800 :
791:
なつめろ思い出の手記
つい何年か前、NHK放送で、「昭和なつめろにまつわる思い出の手記」
を募集された事がありましたので、私も満州の思い出を書き送ってみました
ところ、早速礼状が届けられ、「真に有難う早速番組で披露させて頂きます」
と、ところが放送一週間前になって速達が来て「放送局の手違ひから、時間
が無いので披露を遠慮させて頂きます。応募者が多すぎましたので」との事
でした。今日は此の手記を一寸書いてみました。
昭和二十年十二月私は一たん入ったシベリアから返送され、牡丹江第七病院
で日本兵の傷病兵看護をさせられた事があった。毎日橇(ソリ)で水を運び、
湯を沸かし蒸溜水をとり薬を入れて注射液を作ったり、衣類の洗濯や暖房用に
薪採り等、大変忙しい毎日が続いた。牡丹江の女学校を壊して、薪にしたのも
其の頃でした。
赤痢と栄養失調、寒さと疲労で衛生兵も倒れ、毎日帰らぬ戦友を見送った。
其の中に此所の病院の部隊長殿(大佐)も亡くなった。日頃温厚な方で、
好んで口づさんで居られた流行歌で野辺送りする事になり、将兵三千人暁の
合唱、其れは「勘太郎月夜唱」だった。隊長を送ると共に故国を慕う悲痛な
歌声でした。
そんな暗い牡丹江に春がおとづれ、北へ雁が飛び立つ様に、私達を再度苦
役、北へ向う列車が待って居たのです。
「影か柳か勘太郎さんか、伊那は七谷糸ひく煙り
棄てて別れた故郷の月に しのぶ今宵のほととぎす」
今でもこれを歌う時、当時の事が思い出され、今の豊かさをしみじみかみ
しめるのです。