【コラム】日本の近代史に目を背ける韓国
ttp://www.chosunonline.com/news/20090520000063 ttp://www.chosunonline.com/news/20090520000064 本紙が1987年から開催してきた教員研修プログラム「日本の中の韓民族史探訪」は、日本の歴史や文化の中に残された韓国文化の足跡を探るもので、
今年で24回目を迎えた。記者は訪問団に同行し、今月9日から15日まで、日本の主な史跡を訪ねる機会を得た。訪問団は奈良・飛鳥・京都など、韓国と
密接な交流があった地域を訪れた。しかし、記者は訪問団に同行して日本の土を踏んだとき、「1500年も前の遠い昔の韓日両国の交流を知ったところで、
21世紀に生きるわれわれにとって、果たして何の意味があるのだろうか」という疑念をぬぐい去ることはできなかった。日本の一人当たりの国民所得が
韓国の2倍に達している現実を考えれば、韓国が日本に先進的な文化を伝えたという事実も、「古き良き時代の追憶」としか感じられなかったためだ。
だが、6泊7日にわたる旅を取材して、「日本の中の韓民族史探訪」が、遠い昔の歴史を懐かしむだけの退行的で自慰的な行動では決してない、という
証拠を見つけた。同行した教授陣から、百済や高句麗の人たちが奈良・飛鳥地域に残した足跡についての講義を聞いた教師たちの反応からしてそうだった。
釜山中央女子中のキム・ウンスン教諭(45)は「これまでは、われわれが文化を伝えたという自負心を抱いているだけだったが、文化が一方からもう一方へ
伝わった上で、それが受け入れた側によって発展していくという事実についても知ることができた」と語った。また、東莱中のパク・ドソン教諭(46)も「遺跡を
訪ねてみて、韓国から伝わった文化がいかにして現在の日本に根付いていったか、興味深く感じた」と話した。このような感想は、「韓国が日本よりも進んで
いた」という内向的な自負心ではなく、「隣国・日本の歴史をもっと知ることができた」という未来志向的な関心に基づくものだといえる。
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だとすれば、韓国の学界は、こうした関心にどれだけ応えようとしているのだろうか。訪問団に同行した江原大史学科の孫承普iソン・スンチョル)教授は、
意外な事実を口にした。「韓国の歴史学界で、日本へ行って日本史をきちんと学び、韓国で教壇に立っている学者は30人もいないのが現実だ」というのだ。
さらに孫教授は「日本史を学んで帰ってきて、大学の教壇に立てなかった学者たちもかなり多い」と付け加えた。「東洋史=中国史」という韓国の歴史学界の
伝統的な認識が、日本史の研究を空白領域にしてきたというわけだ。また、公州大のソ・ジョンソク教授は「とりわけ日本の近代史は、韓国が植民地支配の
被害を受けてきた歴史と重なるため、これまで十分な研究が行われず、それどころか顔を背けてきた側面も大きい」と指摘した。
日本が開国してからの150年間、東アジアの近現代史の中心は、中国よりも日本だったと考えるのが現実に即している。だが、韓国の中学・高校の世界史の
教科書を見ると、日本の近代史は東南アジア諸国と共に、「中国の周辺国の歴史」として記述されているだけだ。韓国は近代以降、日本の文物や技術はもとより、
学術用語も受け入れてきたが、日本史に対する世界史、あるいは東洋史的な視点からのアプローチをしてこなかった。その一方で、「中体西用(伝統的な
思想や制度を守りつつ、西洋の技術・文明を受け入れる)」と「変法自強(議会政治を基礎とした立憲君主制を樹立する)」の間で揺れ動いた末、半植民地状態に
陥った中国の「失敗した近代史」はこれでもかというほど羅列されている。
訪問団と共に奈良の東大寺を訪れたところ、修学旅行で来た日本の小学生たちから「アンニョンハセヨ」と韓国語であいさつされた。横にいた旅行会社のガイドは
「韓国を訪れる日本人たちが、円高の恩恵にあずかり、ただソウルで金を使うだけ使い、大衆文化に関心を寄せているわけではない。日本文化の源流を学ぶため、
扶余や公州を訪れるケースも多い」と話した。
キジはタカの攻撃を避けられなくなったとき、頭を地面に突っ込み、自分が置かれた現実から目を背けて最後を迎えるという。もしかして韓国は、つらい記憶に
目を背け、キジのようになろうとしているのではないだろうか。
キム・テフン記者(文化部次長待遇)