どうしてコリアンは北の南もバカなの?

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1マンセー名無しさん
http://blog.livedoor.jp/news2chplus/archives/50502265.html
下のほうにあるやつみてみ
このデブチョンぶっ殺すおwwww
2マンセー名無しさん:2006/12/31(日) 15:36:52 ID:hB+6kKdt
>>1
リンク先は見ないが、もう少し落ち着いてスレを立てた方がいい。
ホロン部かと思った。
3Chun名無し ◆8rKRJPkXQ2 :2006/12/31(日) 16:03:20 ID:0dsRdr9L
北の南って開城あたりって事?
4マンセー名無しさん:2006/12/31(日) 17:14:06 ID:5XvfSXru
ロシア沿海州や中央アジアのカレイスキーはどうなんだろう?
教えて、おじいさん。
5マンセー名無しさん:2007/01/14(日) 17:50:06 ID:Mpu8/5iu
age
6日本再生委員会:2007/01/14(日) 17:52:39 ID:yLsoVNOi
民族性
7マンセー名無しさん:2007/01/14(日) 18:28:32 ID:rYnhFr9/
チョンだから
8マンセー名無しさん:2007/01/14(日) 18:32:30 ID:bXm3Nlrt
中国の影響もあるだろうな
何しろ特亜3国
3バカトリオだし
9大甘の甘太郎@携帯:2007/01/14(日) 18:38:37 ID:qOsGkXqV
これ在日や金貴武の自爆だと思うよw
金のロジックなら、日本人も在日から民族性を冒涜されたり揶揄されたら、日本人から在日朝鮮人に反撃できる余地が出てくる。
10マンセー名無しさん:2007/01/14(日) 18:44:43 ID:tRgchEsF
何時も周りから見下されている奴は、せめて掲示板だけでも
自分が見下せる対象を探すのに必死ですw
オマエ達全員、アタマ悪すぎ。
11日本再生委員会:2007/01/14(日) 18:48:09 ID:yLsoVNOi
>>10
自己紹介乙
12マンセー名無しさん:2007/01/14(日) 19:03:03 ID:5VB0t5vg
■辰斯王は倭人か■

 辰斯王(しんしおう 生年不詳−392年没)は百済の第16代の王(在位:385年 −392年)。
第14代の近仇首王の次男であり、先代の枕流王の弟に当たる。
 『三国史記』によれば、385年11月に先代の枕流王が死去したときに、太子(後の阿花王)が幼かったために、
辰斯王が王位についたとある。諱・諡は『三国史記』には伝わらない。
 『日本書紀』には『百済記』の引用として、枕流王の死去の際に王子の阿花が年少であったので、叔父の辰斯が
王位を簒奪した、とある。

【辰斯王の死】
 高句麗に漢江以北の領土を奪われた後、11月に死去した。しかし、その死には不審な点が見られる。
『三国史記』百済本紀の辰斯王紀には、田猟に出たまま行方不明となって、翌月には死去したと記し、
『日本書紀』では百済の国臣(倭人)が辰斯王を殺したと伝えている。


【解説】
 ふつうは家来が主君を処刑するということはありえない。
 アジアの国であれ、ヨーロッパの国であれ、家来は主君に従うのが常識であって、家来が『先王』を処刑し、
新しい王を即位させることなど通常は考えられないであろう。
 しかし、百済ではそれがあった。この事実は、4世紀(応神天皇の時代)において、ヤマト朝廷(任那日本府)が
百済を完全に支配下に置いていたことを示している。日本書紀に記された「百済の国臣」とは、任那日本府の役人であり、
百済王よりも日本天皇に対して忠誠心を抱いていたのである。つまり百済の役人たちは、日本天皇こそ自分たちの
『主君』であると認識していたのだ。
 百済には『王府』というものが存在せず、任那日本府(任那倭府=ヤマトの御子人もち)が、百済を支配していたのだ。
百済王(正式の称号は『百済国主』)も、任那日本府の支配下にある役人の一人にすぎなかったわけである。
これが、古代カラ半島史の真実なのだ。
13マンセー名無しさん:2007/01/14(日) 19:06:22 ID:bXm3Nlrt
まづは、ウンコ喰うの止めねば
でも、馬鹿は死んでも治らない
14マンセー名無しさん
前を向いて発想する事が出来ない、また苦手だから。

韓国人曰くの5000年歴史の中、地続きに侵略略奪され続けた挙句、
朝鮮民族(恨民族)として遺伝的に受け継がれ育まれる〔無責任、責任転嫁〕で〔キレやすい〕朝鮮的性質を
現代に至って尚、後生大事に抱え続けているから。
故に今後良い方向へ改善される端緒など生まれる訳も無いから仕方ない。