【ノーベル賞への】韓国ミステリ等【どこでもドア】

このエントリーをはてなブックマークに追加
512スピノザ ◆ehSfEQPchg
 お暑うございます。
 今日からは、李垠(イ・グン)作の、「美術館の鼠」をお届けします。
 16章からなる作品ですが、基本的に1日1章ずつあらすじをうpし、
スピノザの感想をつける。
 そんな具合にいきたいと思っております。
 では、始めます。

 あらすじ1

 プロローグ

 チ・マンギョ画伯は、車が突然スピードを落としたのに気付いた。
「ここは、ぼくの家の近くではない」
 チ・マンギョ画伯が言う。
「だいぶ酔いが回っていらっしゃるようですね。ご近所も分からないとは」
 男が言った。
 男の顔に、微かに笑みが浮かぶのを見て、チは鳥肌が立った。
「さあ、降りましょうか」
 車が停まった。
 チは、ふと様々な思い出が浮かぶのを覚えた。
 貧しかった幼年時代。
 天才と呼ばれた大学時代。
 注目と賛辞を受けた画家時代。
 そのときだった。
 突然目の前が明るくなった。
 後ろを振り向いた。
 今降りた車が、ヘッドライトを点けて突進してきた。
 ジャクソン・歩ロックの絵のような風景。
 それが彼の最後の記憶だった。
513スピノザ ◆ehSfEQPchg :2012/08/28(火) 17:19:03.34 ID:hvadeJrN
 1

 韓国有数の美術館、チョンノ美術館で個展を開くことになったキム・ジュンギ
は、館長室に向かった。
 隣には、インターン・キュレーター(学芸員)で、同級生のヤン・ヌリがいた。
 チョンノ美術館で、ジュンギのような大学を出たばかりの新人が個展を開く
のは初めてのことだった。
 しかも、ジュンギの個展は、大評判のヴェネチア派絵画展を突然中断してまで、
館長のパク・キリョンが強引に推し進めたのだ。
 首席キュレーターである、ビョン・ジュボム室長などは、強固に反対したの
だった。
 ジュンギの個展の前には、世界的な女流画家、イム・ヨンスクの引退記念の
回顧展が行われることになっていた。
 今日は、そのイム回顧展の初日なのだ。
 ヌリの先導で、館長室に入る。
 広かった。
 チョンノ美術館の四階の半分ぐらいのスペースがある。(!)
 パク館長は、パソコンを叩いていた。
 パク館長は、七十歳を越えていた。白髪で少々小柄に見える体格だが、
気品のある雰囲気と相手を暗に圧倒するカリスマを持つ人物だった。
 パク館長は、韓国現代美術の生きた歴史だった。
 パク館長が聞いた。
「今、おいくつですか?」
「二十八です」
「二十八か。いい歳です。怖いことも不可能なこともない」
514スピノザ ◆ehSfEQPchg :2012/08/28(火) 17:19:36.27 ID:hvadeJrN

「はじめてちゃんとした絵が描けたと思ったとき、どんな気持ちでした」
「嬉しかったり震えたり、それでいて怖くて胸が一杯でした」
「まさにそれです。その初心が、まさに芸術です」
「初心……」
「イム・ヨンスク先生こそそうした初心を失っていない作家です。残念ながら
今の韓国には他にはそういう作家がほとんどいない」
 パク館長は、溜息をつくと静かに目を閉じた。
「ちょうどあなたにいいプレゼントがあります」
 パク館長が画集を出してジュンギの前に差し出した。
 イム・ヨンスクの画集だった。
「イム先生の最後の展覧会のために、私が特別に制作した画集です」
 パク館長は、厚い表紙をめくって、その下に1/100と書き、自分のサインを
入れた。
「あなたなら、イム先生の絵の秘密の意味に気づくでしょう」
「ぼくのような新人には」
「そう難しく考える必要はありません。絵を見る人たちは、絵は難しいと思って
いるが、実際には画家はそう思わない場合が多いです。芸術作品の秘密は、実は
作品の中にあることが多いのです」
 ジュンギはうろたえた。
515スピノザ ◆ehSfEQPchg :2012/08/28(火) 17:30:03.01 ID:hvadeJrN
「私の話が、うまく理解できないようですね。ヴェネチア派絵画展を見ましたか?」
「見ていません」
「その展覧会には、ジョルジョーネの〈テンペスタ〉という作品が展示されて
いました。私の一番好きな絵です」
「はい」
「その絵ですが……」
 そのとき、ノックの音がした。
 国内作家の展示主任のナ・ヨンホが入ってきた。
「申し訳ありません。緊急な問題で……」
 ジュンギは、席を外すべきだと思った。
「そろそろ失礼いたします」
「この画集は持っていかなければ……それから、これも」
 パク館長が、何かを画集に挟んだ。ヴェネチア派絵画展のチケットのようだった。
「あ、ジュンギさん、これからアート・フィールドに行くのではありませんか?」
「はい、これから、オ・ジンファン記者に会いに行きます」
「そこに届ける原稿があるのだけれど、ついでにお願いできますか?」
「はい、お届けします」
 パク館長は、プリントアウトした原稿をホチキスで閉じ、写真を二枚クリップで
添付し、封筒に入れた。
 ジュンギは、美術館を後にした。
516スピノザ ◆ehSfEQPchg :2012/08/28(火) 17:30:43.50 ID:hvadeJrN

 イムの回顧展のオープニングには、予想以上に大勢の人が集まっていた。
 ビョン室長は、イムに言った。
「こんな展覧会は初めてです。ひゃあ、目が回りますね」
 イムの方は、人が殺到した理由を知っていた。
 イムの夫、ユン・フが一年前に失踪したのだ。
 人々は、イムの引退と、夫の失踪を結びつけ、スキャンダルの臭いを嗅ぎ
つけているのだ。
 記者のインタビューが始まった。
「イム先生が引退すると宣言された後、作品の値段が上がっているのをご存知
ですか?」
 こんな風な下衆な質問が続いた。
 ナが近づいてきた。
「イム先生。すぐにオープニングに入ります」
 弦楽四重奏団の演奏が静かに響き始めた。
 どこかで、悲鳴が聞こえた。
 館長室から、ヌリが降りてきた。
 一方、ジュンギが乗っているタクシーは渋滞に巻き込まれていた。
 好奇心が湧いたジュンギは、パク館長の原稿を読もうと思って封筒から出した。
「美術館の鼠」
 不思議なタイトルだった。
 しかし、びっしりの文字に、目がくらんで読めなかった。(!)
 封筒に戻すと、運転手が間違って窓を全開にし、吹き込んだ風で封筒が
飛んでしまった。
 と、携帯が鳴った。オ・ジンファンだった。
「大変だ。パク館長が、首を吊って自殺した!」