「ニートなんていってシラケてる若いやつ。腹が立って仕方がないんだ。若いんだから
チャレンジしないと。何のための人生だか。ね、そうは思いませんか」
待ち合わせた都心のホテルのラウンジで、山田隆裕は機関銃のように話し続けた。
サラサラの髪。よく動く丸い目と滑らかな舌。俳優のように甘く、端正な顔立ちだ。
だが表情のそこここに隠しようもない負けん気がへばりついている。
「サッカー選手は、いつかサッカーに捨てられるんです。だから僕は逆にサッカーを
捨ててやろうと思った。サッカーは二十代まで。三十代で経験を積んで四十代で
財をなす。五十代でまた挑戦。これが僕の人生のスケジュールですから」
言葉のとおり三十一歳になった二〇〇三年に十二年間のプロサッカー選手生活から
足を洗った。ほぼ同時に始めたビジネスが移動式メロンパン販売のフランチャイズ
経営である。
現在、仙台市を中心に数台のバンがスーパーの駐車場などでメロンパンを売りまくって
いる。涼しい土地のせいか、焼きたてでホカホカのメロンパンは、一日に千個も売れる。
山田は、自分で現場に立つことはないが、マネジメントなどで仙台と東京を行き来する
忙しい毎日だという。
現役時代から「異端児」と呼ばれることが多かった。プレーは天才肌。俊足を飛ばし、
右サイドを駆け上がるドリブルは、まさに稲妻だった。名門・清水商高では高校選手権、
インターハイ、国体など六つの日本一タイトルを総なめ。同期の名波浩(磐田)とともに
超高校級と騒がれた。
横浜F・マリノスの前身である日産自動車に入団すると、この年、早くもバルセロナ五輪の
代表候補に選出される。ところが「雑用ばかりやらされて耐えられない」と辞退し、
物議を醸した。一九九二年にはオフト監督が率いる代表チームに呼ばれるが、また「試合に
出られないなら行かない」と同行を拒否した。
ソース・詳細は
http://www.tokyo-np.co.jp/00/tokuho/20060504/mng_____tokuho__000.shtml