『漢書』 卷二十八下地理志第八下(抄) 幽州屬
玄菟郡、武帝元封四年開。莽の曰く「下句驪」なり。幽州に属す。この郡は3県ある。
高句驪県・上殷台県・西蓋馬県。
樂浪郡、武帝元封三年開。幽州に属す。この郡は25県ある。
朝鮮県・nan[言○]邯県・[シ貝]水県・含資県・黏[虫單]県・
遂成県,増地県,帶方県,駟望県,海冥県・列口県,長岑県,
屯有県,昭明県,鏤方県,提奚県,渾彌県,呑列県・分黎山県・東[目施]県・
不而県・蠶台県・華麗県,邪頭昧県,前莫県,夫租県。
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『後漢書(續漢書)』郡國志五(幽州刺史部) 晉 司馬彪撰【梁 劉昭註】
玄菟郡【武帝置。[各隹]陽東北四千里。六城、戸一千五百九十四、口四萬三千一百六十三。】
高句驪 遼山、遼水出。【山海經曰:「遼水出白平東。」郭璞曰:「出塞外衛白平山。遼山、小遼水所出。」】
西蓋馬
上殷台 高顯故屬遼東。候城故屬遼東。遼陽故屬遼東。【東觀書安帝即位之年、分三縣來屬。】
樂浪郡【武帝置。[各隹]陽東北五千里。十八城、戸六萬一千四百九十二、口二十五萬七千五十。】
朝鮮 [言冉]邯 [シ貝]水 含資 占蝉 遂城 搨n 帶方 駟望 海冥
列口【郭璞注山海經曰:「列、水名。列水在遼東。」】
長岑 屯有 昭明 鏤方 提奚 渾彌 樂都
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『晋書』巻十四 志第四 地理上 平州
平州。禹貢の時は冀州,周の時は幽州,漢の時は右北平郡。9種類の東夷が従った。
昌黎、遼東、玄菟、帶方、樂浪の5郡國が平州。26ヶ県。
昌黎郡。2県:昌黎県・賓徒県
遼東國。8県:襄平県・[シ文]県・居就県・樂就県・安市県・西安平県・新昌県・力城県
樂浪郡。6県:朝鮮県・屯有県・渾彌県・遂城県・鏤方県・駟望県
玄菟郡。3県:高句麗県・望平県・高顯県
帶方郡。7県:帶方県・列口県・南新県・長岑県・提奚県・含資県・海冥県
玄菟郡、武帝元封四年開。高句驪、莽曰下句驪。屬幽州。
【應劭曰:「故眞番、朝鮮胡國。」】戸四萬五千六、口二十二萬一千八百四十五。
縣三:高句驪。遼山、遼水所出、西南至遼隊入大遼水。又有南蘇水。西北經塞外。
【應劭曰:「故句驪胡。」】遼山、遼水出。【山海經曰:「遼水出白平東。」
郭璞曰:「出塞外衛白平山。遼山、小遼水所出。」】
樂浪郡、武帝元封三年開。莽曰樂鮮。屬幽州。
【應劭曰:「故朝鮮國也。」師古曰:「樂音洛。浪音狼。」】
戸六萬二千八百一十二、口四十萬六千七百四十八。有雲seu[扁章旁右郊]。
縣二十五:朝鮮【應劭曰:「武王封箕子於朝鮮。」】【周封箕子地。】
建安中、公孫康(幽州刺史[州知事]や遼東郡太守[郡長]ほどの地方有力者・前漢〜三国志〜西晋)
帯方郡太守・派遣将軍: 公孫模・張敞等
景初中、明帝(後漢[AD57-75]〜西晋王朝?の皇帝) 海を越え二郡(帯方郡・楽浪郡)を定む
楽浪郡太守: 鮮于嗣
帯方郡太守: 劉斤(斤は[日斤]の一字)
部従事: 呉林 楽浪郡は韓族の邑(韓国)を統治するが、特に辰韓八国を楽浪郡の直轄とした。
帯方郡−崎離營: 吏訳転じ異同あり 臣智激し韓忿り(この帯方郡の漢人兵営を韓族が攻撃)
楽浪郡太守: 劉茂 兵を興し韓を撃ち 遂に韓を滅ぼす(古代韓王は討たれ、古代韓国は滅んだ)
帯方郡太守: 弓遵 韓を征伐中に戦死
李唐−遣唐使: 劉仁軌・蘇定方(高句麗[滅亡]・百済[滅亡]・新羅[討伐失敗・倭が白村江の戦])
_______________________北朝鮮・釜山橋頭[南侵失敗・アメリカ軍の仁川上陸]
『三国志−魏書』烏桓鮮卑東夷伝−韓条 晉 陳壽 撰【魏略 唐 ?? 註】
※ 弁辰(弁韓)12国
弁辰半路國、弁辰彌離彌凍國、弁辰古資彌凍國、弁辰彌烏邪馬國、
弁辰狗邪國、弁樂奴國、弁辰古淳是國、弁辰接塗國、弁辰走漕馬國、
弁辰安邪國(弁馬延國)、弁辰甘路國、弁辰涜盧國※涜=toku[偏水旁賣]、
※ 辰韓12国
有已柢國、不斯國、勤耆國、難彌離彌凍國、冉奚國、軍彌國、
如湛國、戸路國、州鮮國(馬延國)、斯盧國(古辰國?)、優由國。
弁、辰合二十四國、大國四五千家、小國六七百家、總四五萬戸。
其十二國屬辰王。辰王常用馬韓人作之、世世相繼。辰王不得自立爲王。
※ 馬韓50余国
爰襄國、牟水國、桑外國、小石索國、大石索國、優休牟[シ豕]國、臣濆沽國、
伯濟國、速廬不斯國、日華國、古誕者國、古離國、怒藍國、臣釁國、支侵國、
月支國、咨離牟廬國、素謂乾國、古爰國、莫廬國、卑離國、占離卑國、
狗廬國、卑彌國、藍奚卑離國、
古蒲國、致利鞠國、冉路國、兒林國、駟廬國、内卑離國、感奚國、萬廬國、
辟卑離國、白斯烏旦國、一離國、不彌國、支半國、狗素國、捷廬國、
牟廬卑離國、臣蘇塗國、莫廬國、古臘國、臨素半國、臣雲新國、如來卑離國、
楚山塗卑離國、一難國、狗奚國、不雲國、不斯濆邪國、爰池國、乾馬國、楚離國、
凡五十餘國あり。(馬韓伴跛國?、馬韓朝鮮國?、故真蕃朝鮮胡國?)
『宋書』夷蠻−倭条 梁 ?? 撰
世祖の大明六年に「倭王の興よ、安東將軍、倭國王の称号を与える」と。
倭王の興が死に、弟の武が王に立った。
使いに「都督と、倭・百濟・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓の七國諸軍事で
安東大將軍と、倭國王」を授け持たせた。
順帝の昇明二年に、倭の武王から上表があり
「・・・東征した毛人の国が55、西に服する衆と夷が66国、
渡りし海の北に95國は私の領土・・・」
使いに持たせたのは「都督と、倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓の六國諸軍事で
安東大將軍と、倭王」の称号。
舊唐書−東夷傳−百濟条(旧唐書−百済伝)
百濟國、本亦扶餘之別種、嘗爲馬韓故地
在京師東六千二百里、處大海之北、小海之南。
東北至新羅、西渡海至越州、南渡海至倭國。北渡海至高麗。・・・
劉仁軌之辭也。歃訖、埋幣帛於壇下之吉地、藏其盟書於新羅之廟。
仁願、仁軌等既遣、隆懼新羅、尋歸京師。・・・
儀鳳二年、拜光禄大夫、太常員外卿
兼熊津都督、帯方郡王、令歸本蕃、安輯餘衆。
時百濟本地荒毀、漸爲新羅所據、隆竟不敢還舊國而率。
其孫敬、則天朝襲封帯方郡王、授衛尉卿。
其地自此爲新羅及渤海靺鞨所分、百濟之種遂絶。
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>其地 自此 為 新羅 及 渤海靺鞨 所分 百濟之種 遂絶
その地 これより 新羅および渤海靺鞨の所分なる為 百済の種ついに絶す
百済の領地は 新羅人と渤海人の所領となった為に ついに百済の種族は絶滅した
しばらく新羅の進駐によって国が壊され荒れ果て
新羅を懼れた渤海部靺鞨族(渤海人)の扶余隆が 京師(長安)に帰り尋ねた結果
旧領に敢えて帰らず卒する(死ぬる)が 名目上は唐から任命されて
「郡王として帯方郡(漢江流域[京畿道・忠清道・江原道])」を支配した。
熊津都督(百済王都の都督)の唐将の劉仁願の盟約により、百済の地は実質
帯方郡王「孫敬」あるいは「扶余隆」の「孫の扶余敬」の所領となった。
旧唐書−百済伝の記述を察すると、残りの全羅道は新羅の所領となったと思われる。
新羅によって百済の地が併合されたのではなく、渤海人と新羅人に分割吸収された。
「新羅」の生活言語と習慣と
「渤海」の生活言語と習慣に所属するように人民がなった為に
百済としての生活言語と習慣を行う者が居なくなったので民族として滅亡してしまった。
>その孫の扶余敬は、すなわち天朝より帯方郡王を襲名せられ封じられ、衛尉卿を授かる。
渤海部靺鞨族(渤海人)が、帯方郡(漢江流域:京畿道・忠清道・江原道)に
””民族大移動””して、大量定住した結果。その領袖の扶余氏で
扶余隆の孫の『扶余敬』が唐王朝の目には領地をまとめるに適任とみなされ
地元有力者としては『帯方郡王』を襲名させ 宮廷における『衛尉卿』の地位を授けた。
百濟國は また本国の扶餘とは別の種族なり
かつて、いにしえの馬韓の地にあり
長安(京師)より東へ6200里のところで 大海が北にあり、小海が南にあり。
東北は新羅にいたり、西は海を渡れば越州にいたる、
南は海を渡れば倭國にいたり。北は海を渡れば高麗にいたる。・・・
劉仁軌の辞職した役務の領地(熊津都督、ようは百済王都の鎮守職)にあり。
歃訖、壇下の吉地において幣帛を埋める
その盟書(百済と新羅の白馬の誓い)を新羅の廟に所藏すと。
_______北(高麗、ようは高句麗の事)
_______大海(百家済海・百済)
_______↑(渤海靺鞨)
長安→東へ6200里___東北(新羅・劉仁軌が仲介の盟書を新羅廟に埋藏)
西(越州)海←百濟國_東
_______↓(かつての馬韓の故地・扶餘と別の種族・壇下の吉地に幣帛を埋藏)
_______小海
_______南(倭國)
契丹_−−高句麗(高麗)
___遼東半島(高句麗の支配下の渤海人)−−−渤海靺鞨
燕雲16州↓−−−−−渤海靺鞨−−−渤海靺鞨−−−
___−大海−−渤海人の居住地(帯方郡・漢江の流域・忠州)
___−↓−−新羅(熊津(公州)へ←清州←秋風嶺・太白山脈←尚州・洛東江)
唐水軍→百済(熊津(公州)が王都・唐将で都督の劉仁顔・水軍は唐将の蘇定芳)
___−↑(熊津の町を流れるのは錦江)
___−小海(島伝いの海に海峡の海・白村江(錦江の河口)に倭の水軍)
____倭国
中国というか北方異民族に従属だね。
前漢武帝 楽浪郡・玄菟郡の郡県を設置
後漢明帝 楽浪郡太守劉茂・帯方郡太守弓遵の討伐を受ける、韓の臣智が滅ぶ
三国志魏 毋丘倹の討伐を受ける、ワイ侯フジが服属する
北朝前秦 符堅(五胡十六国を統一のテイ族)に馬韓・辰韓が朝貢
北朝魏(鮮卑族)の討伐を受ける・高句麗が朝貢
隋(漢化鮮卑族)の高句麗遠征
唐(漢化鮮卑族)の攻撃により百済・高句麗滅亡
渤海族が全羅道−慶尚道以北を支配・渤海と契丹により新羅滅亡
契丹族の侵略・江原道−慶尚道を女真族刀伊が支配
女真族の侵略・金国の藩鎮(高麗藩・斉藩)となる。
蒙古族の侵略・斉国となり
斉国−大長公主(てチャン グムちゅ)という蒙古姫を王妃として
ブダシリなど蒙古名で王を名乗る
明の燕王(王弟)が靖康の変で
南京より北京で皇帝(明の太宗)となり高麗王を冊封
満州族の侵略・三田渡の受降檀で朝鮮国王に冊封・1年に4朝貢し、満州元号使用
紙幣金銀の禁止を受ける、中国銅銭(鋳造禁止)と唐辛子(製塩禁止)のみとなる。
明(北京)・三国志魏(許昌)・漢(長安・洛陽)の他は
すべて、遼東以北の異民族の侵略支配。
宋は、契丹主や金国を主として従属しており高麗藩を認識していない。
中国人に従属したとはっきり自覚があるのは「明主」と呼ぶ明国だけ。
蒙古・満州(女真・渤海)・遼東(鮮卑・契丹)に対する恐怖感がある。
高句麗名: 淵蓋蘇文(泉蓋蘇文[せんがい そぶん]・いりかすみ)
渤海名: 扶余隆(ぷよ りゅう)
蒙古名: ブダシリ
日本名: 梨本 など、など。。。
明(王弟の太宗は「燕王」に、こだわる)
三国志魏(曹丕の景福宮[キョンポックン]と同じ名前で、王宮を造営)
漢(長安は節度使安禄山の「大燕」皇帝・ 洛陽は石像などに、こだわる)
安禄山の出身胡族である奚族の慶州(遼河の西へ折れた上流山間地)にも、
こだわるね。遼河の中流から西に折れる上流域が、契丹族
遼東半島から遼河下流域は、慕容部鮮卑族
高句麗は、白山部マッカツ(白長山から沃阻の山間地の扶余)だろう。たぶん。
満州は、黒水部マッカツ(完顔部女真族・黒龍江の支流域)だよ。
渤海は、粟末部マッカツ(渤海族・沿海州から豆満江下流域)だよ。
マッカツは勿吉で、吉林平原を中心とした周辺の各部族の総称。
後に唐の後に勃興する、契丹(遼)は
室韋(完顔部女真族)・奚(遼河上流)・東丹(渤海・帯方郡)を従えたという
安禄山は河北の2節度使と河東節度使を兼ねたが、その本来の任務は、
この契丹(遼)と蒙古高原にいた突厥(トルコ)の唐への南侵を防ぐのが役割だった。
『三国史記』(1145年)の編集者金富軾は
国内及び中国の中国の歴史書を多く参考にして『三国史記』を作ったが
その際、故意に朝鮮の古代王朝成立の時期を遡らせる工作をしたことは
歴史学者の間では常識となっている。簡単に説明すると
韓国最古の歴史書『三国史記』「百済本紀」に天文観測の記述が有って
それを良く良く調べると中国の「晋書天文志」の内容を
王朝名と年号だけ変えてパクってんの・・・これ以外も多数。しかも その元ネタ
自体が間違ってたらしく せっかく作った唯一の正史書『三国史記』が偽書扱い・・・
昔からやってる事が変わらんネ
【百済の建国 (三国史記より)】
高句麗の始祖である朱蒙(しゅもう)には3人の子があり、
長男の類利(るいり)が高句麗を継いだ。後継者争いで身の危険を感じた
弟の温祚(おんそ)は、高句麗から逃げ出し、自分の国を建てるために
南方へ向かった。10人の臣下と大勢の百姓がこれに伴った。
10人の臣下にちなんで、当初は国の名を「十済」とした。しかし、
百姓たちが自分にしたがったことを喜び、百姓たちにちなんで国号を「百済」に改めた。
【呉の建国 (史記より)】
『史記』によると、呉を建国した太伯(たいはく)は、周の古公亶父(たんぽ)の長男であったが、
後継者問題で身の危険を感じ、南方の江南の地にのがれて文身(いれずみ)・断髪し、
後継者となる意志のないことを表明して句呉と称したという。こうした事情を知って
この地の人々、千余家が彼にしたがった。太伯は彼らを臣民として呉を建国した。
12世紀に成立した三国史記の『百済建国神話』が、史記のパクリであることは間違いない。
■王仁博士は百済人ではなくて、漢人である
続日本紀(桓武天皇)に漢の高帝の子孫と記されている。
現ソウル・平壌を含む半島の中央部はB.C.108〜A.D.313まで
400年間も漢人の植民地だったのだ。(楽浪郡・帯方郡)そして
支配階級姓氏の主流が王氏と韓氏。この植民地が高句麗に滅ぼされて
漢人たちが南下して百済・新羅に漢流文化を授けたのである。
百済は近肖古王の時まで漢文を体系的にはもってなかった。
近肖古王の時に「高興」という中国人がきて
はじめて百済には「書き記すということ」が始ったという。これは
三国史記に書いてある。「王仁」が百済から派遣されてきたのも
この近肖古王の時。ということは、高興博士と王仁博士は同じ
楽浪系の中国人で百済にきたばかりの同僚だった可能性が高いだろう。
百姓
ひゃくしょう [日本語] 農家
ひゃくせい [十八史略] 百の苗字・多くの人々・全国の人間・全人民
百家済海(百の家をつれ済海し(海を渡って・渤海を通過し)てきた→百済)
↓ [渡斉]−度=済
百姓渡斉(全人民を連れて、斉という土地から渡って来た)
百姓済度(全人民を救済する、度をなす[説法をする]・縁無き衆生は度し[=救い]難し)
師古、曰
唐代の歴史家の人名『唐 顔師古』
間違い: 師、古曰(先生が言う、今は無き説では)
間違い: 師古、曰(昔の先生が言うには)
「桓檀古記」とは、
桂延寿が1911年に「三聖記」「檀君世紀」「北扶余紀」「太白逸史」という
4冊の歴史書をまとめて写したものであるが
原本は残っておらず後に写本として印刷されたものが現存しています。
その文献の謎は・・・・
1.他の文献からの引用がない
桓檀古記の凡例には朝鮮時代前期以前に編纂されたと書いてありますが、
その証拠が全くない。
通常、古い書物なら、それ以降に発行された文献に
引用元として記述されるものですがそれも無い。
2.当時は存在しない地名が使われる
(1)「檀君世紀」「北扶余紀」「太白逸史」に
「寧古塔」という地名が出てくるが これは清の始祖伝説に由来する
地名であり、編纂された時代には存在しない。
(2)「檀君世紀」「太白逸史」「朱家城子」に
「長春」という地名が出てくるが、これも清の嘉慶年間(1796-1820)に
使われ始めた地名である。
3.当時存在しない語彙が使われる
なぜか、「文化」「原始国家」というような
「チョッパリ開発の言葉」が使われている。
4.偽書からの引用がある
不思議なことに、檀君世紀の序文に韓国通史(1915年)からの引用がある。
既に偽書であることが確定されている檀奇古史(1949年)からの引用もある。
節度使=外鎮軍(辺境の傭兵軍団)の総司令官
↓
藩鎮(行政区の「道」)の観察使(科挙で地方官・
節度使なしの道もある)と主領節度使(地方軍閥)
↓
皇帝直属の禁軍(皇帝諮問の枢密院)と
節度使の廂軍(地方の人夫群に等しい)の都督(武官)の称号か
府州の格式で節度使を使用
↓
節度使=引退の宰相の名誉称号と成り果てる
転運使(知事・知府・路=道)朝廷直属の科挙文官
← 節度使( 藩鎮=突厥や契丹対応の辺境の道
と使衙(節度使の務める州役所)を守る
「牙軍(衙軍)」(皇帝が兵権を取り上げ禁軍に吸収) )
________使宅(節度使の邸宅)を守る
「後院軍」(皇帝が禁止し解体)
通判(知事・州=道)朝廷に直属の科挙文官
← 会府(州都)の「州刺使」(州=中原や江南の道)
兵馬財政・地方租税・行政区「路」の民政を
「節度使・州刺史に交代して」行う 皇帝直属文官の長官
↓
巡属(藩鎮の下位の行政区)の
使牙(衙門・役所)を守備する「牙軍(衙軍)」(節度使の軍)
支郡(州の下位の行政区)の「支郡刺使」
↓
県令(県知事・知県)
都防禦使と経略使など(朝廷の)
↓
親軍(親衛隊・禁衛軍・近衛隊・近衛軍)
↓
禁軍という皇帝直属軍(直軍・禁衛軍)と殿前都点検(禁軍の長・近衛隊長・親衛隊長)
↓
『枢密院』を皇帝が諮問(参謀本部・大本営)と
禁軍(牙軍を吸収した地方にいる中央軍・直軍)節度使の兵権取り上げで通判に交代する暫定の
廂軍(地方の人夫群に等しい兵・節度使の退任まで持てる暫定の兵隊)
科挙試験(公務員試験)で採用された官僚による
皇帝の命令下の中央集権(科挙官僚[儒学の文官]に兵隊を持たせ出征させる統治方式
文民統制『シビリアン・コントロール』の民政と兵権)の時代が北宋時代。
宋代・王安石(新法党文官・変法のうち保馬法「兵馬養成の法律」)・
司馬光(旧法党文官・資治通鑑)
明代・袁了凡(字で袁黄・文官・萬暦の逆[文禄−慶長の役]で
兵を預けられ朝鮮へ出征する・勧善書の陰隲録(いんしつろく)の著者)
○四書五経(春秋の儒学: 論語(仁・学・中庸)・孟子(続−論語)・大学・中庸
春秋の教養: 書経・詩経・易経・礼記?・春秋左伝[史記]?)
★五経
書経(尚書 → 史記−紀伝体の本記風[古代帝王・聖人君子の記録])
詩経
易経
礼記(周礼・礼儀)
→礼記−第42篇「大学」
→礼記−第31篇「中庸」
春秋左伝(史記−紀伝体の列伝風と編年体のようなもの ただし
春秋呂伝というのもあり
五経は北宋時代(900〜1100頃)の朱子に出来
北宋までは選抜編集されていない。現在の形に出来上がるのは
蒙古王朝(元代・1200〜1390頃)で、つまり
北魏〜隋(350〜650)の現−山西省雲崗石窟の
仏教隆盛の時代に高句麗や新羅の
儒教の五経博士が日本に渡来というのは 歴史捏造では?)
詩経(詩に3種あり)
風・国風(民謡・民間伝承な語り部風の歌・
聖書だと哀歌[恨み言など]とか雅歌[恋愛歌]に近いものというべきか?)
雅(宮廷の歌・祝宴や接待に祝賀などでの社交辞令の歌・
後世だと魏王曹操の亡き後の兄弟げんかの歌「七歩の詩」というべきか)
頌(寺社仏閣や祖廟などの歌・祭祀で唱える祭文というべき歌・
聖書だと実際ではないがダビデ説と銘打つ詩篇・
仏典・お経などにあるインドの歌である
頌(唯識30頌・四六駢儷体・五七五・七言絶句・韻を踏む)とか
偈(理趣経百字偈・観音普門品偈・[発音・げ]漢文によるうた)に相当か)
明 洪武帝 朱元璋や清の雍正帝が有名ですが 朱元璋は臣下の
徐一キが「光天の下、天は聖人を生み、世のために則を作る」と書いたとき
「生は僧、光はわしの禿げていること、則は賊の音と同じ」と激怒した
(おそらくその後殺された)と伝えられています。なんとなく出来過ぎた話の
ような気も。朱元璋は字謎が趣味なのか。
避諱 三跪九叩頭
僧は朱元璋が昔 托鉢僧(というかひらたくいえば乞食坊主)であったことから
「僧」と音の通ずる「生」の字を嫌った 賊は、朱元璋が紅[巾]軍の兵で 彼らは
元朝の政府や官僚 地主たちから「紅[巾]賊」と呼ばれていて かって
韓林児のもとで戦ったものは「賊」とののしられることを嫌った
ことから「賊」と音の通ずる「則」の字を嫌ったということです。それから
名前に関することでいえば 洪武3年(1370)に 庶民は名前に・天・国・君・聖・
・神・堯・舜・ウ(夏の初代)・湯・文・武・
・周・秦・漢・晋等の文字を使うことを禁止され さらに
洪武26年(1393)には・太祖・聖孫・龍孫・
黄孫・太叔・太兄・太弟・太師・太傳・
太保・大夫・待詔・博士・太医・太監・大官・郎中の文字を使うことが禁止されたそうです。
八 最後の決戦 朱呉国と張呉国 ・・・張士誠・・・
※ 士誠は小人なり(孟子)。とは「文字の獄」のいわれ。征伐した張士誠は
陛下と周りにおだてられ得意であったが 南人の文人達が陰では
表向き誉めて贈った称号は 陰では笑いや嘲笑の命名だったという事を 後に朱元璋が
聞いて文人(儒家・科挙教養人)への 不信感や憎悪をあらわにしたした事だった。
鄭声: 「論語」衛霊公篇では「淫靡な音楽、好色物」を意味する → 姓名で「鄭」
尹士: 「孟子44章」公孫丑編では「士は誠に小人(小人物)と反省した」から取った名。
明王朝の創始者・朱元璋の聞いた張士誠が名付けられた由来 → 姓名で「尹」「張」
曹操: ソウの読みは同じだが
「曹」の字の縦一本線を抜いて「゙」とし中国人と区別した → 姓名で「゙」
勿吉(北魏)→黒水部マッカツ[女真]・渤海部マッカツ[渤海]・白山部マッカツ[高句麗](唐)
→室韋(遼・契丹)→完顔部女真[金国太祖アグダ]・海西部女真[扶余](金・女真)
→海西女直[エホナラ西太后]・建州女直[アイシンギョロ満州皇帝](明・後金)
→黒龍江省・吉林省(勿吉)と沿海州(サンタン)(後金[太祖ヌルハチ] →満洲[太宗ホンタイジ])
鮮卑族: 隋の煬帝を暗殺したのが 宇文カキュウ(ウブンかきゅう)漢人化で高氏は、鮮卑名が ガロクコン(賀禄渾?)
靺鞨族: 渤海郡王の初代が 乙乙仲象
高句麗: 宰相の名が 淵蓋蘇文(えんがいそぶん=泉蓋蘇文=いりかすみ)
契丹族: 蒙古王朝での宰相の名が 耶律素材(やりつそざい・遼太祖は耶律アボキ)
女真族: 金太祖は 完顔アグダ(ワンヤンあぐだ)
前漢時代:遼東郡 → 西晋時代:遼東国(正史の本文)郡県制→国郡制
前漢時代:朝鮮県 → 隋唐時代:【朝鮮国也】(注釈の文)
隋唐に国郡制があったと仮定し あるいは「馬韓朝鮮国」を仮説で設定
渤海郡王→大祚栄(渤海王)初代 乞乞仲象
帯方郡王→扶余隆(百済王)
楽浪郡公→新羅王(一族に弓裔)
親王→朝鮮国王(太宗=王弟)
郡王→琉球国王(豊尚王)
楽浪郡と遼東国(遼東郡の地元有力者・公孫度)が勝手に新設した帯方郡と東夷
高麗(高句麗は、歴史記録で国名が高麗国)・任那(新羅城を含む)
唐>渤海郡王の渤海王・唐>帯方郡王の扶余王・唐>楽浪郡公の新羅王
遼(契丹主)>東丹国(渤海郡+帯方郡(泰封国[泰村王]→摩震国))
金(女真族)>斉国(南扶余[南百済])・金(女真族)>高麗藩(北扶余・新羅)
元(蒙古族)>斉国(西高句麗+扶余)・元(蒙古族)>東真国(東高句麗+新羅)
明(明主)>高麗王(前期李氏朝鮮・辛昌から王位を禅譲させ李成桂が自ら「高麗王」と名乗る。
↓ 「かうらいビト」と南蛮人も秀吉の足軽の戦国時代日本人も呼ぶ)
清>朝鮮国王(後期李氏朝鮮・仁祖王 三田渡受降壇にて清国ホンタイジ[清太宗]に降伏・
満州が任命する「朝鮮国王」を拝受「迎恩門」の建立 満州が編集する「明史」に記録。)
満州が「衛満朝鮮(真蕃朝鮮胡国・高句麗の末裔)」で
高麗が「箕子朝鮮(朝鮮国也・明国のような漢人の末裔)」と同じ朝鮮だとして
満州皇帝へ中国人に反発するよう、北魏王朝鮮卑族時代の漢化政策の反動を説き
歴史改ざん「正史の文字の獄」をすすめ昔話を正史に仕込ませ広める。
渤海郡王 大祚栄(渤海王) 初代が 乙乙仲象
帯方郡王 扶余隆(百済王)
楽浪郡公 新羅王
泰封国 弓裔(泰村王)。韓国教科書や早稲田大学の鄭教授の紹介。
摩震国 知られていない。韓国教科書や早稲田大学の鄭教授の紹介。
斉国 モンゴル名の王(イジリブカ・ブダシリ・・・)李朝や韓国には載ってない。
高麗藩 辛昌
高麗王 李成桂(李朝太祖)
朝鮮国王 王弟(李朝太宗)
新羅王が、弓氏(弓裔・泰村王)・金氏(金春秋?)
高麗王が、辛氏(辛昌・趙彜・椹[忠烈王]・イジリブカ・ブダシリ・・・)・李氏(李成桂)
一つの国が一つの王家として連続していたと捉えていない。
明王朝
琉球: 1年1朝貢(東方礼儀の国・守礼之門)
高麗: 3年1朝貢(朝貢あさし)朝鮮の名の由来:朝貢、鮮し[アサし:少なしの意味]。
日本:10年1朝貢(無礼の国・明州(寧波)市舶司の交易で
日本国王源道義[征夷大将軍・足利義満])
清王朝
琉球: 従来どおり、福州で使節を受け入れる・
下賜品は12の垂れが豪華な宝石である冠と紅の王侯衣服など
朝鮮: 1年4朝貢 迎恩門
異色の丸首衣服(紅服でない)に籠の乗り入れ禁止(御輿担架型たぶん徒歩)
朝鮮国王の冊封は仁祖王の時。塩使用と製塩を禁止し唐辛子に人尿を使用・
貨幣鋳造禁止し中国銅銭使用
日本: なし(日本国王平秀吉[天下人(太閤・関白)・羽柴秀吉(豊臣秀吉)]
出島貿易→オランダの手引きの広東船・薩摩の手引きの福建船・
薩摩の琉球王国名義の南洋密貿易→カンボジア船・福建船・広東船)
当時、西欧人の貿易港は広東の広州1港だけだった。
世界の食材は広東に集まり、食は広東にありと言われる。
オランダ船やマカオのポルトガル船の交易。
後にオランダの替わりにイギリス、ポルトガルに替わりフランスの交易が勃興。
イギリスの軍事力は、新興国のアメリカのユダヤ金融や
捕鯨船護衛のアメリカ海軍が支え始める。
ヘボン(ヘップバーン)博士、ローマ字の普及・英和辞典作成・日本語聖書翻訳事業・
眼科−外科の医療普及はニューヨークから広東経由で日本に来て横浜と東京を行き来した
この方による。生麦事件の検死担当医であり、薩英戦争の原因を見てきた方である。
日本プロテスタントの宗祖様ほどの立場。ジョセフ・スミスは1805年生まれ、かもしれないが
ジョン・カーチス・ヘップバーン(ヘボン博士)は1812年生まれと言う。7歳違いである。
朝鮮の役での救援の明国軍( 明朝皇帝[萬暦帝]=明主 )
★遼東軍
李如松(提督職 漢城に入城 帰国し遼東で戦死)
李如梅(兄の李如松より交代)
楊鍋(水陸の二方面 慶州到達)
刑介(経略総督職)
膨友徳(星州包囲失敗)
解生
石星(南原敗戦)
楊元(南原から逃亡)
陳愚衷(全州から逃亡)
楊方亨(対日正使職として大阪城へ)
孫鉱(罷免)
沈維敬(対日副使職として大阪城へ 経路職(辺境守備長官)講和)
李宗城(国書を捨て釜山から脱走)
駱尚志(遼東に帰る)
王必由(撤退)
趙志皐
宋応昌(経路職 講和)
曽偉芳
顧養謙(経略職)
謝用梓
癖幡
★水路(舟師・水師)・広東軍・四川軍・福建軍・呉松軍
陳燐(水軍都督職・李舜臣の乱中雑記の注釈では李と共に戦死した事になっている)
麻貴(提督職)
ケ子劉(戦死)
劉艇
董一元
真言 オン シャレイ シャレイ シェンテイ ソワカ
意訳 准胝尊に帰命し奉る、起座し給え、発進し給え、吉祥成就。
梵字 ボ
准胝観音 別名、七倶胝仏母 準提・准提・準胝に同じ
p76 梵字手帖 悉曇参究 徳山暉純 木耳社
準提呪: 準提観音の真言(陀羅尼・呪は真言のこと)。
観音(かんのん)は
六道(りくどう)輪廻(りんね)の衆生(しゅじょう)を助ける為に
地獄の担当(千手観音)・餓鬼の担当(聖観音)・
畜生の担当(馬頭観音)・阿修羅の担当(十一面観音)・
人間の担当(真言宗系・準提観音 天台宗系・不空絹索観音)・
天神の担当(如意輪観音)と六道の夫々(それぞれ)に
変化身(へんげシン)した観音が救いを担当している。とされている。
人間界を救うのを担当しているのが「準提」観音である。
>陰隲録(いんしつろく)石川梅次郎 中国古典新書 明徳出版社
> (秀吉の朝鮮の役の際の明軍の参事の)袁了凡の著書
>功格五十条(雲谷禅師 伝)
>『御符を書く秘伝を知らなければ、鬼神に笑われる』と
第1章 立命。陰隲録(いんしつろく)を読んでみよう
http://www.geocities.co.jp/Bookend-Yasunari/1125/ins.html 大学の道は、明徳を明らかにするに在り。民に親しむに在り。至善に止まるに在り。
http://www.geocities.co.jp/Bookend-Yasunari/1125/sisaku-2.html
【 李氏朝鮮−現代韓国 】
永吉道(1413-1416)→ 咸吉道(1416-1470)→ 永安道(1470-1509)→ 咸鏡道(1509〜)北界
豊海道 → 黄海道(黄州・海州)西界(西京[平壌]・牡丹峰[モランボン])
江原道 → 江襄道 → 江原道(漢江・鉄原)東界
公清道 → 公洪道 → 忠清道(忠州・清州)湖西(公州[大田])
全南道 → 光南道 → 全羅道(全州・羅州)湖南(光州・珍島・全州←晋州官奴[鄭氏])
慶尚道(慶州・尚州)嶺南(晋州・昇州・巨済島・草梁島)星湖(倭館・洛東)東人・北学(西洋学)
京畿道(楊州・広州[漢城・南京])畿湖(江華島・開城[松岳・開京])西人・南学(明国・東学)
【 監司(観察使) 】
府使→ 府史・府尹(倭寇の長興府史の戦シ・満州虜乱の義州府尹の林慶業[イムぎょんオプ])
牧使→ 牧史・牧尹(倭乱の晋州牧史[チンじゅモクさ]の戦シ・牧史城[モクソ城]と倭は呼ぶ)
郡守→ 太守
県令→ 県監・尹令?→尹士(孟子)
★歴史的な時系列(楽は洛・楽都県・楽奴国、浪は狼・狼林山脈・朝鮮県・朝鮮国也)
高麗(高句麗)→新羅国→泰封国(新羅王族の弓裔)→摩震国(弓裔を下克上の豪族王建)
→高麗藩(王弟が女真族金国に降伏)→斉国(蒙古襲来時の王世子の椹[忠烈王])
→高麗国 初代の高麗王・李朝太祖・李成桂(いソンげ)
2代目高麗王・李朝定宗(太宗の兄)
3代目高麗王・李朝太宗(王弟)明国より朝鮮国王に封じられたと仮定する。
朝鮮国王・4代目の世宗・倭寇は和服を着た本国人(朝鮮人)だと李朝実録に記載。
朝鮮国王・10代目の燕山君(よんサンぐん)が倭寇弾圧で倭服と倭文字と倭楽器を焚書坑儒。
16代の仁祖王から朝鮮国王を冊封される。倭寇や秀吉の出兵で焼失した李朝実録で高麗から朝鮮に
李舜臣の『乱中日記[乱中雑事?]』(東洋文庫 平凡社)に出典
『明史』巻三百二十 外国一 朝鮮 八二九八頁 −抜粋−
萬暦・・・二十年・・・七月・・・劉挺川兵,呉惟忠,駱尚志等南兵・・・
・・・二十四年・・・九月・・・
・・・五月・・・刑介・・・兵惟燗水戦,乃疏請募兵川,浙・・・
・・・及福建,呉淞水師,劉挺督川・・・督陳燐以廣兵,劉挺以川兵,ケ子龍以浙・・・
・・・為水陸四路・・・西路挺,水路燐・・・西路則行長,而行長水師・・・
・・・九月・・・劉挺進逼行長営・・・陳燐舟師協堵撃,毀倭船百余。
倭・・・築金海,固城・・・十月,董一元遣将四面攻城・・・
・・・忽営中火薬崩,烟焔張天。倭乗勢衝撃,固城倭亦至,兵遂大潰,奔還晋州。
帝聞,命斬二遊撃以徇,一元等各帯罪立功。・・・七月九日平秀吉死・・・
「(この敗戦の報告を)聞いた皇帝は(董一元の部下の)遊撃2人を
見せしめのため斬罪とし、一元等(の軍首脳)にも功を立てて
各々の罪をあがなうよう命じた」ということでは?
昏主(暗君)に何を言っても無駄か・・・。
遊撃:陸軍大佐ほどの高位の武官。
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乱中日記1〜3 李舜臣 東洋文庫 平凡社
・・・偽倭の首(敵将の首と称し土地の無実の民の首を斬り差し出す)
・・・と似た出来事や処置の事件か。。。。
李朝実録ほか
林慶業[イムぎょんオプ]将軍・字は英伯・号は孤松・(現在のソウルの一区画?)平沢の人
1592 壬辰倭乱(太閤秀吉の朝鮮出兵・文禄の役が始まる)
1593 (忠清道)忠州に生まれる
1618 武科(武班)
1624 李造の変の平定で、勲一等
1631 (満州)牛家庄を平定(漢人の孔明徳の反乱)
明王朝から總兵官・李朝から義州府尹と微事の官職(14年間)
1634 丙子虜乱(丙子胡乱)で『斥清派』として征伐に参加(白馬山城抗争)
1635 安州(平壌の北)で平安兵使
1636 江華島逃亡・南漢山城で45日1万4千で篭城・
三田渡[さんじょんど]の受降檀で清朝の満洲八旗20万に降伏
1638 清兵の(熱河)錦州征伐に参加(明王朝に内応内通)
1640 錦州陥落で内通が露見
逮捕護送の途上の金郊駅で逃げ、天宝山で姓名を変え僧侶になる
妻の李氏が奉天(瀋陽)に送られて自殺したと知らされ 明の(山東省)
登州の都督の黄竜と中軍の馬登紅ら(南京の福王・南軍)とともに戦う
清軍(北京の清帝・北軍)に敗戦し降伏し北京の牢獄に繋がれる
仁祖(朝鮮王)の懇請により朝鮮に送還され再び牢獄に繋がれる
1646 亡命入明の罪状にて(斥明派)金自テンに謀られ掠殺される(53歳)
丙子胡乱(ビョンジャホラン・1637年)の際に、清国軍
十万の侵略を受けて降伏した朝鮮は、以下の三点を盟約させられている。
1,朝鮮は公文書に清の年号を用いること
2,王位継承に置いて、柵封を受けること
3,一年4貢を受領すること
このような事実を韓国の教科書は全く書いていない。
「丙子胡乱」については、次のように書いているだけである。
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後金は勢力を強め、国の名称を清とかえ、朝鮮王朝に対して
君臣の礼を要求して再び侵入し、漢陽(ハニヤン)を占領した。
そのため仁祖(インジョ)は臣下とともに南漢山城に移り、
四十五日間抗戦したが、遂に清の要求を受け入れて講話を結んだ。
この戦争を丙子胡乱という(1936)
奴隷じゃんか???????????ただの
> ×丙子胡乱 → ○丙子虜乱 北虜南倭・南船北馬
>20万余の満洲八旗兵・蒙古八旗兵を清太宗(ホンタイジ)がくりだす
>南漢山城での45日間篭城は1万4千の朝鮮人(明軍の救援を待つ)
>駅吏や運送業からなる反乱の頭の李自成の大順国が明王朝を倒す
>島原の乱で幕府の軍勢10万余が北九州へ結集・対馬宗氏緊張
仁祖はこの時、それまで軽蔑していた胡服(北方の蛮夷の服[満州服か?])を着て
坡洞の三田渡(サンジョンド)に設けられた「受陣壇(受降檀)」において屈辱的な
降伏を行った。「受陣(受降)」とは、降伏を受け入れることである。
仁祖王は「受陣壇(受降檀)」に於いて、清の大宗(ホンタイジ)に向かって
九回、地面に頭をつけて叩頭する拝礼(三跪九叩頭の礼)を行なったうえで 清からの
一方的な和約を結ばされた。1637年1月30日のことだった。
この和約の内容は次のようなものだった。
一、朝鮮は、清に対し、臣としての礼を尽くすこと(中略)
一、王の長子と次男、および大臣の子女を人質として送ること
一、清が明を征伐する時には、求められた期日までに、遅滞なく援軍を派遣すること
一、内外(清)の諸臣と婚姻を結び、誼を固くすること
一、城郭の増築や、修繕については、清に事前に許諾を受けること
一、清に対して黄金100両、白銀1000両と
20余種の物品を歳幣(毎年納める金と品物)として上納すること
一、皇帝の誕生日である聖節、正朔である正月1日、冬至と、
慶弔の使臣は、明との旧例に従って送ること(中略)
この和約によって李氏朝鮮はその後、19世紀に至るまで、
清に毎年、全国から選ばれた美女である妓生と宦官を貢いだ
さて 朝鮮でキムチが作られるよう担った起源を説明します。
まず 秀吉軍が朝鮮出兵の際
防寒用具として足に入れていた唐辛子が 朝鮮に伝わりました。
それが朝鮮人に伝わり毒草として栽培されました。
補足 中国から伝わったニンニクも毒薬として栽培されていました。
被害妄想の酷い民族ですね 唐辛子を倭芥子(うぇけじゃ)と言っていました。
朝鮮の漬物は中国の漬物と同じでしたが 清により
塩の生産が禁じられたため
かわりに唐辛子を入れたのがキムチの歴史の始まりです。
文献に唐辛子を使ったキムチが現れるのは、
1766年に発行された「増補山林経済」です。
(李承晩のキムチを民族食にする運動による捏造の可能せいもあり。)
それ以前は無かったと言うことです。
驚くほど歴史の浅い料理で保存が利かず、今でも
北朝鮮の人は保存食としてキムチより沢庵を食べています。
沢庵 味噌 米は非常に優秀な保存食です。
これだけあれば冷蔵庫が無くても十分保存でき 生活できます。
実際 これらの文化があった
日本は 中国 朝鮮の様な飢餓はほとんどありませんでした。
(富士山が噴火した時期は大変だったようですが。)
中国 朝鮮で人肉を食べる習慣が生まれたのは
飢餓が起こると何も食べるものがないからです(当たり前と言えば当たり前だが。
飢餓に備えるという発想がなかったのです。飢餓になったら
人を食えばいいと考えていたから何もしなかったのです。実際
人肉は売買されていました。)
つまり 韓国人の唯一誇る文化であるキムチが
秀吉のおかげという悲惨な現実。さすがチョンとしか言いようが無いwww
>日本統治が始まるまでお茶を飲む習慣もなかった韓国に
>伝統的茶道が存在するわけが無いのですが一応検証してみましょう。
・まずこのお茶は煎茶なのか?抹茶なのか?
抹茶だとしたら捏造もいいところ。
・なぜ日本の茶道と同じ道具を使うのか?
・韓国では箸、匙、食器等の什器は伝統的に金属製。
なぜ茶道だけが竹製品なのか?
・韓国での女性の座り方は立てひざ。
正座は罪人の座り方。なぜ罪人の座り方をしているのか?
・チマチョゴリの着方もおかしい。本来チョゴリは胸の上で締めるはず。ところが
> この写真の女性は腰上で締めている。おそらく帛紗を はさむ場所が無かったため
> チョゴリの着方を変え、変形チマチョゴリとなったものと推測される。
チョッカラ(箸)が金属製では。。。
>明治9年(1876)6月に朝鮮に外交使節として行った宮本小一外務大丞の記録。
>茶らしいもの
>茶(緑茶)は無い。干した生姜の粉と陳皮(蜜柑の皮を干したもの)を
>砕いたのを煎じたものを「茶」としている。貴人は
>これに人参(朝鮮人参)を入れて人参湯と称する。つまり煎じ薬を飲むにも似ている。
>
http://f48.aaa.livedoor.jp/~adsawada/siryou/060/resi020.html
>唐辛子を倭芥子と言っていました。
チポンユソル(芝峰類説)1700年代・李朝・李ス光(イすぐわん)の著に
倭芥子(うぇケじゃ→唐辛子)として記載。唐辛子は別名がコチュ(ちんぽこ)。
>清により塩の生産が禁じられたためかわりに唐辛子を入れたのが
塩は唐王朝(黄巣の乱)頃からも専売。塩は海の天日干しと岩塩があり
岩塩は山西省産出で、三国志の関羽将軍が山西生まれで
関帝(中国天台宗・摩可止観・荊州玉泉寺・伽藍菩薩)として祀り
清国全土に満州人の守り神になっていたので、朝鮮では嫌われています。
>飢餓になったら人を食えばいいと考えていたから何もしなかったのです。
>実際人肉は売買されていました
胎児の人肉干しが西遊記の人参果であろうか。
中国の禅宗は明暗があって、暗部は黒店(ヘイでぃえん)がある事。
黒店と言うのは人食い宿であって、人里はなれた「修行」のせいか、たまっており
迷い込んだ女性は無事ではない。乱暴の上に食べられると言う嫌な話である。
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三国(華・句麗・日本)の宗教
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蒙古−−ラマ教(仏教)
熱河−−ラマ教(仏教)__満州−ラマ教(仏教)
北中国−儒教(朱子学)__李氏朝鮮−儒教(性理説[礼学・譜学])
山東−−義和拳(匪賊)・孔子廟
淮河−−紅巾党(匪賊−明教−香徒)
華中−−白蓮教(匪賊)・儒教(陽明学)__日本−禅宗・真言宗(仏教)
華南−−哥老会(黒社会)禅宗(仏教−茶飲み豆喰い・来日の黄檗宗−隠元[明の禅師])
安南−−禅宗・儒教(来日の陽明学−朱舜水[明の役人・安南の役・出島−長崎奉行])
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梁山泊(水滸伝・三不管?[河北・河南・山東の三巡撫(三省長)の手を出さぬ危険地] )
八極拳[河北・滄州]・少林拳[河南・洛陽郊外の崇山]・太極拳・義和拳[山東]
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明代の行政区: 宋代(人民中国[清代の総督])
湖広省: 荊湖2路・広南両路(湖北−湖南[両湖]・広東−広西[両広])
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宋代の行政区: 人民中国・民国・清代
江南西路: 江西省
広南東路: 広東省
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民国時代−共産党の軍 八路軍・新四軍・上海十九路軍・北平二十九路軍
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民国時代−国民党の北伐後の改変 直隷省:河北省 北京:北平
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人民中国・民国と清代_−・明代(別の名)__・日本の江戸時代の学者−林子平
河北省_・直隷省___−・北直隷省(京師省)・北京省
____・安徽省−江蘇省・南直隷省(南京省)・南京省
>404年 高句麗の南侵・王仁キシ渡来し習字の千字文一巻と論語十巻きを伝える(古事記・奈良の伝[稗田のアレ]神懸りのアレです)
>510年 中国南朝・六朝梁国の周興嗣が習字の千字文を作詞する(遣唐使・平安仏教の伝[弘法大師ほか])
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・・・満州王朝(清国)ホンタイジ(太宗)時代だと思うが・・・
中国の属邦の中でも朝鮮の地位は最も低く、下国のなかの下国であった。
天朝の朝賀の席では、千官が赤色の礼服を着ていたのに対し
朝鮮の使臣だけは異色の丸首の衣である。
また、琉球の使臣は籠に乗って宮廷に入るのに対し
朝鮮の使臣は籠に乗ることを禁じられていたこと「渓陰漫筆」に書かれている。
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夫朝鮮 狡黠多詐 利之所在 不顧信義 蓋穢貊之俗 天性固然(新井白石 「国書復号紀事」)
朝鮮人つうのは狡くて人を騙す、利があれば信義なんか顧り見ない連中だ。
しょせん、わい ばく なんつう野蛮人だし、天性としてこういう性格に凝り固まってる。
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明国皇帝の子孫(位:親王)
朝鮮国王(位:親王)仁祖(明朝の時の扱い、清朝太宗の時に三田渡で受降壇の扱いに下落)
日本国王(位:親王)源道義(日本名・地位:足利義満・征夷大将軍)
日本国王(位:郡王)平秀吉(日本名・地位:豊臣秀吉−木下藤吉郎・天下人−関白−太閤殿下)
琉球国王(位:郡王)尚豊王(清朝になって王冠が12の垂れのある宝石をふんだんに使った物)
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>鉄砲伝来1543年
>ザビエルが日本へ1549年8月14日
>関が原戦1600年
>島原の乱1637年
>チポンユソル(芝峰類説1700年代・李朝書籍)に倭芥子(うぇケじゃ・唐辛子)が記載
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> ______サイパン陥落1944/07。
> 徴用令の朝鮮への適用開始1944/09。
> 結論サイパンに朝鮮人の徴用者などいない。(テレビのニュースで朝鮮人が謝罪と賠償金を要求)
http://www2.odn.ne.jp/~nihongodeasobo/konitan/iroha.htm いろはにほへと ちりぬるを わかよたれそ つねならむ
うゐのおくやま けふこえて あさきゆめみし ゑひもせすん
色は匂へど 散りぬるを 我が世誰そ 常ならむ
有為の奥山 今日越えて 浅き夢見じ 酔ひもせず
★ひらがな★ 達筆[崩し字] ★
以呂波仁保部止 知利奴留遠 和加与太礼曽 川祢奈良武
宇為乃於久也末 計不己衣天 安左幾由女美之 恵比毛世寸无
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★カタカナ★ 略筆[抜書き] ★
伊呂八二保部止 千利奴流乎 和加与多礼曽 州祢奈良牟
宇井乃於久也末 介不己江天 阿散幾由女三之 恵比毛世須爾
★李朝 730万人(文字を知る両班と師弟は総人口の0.3%の約2万人に過ぎない)
性理説[宇宙陰陽と男女子孫と事大主義(中華−小中華[中国−朝鮮] )]・
衛正斥邪(儒学を守り[昌義]邪道を排斥[斥清・斥倭洋])・礼学[長老[任:ニム]
旦那:なうりニム 坊ちゃん:とーりゃんニム お嬢様:あっしニム 兄:ひょんニム]・
譜学[族譜(家系図)と風水(縁起土葬)−秋夕(先祖供養)]・
千字文[漢字手習い]・童蒙先習[儒学要約・朝鮮略歴]・孝経[儒学漢籍]・小学[儒学漢籍]
陶磁器: 磁器は造れていない。墳墓にある磁器は中国からの輸入物である。
陶器を「沙鉢(さバル)」陶器師を「沙器匠人(さギちゃんギン)」と呼ぶ。
埴輪のように素焼きである。チョッカラ(箸)は銅製で竹製や塗り物の木製でない。
ハングル: 1800年代前後から北京から西洋学と共に
カトリック教が朝鮮入りし フランス人神父(多くが仇教運動や邪獄で殉教)が
マリアの祈りを書いて広めた頃から使い始めた。
フランス人神父がハングル(大きい[ハング]字[うる])と命名したのである。
キリスト教では聖書などで使われる
古代ギリシア文字やヘブライ文字(ユダヤの文字)を書いた古写本や
古文献の文字を活字と違い字が大きく書かれていたから「大字写本」と呼んでいた。
つまりフランス人が「古い文字」を「大きい字」と呼んだのである。
1800年ごろに日本に「諺文(おんもん)」という字が
朝鮮にあると中国から日本の長崎に知られ 中国学問しか文化でないとした
朝鮮に「朝鮮の国学」があると強弁する日本の学者があらわれた。対馬藩側では
日本の国学が盛んな頃に「アビル文字」という名でハングル文字を描き込んだ
古代青銅円盤鏡を持って日本を紹介していた。古代文字とは言うが
「梵字」にそっくりで 江戸の国学の
秀真伝(ほつまづたえ)の「神代文字」なみの捏造と思われる。
→辛酉教獄1801年(天主教・天理教・白蓮教・清国嘉慶帝の暗殺未遂事件・教案事件)
→丙寅邪獄1865〜68年(東学党・弥勒教の真人・香徒契[棺担人足]・仇教運動)
→大同法と掌隷院(ちゃんれうぉん)が監督する任(ニム、という長老)の奴婢(ノビ)
郷戦の両班(ヤンバン)庶ゲツに大家(てが)や達官(たるぐぁん)の種類がある
参鶏湯(サンげタン)や補身湯(ポしんタン)のチョンゴル(鍋物)と
トンチミ(漬物)文化 法酒(ポプチュ)という法国(仏国)の焼酎(ソじゅ)
茶礼(タレ)は根菜粉で緑茶を使わない。
宣祖(1568−1608)
光海君(1609−1622)
仁祖(1623−1649)
孝宗(1650−1659)
顕宗(1660−1674)
1684年(粛宗10年)喪輿[棺を担ぐ人足]徒の集まり=香徒契(ヒャンどゲ)葬儀組
?契(ちゲ)組員の反乱 真人(ちニン・救世主)が出現と飛語流言
1688年(粛宗14年)弥勒信仰(釈迦の時代が終わり弥勒の時代が到来・別の時代)と称して反乱
1689年(粛宗15年)老論(のロン・西人[そイン]・宋時烈の派閥系統)から
南人(なミン・東人[慶尚道派閥]から分かれた)へ換局(政変)した。
1697年(粛宗23年←13年[1687])ごろに義賊の張吉山(ちゃんキルさん)という
クァンデ(広大)なる人形劇・仮面劇(タルチュム)・パンソリ[唱劇・寸劇]・綱渡りなどの
伝統芸人の出身者の反乱 ショゲツとヤンバンの間のチャンキルサンのような反乱を郷戦という
大同法(てドンぽぶ・地方特産物の貢納を廃止・土地固定[布・材木・穀物・行商収入銭]税制)
均役法(きゅんヨツぽぶ・固定の土地の人身に武課[地元奴婢の労働奉仕が税金])
掌隷院(ちゃんレうぉん:下人・奴婢の監督機関)
景宗(1721−1724)
英祖(1725−1776)
1728年(英祖4年)南人・小論の両班が指導した反乱 星湖・李翼の『門族登科記』に
大家(てガ)名族(みょんゾク)聞人(いむイン)顕士(ぴょんサ)達官(たるグァン)
早位(ちょうイ[早の字の日は白・どんぐり])を問わず殺戮と記載
正祖(1777−1800)
■「明治開化期の日本と朝鮮」
http://f48.aaa.livedoor.jp/~adsawada/siryou/060/resi020.html ▼食事のことなど(朝鮮の宮廷料理)
★牛豚鶏魚の肉、草餅、羮汁など、みな、器、皿に堆積する。
しかし臭味がひどく箸を下す者が少ない。
★桃李、林檎、瓜などは臭味がないので食べられる。
沙果・・林檎に似て頗る大であるが美味ではない。
★炎熱の時節でもあり、その異様の臭いに堪えきれず、胃腸も慣れないことも
あって食傷を恐れて箸を下す者が稀であった
★米は日本のものと似るが、粘質に乏しく日本の下等品よりも劣る。
★たいてい胡椒と唐辛子を加えて調理しており、この2味を用いないものは無いも同然である。
★醤油は上品下品とあって、極上品は日本製に及ぶが(おそらくは日本からの輸入品か)
、下等品は不味くて食せない。
★味醂はない。
★砂糖も無いので蜜を代用している。
★茶(緑茶)は無い。
★酒はほとんどが焼酎である。王城での賜饌での酒も焼酎であった。強すぎて呑めない。
★米の醸造酒はあるが、酸味が甚だしくて呑めない。
★盆や膳類は漆が剥げ落ち垢がついてすべて不潔さを感じた。
★磁器皿の類は日本伊万里の下等品および呉洲のものが混じる。
朝鮮製のもあるが質が厚くて粗雑で石のように重い。
彩画はなくて青白色の上薬を用いるのみ。しかし
いずれも汚れたような不潔さを感じる。
★銅の箸で食事をする。箸が重くて物をはさむのに不自由である。
済物浦(チェムルポ)→仁川(インチョン)
東莱城−釜山鎮−三浦(サンポ)
富山浦(プサンポ)_→釜山(プサン)
済浦(チェポ)___→馬山(マサン)
塩浦(?ポ)____→?山(ウルサン)
草梁島倭館は領事館のように常駐・対馬藩宗氏−東莱城釜山鎮で
プサンポの倭館開市による一港のみの交易だったのが、条約での開港で
チェムルポも交易するようになった。(日本による修好条約と、遣米使節の催促)
中国(清国・満州王朝)とは
義州(イジュの湾商という行商)→平壌(ピョンヤンの柳商)→開城(ケソンの松商)
→漢城(王宮ハンソンの市纏)と言う風に、陸路の交易であった。
遼国(からキタイ・契丹)と高麗の貿易・
山東の登州と高麗の碧瀾渡の交易・高麗の合浦と佐賀の松浦の交易
金国(ジュルチン・女真)と李朝初期の通州(元山?)・吉州(吉畑?・吉邑?)
遼東の明王朝と義州・定州・安州・寧辺・平壌・黄州・海州・開城との交易
鴨緑江を遡って上流に四郡を置き屯田し・豆満江に至って六鎮の屯田で李朝と女真族との国境
豊臣秀吉の頃に平壌の南に収税と輸送の街道なし・平安道の妙香山(西山大師・高麗天台宗)
大同法の李朝・満州王朝以降(済物浦から京倉[京畿道]・貢津倉[忠清道]・
済浦[馬山]−富山浦と聖堂倉から群山倉へと−法聖倉[全羅道]・慶尚道に倉なし)
調運図の李朝(沿岸輸送と川輸送・倉:助邑浦−金谷浦[黄海道]・昭陽易江−興原[江原道]・
京倉−貢津(牙山の西)[京畿道]・可興[忠清道]・
徳成(公州の西南・全州の北)−法聖浦(霊光郡)−栄山(羅州)[全羅道]・慶尚道に倉なし)
行商の運輸業の李朝(湾商[義州]・柳商[平壌]・松商[開城]・
市纏−京江商人[漢陽]・莱商−倭館開市[東莱城・釜山鎮]・会寧−慶源開市[豆満江下流])
ワイ侯フジ → フジ県(朝鮮侯エイマン → 朝鮮県)
加羅国王荷知 → 韓王準(韓国王日 → 韓王淮=穢=倭=日)
馬韓月支国辰王 → 古の辰国(辰韓・弁辰・王の辰が)
【 三国志−魏書−東夷伝−朝鮮条の文から 】
訳吏転じ、異動生じ、臣智が怒り、韓が憤る
(役人が変わり、翻訳の間違いで、原住民の居留区で漢人に対し反乱)
「朝鮮侯[燕人衛満]」→「[王を僭称し]韓王[準]」(フジが王を僭称)
「韓国の王[日]」→「[朝鮮]国の韓王」
「辰国の王」→「[馬韓月支]国の辰王」
新羅城(婁寒王) → 辰韓斯盧國(フジ王 → 婁寒王=盧韓王)
秦韓・慕韓 → 慕秦王(婁寒王)
健牟羅城(金村=新村=新羅) → 金城の新羅王(慕秦王=新羅王)
加羅任那諸国の新羅城 → 楽浪郡公の新羅王
【 韓国の歴史教科書から 】
新羅国
唐の東→渤海国
東契丹→東丹国と泰封国(渤海人の大量移住に新羅王族と王都が滅亡)
東女真→東真国と摩震国・斉国・金国『高麗藩』(女真に降伏し藩に)
元の東→斉国(公主[妃]の地位)
朝鮮国(明、初め『高麗王』を名乗り→太宗の時に冊封で朝鮮国王に)
朝鮮国(清)渤海湾
金国成立前に新羅に女真族の刀伊の入寇があったのを説明できない。
釜山・馬山からではなく木浦から元寇が出発したかが説明できない。
科挙試験だの儒教だの四書五経だの朱子学だのというのも胡散臭く
李氏の朝鮮国は実は血統が重んじられ 試し腹などで私生児でも
両班(ヤンバン)だと「ヤンバン庶ゲツ(親戚・血族)」といって
父やニム(任)という長老に対する付き合いと礼儀によっては
大地主など上役になれる。
その土地のヤンバンの集落の村人達が使用人たる奴婢(のび)であって
下人(はイン)として使役された。
使役の中身は、行商だと荷背負い人足で有名なチゲである。
チゲはニムに騙されて、戦前は神戸や大阪の港で船積み荷物の
卸し載せをさせられ あるいは土木現場でドカチンを遣らされていた。
チゲはニムに逆らってはならず その上下関係はヤクザの組ほどの厳しさである。
日本のヤクザの組に相当するものを契(ゲ)と言い
一種の生活扶助団体とも闇社会生活ともいえいる。契のなかでも
香徒契(ヒャンどゲ)や殺人契(さりんげ)は非常に恐れられていた
全羅道(ちょんラど)の李氏朝鮮(いシちょソン)のヤクザであった。
寺院建築が鮮卑族の北魏の雲崗石窟のように石造りの建築: 新羅
庶民や有力者が土盛りに横穴の洞(ドン)の住居: 高麗
(契丹に押され渤海人が大量移住し、女真族や蒙古族に荒らされ
山間で採集し隠れて暮らす。桑や根類を食べ 攻め込んで来た侵略者に
焼き払われない雑草に見える焼畑の粟や高粱などを食べる)
セ+マウル(新しい村)運動で、洞(ドン)の住居を日本式民家に高度経済成長。
明朝(中国)軍の救援で中国式の城壁や建物を中国人が建設: 李氏朝鮮
(攻め込んで来た日本人の倭城の石垣・
駐屯で日本人大工が日本式の屋敷建築が敵産で使用)
マウル−洞(どん)の集落(邑・ムラ)
桑田や焼畑の土地を測る縦横の長さの単位がマル(畷・条・間)。邑はマウル。
↓
ナラ−国(グック)と呼べるマウルが一面に広がっている一つ行政区(方面)
馬韓伯済国のような広さの地域・
現在の安楽面(あんナクみょん)から霊光郡(よクワンぐん)ほどの大きさの地域
酋長として地元有力者の長老(任[ニム])がいて
ナラニムならぬナリニム(旦那・主人)として君臨する。
ニム(長老)なりニム(閣下)
なうりニム(旦那)とーりゃんニム(お坊ちゃん)あっしニム(お嬢様)
ひょんニム(兄上)そんせんニム(先生任・先生様)
高麗は、桑と柴と粟で、焼畑の文化。
田柴科制という腐葉土や薪に山菜採り山獣狩りをする領地を与える。
この中に山焼きの権利がある。
山の朝鮮人参や生姜、大根の採取、狼(犬)肉の狩猟、粟や桑の栽培も含む。
そこの洞(ドン)に住む奴婢(のび)の使役権も含む。
一つの行政区がドン(洞)でありイ(里)であり
その一帯をミョン(面)といい。
栽培等の土地を図るマルという度量衡と
その集落がマウル(邑であり、洞[ドン])で
マウルをまとめたナラ(国・その地方の面[ミョン])の長老や
国主をニム(任)と呼んだ。
ナウリニム・ナリニム[閣下]は
その土地の旦那であり主人であり長老である。
朴正熙(パクちょんヒ)大統領の時も
焼畑の保護策が出ていたと思ったのだが。
パク大統領はナリニム(閣下)なの。
ジュンク堂の商品棚にあったね。今はドウか判らないが。
韓国?焼畑の研究だか、軍事政権の農業政策だか?題名を
よく覚えていない。。。
ドン(洞)の住居は、土盛りで横穴の住居であり
女真族や蒙古族の侵略に対し、どこに住んでいるか判らない
ゲリラ戦に適していた為に 腹を立てた蒙古族は
住民を引きずり出し見せしめの大虐サツを行った。
この原始的なドンを無くし セ・マウル(新しい邑)運動を
全斗煥(ちょんドふぁん)大統領の時に行った。
光州事件の全羅道の連中は ヤクザ組(契[ゲ])の
チゲ(荷背負い人夫・人足)のような暴動を起こし
徴兵制を悪用した武器庫襲撃と演習的に国内で戦争を起こした。
日本の嘲笑を無くす為の経済発展を遅らせ、政治的民主主義なるものを
優先させ カトリック教会や学校や喫茶店を、都市部でヤクザのアジト
化させた。
大阪の警察官を襲って拳銃を盗んだ、在日朝鮮人が韓国に密入国し
大統領を狙撃して問題になった時 社会党や民社党や共産党が
犯人の取り締まりを先の戦争に反省が無いといて妨害し
公明党は韓国人の出稼ぎの為の日本入国の緩和を望んだ。
セ・マウル運動を遅らせた。
>朝鮮人女学生は「父や兄、それに親戚のおじさんに子供の頃から犯されるてから
「試し腹」
「女は子を産む道具でしかない」朝鮮では「道具(女)が不良品(不妊症等)であってはならない。
故に、『これこの通り、妊娠できる体でございます』ということを証明するために、
「種男」という男に娘を犯させ、妊娠した状態で輿入れさせる」。これを「試し腹」と言います。
産まれてくる子供は、当然夫の血を引いていないため、妻と同じ奴隷的な身分しかなく、
結婚はおろか大人になるまで成長する者も稀だったと言われています。
自分の娘を血縁の近い男(兄や叔父)に妊娠させて、妊娠できる女と証明させて
嫁がせる儒教思想が暴走した悪しき習慣だそうです。
日帝が禁止した朝鮮時代の悪しき風習だそうです。
日韓併合の時、戸籍作成のため創氏を行った。
そのとき名字の無かった被支配者階級の人々(白丁)が
支配者階級の人々(両班)の名字をまねて金、李、朴などと名乗ったため。
このことが原因で自分は両班の子孫と自称する賎人が5割を越えたのは(ry
在日中国人はほとんど通名を使っていないことや、
ヨン様ブームとか韓流とか言われている昨今、敢えて
在日だけが通名を使い続ける意味について、
一度真剣に考えてみていただきたいのですが。もう今の
在日の人々のほとんどは、差別を口実に惰性で通名使ってるんじゃないですか?
(こういう率直な質問が できるのが2chの いいとこなんだが[日本人に対し]
人権[侵害する者を]擁護[する]法[制定を]推進する人らは そういうの認めないんだろうな)
>朝鮮人女学生は「私達は魚の人糞漬けを食べているから、人糞には慣れている」と言って
洪濁(ほんたく)洪魚(ほんお)というガンキエイ(朝鮮エイ)の切り身を藁を敷いて人糞漬けにして
醗酵させた全羅道(ちょんらど)木浦(もっぽ)の料理
【 戦前の朝鮮人は奴隷ではなく日帝(イルチェ)の仲間(トンム:同務) 】
中国・韓国の歴史歪曲 なぜ日本人は沈黙するのか 黄文雄(評論家コウブンユウ) カッパブックス 光文社 ¥800+税
p115 『洪思翔中将の処刑』(文藝春秋)のように
フィリピンで戦犯として処刑された帝国軍人もいた
p116 ・・・([陸士]二十六期)には白洪錫(ペクホンソク)少将と
、満州国協和会に参加した・・・関東軍司令部所属の尹相粥(ユンサンチュク)少佐や
韓国軍創設の元老 李応俊(イウンチュン)将軍がいた
第二十師団の歩兵大隊長 金錫源(キムソクウォン)少佐(陸士二十七期)のように
日本兵を率いて中国大陸に出征し 金鵄(きんし)勲章を受け
後年の朝鮮戦争でも韓国軍の師団長として勇名を馳せた人物もいる
【 帝国軍・第20師団について 】
臨時増刊9/5 歴史と旅
連隊旗でつづる太平洋戦争史 秋田書店 平成4年281 ¥951+税
一 日支事変(日中戦争)期間に於ける師団等
師団号:20 通称号:朝 編成地・留守担任:竜山 時期:大正6年
隷下歩兵連隊:78・竜山 79・竜山 80・大邱 (77・平壌)
主なる参加作戦・編成の事情等:北京周辺・郎坊戦闘。
[山西省]娘子関(ニャンツカン)に挑み肉弾を以っての突破は鯉登の滝の名も高い。
此頃の構成員は大阪九州多い。[山西省]太原戦その後南下中部山西を席巻す。・・・終戦時長:中井増太郎 終戦地:ニューギニア
侯爵
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Desert/3914/kn_m.html 朴泳孝
http://www.tabiken.com/history/doc/Q/Q366C200.HTM (ぼくえいこう、発音:パク=ヨンヒョ、1861年-1939年) は
李氏朝鮮の政治家。
1882年、壬午政変(壬午軍乱[いんもクルラン])の謝罪のために派遣された
修信使節団員の一人として来日する船上で「太極旗」のデザインを考案したとされる。
1883年「漢城判尹・広州留守」親日派・文明「開化党」→対立←「事大党」排斥主義・守旧派
1884年甲申事変で新政府の「前後営使」兼「左捕将」
1894年日清戦争勃発とともに帰国し「金宏集」内閣の「内部大臣」
1907年帰国して「李完用」内閣の「宮内大臣」
丁未政変後,任を解かれ「済州島」へ一年間「流刑」
日韓併合後,日本政府から「侯爵」に叙され「中枢院」顧問官を経て「貴族院」議員
父の日本名(北野氏)
南学・西人[京畿道]・王宮・香徒契[全羅道]・東学党[全州]・弥勒教[忠清・江原道]
(明学・斥清派・東学・漢文重視)
↓
対立
↑
北学・東人[慶尚道]・庶ゲツ・柳商[平壌]・莱商[釜山]ほか
(清学・斥明派・西学・天主教フランス神父や釜山経由の日本学)
実学→星湖学派[天主教・西学]
→鎖国から開国の為の親日派 →邪獄から文明開化する党→清国から独立する党
「泣く子は餅を一つ余計もらえる。」
朝鮮のことわざ
「川に落ちた犬は、棒で叩け。」
「姑への腹立ち紛れに犬の腹をける。」
「営門で頬を打たれ、家に帰って女房を殴る。」
「女は三日殴らないと狐になる。」
「梨の腐ったのは娘にやり、栗の腐ったのは嫁にやる。」
「母親を売って友達を買う。」
「弟の死は肥やし。」
「他人の牛が逃げ回るのは見ものだ。」
「他人の家の火事見物をしない君子はいない。」
「自分の食えない飯なら灰でも入れてやる。」
「人が自分にそむくなら、むしろ自分が先にそむいてやる。 」
「あんな奴は生まずにカボチャでも生んでおけば、煮て食べられたものを。」
「らい病患者の鼻の穴に差し込まれたにんにくの種もほじくって食べる。」
「家と女房は手入れ次第。」
「野生のまくわ瓜は、最初に独り占めした物が持ち主だ。」
「一緒に井戸を掘り、一人で飲む。」
応永の外寇(朝鮮名:対馬島征伐)1419年。
朝鮮は第4代世宗大王の時代。ただし軍の実権は親の太宗が握っていた。
倭寇の侵入に悩まされていた朝鮮は 倭寇の本拠地であった日本の対馬に
約1万7000の兵力を持って6月19日に巨済島から出航 翌20日に対馬に侵攻。
*対馬の人口は3万前後で推移しているので 戦闘要員は最大でも7000以下。
これは全島民動員しての数だから実際はもっと少ない。朝鮮軍は破竹の勢いで
漁船129隻を拿捕 民家約2000戸に放火 首級114などの戦功を上げる
(韓国側の朝鮮王朝実録の抄訳解説本から適当に抜き書きした数だから
正確な数は知らん。)しかし、対馬軍の伏兵により兵2500の大損害を出し
硬直状態に陥り宗貞盛と和平交渉を結び7月3日に撤退。なお、室町幕府では
元寇の再来か?と動揺したらしいが特に何もしないうちに終わっている。
*当初兵糧は65日分用意するつもりだったが指揮官の李從茂(イ・ジョンモ)が
懐に50日分の金額を着服。兵糧を2週間分しか用意しなかった
ことの他 李從茂は己が傷つくのを恐れて和平交渉を締結 さっさと引き揚げて
褒美にありつき 朝鮮側の大勝利という歴史捏造のもととなる。結局 この事件は
対馬宗氏が倭寇を取り締まる代わりに朝鮮との独占貿易権を手にする事で決着する。
これ以降 対馬・壱岐・五島列島の日本人主体の前期倭寇は減り
中国人らが主体の後期倭寇の時代に入る。
「醜い韓国人」 朴泰赫 1993 光文社
韓国では 骨董屋を覗くと首のない仏像が売られていることが多い
李朝の斥仏政策のもとで 仏像の首が切り落とされたからである
それに今日でも韓国では 平地に仏教の寺がない
寺をたずねようとしたら 山を奥深く分け入ってゆかねばならない
李朝では代を重ねるごとに 儒教による仏教に対する締めつけが
いっそう強められるようになった 儒教という怪物が時と ともに
大きく成長してゆき 儒教唯一絶対主義といわれる体制が固まっていった
仏教は目の敵とされた 李朝三代目の国王となった
太宗(在位1400年〜18年)の治世になると 仏教にさらに苛酷な弾圧が
加えられた。高麗朝が倒れたときには 全国に1万以上も寺があったというのに
寺の数を242にまで減らし 寺が所有していた土地や奴婢(ノビ)と
呼ばれた奴隷を没収した その後も 仏教へのパンチが次々と繰り出された
仏教はよろめき続け、ついにマットに沈んだ
四代目の国王の世宗(在位1418年〜50年)は 全宗派を禅教2宗に統合して
それぞれわずか18寺院だけを残して 他の寺を廃した 世宗はハングルを
創製した名君であったのに 仏教には好意をいだいていなかった
儒教は 個人が自らを磨くことによって完成することを目指したので
宗教を軽蔑した 仏教の輪廻の教えは 根拠がなく 天国や地獄は
人々の利己心や恐怖心から生まれた空想の産物であるとみなした。
「醜い韓国人」 朴泰赫 1993 光文社
九代目の成宗(在位1469年〜94年)は 出家することを全面的に禁じた
李朝時代は そのまま仏教を苛めた歴史であるといってよい
十一代目の中宗(在位1506年〜44年)は 全国にわたって仏像を没収して
溶かしたうえで武器に鋳造した また僧侶を土木工事に使うようになった
僧侶は使役されるとき以外は 漢城(ソウル)に出入りを禁じられる
ようになった。仏教は 山のなかに逃げ込んで細々と命脈を保った
僧侶は 奴婢(ノビ)と同じ賤民の範疇に組み入れられた
韓国を旅すると旅行ガイドに『わが国に古い寺院が少ないのは 秀吉軍に
破壊されたためです』と説明されるらしい 日本人観光客は贖罪意識を感じて
居たたまれなくなるようだ しかし これほど明白な歴史歪曲があるだろうか
李氏朝鮮は仏教を大弾圧し 1万以上あったといわれる寺院は
秀吉軍が朝鮮に入った時には わずか36ヵ寺にまで減らされていたのだ。
23代 1800−1834 純祖−−−(同世代)金渓大院君
(翼宗)
24代 1834−1849 憲宗
25代 1849−1863 哲宗(金渓大院君の子)
26代 1863−1907 高宗(李太王)
1839年の「己亥教獄」ではアンペールら三人のフランス人宣教師をはじめ二百余人を処刑
1846年の「丙午教獄」では金大建ら二十余人を処刑した
1866年の「丙寅邪獄」ではプルマーをはじめとする九人のフランス人宣教師と
南鐘三ら数千人のカソリック教徒を逮捕、処刑した。また
1865年からの三年間 約八千余人のカソリック教徒を処刑という弾圧政策をとった
片岡次雄の「李朝滅亡」によれば
この後の六年間 漢城府(ソウル)では千人以上のカソリック教徒が殺害され
全国では数万人の信徒が殺害もしくは収監された
(1861年発行「大東輿地図」近代地図−朝鮮全図の出版者・金正浩[キムじょんホ]が刑死)
僧侶たちの仁義なき戦い 〜韓国・チョゲ寺紛争〜
韓国最大宗派「曹渓宗」で起きている内乱。人事に不満を持つ
非主流派が総本山を43日間占拠し、排除にきた武装警察に僧
侶達が火炎瓶や石を投げ抵抗。
昨年12月23日、ソウルで、韓国仏教会総本山に機動隊が突入し僧侶と衝突。
20数人の負傷者が出た。騒動が起きたのは、韓国仏教の最大宗派「曹渓宗」
の総本山である曹渓(チョゲ)寺。 曹渓宗では1カ月ほど前から「総務院長」の
選挙をめぐり僧侶同士が激しく対立。主流派と反主流派の双方が、全国動員を
掛け曹渓寺で衝突を繰り返していたが、反主流派の僧侶ら40数人が寺にろう城し、
23日に機動隊が導入された。
その後も主流派と非主流派の対立は続き、今年6月には僧侶がガソリンをかぶっ
たり、切腹するという事態にまで発展している。
http://www.fujitv.co.jp/supernews/special/toku1026.html 僧侶が火炎瓶と角棒でゲリラ活動かよ!!
さらに、焼身に切腹!!
まるで、ヤクザの世界だな..
これじゃ、インド人もびっくり。
ダライラマも泣いてるよ。
つうか、韓国仏教って既にカルト認定されてた希ガス...
咸鏡道○白頭山
平安道○妙香山普賢寺(高麗天台宗)
黄海道○
江原道○金剛山 月精寺
京畿道○摩尼山 景西古窯(仁川)・竜仁古窯
忠清道○灌燭寺(韓国最大の石仏・弥勒菩薩立像)
全羅道○無等山 松広寺(僧−知訥・曹渓宗)扶安古窯(柳川里)・古窯(大口面)
慶尚道○太白山(江原道に近い)・智異山(ちリさん 全羅道に近い)・
梵魚寺(僧−義湘・華厳宗)・仏国寺(華厳宗)・浮石寺(華厳宗)・海印寺(木版大蔵経)
済州道○漢拏山(はるラさん)
燕山君(ヨン・サン・グン:在位1495-1544)のハングル多用の士禍(地方両班の弾圧)と
反動のハングル絶滅政策。書院(ソウオン)と祠宇(サウ)あるいは祠堂(サダン)の
儒学勉強場。・・・書堂[・郷校]でない・・・
崔瑩(チェ・リル?)将軍(1392の李氏朝鮮での流刑後の73歳での殺害)
林慶業(イム・ギョン・オプ)将軍(反乱1646)松岳山神・・・など。
恨文化・・・巫檀(ムー・ダン:クッ[無念晴らし]をする巫女[みこ])・・・
【 李朝〜現在の地域別の主な宗教分布 】
咸鏡道○−流刑地−
平安道○高麗天台宗 ○明火賎 →中国−遼東へ。文殊(満州)族。
黄海道○弥勒教 ○明火賎 [○巫檀(崔瑩将軍・松岳山神)]
江原道○弥勒教
京畿道○弥勒教 [○壇君(江華島摩尼山)]
忠清道○弥勒教 [○巫檀(林慶業将軍)]
全羅道○曹渓宗 ○太古宗 ○殺人契 [○天道教 ○巫檀(林慶業将軍)]
慶尚道○華厳宗 [○天道教] →日本−対馬へ。
済州道○−流刑地−
ビジネスガイド 韓国 ジェトロ ¥2000 1993年10月31日発行
p7 表3 宗教人口比率
_______ 1985_ 1991_ 推定換算
プロテスタント_ 37.7% 34.4% 約1600万人
カトリック___ 10.8% 10.6% □約440万人
仏教_____ 46.9% 51.2% 約2200万人
儒教_____ 02.8% 01.8% □□約85万人
円仏教____ 00.5% 00.6% □□約22万人
天道教____ 00.2% 00.3% □□約11万人
その他____ 01.1% 01.1% □□約43万人
在留邦人 1992年10月01日現在 □□□6,864人
在日韓人 1992年12月31日現在 69万3,050人(北朝鮮国籍含む)
韓国全土の人口が4326万8000人(1991) ジェトロ版
_ソウルの人口が1077万6201人(1995) 紹介ホームページ版
日本の総人口:1億2,753万人 男性:6,229万人 女性:6,524万人
【 韓国の宗教調べ 】
1998年 現代韓国 総人口約4千万人
儒教 17% 先祖供養・法要・葬式[・風水土葬]をする(黄海道−京畿道−忠清道)。
仏教 37%
5大宗派 日本のような禁教(宗門改め・隣組)寺請制度はなく墓の管理や葬式はしない。
○曹渓宗(宗祖・知訥1158−1210慧能を尊ぶ朝鮮禅・全羅道)
○太古宗(曹渓宗より妻帯を許すや食の禁忌の決まりが古いタイプの朝鮮禅)
○大韓法華宗([日本風に]日蓮宗って名乗れないから?大韓毎日新聞[大韓SGI創価]?)
○総和宗(禅・教(華厳)二教以外で総督府で、まとまられた宗派?)
○天台宗(高麗天台宗の祖・義天1055−1101華厳も説く・平安道)
ほか○華厳宗(新羅の王室の宗派・慶尚道)○浄土[宗]○真[義宗]などニ十数派。
キリスト教
プロテスタント 25%
カトリック 4.5% 推定200−180万人
諸教
円仏教
天道教(東学党の末裔・三一独立運動−暴動の拠点)
中村元先生の選集などによる。
ダイソーポケット辞書シリーズ16 日常会話韓国語 監修:牛尾恵子 大創出版
p198 ●ソウルと釜山に人口が集中
・・・南北間が約1000km、・・・人口は4,600万人程ですが
首都ソウルに全体のおおよそ4分の1おり、釜山の650万人を合わせると
半数がこの2つの都市に集中しています。・・・
p210 ●今も健在な儒教の心
14世紀末(1370年以降)に成立した朝鮮王朝は、
それまで共存していた仏教を排除し儒教の朱子学を国教としました。
現在では仏教徒、キリスト教徒(プロテスタント、カトリック合わせて)
それぞれ1100万人ぐらいで、宗教人口(約2,400万人)を2分しており、
儒教信奉者は数字の上ではごく少数にしかなりません。・・・
・・・秋夕(チュソク)・・・ この先祖を祀る・・・祭祀(チェサ)・・・
・・・日本の法事のように・・・親戚が集まります。・・・
・・・独楽鼠(こまねずみ)のように運び役・・・
・・・私絶対韓国の男性とは結婚しないわと決心する若い日本女性たちが・・・
・・・今は・・・お嫁さんのご機嫌を伺って・・・人さえいます。
ソウル1077+プサン650=1727万人で4600万人中の37.5%の人口。
仮にキリスト教徒が都市部だけを制圧して約4割もいたとしても
韓国の農村部は依然として儒教と仏教の混合の習俗で生きていると思われる。
94年から96年まで、足かけ3年ほどソウルに滞在したけど、まあいろいろあったなあ。
最初は韓国語学校に通ったが、クラスメートの日本人の女の子が一人、
韓国人の若い男にレイプされて帰国した。警察はまともに捜査もしてくれなかったね。
酒場やレストランで韓国の女の子がトイレに行くときは二人連れ以上で
行くことが多い。なぜかと聞くと、トイレでレイプされる事件が多いからだと。
とにかく、日本で30年ほど過ごしてきた間に一度も周辺で起こらなかった
ような事件が次々起こるんで胆を冷やした。特に性犯罪は多くて、
日本の女の子もかなり被害に遭っているはず。
酒場で日本語で会話していた在日の男の子数人が、韓国人の大学生
グループにいきなり襲われて、一人は頭蓋骨陥没骨折で入院していたが、
滞在が365日以上になりそうだったのであわてて日本に帰った(再入国)
ということもあったねえ。(在日の男の子は365日以上続いて滞在すると
兵役にとられるので、大部分は年に一度は日本に再入国する)
在日の子の中には日本で悪さして親に母国留学させられてるパターンが
結構あるんだけど、そういう子は韓国語を真面目に勉強しないのが多い。
それで酒場で日本語で騒いだりする。すると、みんな日本人が騒いでる、ってことに
なっちゃうんだよね。
北朝鮮脱北者が証言「4回の大粛清で日本人妻のほとんどが虐殺された。」
この事実は『北朝鮮という悪魔 青山健煕著 光文社』に詳しく載っています。
で、その虐殺の方法とは?
↓
「女を処刑する朝鮮のやり方は局部にに太い火掻き棒を足で蹴り込み、
内臓破裂で羞恥と苦痛のうちに絶命させる。赤ん坊、幼児は犬に食わせる。」
(「北朝鮮強制収容所」安 明哲 著 双葉社 より)
GHQに朝鮮人は第三国人であり戦勝国民ではありませんといわれた、と言うのが、
”三国人”という言葉の始まり
韓国旅行には日本人は行かないほうがいいと思います。
教科書問題の以前から、やはり韓国人は日本人に対してはきついです。
もちろんお金を出す日本人に対して、また、日本のマスコミ(最近テレビ局が多い)
の方には笑顔を作っていますが、こちらで永くビジネスをしているとわかりますが、
心の中ではやはり日本人憎しです。(韓国人は長く付き合っても、平気で相手を裏切ります)
特に韓国語で苦情をいえない日本人には陰で何かされていると思ったほうが無難です。
ホテルはなるべく日本人従業員のいるホテルで、食事もそこでしたほうがいいです。
特に最近は東大門の近くのお店は日本人観光客をなめています。
繰り返しますが、今、韓国に観光に繰るのは避けたほうがいいです。
温泉だったら、間違いなく日本の方がいいですよ。
だいたい、韓国で観光する所などありませんよ。
現在の韓国の危険地帯(本来は外務省が公表すべきですが、案の定、在韓大使もアホです)
1.田舎に行けばいくほど危険。
2.東大門を含めた市場 (日本人には何倍もの値段を要求する)
3.ホテル・旅館(従業員の反日は結構すごい。食事など何を入れられてるかわからない)
4.地下鉄2号線・3号線
5.ロイヤルホテル周辺
6.日本大使館周辺
7.梨泰院周辺
8.全キムチ売り(何が入れられてるかわからない。寄生虫が入っていたことあり)
9.全焼肉屋(中に何か入れられること多。日本人の苦情が多い。便、痰などの可能性大)
10. 新村周辺(変な労働者多。治安特に悪い)
どうしても韓国にくるときは気をつけて
李朝は日本の明治維新後に、朝鮮女性が日本人と性的交渉をもつことを
国禁としている。もしその禁を破れば、本人は斬首刑に処せられ、
所轄の地方官吏たちも責任を問われて罷免された。それは主として、
釜山・草梁の倭館の日本人居留民たちを対象としてのものだった。
日朝修好条規が結ばれた翌年の1877年(明治10)ころの
李朝では、うち続いた凶作のために餓死者が出る状況のなか、
貧農の女たちが夜になると、ひそかに釜山・草梁の倭館を訪れていた。
食料を乞うため、日本人居留民を相手に春をひさいだのである。
それに応じた日本人の多くは船員や商人たちだったが、その結果、
数多くの女たちが逮捕され刑に処された。当時の日本の新聞が
その様子を次のように伝えている。
『東莱、釜山、水営の三役所から各長官が出張して
刑の執行を宣言する。女たちは荒縄で縛り上げられ、小さな白羽の矢で
耳の穴が刺し貫かれている。そして木枕に頭を乗せて仰向けに寝かせられ、
喉元に鉈(なた)のような刃物が当てられる。その上から
槌を打ち下ろして首を切り落とすのである。一人の女は刑場へ引き出されると、
静かに周囲を見渡し、「もはや餓死するしかなかった命を日本人のために
四、五十日長らえることができました、今日からやっと、これまでの
飢餓の苦しみから免れることができます」と言って涙を流したという』
(郵便報知新聞明治10年10月2日より要約)
なぜ朝鮮女性が日本人と性的交渉をもつことが、斬首刑をもって酬いなくては
ならないほどの大罪となるのか。それは日本人が侮蔑すべき倭賊であり、
蛮夷だからである。そのような夷族によって我が臣民女性が汚されてはならない
★福沢諭吉が朝鮮を徹底的に嫌った理由!
■福沢論文「朝鮮独立党の処刑」からの引用(現代語訳)
朝鮮独立党の首謀者たちの縁者は処刑場に引きずり出された。
弱い立場の婦人たちや女児も年老いた老翁老婆もである。そして処刑人たちは
右も左もわからない子供たちにも縄をかけてこれを絞め殺した。
どのような心境でこのようなことがなせるのか。
百歩譲って、処刑するものたちにも理があるとしよう。
老人婦人たちを処刑するのは善悪の判断能力が備わっているからだ、
身内の不始末は死をもって償ってもらうぞ、というのは、
わかりたくないがそれでもわからないでもない。
しかし、三歳五歳の子供は親から手を離されただけで泣き叫ぶものだ。
それが獄卒どもの手に掛かり、雪霜の吹き
すさぶ城門外に引きずり出されて縄で首を絞められて殺されるのだ。
殺されていく子供たちはどのような恐ろしさを感じるであろう。
鬼に捕まえられた心地しかしないだろう。おそらく呼吸が止まるそのときまで、
まさか自分がこのまま死んでいくのだとは考えもしまい。
父母の名を慕って泣き叫び、兄姉に助けを求めながらそのまま死んでいったのだ。
■1885年3月16日「時事新報」社説(通称「脱亜論」現代語訳)
現実の人間世界において地獄があらわれた。
それは朝鮮の京城(現在のソウル)においてだ。私は
この朝鮮国を野蛮国というよりむしろ妖魔悪鬼の地獄国と呼ぶ。
この地獄国の当局は、独立党に過酷な処刑を与えた事大党政府の官吏たち
であり、その後見人たる支那(中国)政府である。この私・福沢は
朝鮮から何千里も離れた異郷におり、朝鮮の国がどのような政治状況なあろうが
まったく関係ないのだが、それでもこの隣国の事情を耳にすると、
やはりどうしても悲しみと哀しさに
耐えることができない。いまこうして文章を書いていても涙が止まらず、
原稿用紙がぬれて滲(にじ)んでしまうのである。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%B9%E5%B3%B6%E4%B8%80%E4%BB%B6 鬱陵島(竹島)って日本領(鳥取藩)だった。徳川幕府が放棄するまで
竹島(松島)は朝鮮側には領有の意識もなかった。正直 鬱陵島(竹島)自体への
通路島であった竹島は 朝鮮にとって存在意義もないし 鬱陵島へ行かなくなった
日本にも 孤島を領有する意味はない馬鹿げた論争だと思う。
朴大統領が両国の懸案になるくらいなら爆破してしまいたいと言ったのがわかる。
竹島? 独島?論争とは無益な話だ。冷静に考えると どちらの国も はっきりとした
領土宣言も意識も「竹島」に関しては近年まで持っていなかった ことは自明だ
これは決める問題であって 歴史で明らかになる性質の事柄でない
竹島が日本固有の領土というのは言いすぎだろう なぜなら
竹島は鬱陵島へ行くための中継地であって その島 自体が目的ではなかった。
利益も歴史的にないと判断され 徳川幕府の議論さえなく
鬱陵島問題と一括で処理された と考えられても仕方ない
一方 韓国(李氏朝鮮も)鬱陵島(竹島)が朝鮮領で認められたら
最初から竹島の事なんか どうでもいいと歯牙にもかけてない。ここも
議論すらしていない。まあ 明治前後や戦後の歴史をひも解いても
お互い答えがない不毛な議論に終始している 馬鹿が日本固有と叫ぶが
そんなもの固有でもなんでもない。固有なら! 江戸時代から
鳥取藩士か徳川幕府の天領にして誰か常駐させておけ! 一方
李氏朝鮮も 日本に渡る途中の島を「韓国固有とか言い張れる」根拠など微塵もない
むしろ かなり無理があるだろう。なぜなら 韓国から日本へは今も昔も
対馬経由で来るのが通例だし、唯一のルートと いっても過言でないからだ。
話し合い両国でしろ!議論がかみ合ってない。歴史認識を一致させられる問題だ
答えはない。答えは両国政府と国民で見つける問題だ。
その程度の問題解決能力も両国民とも無い程 お互い馬鹿なのか?
連合国最高司令部訓令第677号 抜粋
外廓地域を政治上行政上日本から分離することに関する覚書
1946年1月29日
3.この指令の目的から、日本という場合は次の定義による。
日本の範囲に含まれる地域として、
日本の四主要諸島(北海道、本州、四国、九州)と
対馬諸島、北緯30度以北の
南西諸島(口之島除く)を含む約一千の隣接小諸島
日本の地域から除かれる地域として、
a、うつ陵島(竹島)、竹島(松島)、済州島。
b、北緯30度以南の南西諸島(口之島含む)
、伊豆南方、小笠原、硫黄列島、大東群島、沖ノ鳥島
、南鳥島、中ノ鳥島を含むその他の外郭全太平洋全諸島。
c、千島列島、歯舞群島、色丹島。
4.更に、日本帝国政府の政治上
行政上の管轄権から 特に除外させれる地域は次の通りである。
a、1914年の世界大戦以来
、日本が委任統治その他の方法で、奪取又は占領した全太平洋諸島。
b、満州、台湾、澎湖列島。
c、朝鮮
d、樺太
5.この指令にある日本の定義は、特に指定する場合以外
今後当司令部から発せられる
すべての指令、覚書又は命令に適用せらるる。
6.この指令中の条項はいずれも
、ポツダム宣言の第8条にある小諸島の
最終的決定に関する連合側の政策を示すものと解釈してはならない。
アメリカ上院 対日平和条約批准決議1952年3月20日 決議
第82回国会第二会期において上院は、1951年9月8日
サンフランシスコにおいて調印された
対日平和条約の批准に助言し、かつ同意する。日本国又は連合国の利益である
、1941年12月7日、日本国が所有していた、かつ条約に規定されてある
南樺太及びこれに近接する島々
、千島列島、歯舞諸島、色丹島及びその他の領土、権利、権益を
ソビエト連邦の利益のために当条約を
減少したり曲解したりすること、及びこれにある権利、権原及び権益を
ソビエト連邦に引き渡すことを
この条約は含んでおらず
、又この条約及びアメリカ上院の本条約批准に対する助言と同意は
、1945年2月2日の日本国に対する
ヤルタ協定とよばれるものを
ソビエト連邦の利益のために承認することを
、アメリカ合衆国として認めるものではないと
、上院の助言及び同意としてここに声明する。
日ソ中立条約破棄に関するソ連覚書(抜粋) 昭和20年4月5日
日ソ中立条約は独ソ戦争及び日本の対米英戦争勃発
前たる1941年4月13日調印せられたるものなるが
、その後事態は根本的に変化し日本は その同盟国たる
独イタリアの対ソ戦争遂行を援助し かつソ連の同盟国たる
米英と交戦中なり そのような状態においては日ソ中立条約は
その意義を喪失し その存続は不可能となれり。よって同
条約第三条の規定に基づき、ソ連政府は ここに日ソ中立条約は
来年4月 期限満了後 延長せざる意向なる旨宣言するものなり。
はいはい延長しないのね。(・・)
昭和21(1946)年4月までに攻めて来るなよー
近世韃靼と中世靺鞨と古代楽浪郡
(北緯北緯53度15分で周囲が海なので島と確認)
サハリャン=黒龍江=黒水靺鞨=吉里迷=ギリヤーク
ウィルタ=オロッコ
ナナイ 間宮海峡(韃靼海峡・ラッカ岬-北緯51度55分)
オロチョン 骨嵬(クヴェイ=苦夷=蝦夷)
邑婁山靼 宗谷海峡(ラペルーズ海峡)
渤海靺鞨 北海道(蝦夷=あいの)
白山靺鞨 津軽海峡
扶余沃祖 本州
新羅国−靺鞨海−本州
朝鮮海峡 本州(日本国)
対馬海峡 本州
壱岐海峡・関門海峡
五島列島・九州 豊後水道 四国
舟山列島 天草・阿蘇
薩摩
奄美
琉球=沖縄(北緯30度以南の西南諸島[米国が終戦直後に歴史名を認めない])
粟末部靺鞨(初代:乞乞仲象)=渤海靺鞨(2代目:大祚栄[渤海郡王])
勿吉=靺鞨: 粟末部(渤海族)・白山部(おらんかい)・黒水部(女真族)など7大部族
アイヌ人はモンゴル(正確にはギリヤークだろうけど)には
「クイ」と呼ばれ、ロシアには「クリル」と呼ばれた。
「蝦夷」を日本人は「えみし」や「えびす」と読むが それは
「毛人」から転じたもので「蝦夷」を「カゥイ」と読んだなら…と
>カゥイ=カムイ?・クイ?・苦夷?・庫葉?島
また、中国の文献には
蝦夷の風俗習慣と
クイの風俗習慣が ほとんど同じように描かれているのが興味深い。
そんな広範囲な交流は当時 考えられないと言う学者もいるが
多賀城碑には、きちんと黒水靺鞨までの距離が書かれているではないか。
当時、靺鞨(ギリヤーク)は オホーツク沿岸から奥尻島・留萌・天売島まで
進出していて(オホーツク文化)アイヌ人との衝突もかなりあったらしい。
ウィルタ(オロッコ)は かつて オロッコと呼ばれ
樺太中部に住んでいて 低身長 極端に平坦な顔で かつて
黒竜江下流にいました。人数が少なく
北のニブヒ(ギリヤーク)と
南のクウィ(樺太アイヌ)の 緩衝となっていました。
どちらにも隷属した過去があります。
『元史』には
骨嵬(グウェイ、当時 樺太アイヌは
クイと自称していたので樺太アイヌと思われる)が
吉里迷(ギリミ、ギルヤーク=ニヴヒ)と争って
元軍が介入した、という話が出ているんだよ。ちなみに
『金史』には
吉里迷は出てくるけど
骨嵬についての記述はない。
ロシア極東地域の
アムール川及びウスリー川を中心とした地域には
ナナイ・ウデヘ・ネギダール・オロチ・ウリチ・ニビヒなどの
先住民族が生活をしています。沿海州には
ウデヘやナナイ が今も住んでいますね。恐らくアムール川中流から下流の
ナナイやウリチ等のツングース系民族から得た語かも。
カムチャダールが釣り針などに使っていた鉄はアイヌ経由で「シン」と呼ばれていた。
アイヌはカムチャダールとの混血を嫌い アムール下流には間宮林蔵が大陸に渡った時
アイヌの家屋を発見している。
マガダン州のツンドラから 寛永通宝 が出土してますぜ! 持ち主は
おそらくエベンキ族かユカギール族。貨幣社会では
なかったのでおそらく装身具・副葬品として使われたらしい。
(ちなみに南ではオーストラリアのグレートバリアリーフ沿岸の
アボリジニが近年まで所持していた。用途は上と同じ!)
朝鮮が清(中国[漢人緑営や挙人+満州八旗人+蒙古八旗人])に
どの程度の従属関係だったか。
朝鮮が中国からどれほど低い扱いを受けていたかを見ればわかる。
・朝鮮国王は清の皇帝によって任命される。
・朝鮮国内の事件は全て皇帝に報告しなければならない。
・朝鮮国王は清の使節をソウル城門まで出迎えなければならない。
・朝鮮国王の地位は、清国の廷臣よりも下。
・朝鮮政府には、貨幣の鋳造権すら与えられてない。
・朝鮮政府には清国への食糧、兵士提供の要求権もない。
・朝鮮は清国に細かく定められた貢品を出す以外に、毎年、牛3000頭、
馬3000頭、各地の美女3000人を選り抜いて貢がなければならない。
朝鮮国王が宗主国の清国皇帝(雍正帝?)に奉呈した
貢文に気に入らない言葉が一つあっただけで、朝鮮国王は
銀1万両を罰金として払った上に、年貢への
見返りを3年間停止する処罰を受けている。
現在ソウルの城門のあった場所には「独立門」というものが建てられたが、
昔その場所には『迎恩門』という門があり、それは「朝鮮王が9回頭を
地面に叩きつけて擦りつけ、ひれ伏して清の使者を迎える」という
屈辱的な隷属の象徴の門だった。この迎恩門で『朝鮮の国王』が
土下座して出迎えたのは、中国の「王」ではなく中国の『使者』である。
朝鮮はそれほどまでに国家として“下”にみられていたのだ。
この1000年に渡る奴隷のごとき低い扱いは、
彼ら朝鮮民族の『民族気質』に深刻な影響を与えることになる。
17世紀初頭マテオ・リッチ
『坤與万国全図』
http://park6.wakwak.com/~photo/image/min01.jpg 白:庶民や日常で白衣使用__朝鮮の恨文化の巫檀(ムーダン)は白衣
__朝鮮旅行記に挿絵の洗濯女も白衣__李朝末期の写真の貴族の日常服も白衣
__チゲ(本来は荷背負い道具の名称・人足の名称に拡大)も白衣
__東学党の頭目と部下の服も白衣
フランス・アメリカ・ロシアの撮影した港や城や市場などの大衆の映った写真では
白衣一色。王宮に向かう役人が黒い衣を着ている。
四書の一つ『 論語 郷党篇 解説 』では、孔子は
普段着・凶事に上下(白鹿)と帯飾りに「白」の衣を着用し
礼服に上下(小羊)と帯飾りに「黒」を
祭服に上下(狐・狢)と帯飾りに「黄」を用いた。
紺(青)・赤茶・赤・紫を嫌って使用しなかった。
台湾・香港に見られるように
聖職者(道師(道士)・和尚)の服装と言うのは古来から
黄衣(霊ゲン道士・少林寺映画など)か黒衣(宰相・坊主・役人)である。
鄭声:「論語」衛霊公篇では「淫靡な音楽、好色物」を意味する → 姓名で「鄭」
尹士:「孟子44章」公孫丑編では「士は誠に小人(小人物)と反省した」から取った名。
天円地方(洛陽南郊から北京の天壇・奉天)・前円後方墳(前方後円墳)
[和漢]三才図会(昔の図鑑・百科事典)
天。九重の天。天動説の同心円を描く星の公転の軌道が円形。(南蛮マテオリッチ)
900 :
マンセー名無しさん:2006/04/21(金) 19:18:59 ID:5bNLQMwg
燕人_後燕(慕容部鮮卑族)←_慕韓_高句麗_前秦符堅に朝貢_→_建州営
燕地(北京)_____加羅国_馬韓__↓_後燕を倒し遼東を制圧_満州衛
前秦(北朝)______秦韓_新羅城−楼寒王→慕秦王が_慕韓に追従し前秦に朝貢
宋国(南朝−六朝)___任那_辰韓__七国−六国諸軍事安東将軍−倭王武の上奏
燕人衛満(衛氏朝鮮・真蕃朝鮮胡国(句麗胡・高麗)王倹城(平壌城)の王倹朝鮮)
箕子朝鮮(殷のチュウ王を諌めた箕子が逃げた先が朝鮮胡国で亡命後に朝鮮国也)
高句麗の宰相
伊梨柯須弥(いりかすみ 本名の
淵蓋蘇文(えんがいそぶん)の音を写したもの
=泉蓋蘇文)泉=セン=鮮・浅・千ほか(朝鮮帰化名に使用されやすい)
高句麗名(いりかすみ)__→漢人姓名(泉)氏
鮮卑族名(ガロクコン)__→漢人姓名(高)氏
契丹族名(ヤリツ・耶律)?→(?)氏?
勿吉族名(乞乞仲象)?→(?)氏?
渤海族名(大作栄?)→(?)氏?
女真族名(ワンヤン・完顔)?→(?)氏?
満州族名(エホナラ)___→漢人姓名(葉)氏
満州族名(アイシンギョロ)→漢人姓名(董)氏
よく判らない。