>>17 凶作と飢饉のあいついだ戦国の世、懸命に耕しても食えない人々は傭兵になって
戦場に。その戦場で食物や家財や男女を奪い、その稼ぎで飢えに見舞われる冬から
夏への端境期をなんとかしのげる唯一の稼ぎ場が戦場だった。
越後の上杉謙信の軍が、北関東の戦場で城を落とすと、その城下で人の売り買いを
したことが記録にある。その上杉軍が関東に攻め込んだのは、「万民餓死に及ぶ」 と
いわれた永禄8年 (1565) の冬11月、越後に引き揚げたのは翌春の3月。まさに
現代の出稼ぎさながらに、冬に関東に出て略奪をかさね、春に国に帰っていたのである。
北信濃に進出した武田軍は、信越国境の関山 (新潟県妙高村) を越え、春日城
(上越市) 近くまで侵入し、村々に火を放ち、どさくさに紛れて女性や児童を乱取りし、
生け捕った越後の人々を甲斐に連れ帰って、自分の召使 (奴隷) にした。「甲陽軍艦」に、
この作戦で武田軍は越後を占領こそしなかったが、略奪に大成果をあげたのも
みな信玄の威光のお陰だと力説している。戦国の戦争には、明らかに乱取り目当ての
戦争もあり、大名さえ強ければ、それは思いのままであった。
薩摩軍が豊後で捕虜にした人々は、肥後の国に連れていかれ売られたが、その年、
肥後の住民はひどい飢餓と労苦に悩まされ、己が身を養うことすらおぼつかない
状態にあったから、彼らをまるで家畜のように高来 (たかき、島原半島) に転売。
その高来から上海に人身輸出。時の上海には日本人奴隷の市がたっていた。
天正20年=文禄元年、朝鮮の戦場では勝ち戦が続き、戦場で生捕られた男女が
日ごとに名護屋の港に送り込まれる。1598年のイエズス会による奴隷売買者破門令の
決議は、こう告発した。日本人が無数の朝鮮人を捕虜として日本に連行し、ひどい
安値で売り払っている、とくに長崎一帯の多くの日本人は、ポルトガル人に転売し
巨利をあげているが、そのため日本各地を廻って朝鮮人を買い集め、また朝鮮戦場に
渡り、自ら略奪した、と。
http://tokyo-sansenkai.net/bekkan/nanyakanya/20031130-51.htm