1884年12月、金玉均ら開化派がクーデター(甲申事変)を起こし閔妃一族を謀殺、王権と軍を掌握する。
この際、民間日本人及び守備隊、総数40人が犠牲となる。
このクーデターに対し、清は開化派と高宗を攻撃、クーデターを鎮圧させ、
同時に邦人保護のため王宮内にいた日本公使館守備隊をも退却させた。
この無法に日本は激怒。
コレを機に日清は、朝鮮を軍事緩衝地域とし、
朝鮮に出兵する場合は相互通知を行うとする「天津条約」を翌1885年に締結する。
1894年、今度は東学党の乱が起こる。
甲申事変での邦人犠牲の経験から、日本は即座に派兵を決定、天津条約に従って清に派兵を通告する。
ところが清は自国の派兵を日本に通告しつつ、「日本の派兵は必要ない」と日本に抗議してきた。
しかし日本は構わず一個旅団を派兵した。
コレに伴い、伊藤博文は清に対して共同での内乱鎮圧と朝鮮の内政改革を提案。
清はその提案を蹴り、「内乱は既に沈静化、日本に朝鮮内政に関与する権利無し」とし、
日本軍の即時撤退を逆に要求してきた。
凋落著しい清は、日本の影響力を削ぎ、あくまで朝鮮を朝貢国として支配し続けることを望んでいたからだ。
(清は日本への宣戦布告書に『朝鮮為我大清藩属』と記載までした)
清は天津条約を振りかざし、日本の撤兵を要求しながら、
そのウラで満洲近辺に15000の兵を集め、さらに天津において6000の義勇軍を組織しつつあった。
(日本は清の軍用暗号を傍受、既に解読していた)
そして開戦。
清は豊島沖海戦において、東郷平八郎に完敗。
朝鮮派兵のために動員した兵を満載した船を沈められ(英国旗を掲げて航行、日本を欺こうとした)
全世界に天津条約違反を暴露される。