93 :
マンセー名無しさん:
社長付きの運転手が休み、たまたま運転を任された社員が、後ろの席に座っていた社長に突然話しかけた。
「電卓型のゲーム機を作ったら売れるんじゃないでしょうか」
莫大(ばくだい)な借金にあえいでいた花札メーカーの社長は、親しい電卓会社の幹部にこの話を伝え、
数日後に「一緒に作ろう」と承諾を得た。1980年、こうして誕生した携帯型液晶ゲーム機が「ゲーム&ウオッチ」だ。
世界のポータブルゲーム機の歴史はここから始まった。
京都の一企業に過ぎなかった任天堂での出来事だ。花札メーカーの社長と意気投合し液晶を供給したのは、
1970年代の「電卓戦争」でカシオに惨敗したシャープだった。アイデアを出した運転席の社員は、
同志社大学工学部をやっとのことで卒業したという横井軍平。横井は後の講演で、任天堂に入社したきっかけについて
「電子メーカーの入社試験にすべて落ち、地元の会社ならどこでもよかった」と話している。
任天堂の歴史には、さらに二人の若い主役が登場する。一人目は金沢美術工芸大学を卒業した宮本茂。
地方美大出身のデザイナーだ。彼は父親と当時の同社社長が友人だったことから、任天堂に入社し、横井と共にあの有名な
「マリオ」や「ゼルダ」のソフトウエアを生み出した。
もう一人は社外の人物だ。16年間、ゲーム同人誌を発行していた東京工業高等専門学校卒の田尻智。田尻は幼少時代を自然が多く残る東京郊外で過ごした。
その時、遊び親しんだ昆虫などをモチーフにゲーム企画書を作成し、任天堂の門をたたいた。これが、今も世界の子供たちの心をとらえて放さない
「ポケットモンスター(ポケモン)」の誕生だ。
94 :
マンセー名無しさん:2009/02/10(火) 02:16:46 ID:BfrLoQx+
この3人をまとめ、任天堂を繁栄に導いた経営者は、花札メーカー創業者のひ孫で3代目社長を勤めた山内溥だ。
今や世界的に有名になった宮本が「社長の喜ぶ顔が見たくてみんな一生懸命やった」と回想するほど、
カリスマ性のあるワンマン社長だった。山内は隠れた才能を持つ人材を見抜き、全面的にバックアップしたため、
世界的な経営者の一員に加わることができた。
任天堂はものすごい発明をしたわけではない。技術もなかった。ブームが過ぎた小型液晶をゲーム機に取り付け、
誰でも暇つぶし程度にできる単純なキャラクターのゲームを作っただけだ。
ゲーム機の技術力・ソフトウエア・キャラクターの緻密(ちみつ)さ、
どれ一つ取ってもライバルのソニーに負けていた。しかし市場を制したのは任天堂だった。
「枯れた技術の水平思考」。これこそ、サラリーマン横井が語った成功の秘訣だ。
ゲーム機に液晶を付けるなど、誰もが知っているありふれた技術を、誰もが知っている
ほかの分野に適用する応用力のことだ。横井の言葉通り「立派な商品ではなく売れる商品が重要」
なのだ。横井は1997年に交通事故で死去したが、今でも日本の経済界では
「ゲーム産業の神」とたたえられている。
95 :
マンセー名無しさん:2009/02/10(火) 02:17:56 ID:BfrLoQx+
李明博(イ・ミョンバク)大統領が「韓国でも任天堂のようなゲーム機を開発できないのか」
と発言した(2月5日付本紙報道)ことから、さまざまな声が上がっている。
「まず政府がゲーム産業を支援しろ」という批判から、同社の大ヒットゲーム機ニンデンドーDSをもじった
「ミョン(明)テンドーMB(李大統領の名前のイニシャル)」という冷やかしまでさまざまだ。
しかし、日本政府の支援が任天堂の成功に一役買ったという話は聞いたことがない。
タフでパワフルな経営者、想像力豊かな社員、自然の中で成長したオタク青年の興味深い冒険談があっただけだ。
誰でも任天堂のように成功できるという希望があるだけで、絶望的なメッセージはここにはない。
韓国が任天堂から学ぶべきことは「水平思考」だ。周りを見渡せば横井・宮本・田尻のような人材や、
旗を掲げ一歩も退かない不屈の経営者が必ず存在する。それでも韓国人は「到底無理だ」と
わめいてばかりいる。政府だけを仰ぎ見る習慣、身近な人材を軽視する「垂直思考」が
「韓国の任天堂」誕生を難しくしているのだ。
(記事中の人物名は敬称略)
東京=鮮于鉦(ソンウ・ジョン)特派員
朝鮮日報/朝鮮日報日本語版
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