179 :
マンセー名無しさん:
180 :
マンセー名無しさん:2006/05/30(火) 02:50:41 ID:UhIM5GGU
>>179 >前漢を滅ぼした前漢の外戚だった新国の王莽は高句麗を討伐し高句麗王を下句麗侯として
>滅ぼした際にワイ侯は服属した、その時に前漢がワイ侯に与えた「ワイ王の印」か???
>ブキュウケンはワイ侯フジを服属させた。???
>しかしワイ侯フジが「ワイ王の印」を魏から貰った話は無い。
>ブキュウケンが討伐した時には既に玄菟郡の宝庫にあった「ワイ王の印」は
>尉キュウダイからケイやサンが王の数世代の間プヨの宝庫に眠っていた???
高句麗はその頃はまだ最初から高句麗侯であって「王莽が高句麗王から下句麗侯に格下げした」
というのは後漢書のミス。高の字を下の字にかえただけでもともと「侯」だ。王になるのは光武帝の頃。
それから穢王と穢侯はまったく別。もまえは混同してる。
「穢王之印」はBC126年に下賜されたものだが、後世の「不耐穢王」などとは別のもの。
(フジっていってるのは「不耐」のことだろう)。尉仇台(いきゅうだい)は二世紀くらいの人で
これも時代がちがう。
>後漢末期に公孫度が楽浪郡から楽浪国として自立し胡服(中国服でなく現地人服)
>をきて海東(遼東半島から朝鮮半島や満州や沿海州)に覇を張った。
衛満とごっちゃになってない?楽浪国は三国史記の電波だし。
>公孫度の時に楽浪郡を分割し帯水流域から南に帯方郡を分設し
>帯方郡を娘婿のプヨ王の尉キュウダイに与える。
帯方郡を分置したのは公孫度ではなく公孫康。
>ヨクソの地に燕亡人衛満王がいて孫の右渠が前漢武帝に討たれ玄菟郡を設置されるが
>ワイの地にヨクソの衛満が来て前漢武帝の2代前のジイサンの時代に王となった説話と
沃沮(よくそ)は衛満と直接は関係ない。なんでヨクソ、ヨクソといってるのかは不明だが?
181 :
マンセー名無しさん:2006/05/30(火) 05:48:23 ID:wvX+xO+a
@
>「王莽が高句麗王から下句麗侯に格下げした」というのは
>「穢王之印」はBC126年【前2世紀】に下賜されたものだが、
前漢武帝の設置郡県の「楽浪郡不而県」をもって「ワイ族の酋長「不耐」」を貶めて書いた。
矮小のワイで身体特徴が小柄だから「寸」チビをつけてやった。読みは当て字です。
A
>帯方郡を分置したのは公孫度ではなく公孫康。
晋書に書かれているのです。公孫度が父で、公孫康が子で、父子の設置です。
↓
帶方郡【公孫度置。統縣七、戸四千九百。】
三国志魏書 → 建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡
でしょうね出典は。
182 :
マンセー名無しさん:2006/05/30(火) 05:49:34 ID:wvX+xO+a
B
>沃沮(よくそ)は衛満と直接は関係ない。なんでヨクソ、ヨクソといってるのかは不明だが?
三国志魏書の東沃沮の条にあります。孫の右渠は出てくるのは沃沮と韓です。
ふつうは本拠地に孫子(まご、こ)を置いておくものですよね。
王倹城(平壌城)に孫がいないのは変な話です。高句麗と言葉が似るのにです。
漢初、燕の亡人衛満は朝鮮に王たり、時に沃沮皆これに属す。
漢武帝元封二年、朝鮮を伐ち、満孫右渠を殺し、その地を分けて四郡となし、
沃沮城を以って玄菟郡となす。後夷貊の侵すところとなり、
郡を句麗の西北に徒(うつ)す、今の所謂玄菟故府これなり。沃沮楽浪に還属す。
・・・
漢建武六年(後漢、光武帝)、辺郡を省き、都尉このゆえに罷す。
その後皆その県中の渠帥(高句麗語の村長を意味する)を以って
県候(大きい村落の酋長)となし、
不耐(不而・ワイ)・華麗(高麗・句麗)・沃沮諸県は皆、候国(酋長村落)をなす。
三国志魏書の夫餘の条で
漢末に、公孫度は海東に雄を張る、外夷を服(き)て威[をは]る
夫餘王の尉仇台は更なり遼東に屬(ぞく)す。時に句麗と鮮卑は彊(つよ)し
[公孫]度は二虜之間に在(あ)る夫餘を以(も)って宗女(自分の娘)を以って妻[とせしむ]。
>>181 文章の意味がいまいちつかめないのだが、
あなたは前漢の武帝の頃の満洲の穢君の話と
後漢の光武帝の頃の不耐穢の話をごっちゃにしてないか?
それと建安の頃は公孫度は死んでて公孫康の代になってるから
「父子の設置」とはいえない。単純に晋書がまちがってて
三国志が正しいってだけじゃないの?
>>182 なにをいってるのかわからないが、あなたは資料を誤読してない?
右渠はちゃんと王倹城(平壌)にいたし、その頃の沃沮は衛氏朝鮮に服属していたってだけ。
それと華麗ってのは楽浪東部都尉の属県であって、高句麗ではないよ。
所属した郡もちがうし位置もぜんぜんちがう。
184 :
マンセー名無しさん:2006/05/30(火) 17:28:55 ID:zQK4W0/D
晉武帝 咸寧中 馬韓王來朝 自是無聞。三韓蓋 爲百濟新羅 所呑并。
※魏明帝曹叡烈祖226年〜239年 ※晋武帝司馬炎世祖265年〜290年
_____東胡(烏丸・烏丸能臣の鮮卑)
____小水貊_遼陽縣__夫餘(『穢王之印』を持つ)_邑婁(古之肅愼・白山部靺鞨)
大水_西安平縣_華麗縣__高句驪縣(貊夷)(諸韓國臣智加賜邑君印綬A)
______海_朝鮮縣__蓋馬大山_東沃沮(漢初、燕亡人の衞滿王の朝鮮B)
_____大海_辰韓冉奚_辰韓軍彌_穢侯不而(樂浪郡不而縣B)
越海定二郡_海_馬韓___弁辰と辰_辰韓(いにしえの辰國C・言語戸句麗大同A)
______海_馬韓___倭韓___韓穢(屬帶方@・滅韓C)
_____小海
________倭伊都國(天皇→倭王[六朝]・征夷大将軍や天下人→日本國王[明朝])
@公孫模 張敞等 興兵 伐韓穢 倭韓遂 屬帶方
A帶方太守劉斤 樂浪太守鮮于嗣
B呉林 以樂浪 本統韓國、分割辰韓八國 以與樂浪
(辰韓冉奚國→帶方提奚縣[ゼンジ→テイジ]_辰韓軍彌國→樂浪渾彌縣)
(比定地仮説1:辰韓大田[テジョン?]_辰韓尚州)
(比定地仮説2:辰韓大邱[テグ?__]_辰韓安東)
B箕子すでに朝鮮に〔ゆ〕き八条の教を作り以ってこれを教え
C吏譯轉 有異同 臣智激 韓忿 攻帶方郡崎離營。時
〔帶方〕太守弓遵 樂浪太守劉茂 興兵伐之 遵戰死 二郡遂 滅韓。
D魏將 毋丘儉 討高麗 破之 奔沃沮。
故其人 雜有華夏 高麗百濟 之屬 兼有 沃沮〔不而〕韓〔淮〕之地。
185 :
マンセー名無しさん:2006/05/30(火) 17:31:50 ID:zQK4W0/D
盛強な2虜(2つの北虜=2つの北方異民族)の間のプヨ族
鮮卑−−−−プヨ族−−−−句麗=バク=高麗国
_______↑
遼東の公孫氏_↑_公孫氏はプヨ王に娘を嫁がせ、婿のプヨ王を動かす。
_______↓
プヨ兵を帯方郡に移動させ辺境防衛に使う。プヨは殉死の儀式あり昼夜関係なく歌い声絶えず。
プヨ族は死んだ人の霊に動かされ気が触れていているように記述されている。
★ムーダン(巫壇)のクッ(死霊祀・死霊祭)のようなものか? あるいは、その原型か?
帯方郡は、帯水流域とその周辺部。ようは現在の漢江(ハンガン)流域とその周辺部のこと。
現在の黄海道・京畿道・忠清道・江原道のこと。
唐→→高句麗←渤海マッカツ兵の「大そ栄」
____↑
___渤海マッカツ「扶余隆」
______→新羅「金法敏」王子を人質に出す・兵隊は高句麗遠征で出す・国は兵なくガラ空き
____↑
___倭国(白村江(はくすきのえ)の戦いで水軍が動かせない。白江口[漢]=白村江[和])
人質の証拠文書箇所 → 『舊唐書』東夷傳−新羅条
鴻臚寺奏・・・藩に還えらしめんと放つ・・・
186 :
マンセー名無しさん:2006/05/30(火) 17:32:38 ID:zQK4W0/D
【 晉書 】地理志上平州唐房玄齡等撰+『漢書・続漢書・三国志魏書』など
玄菟郡高句麗縣 玄菟郡望平縣 玄菟郡高顯縣
樂浪郡朝鮮縣 樂浪郡屯有縣 貊人高句驪(高句驪縣・華麗縣・西蓋馬縣・小水貊)
帶方郡列口縣 樂浪郡遂城縣 穢侯不而(不而縣・沃沮諸縣・東沃沮・夫餘)
帶方郡含資縣 帶方郡帶方縣 樂浪郡鏤方縣
帶方郡提奚縣 馬韓伯濟國 樂浪郡渾彌縣(辰韓冉奚國・辰韓軍彌國)
帶方郡長岑縣 馬韓古蒲國 樂浪郡駟望縣(辰韓斯廬國)
樂浪郡樂都縣 弁辰涜廬國 帶方郡海冥縣
帶方郡南新縣 倭王武海北九十五國(弁辰狗邪國を含む)樂都縣(弁樂奴國)
貊弓を使う句麗=クリ=樂浪郡華麗県=高麗国=高句麗王=下句麗侯=玄菟郡高句驪縣
↓
貊夷→東に→ヨクソ=沃沮(ヨクソに燕亡人の衞滿王で朝鮮)
↓南に↓東に→ワイ=穢(ワイ侯フジ・箕子の四十餘世が朝鮮侯の準)
馬韓→東界=弁辰→東浜→古辰国(辰韓・前秦に高句麗に従がい朝貢)
南に接す↓
−−−倭が半島にいる。韓やワイと一緒に討伐されて
海の南の向こう___燕亡人衞滿王_帯方郡役所に服属させられてしまった。
____↓
____倭人の島
187 :
マンセー名無しさん:2006/05/30(火) 17:33:55 ID:zQK4W0/D
貊弓を使うバク族を高句麗とか貊夷という。
バクの東にヨクソ(沃沮)の燕亡人の衞滿王という人がいて住むところを朝鮮の地と呼ぶ
ヨクソの南にワイ(穢)ワイ侯(酋長)にフジという名の人・
ワイには箕子の40余世代に朝鮮侯の準という人物がいた。
バク(高句麗)の南に馬韓。ワイの南に辰韓。
馬韓の東を馬韓東界と呼ぶ。馬韓東界を弁辰と呼ぶ。辰と弁別した弁人がいたから。
弁辰トクロ国の南に接して倭人がいる。この倭人は島の倭人でなく半島にいる倭人。
半島にいる倭人は韓やワイと一緒に討伐されて帯方郡役所に服属させられてしまった。
楽浪の大海の南に海を渡って倭人の島がある。
樂浪郡朝鮮縣(朝鮮国)→王倹城(平壌城・沙里院〜平壌)
帶方郡提奚縣(辰韓冉奚國)→(慶尚道大邱 or 忠清道大田)
樂浪郡渾彌縣(辰韓軍彌國)
樂浪郡駟望縣(辰韓斯廬國)→新羅國金城(慶尚道慶州・仏国寺)
帶方郡海冥縣(弁辰狗邪國)→朝鮮国東莱城富山浦?(慶尚道釜山港?)
樂浪郡樂都縣(弁樂奴國)→(全羅道羅州?)
樂浪郡不而縣(穢侯不而・都尉の穢侯が沃沮諸縣・玄菟郡西蓋馬縣・東沃沮・夫餘)
玄菟郡高句驪縣(貊人高句驪・小水貊・貊弓・句麗・樂浪郡華麗縣)
>>146 なんでお前がモテないかというと、
お前だからだ。
189 :
マンセー名無しさん:2006/05/30(火) 18:20:22 ID:LZfCx7/R
>前漢の武帝の頃の満洲の穢君の話と >後漢の光武帝の頃の不耐穢の話を
新の王莽の匈奴へ出兵の際に下句麗侯が兵の供出を拒否。
下句麗侯が、遼水やバイ水(鴨緑江)から蓋馬大山の山河の塞(僻地)を逃げ回る。
討ち取った時に高句麗王などと呼ぶな、こんなのは下句麗侯だと呼ぶ。
プヨ王がワイ王の印をもって帯方郡(ワイ族のいる帯水流域)の所有の根拠にしたと思う。
盛強の烏丸の能臣の鮮卑−−プヨ−−−−−−−−−−−−−ロウユウ
−−−−−遼水の小水−−−句麗−バイ水の渦巻流脈の上流−蓋馬大山−ヨクソ
遼水の大水−遼東−バイ水(鴨緑江)−−バク−−−塞(僻地)−ワイ
______(魏の将軍ブキュウケンで服属・ワイ族のフジ酋長・印綬)
________________帯方郡−ワイ−単単大山−ワイ
________________帯水(漢江・アリ水・アリラン)
3県は漢人の直轄で記録・ほか諸県は9つの東夷の内の幾つかの県侯(酋長)の侯国(侯県)。
>建安の頃は公孫度は死んでて >公孫康の代になってるから
父:公孫度(自称:平州牧?)
_↓
_−−−−−−−
_↓_____↓
子:公孫康__女−プヨ王の尉仇台(義父から:帯方郡?・百家済海
公孫康と尉仇台は義理の兄弟でシミン政策・[百家で海を渡る]→百済・仇台の廟)
>単純に晋書がまちがってて三国志が正しいってだけじゃないの?
西晋時代の陳寿が三国志時代の記事を収集し検討した結果だとは思うが。
190 :
マンセー名無しさん:2006/05/30(火) 18:22:01 ID:LZfCx7/R
あー。つまり、泥棒した印鑑で土地所有の言い訳を、歴史を後で取り繕うような
歴史書に世代や爵位や地名などのズレを作りながら、辻褄あわせで書き残した。
先に、自称する。
子の代や数代後の代で公認させる。
おじ甥のずれのある義理の兄弟が、爵位の僭称をする。
征服した領土の役所蔵にある役所印鑑を以前から持っていたかのように民衆に語る。
記事を書いていた歴史家が引っかかり、間違い伝承を書き残す。
辻褄の合わない部分は、照らし合わせや時代背景を読むと
どの民族が一番うそつきで誤魔化しきつく乱暴かがわかる。
tesuto
192 :
マンセー名無しさん:2006/05/30(火) 18:40:05 ID:LZfCx7/R
唐の将軍の劉仁軌や劉仁顔は、ハクスキノエの戦い(663?)の後に
唐の石碑の墓陵を築く(杜稜[稜の字が違うが、トショク?読み?])
トショク?は、書道家は知っている顔氏家廟石碑文?だかいう
先祖をたたえる詩文の石文である。
農事暦や廟の神札か戒名のようなものを祀るのに旧百済の民衆に与えた。
しかし新羅は石碑を領有の拡張の邪魔とし
破壊しまくり石碑を思い起こさせる書道を禁止し、橋を焼き払い
すぐに新羅にプヨと唐が仕返しに来ないように荒らしまくった。
それはプヨ氏が支配者で、高句麗(その当時ある渤海国)の向こうから渡って来た
百の家(百家争鳴だろうが、百姓(ひゃくせい・全部の姓名・全人民))をつれて
帯方郡の地に来たんだが、百家済海を略し、国の名を百済と呼ぶ事とした。
ところが、百済は馬韓伯済国の名もあるので、混乱する。
倭を改め日本はクダラと呼ぶ。羅州あたりを楽浪郡−楽都県とし
くだった地域の南海岸を、クダ羅と呼んだかもしれない(自分の仮説)。
そこは馬韓伯済国の周辺に相当し、百済とかコマイヌとしての狛済と書き
狛(こま)は熊(くま)で熊津(くまなり)という百済の王都の名となった。
更に馬韓古蒲国のあたりを任那(ミマナ)と称してはミマナの巨文県を置いて
海北95国を支配し、高麗国(高句麗)と倭の5王が
南朝の宋の水軍支援で戦った。と推定する(自分の仮説)。
193 :
マンセー名無しさん:2006/05/30(火) 18:41:11 ID:LZfCx7/R
>先祖をたたえる詩文の石文である。
先祖をたたえる詩文の石文である。書道の手本の拓本に用いる場合がある。
194 :
マンセー名無しさん:2006/05/30(火) 18:47:02 ID:LZfCx7/R
>倭を改め日本はクダラと呼ぶ。羅州あたりを楽浪郡−楽都県とし
というのは、楽都県→弁楽奴国となり三韓の弁辰の地域となったからである。
奴国のナコクと呼ばせ
羅州はナジュと呼ばせる。都→奴と貶めている。
当然、倭伊都国も、ワイ奴国から倭奴国となる。倭が帯方郡に出兵し高句麗と
戦った時に倭はチビであった。つまりワイ族と同じに見えた。
弁楽奴国の弁人は大柄で巨であってミマナ巨文県であった。チビかウドかの違いは
今だって女性の大柄か小柄かでわかる。
195 :
マンセー名無しさん:2006/05/30(火) 18:52:40 ID:LZfCx7/R
弁辰は韓ではないと思う。辰韓も韓でないと思う。
辰韓は古(いにしえ)の辰国だといい、体型が小柄で倭人に似るといい。
同じ弁辰に雑居する「倭人と同じ小柄の辰韓」と別の
「大柄で鬼神を祀るの」を辰と弁別し「弁」人と呼ぶ事とした。
つまり「馬韓」でもない。
>>186 馬韓の東界を弁辰と呼び更に大海(日本海)が見えるところを辰韓と呼んだ。
196 :
マンセー名無しさん:2006/05/30(火) 19:01:40 ID:LZfCx7/R
馬韓→東界=弁辰→東浜→古辰国(辰韓)
辰韓(弁辰・新羅)は、北朝前秦へ高句麗(百済王・馬韓人の辰王)に従がい朝貢)
高麗国(公孫氏の領土を占領)→百済王(プヨ王の尉仇台が祖)→新羅の民が従がう。
高麗国を唐の遠征参加で滅亡させる→百済滅亡するも渤海マッカツのプヨ氏の支配←新羅が唐の許可で攻める
百済にある唐の石碑を高句麗遠征(高麗国遠征)の帰りの新羅兵が壊して帰国。
渤海族が反撃に出る。もと帯方郡に渤海マッカツ人が大量に移住し流入する。
新羅滅亡の兆し。後三国へ。もと帯方郡地域が自立し泰封国に。
渤海国は契丹族に滅ぼされ、東丹国に改名され遼国(契丹族)に支配される。
197 :
マンセー名無しさん:2006/05/30(火) 19:05:51 ID:LZfCx7/R
ヨクソ(衛満王・孫の右渠が前漢武帝に討伐される)
にワイ(朝鮮侯の準→箕子40余世代後)が従がっていた。
↓
前漢武帝が東夷を征伐し、楽浪郡と玄菟郡など郡県を設置する。衛満の孫の右渠を討つ。
↓
高句麗が馬韓を従がえて「三国志の魏」や「西晋」に朝貢してきた。
↓ 三国志魏明帝ごろの遠征した将軍の母丘倹の兵に降参し、ワイ侯フジが従がう。(ワイ王の印?)
↓ 三国志魏明帝ごろの楽浪郡太守劉茂と帯方郡太守の2郡漢人兵が古代の韓を滅亡させる。
↓
高麗国(高句麗)
↓から百済が出てきた(之先 出自高麗国:これ先[祖] 高麗国より出[現])。
↓ 新羅(弁辰・辰韓)地域は
↓ 百済人(馬韓人)の王(辰王)が所領としている。
↓
北朝
「前秦」符堅に百済(馬韓だったし)と新羅(辰韓は秦韓かも。と自己紹介)が朝貢してきた。
↓
高麗国は遼東半島と遼河を支配した「宇文部・鮮卑族」の「後燕国」を滅ぼし覇を張る。
↓
百済(朝鮮侯準の「ワイ王の印」を持つプヨなので王を僭称とならない、プヨは尉仇台が王)
↓に新羅(燕人衛満に追われ韓王準が海を渡って逃げて来た)が従がっていた。
↓
百済(仇台の廟を持つ)の名は略称で、百家済海(百の家をしたがえ、海を渡ってきた)という説明。
↓
北朝は「拓跋部・鮮卑族」が建国した
後魏(北魏)孝文帝の遠征軍を大破し百済の滅亡を防ぐ。百済の大姓八族(沙氏)。
↓
白村江(白江口・現在の錦江の河口)の戦いの前の百済豪族の反乱指導者(沙 相如)
百済王族はプヨではなく尉仇台からみて 尉氏(イ氏→読み同じ、李氏[イ氏])だが
この頃は宋書・梁書・隋書などから 余氏(イホ氏)となっていた。プヨ名は唐の書物から。
198 :
マンセー名無しさん:2006/05/30(火) 19:06:54 ID:LZfCx7/R
曹魏−楽浪郡太守−劉茂 古代の東夷の韓を滅ぼす。
六朝−南朝−宋国−劉裕が太祖の国 倭に任那の支配を認める。
李唐−楽浪郡遠征−劉仁軌・劉仁顔 百済を滅ぼす。渤海マッカツ族のプヨ一族に支配させる。
劉: 大きい鎌[辞典]
鎌: 小さい鎌[辞典]
藤原鎌足(白村江=白江口=錦江河口で降伏)[とある歴史書]
中大兄皇子(那下の大江、楽浪郡楽都県
=弁楽奴国(羅州:ナじゅ)
=奴国=なこく=那国
なか=那下=那国の下=下の羅
=くだラ=久多良
=百済・百済の大江=白村江[はくすきのえ])
下羅=くだラ・
洛は楽で、都は奴=な=那=羅で、弁人の事[魏書・後漢書ほか]
楽浪郡の楽は洛の音、浪は狼の音[続漢書(後漢書)列伝 郡國]
199 :
マンセー名無しさん:2006/05/30(火) 19:07:29 ID:LZfCx7/R
『勿吉』=靺鞨7大部族: 黒水・安車骨・伯咄・拂涅・號室・粟末(渤海)・白山
__________黒水部(女真)
_____安車骨部_
__________伯咄部__拂涅部__號室部
__________粟末部(渤海國『渤海郡王』靺鞨7部族)
遼河_海_高麗國__渤海靺鞨_白山部(肅愼氏)
_____海____渤海靺鞨_渤海靺鞨
_____海_帯方郡の新羅國_渤海靺鞨(『帯方郡王』靺鞨夫餘氏)
越州_海_百濟國__任那=斉_新羅國=摩震國
___海_任那=斉_任那=斉_新羅國(『楽浪郡公→郡王』新羅は靺鞨と同盟)
_____海
_____倭國(倭國王→天皇 ・征夷大将軍や天下人→日本國王)
--------------------------------------------------------------------------------
『梁書』諸夷傳(東夷条)唐姚思廉撰
_______文身國→大漢國(言語異)→東二萬餘里→扶桑國(沙門慧深 來至 荊州)
____倭國_↑東北方向
____↓
四千餘里・船行可一年
__南有↓
____侏儒國
__又南↓
又西南_黒齒國
_↓←←←西南萬里
裸國(海人)
200 :
マンセー名無しさん:2006/05/30(火) 19:09:31 ID:LZfCx7/R
ヨクソ(燕亡人衛満王朝鮮)
↓ =高句麗(バク・クリ)
↓
ワイ(朝鮮侯準・朝鮮王准(じゅん)は淮(わい))
↓ =百済(久多良[和]・
↓ 扶余[漢]→ワイ王の印を持つ、なぜかプヨ王の印ではないプヨ族なのに・
↓ しかもワイ侯フジ(不而)は、扶余族ではない別種のワイ族である・
↓ ワイの北隣接はヨクソ・南隣接は辰韓なので明らかに別種族
↓ 日本はコマ(駒)と呼び騎馬を日本に渡来させた事になっている[戦後の学説]
↓ 高句麗・高麗・狛犬をコマとしたり、海の向こうとしてカラ・韓・唐と呼んだ)
↓
辰韓(韓王準)
=新羅(志良岐)
これは実は、朝貢で見かけた順番
▲北朝の後魏(北魏)孝文帝の半島遠征軍を大破し百済の滅亡を救ったのは
「沙氏・解氏・木氏・賛氏」で ほか4姓名を加え、百済の大姓八族といわれた。
▲白村江の戦いの以前の連年は戦争続きで、連合を組んで、新羅を攻めていた。
高麗(高句麗太子・福信【暗殺を百済の僧が画策し成功・倭の人質だったという説】)・
百済(大姓八族の沙相如【戦死・倭の人質から帰った王の豊を高句麗に亡命させる】)・
マッカツ(マッカツ扶余氏=渤海マッカツ人=虜義慈【毒殺を唐がした疑い・子を即位させる】)・
辰歯(黒歯常之?【降伏し唐が安堵する】)
の4カ国である。
百済は、高麗國(高句麗)の分派。新羅は、百済の分派。
百済大姓八族:沙氏・木氏・解氏・賛氏(姦氏・力氏≒力が三つ)・
燕氏・國氏(国氏)・眞氏(貞氏≒真氏)・
白氏(草かんむりに白あし・白氏≒朴氏≒昔氏→対←今氏≒金氏)
201 :
マンセー名無しさん:2006/05/30(火) 19:10:21 ID:LZfCx7/R
『近世韃靼と中世靺鞨と古代楽浪郡』
(北緯53度15分で周囲が海なので島と間宮林蔵が確認)
吉里迷[漢語]=ギリヤーク=黒水靺鞨=黒龍江=サハリャン[満州語]
ウィルタ=オロッコ 赫哲=ホーチォ=ホジェン=ナナイ
赫哲 間宮海峡(韃靼海峡・ラッカ岬-北緯51度55分に続き53度も樺太)
鄂倫春 骨嵬(クヴェイ[満]=クリール[露]=苦夷[漢]=蝦夷[和])
邑婁山靼 宗谷海峡(ラペルーズ海峡)鄂倫春=オロチョン
渤海靺鞨 北海道(蝦夷=あいの)鄂温克=オウンク=エヴェンキ
白山靺鞨 津軽海峡
扶餘沃沮 本州
雉林州−靺鞨海−本州
朝鮮海峡 本州(日本国)
対馬海峡 本州
壱岐海峡・関門海峡
五島列島・九州 豊後水道 四国
舟山列島 天草・阿蘇
薩摩
奄美
琉球=沖縄(北緯30度以南の西南諸島[米国が終戦直後に歴史名を認めない])
202 :
マンセー名無しさん:2006/05/30(火) 19:12:05 ID:LZfCx7/R
慕容部鮮卑「東胡−烏丸の能臣」−渤海国(渤海マッカツ・沿海州テチューヘ)
寧州「遼−後燕−宇文部」−雉州「プヨ−百家済海」−ロウユウ
−−−小水−高麗「句麗」−庵水
大水−−−−−−バク夷−−蓋馬大山−ヨクソ(高句麗・衛満の孫は右渠・衛満王−燕亡人−朝鮮)
林州「朝鮮国」−狼林山脈−渤海マッカツ・プヨ(東丹国・東真国)
海州「高麗藩−泰封国」−−単単大山−ワイ(プヨがワイ王の印・ワイ侯フジ・朝鮮侯準−箕子40余世)
帯方州「プヨ」−秋風嶺−−−−−−−辰韓
斉藩「百済」−−小白山脈−洛東江−−摩震国(新羅・雉林州刺史(プヨで狼林))
半島は、山間地が原住民。平野部が中国人と、後の歴史で流入してきた
高句麗(バク弓を持つバク族・別名がクリ族)の分派の「扶余(百済)」とか
百済の分派の「新羅」という事になっている。
203 :
マンセー名無しさん:2006/05/30(火) 19:13:06 ID:LZfCx7/R
『舊唐書』東夷傳−新羅条 鴻臚寺奏:新羅國告哀、質子及年滿合 歸國學生等 共一百五人、並放還。
お寺からの天子様へのお願い: 新羅が哀願して告げてきまするに 人質の王子および年期が満了の
放還藩、賜物遣之
藩に還えらしめんと放つ・・・
『通典』百濟条 其舊地没 於新羅靺鞨夫餘氏 君長遂 絶。
→新羅と靺鞨夫餘氏に於いて その〔百濟の〕旧地は没収のこと〔百濟の大姓八族の〕君長は遂に 絶滅せり。
>>200 唐の京師(長安の都)
太原の河東(3つの節度使を兼任の安禄山 → 契丹族の遼国 雲州[燕雲16州]雲崗石窟)
幽州の河北(3つの節度使を兼任の安禄山 → 契丹族の遼国 燕州[燕雲16州]燕京=北京)
営州の遼西(3つの節度使を兼任の安禄山 → 契丹族の遼国 営州・柳城・隋の煬帝の高麗国遠征)
寧州の遼東(渤海マッカツ 山東半島の登州を襲撃 → 渤海族の東丹国 遼寧省 後燕国=宇文部)
海州の楽浪(渤海マッカツ 山東半島の登州を襲撃 → 渤海族の東丹国 西京=平壌・朝鮮縣)
帯方州の泰封(マッカツ扶余氏 → 渤海族の東丹国 南京=楊州・漢山城)
雉林州の摩震(真蕃郡と辰国・質子で還藩・新羅の王子)
「史書」編纂当時の名称・時代:李氏の立場___(異説__)→韓国の歴史改ざん捏造版
元代「金史」・斉国の時代__:武臣の李氏___(摩震国_)→高麗朝の武臣 王妃・斉国大長公主
明代「元史」・高麗王の時代_:王の李氏____(前期李朝)→前期李氏朝鮮国 3年1朝貢
清代「明史」・朝鮮国王の時代:朝鮮国の李氏は王(後期李朝)→後期李氏朝鮮国 1年4朝貢
204 :
マンセー名無しさん:2006/05/30(火) 19:14:45 ID:LZfCx7/R
★900年代(600年代から400年間)
契丹国−−−−−−−−−−−−−渤海国
契丹国−−−−−−−−−−渤海国
−−−−−−契丹国−−−−−−−
−−−−−−−−契丹国−−蓋馬大山−渤海国
渤海人の支配−−狼林山脈−渤海国
泰封国−摩震国−−−−−−単単大山−渤海国(渤海マッカツ人)
渤海人の支配−−秋風嶺−−−−−−−新羅人支配
渤海人の支配−−小白山脈−洛東江−−摩震国(新羅人)
★1100年代(900年代から300年間)
女真国−−−−−−−−−−−−−東丹国(女真族の支配)
女真国−−−−−−−−−−東丹国
−−−−−−女真国−−−−−−−
−−−−−−−−女真国−−蓋馬大山−東丹国
女真族の支配−−狼林山脈−東丹国
金国高麗藩−−−−−−−−単単大山−東丹国(女真族の支配)
女真族の支配−−秋風嶺−−−−−−−女真族刀伊の支配
金国斉藩−−−−小白山脈−洛東江−−摩震国(女真族刀伊の支配)
205 :
マンセー名無しさん:2006/05/30(火) 19:17:06 ID:LZfCx7/R
★1200年代(1100年代から200年間)
蒙古国−−−−−−−−−−−−−東真国(蒙古族の支配)
蒙古国−−−−−−−−−−東真国
−−−−−−蒙古国−−−−−−−
−−−−−−−−蒙古国−−蓋馬大山−東真国
蒙古族の支配−−狼林山脈−東真国
元国内の斉国−−−−−−−単単大山−東真国(蒙古族の支配)
元国内の斉国−−秋風嶺−−−−−−−東真国(蒙古族の支配)
斉国−−−小白山脈−斉国−洛東江−−摩震国(東真国・蒙古族の支配)
★1392年(高麗王の辛氏・武臣の李成桂が高麗王になる=李朝の太祖)
北元国「蒙古族の支配」−−−−−−おらんけ
北元国−−−−−−−−−−おらんけ(女真族・野蛮地)
−−−−−−北元国−−−−−−−
威化島回軍−−−チェリルを流刑(四郡)−蓋馬大山−高麗王の辛氏を流刑(六鎮)
北元国−−−−−狼林山脈−−−−−−−−おらんけ
高麗王の辛氏−−帯方の林氏−単単大山−−おらんけ
晋州官奴の全氏−秋風嶺−−−−−−−−−慶尚道の安東
全羅道の李氏−−小白山脈−晋州城の鄭氏−東莱城(摩震国)
______(斉浦=馬山・富山浦=釜山=プサン・塩浦=尉山=ウルサン)
206 :
マンセー名無しさん:2006/05/30(火) 19:25:09 ID:LZfCx7/R
ミマナ:任那、任はニムと韓国語で読むが、ニムは長老や上長の事である。
那がニム、那はナ、ナコク(奴国)かナジュ(羅州)か楽都県か。あるいは倭奴国か?
楽都県−−楽は音が洛で都。(弁楽奴国)
狼林山脈−浪は音が狼。(朝鮮県・朝鮮国)
あわせて楽浪郡(ナクナンぐん?)である。
新の王莽は朝鮮県から楽鮮郡に呼びかえた。
仮想敵国のつもりが引き返せなくなって責めているのか・・・究極の電波だな。
自らの歴史も無くなって歴史上の存在すらない国になってしまうぞ・・。
208 :
マンセー名無しさん:2006/05/30(火) 19:28:59 ID:LZfCx7/R
なりニム(閣下)ちゃんグン(将軍)
209 :
マンセー名無しさん:2006/05/30(火) 19:31:56 ID:LZfCx7/R
なうりニム(旦那様・ご主人様)
とーりゃんニム(お坊ちゃま・棟梁さま?)
あっしニム(お嬢さま)
ひょんニム(お兄さま・兄上)
そんせんニム(貴方さま)
・・・
ニム(任)は目上の者の意味。
210 :
マンセー名無しさん:2006/05/30(火) 19:37:30 ID:LZfCx7/R
李舜臣あおるぐらいなら16代仁祖王と 林慶業(イムぎょんオプ)将軍(ちゃんぐん)とか
初代の李成桂(イそんゲ)に対する 崔瑩(チェりる)将軍(ちゃんぐん)とか
ムーダンなら 出てくるんだよね。あとオカシイので10代だかの燕山君(ヨンサングン)とか。
なんで この2将軍の話が朝鮮独特で出てこないのかね。。。
儒教なら 高麗後期のアンコウ(安向?[王ヘンに向だった と思った])の
性理説の国学(本家の朱子学と違う風の解釈をだしている)。すごく
文化史の紹介が間抜けというか 中身ないよね。なんで。
>林慶業(イムぎょんオプ)
朝鮮が中国に忠義であり、外国の風(満州の風)に従がいたくない
階級は奴婢かもしれないが、朝鮮の抵抗の意思を示したもの。
>崔瑩(チェりる)
儒教の強引な現実主義や即物主義に対して
仏教の因果応報や善徳や功徳を抵抗して説いたもの。
(73歳で流刑地で騙され死刑となるが
、遺骸を埋めても我が塚は赤肌のまま、草という煩悩は生えない
、私は無実で殺された証拠と言い残す、はたして草がはえず赤い塚のままであった
、ムーダンの巫女はチェリル将軍は無実でなくなった李王家は不幸に生きると呪った)
日本の仏教に対抗なら、この チェリル将軍の仏教思想か
新羅の華厳経や三論の仏教思想を 出してくればいい。 それを しないでしょう。
だいたい 李舜臣は、焼香して日本の破滅を願って呪ったが
鉄砲の流れ弾で戦死したでしょう。 香道に似つかわしくないし
茶道の席で話しにのぼらせられない内容ですよね。
香を聞くたびに、舜臣さまは流れ弾で・・・。はミジメですよね。
211 :
マンセー名無しさん:2006/05/30(火) 19:38:06 ID:LZfCx7/R
【李氏朝鮮】での想定される社会構成
組を監督する役所:
掌隷院(ちゃんれうぉん)両班(やんばん)の達官(たるぐぁん)
組の長老:
大家(てが)階級の契(げ)の任(ニム:長老[忠孝の対象・土地有力者・組長])
組の人足:
奴婢(のび)階級の?契(ちゲ[人民・人足・組員])
均役法(きゅんヨツぽぶ)を根拠に
ナラ(国)・みょん(面)の
ナリニム(?任・旦那)であるヤンバン(両班)が
マウル(邑)・どん(洞)で
ハイン(下人)のチゲ(?契)をノドン(労働)させるという課税で生活
チゲが行商という方法で労働した時に
所得税として[鋳造権がない為に]中国銅銭で行商収入を納税
【 中国の藩鎮で中国の節度使が支配する属中国社会の中身 】
ヤンバン→換局←ヤンバン (政権争い: 西人[京畿]→←東人[慶尚]分派の南人)
↓
郷戦(処遇改善要求の暴動[民乱・軍乱]・弥勒[革命仏]や真人[救世主]をかたる世直し革命騒ぎ)
↑
ショゲツ(両班の師弟・妾腹[私生児]・試し腹の近親相姦の子[ただし血筋は正しい])・
ノビ(奴婢)・ハイン(下人)・サンノム(常奴・常民)
倭奴(うえのむ)にはキョンポックン(景福宮)の造営で
のんびりアリラン歌う平和の国と あざむく。
実は 派閥負け組みのへの虐殺・反乱人民への拷問の阿鼻叫喚の国