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565マンセー名無しさん
東沃沮(ひがしヨクソ)
在高句麗蓋馬大山之東、濱大海而居。其地形東北狹、西南長、可千里、
北與yup[扁手旁邑]婁、夫餘、南與wai[扁水旁歳]貊接。
戸五千、無大君王、世世邑落、各有長帥。其言語戸句麗大同、時時小異。
漢初、燕亡人衞滿王朝鮮、時沃沮皆屬焉。
漢武帝元封二年、伐朝鮮、殺滿孫右渠、分其地爲四郡、以沃沮城爲玄菟郡。

衛満が漢人の国の箕子を滅ぼしたのではなく、
前漢武帝が衛満の孫の衛右渠を殺し その地を四郡に分けて、沃沮城を玄菟郡とした。
566マンセー名無しさん:2006/05/10(水) 11:21:20 ID:Elzox4uH
wai[扁水旁歳](ワイ)
南與辰韓、北與高句麗、沃沮接、東窮大海、今朝鮮之東皆其地也。戸二萬。
昔箕子既適朝鮮、作八條之教以教之、無門戸之閉而民不爲盜。
其後四十餘世、朝鮮侯準僭號稱王。陳勝等起、天下叛秦。
燕、齊、趙民避地朝鮮數萬口。燕人衞滿tui[鬼繞隹]結夷服、復來王之。
漢武帝伐滅朝鮮、分其地爲四郡。自是之後、胡漢稍別。
自單單大山領以西屬樂浪、自領以東七縣、都尉主之。
皆以wai[扁水旁歳]爲民。後省都尉、封其渠帥爲侯。
今不耐wai[扁水旁歳]皆其種也。漢末更屬句麗。

>南與辰韓、北與高句麗、沃沮接、東窮大海
>昔箕子既適朝鮮、作八條之教以教之・・・
>自單單大山領以西屬樂浪、自領以東七縣、都尉主之。

ワイの地に箕子がいた。北が高句麗、南が辰韓。日本海側の国。
單單大山の西が楽浪郡で その東7県がワイ族の酋長の土地だという。
だから箕子の国があったにせよ、その位置は半島南部の新羅(辰韓)でも
黄海側の百済でも平壌周辺(單單大山の西)でもない。
單單大山は(日本海側)太白山脈の太白山といわれている。だから百済ではない。
567マンセー名無しさん:2006/05/10(水) 11:22:02 ID:Elzox4uH
>其後四十餘世、朝鮮侯準僭號稱王。陳勝等起、天下叛秦。
>燕、齊、趙民避地朝鮮數萬口。
>燕人衞滿 tui[鬼繞隹]結 夷服、復來王之。

箕子の40餘世代の後に準というものが朝鮮の酋長(侯)から王を僭称した。
同じ時期に 陳勝が蜂起して秦に叛乱を起こした
蜂起の時代に 河北・山東・山西北部(燕、齊、趙)の數萬人が避難してきた。
そこに朝鮮王の準を 倒す話がないまま
それと別個に 燕人衞滿が夷服を着て辮髪を結って 彼が王に来て復古した。

つまり衛満は箕子を倒しもしないで 40余世代後に準が居ただけ。
前漢武帝の倒した衛満の孫の衛右渠と世代は同じとはいってない。

なぜ「衛満」が「準」を倒す話が無いかというと。支配している地域が違う。
準は「ワイ」で、衛満は「ヨクソ」だから。なのに、
どっちも「衛満」の名前を昔話に使っている。
のちに「ワイ」は「句麗(ヨクソ・高句麗・バク夷)」に属し従ったから
結果的に「ヨクソの衛満」が「ワイを支配」していた話が、後日に混入した。
かくして「準」が「衛満」に倒される事なく
「ワイは衛満」を王とした話が出来上がった。

ところが新羅の説だと「衛満の子孫の準」が
海を越えて辰韓に亡命してきて辰国を建てた事になっている。
そして辰韓は「衛満」から「準」の話を導き出し「辰国」の祖となる。

辰韓(新羅)説のように準は箕子の子孫でない説があるので
朝鮮にいた箕子は(殷のチュウ王の箕子と違い)架空の人物で
中国人に調子を合わせて作った話で辰韓デマ説だという事。

だから しょっぱなからウソで出来上がった国だという事。
中国の歴史が正しい=韓国の歴史書が正しい は この通りウソ。
568マンセー名無しさん:2006/05/10(水) 11:32:46 ID:Elzox4uH
>單單大山の西が楽浪郡で その東7県がワイ族の酋長の土地だという。

單單大山の東の7県(7つの国あるいは7つの村)は
都尉(漢王朝の東夷の村長之印を貰ったワイの酋長)の自領(ワイ族の地)

ワイ族の酋長はフジ(不而=不耐)といった。楽浪郡不而県を置いていた。

單單大山の西は、漢江流域で昔の名が帯水流域であり帯方縣が置かれていた。
戦前地図で言う滅悪山脈が北の区切りで さらに黄海沿いの北方の平壌あたりの山を
狼林山脈という。楽浪郡の「浪」は音が「狼」という。
「楽」は楽都縣の都にあたる意味で音が「洛」という。

>黄海側の百済でも平壌周辺(單單大山の西)でもない。

平壌あたりを樂浪郡朝鮮縣といった。
同じ土地を指すが 朝鮮縣(漢人縣)を、朝鮮国(胡族国)と別名で呼んだ。
569マンセー名無しさん:2006/05/10(水) 12:02:12 ID:Zqj9cynf
白村江(白江口・はくすきのえ)の戦いの頃(663年)は
帯方郡は百済国の領土であったが、
その数年前655年ごろに2代続きの女王の国の新羅国を
百済の豊が高麗(こうくり)の福と勿吉(まっかつ扶余)の隆を誘って
3カ国で攻めた。新羅の北界の30余城は占領され
660年ごろまでの数年間は3か国のものであった。

しかし唐が
百済の王都の熊津城(くまなりジョウ)を急襲し王を拉致し百済国を滅ぼすと、
熊津都督に唐の劉仁顔が、熊津都尉に扶余隆が任命された。
劉は帯方州刺史となり、
隆は帯方郡王として、渤海勿吉の扶余に移住定住された。
新羅は雉林州刺史とされ
質子(人質として王子)を唐に送る習慣を約束させられた。

帯水流域と百済は渤海人の国となり、形式上は新羅の一部であったが
時を経るごとに独立した存在となり渤海の属国であるように見られた。

安禄山の反乱の頃には渤海族が寧州(遼東半島)と海州(黄海道・平安道)に
勢力を張り 山東半島の登州を渤海族が入寇する(侵略する)事ようになった。

新羅末期に、新羅の王族と名乗るが金氏ではない弓氏の弓裔が独立し
帯水流域の一帯に泰封国を建国し、松岳(開城)に王都を置いた。

渤海国が契丹に倒されると国名を東丹国と改名され契丹も遼国と名乗った。
遼国の分国としての東丹国は大きくなり
帯水流域と旧百済への渤海人の移住が増え 東丹国の勢力範囲となった。
570マンセー名無しさん:2006/05/10(水) 12:03:07 ID:Zqj9cynf
渤海国が契丹に倒されると国名を東丹国と改名され契丹も遼国と名乗った。
遼国の分国としての東丹国は大きくなり
帯水流域と旧百済への渤海人の移住が増え 東丹国の勢力範囲となった。

弓裔を下克上した王建が摩震国を建て、新羅を倒し王位を禅譲させた。
東丹国(帯方郡・百済)と摩震国(新羅地域)の時代となった。

のち女真族の刀伊が新羅地域を侵略すると
帯水流域・百済地域は女真族の「金国の藩」として高麗と斉と呼ばれた。
蒙古(元国)の時に半島は斉国となり、渤海国=東丹国の地域を東真国と改名した。

この斉国の王の辛氏と
4大武臣の崔氏(チェし:チェりる)・林氏(イムし・イムぎょんおぷ)・
鄭氏(=全氏・チョンし)・李氏(イし・イそんげ)のうち
李が辛氏から王位を禅譲させ高麗王を名乗った。(前期李朝:明代)

秀吉の侵略後に満州が攻めてきて降伏した時に
朝鮮国王の名を貰い李氏朝鮮国と呼ばれるようになった。(後期李氏朝鮮:清代)
571マンセー名無しさん:2006/05/10(水) 12:08:05 ID:Zqj9cynf
中国史書での区分: 李氏の立場            →韓国の歴史改ざん捏造版
元代「金史」・斉国時代:  武臣の李氏        →高麗朝の武臣
明代「元史」・高麗王時代: 前期李氏王朝(前期李朝) →前期李氏朝鮮
清代「明史」・朝鮮国王時代:後期李氏朝鮮       →後期李氏朝鮮
572マンセー名無しさん:2006/05/10(水) 12:20:27 ID:Zqj9cynf
唐の京師(長安の都)
太原の河東(3つの節度使を兼任の安禄山 → 契丹族の遼国 雲州[燕雲16州])
幽州の河北(3つの節度使を兼任の安禄山 → 契丹族の遼国 燕州[燕雲16州])
営州の遼西(3つの節度使を兼任の安禄山 → 契丹族の遼国)
寧州の遼東(渤海マッカツ 山東半島の登州を襲撃 → 渤海族の東丹国)
海州の楽浪(渤海マッカツ 山東半島の登州を襲撃 → 渤海族の東丹国 西京)
帯方州の泰封(マッカツ扶余氏 → 渤海族の東丹国 南京)
雉林州の摩震(新羅の王子)
573マンセー名無しさん:2006/05/10(水) 12:28:39 ID:Zqj9cynf
都防禦使
  河南節度使 → 済南より登州の渤海族を討伐
准 淮南節度使 楚州城(新羅王子の漂流と留学学生等の飢餓)
        楊州城(天台宗4代座主?円仁 遣唐使ではあるが密入国)

唐      → 五大十国と宋の初期    → 宋の中期以降
節度使と牙軍 → 節度使と相軍 通判と禁軍 → 知府と禁軍(皇帝諮問の枢密院が動かす)

新羅・泰封・摩震・斉・高麗は 渤海・契丹・女真・蒙古の治世。
574マンセー名無しさん:2006/05/10(水) 12:35:54 ID:Zqj9cynf
× 五大十国
○ 五代十国

明代「元史」・高麗王時代_:前期李氏王朝(前期李朝) →前期李氏朝鮮
漢人王朝 3年1朝貢

清代「明史」・朝鮮国王時代:後期李氏朝鮮       →後期李氏朝鮮
満州王朝 1年4朝貢