韓国人は世界でいちばん優秀な民族である!!5

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657マンセー名無しさん
http://my.2ch2.net/occult/test/read.cgi?bbs=magic&key=1118067985&st=128&to=135

【李氏朝鮮】での想定される社会構成
組を監督する役所: 掌隷院(ちゃんれうぉん)両班(やんばん)の達官(たるぐぁん)
組の長老: 大家(てが)階級の契(げ)の任(ニム:長老[忠孝の対象・土地有力者・組長])
組の人足: 奴婢(のび)階級の?契(ちゲ[人民・人足・組員])

均役法(きゅんヨツぽぶ)を根拠に
ナラ(国)・みょん(面)のナリニム(?任・旦那)であるヤンバン(両班)が
マウル(邑)・い(里)でハイン(下人)のチゲ(?契)をノドン(労働)させるという課税で生活
チゲが行商という方法で労働した時に所得税として[鋳造権がない為に]中国銅銭で行商収入を納税

【 中国の藩鎮で中国の節度使が支配する属中国社会の中身 】
ヤンバン→換局←ヤンバン (政権争い: 西人→←東人分派の南人)
 ↓
郷戦(処遇改善要求の暴動[民乱・軍乱]・弥勒や真人をかたる世直し革命騒ぎ)
 ↑
ショゲツ(両班の師弟・妾腹[私生児]・試し腹の近親相姦の子)・
ノビ(奴婢)・ハイン(下人)・サンノム(常奴・常民)

倭奴(うえのむ)にはキョンポックン(景福宮)の造営で、のんびりアリラン歌う平和の国と あざむく。
実は 派閥負け組みのへの虐殺・反乱人民への拷問の阿鼻叫喚の国。
658マンセー名無しさん:2006/02/18(土) 23:52:33 ID:L69RHx57
・そもそもフビライを唆したのは高麗人の趙彜という人物である。
・元寇の時代に高麗の王世子・椹(後の忠烈王)もフビライを唆している。
・高麗軍は対馬、隠岐を攻撃したときに、男は殺害
女は集められて手の平に穴を開けられて縄を通され船縁に吊るし
そして200人の少年少女が「強制連行」され

http://www.geocities.jp/nobuo_shoudoshima/koreatext2.html

(5)倭寇
朝鮮の史料「世宗実録」に「倭人不過一二而本国之民仮著倭服成党作乱」
と「倭人は1、2に過ぎずして、本国の民、仮に倭服を着して党を成し乱を作す」

密貿易が横行したことと、元寇を通して
元寇時の元・高麗連合軍の対馬住民に対する暴虐への復讐として
倭寇が行われたという歴史的事実がある。元寇の時代に
高麗の王世子・椹は「惟んみるにかの日本
未だに聖化を蒙らず。故に詔を発して軍容を継耀せしめんとせば
戦艦兵糧まさに須いる所あらん。もし此事を以て臣に委ねなば」
「王師を小助せん」とフビライを唆しています。
そして『日蓮註画讃巻第五「蒙古來」篇』に
「二島百姓等 男はあるいは殺あるいは虜、女は一所に集め、手を徹
、舷に結付 虜の者は一人も害さざるなし。肥前国松浦党数百人伐虜さる。
この国の百姓男女等、壱岐・対馬の如し、」と

(6)朝鮮の国号
「李氏朝鮮」は「衛氏朝鮮」など国号が

http://www.geocities.jp/nobuo_shoudoshima/japantext2.html
659マンセー名無しさん:2006/02/19(日) 00:06:12 ID:AY8yURS0
貊−州胡(馬韓の西海の大島に住む・耽羅[済州島])
貊−扶余(高句麗[いにしえの真蕃、朝鮮胡国・句麗胡・下句麗・王倹朝鮮]・馬韓の祖)
貊−高句麗
貊−馬韓(加羅国・駒の国・慕韓貊済国・伯済国・久多良・辰王を戴く大柄の民族)
貊−弁辰(馬韓東界・任那・大柄で鬼神を祀り馬韓と違う言語の弁人)
穢−倭人(馬韓東界・任那・小柄で入れ墨の辰人と違う弁人と混在して住む民族)
穢−辰国(馬韓東界・秦韓斯廬国・志良岐・廬韓王・金真平王健牟羅城・加羅任那新羅城・
          小柄で入れ墨なく大海見える東浜で馬韓と違う言葉で中国の文物のマネ読みの民族)

樂浪郡襄平縣−玄菟郡高顯縣−玄菟郡上殷台縣〜下殷(扶余・延邊[間嶋])
樂浪郡西安平縣−_貊族__−玄菟郡高句驪縣−邑婁(粛慎・沿海洲)
樂浪郡朝鮮縣−__貊族__−玄菟郡西蓋馬縣−玄菟亭(沃阻・咸鏡道・渤海国南京)
帶方郡列口縣−帶方郡含資縣−_穢侯不而_−樂浪郡東施縣(臨屯郡)
帶方郡長岑縣−樂浪郡帶方縣−樂浪郡不而縣−なし(未踏地)[羅州−大邱−古寧[咸昌〜安東]]
樂浪郡シ文縣−樂浪郡樂都縣−帶方郡提奚縣−樂浪郡渾彌縣[弁樂奴國-辰韓冉奚國-辰韓軍彌國]
馬韓伯濟國_−馬韓古蒲國_−馬韓伴跛國_−樂浪郡屯有縣(加羅任那の新羅城[辰韓斯廬國])
帶方郡南新縣−馬韓大石索國−帶方郡海冥縣−樂浪郡遂城縣(崎離營)
(眞蕃郡)_−______−(弁辰狗邪國[狗邪韓国]−金官国[金海])
______−______−倭の對馬國
______−倭の末盧國
______−______−倭の伊都國([倭伊]都国・[淮]奴国・倭奴国)
______−倭の邪馬壹國
660マンセー名無しさん:2006/02/19(日) 00:09:39 ID:AY8yURS0
>404年 高句麗の南侵・王仁キシ渡来し習字の千字文一巻と論語十巻きを伝える(古事記・奈良の伝)
>510年 中国南朝・六朝梁国の周興嗣が習字の千字文を作詞する(遣唐使・平安仏教の伝)

明国皇帝の子孫(位:親王)
朝鮮国王(位:親王)仁祖(明朝の時の扱い、清朝太宗の時に三田渡で受降壇の扱いに下落)
日本国王(位:親王)源道義(日本名・地位:足利義満・征夷大将軍)
日本国王(位:郡王)平秀吉(日本名・地位:豊臣秀吉−木下藤吉郎・天下人−関白−太閤殿下)
琉球国王(位:郡王)尚豊王(清朝になって王冠が12の垂れのある宝石をふんだんに使った物)

>鉄砲伝来1543年
>ザビエルが日本へ1549年8月14日
>関が原戦1600年
>島原の乱1637年
>チポンユソル(芝峰類説1700年代・李朝書籍)に倭芥子(うぇケじゃ・唐辛子)が記載

・・・満州王朝(清国)ホンタイジ時代だと思うが・・・
・・・1636年?・朝鮮王仁祖が清朝太宗に対し三田渡の受降壇で三顧九叩礼?・・・
中国の属邦の中でも朝鮮の地位は最も低く、下国のなかの下国であった。
天朝の朝賀の席では、千官が赤色の礼服を着ていたのに対し
朝鮮の使臣だけは異色の丸首の衣である。
また、琉球の使臣は籠に乗って宮廷に入るのに対し
朝鮮の使臣は籠に乗ることを禁じられていたこと「渓陰漫筆」に書かれている。

夫朝鮮 狡黠多詐 利之所在 不顧信義 蓋穢貊之俗 天性固然(新井白石 「国書復号紀事」)
 朝鮮人つうのは狡くて人を騙す、利があれば信義なんか顧り見ない連中だ。
 しょせん、わい ばく なんつう野蛮人だし、天性としてこういう性格に凝り固まってる。

> ______サイパン陥落1944/07。
> 徴用令の朝鮮への適用開始1944/09。
> 結論サイパンに朝鮮人の徴用者などいない。(テレビのニュースで朝鮮人が謝罪と賠償金を要求)
661マンセー名無しさん:2006/02/19(日) 00:11:02 ID:AY8yURS0
倭王武・安東将軍・六国諸軍事・海北95国(任那)支配[中国史書の宋書]
加羅国王荷知[中国史書の南斉書] → 加羅国の荷知王(韓国の日王)
楽浪郡公新羅王金眞平[史書解説の通典]
倭より小徳阿輩台(聖徳太子)[中国史書の隋書]
倭の名が雅でないのを憎み日本と改名

加羅王 → 百済王 → 日王 という事なんでしょうか?
新羅王 → 高麗王 → 朝鮮王 ?ではないんですよね。

新羅の王族・弓裔(泰村王・後高句麗王)を下克上し
 松岳(開城)の豪族・王建が高麗王に。
  血が繋がってない。都邑も別。
  金城(慶州)→松岳(開城)。契丹(遼)に慶州の地名。
高麗王に迫って禅譲させた
 高麗の将軍・李成桂が朝鮮王(李氏朝鮮国王)に。
  血が繋がってない。都邑も別。
  開城→漢陽[初期](漢城[後期]→京城[日帝]→ソウル)。
李成桂の治める国の国名を「和寧」と「朝鮮」の2案を出し
 中国の明王朝から「朝鮮国」名を選んで貰った。
662マンセー名無しさん:2006/02/19(日) 00:12:12 ID:AY8yURS0
呉服(ごふく・くれはとり[呉服の機織り])
呉音・六朝の伊草畳(イグサたたみ)
六朝の劉宋国に倭王武が朝貢し安東将軍・六国諸軍事職(倭の五王)
遣隋使(聖徳太子(小徳阿輩台[聖徳なんとかヒト])・小野妹子)
遣唐使(大化の改新・中大兄皇子と藤原鎌足・蘇我氏滅亡)

------------------------------------------------------------
寺院建築が鮮卑族の北魏の雲崗石窟のように石造りの建築: 新羅

庶民や有力者が土盛りに横穴の洞(ドン)の住居: 高麗
(契丹に押され渤海人が大量移住し、女真族や蒙古族に荒らされ
 山間で採集し隠れて暮らす。桑や根類(生姜・人参・大根etc)を食べ 攻め込んで来た侵略者に
 焼き払われない雑草に見える焼畑の粟や高粱などを食べる)
セ+マウル(新しい村)運動で、洞(ドン)の住居を日本式民家に高度経済成長。

明朝(中国)軍の救援で中国式の城壁や建物を中国人が建設: 李氏朝鮮
(攻め込んで来た日本人の倭城の石垣・
 駐屯で日本人大工が日本式の屋敷建築が敵産で使用)

漢城府[ソウル]の街中が、藁葺きの庶民の家・王宮は中国式建築: 李朝末期
(伐採権をロシアが取得・禿山多し・イグサが栽培できない寒冷地)
663マンセー名無しさん:2006/02/19(日) 00:16:19 ID:AY8yURS0
建安中、公孫康(幽州刺史[州知事]や遼東郡太守[郡長]ほどの地方有力者・前漢〜三国志〜西晋)
 帯方郡太守・派遣将軍: 公孫模・張敞等

景初中、明帝(後漢〜西晋王朝?の皇帝) 海を越え二郡(帯方郡・楽浪郡)を定む
 楽浪郡太守: 鮮于嗣
 帯方郡太守: 劉斤(斤は[日斤]の一字)

 部従事: 呉林 楽浪郡は韓族の邑(韓国)を統治するが、特に辰韓八国を楽浪郡の直轄とした。
 帯方郡崎離營: 吏訳転じ異同あり 臣智激し韓忿り この帯方郡の軍営を韓族が攻撃

 楽浪郡太守: 劉茂 兵を興し韓を撃ち 遂に韓を滅ぼす(韓王は討たれ、韓国は滅んだ)
 帯方郡太守: 弓遵 韓を征伐中に戦死

李唐(遣唐使): 蘇将軍・劉将軍(高句麗[滅亡]・百済[滅亡]・新羅[討伐失敗・倭が白村江の戦])
                    北朝鮮: 釜山橋頭[南侵失敗・アメリカ軍の仁川上陸]

アーコ(アーく)阿哥: おにーさん
アーメイ(アーまい)阿毎(阿妹): おねーさん?(あま・天・尼・海人・天皇・倭王・日帝)
664マンセー名無しさん:2006/02/19(日) 00:24:51 ID:AY8yURS0
http://society3.2ch.net/test/read.cgi/kokusai/1132129596/472-486
 「泣く子は餅を一つ余計もらえる。」
朝鮮のことわざ
「川に落ちた犬は、棒で叩け。」
「姑への腹立ち紛れに犬の腹をける。」
「営門で頬を打たれ、家に帰って女房を殴る。」
「女は三日殴らないと狐になる。」
「梨の腐ったのは娘にやり、栗の腐ったのは嫁にやる。」
「母親を売って友達を買う。」
「弟の死は肥やし。」
「他人の牛が逃げ回るのは見ものだ。」
「他人の家の火事見物をしない君子はいない。」
「自分の食えない飯なら灰でも入れてやる。」
「人が自分にそむくなら、むしろ自分が先にそむいてやる。 」
「あんな奴は生まずにカボチャでも生んでおけば、煮て食べられたものを。」
「らい病患者の鼻の穴に差し込まれたにんにくの種もほじくって食べる。」
「家と女房は手入れ次第。」
「野生のまくわ瓜は、最初に独り占めした物が持ち主だ。」
「一緒に井戸を掘り、一人で飲む。」

 キリスト者
http://life7.2ch.net/test/read.cgi/psy/1138358911/361-395
665マンセー名無しさん:2006/02/19(日) 00:36:31 ID:bKUMR4jD
>>664
まさにことわざが朝鮮人の精神を忠実に表してるな。
今日、遺伝子の特番やってたが、やっぱりあれ見たら、朝鮮人特有の遺伝子がありそうだな。
666マンセー名無しさん:2006/02/19(日) 00:37:17 ID:MP3+APXN
陶磁器: 磁器は造れていない。墳墓にある磁器は中国からの輸入物である。
 陶器を「沙鉢(さバル)」陶器師を「沙器匠人(さギちゃんギン)」と呼ぶ。
 埴輪のように素焼きである。

ハングル: 1800年代前後から北京から西洋学と共に
 カトリック教が朝鮮入りし フランス人神父が
 マリアの祈りを書いて広めた頃から使い始めた。
 フランス人神父がハングル(大きい[ハング]字[うる])と命名したのである。
 キリスト教では聖書などで使われる
 古代ギリシア文字やヘブライ文字(ユダヤの文字)を書いた古写本や
 古文献の文字を活字と違い字が大きく書かれていたから「大字写本」と呼んでいた。
 つまりフランス人が「古い文字」を「大きい字」と呼んだのである。
 1800年ごろに日本に「諺文(おんもん)」という字が
 朝鮮にあると中国の広東・福州から日本の長崎に知られ 中国学問しか文化でない
 とした朝鮮に「朝鮮の国学」があると強弁する日本の学者があらわれた。
 対馬では日本の国学が盛んな頃に「アビル文字」という名で「ハングル」文字を
 描き込んだ古代青銅円盤鏡を持って日本を紹介していた。
 「アビル文字」を古代文字とは言うが「梵字」にそっくりで
 ツガル外三郡史・江戸の国学の秀真伝(ほつまづたえ)「神代文字」なみの
 捏造と思われる。

参考:
 朝鮮事情 東洋文庫 平凡社 ダレ神父(ダブリュイ主教[司教])著
 朝鮮の華夷思想 山川リブレット
 韓国の歴史 明石書店 (韓国国定教科書 高等学校編・通信大学編) 
 ほか関連HP
667マンセー名無しさん:2006/02/19(日) 00:41:46 ID:MP3+APXN
李朝は日本の明治維新後に、朝鮮女性が日本人と性的交渉をもつことを
国禁としている。もしその禁を破れば、本人は斬首刑に処せられ、
所轄の地方官吏たちも責任を問われて罷免された。それは主として、
釜山・草梁の倭館の日本人居留民たちを対象としてのものだった。
日朝修好条規が結ばれた翌年の1877年(明治10)ころの
李朝では、うち続いた凶作のために餓死者が出る状況のなか、
貧農の女たちが夜になると、ひそかに釜山・草梁の倭館を訪れていた。
食料を乞うため、日本人居留民を相手に春をひさいだのである。
それに応じた日本人の多くは船員や商人たちだったが、その結果、
数多くの女たちが逮捕され刑に処された。当時の日本の新聞が
その様子を次のように伝えている。

『東莱、釜山、水営の三役所から各長官が出張して
刑の執行を宣言する。女たちは荒縄で縛り上げられ、小さな白羽の矢で
耳の穴が刺し貫かれている。そして木枕に頭を乗せて仰向けに寝かせられ、
喉元に鉈(なた)のような刃物が当てられる。その上から
槌を打ち下ろして首を切り落とすのである。一人の女は刑場へ引き出されると、
静かに周囲を見渡し、「もはや餓死するしかなかった命を日本人のために
四、五十日長らえることができました、今日からやっと、これまでの
飢餓の苦しみから免れることができます」と言って涙を流したという』
(郵便報知新聞明治10年10月2日より要約)

なぜ朝鮮女性が日本人と性的交渉をもつことが、斬首刑をもって酬いなくては
ならないほどの大罪となるのか。それは日本人が侮蔑すべき倭賊であり、
蛮夷だからである。そのような夷族によって我が臣民女性が汚されてはならない
−−それがこの国禁の真意なのである。かつて問題となった「日本人売春ツアー
(キーセン観光)」についても、現在の「従軍慰安婦」についても、その反感の
質に「夷賊(日本人)による民族陵辱」という精神の次元が無意識に関与して
いることを否定できない。
668マンセー名無しさん:2006/02/19(日) 00:42:32 ID:MP3+APXN
江戸期の日朝関係:  対馬藩の宗氏の使節の日本人だけが
 釜山沖3〜4kmの島に常時住んでいた。
 草梁島の倭館(チョンりゃんド ゴ ウエがん)と呼ばれた。
 年一度は釜山鎮の富山浦(ぷサンぽ: 釜山港)に向かい
 日本との折衝で外交部がある「東莱城(とんネそん)」に挨拶に行った。
 朝鮮出兵中に豊臣秀吉の死後に
 家康が明王朝(中国)と終戦調整で決めた降伏の儀式のような挨拶である。
 富山浦では常時日本人が数十人から数百人が
 朝鮮側の行商(チゲ)組合の「莱商」を相手に商いをしていた。
 しかしこのような精神的な勝利であっても
 経済的には日本の豊富な物産を売る交易の為
 朝鮮側は売るものもなく出費しかなく赤字であった。
 朝鮮王が交代したり、日本の徳川将軍が交代した際は、国書を対馬島で交わし
 朝鮮人も日本人も互いの内地に踏み入る事は無かった。
 そういう協定を明王朝としていたのである。
 日本府や朝鮮通信史は歴史捏造である。
 仮に捏造するにせよ、東莱城府・日本通信史という命名が妥当である。
669マンセー名無しさん:2006/02/19(日) 00:44:12 ID:MP3+APXN
京畿道−漢城府(きょんギど−はんソンぷ)
 チョンゴル(鍋物)の内で補身湯(ぽシンたん)という犬肉鍋
             参鶏湯(さんゲたん)という朝鮮人参がダシの鍋

 嘗糞(しょうふん)という親孝行、親の看病で親のウンコ嘗め

 匙作法(さじさほう[日本語読み])というチョッカラ[箸]を使わない
  両班(やんバン)という朝鮮貴族の食事
 ( たいていが、麦飯・麦粥に、粉を豆腐型に固めたオカズに
  釜湯という釜の底のお焦げを潤かした湯を飲む[李氏朝鮮では、
  中国や日本への接待以外に、緑茶は喫茶は禁止され飲まれなかった。
   日本の料亭や高級割烹のように線香や抹香は焚かれない。
  李氏朝鮮時代は焼香も禁止だったのである(香徒契[ひゃんドげ]という
  弥勒仏が世間に革命を起こす。という政治ヤクザが焼香をしていた。
  弥勒仏を拝む彼らは朝鮮紅巾党(香徒)である。
  中国紅巾党から明王朝が出来上がった。
   契(げ)は朝鮮のヤクザの「組」「会」ほどの意味。
  両班の娘を拉致し集団レイプして身代金要求をしたり
  両班を殺害し土地屋敷に財産を奪取し占拠する事が たびたびあった。)])

 マッコリ(マッカルリ・朝鮮屠蘇・濁酒)朝鮮にはもともと度数の高いお酒は無い。

忠清南道−青陽郡(ちゅんチョンなむド−ちょんヤンぐん)
 ウェケジャ[倭芥子(唐辛子)]のトンチミ[漬物]で伝統食品
 キムチ(ハンウル食品)

全羅南道−羅州(ちょんラなむド−なジュ)
 びびんパ(ビビン飯)という石器の山菜飯

全羅南道−木浦(ちょんラなむド−もっポ)
 ホンタク(洪濁)という人糞漬けのホンオ(洪魚・ガンキエイ)の切り身
670マンセー名無しさん:2006/02/19(日) 00:45:28 ID:MP3+APXN
23代 1800−1834 純祖−−−(同世代)金渓大院君
             (翼宗)
24代 1834−1849 憲宗
25代 1849−1863 哲宗(金渓大院君の子)
26代 1863−1907 高宗(李太王[りタイおう→好太王=広開土王])

1839年の「己亥教獄」ではアンペールら三人のフランス人宣教師をはじめ二百余人を処刑
1846年の「丙午教獄」では金大建ら二十余人を処刑した
1866年の「丙寅邪獄」ではプルマーをはじめとする九人のフランス人宣教師と
     南鐘三ら数千人のカソリック教徒を逮捕、処刑した。また
1865年からの三年間 約八千余人のカソリック教徒を処刑という弾圧政策をとった
     片岡次雄の「李朝滅亡」によれば
この後の六年間 漢城府(ソウル)では千人以上のカソリック教徒が殺害され
全国では数万人の信徒が殺害もしくは収監された
(1861年発行「大東輿地図」近代地図−朝鮮全図の出版者
・金正浩[キムじょんホ]が刑死)

性理説[宇宙陰陽と男女子孫と事大主義(中華−小中華[中国−朝鮮] )]・衛正斥邪(儒学を守り[昌義]邪道を排斥[斥清・斥倭洋])・
礼学[長老[任:ニム] 旦那:なうりニム 坊ちゃん:とーりゃんニム お嬢様:あっしニム 兄:ひょんニム]・
譜学[族譜(家系図)と風水(縁起土葬)−秋夕(先祖供養)]・
千字文[漢字手習い]・童蒙先習[儒学要約・朝鮮略歴]・孝経[儒学漢籍]・小学[儒学漢籍]

★李朝 730万人(両班と師弟は、総人口の0.3%の約2万人に過ぎない)
両班(やんばん) 役人ポストがある
奴婢(のび)
 卒居奴婢
  常奴(さんのむ) 役人ポストがない(土地は持っている両班庶ゲツ・試し腹で育てられた師弟・
            邑(まうる)・面(なら)などの任[にむ(長老・ぬし・有力者)] )
  下人(はいん) チゲ(行商・保負商・荷背負い人夫・作業人足)・キーせん(妓生[接待婦]・アガシ[娼婦])
 外居奴婢 こサ(居士)・むーダン(巫檀[巫女])・ぺくチョン(白丁)・なむサだむ(男寺党)
671マンセー名無しさん:2006/02/19(日) 00:47:16 ID:MP3+APXN
メージュ(朝鮮の味噌玉[韓醤=はんジャン])というものがあるが
 日本の味噌と違って大豆を瓶に塩漬で醗酵させ
 その後 コチュ(倭芥子=唐辛子・秀吉の足軽が南蛮から持ち込んだ)を
 挟んで醗酵大豆を玉にし
 軒下に吊るして天日干しにしてつくる(作る時期があり 正月前後とされる)
  日本の名古屋−東海地方の味噌玉作りと似ている。
 唐辛子と共に文禄−慶長の役(朝鮮出兵)の時に日本から朝鮮に持ち込まれた。
  総督府支配以前に朝鮮に醤油は無い。
 かつて飯は 麦・高粱などで 米は余り食されなかった。
 北緯38度以北の北朝鮮では寒冷すぎて米が作れない。
 韓国ソウルでも氷点下35度になる事があったという。
 熱帯の米の植生と思われない。日本の北緯38度ぐらい(新潟〜仙台・
 北緯40度[秋田〜宮古])でも こうは寒くはない。