・そもそもフビライを唆したのは高麗人の趙彜という人物である。
・元寇の時代に高麗の王世子・椹(後の忠烈王)もフビライを唆している。
・高麗軍は対馬、隠岐を攻撃したときに、男は殺害
女は集められて手の平に穴を開けられて縄を通され船縁に吊るし
そして200人の少年少女が「強制連行」され
http://www.geocities.jp/nobuo_shoudoshima/koreatext2.html (5)倭寇
朝鮮の史料「世宗実録」に「倭人不過一二而本国之民仮著倭服成党作乱」
と「倭人は1、2に過ぎずして、本国の民、仮に倭服を着して党を成し乱を作す」
密貿易が横行したことと、元寇を通して
元寇時の元・高麗連合軍の対馬住民に対する暴虐への復讐として
倭寇が行われたという歴史的事実がある。元寇の時代に
高麗の王世子・椹は「惟んみるにかの日本
未だに聖化を蒙らず。故に詔を発して軍容を継耀せしめんとせば
戦艦兵糧まさに須いる所あらん。もし此事を以て臣に委ねなば」
「王師を小助せん」とフビライを唆しています。
そして『日蓮註画讃巻第五「蒙古來」篇』に
「二島百姓等 男はあるいは殺あるいは虜、女は一所に集め、手を徹
、舷に結付 虜の者は一人も害さざるなし。肥前国松浦党数百人伐虜さる。
この国の百姓男女等、壱岐・対馬の如し、」と
(6)朝鮮の国号
「李氏朝鮮」は「衛氏朝鮮」など国号が
http://www.geocities.jp/nobuo_shoudoshima/japantext2.html
陶磁器: 磁器は造れていない。墳墓にある磁器は中国からの輸入物である。
陶器を「沙鉢(さバル)」陶器師を「沙器匠人(さギちゃんギン)」と呼ぶ。
埴輪のように素焼きである。
ハングル: 1800年代前後から北京から西洋学と共に
カトリック教が朝鮮入りし フランス人神父が
マリアの祈りを書いて広めた頃から使い始めた。
フランス人神父がハングル(大きい[ハング]字[うる])と命名したのである。
キリスト教では聖書などで使われる
古代ギリシア文字やヘブライ文字(ユダヤの文字)を書いた古写本や
古文献の文字を活字と違い字が大きく書かれていたから「大字写本」と呼んでいた。
つまりフランス人が「古い文字」を「大きい字」と呼んだのである。
1800年ごろに日本に「諺文(おんもん)」という字が
朝鮮にあると中国の広東・福州から日本の長崎に知られ 中国学問しか文化でない
とした朝鮮に「朝鮮の国学」があると強弁する日本の学者があらわれた。
対馬では日本の国学が盛んな頃に「アビル文字」という名で「ハングル」文字を
描き込んだ古代青銅円盤鏡を持って日本を紹介していた。
「アビル文字」を古代文字とは言うが「梵字」にそっくりで
ツガル外三郡史・江戸の国学の秀真伝(ほつまづたえ)「神代文字」なみの
捏造と思われる。
参考:
朝鮮事情 東洋文庫 平凡社 シャルル・ダレ神父(ダブリュイ主教[司教])著
朝鮮の華夷思想 山川リブレット
韓国の歴史 明石書店 (韓国国定教科書 高等学校編・通信大学編)
ほか関連HP
応永の外寇(朝鮮名:対馬島征伐)
1419年。朝鮮は第4代世宗大王の時代。ただし軍の実権は親の太宗が握っていた。
倭寇の侵入に悩まされていた朝鮮は、倭寇の本拠地であった日本の対馬に
約1万7000の兵力を持って6月19日に巨済島から出航、翌20日に対馬に侵攻。
*対馬の人口は3万前後で推移しているので、戦闘要員は最大でも7000以下。
これは全島民動員しての数だから実際はもっと少ない。朝鮮軍は破竹の勢いで、
漁船129隻を拿捕、民家約2000戸に放火、首級114などの戦功を上げる。
(韓国側の朝鮮王朝実録の抄訳解説本から適当に抜き書きした数だから正確な数は知らん。)
しかし、対馬軍の伏兵により兵2500の大損害を出し硬直状態に陥り
宗貞盛と和平交渉を結び7月3日に撤退。
なお、室町幕府では元寇の再来か?と動揺したらしいが特に何もしないうちに終わっている。
*当初兵糧は65日分用意するつもりだったが
指揮官の李從茂(イ・ジョンモ)が懐に50日分の金額を着服。
兵糧を2週間分しか用意しなかったことの他
李從茂は己が傷つくのを恐れて和平交渉を締結、
さっさと引き揚げて褒美にありつき、朝鮮側の大勝利という歴史捏造のもととなる。
結局、この事件は、対馬宗氏が倭寇を取り締まる代わりに
朝鮮との独占貿易権を手にする事で決着する。
これ以降対馬・壱岐・五島列島の日本人主体の前期倭寇は減り、
中国人らが主体の後期倭寇の時代に入る。
『 明史 列伝 』
雲南土司三 緬旬(ビルマ・旬の日は田)・二宣慰司 干崖・宣撫 路江(路はサンズイ付き)
南旬(旬の日は田・ミャンマー?)・二宣慰司 亡市者(亡は草冠付き)
楽旬(旬の日は田)茶山 孟連(連は王偏付き)・即孟瞼(目偏でなくニク月)
里麻 紐元(糸偏でなく金偏・元の上の一が無い漢字) 東尚(尚は人偏付き)
瓦旬(旬の日は田・カレン族?)促瓦 散金 木邦・孟密安撫司附 孟養 車里
老過(過は手偏付き) 八百・・二宣慰司
外国一 朝鮮
外国二 安南(交趾省・北ベトナム[越南]・越は京族)
外国三 日本
外国四 琉球(沖縄) 呂宋(ルソン島・フィリピン)
合猫裏(ルソンに近い小島)・・・文郎馬神(???)
外国五 占城(チャムパー・南ベトナム・占城はチャム族の政権)・
賓童龍・眞蝋(蝋の虫偏はニク月・カンボジア「眞蝋風土記」)
進羅(台湾?・タイ・進むの唯のツクリは日冠付き) 爪哇(ジャワ)・・・
・・・三仏斉(ザーバジュ。スマトラ島の国・シュリーヴィジャヤ朝?)
外国六 淳泥(淳の亨は字のウ冠が索のような土の字・ブルネイ)・・・
・・・(バリ?)・・・ 和蘭(オランダ)
http://mjyoshi.hp.infoseek.co.jp/etc/manyo/Zavaju.html 中国正史の外国伝は読んでて面白いよね。宋書だかのローマ伝には
ローマの西に西王母山があったりコインには弥勒様が彫ってある
とか書いてあったりする。
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三才図会(明王朝時期の百科図鑑[1600年代])大雑把のイメージ
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「サハリン」はロシア語(羅禅語)が語源ではなく
満州系の黒竜江下流の現地人が樺太を「サハリャン・ウラ・アンガ・ハタ」
(黒竜江口の峰)と呼んだことから来ています
羅禅(愛軍江) 山靼(山韃靼・黒龍江河口−間宮海峡) 庫葉島(苦夷・北樺太)
蒙古__遼_女直(満州・沿海州・おらんかい[おらんけ])
山海関 朝鮮
北京 山東_
_
淮_ 東海(東支那海)
_
揚子江
南京 浙江(呉越) 日本
福建 琉球(小琉球−台湾[高山国])
広東
_ 南海(南支那海)
安南[北ベトナム・京族]−呂宋[ルソン島・タガログ語]
占城[南ベトナム・チャムパー国・チャム族]
瓦旬(カレン族?) 緬旬(ビルマ)
進羅(シャム・タイ) 眞蝋(カボチャ・カンボジア) 淳泥(ブルネイ・ボルネオ)
三仏斉(シュリービシャヤ・スマトラ) 爪哇(ジャガタラ・ジャワ)
和蘭(オランダ)
南蛮(スペイン・ポルトガル)
李舜臣の『乱中日記[乱中雑事?]』(東洋文庫 平凡社)に出典
『明史』巻三百二十 外国一 朝鮮 八二九八頁 −抜粋−
萬暦・・・二十年・・・七月・・・劉挺川兵,呉惟忠,駱尚志等南兵・・・
・・・二十四年・・・九月・・・
・・・五月・・・刑介・・・兵惟燗水戦,乃疏請募兵川,浙・・・
・・・及福建,呉淞水師,劉挺督川・・・督陳燐以廣兵,劉挺以川兵,ケ子龍以浙・・・
・・・為水陸四路・・・西路挺,水路燐・・・西路則行長,而行長水師・・・
・・・九月・・・劉挺進逼行長営・・・陳燐舟師協堵撃,毀倭船百余。
倭・・・築金海,固城・・・十月,董一元遣将四面攻城・・・
・・・忽営中火薬崩,烟焔張天。倭乗勢衝撃,固城倭亦至,兵遂大潰,奔還晋州。
帝聞,命斬二遊撃以徇,一元等各帯罪立功。・・・七月九日平秀吉死・・・
「(この敗戦の報告を)聞いた皇帝は(董一元の部下の)遊撃2人を
見せしめのため斬罪とし、一元等(の軍首脳)にも功を立てて
各々の罪をあがなうよう命じた」ということでは?
昏主(暗君)に何を言っても無駄か・・・。
遊撃:陸軍大佐ほどの高位の武官。
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乱中日記1〜3 李舜臣 東洋文庫 平凡社
・・・偽倭の首(敵将の首と称し土地の無実の民の首を斬り差し出す)
・・・と似た出来事や処置の事件か。。。。
李朝実録ほか
林慶業[イムぎょんオプ]将軍・字は英伯・号は孤松・(現在のソウルの一区画?)平沢の人
1592 壬辰倭乱(太閤秀吉の朝鮮出兵・文禄の役が始まる)
1593 (忠清道)忠州に生まれる
1618 武科(武班)
1624 李造の変の平定で、勲一等
1631 (満州)牛家庄を平定(漢人・孔明徳の反乱)
明王朝から總兵官・李朝から義州府尹と微事の官職(14年間)
1634 丙子虜乱(丙子胡乱)で『斥清派』として征伐に参加(白馬山城抗争)
1635 安州(平壌の北)で平安兵使
1636 江華島逃亡・南漢山城で45日1万4千で篭城・
三田渡[さんじょんど]の受降檀で清朝の満洲八旗20万に降伏
1638 清兵の(熱河)錦州征伐に参加(明王朝に内応内通)
1640 錦州陥落で内通が露見
逮捕護送の途上の金郊駅で逃げ、天宝山で姓名を変え僧侶になる
妻の李氏が奉天(瀋陽)に送られて自殺したと知らされ 明の(山東省)
登州の都督の黄竜と中軍の馬登紅ら(南京の福王・南軍)とともに戦う
清軍(北京の清帝・北軍)に敗戦し降伏し北京の牢獄に繋がれる
仁祖(朝鮮王)の懇請により朝鮮に送還され再び牢獄に繋がれる
1646 亡命入明の罪状にて(斥明派)金自テンに謀られ掠殺される(53歳)
時は1636年。
日本では寛永13年である。家光の時代だ。(島原の乱が起こりキリシタン一揆を弾圧・禁教)
朝鮮王朝では、仁祖が即位して14年目にあたる。檀紀では3972年。
中国では、明がまさに滅ぼうとする時期で、清は太宗(ホンタイジ・満洲蒙古連合)の時代である。
文禄慶長の役の後始末も一段落し、ほっとした朝鮮王朝であったが
ここに新たに勃興してきた清の太宗(ホンタイジ)が(20万の大軍で)攻め込んできた。
朝鮮の仁祖は基本的に親明であったが、清の攻撃をまともに受け、ソウルもあっさり陥落。
仁祖は、ソウルの南、現在のカンジュ郡にある南漢山城に籠城し、40日間抵抗を試みた。
しかし、ついに耐えきれなくなり、1637年、現在のソウル市松坡区三田洞で
空しく降伏(1万4千の朝鮮将兵とともに三田渡[サンじょんド]で受降)することになる。
その時に清の太宗が要求したのが、九叩三拝という屈辱的な礼だ。要するに(三田渡に
受降壇を創り)頭を地にこすりつけて、(血を流すほどの)土下座して謝ったのである。
それに飽き足らない太宗は、朝鮮王朝がこれを忘れないようにと、わざわざ
モンゴル語、満州語、漢語の碑文(三田渡受降碑)を作って、その場所に建てさせたのだ。
朝鮮と清(中国[全土が満洲王朝])が どの程度の従属関係だったか。
朝鮮が中国(満洲=女真[女直])からどれほど低い扱いを受けていたかを見ればわかる。
・朝鮮国王は清の皇帝によって任命される。
・朝鮮国内の事件は全て皇帝に報告しなければならない。
・朝鮮国王は清の使節をソウル城門まで出迎えなければならない。
・朝鮮国王の地位は、清国の廷臣よりも下。
・朝鮮政府には、貨幣の鋳造権すら与えられてない。
・朝鮮政府には清国への食糧、兵士提供の要求権もない。
・朝鮮は清国に細かく定められた貢品を出す以外に、毎年、牛3000頭、
馬3000頭、各地の美女3000人を選り抜いて貢がなければならない。
朝鮮国王が宗主国の清国皇帝に奉呈した貢文に気に入らない言葉が
一つあっただけで、朝鮮国王は銀1万両を罰金として払った上に、
年貢への見返りを3年間停止する処罰を受けている。
現在ソウルの城門のあった場所には「独立門」というものが建てられたが、
昔その場所には『迎恩門』という門があり、それは「朝鮮王が9回頭を
地面に叩きつけて擦りつけ、ひれ伏して清の使者を迎える」という
屈辱的な隷属の象徴の門だった。この迎恩門で『朝鮮の国王(鳳凰の青服)』が
土下座して出迎えたのは
中国の「王」ではなく中国の『使者(龍刺繍の黄衣の宦官)』である。
朝鮮はそれほどまでに国家として“下”にみられていたのだ。
この1000年に渡る奴隷のごとき低い扱いは、
彼ら朝鮮民族の『民族気質』に深刻な影響を与えることになる。
満州皇帝(大清国皇帝[明玉璽・元玉璽])の他民族使節や元首への接見と交易(朝貢)窓口
________________________日本の長崎に来るオランダ船
広東省−広洲 西洋人の受け入れ窓口______日本の長崎に来る広東船
福建省−福州 琉球の使節と商人の受け入れ窓口_日本の長崎に来る福建船
熱河省−承徳 モンゴルの大ラマ
直隷省−北京 チベットの大ラマ 通行ルートを厳密に指定
直隷省−北京 朝鮮王 通行ルートを厳密に指定
___________(大同法[李朝収税法]
_____________−平壌城[中国]・東莱城釜山鎮日本府史・済浦−富山浦−塩浦[日本])
_______________________日本の対馬が行く東莱城(釜山)への朝鮮通信船
_______________________日本の薩摩が行く琉球から出る南洋密貿易船
_______________________日本の長崎に来るカンボジア船
_______________________日本の松前の蛎崎氏のアイヌ謁見と
________________________千島列島で北前船の赤蝦夷交易(ロシア貿易)
李朝側の処罰と日本への要求(朝鮮人本国送還要求・李朝は極度の純血主義と鎖国貿易)
○朝鮮女性で倭人と交際した者は→ 死刑(ぢぢ登場の巻: 新政府日本人や
対馬藩士と売春した朝鮮女性をノミで打ち首・ノコギリで打ち首・・・)
○朝鮮国内の日本帰国が出来ない倭兵(日本人)→日本人狩りをし皮剥ぎで殺す(朝鮮事情)
○日本・中国(明王朝)通じ渡った朝鮮人→ 死刑(江戸初有馬氏の妾・
慶応大学福沢諭吉の金玉均ら・漢字真読の李朝実録−ハングルの林慶業将軍伝)
○日本に潜んでいた外国人→ 死刑(元寇の多賀城国府の手前の燕沢で高麗兵を打ち首・
宗門改めで焚刑−水責め凍死・戦時統制下の日章旗を掲げない外国人の収容と処刑)
呉服(ごふく・くれはとり[呉服の機織り])
呉音・六朝の伊草畳(イグサたたみ)
六朝の劉宋国に倭王武が朝貢し安東将軍・六国諸軍事職(倭の五王)
遣隋使(聖徳太子(小徳阿輩台[聖徳なんとかヒト])・小野妹子)
遣唐使(大化の改新・中大兄皇子と藤原鎌足・蘇我氏滅亡)
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寺院建築が鮮卑族の北魏の雲崗石窟のように石造りの建築: 新羅
庶民や有力者が土盛りに横穴の洞(ドン)の住居: 高麗
(契丹に押され渤海人が大量移住し、女真族や蒙古族に荒らされ
山間で採集し隠れて暮らす。桑や根類(生姜・人参・大根etc)を食べ 攻め込んで来た侵略者に
焼き払われない雑草に見える焼畑の粟や高粱などを食べる)
セ+マウル(新しい村)運動で、洞(ドン)の住居を日本式民家に高度経済成長。
明朝(中国)軍の救援で中国式の城壁や建物を中国人が建設: 李氏朝鮮
(攻め込んで来た日本人の倭城の石垣・
駐屯で日本人大工が日本式の屋敷建築が敵産で使用)
漢城府[ソウル]の街中が、藁葺きの庶民の家・王宮は中国式建築: 李朝末期
(伐採権をロシアが取得・禿山多し・イグサが栽培できない寒冷地)
>404年 高句麗の南侵・王仁キシ渡来し習字の千字文一巻と論語十巻きを伝える(古事記・奈良の伝)
>510年 中国南朝・六朝梁国の周興嗣が習字の千字文を作詞する(遣唐使・平安仏教の伝)
明国皇帝の子孫(位:親王)
朝鮮国王(位:親王)仁祖(明朝の時の扱い、清朝太宗の時に三田渡で受降壇の扱いに下落)
日本国王(位:親王)源道義(日本名・地位:足利義満・征夷大将軍)
日本国王(位:郡王)平秀吉(日本名・地位:豊臣秀吉−木下藤吉郎・天下人−関白−太閤殿下)
琉球国王(位:郡王)尚豊王(清朝になって王冠が12の垂れのある宝石をふんだんに使った物)
>鉄砲伝来1543年
>ザビエルが日本へ1549年8月14日
>関が原戦1600年
>島原の乱1637年
>チポンユソル(芝峰類説1700年代・李朝書籍)に倭芥子(うぇケじゃ・唐辛子)が記載
・・・満州王朝(清国)ホンタイジ時代だと思うが・・・
・・・1636年?・朝鮮王仁祖が清朝太宗に対し三田渡の受降壇で三顧九叩礼?・・・
中国の属邦の中でも朝鮮の地位は最も低く、下国のなかの下国であった。
天朝の朝賀の席では、千官が赤色の礼服を着ていたのに対し
朝鮮の使臣だけは異色の丸首の衣である。
また、琉球の使臣は籠に乗って宮廷に入るのに対し
朝鮮の使臣は籠に乗ることを禁じられていたこと「渓陰漫筆」に書かれている。
夫朝鮮 狡黠多詐 利之所在 不顧信義 蓋穢貊之俗 天性固然(新井白石 「国書復号紀事」)
朝鮮人つうのは狡くて人を騙す、利があれば信義なんか顧り見ない連中だ。
しょせん、わい ばく なんつう野蛮人だし、天性としてこういう性格に凝り固まってる。
> ______サイパン陥落1944/07。
> 徴用令の朝鮮への適用開始1944/09。
> 結論サイパンに朝鮮人の徴用者などいない。(テレビのニュースで朝鮮人が謝罪と賠償金を要求)
江戸期の日朝関係: 対馬藩の宗氏の使節の日本人だけが
釜山沖3〜4kmの島に常時住んでいた。
草梁島の倭館(チョンりゃんド ゴ ウエがん)と呼ばれた。
年一度は釜山鎮の富山浦(ぷサンぽ: 釜山港)に向かい
日本との折衝で外交部がある「東莱城(とんネそん)」に挨拶に行った。
朝鮮出兵中に豊臣秀吉の死後に
家康が明王朝(中国)と終戦調整で決めた降伏の儀式のような挨拶である。
富山浦では常時日本人が数十人から数百人が
朝鮮側の行商(チゲ)組合の「莱商」を相手に商いをしていた。
しかしこのような精神的な勝利であっても
経済的には日本の豊富な物産を売る交易の為
朝鮮側は売るものもなく出費しかなく赤字であった。
朝鮮王が交代したり、日本の徳川将軍が交代した際は、国書を対馬島で交わし
朝鮮人も日本人も互いの内地に踏み入る事は無かった。
そういう協定を明王朝としていたのである。
日本府や朝鮮通信史は歴史捏造である。
仮に捏造するにせよ、東莱城府・日本通信史という命名が妥当である。
参考:
朝鮮事情 東洋文庫 平凡社 ダレ神父(ダブリュイ主教[司教])著
朝鮮の華夷思想 山川リブレット
韓国の歴史 明石書店 (韓国国定教科書 高等学校編・通信大学編)
ほか関連HP