義兵の反日抗争を自らの階級支配の道具に組み入れようとやっきになったそうです。
金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)によれば、戦争初期においては義兵を官軍に引きこむため、
義兵将らにたいして高い職位を授ける措置をとったが、やがて義兵闘争が官軍の補助的役割をするようになると
義兵には厳しい統制と圧力がくわえられ、政府は義兵達が巡察使(道内の軍務を巡察する官職臨時軍司令官)及び
体察使(臨時宰相兼軍司令官)の指揮を受けるようにしたが、それらの指揮官は殆どの者が正確な指揮をなしえなかった。
戦争末期には、為政者たちは義兵の存在を十分留意していた。すなわちかれらは戦闘の経験を有し、武器を多数
備え、権力者にとって恐ろしい存在である事を認識し、義兵にたいする統率と圧力をより一層強化するとともに
迫害を加えた。そのため、義兵達は組織された部隊として機能できなくなった。
しかも、義兵部隊の核心的活動家はほとんどが被圧迫階級で、体を張って貢献したにも関わらず、政府はかれらを
正当に評価せず、戦争が終わると義兵たちはまたもや農奴的身分におとしめ、過酷な収奪を繰り返した。
義兵闘争の過程で官職を授けられた義兵将も、国家権力によって廃履のように捨てられるが、党派の政争に組み込まれて
権力者らの猜忌や謀略により迫害され、はては流配か死刑かの不遇な生涯を送らねばならなかったそうです。
uio
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名無しさん@1周年:2000/12/05(火) 02:32
480さん、指摘ありがとうございます。
蘇峰徳猪一郎著『近世日本国民史 第九巻 朝鮮役下巻』(時事通信社 昭和三十九年二月十日発行)によれば、
秀吉の死去後、五大老は朝鮮の諸将に撤兵を命を出し、順天、泗川では明軍は敗戦で戦意を失っていたため
早々と講和が締結されたらしいです。順天では提督の劉延が降倭の沙也可を使者として小西行長に和議を
持ちこみ、人質として劉天を差し出しました。朝鮮の資料「宣祖實緑」では順天城の攻防における劉延の
無能ぶりを「(略)提督事を行ふ、正に魂を奪はれたる人の如し。将卒皆軽侮す。適ゝ泗川の敗報を見、(略)
意を決して兵を退く。尤も痛泣を為す。(漢字を一部略字に変更してますので間違いがあればすいません)」
日本軍に手痛く迎撃されられた上に、泗川の敗報に報して日本諸将の撤兵意思を好材料として和を講じたの
でしょう。しかし、明と朝鮮の連合軍はそれを反故にして後に押し寄せることとなります。
泗川での講和
明側の資料、「両朝平攘録」には「(略)中路使督陣茅國科、撫臺の激を持し、金パクを賚して義弘に見え、動すに
大儀を以てし、諭すに利害を以てす。郭國安傍より之を賛す。義弘許諾す。」とあり、
日本側の資料「征韓録」には「十月八日に、徳水式部卿法印壽昌(略)、泗川の新塞に来て、殿下の厳命なりとて
和議の次第、貢税の品、掃陣の行を述らる。その掃陣の期限は、十一月十五日を期として、諸将相倶に釜山浦へ
(略)、然るに十月十三日に、参謀史龍添(略)、此の塞に来り、和議を請ふ。(略)彼の人質を請取(略)和議と相成りて
掃陣の催しあり」
ともかく、泗川の大勝によって明軍を和議に向かわせたのは資料から確実と思われます。
前のレスを補足すると和議を結んだから撤退したのではなく、撤退の過程で和議が結ばれた、という事ですね。
義兵のことですが、彼等の活発な活動が日本軍を苦しめたのは疑いありません。
ただ、支配者層は義兵の反日抗争を自らの階級支配の道具に組み入れようとやっきになったそうです。
金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)によれば、戦争初期においては義兵を官軍に引きこむため、
義兵将らにたいして高い職位を授ける措置をとったが、やがて義兵闘争が官軍の補助的役割をするようになると
義兵には厳しい統制と圧力がくわえられ、政府は義兵達が巡察使(道内の軍務を巡察する官職臨時軍司令官)及び
体察使(臨時宰相兼軍司令官)の指揮を受けるようにしたが、それらの指揮官は殆どの者が正確な指揮をなしえなかった。
戦争末期には、為政者たちは義兵の存在を十分留意していた。すなわちかれらは戦闘の経験を有し、武器を多数
備え、権力者にとって恐ろしい存在である事を認識し、義兵にたいする統率と圧力をより一層強化するとともに
迫害を加えた。そのため、義兵達は組織された部隊として機能できなくなった。
しかも、義兵部隊の核心的活動家はほとんどが被圧迫階級で、体を張って貢献したにも関わらず、政府はかれらを
正当に評価せず、戦争が終わると義兵たちはまたもや農奴的身分におとしめ、過酷な収奪を繰り返した。
義兵闘争の過程で官職を授けられた義兵将も、国家権力によって廃履のように捨てられるが、党派の政争に組み込まれて
権力者らの猜忌や謀略により迫害され、はては流配か死刑かの不遇な生涯を送らねばならなかったそうです。
589 :
名無しさん@1周年:2000/12/05(火) 02:32
480さん、指摘ありがとうございます。
蘇峰徳猪一郎著『近世日本国民史 第九巻 朝鮮役下巻』(時事通信社 昭和三十九年二月十日発行)によれば、
秀吉の死去後、五大老は朝鮮の諸将に撤兵を命を出し、順天、泗川では明軍は敗戦で戦意を失っていたため
早々と講和が締結されたらしいです。順天では提督の劉延が降倭の沙也可を使者として小西行長に和議を
持ちこみ、人質として劉天を差し出しました。朝鮮の資料「宣祖實緑」では順天城の攻防における劉延の
無能ぶりを「(略)提督事を行ふ、正に魂を奪はれたる人の如し。将卒皆軽侮す。適ゝ泗川の敗報を見、(略)
意を決して兵を退く。尤も痛泣を為す。(漢字を一部略字に変更してますので間違いがあればすいません)」
日本軍に手痛く迎撃されられた上に、泗川の敗報に報して日本諸将の撤兵意思を好材料として和を講じたの
でしょう。しかし、明と朝鮮の連合軍はそれを反故にして後に押し寄せることとなります。
泗川での講和
明側の資料、「両朝平攘録」には「(略)中路使督陣茅國科、撫臺の激を持し、金パクを賚して義弘に見え、動すに
大儀を以てし、諭すに利害を以てす。郭國安傍より之を賛す。義弘許諾す。」とあり、
日本側の資料「征韓録」には「十月八日に、徳水式部卿法印壽昌(略)、泗川の新塞に来て、殿下の厳命なりとて
和議の次第、貢税の品、掃陣の行を述らる。その掃陣の期限は、十一月十五日を期として、諸将相倶に釜山浦へ
(略)、然るに十月十三日に、参謀史龍添(略)、此の塞に来り、和議を請ふ。(略)彼の人質を請取(略)和議と相成りて
掃陣の催しあり」
ともかく、泗川の大勝によって明軍を和議に向かわせたのは資料から確実と思われます。
前のレスを補足すると和議を結んだから撤退したのではなく、撤退の過程で和議が結ばれた、という事ですね。
義兵のことですが、彼等の活発な活動が日本軍を苦しめたのは疑いありません。
ただ、支配者層は義兵の反日抗争を自らの階級支配の道具に組み入れようとやっきになったそうです。
金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)によれば、戦争初期においては義兵を官軍に引きこむため、
義兵将らにたいして高い職位を授ける措置をとったが、やがて義兵闘争が官軍の補助的役割をするようになると
義兵には厳しい統制と圧力がくわえられ、政府は義兵達が巡察使(道内の軍務を巡察する官職臨時軍司令官)及び
体察使(臨時宰相兼軍司令官)の指揮を受けるようにしたが、それらの指揮官は殆どの者が正確な指揮をなしえなかった。
戦争末期には、為政者たちは義兵の存在を十分留意していた。すなわちかれらは戦闘の経験を有し、武器を多数
備え、権力者にとって恐ろしい存在である事を認識し、義兵にたいする統率と圧力をより一層強化するとともに
迫害を加えた。そのため、義兵達は組織された部隊として機能できなくなった。
しかも、義兵部隊の核心的活動家はほとんどが被圧迫階級で、体を張って貢献したにも関わらず、政府はかれらを
正当に評価せず、戦争が終わると義兵たちはまたもや農奴的身分におとしめ、過酷な収奪を繰り返した。
義兵闘争の過程で官職を授けられた義兵将も、国家権力によって廃履のように捨てられるが、党派の政争に組み込まれて
権力者らの猜忌や謀略により迫害され、はては流配か死刑かの不遇な生涯を送らねばならなかったそうです。
590 :
名無しさん@1周年:2000/12/05(火) 02:32
480さん、指摘ありがとうございます。
蘇峰徳猪一郎著『近世日本国民史 第九巻 朝鮮役下巻』(時事通信社 昭和三十九年二月十日発行)によれば、
秀吉の死去後、五大老は朝鮮の諸将に撤兵を命を出し、順天、泗川では明軍は敗戦で戦意を失っていたため
早々と講和が締結されたらしいです。順天では提督の劉延が降倭の沙也可を使者として小西行長に和議を
持ちこみ、人質として劉天を差し出しました。朝鮮の資料「宣祖實緑」では順天城の攻防における劉延の
無能ぶりを「(略)提督事を行ふ、正に魂を奪はれたる人の如し。将卒皆軽侮す。適ゝ泗川の敗報を見、(略)
意を決して兵を退く。尤も痛泣を為す。(漢字を一部略字に変更してますので間違いがあればすいません)」
日本軍に手痛く迎撃されられた上に、泗川の敗報に報して日本諸将の撤兵意思を好材料として和を講じたの
でしょう。しかし、明と朝鮮の連合軍はそれを反故にして後に押し寄せることとなります。
泗川での講和
明側の資料、「両朝平攘録」には「(略)中路使督陣茅國科、撫臺の激を持し、金パクを賚して義弘に見え、動すに
大儀を以てし、諭すに利害を以てす。郭國安傍より之を賛す。義弘許諾す。」とあり、
日本側の資料「征韓録」には「十月八日に、徳水式部卿法印壽昌(略)、泗川の新塞に来て、殿下の厳命なりとて
和議の次第、貢税の品、掃陣の行を述らる。その掃陣の期限は、十一月十五日を期として、諸将相倶に釜山浦へ
(略)、然るに十月十三日に、参謀史龍添(略)、此の塞に来り、和議を請ふ。(略)彼の人質を請取(略)和議と相成りて
掃陣の催しあり」
ともかく、泗川の大勝によって明軍を和議に向かわせたのは資料から確実と思われます。
前のレスを補足すると和議を結んだから撤退したのではなく、撤退の過程で和議が結ばれた、という事ですね。
義兵のことですが、彼等の活発な活動が日本軍を苦しめたのは疑いありません。
ただ、支配者層は義兵の反日抗争を自らの階級支配の道具に組み入れようとやっきになったそうです。
金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)によれば、戦争初期においては義兵を官軍に引きこむため、
義兵将らにたいして高い職位を授ける措置をとったが、やがて義兵闘争が官軍の補助的役割をするようになると
義兵には厳しい統制と圧力がくわえられ、政府は義兵達が巡察使(道内の軍務を巡察する官職臨時軍司令官)及び
体察使(臨時宰相兼軍司令官)の指揮を受けるようにしたが、それらの指揮官は殆どの者が正確な指揮をなしえなかった。
戦争末期には、為政者たちは義兵の存在を十分留意していた。すなわちかれらは戦闘の経験を有し、武器を多数
備え、権力者にとって恐ろしい存在である事を認識し、義兵にたいする統率と圧力をより一層強化するとともに
迫害を加えた。そのため、義兵達は組織された部隊として機能できなくなった。
しかも、義兵部隊の核心的活動家はほとんどが被圧迫階級で、体を張って貢献したにも関わらず、政府はかれらを
正当に評価せず、戦争が終わると義兵たちはまたもや農奴的身分におとしめ、過酷な収奪を繰り返した。
義兵闘争の過程で官職を授けられた義兵将も、国家権力によって廃履のように捨てられるが、党派の政争に組み込まれて
権力者らの猜忌や謀略により迫害され、はては流配か死刑かの不遇な生涯を送らねばならなかったそうです。
591 :
名無しさん@1周年:2000/12/05(火) 02:32
480さん、指摘ありがとうございます。
蘇峰徳猪一郎著『近世日本国民史 第九巻 朝鮮役下巻』(時事通信社 昭和三十九年二月十日発行)によれば、
秀吉の死去後、五大老は朝鮮の諸将に撤兵を命を出し、順天、泗川では明軍は敗戦で戦意を失っていたため
早々と講和が締結されたらしいです。順天では提督の劉延が降倭の沙也可を使者として小西行長に和議を
持ちこみ、人質として劉天を差し出しました。朝鮮の資料「宣祖實緑」では順天城の攻防における劉延の
無能ぶりを「(略)提督事を行ふ、正に魂を奪はれたる人の如し。将卒皆軽侮す。適ゝ泗川の敗報を見、(略)
意を決して兵を退く。尤も痛泣を為す。(漢字を一部略字に変更してますので間違いがあればすいません)」
日本軍に手痛く迎撃されられた上に、泗川の敗報に報して日本諸将の撤兵意思を好材料として和を講じたの
でしょう。しかし、明と朝鮮の連合軍はそれを反故にして後に押し寄せることとなります。
泗川での講和
明側の資料、「両朝平攘録」には「(略)中路使督陣茅國科、撫臺の激を持し、金パクを賚して義弘に見え、動すに
大儀を以てし、諭すに利害を以てす。郭國安傍より之を賛す。義弘許諾す。」とあり、
日本側の資料「征韓録」には「十月八日に、徳水式部卿法印壽昌(略)、泗川の新塞に来て、殿下の厳命なりとて
和議の次第、貢税の品、掃陣の行を述らる。その掃陣の期限は、十一月十五日を期として、諸将相倶に釜山浦へ
(略)、然るに十月十三日に、参謀史龍添(略)、此の塞に来り、和議を請ふ。(略)彼の人質を請取(略)和議と相成りて
掃陣の催しあり」
ともかく、泗川の大勝によって明軍を和議に向かわせたのは資料から確実と思われます。
前のレスを補足すると和議を結んだから撤退したのではなく、撤退の過程で和議が結ばれた、という事ですね。
義兵のことですが、彼等の活発な活動が日本軍を苦しめたのは疑いありません。
ただ、支配者層は義兵の反日抗争を自らの階級支配の道具に組み入れようとやっきになったそうです。
金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)によれば、戦争初期においては義兵を官軍に引きこむため、
義兵将らにたいして高い職位を授ける措置をとったが、やがて義兵闘争が官軍の補助的役割をするようになると
義兵には厳しい統制と圧力がくわえられ、政府は義兵達が巡察使(道内の軍務を巡察する官職臨時軍司令官)及び
体察使(臨時宰相兼軍司令官)の指揮を受けるようにしたが、それらの指揮官は殆どの者が正確な指揮をなしえなかった。
戦争末期には、為政者たちは義兵の存在を十分留意していた。すなわちかれらは戦闘の経験を有し、武器を多数
備え、権力者にとって恐ろしい存在である事を認識し、義兵にたいする統率と圧力をより一層強化するとともに
迫害を加えた。そのため、義兵達は組織された部隊として機能できなくなった。
しかも、義兵部隊の核心的活動家はほとんどが被圧迫階級で、体を張って貢献したにも関わらず、政府はかれらを
正当に評価せず、戦争が終わると義兵たちはまたもや農奴的身分におとしめ、過酷な収奪を繰り返した。
義兵闘争の過程で官職を授けられた義兵将も、国家権力によって廃履のように捨てられるが、党派の政争に組み込まれて
権力者らの猜忌や謀略により迫害され、はては流配か死刑かの不遇な生涯を送らねばならなかったそうです。
s
592 :
名無しさん@1周年:2000/12/05(火) 02:32
480さん、指摘ありがとうございます。
蘇峰徳猪一郎著『近世日本国民史 第九巻 朝鮮役下巻』(時事通信社 昭和三十九年二月十日発行)によれば、
秀吉の死去後、五大老は朝鮮の諸将に撤兵を命を出し、順天、泗川では明軍は敗戦で戦意を失っていたため
早々と講和が締結されたらしいです。順天では提督の劉延が降倭の沙也可を使者として小西行長に和議を
持ちこみ、人質として劉天を差し出しました。朝鮮の資料「宣祖實緑」では順天城の攻防における劉延の
無能ぶりを「(略)提督事を行ふ、正に魂を奪はれたる人の如し。将卒皆軽侮す。適ゝ泗川の敗報を見、(略)
意を決して兵を退く。尤も痛泣を為す。(漢字を一部略字に変更してますので間違いがあればすいません)」
日本軍に手痛く迎撃されられた上に、泗川の敗報に報して日本諸将の撤兵意思を好材料として和を講じたの
でしょう。しかし、明と朝鮮の連合軍はそれを反故にして後に押し寄せることとなります。
泗川での講和
明側の資料、「両朝平攘録」には「(略)中路使督陣茅國科、撫臺の激を持し、金パクを賚して義弘に見え、動すに
大儀を以てし、諭すに利害を以てす。郭國安傍より之を賛す。義弘許諾す。」とあり、
日本側の資料「征韓録」には「十月八日に、徳水式部卿法印壽昌(略)、泗川の新塞に来て、殿下の厳命なりとて
和議の次第、貢税の品、掃陣の行を述らる。その掃陣の期限は、十一月十五日を期として、諸将相倶に釜山浦へ
(略)、然るに十月十三日に、参謀史龍添(略)、此の塞に来り、和議を請ふ。(略)彼の人質を請取(略)和議と相成りて
掃陣の催しあり」
ともかく、泗川の大勝によって明軍を和議に向かわせたのは資料から確実と思われます。
前のレスを補足すると和議を結んだから撤退したのではなく、撤退の過程で和議が結ばれた、という事ですね。
義兵のことですが、彼等の活発な活動が日本軍を苦しめたのは疑いありません。
ただ、支配者層は義兵の反日抗争を自らの階級支配の道具に組み入れようとやっきになったそうです。
金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)によれば、戦争初期においては義兵を官軍に引きこむため、
義兵将らにたいして高い職位を授ける措置をとったが、やがて義兵闘争が官軍の補助的役割をするようになると
義兵には厳しい統制と圧力がくわえられ、政府は義兵達が巡察使(道内の軍務を巡察する官職臨時軍司令官)及び
体察使(臨時宰相兼軍司令官)の指揮を受けるようにしたが、それらの指揮官は殆どの者が正確な指揮をなしえなかった。
戦争末期には、為政者たちは義兵の存在を十分留意していた。すなわちかれらは戦闘の経験を有し、武器を多数
備え、権力者にとって恐ろしい存在である事を認識し、義兵にたいする統率と圧力をより一層強化するとともに
迫害を加えた。そのため、義兵達は組織された部隊として機能できなくなった。
しかも、義兵部隊の核心的活動家はほとんどが被圧迫階級で、体を張って貢献したにも関わらず、政府はかれらを
正当に評価せず、戦争が終わると義兵たちはまたもや農奴的身分におとしめ、過酷な収奪を繰り返した。
義兵闘争の過程で官職を授けられた義兵将も、国家権力によって廃履のように捨てられるが、党派の政争に組み込まれて
権力者らの猜忌や謀略により迫害され、はては流配か死刑かの不遇な生涯を送らねばならなかったそうです。
s
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名無しさん@1周年:2000/12/05(火) 02:33
480さん、指摘ありがとうございます。
蘇峰徳猪一郎著『近世日本国民史 第九巻 朝鮮役下巻』(時事通信社 昭和三十九年二月十日発行)によれば、
秀吉の死去後、五大老は朝鮮の諸将に撤兵を命を出し、順天、泗川では明軍は敗戦で戦意を失っていたため
早々と講和が締結されたらしいです。順天では提督の劉延が降倭の沙也可を使者として小西行長に和議を
持ちこみ、人質として劉天を差し出しました。朝鮮の資料「宣祖實緑」では順天城の攻防における劉延の
無能ぶりを「(略)提督事を行ふ、正に魂を奪はれたる人の如し。将卒皆軽侮す。適ゝ泗川の敗報を見、(略)
意を決して兵を退く。尤も痛泣を為す。(漢字を一部略字に変更してますので間違いがあればすいません)」
日本軍に手痛く迎撃されられた上に、泗川の敗報に報して日本諸将の撤兵意思を好材料として和を講じたの
でしょう。しかし、明と朝鮮の連合軍はそれを反故にして後に押し寄せることとなります。
泗川での講和
明側の資料、「両朝平攘録」には「(略)中路使督陣茅國科、撫臺の激を持し、金パクを賚して義弘に見え、動すに
大儀を以てし、諭すに利害を以てす。郭國安傍より之を賛す。義弘許諾す。」とあり、
日本側の資料「征韓録」には「十月八日に、徳水式部卿法印壽昌(略)、泗川の新塞に来て、殿下の厳命なりとて
和議の次第、貢税の品、掃陣の行を述らる。その掃陣の期限は、十一月十五日を期として、諸将相倶に釜山浦へ
(略)、然るに十月十三日に、参謀史龍添(略)、此の塞に来り、和議を請ふ。(略)彼の人質を請取(略)和議と相成りて
掃陣の催しあり」
ともかく、泗川の大勝によって明軍を和議に向かわせたのは資料から確実と思われます。
前のレスを補足すると和議を結んだから撤退したのではなく、撤退の過程で和議が結ばれた、という事ですね。
義兵のことですが、彼等の活発な活動が日本軍を苦しめたのは疑いありません。
ただ、支配者層は義兵の反日抗争を自らの階級支配の道具に組み入れようとやっきになったそうです。
金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)によれば、戦争初期においては義兵を官軍に引きこむため、
義兵将らにたいして高い職位を授ける措置をとったが、やがて義兵闘争が官軍の補助的役割をするようになると
義兵には厳しい統制と圧力がくわえられ、政府は義兵達が巡察使(道内の軍務を巡察する官職臨時軍司令官)及び
体察使(臨時宰相兼軍司令官)の指揮を受けるようにしたが、それらの指揮官は殆どの者が正確な指揮をなしえなかった。
戦争末期には、為政者たちは義兵の存在を十分留意していた。すなわちかれらは戦闘の経験を有し、武器を多数
備え、権力者にとって恐ろしい存在である事を認識し、義兵にたいする統率と圧力をより一層強化するとともに
迫害を加えた。そのため、義兵達は組織された部隊として機能できなくなった。
しかも、義兵部隊の核心的活動家はほとんどが被圧迫階級で、体を張って貢献したにも関わらず、政府はかれらを
正当に評価せず、戦争が終わると義兵たちはまたもや農奴的身分におとしめ、過酷な収奪を繰り返した。
義兵闘争の過程で官職を授けられた義兵将も、国家権力によって廃履のように捨てられるが、党派の政争に組み込まれて
権力者らの猜忌や謀略により迫害され、はては流配か死刑かの不遇な生涯を送らねばならなかったそうです。
s ffhg
594 :
名無しさん@1周年:2000/12/05(火) 02:33
480さん、指摘ありがとうございます。
蘇峰徳猪一郎著『近世日本国民史 第九巻 朝鮮役下巻』(時事通信社 昭和三十九年二月十日発行)によれば、
秀吉の死去後、五大老は朝鮮の諸将に撤兵を命を出し、順天、泗川では明軍は敗戦で戦意を失っていたため
早々と講和が締結されたらしいです。順天では提督の劉延が降倭の沙也可を使者として小西行長に和議を
持ちこみ、人質として劉天を差し出しました。朝鮮の資料「宣祖實緑」では順天城の攻防における劉延の
無能ぶりを「(略)提督事を行ふ、正に魂を奪はれたる人の如し。将卒皆軽侮す。適ゝ泗川の敗報を見、(略)
意を決して兵を退く。尤も痛泣を為す。(漢字を一部略字に変更してますので間違いがあればすいません)」
日本軍に手痛く迎撃されられた上に、泗川の敗報に報して日本諸将の撤兵意思を好材料として和を講じたの
でしょう。しかし、明と朝鮮の連合軍はそれを反故にして後に押し寄せることとなります。
泗川での講和
明側の資料、「両朝平攘録」には「(略)中路使督陣茅國科、撫臺の激を持し、金パクを賚して義弘に見え、動すに
大儀を以てし、諭すに利害を以てす。郭國安傍より之を賛す。義弘許諾す。」とあり、
日本側の資料「征韓録」には「十月八日に、徳水式部卿法印壽昌(略)、泗川の新塞に来て、殿下の厳命なりとて
和議の次第、貢税の品、掃陣の行を述らる。その掃陣の期限は、十一月十五日を期として、諸将相倶に釜山浦へ
(略)、然るに十月十三日に、参謀史龍添(略)、此の塞に来り、和議を請ふ。(略)彼の人質を請取(略)和議と相成りて
掃陣の催しあり」
ともかく、泗川の大勝によって明軍を和議に向かわせたのは資料から確実と思われます。
前のレスを補足すると和議を結んだから撤退したのではなく、撤退の過程で和議が結ばれた、という事ですね。
義兵のことですが、彼等の活発な活動が日本軍を苦しめたのは疑いありません。
ただ、支配者層は義兵の反日抗争を自らの階級支配の道具に組み入れようとやっきになったそうです。
金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)によれば、戦争初期においては義兵を官軍に引きこむため、
義兵将らにたいして高い職位を授ける措置をとったが、やがて義兵闘争が官軍の補助的役割をするようになると
義兵には厳しい統制と圧力がくわえられ、政府は義兵達が巡察使(道内の軍務を巡察する官職臨時軍司令官)及び
体察使(臨時宰相兼軍司令官)の指揮を受けるようにしたが、それらの指揮官は殆どの者が正確な指揮をなしえなかった。
戦争末期には、為政者たちは義兵の存在を十分留意していた。すなわちかれらは戦闘の経験を有し、武器を多数
備え、権力者にとって恐ろしい存在である事を認識し、義兵にたいする統率と圧力をより一層強化するとともに
迫害を加えた。そのため、義兵達は組織された部隊として機能できなくなった。
しかも、義兵部隊の核心的活動家はほとんどが被圧迫階級で、体を張って貢献したにも関わらず、政府はかれらを
正当に評価せず、戦争が終わると義兵たちはまたもや農奴的身分におとしめ、過酷な収奪を繰り返した。
義兵闘争の過程で官職を授けられた義兵将も、国家権力によって廃履のように捨てられるが、党派の政争に組み込まれて
権力者らの猜忌や謀略により迫害され、はては流配か死刑かの不遇な生涯を送らねばならなかったそうです。
s ffhghy
595 :
名無しさん@1周年:2000/12/05(火) 02:33
480さん、指摘ありがとうございます。
蘇峰徳猪一郎著『近世日本国民史 第九巻 朝鮮役下巻』(時事通信社 昭和三十九年二月十日発行)によれば、
秀吉の死去後、五大老は朝鮮の諸将に撤兵を命を出し、順天、泗川では明軍は敗戦で戦意を失っていたため
早々と講和が締結されたらしいです。順天では提督の劉延が降倭の沙也可を使者として小西行長に和議を
持ちこみ、人質として劉天を差し出しました。朝鮮の資料「宣祖實緑」では順天城の攻防における劉延の
無能ぶりを「(略)提督事を行ふ、正に魂を奪はれたる人の如し。将卒皆軽侮す。適ゝ泗川の敗報を見、(略)
意を決して兵を退く。尤も痛泣を為す。(漢字を一部略字に変更してますので間違いがあればすいません)」
日本軍に手痛く迎撃されられた上に、泗川の敗報に報して日本諸将の撤兵意思を好材料として和を講じたの
でしょう。しかし、明と朝鮮の連合軍はそれを反故にして後に押し寄せることとなります。
泗川での講和
明側の資料、「両朝平攘録」には「(略)中路使督陣茅國科、撫臺の激を持し、金パクを賚して義弘に見え、動すに
大儀を以てし、諭すに利害を以てす。郭國安傍より之を賛す。義弘許諾す。」とあり、
日本側の資料「征韓録」には「十月八日に、徳水式部卿法印壽昌(略)、泗川の新塞に来て、殿下の厳命なりとて
和議の次第、貢税の品、掃陣の行を述らる。その掃陣の期限は、十一月十五日を期として、諸将相倶に釜山浦へ
(略)、然るに十月十三日に、参謀史龍添(略)、此の塞に来り、和議を請ふ。(略)彼の人質を請取(略)和議と相成りて
掃陣の催しあり」
ともかく、泗川の大勝によって明軍を和議に向かわせたのは資料から確実と思われます。
前のレスを補足すると和議を結んだから撤退したのではなく、撤退の過程で和議が結ばれた、という事ですね。
義兵のことですが、彼等の活発な活動が日本軍を苦しめたのは疑いありません。
ただ、支配者層は義兵の反日抗争を自らの階級支配の道具に組み入れようとやっきになったそうです。
金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)によれば、戦争初期においては義兵を官軍に引きこむため、
義兵将らにたいして高い職位を授ける措置をとったが、やがて義兵闘争が官軍の補助的役割をするようになると
義兵には厳しい統制と圧力がくわえられ、政府は義兵達が巡察使(道内の軍務を巡察する官職臨時軍司令官)及び
体察使(臨時宰相兼軍司令官)の指揮を受けるようにしたが、それらの指揮官は殆どの者が正確な指揮をなしえなかった。
戦争末期には、為政者たちは義兵の存在を十分留意していた。すなわちかれらは戦闘の経験を有し、武器を多数
備え、権力者にとって恐ろしい存在である事を認識し、義兵にたいする統率と圧力をより一層強化するとともに
迫害を加えた。そのため、義兵達は組織された部隊として機能できなくなった。
しかも、義兵部隊の核心的活動家はほとんどが被圧迫階級で、体を張って貢献したにも関わらず、政府はかれらを
正当に評価せず、戦争が終わると義兵たちはまたもや農奴的身分におとしめ、過酷な収奪を繰り返した。
義兵闘争の過程で官職を授けられた義兵将も、国家権力によって廃履のように捨てられるが、党派の政争に組み込まれて
権力者らの猜忌や謀略により迫害され、はては流配か死刑かの不遇な生涯を送らねばならなかったそうです。
s ffhghyhj
596 :
名無しさん@1周年:2000/12/05(火) 02:33
480さん、指摘ありがとうございます。
蘇峰徳猪一郎著『近世日本国民史 第九巻 朝鮮役下巻』(時事通信社 昭和三十九年二月十日発行)によれば、
秀吉の死去後、五大老は朝鮮の諸将に撤兵を命を出し、順天、泗川では明軍は敗戦で戦意を失っていたため
早々と講和が締結されたらしいです。順天では提督の劉延が降倭の沙也可を使者として小西行長に和議を
持ちこみ、人質として劉天を差し出しました。朝鮮の資料「宣祖實緑」では順天城の攻防における劉延の
無能ぶりを「(略)提督事を行ふ、正に魂を奪はれたる人の如し。将卒皆軽侮す。適ゝ泗川の敗報を見、(略)
意を決して兵を退く。尤も痛泣を為す。(漢字を一部略字に変更してますので間違いがあればすいません)」
日本軍に手痛く迎撃されられた上に、泗川の敗報に報して日本諸将の撤兵意思を好材料として和を講じたの
でしょう。しかし、明と朝鮮の連合軍はそれを反故にして後に押し寄せることとなります。
泗川での講和
明側の資料、「両朝平攘録」には「(略)中路使督陣茅國科、撫臺の激を持し、金パクを賚して義弘に見え、動すに
大儀を以てし、諭すに利害を以てす。郭國安傍より之を賛す。義弘許諾す。」とあり、
日本側の資料「征韓録」には「十月八日に、徳水式部卿法印壽昌(略)、泗川の新塞に来て、殿下の厳命なりとて
和議の次第、貢税の品、掃陣の行を述らる。その掃陣の期限は、十一月十五日を期として、諸将相倶に釜山浦へ
(略)、然るに十月十三日に、参謀史龍添(略)、此の塞に来り、和議を請ふ。(略)彼の人質を請取(略)和議と相成りて
掃陣の催しあり」
ともかく、泗川の大勝によって明軍を和議に向かわせたのは資料から確実と思われます。
前のレスを補足すると和議を結んだから撤退したのではなく、撤退の過程で和議が結ばれた、という事ですね。
義兵のことですが、彼等の活発な活動が日本軍を苦しめたのは疑いありません。
ただ、支配者層は義兵の反日抗争を自らの階級支配の道具に組み入れようとやっきになったそうです。
金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)によれば、戦争初期においては義兵を官軍に引きこむため、
義兵将らにたいして高い職位を授ける措置をとったが、やがて義兵闘争が官軍の補助的役割をするようになると
義兵には厳しい統制と圧力がくわえられ、政府は義兵達が巡察使(道内の軍務を巡察する官職臨時軍司令官)及び
体察使(臨時宰相兼軍司令官)の指揮を受けるようにしたが、それらの指揮官は殆どの者が正確な指揮をなしえなかった。
戦争末期には、為政者たちは義兵の存在を十分留意していた。すなわちかれらは戦闘の経験を有し、武器を多数
備え、権力者にとって恐ろしい存在である事を認識し、義兵にたいする統率と圧力をより一層強化するとともに
迫害を加えた。そのため、義兵達は組織された部隊として機能できなくなった。
しかも、義兵部隊の核心的活動家はほとんどが被圧迫階級で、体を張って貢献したにも関わらず、政府はかれらを
正当に評価せず、戦争が終わると義兵たちはまたもや農奴的身分におとしめ、過酷な収奪を繰り返した。
義兵闘争の過程で官職を授けられた義兵将も、国家権力によって廃履のように捨てられるが、党派の政争に組み込まれて
権力者らの猜忌や謀略により迫害され、はては流配か死刑かの不遇な生涯を送らねばならなかったそうです。
s ffhghyhjnj
597 :
名無しさん@1周年:2000/12/05(火) 02:33
480さん、指摘ありがとうございます。
蘇峰徳猪一郎著『近世日本国民史 第九巻 朝鮮役下巻』(時事通信社 昭和三十九年二月十日発行)によれば、
秀吉の死去後、五大老は朝鮮の諸将に撤兵を命を出し、順天、泗川では明軍は敗戦で戦意を失っていたため
早々と講和が締結されたらしいです。順天では提督の劉延が降倭の沙也可を使者として小西行長に和議を
持ちこみ、人質として劉天を差し出しました。朝鮮の資料「宣祖實緑」では順天城の攻防における劉延の
無能ぶりを「(略)提督事を行ふ、正に魂を奪はれたる人の如し。将卒皆軽侮す。適ゝ泗川の敗報を見、(略)
意を決して兵を退く。尤も痛泣を為す。(漢字を一部略字に変更してますので間違いがあればすいません)」
日本軍に手痛く迎撃されられた上に、泗川の敗報に報して日本諸将の撤兵意思を好材料として和を講じたの
でしょう。しかし、明と朝鮮の連合軍はそれを反故にして後に押し寄せることとなります。
泗川での講和
明側の資料、「両朝平攘録」には「(略)中路使督陣茅國科、撫臺の激を持し、金パクを賚して義弘に見え、動すに
大儀を以てし、諭すに利害を以てす。郭國安傍より之を賛す。義弘許諾す。」とあり、
日本側の資料「征韓録」には「十月八日に、徳水式部卿法印壽昌(略)、泗川の新塞に来て、殿下の厳命なりとて
和議の次第、貢税の品、掃陣の行を述らる。その掃陣の期限は、十一月十五日を期として、諸将相倶に釜山浦へ
(略)、然るに十月十三日に、参謀史龍添(略)、此の塞に来り、和議を請ふ。(略)彼の人質を請取(略)和議と相成りて
掃陣の催しあり」
ともかく、泗川の大勝によって明軍を和議に向かわせたのは資料から確実と思われます。
前のレスを補足すると和議を結んだから撤退したのではなく、撤退の過程で和議が結ばれた、という事ですね。
義兵のことですが、彼等の活発な活動が日本軍を苦しめたのは疑いありません。
ただ、支配者層は義兵の反日抗争を自らの階級支配の道具に組み入れようとやっきになったそうです。
金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)によれば、戦争初期においては義兵を官軍に引きこむため、
義兵将らにたいして高い職位を授ける措置をとったが、やがて義兵闘争が官軍の補助的役割をするようになると
義兵には厳しい統制と圧力がくわえられ、政府は義兵達が巡察使(道内の軍務を巡察する官職臨時軍司令官)及び
体察使(臨時宰相兼軍司令官)の指揮を受けるようにしたが、それらの指揮官は殆どの者が正確な指揮をなしえなかった。
戦争末期には、為政者たちは義兵の存在を十分留意していた。すなわちかれらは戦闘の経験を有し、武器を多数
備え、権力者にとって恐ろしい存在である事を認識し、義兵にたいする統率と圧力をより一層強化するとともに
迫害を加えた。そのため、義兵達は組織された部隊として機能できなくなった。
しかも、義兵部隊の核心的活動家はほとんどが被圧迫階級で、体を張って貢献したにも関わらず、政府はかれらを
正当に評価せず、戦争が終わると義兵たちはまたもや農奴的身分におとしめ、過酷な収奪を繰り返した。
義兵闘争の過程で官職を授けられた義兵将も、国家権力によって廃履のように捨てられるが、党派の政争に組み込まれて
権力者らの猜忌や謀略により迫害され、はては流配か死刑かの不遇な生涯を送らねばならなかったそうです。
s ffhghyhjnjcv
598 :
名無しさん@1周年:2000/12/05(火) 02:33
480さん、指摘ありがとうございます。
蘇峰徳猪一郎著『近世日本国民史 第九巻 朝鮮役下巻』(時事通信社 昭和三十九年二月十日発行)によれば、
秀吉の死去後、五大老は朝鮮の諸将に撤兵を命を出し、順天、泗川では明軍は敗戦で戦意を失っていたため
早々と講和が締結されたらしいです。順天では提督の劉延が降倭の沙也可を使者として小西行長に和議を
持ちこみ、人質として劉天を差し出しました。朝鮮の資料「宣祖實緑」では順天城の攻防における劉延の
無能ぶりを「(略)提督事を行ふ、正に魂を奪はれたる人の如し。将卒皆軽侮す。適ゝ泗川の敗報を見、(略)
意を決して兵を退く。尤も痛泣を為す。(漢字を一部略字に変更してますので間違いがあればすいません)」
日本軍に手痛く迎撃されられた上に、泗川の敗報に報して日本諸将の撤兵意思を好材料として和を講じたの
でしょう。しかし、明と朝鮮の連合軍はそれを反故にして後に押し寄せることとなります。
泗川での講和
明側の資料、「両朝平攘録」には「(略)中路使督陣茅國科、撫臺の激を持し、金パクを賚して義弘に見え、動すに
大儀を以てし、諭すに利害を以てす。郭國安傍より之を賛す。義弘許諾す。」とあり、
日本側の資料「征韓録」には「十月八日に、徳水式部卿法印壽昌(略)、泗川の新塞に来て、殿下の厳命なりとて
和議の次第、貢税の品、掃陣の行を述らる。その掃陣の期限は、十一月十五日を期として、諸将相倶に釜山浦へ
(略)、然るに十月十三日に、参謀史龍添(略)、此の塞に来り、和議を請ふ。(略)彼の人質を請取(略)和議と相成りて
掃陣の催しあり」
ともかく、泗川の大勝によって明軍を和議に向かわせたのは資料から確実と思われます。
前のレスを補足すると和議を結んだから撤退したのではなく、撤退の過程で和議が結ばれた、という事ですね。
義兵のことですが、彼等の活発な活動が日本軍を苦しめたのは疑いありません。
ただ、支配者層は義兵の反日抗争を自らの階級支配の道具に組み入れようとやっきになったそうです。
金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)によれば、戦争初期においては義兵を官軍に引きこむため、
義兵将らにたいして高い職位を授ける措置をとったが、やがて義兵闘争が官軍の補助的役割をするようになると
義兵には厳しい統制と圧力がくわえられ、政府は義兵達が巡察使(道内の軍務を巡察する官職臨時軍司令官)及び
体察使(臨時宰相兼軍司令官)の指揮を受けるようにしたが、それらの指揮官は殆どの者が正確な指揮をなしえなかった。
戦争末期には、為政者たちは義兵の存在を十分留意していた。すなわちかれらは戦闘の経験を有し、武器を多数
備え、権力者にとって恐ろしい存在である事を認識し、義兵にたいする統率と圧力をより一層強化するとともに
迫害を加えた。そのため、義兵達は組織された部隊として機能できなくなった。
しかも、義兵部隊の核心的活動家はほとんどが被圧迫階級で、体を張って貢献したにも関わらず、政府はかれらを
正当に評価せず、戦争が終わると義兵たちはまたもや農奴的身分におとしめ、過酷な収奪を繰り返した。
義兵闘争の過程で官職を授けられた義兵将も、国家権力によって廃履のように捨てられるが、党派の政争に組み込まれて
権力者らの猜忌や謀略により迫害され、はては流配か死刑かの不遇な生涯を送らねばならなかったそうです。
s ffhghyhjnjcvsf
599 :
名無しさん@1周年:2000/12/05(火) 02:33
480さん、指摘ありがとうございます。
蘇峰徳猪一郎著『近世日本国民史 第九巻 朝鮮役下巻』(時事通信社 昭和三十九年二月十日発行)によれば、
秀吉の死去後、五大老は朝鮮の諸将に撤兵を命を出し、順天、泗川では明軍は敗戦で戦意を失っていたため
早々と講和が締結されたらしいです。順天では提督の劉延が降倭の沙也可を使者として小西行長に和議を
持ちこみ、人質として劉天を差し出しました。朝鮮の資料「宣祖實緑」では順天城の攻防における劉延の
無能ぶりを「(略)提督事を行ふ、正に魂を奪はれたる人の如し。将卒皆軽侮す。適ゝ泗川の敗報を見、(略)
意を決して兵を退く。尤も痛泣を為す。(漢字を一部略字に変更してますので間違いがあればすいません)」
日本軍に手痛く迎撃されられた上に、泗川の敗報に報して日本諸将の撤兵意思を好材料として和を講じたの
でしょう。しかし、明と朝鮮の連合軍はそれを反故にして後に押し寄せることとなります。
泗川での講和
明側の資料、「両朝平攘録」には「(略)中路使督陣茅國科、撫臺の激を持し、金パクを賚して義弘に見え、動すに
大儀を以てし、諭すに利害を以てす。郭國安傍より之を賛す。義弘許諾す。」とあり、
日本側の資料「征韓録」には「十月八日に、徳水式部卿法印壽昌(略)、泗川の新塞に来て、殿下の厳命なりとて
和議の次第、貢税の品、掃陣の行を述らる。その掃陣の期限は、十一月十五日を期として、諸将相倶に釜山浦へ
(略)、然るに十月十三日に、参謀史龍添(略)、此の塞に来り、和議を請ふ。(略)彼の人質を請取(略)和議と相成りて
掃陣の催しあり」
ともかく、泗川の大勝によって明軍を和議に向かわせたのは資料から確実と思われます。
前のレスを補足すると和議を結んだから撤退したのではなく、撤退の過程で和議が結ばれた、という事ですね。
義兵のことですが、彼等の活発な活動が日本軍を苦しめたのは疑いありません。
ただ、支配者層は義兵の反日抗争を自らの階級支配の道具に組み入れようとやっきになったそうです。
金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)によれば、戦争初期においては義兵を官軍に引きこむため、
義兵将らにたいして高い職位を授ける措置をとったが、やがて義兵闘争が官軍の補助的役割をするようになると
義兵には厳しい統制と圧力がくわえられ、政府は義兵達が巡察使(道内の軍務を巡察する官職臨時軍司令官)及び
体察使(臨時宰相兼軍司令官)の指揮を受けるようにしたが、それらの指揮官は殆どの者が正確な指揮をなしえなかった。
戦争末期には、為政者たちは義兵の存在を十分留意していた。すなわちかれらは戦闘の経験を有し、武器を多数
備え、権力者にとって恐ろしい存在である事を認識し、義兵にたいする統率と圧力をより一層強化するとともに
迫害を加えた。そのため、義兵達は組織された部隊として機能できなくなった。
しかも、義兵部隊の核心的活動家はほとんどが被圧迫階級で、体を張って貢献したにも関わらず、政府はかれらを
正当に評価せず、戦争が終わると義兵たちはまたもや農奴的身分におとしめ、過酷な収奪を繰り返した。
義兵闘争の過程で官職を授けられた義兵将も、国家権力によって廃履のように捨てられるが、党派の政争に組み込まれて
権力者らの猜忌や謀略により迫害され、はては流配か死刑かの不遇な生涯を送らねばならなかったそうです。
s ffhghyhjnjcvsfhj
600 :
名無しさん@1周年:2000/12/05(火) 02:33
480さん、指摘ありがとうございます。
蘇峰徳猪一郎著『近世日本国民史 第九巻 朝鮮役下巻』(時事通信社 昭和三十九年二月十日発行)によれば、
秀吉の死去後、五大老は朝鮮の諸将に撤兵を命を出し、順天、泗川では明軍は敗戦で戦意を失っていたため
早々と講和が締結されたらしいです。順天では提督の劉延が降倭の沙也可を使者として小西行長に和議を
持ちこみ、人質として劉天を差し出しました。朝鮮の資料「宣祖實緑」では順天城の攻防における劉延の
無能ぶりを「(略)提督事を行ふ、正に魂を奪はれたる人の如し。将卒皆軽侮す。適ゝ泗川の敗報を見、(略)
意を決して兵を退く。尤も痛泣を為す。(漢字を一部略字に変更してますので間違いがあればすいません)」
日本軍に手痛く迎撃されられた上に、泗川の敗報に報して日本諸将の撤兵意思を好材料として和を講じたの
でしょう。しかし、明と朝鮮の連合軍はそれを反故にして後に押し寄せることとなります。
泗川での講和
明側の資料、「両朝平攘録」には「(略)中路使督陣茅國科、撫臺の激を持し、金パクを賚して義弘に見え、動すに
大儀を以てし、諭すに利害を以てす。郭國安傍より之を賛す。義弘許諾す。」とあり、
日本側の資料「征韓録」には「十月八日に、徳水式部卿法印壽昌(略)、泗川の新塞に来て、殿下の厳命なりとて
和議の次第、貢税の品、掃陣の行を述らる。その掃陣の期限は、十一月十五日を期として、諸将相倶に釜山浦へ
(略)、然るに十月十三日に、参謀史龍添(略)、此の塞に来り、和議を請ふ。(略)彼の人質を請取(略)和議と相成りて
掃陣の催しあり」
ともかく、泗川の大勝によって明軍を和議に向かわせたのは資料から確実と思われます。
前のレスを補足すると和議を結んだから撤退したのではなく、撤退の過程で和議が結ばれた、という事ですね。
義兵のことですが、彼等の活発な活動が日本軍を苦しめたのは疑いありません。
ただ、支配者層は義兵の反日抗争を自らの階級支配の道具に組み入れようとやっきになったそうです。
金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)によれば、戦争初期においては義兵を官軍に引きこむため、
義兵将らにたいして高い職位を授ける措置をとったが、やがて義兵闘争が官軍の補助的役割をするようになると
義兵には厳しい統制と圧力がくわえられ、政府は義兵達が巡察使(道内の軍務を巡察する官職臨時軍司令官)及び
体察使(臨時宰相兼軍司令官)の指揮を受けるようにしたが、それらの指揮官は殆どの者が正確な指揮をなしえなかった。
戦争末期には、為政者たちは義兵の存在を十分留意していた。すなわちかれらは戦闘の経験を有し、武器を多数
備え、権力者にとって恐ろしい存在である事を認識し、義兵にたいする統率と圧力をより一層強化するとともに
迫害を加えた。そのため、義兵達は組織された部隊として機能できなくなった。
しかも、義兵部隊の核心的活動家はほとんどが被圧迫階級で、体を張って貢献したにも関わらず、政府はかれらを
正当に評価せず、戦争が終わると義兵たちはまたもや農奴的身分におとしめ、過酷な収奪を繰り返した。
義兵闘争の過程で官職を授けられた義兵将も、国家権力によって廃履のように捨てられるが、党派の政争に組み込まれて
権力者らの猜忌や謀略により迫害され、はては流配か死刑かの不遇な生涯を送らねばならなかったそうです。
s ffhghyhjnjcvsfhjjk
601 :
名無しさん@1周年:2000/12/05(火) 02:34
480さん、指摘ありがとうございます。
蘇峰徳猪一郎著『近世日本国民史 第九巻 朝鮮役下巻』(時事通信社 昭和三十九年二月十日発行)によれば、
秀吉の死去後、五大老は朝鮮の諸将に撤兵を命を出し、順天、泗川では明軍は敗戦で戦意を失っていたため
早々と講和が締結されたらしいです。順天では提督の劉延が降倭の沙也可を使者として小西行長に和議を
持ちこみ、人質として劉天を差し出しました。朝鮮の資料「宣祖實緑」では順天城の攻防における劉延の
無能ぶりを「(略)提督事を行ふ、正に魂を奪はれたる人の如し。将卒皆軽侮す。適ゝ泗川の敗報を見、(略)
意を決して兵を退く。尤も痛泣を為す。(漢字を一部略字に変更してますので間違いがあればすいません)」
日本軍に手痛く迎撃されられた上に、泗川の敗報に報して日本諸将の撤兵意思を好材料として和を講じたの
でしょう。しかし、明と朝鮮の連合軍はそれを反故にして後に押し寄せることとなります。
泗川での講和
明側の資料、「両朝平攘録」には「(略)中路使督陣茅國科、撫臺の激を持し、金パクを賚して義弘に見え、動すに
大儀を以てし、諭すに利害を以てす。郭國安傍より之を賛す。義弘許諾す。」とあり、
日本側の資料「征韓録」には「十月八日に、徳水式部卿法印壽昌(略)、泗川の新塞に来て、殿下の厳命なりとて
和議の次第、貢税の品、掃陣の行を述らる。その掃陣の期限は、十一月十五日を期として、諸将相倶に釜山浦へ
(略)、然るに十月十三日に、参謀史龍添(略)、此の塞に来り、和議を請ふ。(略)彼の人質を請取(略)和議と相成りて
掃陣の催しあり」
ともかく、泗川の大勝によって明軍を和議に向かわせたのは資料から確実と思われます。
前のレスを補足すると和議を結んだから撤退したのではなく、撤退の過程で和議が結ばれた、という事ですね。
義兵のことですが、彼等の活発な活動が日本軍を苦しめたのは疑いありません。
ただ、支配者層は義兵の反日抗争を自らの階級支配の道具に組み入れようとやっきになったそうです。
金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)によれば、戦争初期においては義兵を官軍に引きこむため、
義兵将らにたいして高い職位を授ける措置をとったが、やがて義兵闘争が官軍の補助的役割をするようになると
義兵には厳しい統制と圧力がくわえられ、政府は義兵達が巡察使(道内の軍務を巡察する官職臨時軍司令官)及び
体察使(臨時宰相兼軍司令官)の指揮を受けるようにしたが、それらの指揮官は殆どの者が正確な指揮をなしえなかった。
戦争末期には、為政者たちは義兵の存在を十分留意していた。すなわちかれらは戦闘の経験を有し、武器を多数
備え、権力者にとって恐ろしい存在である事を認識し、義兵にたいする統率と圧力をより一層強化するとともに
迫害を加えた。そのため、義兵達は組織された部隊として機能できなくなった。
しかも、義兵部隊の核心的活動家はほとんどが被圧迫階級で、体を張って貢献したにも関わらず、政府はかれらを
正当に評価せず、戦争が終わると義兵たちはまたもや農奴的身分におとしめ、過酷な収奪を繰り返した。
義兵闘争の過程で官職を授けられた義兵将も、国家権力によって廃履のように捨てられるが、党派の政争に組み込まれて
権力者らの猜忌や謀略により迫害され、はては流配か死刑かの不遇な生涯を送らねばならなかったそうです。
lp76544
602 :
名無しさん@1周年:2000/12/05(火) 02:34
480さん、指摘ありがとうございます。
蘇峰徳猪一郎著『近世日本国民史 第九巻 朝鮮役下巻』(時事通信社 昭和三十九年二月十日発行)によれば、
秀吉の死去後、五大老は朝鮮の諸将に撤兵を命を出し、順天、泗川では明軍は敗戦で戦意を失っていたため
早々と講和が締結されたらしいです。順天では提督の劉延が降倭の沙也可を使者として小西行長に和議を
持ちこみ、人質として劉天を差し出しました。朝鮮の資料「宣祖實緑」では順天城の攻防における劉延の
無能ぶりを「(略)提督事を行ふ、正に魂を奪はれたる人の如し。将卒皆軽侮す。適ゝ泗川の敗報を見、(略)
意を決して兵を退く。尤も痛泣を為す。(漢字を一部略字に変更してますので間違いがあればすいません)」
日本軍に手痛く迎撃されられた上に、泗川の敗報に報して日本諸将の撤兵意思を好材料として和を講じたの
でしょう。しかし、明と朝鮮の連合軍はそれを反故にして後に押し寄せることとなります。
泗川での講和
明側の資料、「両朝平攘録」には「(略)中路使督陣茅國科、撫臺の激を持し、金パクを賚して義弘に見え、動すに
大儀を以てし、諭すに利害を以てす。郭國安傍より之を賛す。義弘許諾す。」とあり、
日本側の資料「征韓録」には「十月八日に、徳水式部卿法印壽昌(略)、泗川の新塞に来て、殿下の厳命なりとて
和議の次第、貢税の品、掃陣の行を述らる。その掃陣の期限は、十一月十五日を期として、諸将相倶に釜山浦へ
(略)、然るに十月十三日に、参謀史龍添(略)、此の塞に来り、和議を請ふ。(略)彼の人質を請取(略)和議と相成りて
掃陣の催しあり」
ともかく、泗川の大勝によって明軍を和議に向かわせたのは資料から確実と思われます。
前のレスを補足すると和議を結んだから撤退したのではなく、撤退の過程で和議が結ばれた、という事ですね。
義兵のことですが、彼等の活発な活動が日本軍を苦しめたのは疑いありません。
ただ、支配者層は義兵の反日抗争を自らの階級支配の道具に組み入れようとやっきになったそうです。
金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)によれば、戦争初期においては義兵を官軍に引きこむため、
義兵将らにたいして高い職位を授ける措置をとったが、やがて義兵闘争が官軍の補助的役割をするようになると
義兵には厳しい統制と圧力がくわえられ、政府は義兵達が巡察使(道内の軍務を巡察する官職臨時軍司令官)及び
体察使(臨時宰相兼軍司令官)の指揮を受けるようにしたが、それらの指揮官は殆どの者が正確な指揮をなしえなかった。
戦争末期には、為政者たちは義兵の存在を十分留意していた。すなわちかれらは戦闘の経験を有し、武器を多数
備え、権力者にとって恐ろしい存在である事を認識し、義兵にたいする統率と圧力をより一層強化するとともに
迫害を加えた。そのため、義兵達は組織された部隊として機能できなくなった。
しかも、義兵部隊の核心的活動家はほとんどが被圧迫階級で、体を張って貢献したにも関わらず、政府はかれらを
正当に評価せず、戦争が終わると義兵たちはまたもや農奴的身分におとしめ、過酷な収奪を繰り返した。
義兵闘争の過程で官職を授けられた義兵将も、国家権力によって廃履のように捨てられるが、党派の政争に組み込まれて
権力者らの猜忌や謀略により迫害され、はては流配か死刑かの不遇な生涯を送らねばならなかったそうです。
lp76544f
603 :
名無しさん@1周年:2000/12/05(火) 02:34
480さん、指摘ありがとうございます。
蘇峰徳猪一郎著『近世日本国民史 第九巻 朝鮮役下巻』(時事通信社 昭和三十九年二月十日発行)によれば、
秀吉の死去後、五大老は朝鮮の諸将に撤兵を命を出し、順天、泗川では明軍は敗戦で戦意を失っていたため
早々と講和が締結されたらしいです。順天では提督の劉延が降倭の沙也可を使者として小西行長に和議を
持ちこみ、人質として劉天を差し出しました。朝鮮の資料「宣祖實緑」では順天城の攻防における劉延の
無能ぶりを「(略)提督事を行ふ、正に魂を奪はれたる人の如し。将卒皆軽侮す。適ゝ泗川の敗報を見、(略)
意を決して兵を退く。尤も痛泣を為す。(漢字を一部略字に変更してますので間違いがあればすいません)」
日本軍に手痛く迎撃されられた上に、泗川の敗報に報して日本諸将の撤兵意思を好材料として和を講じたの
でしょう。しかし、明と朝鮮の連合軍はそれを反故にして後に押し寄せることとなります。
泗川での講和
明側の資料、「両朝平攘録」には「(略)中路使督陣茅國科、撫臺の激を持し、金パクを賚して義弘に見え、動すに
大儀を以てし、諭すに利害を以てす。郭國安傍より之を賛す。義弘許諾す。」とあり、
日本側の資料「征韓録」には「十月八日に、徳水式部卿法印壽昌(略)、泗川の新塞に来て、殿下の厳命なりとて
和議の次第、貢税の品、掃陣の行を述らる。その掃陣の期限は、十一月十五日を期として、諸将相倶に釜山浦へ
(略)、然るに十月十三日に、参謀史龍添(略)、此の塞に来り、和議を請ふ。(略)彼の人質を請取(略)和議と相成りて
掃陣の催しあり」
ともかく、泗川の大勝によって明軍を和議に向かわせたのは資料から確実と思われます。
前のレスを補足すると和議を結んだから撤退したのではなく、撤退の過程で和議が結ばれた、という事ですね。
義兵のことですが、彼等の活発な活動が日本軍を苦しめたのは疑いありません。
ただ、支配者層は義兵の反日抗争を自らの階級支配の道具に組み入れようとやっきになったそうです。
金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)によれば、戦争初期においては義兵を官軍に引きこむため、
義兵将らにたいして高い職位を授ける措置をとったが、やがて義兵闘争が官軍の補助的役割をするようになると
義兵には厳しい統制と圧力がくわえられ、政府は義兵達が巡察使(道内の軍務を巡察する官職臨時軍司令官)及び
体察使(臨時宰相兼軍司令官)の指揮を受けるようにしたが、それらの指揮官は殆どの者が正確な指揮をなしえなかった。
戦争末期には、為政者たちは義兵の存在を十分留意していた。すなわちかれらは戦闘の経験を有し、武器を多数
備え、権力者にとって恐ろしい存在である事を認識し、義兵にたいする統率と圧力をより一層強化するとともに
迫害を加えた。そのため、義兵達は組織された部隊として機能できなくなった。
しかも、義兵部隊の核心的活動家はほとんどが被圧迫階級で、体を張って貢献したにも関わらず、政府はかれらを
正当に評価せず、戦争が終わると義兵たちはまたもや農奴的身分におとしめ、過酷な収奪を繰り返した。
義兵闘争の過程で官職を授けられた義兵将も、国家権力によって廃履のように捨てられるが、党派の政争に組み込まれて
権力者らの猜忌や謀略により迫害され、はては流配か死刑かの不遇な生涯を送らねばならなかったそうです。
lp76544fgt
604 :
名無しさん@1周年:2000/12/05(火) 02:34
480さん、指摘ありがとうございます。
蘇峰徳猪一郎著『近世日本国民史 第九巻 朝鮮役下巻』(時事通信社 昭和三十九年二月十日発行)によれば、
秀吉の死去後、五大老は朝鮮の諸将に撤兵を命を出し、順天、泗川では明軍は敗戦で戦意を失っていたため
早々と講和が締結されたらしいです。順天では提督の劉延が降倭の沙也可を使者として小西行長に和議を
持ちこみ、人質として劉天を差し出しました。朝鮮の資料「宣祖實緑」では順天城の攻防における劉延の
無能ぶりを「(略)提督事を行ふ、正に魂を奪はれたる人の如し。将卒皆軽侮す。適ゝ泗川の敗報を見、(略)
意を決して兵を退く。尤も痛泣を為す。(漢字を一部略字に変更してますので間違いがあればすいません)」
日本軍に手痛く迎撃されられた上に、泗川の敗報に報して日本諸将の撤兵意思を好材料として和を講じたの
でしょう。しかし、明と朝鮮の連合軍はそれを反故にして後に押し寄せることとなります。
泗川での講和
明側の資料、「両朝平攘録」には「(略)中路使督陣茅國科、撫臺の激を持し、金パクを賚して義弘に見え、動すに
大儀を以てし、諭すに利害を以てす。郭國安傍より之を賛す。義弘許諾す。」とあり、
日本側の資料「征韓録」には「十月八日に、徳水式部卿法印壽昌(略)、泗川の新塞に来て、殿下の厳命なりとて
和議の次第、貢税の品、掃陣の行を述らる。その掃陣の期限は、十一月十五日を期として、諸将相倶に釜山浦へ
(略)、然るに十月十三日に、参謀史龍添(略)、此の塞に来り、和議を請ふ。(略)彼の人質を請取(略)和議と相成りて
掃陣の催しあり」
ともかく、泗川の大勝によって明軍を和議に向かわせたのは資料から確実と思われます。
前のレスを補足すると和議を結んだから撤退したのではなく、撤退の過程で和議が結ばれた、という事ですね。
義兵のことですが、彼等の活発な活動が日本軍を苦しめたのは疑いありません。
ただ、支配者層は義兵の反日抗争を自らの階級支配の道具に組み入れようとやっきになったそうです。
金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)によれば、戦争初期においては義兵を官軍に引きこむため、
義兵将らにたいして高い職位を授ける措置をとったが、やがて義兵闘争が官軍の補助的役割をするようになると
義兵には厳しい統制と圧力がくわえられ、政府は義兵達が巡察使(道内の軍務を巡察する官職臨時軍司令官)及び
体察使(臨時宰相兼軍司令官)の指揮を受けるようにしたが、それらの指揮官は殆どの者が正確な指揮をなしえなかった。
戦争末期には、為政者たちは義兵の存在を十分留意していた。すなわちかれらは戦闘の経験を有し、武器を多数
備え、権力者にとって恐ろしい存在である事を認識し、義兵にたいする統率と圧力をより一層強化するとともに
迫害を加えた。そのため、義兵達は組織された部隊として機能できなくなった。
しかも、義兵部隊の核心的活動家はほとんどが被圧迫階級で、体を張って貢献したにも関わらず、政府はかれらを
正当に評価せず、戦争が終わると義兵たちはまたもや農奴的身分におとしめ、過酷な収奪を繰り返した。
義兵闘争の過程で官職を授けられた義兵将も、国家権力によって廃履のように捨てられるが、党派の政争に組み込まれて
権力者らの猜忌や謀略により迫害され、はては流配か死刑かの不遇な生涯を送らねばならなかったそうです。
lp76544fgtht
605 :
名無しさん@1周年:2000/12/05(火) 02:34
480さん、指摘ありがとうございます。
蘇峰徳猪一郎著『近世日本国民史 第九巻 朝鮮役下巻』(時事通信社 昭和三十九年二月十日発行)によれば、
秀吉の死去後、五大老は朝鮮の諸将に撤兵を命を出し、順天、泗川では明軍は敗戦で戦意を失っていたため
早々と講和が締結されたらしいです。順天では提督の劉延が降倭の沙也可を使者として小西行長に和議を
持ちこみ、人質として劉天を差し出しました。朝鮮の資料「宣祖實緑」では順天城の攻防における劉延の
無能ぶりを「(略)提督事を行ふ、正に魂を奪はれたる人の如し。将卒皆軽侮す。適ゝ泗川の敗報を見、(略)
意を決して兵を退く。尤も痛泣を為す。(漢字を一部略字に変更してますので間違いがあればすいません)」
日本軍に手痛く迎撃されられた上に、泗川の敗報に報して日本諸将の撤兵意思を好材料として和を講じたの
でしょう。しかし、明と朝鮮の連合軍はそれを反故にして後に押し寄せることとなります。
泗川での講和
明側の資料、「両朝平攘録」には「(略)中路使督陣茅國科、撫臺の激を持し、金パクを賚して義弘に見え、動すに
大儀を以てし、諭すに利害を以てす。郭國安傍より之を賛す。義弘許諾す。」とあり、
日本側の資料「征韓録」には「十月八日に、徳水式部卿法印壽昌(略)、泗川の新塞に来て、殿下の厳命なりとて
和議の次第、貢税の品、掃陣の行を述らる。その掃陣の期限は、十一月十五日を期として、諸将相倶に釜山浦へ
(略)、然るに十月十三日に、参謀史龍添(略)、此の塞に来り、和議を請ふ。(略)彼の人質を請取(略)和議と相成りて
掃陣の催しあり」
ともかく、泗川の大勝によって明軍を和議に向かわせたのは資料から確実と思われます。
前のレスを補足すると和議を結んだから撤退したのではなく、撤退の過程で和議が結ばれた、という事ですね。
義兵のことですが、彼等の活発な活動が日本軍を苦しめたのは疑いありません。
ただ、支配者層は義兵の反日抗争を自らの階級支配の道具に組み入れようとやっきになったそうです。
金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)によれば、戦争初期においては義兵を官軍に引きこむため、
義兵将らにたいして高い職位を授ける措置をとったが、やがて義兵闘争が官軍の補助的役割をするようになると
義兵には厳しい統制と圧力がくわえられ、政府は義兵達が巡察使(道内の軍務を巡察する官職臨時軍司令官)及び
体察使(臨時宰相兼軍司令官)の指揮を受けるようにしたが、それらの指揮官は殆どの者が正確な指揮をなしえなかった。
戦争末期には、為政者たちは義兵の存在を十分留意していた。すなわちかれらは戦闘の経験を有し、武器を多数
備え、権力者にとって恐ろしい存在である事を認識し、義兵にたいする統率と圧力をより一層強化するとともに
迫害を加えた。そのため、義兵達は組織された部隊として機能できなくなった。
しかも、義兵部隊の核心的活動家はほとんどが被圧迫階級で、体を張って貢献したにも関わらず、政府はかれらを
正当に評価せず、戦争が終わると義兵たちはまたもや農奴的身分におとしめ、過酷な収奪を繰り返した。
義兵闘争の過程で官職を授けられた義兵将も、国家権力によって廃履のように捨てられるが、党派の政争に組み込まれて
権力者らの猜忌や謀略により迫害され、はては流配か死刑かの不遇な生涯を送らねばならなかったそうです。
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606 :
名無しさん@1周年:2000/12/05(火) 02:34
480さん、指摘ありがとうございます。
蘇峰徳猪一郎著『近世日本国民史 第九巻 朝鮮役下巻』(時事通信社 昭和三十九年二月十日発行)によれば、
秀吉の死去後、五大老は朝鮮の諸将に撤兵を命を出し、順天、泗川では明軍は敗戦で戦意を失っていたため
早々と講和が締結されたらしいです。順天では提督の劉延が降倭の沙也可を使者として小西行長に和議を
持ちこみ、人質として劉天を差し出しました。朝鮮の資料「宣祖實緑」では順天城の攻防における劉延の
無能ぶりを「(略)提督事を行ふ、正に魂を奪はれたる人の如し。将卒皆軽侮す。適ゝ泗川の敗報を見、(略)
意を決して兵を退く。尤も痛泣を為す。(漢字を一部略字に変更してますので間違いがあればすいません)」
日本軍に手痛く迎撃されられた上に、泗川の敗報に報して日本諸将の撤兵意思を好材料として和を講じたの
でしょう。しかし、明と朝鮮の連合軍はそれを反故にして後に押し寄せることとなります。
泗川での講和
明側の資料、「両朝平攘録」には「(略)中路使督陣茅國科、撫臺の激を持し、金パクを賚して義弘に見え、動すに
大儀を以てし、諭すに利害を以てす。郭國安傍より之を賛す。義弘許諾す。」とあり、
日本側の資料「征韓録」には「十月八日に、徳水式部卿法印壽昌(略)、泗川の新塞に来て、殿下の厳命なりとて
和議の次第、貢税の品、掃陣の行を述らる。その掃陣の期限は、十一月十五日を期として、諸将相倶に釜山浦へ
(略)、然るに十月十三日に、参謀史龍添(略)、此の塞に来り、和議を請ふ。(略)彼の人質を請取(略)和議と相成りて
掃陣の催しあり」
ともかく、泗川の大勝によって明軍を和議に向かわせたのは資料から確実と思われます。
前のレスを補足すると和議を結んだから撤退したのではなく、撤退の過程で和議が結ばれた、という事ですね。
義兵のことですが、彼等の活発な活動が日本軍を苦しめたのは疑いありません。
ただ、支配者層は義兵の反日抗争を自らの階級支配の道具に組み入れようとやっきになったそうです。
金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)によれば、戦争初期においては義兵を官軍に引きこむため、
義兵将らにたいして高い職位を授ける措置をとったが、やがて義兵闘争が官軍の補助的役割をするようになると
義兵には厳しい統制と圧力がくわえられ、政府は義兵達が巡察使(道内の軍務を巡察する官職臨時軍司令官)及び
体察使(臨時宰相兼軍司令官)の指揮を受けるようにしたが、それらの指揮官は殆どの者が正確な指揮をなしえなかった。
戦争末期には、為政者たちは義兵の存在を十分留意していた。すなわちかれらは戦闘の経験を有し、武器を多数
備え、権力者にとって恐ろしい存在である事を認識し、義兵にたいする統率と圧力をより一層強化するとともに
迫害を加えた。そのため、義兵達は組織された部隊として機能できなくなった。
しかも、義兵部隊の核心的活動家はほとんどが被圧迫階級で、体を張って貢献したにも関わらず、政府はかれらを
正当に評価せず、戦争が終わると義兵たちはまたもや農奴的身分におとしめ、過酷な収奪を繰り返した。
義兵闘争の過程で官職を授けられた義兵将も、国家権力によって廃履のように捨てられるが、党派の政争に組み込まれて
権力者らの猜忌や謀略により迫害され、はては流配か死刑かの不遇な生涯を送らねばならなかったそうです。
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607 :
名無しさん@1周年:2000/12/05(火) 02:34
480さん、指摘ありがとうございます。
蘇峰徳猪一郎著『近世日本国民史 第九巻 朝鮮役下巻』(時事通信社 昭和三十九年二月十日発行)によれば、
秀吉の死去後、五大老は朝鮮の諸将に撤兵を命を出し、順天、泗川では明軍は敗戦で戦意を失っていたため
早々と講和が締結されたらしいです。順天では提督の劉延が降倭の沙也可を使者として小西行長に和議を
持ちこみ、人質として劉天を差し出しました。朝鮮の資料「宣祖實緑」では順天城の攻防における劉延の
無能ぶりを「(略)提督事を行ふ、正に魂を奪はれたる人の如し。将卒皆軽侮す。適ゝ泗川の敗報を見、(略)
意を決して兵を退く。尤も痛泣を為す。(漢字を一部略字に変更してますので間違いがあればすいません)」
日本軍に手痛く迎撃されられた上に、泗川の敗報に報して日本諸将の撤兵意思を好材料として和を講じたの
でしょう。しかし、明と朝鮮の連合軍はそれを反故にして後に押し寄せることとなります。
泗川での講和
明側の資料、「両朝平攘録」には「(略)中路使督陣茅國科、撫臺の激を持し、金パクを賚して義弘に見え、動すに
大儀を以てし、諭すに利害を以てす。郭國安傍より之を賛す。義弘許諾す。」とあり、
日本側の資料「征韓録」には「十月八日に、徳水式部卿法印壽昌(略)、泗川の新塞に来て、殿下の厳命なりとて
和議の次第、貢税の品、掃陣の行を述らる。その掃陣の期限は、十一月十五日を期として、諸将相倶に釜山浦へ
(略)、然るに十月十三日に、参謀史龍添(略)、此の塞に来り、和議を請ふ。(略)彼の人質を請取(略)和議と相成りて
掃陣の催しあり」
ともかく、泗川の大勝によって明軍を和議に向かわせたのは資料から確実と思われます。
前のレスを補足すると和議を結んだから撤退したのではなく、撤退の過程で和議が結ばれた、という事ですね。
義兵のことですが、彼等の活発な活動が日本軍を苦しめたのは疑いありません。
ただ、支配者層は義兵の反日抗争を自らの階級支配の道具に組み入れようとやっきになったそうです。
金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)によれば、戦争初期においては義兵を官軍に引きこむため、
義兵将らにたいして高い職位を授ける措置をとったが、やがて義兵闘争が官軍の補助的役割をするようになると
義兵には厳しい統制と圧力がくわえられ、政府は義兵達が巡察使(道内の軍務を巡察する官職臨時軍司令官)及び
体察使(臨時宰相兼軍司令官)の指揮を受けるようにしたが、それらの指揮官は殆どの者が正確な指揮をなしえなかった。
戦争末期には、為政者たちは義兵の存在を十分留意していた。すなわちかれらは戦闘の経験を有し、武器を多数
備え、権力者にとって恐ろしい存在である事を認識し、義兵にたいする統率と圧力をより一層強化するとともに
迫害を加えた。そのため、義兵達は組織された部隊として機能できなくなった。
しかも、義兵部隊の核心的活動家はほとんどが被圧迫階級で、体を張って貢献したにも関わらず、政府はかれらを
正当に評価せず、戦争が終わると義兵たちはまたもや農奴的身分におとしめ、過酷な収奪を繰り返した。
義兵闘争の過程で官職を授けられた義兵将も、国家権力によって廃履のように捨てられるが、党派の政争に組み込まれて
権力者らの猜忌や謀略により迫害され、はては流配か死刑かの不遇な生涯を送らねばならなかったそうです。
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608 :
名無しさん@1周年:2000/12/05(火) 02:34
480さん、指摘ありがとうございます。
蘇峰徳猪一郎著『近世日本国民史 第九巻 朝鮮役下巻』(時事通信社 昭和三十九年二月十日発行)によれば、
秀吉の死去後、五大老は朝鮮の諸将に撤兵を命を出し、順天、泗川では明軍は敗戦で戦意を失っていたため
早々と講和が締結されたらしいです。順天では提督の劉延が降倭の沙也可を使者として小西行長に和議を
持ちこみ、人質として劉天を差し出しました。朝鮮の資料「宣祖實緑」では順天城の攻防における劉延の
無能ぶりを「(略)提督事を行ふ、正に魂を奪はれたる人の如し。将卒皆軽侮す。適ゝ泗川の敗報を見、(略)
意を決して兵を退く。尤も痛泣を為す。(漢字を一部略字に変更してますので間違いがあればすいません)」
日本軍に手痛く迎撃されられた上に、泗川の敗報に報して日本諸将の撤兵意思を好材料として和を講じたの
でしょう。しかし、明と朝鮮の連合軍はそれを反故にして後に押し寄せることとなります。
泗川での講和
明側の資料、「両朝平攘録」には「(略)中路使督陣茅國科、撫臺の激を持し、金パクを賚して義弘に見え、動すに
大儀を以てし、諭すに利害を以てす。郭國安傍より之を賛す。義弘許諾す。」とあり、
日本側の資料「征韓録」には「十月八日に、徳水式部卿法印壽昌(略)、泗川の新塞に来て、殿下の厳命なりとて
和議の次第、貢税の品、掃陣の行を述らる。その掃陣の期限は、十一月十五日を期として、諸将相倶に釜山浦へ
(略)、然るに十月十三日に、参謀史龍添(略)、此の塞に来り、和議を請ふ。(略)彼の人質を請取(略)和議と相成りて
掃陣の催しあり」
ともかく、泗川の大勝によって明軍を和議に向かわせたのは資料から確実と思われます。
前のレスを補足すると和議を結んだから撤退したのではなく、撤退の過程で和議が結ばれた、という事ですね。
義兵のことですが、彼等の活発な活動が日本軍を苦しめたのは疑いありません。
ただ、支配者層は義兵の反日抗争を自らの階級支配の道具に組み入れようとやっきになったそうです。
金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)によれば、戦争初期においては義兵を官軍に引きこむため、
義兵将らにたいして高い職位を授ける措置をとったが、やがて義兵闘争が官軍の補助的役割をするようになると
義兵には厳しい統制と圧力がくわえられ、政府は義兵達が巡察使(道内の軍務を巡察する官職臨時軍司令官)及び
体察使(臨時宰相兼軍司令官)の指揮を受けるようにしたが、それらの指揮官は殆どの者が正確な指揮をなしえなかった。
戦争末期には、為政者たちは義兵の存在を十分留意していた。すなわちかれらは戦闘の経験を有し、武器を多数
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迫害を加えた。そのため、義兵達は組織された部隊として機能できなくなった。
しかも、義兵部隊の核心的活動家はほとんどが被圧迫階級で、体を張って貢献したにも関わらず、政府はかれらを
正当に評価せず、戦争が終わると義兵たちはまたもや農奴的身分におとしめ、過酷な収奪を繰り返した。
義兵闘争の過程で官職を授けられた義兵将も、国家権力によって廃履のように捨てられるが、党派の政争に組み込まれて
権力者らの猜忌や謀略により迫害され、はては流配か死刑かの不遇な生涯を送らねばならなかったそうです。
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609 :
名無しさん@1周年:2000/12/05(火) 02:34
480さん、指摘ありがとうございます。
蘇峰徳猪一郎著『近世日本国民史 第九巻 朝鮮役下巻』(時事通信社 昭和三十九年二月十日発行)によれば、
秀吉の死去後、五大老は朝鮮の諸将に撤兵を命を出し、順天、泗川では明軍は敗戦で戦意を失っていたため
早々と講和が締結されたらしいです。順天では提督の劉延が降倭の沙也可を使者として小西行長に和議を
持ちこみ、人質として劉天を差し出しました。朝鮮の資料「宣祖實緑」では順天城の攻防における劉延の
無能ぶりを「(略)提督事を行ふ、正に魂を奪はれたる人の如し。将卒皆軽侮す。適ゝ泗川の敗報を見、(略)
意を決して兵を退く。尤も痛泣を為す。(漢字を一部略字に変更してますので間違いがあればすいません)」
日本軍に手痛く迎撃されられた上に、泗川の敗報に報して日本諸将の撤兵意思を好材料として和を講じたの
でしょう。しかし、明と朝鮮の連合軍はそれを反故にして後に押し寄せることとなります。
泗川での講和
明側の資料、「両朝平攘録」には「(略)中路使督陣茅國科、撫臺の激を持し、金パクを賚して義弘に見え、動すに
大儀を以てし、諭すに利害を以てす。郭國安傍より之を賛す。義弘許諾す。」とあり、
日本側の資料「征韓録」には「十月八日に、徳水式部卿法印壽昌(略)、泗川の新塞に来て、殿下の厳命なりとて
和議の次第、貢税の品、掃陣の行を述らる。その掃陣の期限は、十一月十五日を期として、諸将相倶に釜山浦へ
(略)、然るに十月十三日に、参謀史龍添(略)、此の塞に来り、和議を請ふ。(略)彼の人質を請取(略)和議と相成りて
掃陣の催しあり」
ともかく、泗川の大勝によって明軍を和議に向かわせたのは資料から確実と思われます。
前のレスを補足すると和議を結んだから撤退したのではなく、撤退の過程で和議が結ばれた、という事ですね。
義兵のことですが、彼等の活発な活動が日本軍を苦しめたのは疑いありません。
ただ、支配者層は義兵の反日抗争を自らの階級支配の道具に組み入れようとやっきになったそうです。
金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)によれば、戦争初期においては義兵を官軍に引きこむため、
義兵将らにたいして高い職位を授ける措置をとったが、やがて義兵闘争が官軍の補助的役割をするようになると
義兵には厳しい統制と圧力がくわえられ、政府は義兵達が巡察使(道内の軍務を巡察する官職臨時軍司令官)及び
体察使(臨時宰相兼軍司令官)の指揮を受けるようにしたが、それらの指揮官は殆どの者が正確な指揮をなしえなかった。
戦争末期には、為政者たちは義兵の存在を十分留意していた。すなわちかれらは戦闘の経験を有し、武器を多数
備え、権力者にとって恐ろしい存在である事を認識し、義兵にたいする統率と圧力をより一層強化するとともに
迫害を加えた。そのため、義兵達は組織された部隊として機能できなくなった。
しかも、義兵部隊の核心的活動家はほとんどが被圧迫階級で、体を張って貢献したにも関わらず、政府はかれらを
正当に評価せず、戦争が終わると義兵たちはまたもや農奴的身分におとしめ、過酷な収奪を繰り返した。
義兵闘争の過程で官職を授けられた義兵将も、国家権力によって廃履のように捨てられるが、党派の政争に組み込まれて
権力者らの猜忌や謀略により迫害され、はては流配か死刑かの不遇な生涯を送らねばならなかったそうです。
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610 :
名無しさん@1周年:2000/12/05(火) 02:34
480さん、指摘ありがとうございます。
蘇峰徳猪一郎著『近世日本国民史 第九巻 朝鮮役下巻』(時事通信社 昭和三十九年二月十日発行)によれば、
秀吉の死去後、五大老は朝鮮の諸将に撤兵を命を出し、順天、泗川では明軍は敗戦で戦意を失っていたため
早々と講和が締結されたらしいです。順天では提督の劉延が降倭の沙也可を使者として小西行長に和議を
持ちこみ、人質として劉天を差し出しました。朝鮮の資料「宣祖實緑」では順天城の攻防における劉延の
無能ぶりを「(略)提督事を行ふ、正に魂を奪はれたる人の如し。将卒皆軽侮す。適ゝ泗川の敗報を見、(略)
意を決して兵を退く。尤も痛泣を為す。(漢字を一部略字に変更してますので間違いがあればすいません)」
日本軍に手痛く迎撃されられた上に、泗川の敗報に報して日本諸将の撤兵意思を好材料として和を講じたの
でしょう。しかし、明と朝鮮の連合軍はそれを反故にして後に押し寄せることとなります。
泗川での講和
明側の資料、「両朝平攘録」には「(略)中路使督陣茅國科、撫臺の激を持し、金パクを賚して義弘に見え、動すに
大儀を以てし、諭すに利害を以てす。郭國安傍より之を賛す。義弘許諾す。」とあり、
日本側の資料「征韓録」には「十月八日に、徳水式部卿法印壽昌(略)、泗川の新塞に来て、殿下の厳命なりとて
和議の次第、貢税の品、掃陣の行を述らる。その掃陣の期限は、十一月十五日を期として、諸将相倶に釜山浦へ
(略)、然るに十月十三日に、参謀史龍添(略)、此の塞に来り、和議を請ふ。(略)彼の人質を請取(略)和議と相成りて
掃陣の催しあり」
ともかく、泗川の大勝によって明軍を和議に向かわせたのは資料から確実と思われます。
前のレスを補足すると和議を結んだから撤退したのではなく、撤退の過程で和議が結ばれた、という事ですね。
義兵のことですが、彼等の活発な活動が日本軍を苦しめたのは疑いありません。
ただ、支配者層は義兵の反日抗争を自らの階級支配の道具に組み入れようとやっきになったそうです。
金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)によれば、戦争初期においては義兵を官軍に引きこむため、
義兵将らにたいして高い職位を授ける措置をとったが、やがて義兵闘争が官軍の補助的役割をするようになると
義兵には厳しい統制と圧力がくわえられ、政府は義兵達が巡察使(道内の軍務を巡察する官職臨時軍司令官)及び
体察使(臨時宰相兼軍司令官)の指揮を受けるようにしたが、それらの指揮官は殆どの者が正確な指揮をなしえなかった。
戦争末期には、為政者たちは義兵の存在を十分留意していた。すなわちかれらは戦闘の経験を有し、武器を多数
備え、権力者にとって恐ろしい存在である事を認識し、義兵にたいする統率と圧力をより一層強化するとともに
迫害を加えた。そのため、義兵達は組織された部隊として機能できなくなった。
しかも、義兵部隊の核心的活動家はほとんどが被圧迫階級で、体を張って貢献したにも関わらず、政府はかれらを
正当に評価せず、戦争が終わると義兵たちはまたもや農奴的身分におとしめ、過酷な収奪を繰り返した。
義兵闘争の過程で官職を授けられた義兵将も、国家権力によって廃履のように捨てられるが、党派の政争に組み込まれて
権力者らの猜忌や謀略により迫害され、はては流配か死刑かの不遇な生涯を送らねばならなかったそうです。
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611 :
名無しさん@1周年:2000/12/05(火) 02:34
480さん、指摘ありがとうございます。
蘇峰徳猪一郎著『近世日本国民史 第九巻 朝鮮役下巻』(時事通信社 昭和三十九年二月十日発行)によれば、
秀吉の死去後、五大老は朝鮮の諸将に撤兵を命を出し、順天、泗川では明軍は敗戦で戦意を失っていたため
早々と講和が締結されたらしいです。順天では提督の劉延が降倭の沙也可を使者として小西行長に和議を
持ちこみ、人質として劉天を差し出しました。朝鮮の資料「宣祖實緑」では順天城の攻防における劉延の
無能ぶりを「(略)提督事を行ふ、正に魂を奪はれたる人の如し。将卒皆軽侮す。適ゝ泗川の敗報を見、(略)
意を決して兵を退く。尤も痛泣を為す。(漢字を一部略字に変更してますので間違いがあればすいません)」
日本軍に手痛く迎撃されられた上に、泗川の敗報に報して日本諸将の撤兵意思を好材料として和を講じたの
でしょう。しかし、明と朝鮮の連合軍はそれを反故にして後に押し寄せることとなります。
泗川での講和
明側の資料、「両朝平攘録」には「(略)中路使督陣茅國科、撫臺の激を持し、金パクを賚して義弘に見え、動すに
大儀を以てし、諭すに利害を以てす。郭國安傍より之を賛す。義弘許諾す。」とあり、
日本側の資料「征韓録」には「十月八日に、徳水式部卿法印壽昌(略)、泗川の新塞に来て、殿下の厳命なりとて
和議の次第、貢税の品、掃陣の行を述らる。その掃陣の期限は、十一月十五日を期として、諸将相倶に釜山浦へ
(略)、然るに十月十三日に、参謀史龍添(略)、此の塞に来り、和議を請ふ。(略)彼の人質を請取(略)和議と相成りて
掃陣の催しあり」
ともかく、泗川の大勝によって明軍を和議に向かわせたのは資料から確実と思われます。
前のレスを補足すると和議を結んだから撤退したのではなく、撤退の過程で和議が結ばれた、という事ですね。
義兵のことですが、彼等の活発な活動が日本軍を苦しめたのは疑いありません。
ただ、支配者層は義兵の反日抗争を自らの階級支配の道具に組み入れようとやっきになったそうです。
金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)によれば、戦争初期においては義兵を官軍に引きこむため、
義兵将らにたいして高い職位を授ける措置をとったが、やがて義兵闘争が官軍の補助的役割をするようになると
義兵には厳しい統制と圧力がくわえられ、政府は義兵達が巡察使(道内の軍務を巡察する官職臨時軍司令官)及び
体察使(臨時宰相兼軍司令官)の指揮を受けるようにしたが、それらの指揮官は殆どの者が正確な指揮をなしえなかった。
戦争末期には、為政者たちは義兵の存在を十分留意していた。すなわちかれらは戦闘の経験を有し、武器を多数
備え、権力者にとって恐ろしい存在である事を認識し、義兵にたいする統率と圧力をより一層強化するとともに
迫害を加えた。そのため、義兵達は組織された部隊として機能できなくなった。
しかも、義兵部隊の核心的活動家はほとんどが被圧迫階級で、体を張って貢献したにも関わらず、政府はかれらを
正当に評価せず、戦争が終わると義兵たちはまたもや農奴的身分におとしめ、過酷な収奪を繰り返した。
義兵闘争の過程で官職を授けられた義兵将も、国家権力によって廃履のように捨てられるが、党派の政争に組み込まれて
権力者らの猜忌や謀略により迫害され、はては流配か死刑かの不遇な生涯を送らねばならなかったそうです。
lp76544fgthtrththtewetregfseefeee
612 :
名無しさん@1周年:2000/12/05(火) 02:34
480さん、指摘ありがとうございます。
蘇峰徳猪一郎著『近世日本国民史 第九巻 朝鮮役下巻』(時事通信社 昭和三十九年二月十日発行)によれば、
秀吉の死去後、五大老は朝鮮の諸将に撤兵を命を出し、順天、泗川では明軍は敗戦で戦意を失っていたため
早々と講和が締結されたらしいです。順天では提督の劉延が降倭の沙也可を使者として小西行長に和議を
持ちこみ、人質として劉天を差し出しました。朝鮮の資料「宣祖實緑」では順天城の攻防における劉延の
無能ぶりを「(略)提督事を行ふ、正に魂を奪はれたる人の如し。将卒皆軽侮す。適ゝ泗川の敗報を見、(略)
意を決して兵を退く。尤も痛泣を為す。(漢字を一部略字に変更してますので間違いがあればすいません)」
日本軍に手痛く迎撃されられた上に、泗川の敗報に報して日本諸将の撤兵意思を好材料として和を講じたの
でしょう。しかし、明と朝鮮の連合軍はそれを反故にして後に押し寄せることとなります。
泗川での講和
明側の資料、「両朝平攘録」には「(略)中路使督陣茅國科、撫臺の激を持し、金パクを賚して義弘に見え、動すに
大儀を以てし、諭すに利害を以てす。郭國安傍より之を賛す。義弘許諾す。」とあり、
日本側の資料「征韓録」には「十月八日に、徳水式部卿法印壽昌(略)、泗川の新塞に来て、殿下の厳命なりとて
和議の次第、貢税の品、掃陣の行を述らる。その掃陣の期限は、十一月十五日を期として、諸将相倶に釜山浦へ
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掃陣の催しあり」
ともかく、泗川の大勝によって明軍を和議に向かわせたのは資料から確実と思われます。
前のレスを補足すると和議を結んだから撤退したのではなく、撤退の過程で和議が結ばれた、という事ですね。
義兵のことですが、彼等の活発な活動が日本軍を苦しめたのは疑いありません。
ただ、支配者層は義兵の反日抗争を自らの階級支配の道具に組み入れようとやっきになったそうです。
金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)によれば、戦争初期においては義兵を官軍に引きこむため、
義兵将らにたいして高い職位を授ける措置をとったが、やがて義兵闘争が官軍の補助的役割をするようになると
義兵には厳しい統制と圧力がくわえられ、政府は義兵達が巡察使(道内の軍務を巡察する官職臨時軍司令官)及び
体察使(臨時宰相兼軍司令官)の指揮を受けるようにしたが、それらの指揮官は殆どの者が正確な指揮をなしえなかった。
戦争末期には、為政者たちは義兵の存在を十分留意していた。すなわちかれらは戦闘の経験を有し、武器を多数
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しかも、義兵部隊の核心的活動家はほとんどが被圧迫階級で、体を張って貢献したにも関わらず、政府はかれらを
正当に評価せず、戦争が終わると義兵たちはまたもや農奴的身分におとしめ、過酷な収奪を繰り返した。
義兵闘争の過程で官職を授けられた義兵将も、国家権力によって廃履のように捨てられるが、党派の政争に組み込まれて
権力者らの猜忌や謀略により迫害され、はては流配か死刑かの不遇な生涯を送らねばならなかったそうです。
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613 :
名無しさん@1周年:2000/12/05(火) 02:34
480さん、指摘ありがとうございます。
蘇峰徳猪一郎著『近世日本国民史 第九巻 朝鮮役下巻』(時事通信社 昭和三十九年二月十日発行)によれば、
秀吉の死去後、五大老は朝鮮の諸将に撤兵を命を出し、順天、泗川では明軍は敗戦で戦意を失っていたため
早々と講和が締結されたらしいです。順天では提督の劉延が降倭の沙也可を使者として小西行長に和議を
持ちこみ、人質として劉天を差し出しました。朝鮮の資料「宣祖實緑」では順天城の攻防における劉延の
無能ぶりを「(略)提督事を行ふ、正に魂を奪はれたる人の如し。将卒皆軽侮す。適ゝ泗川の敗報を見、(略)
意を決して兵を退く。尤も痛泣を為す。(漢字を一部略字に変更してますので間違いがあればすいません)」
日本軍に手痛く迎撃されられた上に、泗川の敗報に報して日本諸将の撤兵意思を好材料として和を講じたの
でしょう。しかし、明と朝鮮の連合軍はそれを反故にして後に押し寄せることとなります。
泗川での講和
明側の資料、「両朝平攘録」には「(略)中路使督陣茅國科、撫臺の激を持し、金パクを賚して義弘に見え、動すに
大儀を以てし、諭すに利害を以てす。郭國安傍より之を賛す。義弘許諾す。」とあり、
日本側の資料「征韓録」には「十月八日に、徳水式部卿法印壽昌(略)、泗川の新塞に来て、殿下の厳命なりとて
和議の次第、貢税の品、掃陣の行を述らる。その掃陣の期限は、十一月十五日を期として、諸将相倶に釜山浦へ
(略)、然るに十月十三日に、参謀史龍添(略)、此の塞に来り、和議を請ふ。(略)彼の人質を請取(略)和議と相成りて
掃陣の催しあり」
ともかく、泗川の大勝によって明軍を和議に向かわせたのは資料から確実と思われます。
前のレスを補足すると和議を結んだから撤退したのではなく、撤退の過程で和議が結ばれた、という事ですね。
義兵のことですが、彼等の活発な活動が日本軍を苦しめたのは疑いありません。
ただ、支配者層は義兵の反日抗争を自らの階級支配の道具に組み入れようとやっきになったそうです。
金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)によれば、戦争初期においては義兵を官軍に引きこむため、
義兵将らにたいして高い職位を授ける措置をとったが、やがて義兵闘争が官軍の補助的役割をするようになると
義兵には厳しい統制と圧力がくわえられ、政府は義兵達が巡察使(道内の軍務を巡察する官職臨時軍司令官)及び
体察使(臨時宰相兼軍司令官)の指揮を受けるようにしたが、それらの指揮官は殆どの者が正確な指揮をなしえなかった。
戦争末期には、為政者たちは義兵の存在を十分留意していた。すなわちかれらは戦闘の経験を有し、武器を多数
備え、権力者にとって恐ろしい存在である事を認識し、義兵にたいする統率と圧力をより一層強化するとともに
迫害を加えた。そのため、義兵達は組織された部隊として機能できなくなった。
しかも、義兵部隊の核心的活動家はほとんどが被圧迫階級で、体を張って貢献したにも関わらず、政府はかれらを
正当に評価せず、戦争が終わると義兵たちはまたもや農奴的身分におとしめ、過酷な収奪を繰り返した。
義兵闘争の過程で官職を授けられた義兵将も、国家権力によって廃履のように捨てられるが、党派の政争に組み込まれて
権力者らの猜忌や謀略により迫害され、はては流w配か死刑かの不遇な生涯を送らねばならなかったそうです。
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614 :
名無しさん@1周年:
480さん、指摘ありがとうございます。
蘇峰徳猪一郎著『近世日本国民史 第九巻 朝鮮役下巻』(時事通信社 昭和三十九年二月十日発行)によれば、
秀吉の死去後、五大老は朝鮮の諸将に撤兵を命を出し、順天、泗川では明軍は敗戦で戦意を失っていたため
早々と講和が締結されたらしいです。順天では提督の劉延が降倭の沙也可を使者として小西行長に和議を
持ちこみ、人質として劉天を差し出しました。朝鮮の資料「宣祖實緑」では順天城の攻防における劉延の
無能ぶりを「(略)提督事を行ふ、正に魂を奪はれたる人の如し。将卒皆軽侮す。適ゝ泗川の敗報を見、(略)
意を決して兵を退く。尤も痛泣を為す。(漢字を一部略字に変更してますので間違いがあればすいません)」
日本軍に手痛く迎撃されられた上に、泗川の敗報に報して日本諸将の撤兵意思を好材料として和を講じたの
でしょう。しかし、明と朝鮮の連合軍はそれを反故にして後に押し寄せることとなります。
泗川での講和
明側の資料、「両朝平攘録」には「(略)中路使督陣茅國科、撫臺の激を持し、金パクを賚して義弘に見え、動すに
大儀を以てし、諭すに利害を以てす。郭國安傍より之を賛す。義弘許諾す。」とあり、
日本側の資料「征韓録」には「十月八日に、徳水式部卿法印壽昌(略)、泗川の新塞に来て、殿下の厳命なりとて
和議の次第、貢税の品、掃陣の行を述らる。その掃陣の期限は、十一月十五日を期として、諸将相倶に釜山浦へ
(略)、然るに十月十三日に、参謀史龍添(略)、此の塞に来り、和議を請ふ。(略)彼の人質を請取(略)和議と相成りて
掃陣の催しあり」
ともかく、泗川の大勝によって明軍を和議に向かわせたのは資料から確実と思われます。
前のレスを補足すると和議を結んだから撤退したのではなく、撤退の過程で和議が結ばれた、という事ですね。
義兵のことですが、彼等の活発な活動が日本軍を苦しめたのは疑いありません。
ただ、支配者層は義兵の反日抗争を自らの階級支配の道具に組み入れようとやっきになったそうです。
金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)によれば、戦争初期においては義兵を官軍に引きこむため、
義兵将らにたいして高い職位を授ける措置をとったが、やがて義兵闘争が官軍の補助的役割をするようになると
義兵には厳しい統制と圧力がくわえられ、政府は義兵達が巡察使(道内の軍務を巡察する官職臨時軍司令官)及び
体察使(臨時宰相兼軍司令官)の指揮を受けるようにしたが、それらの指揮官は殆どの者が正確な指揮をなしえなかった。
戦争末期には、為政者たちは義兵の存在を十分留意していた。すなわちかれらは戦闘の経験を有し、武器を多数
備え、権力者にとって恐ろしい存在である事を認識し、義兵にたいする統率と圧力をより一層強化するとともに
迫害を加えた。そのため、義兵達は組織された部隊として機能できなくなった。
しかも、義兵部隊の核心的活動家はほとんどが被圧迫階級で、体を張って貢献したにも関わらず、政府はかれらを
正当に評価せず、戦争が終わると義兵たちはまたもや農奴的身分におとしめ、過酷な収奪を繰り返した。
義兵闘争の過程で官職を授けられた義兵将も、国家権力によって廃履のように捨てられるが、党派の政争に組み込まれて
権力者らの猜忌や謀略により迫害され、はては流w配か死刑かの不遇な生涯を送らねばならなかったそうです。
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