>>138 >それは 違う 『 特別 』扱いを受けていた
姜尚中?(長野氏):
燕山君(14095−1405?)の説明。ハングルを焚書坑儒。
特別扱いではなく、使用者や文書保持者は死刑。
シャルル・ダレ神父(朝鮮事情著者・1850年前後)
ハングルは
カトリックのマリアの祈りの普及とフランス韓国語対訳辞書作成で
初めて使用。
それまでは、あるはずが無い
日本が名付けた「国学」「諺文」の単語を
親日派(星湖学派[開化党・清からの独立党・星州は倭館の別名]・
李朝の南人[慶尚道人])が呼称を使用。
>>学校そのものも無かった
>学校
>両班限定
学校ないよ。郷校は日本の藩校のパクリの捏造。日本の寺子屋のパクリが書堂(ソだん)。
両班は自宅学習、父から子へ。だから家の使用人がわかるはず無い。
王宮では親戚の王宮の役人の家に養子で学習。
養家で自宅学習、養子に入った家の祀檀が、書檀(ソだん)という塾。
その上での面接の科挙試験。
中国で欽試(朕が直接面接)とか殿試(宮殿で面接)といって
これを真似て族譜という家系図で血筋と地縁と学閥で面接試験の参加者を決め
役人登用(科挙試験合格)を決めた。
>>146 実家の自宅の仏間と書斎(仏教は無いから先祖を祀る祭壇の部屋と家の本棚の部屋)で
父親や地元の役人だった人をニム(任・長老)として敬って迎え
息子に勉強させるんだよ。
仏間と書斎の兼ね合わせた所を祀檀(さウ)という、
恨(ハン)を乗り越えた人を大宇(でウ)と言い。デウが勉強できる器とした。
王宮の親戚は学閥や地縁の役人派閥を形成指定ていて
今の東京大学のゼミの先生のツテで
官公庁を受験して将来のポストの斡旋を頼むようなもの。
この付き合いがシフトしたんだね。
帰化人の中央官庁の局長や次官の争奪の飲み会は。
王宮の養子での面接受験勉強は別の独立した用語があるが
本物の両班(やんばん)でないとわからんさね。
両班(やんばん)は匙作法(さじさほう)という食事を儀式で食べるので
普通、倭芥子(うぇケじゃ)と呼び
下人(はイン)や奴婢(のビ)の呼ぶコチュ(チンポコ)と
唐辛子を呼ばないね。
両班(やんばん)は
忘却の実だと侮蔑して、コチュ(倭芥子・唐辛子)を常用しない。
奴婢を倭芥子食いと思ってバカにしている。
忘却の実を食べるからノビなんだと思っている。
148 :
セイラ・マス・大山:2006/03/18(土) 11:50:19 ID:gPASR3k1
ヒント
「愚民文字」
149 :
マンセー名無しさん:2006/03/18(土) 11:53:17 ID:yeZJqgZW
>恨(ハン)を乗り越えた人を大宇(でウ)と言い。デウが勉強できる器とした。
大宇財閥の名前の由来なの?
教えて、エロい人
>>147 > 実家の自宅の仏間と書斎(仏教は無いから先祖を祀る祭壇の部屋と家の本棚の部屋)で
> 父親や地元の役人だった人をニム(任・長老)として敬って迎え
> 息子に勉強させるんだよ。
今風に言うと、家庭教師ですね。学校とは呼べないのでわ。
近代の学校制度ってヨーロッパ発祥じゃないの?
寺子屋を別にすると、アジアでは誰かに師事するか自学研鑚するか
ってイメージがあるんだけど。
書堂(そだん)は
大正時代に、朝鮮総督府の義務教育・学校教育に応じない
日本帰りの負け惜しみで、地方・田舎で負け惜しんで
寺子屋を開いた一般人普及版だがね。
写真を証拠だと言って掲載しているんだよ。
女の子が乗っている。
辛亥革命以降が朝鮮総督府で、
革命で辮髪は、中国で廃止しているのに、お下げで映っている。
女の子は男尊女卑の李朝(李氏朝鮮・王朝時代)では
学問をさせない。
写真の普及は対象時代以降。
だから
写真は大正時代・大正レトロでなく
昭和初期の昭和モダンの時の内鮮一致運動あたりの朝鮮紹介本が
大正時代の1915年ごろ(併合は1910年)に写した写真を用いている。
としか思えないね。
朝鮮の置き屋と朝鮮人芸者の写真は発禁とハンコが押してあるが
チマチョゴリが色とりどりのスプライト縞模様で映っていたね。
白黒写真でも色があれば黒く灰色に映るよね。
白衣文化なんだから白一色で黒着色の写真なんて映ろうはずが無い。
赤青黄のチマチョゴリはチンドン屋ほどの白い目で見られていた。
白のチマチョゴリが正装。
日本からお金を借り入れ、工場に事務所の運営をするために
私どもは韓国人の中で恨みを越えた人たちの金持ちでございます。
と融資依頼したんじゃないの?
153 :
マンセー名無しさん:2006/03/18(土) 12:19:29 ID:5OXANIlk
日本名を名乗る権利を与えてやったのに
「奪った」と抜かすチョン
では、昔より差別がないはずの日本で在日が通名を名乗る権利があるのはなぜですか?
北朝鮮に拉致し強制収容所で拷問殺人=在日朝鮮人を米軍が居留民保護で駐留
在日朝鮮人を米軍が居留民保護で駐留=在日米軍基地の性拷問殺人
北朝鮮14老将軍=アメリカの金持ちクラブ「フリーメーソン」在日朝鮮人が日本代表金持ち=アメリカ軍
↓
濡れ衣に責任転嫁で金正日=日本人の金持ちヤクザ右翼のせい=アメリカ人権活動家のせい
今の韓国は姓が同じでも結婚出来る様になってるってことは
朝鮮総督府の政策自体間違いではないって事だよね
沖縄人や日本人の女の子がアメリカ兵に乱暴されても
在日朝鮮人のSMクラブや芸能プロダクトの集団レイプ魔が
アメリカ兵と戦った。などは、絶対聞かない。
芸能プロダクト集団レイプ魔(在日朝鮮人・帰化人)=アメリカ兵=沖縄女性・日本女性SM殺人者
アメリカ兵が芸能プロダクトの帰化人を暴行したり殺害した話は無い。
六本木・赤坂・新宿・渋谷・銀座・福生(横田)・座間・横須賀・横浜など
でも聞かない。
北朝鮮=アメリカ兵=在日朝鮮人のレイプマン猟奇殺人愛好家
アメリカは絶対北朝鮮に勝てない。
日本で北朝鮮人の保護をアメリカ兵がしているから。
・直江津駅リンチ殺人事件(1945年12月29日)
信越線黒井駅で
ヤミ米ブローカーの朝鮮人3名が列車の窓ガラスを割って乗り込もうとしたところ、
ある日本人乗客に拒まれて乗り込むことができず、デッキにぶらさがって直江津
駅まで行った。彼らは直江津駅でその日本人乗客に対し、「乗降口から乗れないので、
仕方なくガラスを壊して乗ろうとしたのになぜ妨害した」と詰め寄ったが、
日本人乗客が「窓から乗り込むという方法はない」と反駁したので、
「朝鮮人に向かって生意気だ!ホームに降りろ!殺してやる!!」と叫んで、
その乗客をホームへ引きずり出して、パイプやスコップで滅多打ちにして
殺害した。朝鮮人3名はその後逮捕されたが、全員逃走してしまい、結局うやむやの
うちに終わってしまった。なお余談ではあるが、この種の鉄道内の
不法行為を防止するために、急遽設けられたのが「鉄道公安官」制度である。
・大阿仁村事件(1945年10月22日)
秋田県北秋田郡阿仁合町(現在の秋田県北秋田郡阿仁町)の阿仁鉱山で働いていた
朝鮮人12名は、1945年10月22日午前9時頃、約16キロ山奥の
同郡大阿仁町(現在の秋田県北秋田郡阿仁町)の集落へ行き、共同管理の
栗林に侵入し栗を拾っていた所を村人に発見され注意した
ところ乱闘となり、村人3名が重傷を負った。午後1時になると
約40名の朝鮮人が来襲したので、警察と警防団は直ちに現場に急行し鎮圧した。
彼らは闇市を掌握して巨大な利益をあげ、徒党を組んでは瓦礫と焦土の神戸の街を闊歩していた。
通りすがりの通行人の目つきが気に入らぬといっては難くせをつけ、無銭飲食をし、
白昼の路上で婦女子にいたずらをする。善良な市民は恐怖のドン底に叩き込まれた。
こうした不良分子は旧日本軍の陸海軍の飛行服を好んで身につけていた。袖に腕章をつけ、
半長靴をはき、純白の絹のマフラーを首にまきつけ、肩で風を切って街をのし歩いた。
腰には拳銃をさげ、白い包帯を巻きつけた鉄パイプの凶器をひっさげた彼らの略奪、
暴行には目にあまるものがあった。警官が駆けつけても手も足もでない。「おれたちは戦勝国民だ。
敗戦国の日本人がなにをいうか」。警官は小突きまわされ、サーベルはへシ曲げられ、
街は暴漢の跳梁に無警察状態だ。一部略
終戦後の第三國人どもは本當に酷かった 軍の兵器を盗んで來たらしく、
三八式歩兵銃や南部式拳銃で武装し、小銃には着剣して強盗強姦傷害恐喝脅迫不動産窃盗、
時には殺人まで、経済犯、實力犯を中心にあらゆる悪事を重ねてゐた
斯うした情勢にそりゃ儲かるだらう。取締を横目に犯罪のし放題、
警察の検問を竹槍日本刀を振り回して強行突破したのだから當時は物不足で、
賣る方は素人でも出來た仕入れこそ難しかったのだが、彼等は日本人露天商を襲って商品を
奪ふのだから其で警察が黙認して捕まへないのだから、こりゃあ損のし様が無い
警察が襲撃されること頻りで、署長が叩きのめされたり、
捜査主任が手錠を賭けられ半殺しにされるぐらいは珍しからず
上野で朝鮮人経営の焼肉屋へ國税局査察部が査察に行った際
大金庫を開けて手を入れた瞬間を狙って二十人ぐらいで一斉に金庫の扉を押したものだから
査察官は腕を切断されてしまった(録取者註 當時は警察署が襲撃される事が珍しくなく、
第三國人の來襲によって犯人を奪還された
富坂警察署事件、ついでに警官が殺された
澁谷警察署事件、共産党が大群で警察署を包囲し外部との聯絡を遮断「攻城戦」に出た
平警察署事件等、枚擧に暇有りませんでした
160 :
マンセー名無しさん:2006/03/18(土) 12:50:07 ID:oCKddbzB
奴隷に名前?
П-4285
Я-3742
Ж-4242
で十分だろ
一瞬、ぎくりと立ちどまり、悲鳴のあがる方角に走った。途中で
四、五歳の女の子が泣きながら夢中で駆け寄ってきた。
「どないしたんや」「おかあちゃんが、おかあちゃんが」
少女は私に泣きじゃくりながらしがみつく。この世のものとは思えぬ
女の狂気じみた悲鳴がきこえつづけていた。
「ここにいるんやで。ええな」私は少女をその場において一目散に走った。
少女の母親は木立の中で数人の男に犯されていた。
飛行服の男たちだった・・・(中略)通りすがりの通行人の
目つきが気に食わないといっては難くせをつけ、無銭飲食をし、白昼の
路上で集団で婦女子にいたずらをする。善良な市民は恐怖のどん底に叩き
込まれた。こういった不良分子(朝鮮人)は旧陸海軍の飛行服を好んで身に
つけていた。袖に腕章をつけ、半長靴をはき、純白の絹のマフラーを首に
巻きつけ、肩で風を切って町をのし歩いた。腰には拳銃をさげ、白い包帯を巻き
つけた鉄パイプの凶器を引っさげたかれらの略奪、暴行には目にあまるものが
あった。警官が駆けつけてきても手も足も出ない。「俺たちは
戦勝国民だ。敗戦国の日本人が何をいうか」警官は小突き回され、サーベルは
ヘシ曲げられ、街は暴漢の跳梁に無警察状態だ。
日本兵の服を着た暴行写真は
終戦直後の朝鮮人が日本服を着て暴行したか写真か見分けがつかない。
戦前日本に渡ってきて日本人に なりすまして生きている
半島系も多いよ。外務官僚なんて縁故採用だから戦前外交官になった
朝鮮系外交官が 戦後GHQの工作員に鞍替えして権力を持ち
実質外務官僚のポジションを相続させるシステムが出来ている。
寺の住職だとか、老舗の反物屋だとか言っても丁稚上がりが乗っ取ったり
経営難につけ込んで養子入りした朝鮮人も多い。何と言っても家柄
家系を金で買ってなりすますと言うのは朝鮮人の特技ですから。
大学教授とか実業家というのも、日本の敗戦後アメリカ政府による
フルブライト留学によって 戦後日本の占領政策の走狗として養成された人間が
中枢を占めていて、しかもかなりの確率で半島系が日本人として植え込まれている。
親が神戸大学教授のIT実業家も在日2世だけど、親は国立大学の教授という看板で
日本人の振りをしている。勿論国籍は日本だが半島人特権倶楽部のメンバーとして
日本潰し朝鮮人による日本支配のために日夜邁進するだけの朝鮮人工作員である。
というかネット上にソースがあるほうがおかしい。個人の戸籍謄本が
おいそれとネットに流れるはずがない。いわば日本の民主主義が
在日の正体を厳重にガードしてくれてるわけでw 当然、在日もそれを承知している。
一応出自がハッキリしてる奴等は新聞やTVで報道されてるよ。
で、そういうものが全く無く、この板の伝聞が発祥?で生まれたのが509のコピペだよ。
信憑性の無い情報に踊らされてる奴は鮮ちゃん達の事を笑えないよ。まあ
麻原は朝鮮系を指し示すソースが多少ある。
織原は帰化韓国人であることがハッキリ報道されてる
他、韓国名の奴等は誤魔化しようなく韓国人だろうが…
【第一次神戸事件(GHQによる朝鮮学校閉鎖令に対する暴動】
衆議院 本会議(昭和23年05月07日)より引用
突然知事室の隣室に、喚声をあげて多数の朝鮮人が乱入しました。
器物、ガラス等を破壊する騒音が聞え、
ついで知事室の入口のドアを椅子等で打破ろうとするふうでありましたので
内部からこれを阻止する一方、警察長は電話にて急を警察本部に連絡し
警官の即時派遣方を命じておつたのでありますが知事室
隣室に乱入いたしました暴漢は、刻々その数を増し 口々に開けろ、殺すぞ
などと絶叫し、約三、四十分経過した後に遂に知事室入口のドアも打破られ
一時に約百名の暴漢は、なだれを打つて知事室に乱入し、手当り次第にいす
テーブルその他の備品を破壊し、電話線三本を切断、電話機三箇を破壊
知事の事務机に上り、ガラスを破り、二、三十分間は
阿修羅のごとく暴れまわり知事室の樣相は一変するに至つたのであります。
-----------------------------------------------------------------
ハルノートは拡大解釈をしても朝鮮 台湾 南樺太からの撤退は要求していません。
ハルノートを飲めば原爆も何もなかった。みんな幸せだった。
↓
ハルノート上の「シナ」の範囲が極めて曖昧で アメリカの意向次第で
満州(遼陽〜完顔部〜奴児干[尼港の北]〜庫葉島[樺太]−野作[オホーツク]−愛渾[ブリヤートの東])も
朝鮮も
台湾も含められるんだよ。
朝鮮(楽浪郡)も
台湾(福建省福州人・福建省樟州人)も
元はシナ領土(秦漢〜満州王朝)から
大日本帝国領(倭蝦夷〜日本)になったんだからな。
陶磁器: 磁器は造れていない。墳墓にある磁器は中国からの輸入物である。
陶器を「沙鉢(さバル)」陶器師を「沙器匠人(さギちゃんギン)」と呼ぶ。
埴輪のように素焼きである。
ハングル: 1800年代前後から北京から西洋学と共に
カトリック教が朝鮮入りし フランス人神父が
マリアの祈りを書いて広めた頃から使い始めた。
フランス人神父がハングル(大きい[ハング]字[うる])と命名したのである。
キリスト教では聖書などで使われる
古代ギリシア文字やヘブライ文字(ユダヤの文字)を書いた古写本や
古文献の文字を活字と違い字が大きく書かれていたから「大字写本」と呼んでいた。
つまりフランス人が「古い文字」を「大きい字」と呼んだのである。
1800年ごろに日本に「諺文(おんもん)」という字が
朝鮮にあると中国の広東・福州から日本の長崎に知られ 中国学問しか文化でない
とした朝鮮に「朝鮮の国学」があると強弁する日本の学者があらわれた。
対馬では日本の国学が盛んな頃に「アビル文字」という名で「ハングル」文字を
描き込んだ古代青銅円盤鏡を持って日本を紹介していた。
「アビル文字」を古代文字とは言うが「梵字」にそっくりで
ツガル外三郡史・江戸の国学の秀真伝(ほつまづたえ)「神代文字」なみの
捏造と思われる。
参考:
朝鮮事情 東洋文庫 平凡社 ダレ神父(ダブリュイ主教[司教])著
朝鮮の華夷思想 山川リブレット
韓国の歴史 明石書店 (韓国国定教科書 高等学校編・通信大学編)
ほか関連HP
・そもそもフビライを唆したのは高麗人の趙彜という人物である。
・元寇の時代に高麗の王世子・椹(後の忠烈王)もフビライを唆している。
・高麗軍は対馬、隠岐を攻撃したときに、男は殺害
女は集められて手の平に穴を開けられて縄を通され船縁に吊るし
そして200人の少年少女が「強制連行」され
http://www.geocities.jp/nobuo_shoudoshima/koreatext2.html (5)倭寇
朝鮮の史料「世宗実録」に
「倭人不過一二而本国之民仮著倭服成党作乱」と
「倭人は1、2に過ぎずして、本国の民、仮に倭服を着して党を成し乱を作す」
密貿易が横行したことと、元寇を通して
元寇時の元・高麗連合軍の対馬住民に対する暴虐への復讐として
倭寇が行われたという歴史的事実がある。元寇の時代に
高麗の王世 子・椹(忠烈王)は「惟んみるにかの日本
未だに聖化を蒙らず。故に詔を発して軍容を継耀せしめんとせば
戦艦兵糧まさに須いる所あらん。もし此事を以て臣に委ねなば」
「王師を小助せん」とフビライを唆しています。
そして『日蓮註画讃巻第五「蒙古來」篇』に
「二島百姓等 男はあるいは殺あるいは虜、女は一所に集め、手を徹
、舷に結付 虜の者は一人も害さざるなし。肥前国松浦党数百人伐虜さる。
この国の百姓男女等、壱岐・対馬の如し、」と
(6)朝鮮の国号
「李氏朝鮮」は「衛氏朝鮮」など国号が
http://www.geocities.jp/nobuo_shoudoshima/japantext2.html
宣祖(1568−1608)光海君(1609−1622)
仁祖(1623−1649)孝宗(1650−1659)顕宗(1660−1674)
1684年(粛宗10年)
喪輿[棺を担ぐ人足]徒の集まり=香徒契(ヒャンどゲ・明教−弥勒教−紅巾党)葬儀組
________________?契(ちゲ)組員の反乱
真人(ちニン・救世主)が出現と飛語流言
1688年(粛宗14年)
弥勒信仰(釈迦の時代が終わり弥勒の時代が到来・別の時代)と称して反乱
1689年(粛宗15年)
老論(のロン・西人[そイン]・宋時烈の派閥系統)から
南人(なミン・東人[慶尚道派閥]から分かれた)へ換局(政変)した。
1697年(粛宗23年←13年[1687])ごろに
義賊の張吉山(ちゃんキルさん)というクァンデ(広大)なる
人形劇・仮面劇・パンソリ[唱劇・寸劇]・綱渡りなどの伝統芸人の出身者の反乱
ショゲツとヤンバンの間のチャンキルサンのような反乱を郷戦という
大同法(てドンぽぶ・地方特産物の貢納を廃止・土地固定[布・材木・穀物・行商収入銭]税制)
均役法(きゅんヨツぽぶ・固定の土地の人身に武課[地元奴婢の労働奉仕が税金])
掌隷院(ちゃんレうぉん:下人・奴婢の監督機関)
景宗(1721−1724)英祖(1725−1776)
1728年(英祖4年)
南人・小論の両班が指導した反乱 星湖・李翼の『門族登科記』に
大家(てガ)名族(みょんゾク)聞人(いむイン)顕士(ぴょんサ)達官(たるグァン)
早位(ちょうイ[早の字の日は白・どんぐり])を問わず殺戮と記載
正祖(1777−1800)
【李氏朝鮮】での想定される社会構成
組を監督する役所: 掌隷院(ちゃんれうぉん)両班(やんばん)の達官(たるぐぁん)?
組の長老: 大家(てが)階級?の契(げ)の任(ニム・長老・おかみ、うえ様・忠孝礼儀)
組の人足: 奴婢(のび)階級の○契(ちゲ)?
均役法(きゅんヨツぽぶ)を根拠に
ナラ(国)・みょん(面)のナリニム(?任・旦那)であるヤンバン(両班)が
マウル(邑)・い(里)でハイン(下人)のチゲ(?契)をノドン(労働)させるという課税で生活
チゲが行商という方法で労働した時に所得税として[鋳造権がない為に]中国銅銭で行商収入を納税
【 中国の藩鎮で中国の節度使が支配する属中国社会の中身 】
ヤンバン→換局←ヤンバン(政権争い:西人[ソウル]北学[清学]→←東人[プサン]分派の南人・南学[明朝])
↓
郷戦(処遇改善要求の暴動[民乱・軍乱]・弥勒や真人[ちにん・救世主]をかたる世直し革命騒ぎ)
↑
ショゲツ・ノビ
倭奴(うえのむ)にはキョンポックン(景福宮)の造営で、のんびりアリラン歌う平和の国と あざむく。
実は 派閥負け組みのへの虐殺・反乱人民への拷問の阿鼻叫喚の国。→垢奴(てのむ・垢野郎・中国人)
沃祖人→玄菟郡高句麗縣人→渤海國人→東丹國人→遼河中流域の鉄嶺地方人=遼東地方の中国人に帰化
穢貊人→樂浪郡不而縣人→穢王不而の民→畿湖地方→ソウルの京畿道人
扶余人→馬韓伯済國人→加羅任那人(貊加羅人・馬韓人)→百済人→湖南地方人→全羅道人
辰国人→辰韓斯廬國人→新羅人(辰廬人・辰韓人)→嶺南地方人→慶州の慶尚道人
弁辰人1→樂浪郡樂都縣人→弁樂奴國人→海北九十五國の任那人→星湖地方人→洛東江流域の慶尚道人
弁辰人2→帯方郡海冥縣人→弁辰狗邪國人→任那日本府人→南加耶金官國人→東莱城富山浦人→釜山人
_410年 百済が書き記し始め王仁の頃
_502年 新羅の国号王号名乗りの始め
・・・
1446年 李氏朝鮮王の世宗時代になって歴史記録(実録・漢字真読)の編纂が始まる。
1499年 朝鮮王の燕山君時代に「吏読」が廃絶され焚書坑儒される。
・・・
1800年 対馬が朝鮮へ神代の鏡に書かれた「アビル文字」を紹介。
1820年 朝鮮には中国文化以外の国学があり「諺文」という字があると日本へ伝わる
1860年 フランス人神父のバチカンへの報告に「ハングル[大きい字=古字]」がある
植民地支配を招いた原因、小中華思想
つまり朝鮮人には酷な表現ですが李王朝(1392〜1910)下の朝鮮が、
四百年以上もの間、中国の明(みん)、清(しん)の属国としての地位に甘んじて、
ひたすら中国を世界の中心、支配者と崇め奉る反面、
身の程をわきまえず他国を夷狄(いてき、野蛮人)とみなす小(?)中華思想を信奉し、
古びた儒教の教えに従い世界の趨勢に目を向けずにいたこと。
その結果国家の近代化を怠り、政治的に無知無能、軍事的に無力、
経済的に無為無策であったが故に、日本の植民地にならなくても、
いずれはどこかの国の植民地や領土にされるという、地理的、歴史的必然性があった。
燕山君(在位1494〜1506)
「朝鮮の歴史と文化」 姜在彦 1993年 明石書店
民衆や女性にも習いやすいこの文字を諺文(おんもん・俗文)としてさげすみ、
漢字こそが真書であるといって尊重したのは朝鮮の儒者たちの悪弊ですが、その
ような傾向は「訓民正音」(ハングルのこと)が制定された当初からありました。
集賢殿副提学(王立アカデミー副学長といったところ)崔万理らの反対上疏が
それです。そこには六つの反対理由があげられていますが、その基本は『歴代
の中国では、わが国をもって箕子(伝説的な箕子朝鮮を建国した中国渡来人)の
遺風があり、文物礼楽が中華に比肩するといっているのに、いま別に諺文を作
るのは、中国を捨てて夷狄(野蛮人)と同じくなる』ことだというものでした。(中略)
ハングルの受難はその後も続きました。酷かったのは、この文字が創制されて
から50余年が過ぎた燕山君(在位1494〜1506)の時のことです。彼は李朝第十
代の国王ですが、暴君として悪名高く、その横暴を誹謗した文書がハングルで
書かれていたために、それを教えることも学ぶことも禁止したのです。
またハングル本およびハングルによる訳文も集めて焚書することを命じ、ハン
グルを使用した者も、それを告発しない者も、厳しく処罰しています。
強大な中国と日本に挟まれた小国の朝鮮は1800年代の後半まで世界の秘境で完全な鎖国体制をとっていた。
許可なく国外に出ようとする者また密出国で帰って来る者は全て死刑であった。
中国へは貢で北京に使者を送り、平壌で中国使節を歓待した。日本へは釜山で応対し、
釜山(富山浦[ぷサンぽ])の租界は数百人の兵隊の他に労働者が多数居り対馬藩主の支配下にあった。
釜山3〜4km沖合いの草梁(ちょんりゃん)という島には対馬の日本人しか住まなかった(倭館:うえがん)。
タイコサマ(太閤・秀吉)が死んで次の国の頭(秀頼と五大老[前田・家康ほか])は
人間の皮30体分を貢げば出兵を止め和睦すると言い朝鮮王は要求を飲んだ。
数年後に人参・米・衣類の貢に取って代わられ 毎年の貢は釜山で
重要なものと国王や幕府の将軍の交代の挨拶は対馬でと言う事になっていた。
フランス人神父によってローマ字がもたらされ
フランス人が朝鮮を理解するために漢字とハングルとローマ字併用の辞書が作られた。
それはキリスト教のお祈りを読み書き出来るように神父が工夫した事から始まった。
・・・
これでは庶民にキリスト教を広められないので
フランスがバチカンへの報告を兼ねて世界に先駆けて朝鮮語の研究を創めた。
(「諺文」を「大きい文字(ハングル)」と神父が呼んだ)
倭芥子『芝峰類説(チポンユソル)』イ・スグアン(李?光)
・・・
”[韓国]コチュ・[李朝]倭芥子・[日本]唐辛子”と乳酸菌系の韓国の漬物。。。
朝鮮王朝(李氏朝鮮)の硯学イ・スグアン(李?光)が編んだ『芝峰類説(チポンユソル)』には
日本から伝来した「倭芥子」として唐辛子が紹介されている。
。。。1984年、メキシコ産の唐辛子を緊急輸入。。。