大韓国と小日本・関係史

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138銅の私印による交易
★ 李朝と日本との交易について ★

倭館に住居する日本人を朝鮮では『恒居倭』と呼び、居留地内では首領を頭とする自治が行われた。
貿易に従事する者は、図書(朝鮮国王の銅の私印)を与えられた者と
__________授職されたもの(朝鮮の官職を与えられた倭寇の首領)に限られました。

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【 秀吉との事 】
天正年間(1573〜1592)に豊臣秀吉から宗氏に令して、朝鮮に慶賀の信使を送るように告げさせる。
___________朝鮮は日本までの航路がよく分らないと断る。
天正18年(1590)朝鮮から秀吉への天下統一慶賀のための国使3人が来る。
文禄1年(1592)豊臣出兵から途絶。
139銅の私印による交易:2008/02/09(土) 19:20:26 ID:h59jTivk
【 年表 】
1392-1407年一切制限を加えなかった。
1407-1510年『興利倭船』の入港を
______慶尚左道都万戸所在地の東莱県富山浦(現在の釜山広域市)と
__________慶尚右道都万戸所在地の金海府乃而浦(現在の慶尚南道鎮海市)で行う
1419年、応永の外寇(朝鮮名:己亥東征あるいは対馬島征伐 → 対馬宗氏の独占貿易)
1426-1510年『興利倭船』の入港を___蔚山の塩浦(現在の蔚山広域市)でも行う
___________漢城の『東平館』はソウルの倭館で『倭館洞』(現在のソウル特別市中区忠武路)
1443年(嘉吉3年)【『正統癸亥約條』あるいは『嘉吉条約』歳遣船を年間50隻で公貿易】
______同年、朝鮮は和館を三ヶ所に設けて接待の所とする。すなわち
_______________東莢の釜山浦、熊川の薺浦、蔚山の鹽浦。
1510-1512年_三浦の乱【1512年『正徳壬申條約』歳遣船を年間25隻に減ずる】
1512-1544年対馬と朝鮮の条約、薺浦(乃而浦)が再開、倭寇事件で乃而浦倭館は再び閉鎖
1521-1592年富山浦倭館の再開、1592年の豊臣秀吉による朝鮮侵攻まで存続。
1592-1607年_秀吉による朝鮮出兵
1607-1673年豆毛浦倭館(現在の釜山広域市東区佐川洞付近)に新設された
1678-1876年草梁倭館(現在の釜山広域市中区南浦洞の竜頭山公園一帯)に新築、新倭館とも呼ばれた。
1876年、明治新政府による釜山開港
1883年 済物浦(仁川港)で開市(開港)
140マンセー名無しさん:2008/02/10(日) 11:41:48 ID:JKx+tMZU
貿易に関して、明朝と李朝では対応が違うのに驚かされましたので紹介しました。

李朝は倭館が交易の舞台で『図書(銅の私印)』を用い、
『対馬の宗氏』が交易をします
が、
明朝は市舶司が交易の舞台で『勘合(符の半券)』を用い、前期は幕府が、後期は
『博多の大内氏』と『堺の細川氏』などが交易をするといった差があります。
また
李朝で日本人が起こした暴動は『三浦(さんぽ)の乱』があったり
明朝で日本人が起こした暴動は『寧波(にんぽう)の乱』があったりでした

実際と違うようですが、日朝・日明の間での交易についての表向きの取り決めでは、
李朝がする『倭館』での交易は、『年に1回で50〜25隻』で行いますが
明朝がする『市舶司』での交易は、ある時期から『10年に1回で3隻』という事に
なっていました。

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図書を持つ対馬宗氏→朝鮮の三浦の倭館→漢城の東平館「銅印(図書)の照合」
勘合を持つ博多大内氏→浙江の寧波の市舶司→浙江布政司→北京の礼部「勘合(帳簿)の照合」
141マンセー名無しさん:2008/02/10(日) 12:22:56 ID:NT0wIY95

新羅は、華厳経の華厳宗

高麗は、ムーダン(巫壇)のハン(恨)のシャーマニズム・朝鮮禅の曹渓宗

李朝は、弥勒仏の紅巾党・仙儒仏の東学党(宗教法人登録により現在は「天道教」)
142マンセー名無しさん:2008/02/10(日) 13:54:26 ID:pNqTMAVN
燕山君(在位1494〜1506)

「朝鮮の歴史と文化」 姜在彦 1993年 明石書店

民衆や女性にも習いやすいこの文字を諺文(おんもん・俗文)としてさげすみ、
漢字こそが真書であるといって尊重したのは朝鮮の儒者たちの悪弊ですが、その
ような傾向は「訓民正音」(ハングルのこと)が制定された当初からありました。
集賢殿副提学(王立アカデミー副学長といったところ)崔万理らの反対上疏が
それです。そこには六つの反対理由があげられていますが、その基本は『歴代
の中国では、わが国をもって箕子(伝説的な箕子朝鮮を建国した中国渡来人)の
遺風があり、文物礼楽が中華に比肩するといっているのに、いま別に諺文を作
るのは、中国を捨てて夷狄(野蛮人)と同じくなる』ことだというものでした。(中略)
ハングルの受難はその後も続きました。酷かったのは、この文字が創制されて
から50余年が過ぎた燕山君(在位1494〜1506)の時のことです。彼は李朝第十
代の国王ですが、暴君として悪名高く、その横暴を誹謗した文書がハングルで
書かれていたために、それを教えることも学ぶことも禁止したのです。
またハングル本およびハングルによる訳文も集めて焚書することを命じ、ハン
グルを使用した者も、それを告発しない者も、厳しく処罰しています。
143マンセー名無しさん:2008/02/10(日) 13:55:27 ID:pNqTMAVN
「醜い韓国人」 朴泰赫 1993 光文社

韓国では 骨董屋を覗くと首のない仏像が売られていることが多い
李朝の斥仏政策のもとで 仏像の首が切り落とされたからである
それに今日でも韓国では 平地に仏教の寺がない
寺をたずねようとしたら 山を奥深く分け入ってゆかねばならない
李朝では代を重ねるごとに 儒教による仏教に対する締めつけが
いっそう強められるようになった 儒教という怪物が時と
ともに大きく成長してゆき 儒教唯一絶対主義といわれる体制が固まっていった
仏教は目の敵とされた 李朝三代目の国王となった
太宗(在位1400年〜18年)の治世になると 仏教にさらに苛酷な弾圧が加えられた
高麗朝が倒れたときには 全国に1万以上も寺があったというのに
寺の数を242にまで減らし 寺が所有していた土地や奴婢(ノビ)と
呼ばれた奴隷を没収した その後も 仏教へのパンチが次々と繰り出された
仏教はよろめき続け、ついにマットに沈んだ
四代目の国王の世宗(在位1418年〜50年)は 全宗派を禅教2宗に統合して
それぞれわずか18寺院だけを残して 他の寺を廃した
世宗はハングルを創製した名君であったのに 仏教には好意をいだいていなかった
儒教は 個人が自らを磨くことによって完成することを目指したので
宗教を軽蔑した 仏教の輪廻の教えは 根拠がなく 天国や地獄は
人々の利己心や恐怖心から生まれた空想の産物であるとみなした
144マンセー名無しさん:2008/02/10(日) 13:56:01 ID:pNqTMAVN
九代目の成宗(在位1469年〜94年)は 出家することを全面的に禁じた
李朝時代は そのまま仏教を苛めた歴史であるといってよい
十一代目の中宗(在位1506年〜44年)は 全国にわたって仏像を没収して
溶かしたうえで武器に鋳造した また僧侶を土木工事に使うようになった
僧侶は使役されるとき以外は 漢城(ソウル)に出入りを禁じられるようになった
仏教は 山のなかに逃げ込んで細々と命脈を保った
僧侶は 奴婢(ノビ)と同じ賤民の範疇に組み入れられた
韓国を旅すると旅行ガイドに『わが国に古い寺院が少ないのは
秀吉軍に破壊されたためです』と説明されるらしい 日本人観光客は贖罪意識を
感じて居たたまれなくなるようだ しかし これほど明白な歴史歪曲があるだろうか
李氏朝鮮は仏教を大弾圧し 1万以上あったといわれる寺院は
秀吉軍が朝鮮に入った時には わずか36ヵ寺にまで減らされていたのだ
145呂-50 ◆B5FTrr3p86 :2008/02/10(日) 13:56:36 ID:V75vfaxq
コピペウザス
テラウザス
146マンセー名無しさん:2008/02/10(日) 14:06:23 ID:pNqTMAVN
★ 朝鮮人の日本侵略史 ★
【第一次侵略=356年】 ワイ人=朝鮮人の金奈勿(キン・ナブツ)が、
 稲飯命の子孫である志良岐王族を虐殺し、王権を簒奪、
 志良岐を乗っ取る。稲飯命王朝が滅亡。
【第二次侵略=562年】 朝鮮人国家=新羅が、日本領=任那を武力攻撃。任那は滅亡した。
【第三次侵略=660年】 新羅が、唐軍と共に日本領=百済を侵略。百済は滅亡した。
【第四次侵略=811年・12月】 新羅の賊船が対馬近海に出没するので、警備させる。
【第五次侵略=813年(弘仁4年)・2月】新羅人百人余、肥前小近島に来て島民を殺傷する。
【第六次侵略=869年(貞観11年)・5月】新羅の海賊、博多で掠奪する。
【第七次侵略=893年(寛平5年)・5月】 新羅の賊、肥前・肥後を襲う。
【第八次侵略=894年(寛平6年)・4月】 新羅の賊来る。大宰府に討たせる。
【第九次侵略=997年(長徳3年)】 高麗の賊が大挙して侵寇。多数の日本人を虐殺。
【第十次侵略=1014年(長和三年)】 高麗の賊が攻め寄せ、大宰府が討伐する。
【第十一次侵略=1019年(寛仁三年)】
 50余隻の船団が来襲し、壱岐、対馬、筑前糸島、志摩・早良諸郡を
 荒らして物資を奪い、家屋を焼き払い、 老人子供は殺して
 丈夫な者だけを拉致。ついに博多に迫る。日本側は、大宰権使=藤原隆家・大蔵種材や
 在地の豪族らが応戦撃退。逃げる敵を追って船三十艘で追撃。ついに追い払った。
 十数日間に渡る戦闘だった。刀伊の侵略。
147マンセー名無しさん:2008/02/10(日) 14:07:17 ID:pNqTMAVN
(続き)
★ 朝鮮人の日本侵略史 ★
【第十二次侵略=1097年(承徳元年)】
 異賊船100隻が松浦・筑前に攻め寄せる。大宰府官兵・九州軍士大いに守り、賊船を撃破し
 賊徒数万を海没させた。元寇に至る外国からの侵略事件の中でも最大規模のもの。
【第十三次侵略=1274年10月(文永11年)】
 忻都、金方慶らに率いられた、高麗人・モンゴル人数万人が朝鮮の月浦(現在の馬山)を出発。
 10月5日に対馬を、10月14日には壱岐を襲撃し、平戸鷹島の松浦党の本拠を全滅させた。
【第十四次侵略=1281年(弘安4年)】
 高麗軍を主力とした東路軍四万と、旧南宋軍を主力とした江南軍十万、計14万の軍が日本を侵略。
【第十五次侵略=1419年(応永26年】
 朝鮮が、日本領=対馬を、倭寇征伐の名目で侵略する。朝鮮では己亥東征という。
 太宗は「倭寇の根拠地は対馬だ」と言いがかりをつけ、対馬を侵略した。これにより
 6月19日、李従茂指揮の
 227隻、1万7258人からなる船隊が、朝鮮の巨済島から対馬にむかい、
 翌20日に対馬浅茅湾の土寄崎に停泊。
 当初、朝鮮軍は対馬の民家1939戸を焼き、多数の日本人住民を虐殺した。しかし、
 同年26日に仁位郡に進攻した頃から
 対馬の伏兵に反撃され、朝鮮軍は2500余人の損害を出した。そして、
 宗貞盛の撤兵要求を受け入れて7月3日に 巨済島に引き揚げた。
【第2次世界大戦後の侵略】 数十万人の朝鮮人が、
 アメリカの占領下にある日本へ、不法入国・不法定住。
[ サイパン陥落1944年7月
 朝鮮人への戦時徴用開始1944年9月以降に日本へ来る200万人 ]