安寿と厨子王でもないのに
愛する娘や息子の安否を確認したいと必死の訴えを繰り返してきた御家族に対して、
いとも機械的に告げられた生存・死亡の「事実」は何ら確証のないものであり、
「一人一人の人間の生命」の重さなど眼中にない政治的対処でしかない。
それは日本と北朝鮮双方の指導者に共通しており、そうした感性の上に
日朝共同宣言が発表されても誰も心の底から納得出来まい。
人間の生命はそこまで軽いのか。
と同時に、「国は果して一人の人間の生命を守りうるのか」という問いが私の中から消えない。
とりわけ、北朝鮮側からよせられた情報ではじめて5人目の生存者と判明した、
佐渡の曽我ひとみさんとそのお母さんの行先不明事件は、24年前どのように日本の警察も含めて対処されたのだろうか?
幼い頃、絵本で読んだ安寿と厨子王という物語を私は咄嗟に思い出してしまった。
人さらいによって売り飛ばされた母親と姉弟二人は、十数年後に成人した弟が、
盲目となってスズメを追う老いた母親と再会するが、姉は亡くなってしまっているという話は、
子ども心に「悲しい」話として強く残っている(舞台は佐渡であったように思うが)。
すっかりお年を召されたひとみさんの父上のひっそりと耐えて過ごしてこられた年月に、
日本と北朝鮮の政治はどう答を出すのだろう。
まして人さらいが横行する戦乱の世でもあるまいに、忽然と「消えた」とされる人達の存在を、
こんなにも長年放置してきた日本政府こそ「国民を守らない」国ではないか?