古代も朝鮮は日本が支配していた!Part3

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879マンセー名無しさん
人類学的なパースペクティブを簡単に説明。

縄文人はバイカル湖周辺に発生した旧モンゴロイドで、シベリア、サハリンを経て日本列島に渡来。
弥生人は長江の流域から渡来。民族的には楚、呉、越で江南系。しかし江北との地理的なせめぎ合いの中で北方系
民族との混血がある程度進んでいたものと見られる。
即ち弥生人は旧モンゴロイド(江南)と新モンゴロイド(江北)の混血。

朝鮮半島にもともと定住していたのは日本列島から渡った縄文人。
その後弥生人が、長江の流域から北九州一円(半島南部含む)へ渡来。
このことから、古代の北九州一円(半島南部含む)における定住者の間に、大きな人種的差異はなかったものと考えられる。

現在ある日本人と朝鮮人との間の人種的な差異は、その後の半島におけるツングース系民族の侵入、移入による混血が原因。

即ち、

日本人=縄文人+弥生人
朝鮮人=縄文人+弥生人+ツングース系
880マンセー名無しさん:2006/06/16(金) 02:14:31 ID:agFjiHLS
よく百済との関係を云々する人がいるが、新羅との関係の方が遥かに興味深い。
そもそも広義の「倭」という概念を適用すれば新羅は倭人国家。百済は王族以外は倭人だったが王族がツングース系のフヨ
だった。そして新羅の場合、なんと狭義の倭人が王になって王統をも伝え、述べ8代の王を輩出したとされている。

初代 赫居世居西干(朴氏)
*2代 南解次次雄(朴氏)
*3代 儒理尼叱今(朴氏)
*4代 脱解尼叱今(昔氏) ←倭人。丹波の国出身説が有力。
*5代 娑婆尼叱今(朴氏)
*6代 祗摩尼叱今(朴氏)
*7代 逸聖尼叱今(朴氏)
*8代 阿達羅尼叱今(朴氏)
*9代 伐休尼叱今(昔氏)
10代 奈解尼叱今(昔氏)
11代 助賁尼叱今(昔氏)
12代 沾解尼叱今(昔氏)
13代 味鄒尼叱今(金氏)
14代 儒礼尼叱今(昔氏)
15代 基臨尼叱今(昔氏)
16代 訖解尼叱今(昔氏)
17代 奈勿尼叱今(金氏)

そしてさらに、それ以上に重要なのが建国時に重臣となって影の王のように振る舞い活躍した瓢公という、瓢箪を腰に付けて
船で渡来したとされる倭人で、この人物は現代の朝鮮人のアイデンティティの根幹を揺るがしかねない問題をはらんでいる。
というのも、現代の朝鮮人の姓名は中華への服属意識を如実に表す、音読みで姓=漢字一字、名=漢字二字という漢族式で、
実際の姓自体も漢族が使用するもののパクリが殆どという有様だが、新羅の初代王の朴赫居世に始まる「朴」という姓だけは、
古代朝鮮語の「バク」という単語を借字で音写した独自の姓で、特殊な姓と言える。ではこの「バク」という古代朝鮮語が何を意
味するかと言うと、「瓢」。影の王のように振る舞った倭人の「瓢」公となんと同じ。
このことから、瓢公と朴赫居世は共に倭国から渡来した同族、あるいは同一人物であるとも言われている。
ちなみに金氏の祖は、件の、倭人である昔氏初代、脱解の治世時に、これまた件の倭人瓢公が拾って来たとされている。
瓢公(あるいは朴氏も)や昔氏一族といった倭人たちが新羅建国に深く関わり、王、宰相として支えたわけです。非常に興味深いですね。
881マンセー名無しさん:2006/06/16(金) 02:15:47 ID:agFjiHLS
【広開土王碑】より
百殘新羅舊是屬民由来朝貢而倭(ロく)耒卯年来渡(海)破百殘■■新羅以爲臣民
<訳> そもそも新羅・百残は(高句麗の)属民であり、朝貢していた。しかし、倭が辛卯の年(391年)に■を渡り
    百残・■■新羅を破り、臣民となしてしまった。

*なお、「■を渡り」は残欠の研究から「海を渡り」とされているが異論もある。

【隋書】より
新羅百濟皆以イ妥為大國多珍物並敬仰之恒通使往來
<訳> 新羅・百濟は、みな倭を以て大国にして珍物多しとなし、並びにこれを敬い仰ぎて、恒に使いを通わせ往来す。
882マンセー名無しさん:2006/06/16(金) 02:16:28 ID:agFjiHLS
【三国史記・新羅本記】より

紀元前50年 倭人達が兵を率いて辺境を侵そうとしたが、始祖に神徳があるということ聞いて、すぐに帰ってしまった。
*14年 倭人が兵船百余隻で海辺に侵入。
*73年 倭人が木出島を侵して来たので、王は角千羽鳥を派遣して、これを防がせたが、勝てずして羽鳥が戦死した。
121年 夏四月に倭人が東の辺境を侵した。
123年 春三年に倭国と講和した。
232年 夏四月に倭人が金城を攻める。
233年 五月 倭兵が東辺を侵した。
249年 夏四月に倭人が舒弗邯、于老を殺した。
287年 夏四月に倭人が一礼部を襲う。
292年 夏六月に倭兵が沙道城を攻め落とす。
294年 夏 倭兵が長峯城を攻めて来た。
295年 春 王が臣下に向かって「倭人が、しばしばわが城邑を侵して来るので、百姓が安じて生活することができない。
        私は百済と共に謀って、一時海を渡って行って、その国(倭)を討ちたいが、皆の意見はいかがか?」ときいた。
        これに対して、舒弗邯、弘権が「われわれは海戦に不慣れでございます。冒険的な遠征をすれば、不測の危
        険があることを恐れます。いわんや百済は偽りが多く、常にわが国を呑み込もうと野心をもっておりますから、
        かれらと共に謀ることは困難だと思います」と答えた。王はこれを聞いて「それもそうだ」といった。
345年 二月に倭王が、書を送って国交を断ってきた。
346年 倭兵が風島に来て、進んで金城を包囲して攻めて来た。
364年 倭人は多数をたのんで、そのまま直進して来る所を伏兵が起ってその不意を討つと、倭人は大いに敗れて逃走した。
393年 倭人が来て金城を包囲する。
883マンセー名無しさん:2006/06/16(金) 02:17:26 ID:YPzN7CCx
【三国史記・新羅本記】より

402年 三月に倭国と通好して、奈勿王の子、未斯欣を人質とした。
405年 倭兵が明活城を攻める。
407年 春三月 倭人が東辺を侵し、夏六月にまた南辺を侵す。
418年 王弟の未斯欣が倭国から逃げ帰った。
431年 倭兵が、東の辺境に攻めて来て、明活城を包囲したが、功なくして退いた。
440年 倭人が、南の辺境に侵入。夏六月にまた東の辺境を侵した。
444年 夏四月に、倭兵が金城を十日包囲して、食料が尽きて帰った。
459年 夏四月に、倭人が兵船百余隻を以って東辺を襲い、月城を囲んで進撃したが、追撃してこれを破る。
462年 夏五月に、倭人が活開城を襲い破り、一千名を捕らえて連れ去った。
463年 倭人が歃良城(梁山)を侵して勝てずして去った。
476年 倭人が東辺を侵す。
477年 倭人が兵をあげて五道に侵入したが、ついに何の功もなく帰った。
482年 五月に倭人が辺境を侵した。
486年 夏四月に倭人が辺境を侵した。
500年 春三月 倭人が長峯鎮を攻め陥した。
663年 倭国の水軍が来て、百済を助ける。
731年 日本国の兵船三百隻が海を越えて、東辺を襲う。
753年 秋八月に日本国使が来た。高慢無礼なので、王は接見を許さず、すぐ追い返した。
802年 冬十二月、均貞に大阿?の官を授けて、仮の王子にして、日本国への人質にしようとしたが、均貞がこれを断った。
884マンセー名無しさん:2006/06/16(金) 02:18:30 ID:YPzN7CCx
■近肖古王 在位345〜375
姓は余。名は句。日本書紀では速古王。日本と手を結び新羅に対抗。謝礼に日本へ七支刀を献上。
■近仇首王 在位375〜384
姓は余。名は須。日本書紀には貴首王と表記される。近肖古王の息子。
■枕流王 在位384〜385
姓は余。近仇首王の息子。東晋から来た僧侶が仏教を伝えた。
■辰斯王 在位385〜392
姓は余。名は暉。しんしおう。近仇首王の息子。日本書紀には、「(辰斯王が)仁徳天皇に対し無礼な振る舞いが
あったので、紀角宿禰らを遣わし譴責した。百済国は、辰斯王を殺して謝罪した。紀角宿禰らは阿花(阿?王)を
王位につけて帰国した」とある。
■阿華王 在位392〜405
姓は余。名は阿芳。枕流王の息子。軍事的支援を乞うため日本へ息子(のちの腆支王)を人質として献上。
■腆支王 在位405〜420
姓は余。名は腆。阿華王の息子。直支王とも。人質として日本で生活。日本の援軍を得て高句麗との決戦中
阿華王が死去。帰国して即位。
■久爾辛王 在位420〜427
腆支王の息子。日本書紀によると幼少だったため権臣・木満致が権力をふるったという。
■斐有王 在位427〜455
姓は余。名は斐。久爾辛王の息子。眉目秀麗。弁が立つ王であったと言われる。
■蓋鹵王 在位455〜475
姓は余。名は慶。斐有王の息子。近蓋鹵王ともいう。人質として弟・昆支王を日本へ献上。高句麗により百
済は一時滅亡。
■文周王 在位475〜477
姓は余。名は牟?。あるいは?。蓋鹵王の息子。百済滅亡時、新羅へ援軍要請に出たが到着時には王は捕縛
殺害されていた。やむなく木満致らと共に逃亡して半島南部に新たな地盤を堅め、百済を再興した。重臣・昆
支王の死後、解仇により殺害された。
■三斤王 在位477〜479
姓は余。名は壬乞。文周王の息子。父を殺した解仇の傀儡として即位した。反乱をおこした解仇を倒す。
885マンセー名無しさん:2006/06/16(金) 02:19:20 ID:YPzN7CCx
■東城王 在位479〜501
姓は余。名は牟大。昆支王の息子。日本生まれとされる。日本書紀では末多王と記述。幼少時より優秀で雄略
天皇に寵愛される。三斤王急死により、日本から帰国し即位。中国・南斉や新羅との同盟政策で安定をはかった。
臣下の恨みを買い、暗殺された。
■武寧王 在位501〜523
姓は余。名は隆。東城王の息子。日本生まれのため斯麻(しま)王とも呼ばれる。日本書紀では蓋鹵王の息子。
また「嶋王」と表記。東城王を殺した臣下を斬る。中国南朝・梁の武帝や日本・継体天皇と友好関係を維持。高
句麗と戦い、また南方にも勢力を広げた。
■聖王 在位523〜554
姓は余。名は明。聖明王ともいう。武寧王の息子。日本の援軍を得て高句麗からの攻撃を新羅と共同で撃退。一
時は百済の旧領地・漢江流域を回復。日本に仏教教典を献上。
■威徳王 在位554〜598
姓は余。名は昌。聖王の息子。戦死した聖王のあとをうけ即位。王子(恵王)を日本に人質として献上。
■恵王 在位598〜599
姓は余。名は季。聖王の息子。554年、聖王が戦死。555年、援軍要請のため日本へ渡る。556年、帰国(562年日
本、高句麗へ出兵)。
■法王 在位599〜600
姓は余。名は宣。孝順ともいう。恵王の息子。
■武王 在位600〜641
姓は余。名は璋。法王の息子。隋・唐に対し高句麗征討の要請を続けた。
■義慈王 在位641〜660
武王の息子。唐の侵攻に備え非主流派の貴族や王族を追放。追放された貴族や王族は日本に亡命した。こ
の時代、新羅に金春秋や金捨信が現れ、新羅と盛んに戦う。最終的に唐と新羅に両面攻撃を受け滅亡。王族
のほとんどが唐に連れ去られた。
■豊璋王 在位***〜***
姓は余。名は豊璋。義慈王の子。唐の圧迫が強まる情勢の中、631年、人質として日本へ。以後30年間日本で
生活。660年、唐の攻撃により百済降伏。義慈王は捕虜となる。亡国の王子となった彼は亡命政府の主となるが、
白村江で戦い敗北。豊璋は高句麗に逃亡。百済は完全に消滅した。
※禅光王
義慈王の息子。20代豊璋王の弟。百済滅亡後日本に帰化。持統天皇より従五位下の下級貴族として「百済王
(クダラノコニキシ)」の姓を賜る。
886マンセー名無しさん:2006/06/16(金) 02:20:33 ID:4sOLcalS
■朝鮮半島南部にある前方後円墳群

現在までに全羅南道に11基、全羅北道に2基の前方後円墳が確認されている。
朝鮮半島の前方後円墳はいずれも5世紀後半から6世紀中葉という極めて限られた時期に成立したものであり、
百済の国境沿いに近い伽耶の地のみに存在し、円筒埴輪や南島産貝製品、内部をベンガラで塗った石室といった倭系遺物を伴うことが知られている。

■関連する大和王権側人物

穂積臣押山 (ほづみのおみおしやま)

継体紀七年六月条に引く百済本紀には、委(やまと)の意斯移麻岐弥(おしやまきみ)とある。

継体六年十二月、百済は任那の上タリ、下タリ、娑陀、牟婁の四県を請うたが、タリの国守の押山は、
その与えることの可なることを奏し、大伴金村もその意見に同意して上奏した。よって、上表のままに四県を百済に賜った。
この後、流言があって、大伴金村と押山は百済の賄賂を受けたといわれたという。
継体七年六月、百済は姐弥文貴将軍らに押山を副えて、五経博士段楊爾を献じ、
伴跛に奪われたというコモンの地がもどるよう計らってくれるように願った。
継体二十三年三月、百済王は下タリの国守押山に、加羅の多沙津を朝貢の海路としたいことを乞うた。
押山は奏問し、加羅王の反対を排して津を百済に賜った。
このため、加羅は日本を恨み、新羅と結ぶようになったという。