日中戦争の長期化や太平洋戦争の突入で、底辺労働者とされた朝鮮人も、朴さんの父親のような流入
だけでは補いきれず、「募集」「官斡旋(あっ・せん)」「徴用」とだんだんと厳しい方法で労働力をかき集める
「強制連行」が進められた。
「史跡が語る静岡の十五年戦争」(静岡県近代史研究会編)によると、県内でも1万5千人以上の朝鮮人と
約1260人の中国人が鉱山や発電工事、軍施設建設などに動員されたという。
静岡市清水区北矢部の林の中に小さな瓦ぶきの建物がある。「朝鮮人遺骨安置堂」だ。徴用などの末、
異国の地で亡くなった93体が安置されている。在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)と在日本大韓民国
民団(韓国民団)の地元支部が、旧清水市の協力を得て93年に建立したものだ。
安置堂建立に携わった朝鮮総連県本部顧問の趙貴連さん(73)は「一日も早く故郷に帰してあげたい」と
願う。だが、名前がわかっているのはわずか26体で、そのほとんどは日本式に名前を変更させられた「創氏
改名」のものだ。
県内で清水のほかは、朝鮮人の遺骨の所在はほとんどわかっていないのが現状という。
ttp://mytown.asahi.com/shizuoka/news.php?k_id=23000219999990360
昭和21年度密航朝鮮人取締に要する経費追加予算要求書
”・・・事由
最近朝鮮人にして密航し、北九州及中国西部に上陸する者漸次増加し
本年四月中に於いてその総数は約一000名に達し益々増加の傾向に
あるばかりでなく密輸出入者も亦漸増しつつあるを以て連合軍の指示に
従ひ関係懸に於いては之が逮捕護送送還を行いつつあり、依りて此の
経費を必要とする”
過去10年間の帰化許可申請者数,帰化許可者数等の推移 法務省民事局
(単位:人)
年 帰化許可 帰 化 許 可 者 数 不許可者数
申請者数 合計 韓国・朝鮮 中国 その他
平成8年 14,944 14,495 9,898 3,976 621 97
平成9年 16,164 15,061 9,678 4,729 654 90
平成10年 17,486 14,779 9,561 4,637 581 108
平成11年 17,067 16,120 10,059 5,335 726 202
平成12年 14,936 15,812 9,842 5,245 725 215
平成13年 13,442 15,291 10,295 4,377 619 130
平成14年 13,344 14,339 9,188 4,442 709 107
平成15年 15,666 17,633 11,778 4,722 1,133 150
平成16年 16,790 16,336 11,031 4,122 1,183 148
平成17年 14,666 15,251 9,689 4,427 1,135 166
※いずれも暦年の人数である。
●第267回在日朝鮮人運動史研究会関西部会(2004.12.19)
「神戸市長田区湊川大橋「朝鮮人部落」の形成から撤去まで,そしてその後」
本岡拓哉(大阪市立大学大学院前期博士課程)
「高架線にそって東へ,ぬかるみ道をたどってゆくと,やがてバラックの大群が行く手をふさぐ。
このあたり,高架線両側の道路予定地と新湊川両岸をうずめる数百のバラックは,空襲被災
者の仮住居の名残りではない。ここがこのような姿になったのは,昭和二十四,五年以後の
ことである。新湊川にかかる湊川大橋にたつと,床を半間から一間も川の上にはみださせた
バラックが,延々とつづく壮観をみることができる。神戸市民はこのバラック街を「大橋の朝鮮
人部落」と呼んでいる。」(下中邦彦編『日本残酷物語 現代編1』より抜粋)
本発表では神戸市長田区の湊川大橋周辺に広がっていたバラック住宅地区の形成から
撤去,そしてその後の居住者の動向について報告した。
戦前からこの地区には,住宅差別を受けて住む所のない朝鮮人たちがバラック住宅を構え
ていたようであるが,戦後の慢性的な住宅難の中,奄美出身者をはじめ様々な場所からの
出身者が寄り集まった。昭和35年時点で約300戸,500世帯,1,500人が居住する神戸市最大
規模のバラック住宅地区が形成されていた。
この地区は新湊川沿いの市有地の上に立地していた。そのためこの地区上にあるバラック
住宅は「不法占拠=区画整理事業上の障害物」であり,さらには建築基準法違反や衛生的な
問題なども重なって,撤去対象となった。そこでの撤去の方法を確認すれば,神戸市は代執行
で強制撤去させるのではなく,移転補償費を巡って個人交渉を進める方法に出た。そのため
居住権を盾に抵抗しようとする住民運動は骨抜きとなり,団体交渉として機能しなかったので
ある。阪神高速湊川ランプが完成する昭和45年までにこの地区の住宅はほとんど撤去された。
撤去後,立退き民はいかに住まいを獲得したかを確認すれば,たしかに公営住宅を斡旋
された者もいたが,多くは自らの貯蓄と市からのおよそ10〜20万円の移転補償費を元手に,
近隣の低家賃住宅に吸収されたようである。昭和45年頃から神戸市のインナーシティでは
空洞化現象が見られるが,そこで空室となった借家が立退き民たちの受皿になったと捉え
られる。また,朝鮮人については北朝鮮へ帰国した者も多かったと聞くが,データとしての
実証性に乏しくここでは指摘のみに留めておく。いずれにせよ,立退き民は住宅政策の
フォローアップを受けることはなく,自助努力に任されたのであった。
これまで戦後の都市形成において,バラック住宅地区は都市計画上の撤去対象と見なされ
てきた。本発表では居住者の立場に立つことで,神戸市の住宅政策が「居住の権利」を軽視
してきたことを確認できた。今後は,この地区を「生きられた空間」としてより明確に描くことで,
戦後神戸の都市形成に対するオルタナティブな視点を提示していきたい。
ttp://www.ksyc.jp/sb/200503geppou.htm
”当時、細民街・貧民窟・スラムと呼ばれたエリアは、一般的には都市内被差
別部落・日雇労働者地区・都市雑業層集住地区として分類され、大都市のイン
ナーリングに存在した(水内 1984)。図3でプロットされている地区は、こ
の3タイプが基本的に選ばれているとともに、1920年代中ごろから、こうし
た地区の周辺にある零細工場地区に、植民地化された朝鮮半島出身者が移住し
て、民族的な居住分化を伴いつつ、その集住の場所をインナーリングに付け加
えていった。民族的な集住の地区として、沖縄出身者の集住も並んで進行した。
朝鮮人の居住については、社会部調査は、昭和2年刊行の『バラック居住朝鮮
人の労働と生活』において、不良住宅ではなく、一時的な居住形態のバラック
にもっとも早く注目している。その定義は、上掲書凡例で、「茲に謂ふところ
の「バラック」とは亜鉛板、板片及丸太等を使用して朝鮮人自らが建てしもの
或は土木請負業者が工事の都合上一時的に建設せしものにして掘立小屋式のも
のを総称す」とあるように、もっとも低位な住居形態であった。154世帯、
756人というそう多くはない数ではあるが、そのほとんどが、土地所有が弛緩
している港湾部、あるいは工事現場に近いという、朝鮮人の集住のひとつの典
型例を早い段階で示していた。図4に見られるように、現生野区、東成区、西
成区、大正区を中心に集住がはじまり、沖縄出身者も図4で判明するように
大正区、西成区、港区、此花区などに、一部天六、京橋方面といった内部のイ
ンナーリングにもその分布が見られた。
工場や飛行場などの土木・建設ラッシュで、そこに労働力として必要とされ
る朝鮮人が大正末期より、大阪市に集住しはじめたことは、バラック居住の調
査でも判明している。要するに、いくつかの土木工事によって朝鮮人の労働力
が利用されてゆく中で、最低限の居住条件にて、場合によればイリーガルな占
拠という形で、居住地区が形成され、また追い立てられるという経緯を港湾部
では特にたどらざるを得ない状況もあった。以下の大正区の描写はそうした朝
鮮人居住プロセスの典型をあらわしている。”
”「電車の軌道に沿って、大運橋通に出、木津川筋千本松渡船場附近を歩く人
は誰しもこの地のミジンも情緒的雰囲気のない実質的な貧民長屋に一驚するで
あろう。この一帯は南恩加島町といい、朝鮮人の割拠地である。…中略… 長
屋にはさまれて、一寸小奇麗な事務所がある。内鮮協和会といい、木津川職業
紹介所、木津川隣保館という立掛がある。国際飛行場が現れない前の、ある日
の大阪日日新聞に次のような記事が掲載されている。「鮮人の内地へ移住する
ものは日を遂いて激増するに反して『生活の糧』ともなる職が少なく何かと恵
まれざるは、まだしもとして、住むに家なく漸く附近の雑木や蓆を集めて堀立
小屋を造り漸く雨露を凌ぎ居るものはその大半を占めている。『(中略 この近
辺に住む:水内注)合計千七百五十三名の人々は十数年前終日終夜粒々辛苦し
て低廉な賃金で埋め立て工事をした』という土に対する愛着からして、―尤も
一面から言えば土地権を無視したとの議もあろうが、―住み馴れた堀立小屋は、
今や国際飛行場の敷地として追われる運命に逢着しているのである」(小出
1933:42-43)。この叙述にもあるように、協和会による住宅供給が、表2のよ
うに、わずかに見られたことは付記しておきたい。”
スラムの形成とクリアランスからみた大阪市の戦前・戦後29
表2 内鮮協和会による住宅供給例
住 宅 名 構 造 棟 数戸 数
豊 崎 住宅 木造2階 8 31
鶴 橋 住 宅 木造2階 3 30
木津川住宅 木造平屋 5 74
泉尾共同宿泊所 13室
”昭和25年くらいから、バラックが建設され始め、バラックを不法占拠とし
て、立退きを市が求めるというパターンが続出し始めることは既に述べた。こ
の西成三開においても、国道43号線となにわ筋、環状線の貨物線への増設と
いう工事が、昭和31年ごろからスタートする。予定地にバラックをつくって
住んでいた人の3分の1は部落出身であり、1割強朝鮮人もおり、66%がバラ
ックで、一人当たりの畳数が1.3畳、台所なしが90%で、半数は皮革、靴関係
の職業に従事していた。ここで浪速・西成住宅要求期成同盟が、昭和32年12
月に200人ほどで結成され、強制立ち退き反対、補償および低家賃の公営住宅
建設を要求する。”
”そんな中で、大阪ミナミを根
城にする明友会は、ミナミで田岡組長の面前で乱闘事件を起こすことによって、
山口組側からの短期の反撃を受け、またたくまに明友会は消滅したという事件
であった(無記名 2002)。この明友会は、「昭和二十八年ごろ、大阪・鶴橋
駅の高架下にある国際マーケットを根城に、韓国・朝鮮系の若者を主体に結成
された新興愚連隊で、三十年代に入ってミナミにも進出、急速に勢力を伸ばし、
当時は構成員千人を豪語するほどであった。組員らはドクロや生首の刺青を入
れた胸をはだけ、ステテコ姿でミナミの街を闊歩した」(無記名 2002:69)
のであった。”
”「…親たちが「絶対にゆくな」といっている「百番地」にも好奇心をそそら
れていた。行政が定める地番のない文字通りの「番外地」だった。どぶろくの
密造やヒロポンの密造地帯として何度か手入れを受けたこともある。他地域の
人びとはここを「0番地」と呼び、三丁目の人びとは「百番地」と呼んだ。町
内の地番は三十八番までしかなく、「百番」とはすっかりはずれているという
意味がこめられているらしかった。」(黄 1998:18)。”
ttp://www.ritsumei.ac.jp/acd/re/k-rsc/hss/hss_ronbun/83/02.pdf
U−7 アパッチ族
もうひとつ忘れてはならない出来事は、大阪砲兵工廠跡地の鉄などのスクラ
ップ持ち出しを果敢に行なったアパッチ族をめぐる出来事であった(写真1参
照)。当時の城東線、現在の大阪環状線大阪城公園駅直近の出来事であった。
昭和25年ごろ平野川沿いの低地の焼け野原に居ついたひとりの老婆が、土地
の切り売りをはじめたことをきっかけにバラック集落が広がったが、実は本当
の所有者が後に現れ、暫定使用や市有地への移転で、都市雑業、零細工場労働
者のバラック地区は存続する。ところが昭和30年ごろからの平野川堤防改修
工事で、工廠跡地に出入りできるようになり、そこで膨大なスクラップ金属に
接し、それが高い値段で売れることで、朝鮮人が主にすんでいたバラックに大
勢の金属掘り目当ての人々が流れ込んだのである。この掘り出しで、守衛や警
察との攻防戦となり、身を守るための合図が当時ちょうど封切されていたアパ
ッチ族の映画に似ているということで、アパッチ族となづけられる。マスコミ
などもこの攻防戦をアパッチ族という名称を使いながら書き立てることにな
る。昭和30年から34年にかけての出来事であった。
マスコミの報道の中で、昭和33年7月31日から8月2日に朝日新聞夕刊で
連載ルポルタージュが行なわれるが、その名もずばり「アパッチ族」、しかし
その後の攻防戦で犠牲者を多く出すことになり、かつ近辺の工場もその対象と
され始め、法律的にみて窃盗団という汚名と、世間からの孤立という事態に、
最終的には、昭和34年8月にアパッチ族の解散となる。ラジオでも昭和34年
3月に「アパッチとやぶ医者」、小説家開高健の「日本三文オペラ」(『文学界』
昭和34年1月1日号〜7月1日号、7回連載)の舞台ともなる。小説とは言
え、その舞台が、他に、新世界、ジャンジャン町、京橋駅付近などであり、モ
ツ料理をほおばるアパッチ族というラインが浮き出れた。またこのアパッチ族
解散に手を尽くしたのが、釜ヶ崎の赤ひげとも呼ばれた医師、本田良寛であり、
そのことは自著の『にっぽん釜ヶ崎診療所』(朝日新聞社、昭和41年)で描か
れたことも偶然とは言え、そしてその著書にもかなりの頁をさいて、実際にア
パッチ部落の患者を往診したり、最後には部落の解散に助っ人したことを経験
に、当時のことを触れている。
このように、不法占拠=無断居住(に加えて無断侵入)、犯罪、暴力、非行
などの空間的偏在、そして釜ヶ崎の発見、という3要素が、集中的に注目を浴
び、現象的にも発生したことが、昭和35年前後のあついスラムへのまなざし
を生むことになった。まさしく時代の雰囲気であったし、それをメディアがセ
ンセーショナルに捉えることで、事態は増幅されたかもしれない。そして行政
側はこうした事態に対応するために、そしてアカデミズムもアメリカ流都市病
理学をベースに、調査を入れ解釈し、充全に連動したかどうかは別にして、ス
ラムへの政策が大阪流に上から進められることになる
〈生涯現役〉 済州島から天津、北京、大阪へ−梁寿玉さん
部屋に入るとまず差し出されたのはメディアの拉致報道を批判した記事が載っている月刊誌
「論座」だった。「これ読んでる?」と朝鮮語なまりのないゆったりとした大阪弁で話しかけてきた。
成績優秀
梁寿玉さんは済州島南済州郡出身。「この頃、拉致問題、拉致問題いうやろ? 私が乳飲み
子だった頃、うちのオモニも日本へ連れてこられてね、私はハルモニが育ててくれたんや」。子供
の頃、日本人巡査のガチャガチャというサーベルの音におびえた記憶が今も蘇る。
7歳の頃、関東大震災の知らせを聞く。「日本へ行った友達の親が震災で殺されたという話を
聞いた。当時日本人が船できて若い女の人をさらってね、その子孫らはヨベチプといってタオル
で顔を隠していたよ」。「ヨベチプ」とは「倭船家」の済州島なまりだという。
日本へきたのは8歳のとき。京都で2階の3畳間を借りてオモニと暮らした。
「表を眺めていると警官になぜ学校に行かないのかと言われてね、それから学校に通えるよう
になった」
手先の器用だった梁さんは、学校の代表に選ばれ「天皇陛下に見せる」工作品を作って褒美
をもらったこともある。成績優秀、3年から5年に飛び級もした。学校を移り、新しい生活が始ま
ろうとしたとき、めぐりあった歴史の先生は最悪だった。
「三韓征伐、朝鮮虎退治の話ばかりして。本当に嫌な先生だった」
勉強熱心な少女は歴史の時間になると次第にうつむき、心を閉ざすようになっていた。29年、
済州島に帰り、学校には通えなくなった。「毎朝髪を結って、時間割をして、学校のことばかり
考えていたよ」。
ttp://www1.korea-np.co.jp/sinboj/j-2003/j06/0306j0707-00001.htm
抗日運動も
済州島では1930年代、青年団、少年団、少女団を組織して抗日運動が果敢に繰り広げ
られていた。左翼系の先生の指示を受けて活動に参加。怖がりで夜中ひとりでトイレにも行け
なかった少女が、いつのまにか星の傾き具合を見計らって浜に出かけるようになっていた。
やがて少女の名は知れ渡り、逮捕状が出るまでに。
「駐在所にしょっちゅう連行されて行って、指の間に鉛筆をはさまれて痛い思いもした」という。
そして17歳で再び日本へ。白衣の看護婦に憧れて、産婆さんのもとで働いた。後に医院へ
就職。19歳で結婚し、戦争が始まると夫と2人で中国の天津に移り住む。「赤紙1枚でどんどん
召集される時代だった。日本の『国防婦人会』は『勝った、勝った』とうぬぼれて、市民らは竹箒
をぬらして鬼畜米英が投下する焼夷弾の火を消すための練習ばかりしていたよ」。
そこで夫が肺病を患い、ひとり済州島に帰っていった。夫はまもなく死亡。看護婦として働く
さなか敗戦を迎えた。
「とたんに立場が逆になったよ。戦争中は日本が威張って、中国人をさんざんな目に合わせ
てきたから敗戦すると逆になった」
天津から北京へ行く途中、列車で偶然隣に座った日本の軍人が、梁さんが朝鮮人とは知らず
「かばんの中に重要資料が入っている」ともらした。内容は「朝鮮学徒兵を前線に送り弾除けに
使えという指令」だった。
活動家の妻に
敗戦の翌年、済州島に帰郷するものの戦後の混乱の中、抗日運動で名の知られていた梁さん
には逮捕状が出された。やむなく西帰浦を経て日本へ。同胞の紹介を受けて32歳で再婚する。
相手は朝聯の活動家だった。「活動家の奥さんはしっかりしないと。お金もないし、子供3人、服の
商売をしながら生活したよ」。
自身の一生は「アリ1匹のそれと大して違わない」と話す。「祖国を奪われた民族の惨めさを
味わって生きてきた。望みは統一。けれど、生きてる間になるかなぁ…」。
今、自身が読み終えた「論座」や「週刊金曜日」などの雑誌を近くの高校に届けている。
「せめてこういう記事を読んで子供たちを教育してほしい」と願うからだ。
旧西ドイツのヴァイツゼッカー大統領の「過去に目を閉ざす者は現在にも盲目となる」という
言葉を引用して、「ドイツ人は過去の責任を引き受けているが、日本は私が死ぬのを待っている。
北京へ向かう列車の中で朝鮮人を『弾除けに』といった軍人の言葉が忘れられない。日本人が
過去のことをきちんと知れば差別もなくなるのに」と話していた。梁さんの努力は今日も続く。
(金潤順記者)
[朝鮮新報 2003.7.7]
ttp://www1.korea-np.co.jp/sinboj/j-2003/j06/0306j0707-00001.htm
大阪・東生野 夜間中学卒業したハルモニたち 「初めて人間扱いされた」
極貧、働き詰めの半生、学ぶ夢胸に
3日、大阪市生野区にある生野東同胞生活センターを訪ねた。東生野夜間中学校を卒業した
ばかりの高己南さん(78)と玄必寿さん(79)、そして、本紙に手紙をくれた呉貞子・同女性同盟
支部顧問(69)が待っていてくれた。
高さんは71歳の時から8年かけて卒業した。毎週月曜日から金曜日まで、日課は午後5時
から8時50分までの4時間授業。科目は全日制と基本的には同じ。数学もあれば英語も、社会
も理科もある。「学んで一番よかったことは何か」と聞いてみた。
「闇夜で光を見たような、視野が広がって、世界がまるで明るくなったような気がする」と話して
くれた。
9年かけて卒業した玄さんも「オモニのお腹から出てきてはじめて学校の門をくぐった。その喜び
は言葉に表わせない」と言葉を詰まらせた。
学べなかったために、異国日本で暮らすうえで、困ったことや、不便に泣かされたことは一度や
二度ではない。高さんは子どもが幼い頃、病気にかかったとき「受付で子どもの名前を書け
なかった体験」を悔しそうに話す。
玄さんは「バスや電車に乗っても字が読めなくて、いつも緊張していた」と話す。いまは、逆に
電車に乗っても駅名がスラスラ読めるし、他人に聞くこともないので本当にうれしいと目を輝かす。
高さんは1929年、済州島で生まれた。8人兄弟の上から3番目。8歳で大阪へ。「ニンニク臭い
とよくいじめられた。学校に行きたかったが、アボジが亡くなって、それどころではなくなった」。8歳
の頃から子守り奉公に出されて以来、高さんはずっと働き詰めの人生を歩む。
やがて日本は太平洋戦争に突入。「一間に9人家族がすし詰め状態で暮らした。アボジがいない
ので疎開する力もない。空襲にあっても逃げる場所もなかった」。
18歳の時に13歳年上の同胞と結婚し、やがて4男3女に恵まれた。ウリハッキョに子どもを
通わすために、懸命に働いた。ミシン一台で暮らしを支えるため、ヘップや婦人服、ズボン縫い、
あらゆる仕事をこなした。ほとんど寝ないでミシンを踏み続け、それでも朝起きて、七つの弁当を
作り、子どもを学校に送り出した。
「米びつがカラッポで、家に10円もない日が続いても、夫が夜、客を4、5人連れてくると、何と
してもお酒を買ってもてなさなきゃいけない。近所の人たちにお金を借りて、子どもを酒屋に走らせ
て」
あまり仕事好きではなかった夫だったが、高さんは、その夫への思いを「あの人のおかげで、
一回りも二回りも大きくなることができた。何だってできるように引き上げてくれた」と語る。お金で
苦労させられた分、「やりくりでは誰にも負けない。学校でも数学が一番できた」と笑い飛ばした。
10年前に亡くなった夫は、死の直前、長男を枕元に座らせ「君のオモニはずっと働き続けた人
だ。私が死んだら、オモニを楽にしてやりなさい」と言い残した。
子どもたちは父の遺言どおり、オモニがこれ以上働かないように、夜間中学に通う日々を温かく
見守り続けた。
玄さんは1927年、済州島生まれ。8歳でオモニが亡くなり、12歳で大阪へ。
「アボジが書堂の先生だったので、ウリクルと算盤はアボジに習った。でも、日本に来てからは、
アイロン掛けの仕事からネジ作り、結婚してからはくず鉄拾い、ミシン縫いなどあらゆる仕事をした」
19歳で結婚した2歳上の夫は大のギャンブル好き、酒好きだった。7人の子どもが生まれても、
その性癖は変わらなかった。
「あまりにも辛くて、子どもの手を引いて川べりまで行ったこともあった」と振り返る。
「働いても働いてもお金がない暮らし」の中で、子どもをウリハッキョに通わせたことが喜びだった
と語る。ミシンを踏み続けて、一睡もしないオモニを案じる子どもたち。それでも夫は妻が稼ぐわず
かなお金を持って酒を買いに行ったという。
「朝鮮戦争の頃は、くず鉄ブームだった。お産のあとに、池に入って鉄くずを拾って、家に帰ると
タンスの着物がみんな質屋に入っていたこともあった」。それでも絶望せず、家族を懸命に支えた。
そして、71歳になってから9年間、夜間中学に通った。
「辛いことも全てを忘れて勉強に没頭できた。人と同じように座って勉強して、初めて人間扱い
された」としみじみと語る玄さんの壮絶な人生。そんな夫も年と共に円満になり、初めて心静かな
時間を取り戻した。
高さんも、玄さんも学ぶ喜びを知って、「長生きして本当によかった」「カラオケで字が読めて、
何にもうらやむことはない」と破顔一笑した。
苦難に満ちた激動の時代に、逆境をバネに強く生きたハルモニたちが、やっと手にした字が
読める幸せ。
最後まであきらめない不屈のチャレンジ精神に、心からの祝福を。(朴日粉記者)
[朝鮮新報 2006.4.8]
ttp://72.14.203.104/search?q=cache:Sl6kBC4LROMJ:www1.korea-np.co.jp/sinboj/%EF%BD%8A -2006/01/0601j0408-00002.htm+%E6%B8%88%E5%B7%9E%E5%B3%B6%E3%80%80%E5%A4%A7%
E9%98%AA&hl=ja&gl=jp&ct=clnk&cd=25&lr=lang_ja&client=firefox-a
猪飼野 「在日」 他郷から故郷に
写真:写真説明
ttp://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/kikaku/007/img/8_1.jpg ttp://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/kikaku/007/img/8_2.jpg (上)在日の歴史を重ねた「猪飼野」。人々の思いを映す平野川と、猪飼野新橋(中央奥、
生野区桃谷で)(右)リヤカーで段ボールを集めて回った夕方、猪飼野新橋で一息つく男性
(1968年、チョさん撮影)
キムチや蒸し豚、魚の乾物などが店頭に並ぶ「生野コリアタウン」を東へ抜け、平野川沿いを
しばらく歩くと、「猪飼野(いかいの)新橋」にたどり着いた。
一帯は、国内最大の「在日コリアン」の街。かつては猪飼野と呼ばれたが、三十一年前の
町名変更で地名は消えた。
一九四八年に架けられた猪飼野新橋の欄干には、「為橋於猪甘津、即号其処曰小橋也」の
十四文字が組み込まれていた。
「猪甘(いかい)の津に橋わたす、すなわち其のところをなづけて小橋という」。それは、日本
書紀(八世紀)にある仁徳天皇の業績を記した一節だ。
朝廷に献上するイノシシを飼う人々(猪甘)の津(港)は、近くを流れていた旧平野川の河口
付近にあったという。「小橋」の位置は不明だが、猪飼野のルーツは、千年以上もさかのぼる
ことを教えてくれる。
時代は一気に下り、この地に「在日の街」ができたのは、大正時代末期の二三年、大阪・築港
と朝鮮・済州島の間に、定期連絡船「君が代丸」が就航したことがきっかけだった。
コリアタウンで食料品店を営むチョイヒョンさん(87)は十五歳で海を渡り、平野川にほど近い
親せき宅に身を寄せた。
自転車工場で働き始めた。日当五十銭。厳しい暮らしを送る渡航者たちの長屋が、川沿いに
ひしめき合い、汗で黄ばんだ洗濯物がひるがえっていた。
「大雨になると川があふれてねえ。子供が流されてしまったこともあったなあ。働いて食べて
いくのに必死やった」
いつしか猪飼野は、朝鮮人が住む街の代名詞に。半島からの郵便物は「日本国猪飼野」と
書くだけで届くとも言われた。
フリーカメラマンのチョジヒョンさん(65)は、猪飼野新橋ができた四八年、済州島から渡って
きた。写真家として独立した六〇年代後半、「育てのふるさと」を撮りためた。
メタンガスの泡がはじける平野川で、腰までつかってくず鉄をさらう大人たち。水面に浮かぶ
製材所の丸太に飛び乗って遊ぶ子供たち。段ボールを積んだリヤカーが行き来する。
「チマチョゴリ姿の女性に済州島の母を、路上の少年に自分を、重ね合わせた。民族の分断、
貧困、底知れぬたくましさ。在日の喜怒哀楽すべてが、この地に詰まっている」
今や、この街を支えるのは三世や四世たちだ。他郷(タヒャン)から、故郷(コヒャン)に。川面
にたゆたう街の風景をながめながら、猪飼野の歴史に思いをはせた。
(写真・枡田直也)
(文・中川孝之)
ttp://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/kikaku/007/8.htm
浪 速 人 物 往 来〈27〉大阪・猪飼野、朝鮮市場〜金石範(キムソクポム) 『言葉の呪縛』
倉橋 健一
『ことばの呪縛』という本は、もう三十年近くも前、対立日本語という立場からいくつかの在日
朝鮮人文学論を書いた頃、もっともよくテクストにした書物であった。あらためて手元において、
急に時計の針が逆流しはじめるような気がする。当時、私はこの日本人の手によらない日本
語文学を、私なりの日本人の側からの認識法として、そこに在日韓国(朝鮮)語という概念を
設けて接近したいと思ったのだが、そのとき大きな示唆を受けたのがこの一冊であった。
この本の巻頭に、金石範は「一在日朝鮮人の独白」という、なかば自伝的、なかばドキュメント、
なかば論文風の、在日朝鮮人私史ともいうべき長いエッセイを置いている。そのなかに「大阪・
猪飼野、朝鮮市場」と小見出しのついた一章があり、独特な猪飼野論になっている。そこで、
金石範はこんなことを言っている。
「ふるさととはいったい何だろうと、小さいとき深刻に考えたことがある。私はふるさとという言葉
のもつ内容の重さとその実体感を幼ないときには、どうしても把むことができなかった。生れた
土地がそうであると学校の先生はいうが、小さい心にも、大阪が故郷だとはどうしても感じられ
なかった。といって、故郷の他の表象が頭の中にあるわけでもなく、ただ青い海と空があり、
小川が流れている。そんなところに自分の故郷が白い雲のようにすわっているのではないか……」
鐘との対談集『なぜ書きつづけてきたかなぜ沈黙してきたか』など。
小説『鴉の死』『万徳幽霊奇譚』などで知られる金石範は一九二五(大正一四)年、この町で
生まれた。その意味では、この欄の条件である浪速を往き過ぎる人ではない。引いた文中に
あるように、生まれた土地がふるさとということになれば、朝鮮人であろうと日本人でなかろうと、
その地がふるさと(日本人でなくとも大阪人ということ)になろう。金石範自身、「もともと私は
大阪にいたのであり、大阪で生れた私は大阪・生野の猪飼野で大きくなったのである。そういう
わけで、猪飼野は私の第二の故郷であると人にいわれれば、それを私は否定できない」と
いっている。
このような猪飼野。金石範の文脈から、この日本最大の朝鮮人の集落地を概括するなら、つぎ
のように説明されるはずである。
一九二三(大正一二)年、済州島と大阪のあいだに直通航路が開通されたことが、済州島出身
者を多く大阪に移住させるきっかけとなった。日本の植民地下、土地を奪われ仕事を奪われた
人びとは、日本本土の下層の労働力として移住を余儀なくされ、その一部は、大阪生野区の
平野運河開さく工事に従事、やがて家族とともにこのあたり一帯に定住することになった。当時、
このあたりは都市の外郭部であり、市内で家を借りることのできない朝鮮人たちが、かろうじて
居を定めることのできた地区だったわけである。一九二八(昭和三)年頃、大阪府にいた四万
五千人の朝鮮人のうち一万人がこの界隈に住んだ。それが昭和の一九六〇年代に入ると、
在日朝鮮人の約四分の一近くを占める一三万が大阪に住み、その大半が東大阪方面、おもに
生野区に生活の基盤を築きあげるようになったといわれる。
そこで金石範はときたま大阪に行き、とくに猪飼野の昔から朝鮮(ジオソン)市場といわれた
御幸(みゆき)通り商店街に入ると、理由もなくほっとすると書きとめている。そこはとおい海の
海辺であり、素足を浸して歩き、そして潮騒とともに向かってくる原初の臭いをかぎ、自分の
体臭がそれにかき消されるのを感じるところだという。そう感じるのは、そこでは朝鮮人の生活の
原形が、何十年のあいだ、少しも損われずに守られてきたからである。そして、つぎのようにこと
ばを継ぐ。
「祖国は亡び、支配する国日本の中で、「皇民化」政策の網をすっぽりかぶされながら、朝鮮
市場通りの店先にすわりつづけた物売りの老婆のようにじっと耐えながら、異国の中での朝鮮
人の生活の基本は、厳然として守られてきたのである。「言語」や「姓」を奪われた彼女たちは、
ふるさとの土着の言葉をしゃべり、その血について語った。習慣、風俗、それにまつわる生活
必需品の中には、前時代的な、たとえば日本の法華にあたる祭祀(ジェサ)用の祭器にいたる
まで封建的なものも含まれていたが、しかしそれ自体、民族的な伝統を主張するものとして
現れ、それらは決定的に「同化」への不融合要素となったのである」
「この核のようなもの、あるいはもっと深く原初的なともいうべきものが破壊されないかぎり、そこ
にいわゆる民族的コンプレックスなるものは発生しない。だいたいあの植民地時代においても、
在日朝鮮人でいうならば、たとえば私の母の年代の女たちほど、コンプレックスと縁のない存在
はなかっただろう」
その通りだと思う。私自身はここで柳田国男のいう常民ヽヽを思わないわけにはいかない。いく
千年の歴史過程を、親から子へ、代々その生活術を丹念に申し送りつつ、けんめいに生き続け
てきた細民のことである。そのうえでこのエッセイをはじめて読んだとき、日本の朝鮮統治の
時代、このような朝鮮人の生活社会を実現しえた大阪が、おかげでほんの少しほっとしたものに
みえたのもほんとうであった。金石範は戦時中、日本の官憲が朝鮮市場の強制廃止を考えた
ことがあるのかどうか知らないが、といっているが、深いところでこの町を支えたのは、日本の
側からみるかぎり、ここで語られる物売りの老婆と同じ日本人たちにちがいなかったと思えた
からである。
金石範(キム・ソクポム)
1925 年大阪市生まれ。14歳の時、半年余りを済州島で過ごし、民族的自覚を持つ。1948年に
起こった「済州島四・三事件」をテーマにした『鴉の死』で作家活動に入り、全七巻の長編『火山
島』で、大佛次郎賞と毎日芸術賞を受賞。主な著書に『満月』、評論集『転向と親日派』、金時
鐘との対談集『なぜ書きつづけてきたかなぜ沈黙してきたか』など
ttp://www.mmjp.or.jp/machi/54forWEB/page6.htm
「日本に来たがってたの、大勢いたんだ」
実は、いま出回っている「強制連行」証言を子細に見ると、そうした事情を裏付ける証言がいくつも見つかる。
以下は、「斡旋」の時期に渡航してきた人たちの証言であるが、当時の「斡旋」によって渡航した人たちの
事情がよく理解できる。 (いずれも引用は『百万人の身世打鈴』から)。
例えば、姜壽煕という人は、昭和17年に面長(日本の村長にあたる)と駐在所の所長から「日本に行け」と
言われて日本にやってきたのだが、こう述べている。
「目本は天国だと思っていました。村から日本に行った人が帰ってくると、洋服を着て中折れ帽子を被って
革靴を履いているんです。親は親で、『うちの息子は日本から帰ってきて、革靴を履いている』と自慢して
いました。…その頃は、朝鮮では村一番の金持ちの子どもでも革靴など履けなかったのです。…ですから、
『日本に行け』と言われたとき、そんなに抵抗感もなかったのです。」
また、李斗煥という人も同じ頃に「斡旋」を受けている。
「役所に呼び出されて『日本へ行ってくれ』と言われた。いやとも言えないしな。まあ正直いえば嬉しかったの。
日本に来たくてもなかなか来られないんだから。韓国にあっても、仕事ないし、百姓ぐらいだから。おれだけ
じゃなくして、日本に来たがってたの、大勢いたんだ」
「斡旋」は、「募集」とは違って朝鮮総督府の行政機関が関わり、罰則はないもののある種の圧力を感じて
いたことも分かるが、それ以上に日本への渡航熱が窺える。
こうして見ると、戦時動員とはいうものの、特に「募集」「斡旋」については、実態としては大量の「出稼ぎ」の
流れを、戦争遂行のための炭坑、鉱山、軍需工場へ転換させようとしたとも言えるのである。
朝鮮人の渡航者についての統計は前回に紹介したが、昭和15年(「募集」による動員の時期に当たる)を例に
とってみると、戦時動員による日本への渡航者は5万3千人(厚生省統計。数字は便宜のため百の単位以下は
切り捨てで表記)。しかし、同じ年の朝鮮からの渡航者の総数は38万5千。つまり、戦時動員以外に約33万人
が日本に渡航しているのである。むろん、このなかには一旦出身地に帰って再渡航したり、既に定住していた
者が家族を呼び寄せたケースも含まれるが、その多くは戦時動員以外で日本へ職を求めての渡航者であった。
こうした戦時動員数を渡航者数が大幅に上まわるという事実は統計が残っている昭和19年まで変わらない。
つまり、戦時動員と同時に、それを大きく上まわる大量の出稼ぎ的な渡航が並行的に存在していたのである。
動員が「強制連行」であれば、無理やり日本に「連行」される人たちと同じ日本へ、自らが旅費を払って出稼ぎ
に行く人たちとが同じ船に乗り合わせていたということになる。「強制連行」のイメージからすれば何とも奇妙な
構図である。
一方、当局は正規の手続きを踏まない渡航を止める努力をしていた。西岡氏によれば(前出論文)、大正14年
から戦時動員が始まる昭和13年の間、証明書など所定の条件が不備のために渡航を差し止められた朝鮮人は
労働者、家族を含めて16万3千人にのぼる。また、昭和8年から13年までに朝鮮の出身地で、渡航を出願した
ものが108万7千人。それに対して6割の65万1千人が「諭止」されている。
それでも正規の手続きをとらない不正渡航が後を絶たなかった。内務省の統計によれば、昭和5年から17年
までの13年間で、不正渡航者は発見されただけで3万9千人にのぼる。しかも、西岡氏によれば戦時動員の
始まった昭和14年から17年までの4年間は、発見された不正渡航者が2万2千人(13年間全体の58%)と動員
前に較べて急増している。
では、内地の取締当局はこうした不正渡航者をつかまえて、これ幸いとどこかの炭坑にでも送り込んだのだろうか。
話はまったく逆で、当局は不正渡航を取り締まり、朝鮮へ送還している。ちなみに昭和14年から17年までに、
1万9千人が日本の港から朝鮮へ送還されている。「強制」というなら、まさにこの朝鮮への送還こそ「強制」で
あった。
こうした不正渡航の取締まりに当たっていた福岡地方裁判所の検事はこう述べている。「本県に於きましても、
毎月200名内外の密航者を掴まへて、勿体ない様でありますが、之を送還する為、1人当り2円とか3円とかと
云ふ旅費を使つて送還して居る状況であります。県内に労働力の不足して居るのに勿体ない事でありますが、
今日では已むを得ない事であります」(昭和14年3月「福岡県下在住朝鮮人の動向について」・『在日朝鮮人関係
資料集成』第4巻)
367 名前:昔の朝日新聞[] 投稿日:2006/04/24(月) 08:35:13 ID:QZHojxWe
昭和38(1963)年9月28日 朝日新聞 天声人語 『李ライン』
李ライン海域で日本漁船がまた捕獲された。
韓国警備隊の武装した隊員が乗り移り、三十四人の日本人船員を連行している。
同じ二十七日の朝、別の漁船も追われ十人の船員は海に飛び込んで逃げ、
船長は一時重体だったという。
冷たい海中をいのちがけの避難だ。李ラインでの無法がまた激しくなった。
この海域はいま、アジ、サバの盛漁期で、五、六百隻の日本漁船が出漁している。
そこをねらって韓国警備隊は不意打ちをかける。
ライトを消し、島影づたいに近寄り、銃声を浴びせたりする。
日本側も巡視船を増やし、厳戒警報を出しているが、捕獲は防ぎきれず、今年になってすでに一六隻。
昨年一年中に捕獲された数よりも多い。
李ラインを越したという理由だけで、
これまでに多数の船員が釜山の刑務所に入れられ、船はとりあげられている。
優秀船だとそれが韓国警備艇に早変わりして、日本漁船を追ってくる。
海の狼のような韓国警備艇の仕業だ。
368 名前:マンセー名無しさん[] 投稿日:2006/04/24(月) 08:36:39 ID:QZHojxWe
そもそも李ラインというのは
昭和二十七年一月に韓国大統領の李承晩氏が、国防上の要請によるとして、設定を宣言したものだが、
それは公海上に一方的に設定したもので、国際法上不当なものだ。
日本政府はこのラインを認めていないが、
過去十年間に韓国は勝手に実力を行使して、約三百隻の日本漁船を抑留、
数多くの乗組員や家族を泣かせている。
九月にはいって、韓国側がさかんに捕獲を開始したのは、大統領選挙と関係があるらしい。
韓国の漁業界、漁民の票を得るために、朴政権は海洋警備隊に日本漁船捕獲を命じたとも見られる。
選挙の術策として隣国の漁船捕獲をはげしくするというやり方が、国際常識からも許されるかどうか。
韓国漁民の間に、日本漁船の技術に対する恐れと警戒の気持ちがあるのかもしれぬが、
資源の保護や漁業協力について日韓交渉で、双方とも誠意をつくして話し合えばよい。
漁民票をねらった強引な捕獲はこれまでの交渉での双方の努力を無にしはせぬか。
韓国は李ラインを“平和ライン”と呼ぶが、現状は不法ラインである。
公海上で日本漁船員を捕まえるこの理不尽は黙って見過ごせるものではない。
一衣帯水の海へ 一から知る「日韓暫定水域」
「竹島の日」制定で島根県議会に響く「万歳」の声、韓国にあふれる反日デモの波−。混乱と余韻が冷めやらぬ
四月中旬、「日韓暫定水域の政府間協議ようやく実現へ」というニュースが飛び込んだ。が、「暫定水域」って何だ
ろう、なぜ共同水域なのに韓国漁船が「占拠」状態なのか、協議の見通しは−。県民には分からないことが多い
日韓漁業問題。ここは一から調べてみよう。
四十年の恨
2005/05/16の紙面より
広大な水域に驚き
日本海を占める広大な「暫定水域」。水域設定をめぐって日韓が火花を散らした
■乱獲はどっちだ
「水産資源の保護を説いているのに、議論が煮詰まってくると『四十年の恨(うら)み』を持ち出される。それを
今言われても…」。鳥取県漁協の伊藤美都夫組合長は苦り切った表情を浮かべた。
絡まった日韓漁業を理解するには、「暫定水域以前」の歴史をひもとかなければならない。
日本は戦前から世界一の漁獲量を誇る水産大国だった。四十年近く植民地だった韓国沖を含め、日本海は
まさに「わが海」。敗戦とともに、米国は日本漁船の乱獲を防止する「マッカーサーライン」を設けたが効果はなく、
日本は韓国近海だけで韓国の年間漁獲量の半分以上を水揚げしていた。
過去を忘れず、「恨(ハン)の国」ともいわれる韓国。乱獲していたのはどっちだ、というわけだ。
■韓国船の違法操業
日韓にとって不幸な時代は続いた。一九五二年、講和条約でマッカーサーラインが消えた危機感から、韓国が
突然引いたのが「李承晩ライン」。資源保護を理由に、越えた日本漁船は片っ端から韓国警備艇にだ捕された。
講和条約前を含め、その数約三百三十隻(うち八隻は鳥取県漁船)。四千人近い船員が抑留され、銃撃も浴びた。
国際法上根拠のない李ラインは六五年の日韓漁業協定でようやく撤廃されたが、今度は日本の方が近代化した
韓国漁船の乱獲と違法操業に悩まされるように。さらに漁業水域二百カイリ時代を迎え九九年には新漁業協定が
発効したが、最大の焦点になったのが、竹島(韓国では独島)周辺の「暫定水域」の設定だった。
「新協定で違法操業の取り締まりと資源保護を期待したが、なんだこの暫定水域の広さは、と驚いた」(伊藤組合長)
■いっぱい食わされた
新漁業協定は沿岸国が優先的に資源利用できる排他的経済水域(EEZ)のほか、領土問題で決着のつかない
竹島周辺は「日韓が共同管理する暫定水域」としたが、せめぎ合いと妥協の末決まった水域は、「イカの好漁場で
ある大和堆にぐっと張り出した奇妙な形」(同組合長)、日本の漁業者が目をむくものだった。
一方、韓国の漁業者が満足したかといえば、まったく逆だった。「水域は東経一三六度まで」の要求は日本の
抵抗で「一三五度三〇分」に後退(経度一度で約百キロ違う)。日本のEEZ内での漁獲割り当ても減り、「屈辱的
交渉、これで食っていけるか」「政府は日本にいっぱい食わされた」。“恨”が再燃したことを、われわれ日本人は
知らない。
「共同管理」のはずの同水域。なぜ最新設備を持つ日本漁船が韓国漁船に追いやられ、乱獲は取り締まれない
のか−浮かんできたのは、「ルールなきゲーム」のような日韓漁業、民間任せの無責任な国の在り方だった。
【メモ】 一衣帯水の海 二つの国が一本の帯のように細長い海で向き合い、ほとんど隣同士という意味。日韓、
日中間でよく使われる。「日本海の地図を一度、南北逆さまに見てください。まるで瀬戸内海のように狭く見える
でしょう」(境港水産振興協会の米村健治専務理事)
ttp://www.nnn.co.jp/tokusyu/ichitaisui/050516.html
135 名前:可愛い奥様[sage] 投稿日:2006/04/26(水) 23:59:22 ID:hbfIru+j
その四つの内の一つと思われる「洪」姓
------------------------------------
洪正秀弁護士のやさしい法律相談 Q&A
『氏名の変更(97年9月)』
ttp://web.archive.org/web/20010228062307/http://www.korea-np.co.jp/douhou-hiroba/hou-soudan/hon9709.htm >実は私も朝鮮学校に通っていた時代には「尹(ユン)」という
>氏を使用していました。
>『戦後』、父が『密航』で日本にやってきて、『他人の外国人登録を買った』
>ためでした。
>そのため、親族と会うときは「洪(ホン)」の氏を使用し、学校
>では「尹」の氏を使用しました。
と朝鮮人2世である弁護士みずから父の犯罪を自白しています。
他にも
>通名を長く使用したので、外国人登録の本名を通名に変更することもできます
>この場合には、通名を使用した期間が問題となります。一概には言えません
>が、成人であれば7年ないし8年程度通名を使用していれば、家庭裁判所の許可
>が出るようです。
通名の変更はいつでも何度でも可能です。
改めてみると在日韓国人ってかなりの優遇だね。
133 :
マンセー名無しさん:2006/04/27(木) 14:25:45 ID:49+ZdrFQ
【民団の団長は、1954年に入国!】
民団団長「日本に延世・高麗大分校を誘致」
60万人いる在日韓国人をまとめる在日本大韓民国民団(以下民団)中央
本部の河丙ト(ハ・ビョンオク)団長(71)が5日、韓国に入国した。河団長は
「創立60周年を迎えるにあたり、民族人材を養成するため延世大・高麗大な
どの分校を日本に設置する案を積極的に推進する」と語った。河団長は在日
韓国人に対し「日本政府が要求する各種義務を果たしているが、それに相応
する待遇を受けられていない。地方参政権を与えられることは在日韓国人が
日本社会にきちんと立てる制度的措置であるだけでなく、日本が多文化共生
社会を形成し、国際化に寄与する道でもある」と発言した。
(中略)
慶尚南道晋州出身で1954年渡日、ホテル・不動産会社を経営し一代で成
功した在日韓国人の河団長は、民団東京本部執行委員・中央本部監察委
員・副団長・議長を務めた民団の生き証人。今年2月に任期3年の団長に選
出された。河団長は7泊8日で金広昇(キム・グァンスン)議長ら14人の民団役
員とともに盧武鉉(ノ・ムヒョン)大統領・金元基(キム・ウォンギ)国会議長・与
野党代表らにあいさつした後、12日に出国する。
http://japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2006/04/06/20060406000073.html
【在日】「長い奴隷生活だった」…辛淑玉さんは在日を「奴隷」と言う。それでも夢はもう一度「在日朝鮮人」として生まれること[4/30]
http://news18.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1146389541/l50 辛淑玉(シン・スゴ)さんの愛称は「せっちゃん」。在日朝鮮人三世で日本名は新山節子。
だから「せっちゃん」。人材育成コンサルタント。万博パビリオンの運営や人材育成などの
傍ら、明治大学客員教授、神奈川県人権啓発推進会議委員などを務め、講演・研修で
国内外を忙しく駆け回る
▼その半生を振り返った本が出た。「せっちゃんのごちそう」(NHK出版)。極貧だった。
米びつは空、床に落ちた米を拾い集める。着たきりすずめで、スーパーの試食品を
あさる日々。絶えず差別がつきまとい、いいなずけは自ら命を絶つ。何ともすさまじい
過去を、これまた何ともカラリとしたタッチでつづっている
▼辛さんは在日を「奴隷」と言う。社会から差別され、国籍がないために公的サービスを
受けられず、その結果貧しい状況に追いやられているのに、貧しいために差別を受ける。
自分で自らの環境を変えられない存在だから。「長い奴隷生活だった」
▼それでも辛さんの夢はもう一度「在日朝鮮人」として生まれること。支配者の心根が
透けて見え、社会を見る目が磨かれる。加害者にならないための道を見つけられ、
愛と良心にあふれた多くの人に巡り会える。何と誇らしい生き方なんだ-と
▼横田めぐみさんのことが頭をよぎる。拉致で幸せな日を断ち切られ、見も知らぬ地での
抑圧された日々。自らの手で環境を変えられるはずもなく、周りに愛と良心にあふれた
人はいない
▼ブッシュ大統領の力を借りてでも、どんな手を使っても無事に日本に帰ってほしい。
帰国し肉親と会うことだけを願う彼女に「もう一度生まれるなら」の問いはあまりにも酷だから。
ソース:山陰中央新報
ttp://www.sanin-chuo.co.jp/column/modules/news/article.php?storyid=580909034&from=top
玄海灘密航
金史良
荒潮の渦巻く玄海灘を中心にして、南朝鮮、済州、対馬、北九州等の間には、昔から伝説にも
あるように住民の漂流がしばしばあったと云われている。
或は最初の文化的な交流というものは、概してこういう漂流民を通じてなされたのであろう。
――だが面白いことには文明の今日においてさえ、漂流という形を借りたものが又想像以上に
あるのである。それが密航である。
けれど密航と云っても、そうロマンチックなものではなく、それを思いたつまでには余程の勇気と
度胸が要ることだろうと思う。玄海灘を挟んでの密航と云えば、旅行券のない朝鮮の百姓達が
絶望的になって、お伽話のように景気のいいところと信じている内地へ渡ろうと、危かしい木船や
蒸気船にも構わず乗り込むことを云うのだから、度胸云々どころではなく、全く命がけ以上の或は
虚脱と云ったところであろう。何れにしても、この密航に関して私にははかない思い出が一つある。
この間も朝鮮人の密航船が玄海灘で難破して、一行二三十名が藻屑(もくず)となったという報道を
読んで、転(うた)た感深いものがあった。
その実私も釜山から一度密航を試みようとしたことがある。それは十八の時の十二月のことで
あるが、或る事情で堂々と連絡船には乗り込めないので、毎日のように埠頭に出て寒い海風に
吹かれながら、どうしたらばこの海を渡って行けるだろうかとばかり思い焦っていた。何しろ若い
年先であり、それに丁度中学からも追い出されたばかりなので、ゆっくりと形勢を見るとか智慧を
めぐらすとかいうようなことは出来なかった。玄海灘の彼方というのは、私にはその幾日間かは
全く天国のようにさえ思われていたのであろうか。
或る日も私は埠頭で、帆船や小汽船が波頭ににょきにょきと揺れている様を見ながら、じっと
立っていた。それはみぞれの降る日だった。その時黒い縁の眼鏡をかけた内地人の男が、通り
がかりに独言のように、海を渡りたければ明朝三時に××山の麓に来たらいいと云うのである。
私は驚いて振り返って見た。だが男は吹き荒ぶみぞれの中に、どこかへ消え失せてしまった。
さすがに私はその晩いろいろと苦しみ悶えたものである。丁度二三日前から、宿屋のボーイにも
三十円程出せば密航させるからとしきりに誘われていた訳なので、よっぽど思い切ってやって
みようかと考えた。だが何故となくおっかなかった。隣りの部屋に一人の客がやって来たが、言葉が
どうも郷里の北朝鮮系である。私はその夜中に客の寝ている部屋へはいって行った。そして密航に
対して意見を求めた。すると客はしげしげと私の顔を眺めてから、「よしなせえ」と一言のもとに反対
した。今も思い出すことが出来るが、彼は小さな口の上に黒い鼻髭のある三十男で、目をしょっちゅう
しばたたいていた。その目をしばたたきながら、彼は一晩中密航に関していろいろな話をしてくれた。
彼も内地へ行っていたが、渡る時はやはり旅行券がなくて密航をしたというのである。船は小さくて
怒濤に呑まれんばかりに揺れるし、犬や豚のように船底に積み重ねられた男女三十余名の密航団は、
船員達に踏んづけられ虫の息である。喰わず飲まず吐瀉(としゃ)や呻きの中で三日を過ぎ、真暗な
夜中に荷物のように投げ出されたのが、又北九州沿岸の方角も名も知らない山際だったそうである。
船の奴等は結局どこへでも船を着けて卸(おろ)してから、見付からぬ中に逃げればいい訳である。
だから時には奴等は内地へ来たぞと云って、南朝鮮多島海の離れ小島にぞろぞろと卸して影をくら
ますことさえあるそうである。兎に角内地へ渡って来たのは来たが、皆はひどい船酔いと餓えに殆んど
半死の有様で、夜が明けるまでぶっ倒れていた。彼だけはしきりに気を立て直して、行先をさぐった。
そして灯のまだらについている小さな町の方をさして、這うように山を越え逃げ込んだのだった。ぼろ
ぼろでも洋服を着ていたからよかった。だが他の連中は白い着物を着たまま群をなして徨(さまよ)い
歩く中に見付かって、再び送還されたのに違いない。私はとうとう密航を思い切らねばならなかった。
「じゃが今は内地も不景気でがして、屑屋も駄目じゃけん、内地さ行くなああきらめるがええ」と、彼は
結んだ。
翌日の朝彼は郷里へ帰るといって、やはりぼろぼろの洋服で小さな包みを一つ抱え、釜山鎮という
駅から発って行った。私は余りの心寂しさに、彼を親でも送るような気持で、遠くから手を振って見送った
が、この小さな鼻髭を持ったおじさんは今どこで何をしているのだろう。
その後私は北九州の或る高校に籍をおくようになったが、この地方の新聞には毎日のように朝鮮人
密航団が発見されて挙(あが)ったという記事がのる。それを読んでいく時は、何とも云えない複雑な
感情に捉われた。沿岸の住民がとても訓練を得て監視するために、稀の場合でなければ成功しないの
である。あっちは命がけの冒険上陸とも云えるが、こちらは又こちらで必死になって上陸させまいと目を
光らせている。僅か八つの小学生が学校へ行く途中、密航団を見付けて駐在所に告発したので表彰
されたというでかでかした記事も稀ではなかった。それを読んでいると私は、自分までが来れない所へ
やって来て監視されているような、いやな気持になることがままあった。そのためでもなかろうが、私は
九州時代有明海にしても、鹿児島海岸にしても、別府の太平洋にしても随分親しんだものだが、目と
鼻の先の玄海灘の海辺には余り遊びに出掛けなかった。
それにしても卒業の年の初秋だったと思う、一度だけ郷里の或る学友と唐津へは行ったことがある。
波の静かな夕暮で、海辺には破船だけが一つ二つ汀(みぎわ)に打ち上げられていたが、海の中へ遠く
乗り出している松林には潮風がからんで爽やかに揺れていた。その時ふと私達の目には白い着物を
着た婦(おんな)達が四五人、遠く砂浜を歩いて来るのが見えた。丁度夕焼頃となり、それが迚(とて)も
美しく映えて見えるのだった。私はぎくりとして、さてはちりぢりになった密航団のかたわれではなかろう
かと思った。ところが彼女達が近くやって来た所を見ると、近所の海辺に住んでる移住民の奥さん達の
ようだった。若い婦達が下駄を手に持って、時々腰を屈(かが)めて沙場の貝殻を拾っている様は美しい。
その頃の高校の歌に、「夕日や燃ゆれ、吉井浜、天の乙女がゆあみする」という句節があった。
私は滅多(めった)に歌など歌ったことがないが、その時はちょっとそういう文句を思い浮べた。
底本:「光の中に 金史良作品集」講談社文芸文庫、講談社
1999(平成11)年4月10日第1刷発行
底本の親本:「金史良全集 4[#「4」はローマ数字、1-13-24]」河出書房新社
1973(昭和48)年4月30日
※初出:「文芸首都」
1940(昭和15)年8月号
※底本にあった割り注および注は、編者もしくは編集者が付けたものと判断し、削除した。
※本文中の「内地」とは、当時日本の統治下にあった朝鮮などの地域との対比の上での日本を指す。
入力:大野晋
校正:大野裕
2001年1月1日公開2005年12月14日修正
http://www.aozora.gr.jp/cards/000252/files/1399_20773.html
142 :
マンセー名無しさん:2006/05/14(日) 14:09:29 ID:0I6OyJRx
>>133 どう考えても合法的に入国したとは思えない、その人が強制連行等の歴史
を声高に叫ぶ民潭のトップかよ。
143 :
マンセー名無しさん:2006/05/14(日) 14:33:42 ID:A3XlUcC5
145 :
マンセー名無しさん:2006/05/21(日) 17:47:42 ID:v1khhSVg
日本人は特別永住とか一般永住とかの差も良くわからんのが普通。
特別永住の経緯についてまとめたところはありませんか?
協定永住とかいろいろありますよね。
むかーしハン板で見たような気もするんですが。
「在日」の青春赤裸々 九州朝高OBが自伝 「閉塞感、でも楽しかった」
今春開校50周年を迎えた九州朝鮮中高級学校(北九州市八幡西区)の卒業生が、1960―70年代に同校に通った
在日コリアンの青春を赤裸々につづった自伝「九州コリアンスクール物語」(海鳥社)を出版した。在日コリアン集合住宅
地域での貧しくもにぎやかな暮らし、日本人高校生とのけんかに明け暮れた日々、朝鮮学校の日常や思想教育の実態
を飾らない筆致で描いている。語られることの少なかった福岡の「在日」史の貴重な記録と言えそうだ。
著者は、パチンコ機器関連会社経営の傍ら、怪獣フィギュア専門店を営む在日コリアン二世、片栄泰(かたえいたい)
さん(52)=福岡市東区。北九州市内で米軍向けのバーを経営する在日一世の父と、在日二世の母の間に1953年に
生まれた。小学2年のとき、59年にできた九州最大規模の在日コリアン向け公営住宅「浜松団地」(福岡市東区、通称
・金平団地)に転居し、団地内の福岡朝鮮初級学校に通学。72年に九州朝鮮中高級学校を卒業した。
片さんは、自身の青春時代について妻や子どもにも語ったことがなかった。しかし、3年前に交通事故で九死に一生を
得たのを機に「自分の人生を記録に残したい」と考えるようになり、同書を書き上げた。幼年期から高校卒業まで「見た
まま、聞いたまま、経験したままを書いた」と片さん。
ニンニク臭が漂い、朝鮮語が飛び交う「日本の中のコリア」だった団地での、食べ物にも苦労した暮らしぶり。朝鮮学校
には日本語使用を禁ずる「朝鮮語100%使用運動」があるがうまく話せず、指導員に許してもらうため「宿題を忘れたミダ」
などと、日本語の「です」にあたる「ミダ」を語尾に付けるのが流行したこと。校内で上映される映画に北朝鮮の故金日成
(キムイルソン)国家主席が登場すると拍手が義務付けられ、ノートにその名を書くときは他の字より大きく濃く書くよう指導
されたこと。日本人高校生による「朝高生(朝鮮学校生)狩り」と称する集団暴行と報復も、生々しく描いている。
ほかに、自分を日本人と思っていた幼いころ、日本人とけんかして「朝鮮人! 」と言い捨てられたときの衝撃もつづって
いる。
「当時は在日というだけで将来の夢が制限され、閉(へい)塞(そく)感があった。日本社会での共生の道を模索する現在
の朝鮮学校と違い、教師たちも革命家を育てようとしていた。ただ、仲間同士の結束は固く、楽しかった」と片さん。「在日
の歴史や事実を多くの人に知ってほしい」と話している。 =2006/05/20付 西日本新聞夕刊=
ttp://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060520-00000037-nnp-kyu >指導員に許してもらうため「宿題を忘れたミダ」などと、日本語の「です」にあたる「ミダ」を語尾に付けるのが流行したこと。
>指導員に許してもらうため「宿題を忘れたミダ」などと、日本語の「です」にあたる「ミダ」を語尾に付けるのが流行したこと。
>指導員に許してもらうため「宿題を忘れたミダ」などと、日本語の「です」にあたる「ミダ」を語尾に付けるのが流行したこと。
ちょっと親しみを感じる…w
816 名前:奥さまは名無しさん [sage] 投稿日:2006/05/23(火) 00:21:52 ID:???
韓国第2の都市大邸で調査した資料があるんだが。
期間 両班 常民 奴婢
(1690年) 1027人 6894人 5592人
(1732年) 2026人 8066人 4940人
(1789年) 3926人 6415人 1957人
(1858年) 6410人 2659人 4126人
税金を納めない両班の人口がこんなに増えて、納税者の常民は負担が大変だったろうな。
151 :
マンセー名無しさん:2006/05/28(日) 19:25:49 ID:T4ofdm8P
なるほど、テスト。
152 :
マンセー名無しさん:2006/05/28(日) 19:30:04 ID:Rf2AFBuD
>>150 ちょwww
特別永住資格じゃなくて許可でしょ
154 :
マンセー名無しさん:2006/05/31(水) 02:11:33 ID:1ssA5lHZ
在日の人口は帰化人も含めても日本人口の1%未満でしかない。正確に言うと0.016%
2chで良く頑張るね在日はwww
日本人の確率は99.946%限りなく日本人が多い。
155 :
マンセー名無しさん:2006/05/31(水) 09:44:14 ID:jXqVcNps
>>154 2ちゃんるやってる暇があったら他の勉強もしとけ。
良く分からん計算だな。
何進数?
158 :
マンセー名無しさん:2006/05/31(水) 12:11:54 ID:LV/2MLfM
田岡一雄山口組組長の回顧録「山口組三代目 田岡一雄自伝」より転載
一瞬、ぎくりと立ちどまり、悲鳴のあがる方角に走った。途中で四、五歳の女
の子が泣きながら夢中で駆け寄ってきた。
「どないしたんや」
「おかあちゃんが、おかあちゃんが」
少女は私に泣きじゃくりながらしがみつく。この世のものとは思えぬ女の狂気
じみた悲鳴がきこえつづけていた。
「ここにいるんやで。ええな」
私は少女をその場において一目散に走った。少女の母親は木立の中で数人の男
に犯されていた。飛行服の男たちだった・・・
(中略)
通りすがりの通行人の目つきが気に食わないといっては難くせをつけ、無銭飲
食をし、白昼の路上で集団で婦女子にいたずらをする。善良な市民は恐怖のど
ん底に叩き込まれた。こういった不良分子(朝鮮人)は旧陸海軍の飛行服を好
んで身につけていた。袖に腕章をつけ、半長靴をはき、純白の絹のマフラーを
首に巻きつけ、肩で風を切って町をのし歩いた。腰には拳銃をさげ、白い包帯
を巻きつけた鉄パイプの凶器を引っさげたかれらの略奪、暴行には目にあまる
ものがあった。警官が駆けつけてきても手も足も出ない。「俺たちは戦勝国民
だ。敗戦国の日本人が何をいうか」警官は小突き回され、サーベルはヘシ曲げ
られ、街は暴漢の跳梁に無警察状態だ。
159 :
マンセー名無しさん:2006/05/31(水) 12:57:24 ID:WyBJfJDS
在日韓国人の英知が戦後日本を作った
特権があって当然だし、まだ足りない
だから渡航費用ぐらいは出してやるって言ってんじゃん。
>>159 が
だ
何ぃーー!!ガ島でまだ戦闘が続いているのか!?
>>163 つまりそれでエネルギー補給して対馬海峡泳いで渡れとw
まぁガタイ自慢の連中だから楽勝ですねw
>>164 もしくは「俺は金持ちだwwwwww」とか自称してるの多いですから(てんちょとか)、
高々半島への渡航費用、はした金でしょうw
>>165 「くらくてこうろがわからないわ」
「どうだあかるくなつたろう」
>>166 本国の連中が放火しまくってるのは在日を帰国させるためだったのか!
720 名前:<丶`>(・・`)(`ハ´ )さん[] 投稿日:2006/06/02(金) 19:50:53 ID:6Zwr5x7R
http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2006/05/07/355613#c361069 金守珍さん ― 2006年05月07日 08時19分58秒
最近出た『歴史のなかの「在日」』(藤原書店)のなかに、金守珍さんの「闇に光を」と
いう短いエッセイがある。日本人=差別者=悪、朝鮮人=被差別者=善という図式の
論者が多い中にあって、異色のものである。その冒頭のさわり部分を紹介したい。
<「在日は差別されてきた」と、決り文句のように言われるが、実は僕らも日本人を差別
してきた。「なんだ、ひどいことをしやがって」と、日本人に喧嘩も売ったし、事実僕も
十代の頃は、おおいに暴れたものだ。今になると、そんな自分にちょっぴり罪悪感を抱い
たりもする。
在日は決してきれい事で生きてはこなかった。闇金融、パチンコ産業、ヤクザなど、社
会の闇の部分にも深くかかわっている。
特に一世は、日本は仮の住まいでいずれ祖国に帰ると思っていたから、日本で好き放題
やったという面もあると思う。‥
闇の部分も含めて、白日のもとにさらけ出すべきだ。誇れない、かっこ悪い部分がある
のは当然だ。それが人間というものなのだから。その上で、恥ずべき点は反省すればいい。
都合の悪いことは隠したままにしておくと、かえって差別を生むし、理解もしてもらえな
い。>
彼は在日の実際の生活および在日と日本人との実際の関係をリアルにとらえている。し
かし彼のような言説が少数なのは、寂しいことである。 きれい事ではない、在日の実の
姿を議論したいものです。
117 名前:可愛い奥様[sage] 投稿日:2006/06/10(土) 11:46:22 ID:oHM7GXQI
http://news18.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1149853766/l50 安さんの記憶によると、江原道(現韓国)に住んでいた43年2月、地元の区長らが
「勤労報国隊として2年間、日本に行け」と計約80人を集めた。安さんも、
結婚して間もない妻とおなかの子供を残し、トラックや汽車、船に揺られて山口県下関市へ。
更に汽車で飯塚市の住友忠隈炭鉱に連れて来られた。出発時から、背番号付きの麻地の服を着せられていた。
炭坑で石炭を掘り、朝鮮人寮で雑魚寝する日々が続き、「いつまで働かされるか分からない」
と44年秋に逃走。竹やり訓練などの指導教官から「飛行場の建設現場がある」
と聞いていた博多に向かったという。
>地元の区長らが「勤労報国隊として2年間、日本に行け」と計約80人を集めた。
地元の人間(チョン)に言われたから日本に来てんじゃんw
どこが強制連行なんですかね?
172 :
:2006/06/11(日) 06:31:31 ID:k0TtG6PT
うん
>地元の人間(チョン)に言われたから日本に来てんじゃんw
>どこが強制連行なんですかね?
まあ、日本が公的に動いてるわけじゃないから強制連行じゃないって言っていいと思うけど、
朝鮮人が日本にまったく関係なくやってるわけじゃなくて日韓併合があったからこそこれが起きたわけで
そういう状況まで含めて「(広義の)強制連行」といってるんでしょう。
日本人でも共感する人はいると思うから、ちゃんと説明できるように準備しといたほうがいいよ。
174 :
マンセー名無しさん:2006/06/11(日) 16:39:00 ID:gI0f/T+b
南京大虐殺を忘れてないか?
朝鮮の教育じゃ南京大勝利なのかもな
戦勝国って言ってたのは南京大虐殺の事だろ?
軍備もない隣人とすて一緒に生活していた民間人をお前等の親は殺したんだ
もちろん日本人女性はレイプされてから殺された
日本人残留孤児ってのは誘拐されてレイプされたが殺されなかった人たちなんだ
慰安婦問題だって元々娼婦だった今の婆が日本政府から金を巻き上げるために言っている
根拠も無ければ史実とも合わない虚言でな
当時、日本だけは強制的に慰安婦を要請したことがない
朝鮮とは併合であって侵略したわけではないからだ
女性の貞操を重んじる文化を持つ日本政府が強制的に慰安婦を集めるはずがない
朝鮮のために日本は国力を裂いて朝鮮文化を世界至上ありえない早さで成長させた
ハングルを広めたのも教育を重んじる日本政府だ。台湾・パラオでも教育を重要とした
そんな日本に自ら労働力として行く朝鮮人もいた
爺さん婆さんが強制連行と言ってたのを聞いたことある奴は可哀想だがそれは虚言だ
175 :
在日へ:2006/06/13(火) 00:50:47 ID:vgZqmes4
今の在日ですら日本人の血が混ざって来てるのに、在日10世になったらほぼ完璧に日本人になってるだろう。
日本も昔はいろいろな国々(勿論朝鮮人も含む)から来た人々によって、今の日本人になったのだから。
(日本に居れば)近い将来、在日の子孫は必ず日本人を名乗るようになるだろう。
665 名前:参考資料[sage] 投稿日:2006/06/27(火) 11:23:15 ID:uDQ2I5QW
347 名前:番組の途中ですが名無しです[] 投稿日:2006/06/27(火) 10:57:14 ID:NfM0dpjn0
今月の三日でありますが、横浜の鶴見区の小野町という場所に火災が起こったことはすでに
御承知と思いますが、この火災について私がきょう聞きたいと思いますことは、ここは非常な
過密地帯というよりも、むしろそれを超越して住宅が過密でございます。それで、報告書を
読んでみましても、消失した家屋が四十四棟で、そのうち全焼が三十六、半焼が六、
これだけが人の住んでおったところで、人の住まないところで二棟焼けております。
この火災の全体の焼失面積は、延べ坪数にして三千四百六平方メートルであって、
ほとんどあき地がなかったといっても差しつかえのない過密した地帯でございました。
同時に、この地区は、従来戦争中の高射砲陣地として公園を兼ねた約一万坪の土地であった
わけであります。ところが、実際の高射砲陣地として使っておりませんでしたので、戦争が終わると
同時に、あるいはその前から空襲で焼け出された諸君が、少なくとも約七千坪の空地があったわけで
ありますから、そこにほとんど無許可で無統制で移住を始めたというのがそもそもの原因であります。
http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/049/0320/04908060320003c.html ちょww国会お墨付きww
179 :
:2006/07/03(月) 12:46:07 ID:DHjmyXFr
良スレ保存上げ
180 :
九尾狐 ◆85KeWZMVkQ :2006/07/04(火) 16:24:11 ID:bIhvjfbs BE:323027993-
なかなかいいスレを発見したのでちょっとネタ振ってみる。
世界でも特殊な特別永住資格を、大東亜戦争終結から追っかけてみる
1946年11月5日付GHQ覚書「朝鮮人の地位及び取り扱いに関する総司令部渉外局発表」
「総司令部の引揚計画にもとづいて本国へ帰還することを拒絶するものは、正当に設立された朝鮮政府が、
彼らに対して朝鮮国民として承認するまで、その日本国籍を保持するものとみなされる」
暫定処置としての国籍ですね。
181 :
九尾狐 ◆85KeWZMVkQ :2006/07/04(火) 16:27:47 ID:bIhvjfbs BE:95712724-
27 名前:可愛い奥様[sage] 投稿日:2006/07/07(金) 02:45:36 ID:sso+YlUP
土地を乗っ取った
985 :可愛い奥様:2006/07/06(木) 23:53:52 ID:hjm4IdzN
三宿の朝鮮学校があった場所が・・・・
私が子供のころは学校しかなかったのに(その頃は生徒もいた)
いつの間にか何の表示もない4、5階建てのビルが学校の敷地内に出来上がって
キムチなんかを売る売店が出来た
その後、学校の校庭部分がすべてコインパーキングになり、校舎だけが
ひっそりと佇んでいたが、生徒の気配は皆無。
そして今、学校は無くなり、無表示のビル以外の敷地に分譲マンションが建った・・・
そろそろマンションが仕上がりを迎えた今
今度は無表示ビルが取り壊され、またそこに何かを建設する模様
この前、そこを通ったら物凄く深い地下用の穴が掘られていた
凄く深かった・・・一体誰が何を作るんだろう、怖い。
朝鮮学校が出来たのは戦後だが、その土地を(戦前は軍関係の土地だった)
朝鮮人がどうやって手に入れたのか知らないが
学校だから許可が出たのは確かなのに、マンション会社に売却って・・・
185 :
マンセー名無しさん:2006/07/17(月) 20:42:44 ID:UY4KUI5L
資格は与えられてるだけであり、権利では無い
日本政府は特別永住資格を取り消せ!
186 :
マンセー名無しさん:2006/07/17(月) 20:43:47 ID:vwvV1Z9U
北の国家的関与を断定 覚醒剤大量密輸で警察庁長官
警察庁の漆間巌長官は21日、今年5月、警視庁が逮捕した韓国籍の禹時允容疑者(59)らが関与した
北朝鮮からの覚醒(かくせい)剤密輸など、これまで把握されている7つの覚醒剤事件のほとんどについ
て、「北朝鮮が国家的に関与したものと認められる」と明らかにした。北朝鮮を仕出し地とする覚醒剤密輸
事件に関して、警察当局が北朝鮮の国家的関与を断定したのははじめて。
ttp://www.sankei.co.jp/news/060722/sha007.htm
149 名前:マンセー名無しさん[] 投稿日:2006/07/22(土) 13:20:31 ID:K7+TrC7W
本スレ
>>549 >>551 Nifty-Serveの新聞記事検索サービスでヒットした、
朝日新聞に掲載された、「従軍慰安婦」という語を含む記事の件数の変動である
(記事本文に1語でも含まれていればヒットする。
たとえば、「ワールドカップサッカー日韓共催」の記事でも、
「日韓関係には従軍慰安婦のような暗い話題も多いが…」などの形で
ひとことでも「従軍慰安婦」に触れていれば、件数にはいる。
ただし、1件の記事中に「従軍慰 安婦」という語が2回以上使われていても、
件数はあくまで「1件」である)。
1985 3件
1986 3件
1987 2件
1988 4件
1989 6件
1990 8件
1991 110件
1992 622件
1993 350件
1994 296件
1995 384件
1996 450件
1997 375件
1998. 76件
〜
ファビョりだしたから報道も電話応対も無節操になりだしたといえる。
あともうちょいだ。
659 名前:マンセー名無しさん[sage] 投稿日:2006/07/23(日) 23:38:12 ID:wj1fBQme
対馬の旅券不携帯事件 韓国人が密航仲介 長崎県警調べ 背後に国際組織か
長崎県対馬市内で韓国人男女7人を含む8人が入管難民法違反(旅券不携帯など)容疑で
逮捕された事件で、東京都内在住の韓国人の男が密出入国の仲介役を果たしている可能性が
高いことが同県警の調べで分かった。県警は背後に日韓両国にまたがる密出入国仲介組織が
あるとみて、8人のうち韓国人男女5人を近く同法違反(不法出国企図)容疑で再逮捕する
とともに、仲介役の男の所在を含めて組織の解明を進める。
調べでは、旅券不携帯の現行犯として逮捕された韓国人6人のうち5人が今月上旬、東京
都内に住む韓国人の男にそれぞれ電話で密出国の手助けを依頼していたことが判明。福岡市
からフェリーで対馬に渡り、海岸で密出国する船を待っていたことも分かった。韓国人を乗
せた車を運転し、同法違反(不法出国企図ほう助)容疑で逮捕された無職真子一夫容疑者(62)
=福岡市東区箱崎7丁目=は「韓国にいる人間から、韓国人を対馬に連れて行くように頼まれた」
と、韓国側の組織の存在を口にしているという。
韓国人5人は、東京都など関東地区の焼き肉店やスナックなどで働いていたといい、逮捕時
にそれぞれ所持していた現金数十万円について「密出国手助けの報酬」と供述しているという。
=2006/07/23付 西日本新聞朝刊=
ttp://www.nishinippon.co.jp/nnp/national/20060723/20060723_002.shtml
190 :
マンセー名無しさん:2006/07/26(水) 22:55:04 ID:LpswA8Ew
戦後、済州島人の「不法入国(密航)」から「特別在留」獲得までを生活史より、簡略に紹介したい。
ケース1,
女性、1920年父は樺太へ出稼ぎ、1946(28歳)年、済州島で夫と死別後、6歳の娘を連れて密航
(鹿児島上陸)。大阪の平野の石鹸工場で働き、同僚の済州島人男性と再婚。再婚の夫との間に
一男三女生まれる。「特在」に関しては、とくに語られていない。しかし、密航時期が外国人登録を
する以前であり、さらに夫が戦前より在日していたので、「特在」でなく、「永住者」になったと考え
られる。
ケース2,
男性、1947(23歳)年、済州島で結婚、四・三事件関係の地下運動で罰金刑を受け、一時的避難の
つもりで密航(三崎上陸)。翌年、親族が他人名義の外国人登録をしてくれる。1949年弟密航、
親族が弟の名前の外国人登録をしてくれる。1950年済州島人女性と再婚。再婚の妻との間に二男
三女生まれる。自主し「特在」、1977年(密航から30年後)。このケースも、密航が早期(1951年サン
フランシスコ条約、出入国管理令公布以前)であり、永住者の夫、永住者の子(5人)の扶養の責任、
会田−もともと国際関係論を学ばれていたということでしたが、きっかけは。
「それは、私が在日韓国・朝鮮人として生まれたからでしょうね。私が生まれたのが1956年。子供の
頃、差別が一番露骨化し始めたんだと思うんです。私の前の世代は、一世で韓国、朝鮮半島生まれだ
し、もともと違うっていうのが、はっきりしているわけですよ。ところが、私たちみたいに、日本で生まれて、
日本で教育を受けているのに、国籍が違うということでの差別は、非常に納得できないものがあった。
韓国が故郷と言われたって、全然故郷っていう実感もないし、非常に中途半端で、心理的にそういう
ものを感じやすかった。だから、自殺者が出るのは、この二世って言われる世代からなんですよ。自分
自身のアイデンティティに悩む。早い子では12歳で自殺した子がいるんです。あれは70年代でしたけ
れどね。
いろいろあったけれど、80年代前後からかな、韓国のソウルでオリンピックが開かれることになって、
変わってきたんですよね。対日関係でも非常にはっきりした対応をするようになった。例えば、教科書
問題や、政治家のいわゆる暴言に抗議したり。国際社会での国家の位置づけ、自分の所属する国家
がどういう国家かで、自分たちの立場も非常に変わるんだな、と思ったら、やっぱり国際社会はどういう
仕組みで動いているかっていうのが知りたいと思っていたんです。
ただ、私はOLをやっていて、非常に残業が多い職場だったので、なかなか勉強がしたくても、でき
なくて。仕事にもいろいろ疲れ果てていました」
日本名と本名の選択
勝本−差別というのは、結構、もうずっと昔から感じることはあったんですか?
「ええ、小学校の頃は露骨に『朝鮮人、朝鮮人』といじめられたから。帰れ、とか言われていたし」
会田−学校は普通の公立に通っていた?
「はい。小学校の時に友達が家に遊びに来るでしょ。当時、日本名を使っていたから、顔もこうだし、
黙っていたら分からないんだけど、家に来た子は何か見つけて、『朝鮮人だ!』って分かっちゃって。
私が聞いた感じでは、どうも言いふらしてたらしいのよ。それで、他の子が教えてくれたの。『あなた、
あの子、あんたのこと、そういうふうに言ってるよ』って」
会田−日本名は。
「森本姫子。幼稚園や小学校では森本だったんですよ」
会田−自分の中に、日本名とか、韓国の本名があるっていうのに気づいたのは、いつごろですか?
また、そこに違和感なんかを覚えたりしたことはあったんですか?それはいつごろですか?
「中学の頃ですね。中学に進学する時に、そこの中学は本名制だって言われたんです。大阪市生野区
は全国で一番朝鮮人、韓国人が多いところで、中学校の生徒は4人に1人が韓国、朝鮮人だったの。
それで、学校では本名制度を取ろう、と。日本語読みだったんですけれどね」
会田−本名は。
「李(LEE)。今でも覚えているんだけれど、小学校6年生の時に、先生がクラスの10人ぐらいに封筒を
渡すわけです。家に帰って、ぱっと封筒を開けたら『姫子さんの本名を教えて下さい』って書いてあった。
それで、もう一人の友達から電話がかかってきて『なんて書いてあった?』って。彼女も朝鮮人だったの。」
勝本−本名制度を取るというのは、学校の方針だったんですか?
「中学の先生に聞いたら、『やっぱり誇りを持って欲しいというようなことだ』と、言っていました。中学に
は名札があったんですよ。でもね、やっぱり小学校からみんな一緒に上がってくるでしょ。名札であの名前が
書かれてるってことには、ちょっと抵抗感があった」
会田−本名が書かれているほうが、抵抗感があった?
「抵抗があった。つまり、それまで森本って言われていたのに、中学に入ったら急に「李」の名前になって。
私は韓国、朝鮮人ですって、付けて歩いているようなもんだもの。小学校から来た友達は、今でも日本名
で呼ぶ子はいますね。急に本名で呼べって言われても、やっぱ呼びづらいって。ま、それもそうだろうなと」
勝本−学校で本名制度を取りましょうっていう方針に対して、ご家族の反応というか、考え方はどうだった
んですか?
「あまり何も言いませんでした。これって、私たちの中の共通することなんですが、韓国、朝鮮人は非常
に職業にも制限があって、まずホワイトカラーが圧倒的に少ない。そうすると、不利な状況の中で家で
工場をやったりしていて、子供のことなど省みずに仕事をしなきゃいけないので、結構、子供をほったら
かしの家庭も多かったんですよね」
会田−李さん自身は、自分の生まれた環境とか、そのころ取っていた名前とかについて、どのように
思っていたんですか?
「やはり、ある日差別され始めたときからすごく嫌だった。中学生の頃でしょうか。ものすごいコンプレ
ックスで、『なぜ私は日本人の家に生まれなかったのかな』と思いました。
明らかに、友達の家の話と自分の家のことが違うってことが分かるわけですよね。小学生の頃、うちの
家では、お膳で食事をしていたんだけれど、母は片ひざを立てて食べるんですよ。近所の日本人の子が
それを見ると不思議なわけで、『ここのおばちゃんてね、こんなふうにしてゴハン食べる』と、格好を真似
したり。だから、日本人を基準として、日本人と違うということがすごく悪いことのような気がしていました」
会田−日本人への反発はありましたか?あるとしたら、成長してからなんでしょうけど。
「成長してからですね。学生時代はそこまで余裕も持てなかった。高校に行く時、中学でも本名を使って
いたから、その流れで高校は「李」で行っちゃったんだけど、そしたら本名を名乗っているのは、1学年で
私1人だけだったんです。私入れて本当は約10人いたらしいんよ。高校は本人の意思で選択できたの
だけど、1年は私1人、2年に1人、3年に2人だったの」
豊田−結構、みんな迷いながら、どっちの名前にするか決めている?
「そう。やっぱり大阪の小学校は、今でも本名を名乗りなさいって言うらしいんです。『本名名乗りましょう
運動』みたいなもの。ちっちゃいうちは、先生の言うことが絶対だから、聞く。でも、その子たちが中学、
高校へ行くようになると、みんな日本名に戻す。今でも。決定的なのが、社会に出た時です。学校時代
は、先生たちも守ってくれる。民族に誇りを持てとかなんとか言って。そうやってよいしょしてくれる間は
いい。でも、社会に出れば決してそうではない。やっぱり世間の風というのは冷たいものだと。そこで
一人で立ち向かっていける強さは、人間なかなか持てないから」
豊田−でも、会社に入っても、中学以降はずっと「李」で通していた?
「うん、ずっと」
豊田−おうちの人も「李」さんだったんですか?
「ううん、森本なの。両親が「森本」で、私と妹が「李」。弟は日本名を使ってる」
豊田−じゃあ、家の中でも…
「ばらばら。私の名前「姫子」を「ヒジャ」って読むってことは、1975年に大阪外国語大学のタイ語科に
入学してから初めて分かったんです」
ttp://www.niyoniyo.net/vol17/hitolibrary/heeja.htm
175 名前:可愛い奥様[] 投稿日:2006/07/28(金) 15:27:43 ID:jiKATD6p
在日一世の八割以上は、上陸年不詳。つまり密航者。
法務省編 在留外国人統計(1974年度版)
http://sapporo.cool.ne.jp/rati_yurusan/gazou/zairyu_gaikokujin.htm ビラのHPより
http://sapporo.cool.ne.jp/rati_yurusan/ 戦前は、一大畜産地・済州島で牛の疫病が発生して生活難に陥った島民が、
当時 存在した済阪航路に乗って大阪に大量流入し、その後全国に広がった。
大阪や東京では7割ぐらいを同島出身者が占めていた。戦後も在日ネットワー
クを 頼って1970年頃まで韓国人の日本への密入国が続いた。
在日における済州島出身者の比率の異常な大きさと、朝鮮半島の総人口に占
める 同島民の比率の小ささを考えると、朝鮮総督府の土地調査事業で土地を
奪われた農民が、仕事を求めてやむなく来日したというのも嘘だとわかる。
今日の在日韓国・朝鮮人には、戦後の密入国者とその子孫がかなりの比率
を占めている。日本政府は、在日の永住権を巡る韓国政府との外交交渉で
密入国者に関しても寛大に扱った。
196 :
マンセー名無しさん:2006/07/30(日) 02:36:59 ID://ZO9bAH
朝鮮人は中国板で工作している。日本人に成りすまして中国人に暴言使いまくって
喧嘩している。なんとかしてくれ。 しかも自演で自分のことをチョンといえる
197 :
マンセー名無しさん:2006/07/30(日) 03:36:26 ID:Jc2pNdsz
198 :
マンセー名無しさん:2006/07/30(日) 03:56:08 ID:pPu1c4DU
韓国が在韓の定住日本人に対して行っている制度(ほんの一例)
◆就労権剥奪
◆国民年金に加入させない
◆住民登録させない
◆ローンを組ませない
◆身分鉦の発行が受けさせない
◆電話回線に加入させない
◆不動産を保有させない
◆生活保護適用除外
◆公務員にさせない
◆銀行における銀行の当座取引、預金、送金、融資の禁止
在日の反日朝鮮人と帰化人に対しても
厳しく制度化しないとね!
◆就労権剥奪
◆国民年金に加入させない
◆住民登録させない
◆ローンを組ませない
◆身分鉦の発行が受けさせない
◆電話回線に加入させない
◆不動産を保有させない
◆生活保護適用除外
◆公務員にさせない
◆銀行における銀行の当座取引、預金、送金、融資の禁止
200 :
マンセー名無しさん:2006/07/30(日) 04:33:38 ID:8CqY1kX1
>>196 戦争中に中国人を殺しまくったのも半島人だってゆうことらしいね。
もっともそんときは(日本人)なわけだが。