1 :
マンセー名無しさん :
2014/07/03(木) 18:00:42.49 ID:Ola1ed7K 自国民に告発された韓国政府wwwwwwww
2 :
マンセー名無しさん :2014/07/04(金) 05:47:44.74 ID:L+rfcoRy
余裕で2GET
3 :
マンセー名無しさん :2014/07/05(土) 15:48:25.93 ID:tFaNmXvB
酋長パパが、運用ニダ
4 :
マンセー名無しさん :2014/07/12(土) 11:42:25.50 ID:v5Pu8pxf
5 :
セイラ・マス・大山 :2014/07/12(土) 12:17:10.86 ID:+opH/Ile
<丶`∀´>韓国軍慰安婦はまだニカ?
6 :
マンセー名無しさん :2014/07/18(金) 13:01:50.66 ID:5WWtqroS
「人身売買に遭い毎晩泣きながら米兵を受け入れた」
http://japan.hani.co.kr/arti/politics/17752.html http://img.hani.co.kr/imgdb/japan/news/resize/2014/0705/140455460653_20140705.jpg 米軍基地村には人身売買された未成年女性たちも多数いた。 だが、国家はこのような状況に目を瞑った。
‘米兵にうまく接待してくれ’という教育ばかりを行った。 教育を始めた公務員たちは、基地村女性たちを
‘ドルを稼ぐ産業の担い手’と褒め称えた。 1970年代、東豆川(トンドゥチョン)の基地村風景. <ハンギョレ>資料写真
‘私たちが大騒ぎすれば、日本の右翼だけを利する結果になるのではないか?’米軍基地村女性たちが国家を相手に3
損害賠償訴訟を準備する時、最大の悩みがこれでした。 だが、彼女たちは韓国政府が米軍のための慰安施設と
女性たちを管理していたと暴露しました。 国家の謝罪を要求しています。 歴史的真実は一体何でしょうか。
私たちがよく知らなかった米軍基地村の不都合な秘密。 キム・ジョンジャ氏の証言から調べます。
「私はキム・ジョンジャ(仮名)です。 今年で64歳です。 大きな持病はありませんが、この頃ヒザがちょっと痛みます。
もう若くない歳ですが、今日は必ず言っておきたい話があって、このようにインタビューに出て来ました。
私は米軍向けの慰安婦でした。 基地村に人身売買されて、一生を米軍にあてがわれて無念に生きてきましたが、
誰も私や私の同僚たちの話を聞こうとはしませんでした。 自発的にそういう仕事をしたのではないかという
色眼鏡をかけて。
私たちが米軍から稼いだドルで、韓国をこのように立てなおしたのに、その時は私たちに‘愛国者’だと
言っていましたが、今国家は私たちを見て見ぬフリをしています。 私たちは年老いて病気にかかりつつあります。
私の先輩姉さん(基地村の同僚)がだんだん亡くなってくのをこれ以上黙って見てはいられません。
それで勇気を出すことにしました。
私たちは国家を相手に損害賠償請求訴訟を始めました。 私たちがなぜ国家にこのような戦いを挑むのか、
私の人生を通じて説明したいと思います。」
>>8 続き
訴訟に参加した女性122人が全員キム・ジョンジャさんと同じ経験をしたわけではない。
ただし、その被害の構造が同じような女性たちが相当数いる。 キム・ジョンジャさんの証言をその代表として
調べるものの、基地村での経験は女性ごとに異なっているという点を明らかにしておく。
米軍基地村で米軍と性売買を行う女性たちは、米軍慰安婦、基地村女性、特殊接待婦、洋公主(ヤンコンジュ)などと
呼ばれてきた。 政府は慰安婦と特殊接待婦を混ぜて使ってきた。 1957年に制定された‘伝染病予防法施行令’
第4条で規定した‘慰安婦’は、1969年の改正法律でそのまま使われ、1977年の改正時に削除された。
しかし1990年代初期まで市・郡の公務員たちは、米軍基地村女性たちを韓国男性と性売買を行う淪落女性とは
区分して慰安婦と呼んだ。(<米軍慰安婦基地村の隠された真実> 39ページ)
1950年代、戦争のために父親をなくし
義父に性暴行され、金を稼げる友人にそそかされ
16歳で家を出て、訪ねて行ったそこから地獄は始まった
「その時期でも性売買は不法
米軍基地村だけ合法だった
公務員たちは月に一度ずつ
‘米軍にうまくサービスしなさい’と言いながら
愛国者だと褒め称えました」
>>9 続き
20歳に偽装させる抱え主…一日に3,4人ずつ受け入れて
「私は1950年1月に生まれました。 どこで生まれたかは知りませんが、幼かりし時に天安(チョナン)で暮らしました。
実の父は軍人でしたが、戦争の渦中に私を見に帰って来て脱走兵になって憲兵に捕まりました。
それっきり殴られて死んだという話だけを聞きました。 母は後に再婚しました。
私が12才ぐらいからか、私の義父は母の居ない時を狙って私を強奪しました。 義理の兄たちも私に手を出しました。
それを母に話すこともできずに、じっと我慢していましたが、16歳の時(1965年頃)家を出てしまいました。
私の小学校の時の友人がいました。 金を稼げる所があると言いました。 紡織工場だと言いました。
その子についてソウル駅まで汽車に乗って来ました。
ソウル駅から友達について、またどこかに行きましたが何かが変なのです。 紡織工場は見えなくて、
米軍の兵隊ばかりが路上で‘サラ、サラ’と囃し立てながら歩き回っていました。 ある家に入ると、家毎に
‘ナムバー’が付いていました。 1号室、2号室、3号室、こんなふうに。 私は旅館だと思って眠りました。
私の友達は、翌日ちょっと行って来ると言って出て行ったきり帰って来ませんでした。
(50代くらいの)おばさんが現れました。 私について来いと言いました。 工場に連れて行くのかと思って、
ついて行きました。 ところが私に‘お前の友達が借金を返さずに逃げたので、代わりにお前が返せ’と言いました。
いくらなのかは言いませんでした。友達の代わりにお金を返せば私が出て行くことができると言いました。
どのように金を稼げばいいのか尋ねました。 夜になって姉さんについて行けば分かると言いました。
後で知ったのですが、私が行ったところは坡州(パジュ)ヨンジュッコルという所でした。 米軍基地の周辺で
女たちが身を売る所でした。 私の友達が借金を返せずに、私を売り払ったということでした。」
>>10 続き
キム・ジョンジャさんは人身売買されたと言う。 だが、そのことを理解するにはキム・ジョンジャさんの当時の年齢は
あまりに幼かった。 友達の行動は悔しかったが、キム氏はしかたなく友達の借金を返すことを決心した。
「おばさん(抱え主)は私に、クラブに出て行ってお客さん(米兵)を連れて来るように言いました。 私は3日くらいして、
その抱え主の家から逃げ出しました。 ところが路地で捕ってしまいました。 ‘死ぬほど’殴られました。
もう一回逃げたら島に連れて行って殺してしまうと言いました。
(抱え主が)パスを貼ってくれセコナール(鎮静剤)をくれました。 気持ち良くからと言ってくれました。
一回飲めば(中毒になり)二回飲むことになり、三回飲めば四回飲むことになります。 客を連れてこいと送り出されると、
私は恐くて何も言えませんでした。 正気では恥ずかしくて客を引っ張ることなどできません。 私はその薬が何なのかも
知らず、飲み続けました。」キム氏は後になってこれが麻薬であることを知るようになるが、すでに手遅れだった。
薬を飲んでこそヒッパリ(客引き行為)に出かけられた。 キム氏は米兵を連れて来るまで、家(宿舎)には入れなかったと
言う。 1,2か月仕事をすれば借金を返せると思い、キム氏は黙って目をぐっと瞑って基地村で仕事をすることになる。
しかし現実はそうではなかった。
「そこから抜け出すことはできませんでした。 借金は増え続けました。 部屋代と化粧品・美容院代とセコナール代を
払わなければならず、いくら仕事をしても返せません。 利子は増え続けました。」
普通、基地村には慰安婦女性たちの自治組織がある。 姉妹会などの名前で呼ばれる。 基地村で仕事をするには、
そこの会員として登録しなければならない。 姉妹会では明らかに未成年者であることを知っていながら会員証を与え、
検診証(性病に罹っていないことを確認する証明書)を発行したという基地村女性たちの証言が多い。
普通、抱え主は10代の子供たちに20歳と言うように強要したという。
>>11 続き
キム・ジョンジャさんの人生は地獄のようだった。 普通、基地村女性たちは一晩に米軍兵を三,四人ずつ
受け入れなければならないケースが普通だった。
「そうすれば、そこ(陰部)がどれほど痛むかわかりません。 ロング・ショート(性売買時間の単位)いくらしても
キリがありません。 ロングは自分の部屋で夜を明かして朝早くに出て行くもので10ドル受け取ります。
ショートは自分の部屋で30分から1時間で出て行きます。 お金は全部おばさんが持って行ってしまいます。
私は直接受け取れません。 おばさんは一ヶ月毎に計算すると言っておいて全て奪い取りました。
1〜2ヶ月で借金を全て返せると思っていましたがそうは行きません。」
基地村の10代の子供たちは算法に明るくなかった。小学校もまともに卒業していない子供たちが大半だった。
抱え主は恐怖の対象で、帳簿に何がどのように記録されているのか、尋ねるなどは思いもよらなかった。
そんな風に女性たちは、いや10代の子供たちは、夜通し泣いて、夜通し米兵のノリゲ(おもちゃ)になって苦痛にもがいた。
「逃げることはできませんでした。 仕事に行く時、いつも男(抱え主の下で働くゴロツキ)を付けて監視します。
風呂屋には自分の家(抱え主の家)で一番長くいる女、主人にへつらう女と一緒に風呂に行かせます。
警察に申告することもできません。主人の家には警官が昼間に遊びに来ます。 主人のおばさんに姉さんと
言いながら入ってきます。 すると、おばさんはタバコも買い与えたりします。 最初の内は。私はおばさんの弟だと
思いましたが、一緒にいた先輩姉さんたちが刑事だと耳打ちしてくれました。 主人が皆お金をやっているんだと。
‘警察に申告しても、私は出て行けないんだな’そのことを知るようになりました。 私が死んでこそ、ここを出て行ける
ということが分かりました。」
http://img.hani.co.kr/imgdb/japan/news/resize/2014/0705/140455471907_20140705.jpg 朝鮮戦争はこの地の女性たちにも癒やしがたい傷を与えた。米軍基地村女性たち122人は、国家を相手に
被害補償請求訴訟をすることにした。 先月25日午後、ソウル大方洞(テバンドン)のソウル女性プラザ建物4階で
開かれた訴訟記者会見の様子。
>>12 続き
なぜそんなにまでして米兵と結婚しようとしたのか
「それでも一度は勇気を出して逃げました。 ヨンジュッコルに人身売買されて数か月後のことでした。
派出所に逃げ込みました。 40代と思われる警察官が‘なぜ他人の借金を請け負っておきながら逃げるのか。
返さなければ営倉行きだぞ’と言いました。 抱え主が警察署にお金を掴ませていた時代でした。 止むなく再び
抱え主の家へ帰りました。 小部屋に閉じ込められて、また死ぬほど殴られました。」
キム・ジョンジャさんは死んでも絶対に山に埋められたくないと言う。 彼女が山で体験した苦痛な経験のためだ。
「山に行って米兵を受け入れなければならない時が一番恐かったです。 部隊が訓練に出て行けば、私たちも
ついて行かなければなりませんでした。 夜暗くなれば、毛布一枚持って、おばさんについて行きます。
おばさんが歩哨に立つ米兵とゴチゴチョ話します。 そうすると訓練場所に入ることができました。
銃を持って立っていた男たちが幕舎に行って、女たちと寝たい者は出てこいと言います。 E-6、E-7
(E-6は下士、E-7は中士)らも皆しました。 将校は特別に幕舎の中でします。 一般兵士たちは訓練場内の
木のあるところに毛布を敷いてしたり、穴を掘っておいてそこでします。 米軍が掘っておいた塹壕ですね。」
基地村女性たちはそんな風に訓練場にまで呼ばれて行って‘空を屋根として、地べたを毛布として’米兵を受け入れた。
きちんと洗う時間などなかった。 金を稼いで降りて行けば抱え主に怒られない。 ある米兵はお金の代わりに
自分たちが食べるこびりついたご飯を投げつけて女性たちの気を焦らせた。 女性たちは一度訓練場に行けば、
そちらで明け方までいて帰って来たという。
>>13 続き
安全な性関係は基地村女性たちには保障されていなかった。 「ある米兵はコンドームをつけずにします。
私たちには拒絶できません。 それで堕胎も本当にたくさんしました。 堕ろした子だけで17人です。」
保健所には抱え主が引っ張って行った。 強制的に堕胎させるためだ。 腸まで全てえぐられるような苦痛に耐えて、
女性たちは堕胎手術に耐えた。 堕胎すると、からだが殴られたように痛み、それでも再び仕事に行かなければ
ならなかった。 抱え主は堕胎手術で痛んだからだを養生する時間もくれなかった。 薬と水一杯飲んで
再び仕事をするケースが大半だった。 一日休めば借金がどのくらい増えるのかも分からなかった。
「こうやって生きなければならないのだから、死にたいとばかり考えるようになります。 基地村では月に二三度は
葬儀を行わなければなりませんでした。 鉄道に飛び込んだり、煉炭に火をつけてそのガスで。 私も三回死のうと
試みました。 ところが何の運命か、全部助かりました。」
キム・ジョンジャさんは死のうとしても死ねなかった。 共同墓地で自殺を企てれば、墓地の管理人が発見したし、
家で動脈を切れば自分に会いに来た米兵が発見したりした。 事情を知らない人々は‘若いのになぜ死のうと
するのか’で尋ねたりした。 キム氏は何も言わずに涙を流すのみだった。
「なぜ私たちがそんなにまでして米兵と結婚しようとしたか分かりますか? そうでもしなければここから脱出する
方法がなかったからです。 借金を返す方法がありません。 逃げようとしても警察も誰も助けてはくれません。
私たちには国家はありませんでした。」
いや、国家はあった。 米軍に性接待をうまくしろと教育する国家はあった。 姉妹会の会議が月に一回ずつ
開かれれば、女性たちは参加して教育を受けなければならなかった。 そうしなければ営業ができなかった。
会議に行けば、憲兵、C.I.D.(米軍部隊犯罪捜査課),保健所職員、警察署長、郡庁公務員たちが皆来ていた。
米軍はスライド(フィルム)を利用して、性病について説明した。 ここまでが彼らのすべき仕事だと理解していたようだ。
>>14 続き
坡州(パジュ)ヨンジュッコルに売られた後
東豆川・群山(クンサン)・平沢を転転とし
40代半ばで基地村から抜け出して
逃げたくても捕まるかと思えば
他に選択の余地はなかった
「米軍部隊が訓練に出て行けば
私たちも山について行かなければなりませんでした
その時が最も怖かったです
山ではしないと反抗して
死んだアガシ(お嬢さん)もいました」
‘討伐’された性病疑心者ら、丘の上白い家に
しかし、公務員たちはおかしな教育を更にした。
「出て来る度に言う言葉はこうでした。 ‘お嬢さんたちがサービスをもっとたくさんしてください。 米兵に絶対に
悪口を言わないでください。 Buy me drink. (お酒を奢って)と言いなさい。 そうすれば東豆川(トンドゥチョン)に
米兵たちがもっとたくさん来ます。 韓国も金持ちになって暮らしていかないといけないでしょう。’
郡守は私たちにドルを稼ぐ愛国者と褒め称えました。 そう言われると、私たちはそうしなければいけないような
気になります。」一種の精神教育のようなものだった。女性たちはなぜこのような教育を受けなければならないのかと
思ったが、国家が老後に責任を負うと言えば、その通りに受け入れたと言う。
「トッコリ(東豆川市 光岩洞一帯)に工場を作り、1階にはかつら工場、上階には寮を作ると公務員たちが説明しました。
年を取ったらここで私たちが暮らせると郡守がそう言いました。 土地を全て買ってあると。 だから熱心にドルを稼げと。
私たちは老いても行くところがあるんだと、そんな風に信じていました。 だが、その約束が守られたのは一つも
ありません。 抱え主は私たちが稼いだお金で家も買い、土地も買ったけれど。 ある悪名高い抱え主は後になって
京畿道(キョンギド)議員になりました。」
>>15 続き
警察は人身売買で売られてきた子供たちを救出することには関心がなかった。 性病にかかったと疑われる人々を
捕まえて行くことだけに関心を持っていた。 捕まえて行く時も非人間的だった。
「性病に罹った米兵が訪ねてきてcontact(米軍性病患者に性病を感染させたと疑われる女性を名指しすること)すれば、
その場で連行されます。 名指しされれば行くんです。 その米兵がどこで性病に感染したかは重要ではありません。
私たちはそれを討伐されると呼びました。」‘討伐されて’派出所に連れて行かれ留置場に入れられた後、直ちに
落検者(性病検査に通過できなかった者)収容所に移されるケースが多かったという。 性病があるかないかは
まともに確認しなかったと言う。 性病があったとしても、単に患者であるだけなのに罪人の如く扱われた。
「白い家(東豆川市 逍遥山(ソヨサン)下の落検者収容所を基地村女性たちは‘丘の上の白い家’と呼んでいた。)
そこに行けば広い運動場があるが、討伐された女たちが連れてこられれば(建物の門には)施錠され、まるで
刑務所のようでした。 外には出られません。 トイレだけは行けました。 留置場のようなところで5人ずつで
寝なければなりません。 外に面した窓には鉄格子がはまっていて、面会に来ても鉄格子越しに顔を見ながら
話さなければなりませんでした。 私たちが罪人ですか? 患者をなぜ罪人扱いしたのか理解ができません。」
性病に罹った米兵にどんな措置をしたかは女性たちには通知されない。国家はひたすら米軍を相手にする女性の
からだをきれいにさせることだけに関心があるように見えた。
「私たちはペニシリンを打たれました。 それを打たれてショックのために死んだ人もいます。 打たれれば歩けません。
お尻の筋肉が固まって、脚が切れていきそうになります。それを二日に一回打たれるんです。 あまりに苦しくて
屋上に上がって落ちて死んだ先輩姉さんもいたし、半分気がおかしくなった姉さんもいました。
私は白い家に(1982年頃) 2週間入れられて出てきました。」
>>16 続き
キム・ジョンジャさんは(1965年頃)坡州(パジュ)ヨンジュッコルに売られて行った後、東豆川、龍山(ヨンサン)、
群山、平沢とあちこちを転々として、40代半ば(1990年代中盤)に基地村から抜け出すことができた。
25歳の時(1974年頃)、基地村から一度逃亡して出てきたが、再び東豆川の基地村に戻ったという。
「その時は他に選択の余地がありませんでした。 どこへ逃げてもチンピラを送って私を捕まえに来るだろうと
思いました。 また、どこかの工場に就職するには私の身分証を提出しなければなりませんが、私が町役場に行って
住民登録証の発給を受ければ、抱え主の家への借金のために、警察が私を捕まえに来るだろうと思いました。
それでやむを得ず…。」
キム氏は‘自ら進んで基地村で生きてきた女性たちを被害者だと見れるのか’という質問にこのように答えた。
「お前たちが好きで(基地村生活を)したのに何が不満か、そのような質問を本当に多く聞きます。
韓国政府が米軍を引き込まなかったら、私たちがこのようになったでしょうか? 後で知ったのですが、
その時期にも性売買行為は法律で禁止されていました。 米軍基地村だけで性売買が合法でした。
朴正熙政府がなぜそのような法を作ったのでしょうか。 私にはよく分かりませんが、米軍をずっと居させるために
そのようにしたのではないでしょうか? 私たちにドルを稼がせようとして。」米軍基地村の形成過程に
国家のどんな政策が影響を及ぼし、それが正しかった否かは論議の余地がありうる。
しかし20歳にもならない少女が、基地村に売られてきて、そこから抜け出せずにいるのに国家が放置し続けた
ということについては、論議の余地なく国家の責任が問われなければならない。 キム氏は自身の幼い時期を
国家が賠償しなければならないと信じている。
>>17 続き
‘食母(女中)の仕事’紹介してやると言うのでついて行ったら基地村
「余りにくやしくて死にたいくらいです。 私のようにそこへ人身売買されて行った人はとてもたくさんいます。
職業紹介所で食母の仕事を紹介してやると言われてついて行ったり、ご飯を食べさせてやると言ってついて行ったり、
行ってみると基地村だった場合がとても多くありました。 米軍慰安婦になることが分かっていれば、誰がそこに
ついて行くでしょうか。
日本軍慰安婦も人身売買されて行った人が多いと聞きました。 日本軍慰安婦は被害者として認定するのに、
なぜ米軍慰安婦被害者は国家が目を瞑っているのですか。 やられた人はいるのに、なぜ責任を負う人は
いないのですか。 あなたの娘さんが捕まって行ったなら、黙っていられますか? 同僚の姉さんたちが老いて
病気にかかり亡くなっています。 国家を相手に訴訟を準備してからでも、すでに3人も亡くなりました。
私は謝罪を望みます。 老いて病気にかかった私たちのからだに、国家が責任を負うことを願います。
それが国家がしなければならないことだと信じています。
天にいる私たち(基地村)の姉さんたちのために、私がこのように立ち上がりました。 誰かは証言しなければ
ならないと言うので、私がこのように勇気を奮い起こしました。 多くの人々が私たちの話に耳を傾けて欲しいです。
どうか、お願いですからちょっと報道してください。」
キム・ジョンジャさんは<ハンギョレ>とのインタビューをするまで、煩悶を繰り返した。 彼女の幼い時期の記憶を
想いうかべること自体が途方もなく苦痛なことだ。先月20日に約4時間にわたるインタビューを行った時、
彼女は涙が止らなかった。 30分証言しては10分泣いて、30分証言して再び10分泣くことが繰り返された。
落検者収容所で体験した話を告白する時は嘔吐までした。
>>18 最後
人生全体が国家の干渉した性暴行で汚された彼女にとって、今回のインタビューはそれほど辛い過程だった。
したがってインタビュー時には詳しい内容を尋ねずに、最小限の質問だけをしようと努力した。 代わりに、キム氏と
行ったインタビューと彼女の証言録<米軍慰安婦基地村の隠された真実>(2013)の内容を総合してこの文を書いた。
キム・ジョンジャさんはインタビューの後、海辺に行ってセウムト(基地村女性支援運動を行う市民団体)活動家たちと
翌日まで号泣したという。 辛いインタビューを決心してくれたキム氏に心から感謝の気持ちを伝える。
キム・ジョンジャさんは現在、食堂でアルバイトをしながら最小限の生活費を稼いでいる。 彼女を扶養する家族は
いない。 代わりにセウムトの支援を受けている。
>>8 の前にこっちの記事転載するべきだったな。
キム・ジョンジャ、「私は誰か?」
http://japan.hani.co.kr/arti/politics/17748.html 国家の責任を問い賠償訴訟に立ち上がった
基地村女性出身ハルモニの証言
http://img.hani.co.kr/imgdb/japan/news/resize/2014/0704/140447955414_20140704.jpg イラストレーション キム・デジュン mayseoul@naver.com
米軍基地村の女性たちが先月25日、国家を相手に損害賠償請求訴訟を始めた。 国家が米軍基地村の形成を
事実上計画し管理した証拠が出てきて、基地村女性たちが米軍に性暴行に遭った時に国家が何の役割も
果たさなかったことに責任を負えという訴訟だ。
人身売買されて基地村に来ることになった幼い女の子が、基地村を脱出しようと警察を訪ねて行っても、
国家は助けてくれなかったと彼女たちは証言している。 また、国家は‘米軍にサービスをすれば国が豊かに
暮らせるようになる’という精神教育も定期的に行ったという証言も出ている。 基地村女性たちは自らを‘米軍慰安婦’と
呼ぶ。 実際、1990年代初めまで政府と言論はこれら基地村女性たちを慰安婦女性と呼んでいた。 その後、
韓国社会で日本軍慰安婦問題が本格的に提起され、慰安婦という用語は‘日本軍慰安婦’被害女性に限定して
使われている。 今後、米軍基地村女性を何と呼ぶのかについても社会的合意が必要と思われる。 30余年間にわたり
基地村女性として生きてきたキム・ジョンジャ(仮名)氏が最近<ハンギョレ>と会って、基地村であった種々の
国家暴力の経験を証言した。
米軍慰安婦だった韓国人女性取材応じる 手取りは1晩10ドル
http://www.news-postseven.com/archives/20140804_269361.html 韓国の朴槿恵(パク・クネ)政権は8月15日に向け、相変わらず慰安婦問題で日本批判を繰り広げている。
だが、それは天に唾する行為だ。父・朴正熙(パク・チョンヒ)が大統領だった時代から長らく在韓米軍基地周辺で
「性奴隷」として働かされた韓国人女性の存在が明らかになりつつある。「米軍慰安婦」たちが本誌に重い口を開いた。
ソウルから北へ約40キロ。38度線にほど近く、キャンプ・ケイシーをはじめとする米軍基地がある
東豆川(トンドゥチョン)市内の某所で、2人の韓国人女性が本誌の取材に応じた。
一人はカン・ソクジュさん(56、仮名)。小柄だが、低く太い声の持ち主で、少し早口で話す。
「1979年の9月から1993年まで、私はここ東豆川の『基地村』で働いていました。米兵相手にお酒を飲ませる
米軍クラブでしたが、給料は安く、お店でお酒の相手をしているだけではとても生活できません。だから、
米兵たちの誘いに応じて売春していたんです」
彼女のいう「基地村」とは、1953年の朝鮮戦争休戦後に米軍基地の周辺にできた売春街を指す。
隣に座るユン・ヨンスさん(56、仮名)も同様に1988〜90年に東豆川にある別の米軍クラブで働き、体を売っていたと
告白する。
「私は米軍クラブのオーナーの指示に従って売春していました。当時の韓国人は貧しかった。だからそうするしか
なかった」
当時を一つ一つ思い出すように、ユンさんはゆっくりと丁寧に話した。
彼女たちのような基地村で売春していた女性は「米軍慰安婦」と呼ばれる。韓国では1961年に淪落行為等防止法が
成立して性売買が禁止されたが、翌1962年、政府は全国104か所の「特定地域」を指定。法による取り締まりの
適用外とした。つまり「政府公認の売春特区」を作ったのだ。
>>21 続き
1971年に基地村を取材した経験を持つ元朝日新聞ソウル特派員のジャーナリスト・前川惠司氏が説明する。
「米軍慰安婦は外貨を稼ぐ存在として政府に重宝され、『洋公主(ヤンコンジュ)』(外国人にサービスする
お姫様という意)とも呼ばれました。基地村では昼間からジャンパー姿の女性が米兵に声を掛け、女衒(ぜげん)と
女性と米兵の3者が値段交渉していました。基本的に女性は客を選べず、買われれば断われなかった」
韓国の歴代政権は、旧日本軍の「慰安婦」を巡って謝罪や補償を繰り返し求める一方で、基地村の米軍慰安婦の
存在は長らくタブー扱いしてきた。
新たな動きがあったのは今年6月25日。122人の元米軍慰安婦が「韓国政府は米兵相手の慰安婦制度を作り、
自分たちを徹底的に管理し、苛酷な売春をさせた」として国を相手取り、1人1000万ウォン(約100万円)の賠償訴訟を
起こしたのだ。
冒頭の2人はその原告ではないが、隠されてきた基地村の実態をカンさんはこう話す。
「私がいた米軍クラブでは、店を訪れた米兵が酒を飲んで、気に入った女性がいると連れ出していきます。
それとは別に『抱主店舗(ポジュテブ)』と呼ばれる売春専門の店もありました。建物の中の狭い部屋に女性が
1人ずつ入っていて、客が部屋のドアを開けて中の女性を品定めする。気に入ったら部屋の中に入り、
そこでベッドをともにするという仕組みです」
2人の証言によるとクラブで酒の相手をすると5ドル、店の外で売春すると10〜20ドルを客から受け取る。
それをクラブのオーナーと半分ずつ分けたという。一晩で多くても手取りは10ドルというわけだ。
前出・前川氏も「基地村で客が払う一晩の値段は10ドル程度だったと聞きました。『靴一足分の値段が相場』と
いわれています」とした。
※週刊ポスト2014年8月15・22日号
23 :
マンセー名無しさん :2014/08/11(月) 15:12:56.73 ID:AbgrI1Va
24 :
マンセー名無しさん :2014/08/12(火) 20:20:32.13 ID:0YSjV3w2
『洋公主(ヤンコンジュ)』(米国兵にサービスする国連軍慰安所のお姫様という意) ドルを稼ぐ愛国者として当時パククネの親父朴正煕元大統領から賞賛される。 韓国兵から元(ウォン)を稼ぐ基地村の売春婦韓国政府は無視される。 そして現在の韓国 昼夜別なくソウル中心部で活動し増加する売春婦たち・・・ 中には70代女性や障害者の姿もソウルの都心中央部が”夕暮れ売春”でごった返している。 いわゆる”バッカ... 本来韓国にとって売春とは日常
25 :
マンセー名無しさん :2014/09/22(月) 05:13:55.76 ID:qLaw6pJO
米軍用売春婦は確実に性奴隷
26 :
マンセー名無しさん :2014/09/23(火) 10:56:23.80 ID:tb07ymFr
>>1 朝鮮人民軍女性兵士や、義勇軍女性兵士に北支配地の婦女子も
慰安婦にしたよな
北朝鮮の、韓国政府提訴まだ〜
28 :
マンセー名無しさん :2014/09/24(水) 18:55:27.81 ID:cjm6/ajf
29 :
マンセー名無しさん :2014/10/08(水) 13:54:49.01 ID:5xwx4RCe
30 :
マンセー名無しさん :2014/10/28(火) 05:23:36.38 ID:zFf/C+Eu
31 :
名無的紅衛兵 :2014/10/29(水) 00:10:50.69 ID:CFpBvEG3
女性義勇軍捕虜や、北の女性兵士捕虜に占領地の北住民も慰安婦にしたよな 謝罪と補償で、南終了で良くないか
32 :
マンセー名無しさん :2014/10/29(水) 11:03:36.63 ID:T4X0V7sq
>>1 ドクトの問題といい、日本は強引な理屈を言い過ぎだ。
ルールを無視し続けていたのは、一体どちらの方か?
ヲタク文化も良いけど、歴史問題をさっさと解決すべきだ。
稼動させる安全も無いのに原発再稼働で近隣国に不安を与え、
ぐうたらの集まりの2ちゃんねらーのヘイト書き込み放置。
愛国の名を借りたネトウヨは将来に禍根を残す存在である。
国粋主義の台頭の原点になっているのが2ちゃんねるだろう。
者ども続け!とばかりに、ネット上だけで大暴れする者が多い。
歴史には史料が必要なんだよ。 史料のない歴史は単なる神話でありおとぎ話だ。
35 :
マンセー名無しさん :2014/11/14(金) 17:46:12.73 ID:vq6mo+aH
37 :
マンセー名無しさん :2014/11/30(日) 22:22:07.87 ID:0GSmbyCd
38 :
マンセー名無しさん :2014/12/05(金) 13:51:54.87 ID:WJDQt4xJ
39 :
マンセー名無しさん :2014/12/09(火) 00:46:22.15 ID:sF7dAtAD
40 :
マンセー名無しさん :2014/12/16(火) 13:01:38.01 ID:HMfp1FTV
41 :
マンセー名無しさん :2014/12/16(火) 18:44:12.75 ID:GJVppGwk
韓国人♀は泣きながら洋公主にされても1週間も働けば 転職ニダって喜ぶんだよ。だから辞められない競って稼ぐんだ(笑)
『喜美枝とトーマス二等兵』
昭和24年(1949年)頃のお話である。田所喜美枝は34歳になる戦争未亡人だった。
川崎の下町で姑と小学2年と4年になる二人の子供と暮らしていたが、生活は苦しく
やむを得ずに知人の紹介で横浜の進駐軍相手のホールで働くことになったのである。
(中略)
トーマスはまだ幼さが残る、どこかあどけない少年のような兵隊だったが、所詮、
若く性欲を滾らせた男であることに変わりなかった。強引に喜美枝の体を膝の上に
乗せると、遠慮なくスカートの中に手を突っ込んできた。6月で暑い日が続いて
いたから靴下は履いておらず、唯一下腹部を隠すズロースは薄手のメリヤス一枚
だけだった。ゆったりした夏物のフレーヤースカートを捲り上げればそんな薄い
布切れ一枚、無いも同然だった。
あっと言う間に喜美枝の下腹と陰部は若いクロンボウの兵隊が好き勝手に出来る
治外法権の占領地になった。大きな異国の男の手は易々と下穿きの中に潜り込み、
喜美枝の大切な女の秘所は進駐してきた異国の男の乱暴な手で蹂躙されるに任された。
そうなるともう男は止まらなかった。喜美枝の足からズロースを抜き取り、真正
面から膝の上に跨らせて抱きしめた。狭いボックス席ではそれが男と女が抱き合
う最も適した姿だった。
そうしておいて、彼は喜美枝の体を万力のような力で抱きかかえて口をふさいだ。
あも、すも無く濃厚な口付けが始まり喜美枝がそれに気を奪われている隙に、尻肉
を鷲づかみにされて腰を持ち上げられた。次の瞬間、剥き出しになった股座に男の
固い性器がぶつかり, 食い込んできたのだった。
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/ms/1396787910/18
永瀬隼介 『黒龍江省から来た女』 (新潮社)
そしてセックスだ。《夜の彼(茂)は恐ろしい》。ホラーめいた一文から始まる性生活の描写は、
異様な迫力に満ちている。米などの保管場所を改造した自宅ニ階の寝室は修羅の場だ。
擦り切れたアダルトビデオが流れる中、暴力的なセックスが延々と続く。
《乱暴な揺れがいつまでも続き、わたしがやめるようにお願いしても無駄だ。終わったかと思うと、
また鷹が兎を捕えるように襲いかかってっ来る。わたしのやめるようにという願いはかえって
彼の性欲を刺激する》 執拗な責めに、性器は腫れあがり、出血することもあった。
《わたしが感じないま、彼は四時間にもわたってセックスをし続けるのだ。ある夜、体調が
悪いことを理由に、セックスを断ったら、彼はわたしの身体に乗り、拳を振るって殴りはじめた。
鼻血が出て頭にこぶができ、やむをえず、彼の要求に応じるまで殴り続けた》
薄暗い寝室に血と汗の臭いが垂れ籠め、女のか細い懇願と男の怒号が続く。それは肉を
弾く殴打の音と、圧し殺した詩織の悲鳴が聞こえてきそうな、凄惨きわまる内容だった。
《生理中でもセックスを迫られる。血なまぐさい匂いで吐いたこともあった。生理用品を
買う金もくれず、ティッシュでがまんしろと言う》
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1337683818/30
45 :
マンセー名無しさん :2014/12/19(金) 00:25:09.14 ID:FjMupKXm
46 :
.特殊慰安所. :2014/12/19(金) 16:06:35.74 ID:ixNdI/3I
47 :
マンセー名無しさん :2014/12/20(土) 14:58:52.85 ID:3Dev4kZR
韓国人こそ歴史を直感せよ!!!!
48 :
マンセー名無しさん :2014/12/21(日) 13:30:15.01 ID:RtHdRLss
>>47 ムリ
全国民のアイデンティティが崩壊する。
たぶん『李くんの日記』状態になる。
50 :
マンセー名無しさん :2014/12/21(日) 18:17:26.56 ID:zStYS0VY
朝鮮人の不都合な真実
51 :
マンセー名無しさん :2014/12/21(日) 18:48:50.80 ID:RJaDV4VC
進駐軍も 「慰安婦」 を求めた
それは、1945年9月5日、千葉県館山北条町 (現館山市) に上陸した
米軍第112騎兵連隊が、列車で同県木更津市に到着したことから始まる。
進駐軍を迎える市民たちは 「鬼がやってくる」 と雨戸を閉めて息を殺した。
まもなく、警察署長が割烹 (かっぽう) 旅館に 「旅館を進駐軍の慰安所に
使いたい」 と申し入れた。建物はともかく、いったい、だれが米兵たちの
鬱屈した性の相手をするのか。
毎日新聞の地元記者をしていた河田陽さんは 「隊長の中尉が、司令部に署長を
呼んで 『米兵のために日本人女性20人を提供しろ』 と要求した。そこで署長が
町の有力者に相談した」 と、占領軍要求説をとる。まもなく酌婦、娼婦 (しょうふ)
のほかに百数十人いた芸者衆が集められた。相手はついこの間までの
「鬼畜米英」 で、怖くなって木更津から逃げ出す芸者もいた。
内務省警保局はこれより前の8月18日に、全国の警察に慰安施設の設置を
指示していた。千葉県庁の倉庫で10月10日現在の県警察部保安課の文書
「慰安施設調」 を見つけた。ほこりをかぶった文書からは、時代に翻弄された
女たちの声が聞こえてくる。木更津の慰安婦は47人にのぼり、米軍司令部が
おかれた館山、千葉に次いで3番目に多い。県全体では12書316人になった。
米軍司令部からも、「市中ニ既存スル慰安所ノ開設」 を申し入れてきたとあるから、
先の河田説を裏付けている。
女たちの需給分析としてこの文書は 「進駐軍ノ遊興ハ一日平均人員
四百人一割程度ニシテ何レモ満足シ居ル状況ナリ」 と報告している。
翌年には慰安婦が22署624人と2倍に増えた。
http://www.sankei.com/life/news/140610/lif1406100033-n1.html
>>51 > 2日前、韓国では米軍慰安婦訴訟の公判がありました。
> 韓国政府の答弁は結局”証言だけでは韓国政府の責任を認めない”、
> ”訴訟を起こした122人の米軍慰安婦被害者が直接被害事実を立証すべき”ということでした。
> こんなこと言っている韓国が朝鮮人慰安婦問題では日本に謝罪と賠償を要求していますね
”証言だけでは韓国政府の責任を認めない
”訴訟を起こした122人の米軍慰安婦被害者が直接被害事実を立証すべき”
正論なんだけど日本に対しては違うことを言ってるよね。
韓国政府の主張としては確定したけど
韓国司法の判断としても確定させたいところです。
54 :
マンセー名無しさん :2014/12/22(月) 19:50:23.52 ID:+IQUOc1H
【韓国】米軍元慰安婦の初公判、韓国政府「違法行為を立証できてない」=韓国ネット「過去のことは騒ぎ立てるな」★2[12/22](c)2ch.net
http://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1419243076/ 2014年12月19日、韓国・聯合ニュースによると、基地村で売春に従事していた122人の女性が、「国が米軍相手の慰安婦制度を作った」として、
韓国政府を相手に提起した裁判の初公判がソウル地裁で開かれた。
女性たちは今年6月、「私たちは外貨を稼ぐために夜通し働かされた。韓国政府はこうしたシステムを作ったことを認め、賠償してほしい」として、
1人につき1万ドル(約118万円)の損害賠償を求める訴えを起こした。
政府側の弁護人は、「国家賠償の成立には、122人それぞれが、個別公務員担当者の具体的な行為などを立証する必要がある」とした上で、
警察の黙認、ほう助などについて違法行為を証明できていないと主張した。これに対し、被害者側の弁護人は、「政府が管理して組織的に運用
したものであることは明らかだ。その違法性を問うための訴訟であるため、個人の具体的な不法行為を立証する必要はない」と反論した。
これを受け、韓国のネットユーザーはさまざまなコメントを寄せている。
「過去のことをこれ以上騒ぎ立てないでほしい。世界に『韓国=慰安婦』と思われる」
「間違いを犯したのは政府なのに、なんで国民が恥をかくの?政府は恥を知るべきだ」
「『今生きている元慰安婦のおばあさんたちが何よりの証拠だ!』と日本に強く言っていた韓国政府はどこへ?」
「日本軍の慰安婦問題も同じように、しっかりと責任を追及してほしい」
「韓国のおばあさんたちは本当にパワフルだから、誰もかなわないよ」
「当時の韓国政府はみんな親日派だったんだから、日本政府をまねしたのは明らかだ。当然、韓国政府は賠償するべき」(翻訳・編集/篠田)
ソース:レコードチャイナ 2014年12月22日 15時39分
http://www.recordchina.co.jp/a99445.html 日本に強制連行されたという韓国人は違法性を立証出来ていたっけ?
55 :
マンセー名無しさん :2014/12/22(月) 20:25:58.95 ID:69GTxpEg
アメリカには何も言えない朝鮮人
56 :
マンセー名無しさん :2015/03/07(土) 22:31:11.23 ID:0uq7PtNj
慰安婦働いたキャンプ周辺 隔離施設の窓に格子
自治体職員が女性たちに慰安婦としての労働を促すせりふがある。多くの
元慰安婦が同じような言葉を覚えているという。
性病にかかった慰安婦が監禁に近い状態で収容されたといわれる。東豆川市も、
女性たちの性病の管理が行われていたことを認めた。中には食堂や共用便所、
10人ほどが雑魚寝できる部屋が八つ。ぼろぼろの布団やごみが散乱している。
こうした施設で隔離治療が行われた。訴訟で証拠として提出された京畿道揚州
(ヤンジュ)郡の65年の条例には「国連軍駐屯地付近の特殊業態婦の性病保菌者を
隔離収容し完治させる」とある。京畿道の記録によると、70年1年間で各地の
収容患者は合わせて延べ4万5千人だった。
昨年10月、ソウルの路地裏のギャラリーで、米軍慰安婦をテーマにした
小さな写真展が開かれた。元慰安婦の70代の女性は、写真の中に友人の姿を
見つけ「このハルモニ(おばあさん)は計算ができず、慰安婦で稼いだ金もだ
まされて奪われ、苦労だけして先月死んだんだ」と涙をこぼした。
米軍慰安婦問題は韓国では長くタブー視され、この写真展も訴訟も大手メデ
ィアはほとんど報じていない。
高齢化が進む基地村の女性たち。彼女たちの経験が、隠されずに語られる日が、
いつかくるのだろうか。
http://www.hokkaido-np.co.jp/news/international/593932.html