日本は第2次世界大戦中、アジアの女性を強制的に従軍“慰安婦”にしました。歴史学者は、
日本軍の迫害により“慰安婦”にされた女性は20万人以上に達すると認めています。
しかし知る人はまれですが、日本が投降して敗戦した直後、米国占領当局黙認のもとに、日
本政府は数万人の日本人“慰安婦”を募集して、もっぱら米軍兵士のためにサービスさせ
た。この国営慰安所は1946年、ダグラス・マッカーサー占領軍司令官が閉鎖命令を出すま
で続きました。
AP 通信はいくつかの英文の歴史文書を調査して、26日にこの“不安な真相”を暴き出しました。
目的 一般の良家の婦女を保護するため
茨城県の警察署の記録書類によると、米国占領軍が日本に到着する前夜、日本政府は米軍兵士
の“慰安所”を準備し始めました。
1945年8月18日、警察署は政府よりつぎの命令を受け取りました。
1.占領軍のために奉仕する慰安所を設立する。
2.‘慰安婦’の特殊奉仕で、その他の女性と幼女が占領軍兵士に辱められるのを防ぐ。
警官局はすぐ警察の独身寮を妓楼に改装し、室内に海軍の提供したベッドを置きました。
この妓楼は9月20日に開業しました。 (つづく)
(
>>4 からのつづき)
米軍兵士は長い行列をつくりました。
日本政府が出資援助して、娯楽協会が設立されました。1945年8月28日、占領軍の先遣部隊が東京
の厚木に到着しました。彼らを迎えたのは娯楽協会開業の第1号“慰安所”でした。 目撃者によ
ると、5,6百人の米軍兵士が街頭で1本の長い行列をつくりました。米軍の憲兵が責任をもって整列
させましたので、“隊列”が乱れることははありませんでた。 目撃者によると、日本政府直営
の“慰安所”は、かって日本軍が外地で設立した“慰安所”とそっくりだったそうです。
第1号“慰安所”は開業時、38人の“慰安婦”がいましたが、お客の米軍兵士が多すぎるため、
間もなく100人に増員しました。すべての “慰安婦” は一日15〜60人の客をとりました。
良家の婦女は生き地獄に追いやられました。
日本に進駐した占領軍は1945年末までに35万人に達しました。娯楽協会は長期にわたって“慰安婦”
を募集し、最多時で7万人を抱えました。
広島平和学院教授田中敏氏(歴史学)は 「慰安婦の人数は正確には把握されていない」 と言います。
日本政府設立の “慰安所” 以外に、多数の私設妓楼があり、妓女の数は “慰安婦”を超えると
推定しています。 (つづく)
(
>>5 からのつづき)
マッカーサーの命令
鳴矢清一氏は、「慰安婦をどんどん募集するため、娯楽協会は仕事の提供を釣り文句に良家の婦女
をだまして、生き地獄に陥れた」 と告発します。
滝田夏江という19歳の少女は 「事務員募集」 の広告を見て応募しました。ところが、“慰安婦”の
仕事しかないと告げられました。仕方なくこの仕事を受け入れ、うら若き身を “慰安所” に沈めて
間もなくて、彼女は線路で自殺しました。鳴矢清一氏は 「良家の婦女が深い傷を受けた」と激怒
します
1946年3月25日、米国占領軍司令官ダグラス・マッカーサー元帥は命令を下して、米軍兵士が妓楼、
“慰安所”、その他すべての売春の場所に足を踏み入れることを禁止しました。間もなくて、
娯楽協会は破産しました。
田中敏氏は、「マッカーサーは米軍兵士の健康を危惧したでのあって、それ以外の懸念は念頭にな
かった」 と言います。当時占領軍兵士は四分の一が性病に感染していました。田中氏は 「マッカ
ーサーの禁止令が発令されて、たちまち15万人の日本女性が失業した」 と付け加えます。
http://peacehall.com/forum/lishi/6861.shtml
>>6 パンパン事件
終戦当時、生活の為に多くの女性は米兵相手に体を売って生活する人達が目立ち始めました。
その人達の事を「パンパン」と言っていましたが幼い私には意味が分からず米兵と腕を組ん
でいる女性に向かって「パンパン」と言ってしまい家に怒鳴り込まれ、米兵に殺されるので
は思いました。
近所の友達の姉さんもいつのまにかパンパンになっていました。昼間から奥の部屋に布団が
ひかれていて米兵がきていました。
高校生の頃まで家の裏の家はいわゆる「パンパン宿」があり毎晩米兵が数人きて騒いでいました。
経営者は戦争未亡人で、夫は軍人で相当偉かった人だったそうです。当時は生きるためにはやむ
得なかった事でした。
http://hmika.fc2web.com/hige_omoide_syounen.htm
>>7 パンパン宿の隣で、父に「よく人間を観察しておけ」と
[赤塚] 昭和21年に入ってからだと思いますが、米兵相手の売春婦、いわゆるパンパン・ガールが
横浜に集まってくるんです。私の家の隣は、戦争中は海軍少佐夫妻が住んでいたのですが、
終戦後、引っ越してしまった。 その家は、地元の土建業者が家主で、その娘が、30歳ぐ
らいで夫をなくし、空家にしておくのはもったいないと、パンパン宿の姐御になって、
7、8人の女性を連れて、そこに引っ越してきたんです。 中には地方の人も女学校を出た人
もいましたね。 一番上は45歳ぐらいの和服のおばさんで、一番下が、小学校で私の一級下
だった、大工の娘でした。
[松信] 1軒だけですか。
[赤塚] そうなんです。 それも住宅地のど真ん中にです。 GI(進駐軍兵士)同士や女性同士の、
喧嘩もあって夜遅くまで騒いでいる。 それで父に「うるさくて勉強できない。」と言うと、
私の父は新聞記者でしたが、すかさず 「何を言ってるんだ。 千載一遇のチャンスではな
いか。 人間というものを、この際よく観察しておけ。」 と言われた(笑)。 反抗期でした
が、この言葉には参りましたね。 その通りだと思いました。 それでパンパン宿の隣の少
年はじっと見ていた。
あのころの小説家や随筆家たちは、こうした女性たちのことを 「生活に困って」 と大抵書
いている。 当時の新聞や雑誌にも 「多くは家を焼かれ、食うに職なく、生活に困って仕方
なく」 と書いてある。たしかに多くの人はそうだったんでしょうが、必ずしもそれだけじゃ
ないと思ったんです。 性的好奇心、あるいは異国人への好奇心なども含めて、新しい時代
の中で、解放感にひたりながら「新しく生きている」 と感じていた人もいたのではないで
しょうか。 堂々としている女の人も少なくなかったですからね。
http://www.yurindo.co.jp/yurin/back/yurin_440/yurin3.html
>>8 『そこら中パンパン宿だらけでした』
いまも当時の雰囲気を伝える数少ない場所のひとつが「外人バー」である。
大きく分けると、(A) 兵隊相手の「GIバー」、(B) 各国の船乗りが立ち寄る「船員バー」の二つに分
類されるが、その実厳密に分かれていたわけではなく、数ヵ月に一度外航船が寄港すると船員バ
ーになり、GI (*1) たちが押し寄せるとGIバーになるといった具合だった。
GIバーに活気があった時代、とくに朝鮮戦争の頃の様子はいま聞いてもたいへんなものだった。
山下公園の向かいにそびえるシルクセンター。昭和34年のオープン当初から宝石店を営む柴田武
郎さんは語る。
「朝鮮戦争 (*2) 当時のノースピア (*3) は輸送船でいっぱいでした。米兵はここで下船して、市電
を使って中華街や伊勢佐木町へ繰り出していったんです。繁華街は米兵であふれかえってましたね。
そして二、三日間休暇をとって、戦場へと旅立っていくんです。
そこら中パンパン宿だらけでした。ここに来る前は市役所で働いていたのですが、役所の前にもい
ろいろなパン助 (パンパン) がいましたね。
ベニヤでつくった 「パンパンハウス」 という三畳くらいの広さの家があった。その下のラン
クになると戸外でやっちゃうんです。当時は戸外でやってるパン助がいっぱいいてね。さすがに冬
になったら戸外では出来ないはずだから、冬場のパンパンハウスは儲かったんじゃないですか?
*1 進駐軍(ほとんど米軍)兵士
*2 ちょうせんせんそう(1950年6月25日 - 1953年7月27日停戦)
*3 North Pier (神奈川区にある瑞穂埠頭)
http://yokohamamerry.jugem.jp/?eid=42
>>4-6 昨日(2007年98月22日)付毎日新聞29面のシリーズ「平和をたずねて」の「『国体護持』へ
国策売春」という記事を紹介したいと思う。
1945年8月15日、俗に言う終戦の日の三日後、内務省警保局長は進駐軍用に慰安施設を整備する
ように全国に無電を発した。9月4日には内務省保安課長も同様の命令を出している。内務省警
保局というのは今日で言う警察庁のような物であり、全国の警察の元締めである。「これを受
けて各警察は慰安所の設置や慰安婦確保に奔走する。
その模様を詳述しているのが『神奈川県警察史』だ。それによると空襲で焼けた花街に女性は
残っておらず、警察が業者に公務乗車証明書を発給し、疎開先を回って勧誘させた。また、
慰安所の布団や衣類、化粧品、消毒薬などの手配や運搬には、直接警察官が携わったという。」
とある。 (つづく)
(
>>10 からのつづき)
東京では警視総監坂信弥が指示して売春業者と飲食店経営者に「特殊慰安施設協会」を作らせ対
応したという。この特殊慰安施設協会には、後に吉原などのソープランド経営者に連なる者達が
沢山いたという。更に当時の大蔵省主計局長池田勇人(後の総理大臣)が日本勧業銀行に指示を
出して資金を提供した。
「警察と大蔵省がバックの国策事業ゆえ、協会は堂々と新聞広告まで出して慰安婦を募っている。」
「進駐軍売春作戦の発案者とされる坂は、国務大臣近衛文麿から国体護持のために婦女子対策を
と指示され、慰安所設置を決めたと生前語っている」のである。占領下では米兵による強姦事件
なども多かったために、反米感情が爆発して折角天皇制を存続させることに成功したのにそれが
元の木阿弥となることを未然に防ぐためである。花街の女性を強姦に対する防波堤とした訳だ。
で、特殊慰安施設協会に参加した売春業者達が戦時中に何をしていたかというと、当然の話であ
るが大日本帝国陸海軍の将兵相手に商売をしていた訳である。つまり従軍慰安婦 (=戦時性奴隷)
の手配に手を染めていたものも多数いた。
米軍相手に政府機関が売春婦を斡旋するという政策を取った背景には、日本軍将兵の間に強姦事
件によって性病が蔓延したり占領地での人心掌握に支障が出ないように配慮した経験が生かされ
ていた。
実際には日本軍の士気やモラルは非常に劣悪で、強姦殺人は日常茶飯事であった。毎日のこの記
事だけでは従軍慰安婦 (=戦時性奴隷) に日本政府や軍部が関わっていたことに対する状況証
拠でしかないが、軍人に女性をあてがうという発想が、当時の日本人の感覚として極々普通の物
であったことが分かるだろう。
http://rounin40.cocolog-nifty.com/attenborow/2007/08/post_cfe5.html
>>11 赤線、青線ともに業者がいて、前貸金で女性を束縛していた。一方、自主売春の女性たちも現れた。これ
らを総称して 「パンパン」 といった。
このパンパンたちも3種に分類されていた。日本人専門と米兵専門、さらにどちらでもOKというもの。米
兵専門では、白人専門と黒人専門、と、さらにどちらでもというものとがあった。上野駅周辺は、このパ
ンパンたちのメッカであったから、サツ廻り (警察廻り) 記者としてはそれらのボス (もちろん女性)
たちとは、毎日顔を合わせて、情報源とするのだった。上野駅からスタートしたパンパンたちは、やがて
有楽町駅のガード下から新橋へと、ひろがっていった。ことにアメパン (米兵専門パンパン) は、そち
らへ移っていったが、発祥地は上野である。
アメパンのひとりと話をしていた時、彼女がターザン (同名の米映画があった) という。映画の話かと思
ったら、ツー・サウザンド (2千円) という。売春代金の話だった。日本人専門のパンパンとは言葉も通
じるし、日本人同士の習慣も共有できるが、アメパンとなると第一に言葉が通じないし、客の争奪戦もす
さまじい。だから、アメパン同士の罵り合いの物凄さは筆舌に尽し難いほどだ。
http://www.geocities.co.jp/WallStreet/8868/column26.html
>>12 『パンパンガール』 坂口安吾
私は先ごろパンパンガールと会談した。土地の親分が案内してくれて、彼女らのタマリ場の喫茶店で、
あつまつてくる彼女らと話をして、ひそかに速記の名人が速記をとつたのであるが、その土地にはビ
ッグファイブと云つて五人の姐さん株がをり、各々配下のパンパンガールがゐるのだが、その姐さん
の一人と、配下の二三人、それからパンパンの足を洗つて結婚したもの、事務員になつたもの、それ
だけの方々と話をしたのである。
改つて話をしたわけではなく、親分の友達、兄弟分のふれこみでフラリとお茶をのみに来たていで話
しかけたもので、たいがいのことは親分が誘導的にきいてくれて、この親分がまた訊き上手だから、
パンパンガールズも腹蔵なく喋りまくつてくれた。
いつたい彼女らは結婚して一人の男に満足できるのだらうか、私のこの質問に、さあね、どうも御一
統、自信がない様子で口ごもつたが、親分や姐御の話では、大部分は一人の亭主ぢやダメらしく、小
部分はひどいヤキモチ焼で、亭主のそばヘクッついて放れなくなる。私の会つた結婚した女といふの
は親分の乾分(こぶん)の一人と結婚したのだが、ヤキモチ焼で亭主にクッつき通して放したがらな
いから、
「ヤイ、この野郎、てめえがベタ/\クッつきやがつて放さないから、あの野郎の仕事の能率が上ら
なくつて仕様がねえや。ちつとは遠慮しろよ」
親分がかう冗談に叱りつけたら、
「イヽーダ」と言つて、逃げて行つた。
http://www.aozora.gr.jp/cards/001095/files/42876_34345.html
一日60人の客をとるって…24時間営業で一人平均24分…可能なのか?
>>13 【質問】 第二次世界大戦後、連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ) の進駐軍相手に、日本人女性が売
春をしていたらしいのですが、GHQが撤退した後、彼女達はどうなったのでしょう? 結婚し
て普通の主婦として生きたのでしょうか?
仮に結婚したとすると、旦那さんに処女でない事がばれて追求されたりしないのでしょうか?
売春婦が祖母と同じ世代なので、彼女達がその後どうなったのか気になりました。
【回答】 戦前の日本は、思いっきりフリーセックスの時代ですよ。地方に行けば夜ばいは普通の習慣で
した。当たり前のようにフリーセックスが行われています。この習慣は古くからあり、日本に
布教に来た宣教師は、「あまりにも淫らな民族で、キリスト教の布教などできないのでは」、
と嘆いていたそうです。
キリスト教は男女間に関してはうるさいので、当時の日本は異常な世界に見えたことでしょう。
江戸時代には、風呂は混浴が普通だし、陰間 (かげま) 遊びなんてのも流行っているし、武
家では衆道 (しゅどう) なんてものもあるし。
性的に極めておおらかというのは、日本の伝統文化です。キリスト教的道徳観念が普及して、
みな衰退していきましたが。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1317056953
16 :
戦後の立川 :2010/08/31(火) 21:21:45 ID:CZ1qTNr7
戦後の立川 <第四章 基地の街>
「あるとき外人に性病が流行りだしたことがあります。それで、基地の司令官から将兵に一ヶ月間の外出
禁止命令が出てしまった。さあ、街はお手上げですよ。外人が出なくなったら、みんな商売にならない。
さっそくバー組合で協議しました。議題は、どうしたら病気をなくせるように協力できるかということです」
そして議論百出の末、「じゃあ、バンスケがもし兵隊と外出して、どこかへつかまえて行くようなところ
を見つけたら、後を尾行しよう」という方針が決まり、さっそく実行に移されることになった。
「あの当時はまだ小さい懐中電灯なんかないから、提灯をぶら下げて、それで外人とバンスケが歩いている
後をついて行って、どこの家の部屋を借りているかというのを全部メモをとった。もしその外人に性病が伝
染って、いつ、どういう女とどこの家で性病に伝染ったか、それを証拠固めしようというわけです。これは
実際に女と外人が会うのを見張ったんです。今では笑い話ですが」
外出禁止は約一カ月で解除されたが、その間営業があがったりの商店は、随分苦労したということだ
(中略)
17 :
戦後の立川 :2010/08/31(火) 21:22:49 ID:CZ1qTNr7
>>16 米軍当局によって立川基地周辺の一部への米軍人の立ち入りが突如禁止されたのは、昭和29年の年の暮れ、
クリスマスを控えた21日のことだ。問題は性病だけに限ったことではなかったことは、次に掲げる新聞の
見出しを見ればよく分かる。
▽ 昭和28年8月12日 麻薬、立川中心にはんらん、黒人兵の半数が患者
▽ 昭和29年9月17日 ヤミ洋モクの基地「立川」約五億円流れ出ス
「ちょっと兄さん、よってゆかない」
夜の立川市を歩くと安もののイヤリング、赤いハイヒールにチューインガムをふむパン パンに呼び止めら
れる。立入禁止後、アプレた彼女たちの姿である。立入禁止までは立川のパンパンは日本人を相手にするこ
とを自分のプライド?を傷つけるとして鼻もひっかけなかったものだ。
先ごろ立川市曙町の路上で 「ね、千円でいいから遊んでよ」 と呼びかけた相手が・・・。
いま彼女たちのねらっている獲物は自衛隊員であり、日本の男たちである。市民は「洋パンの国内放出さ。
アメリカ軍から自衛隊への引きかえだよ」と笑っているが、そこには笑ってすまされない恐ろしい現実があ
る。
http://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2010-04-11-20
18 :
パンパン狩り :2010/08/31(火) 21:42:56 ID:CZ1qTNr7
「パンパン」は、主に進駐軍兵士を相手に商売をしていたが、朝鮮戦争が始まると米兵の数が減
少したので、日本人を相手にするようになった。当時の社会情勢から、政府も彼女たちの売春行
為を黙認せざるを得なかった。ただ放置したのでは、性病が蔓延する心配があるため、不意打ち
的に捕らえて強制的に性病検査をしていた。
ある日私は、県有財産の仕事で 「下関性病予防所」 へ出張した。仕事を終えると担当職員から、
今夜パンパン狩りをするので泊まって手伝ってくれないかと誘われた。多少危険を伴うが、各班
には警察官1名と市の保健所職員1名が加わり、3人ずつ二班に分かれ、6名態勢でパンパン達
をはさみうちにして捕まえるという計画であった。若い私は、これは面白そうだと思い承諾した。
下関駅から2本の幹線道路が北と東に延びている。途中で両道を結ぶ急な坂道の「茶山通り」は、
下関駅を頂点とする三角形を形成している。底辺にあたる 「茶山通り」 に 「下関性病予防所」
が在った。此処から左右に分かれて、それぞれ何気ない素振りで駅を目指して歩き始めた。大通
りにでると明るく、人通りもかなりあった。 彼女たちは何度も捕まった経験があるので、私達が
近づくと、すぐ気付いて逃げ出した。
http://www.c-able.ne.jp/~tseiso/jibunsi/panpan.html
ウリナラ女性を「挺身隊として強制連行して慰安婦にした」という意味で言ってるのなら、
その動かぬ証拠をあなたが出しなさいよニダ。
韓国人の名誉がかかってるから頑張ってねニダ(棒読み)。
20 :
慰安婦でした:2010/09/01(水) 09:04:10 ID:aHTzq+WV
という意味で言ってる
>>19 :「ユソ・ンナ ◆8tn5L77etnX8」のご祖母さまが特殊慰安婦を勤めたのですね。
お国のために、奉公御苦労さまでした。
日本赤線区域.
日本の風俗産業は大繁盛しています。なぜでしょうか。暴力団・マフィアが背後で支え
ているからです。
大多数の国の風俗産業は個人営業を続けているのと異なり、日本の風俗産業はすべて暴
力団・マフィアがとり仕切っています。暴力団・マフィア業界は風俗産業で資金を集め
て、麻薬密売の資金としたり、官僚に賄賂を贈ります。なわばり、商売の投資を拡大し
たり、高利貸しで運用します。
バブル経済の全盛時期は、暴力団・マフィア業界は日本銀行から多額の融資をうけて、
不動産や株などに投資しました。
http://sh.sina.com.cn/citylink/he/s/2009-08-03/11405873.html
喜美枝とトーマス二等兵
それは喜美枝がリリーに勤め始めて三月ほどたった頃だった。その日は雨交じりの天気で平日だ
ったから客が少なくお茶を引く女給たちもいたが、喜美枝には珍しく指名の客が付いていた。客
はトーマスと言う名の若いクロンボウの二等兵だった。トーマスは柄はひょろりとして大きかっ
たが、まだ少年のような幼さを残した童顔の兵隊で、最初は仲間に連れられて遊びに来ていたが、
なぜか喜美枝が気に入ったらしく一人でやってきては、喜美枝を指名するようになっていた。
トーマスは大人しく無口な兵隊で、全く英語が出来ず黙って酌をするだけの大人しい喜美枝と気
があったのかも知れなかった。喜美枝にとっては全く初めての事だったし、なぜその若いクロン
ボウの兵隊が自分に興味を持ったのか全く見当もつかなかったが、初めて自分に常連らしい客
が着いたことは半ば嬉しくも有ったがとまどいのほうが大きかった。トーマスは喜美枝の唯一
の「良い人」になっていた。リリーでは女給の馴染み客を「良い人」と呼び他の女給が相手を
するのは避けられていた。
リリーへ来てからもう三ヶ月になるのに喜美枝は米兵相手の商売に慣れず、いつも黙って俯いて
いるばかりで馴染みの客などできようはずも無かったのである。喜美枝はトーマスの相手と言っ
ても英語が全くだめで会話など出来なかったし、かと言って四十に近い年齢で全く経験の無い素
人としては、他の女給たちと違ってお色気濃厚サーヴィスが出来ようはずも無かった。
その日もそんな調子で互いに黙って並んで座っているだけの二人のところにママがつかつかと
歩み寄ってきたのだった。
「喜美枝さん、あんたもたまにはさあ、きちんとお客さんにサーヴィスしなくっちゃあ」
そう喜美枝の耳元に口を寄せて切り出した。顔を上げた喜美枝に、奥の衝立に隠れたボックス席
を顎で示した。
http://heartland.geocities.jp/mousou20080101/kimietomasu.html
松坂屋の横の地下室に特殊慰安施設協会のキャバレーがあるのだ。「のぞいて見たいが、
入れないんでね」 というと、伊東君が、「地下二階までは行けるんですよ」
地下二階で 「浮世絵展覧会」 をやっている。その下の三階がキャバレーで、アメリカ兵と
一緒に降りて行くと、三階への降り口に 「連合国軍隊ニ限ル」 と貼紙があった。「支那人
と犬、入るべからず」 という上海の公園の文字に憤慨した日本人が、今や銀座の真ん中で、
日本人入るべからずの貼紙を見ねばならぬことになった。しかし占領下の日本であってみ
れば、致し方ないことである。ただ、この禁札が日本人の手によって出されたものである
ということ、日本人入るべからずのキャバレーが日本人自らの手によって作られたもので
あるということは、特記に値する。さらにその企画経営者が終戦前は 「尊皇攘夷」 を唱え
ていた右翼結社であるということも特記に値する。
世界に一体こういう例があるのだろうか。占領軍のために被占領地の人間が自らいちは
やく婦女子を集めて淫売屋を作るというような例が――。支那ではなかった。南方でもな
かった。懐柔策が巧みとされている支那人も、自ら支那女性を駆り立てて、淫売婦にし、
占領軍の日本兵のために人肉市場を設けるというようなことはしなかった。かかる恥かし
い真似は支那国民はしなかった。日本人だけがなし得ることではないか。
日本人は前線に淫売婦を必ず連れて行った。朝鮮の女は身体が強いと言って、朝鮮の淫
売婦が多かった。ほとんどだまして連れ出したようである。日本の女もだまして南方へ
連れて行った。酒保の事務員だとだまして、船に乗せ、現地へ行くと 「慰安所」 の女に
なれと脅迫する。おどろいて自殺した者もあったと聞く。自殺できない者は泣く泣く淫
売婦になったのである。戦争の名の下にかかる残虐が行われていた。
戦争は終った。しかしやはり 「愛国」 の名の下に、婦女子を駆り立てて進駐軍御用の淫
売婦にしたてている。無垢の処女をだまして戦線へ連れ出し、淫売を強いたその残虐が、
今日、形を変えて特殊慰安云々となっている。
http://www.freeml.com/bl/316274/83143/