547 :
マンセー名無しさん:
>1636年 島原の乱 北九州に幕府軍10万以上集結。
丙子胡乱(ビョンジャホラン・1637年)の際に、清国軍十万の
侵略を受けて降伏した朝鮮は、以下の三点を盟約させられている。
1,朝鮮は公文書に清の年号を用いること
2,王位継承に置いて、柵封を受けること
3,一年4貢を受領すること
このような事実を韓国の教科書は全く書いていない。
「丙子胡乱」については、次のように書いているだけである。
---------------------------------------------------------
後金は勢力を強め、国の名称を清とかえ、朝鮮王朝に対して
君臣の礼を要求して再び侵入し、漢陽(ハニヤン)を占領した。
そのため仁祖(インジョ)は臣下とともに南漢山城に移り、
四十五日間抗戦したが、遂に清の要求を受け入れて講話を
結んだ。この戦争を丙子胡乱という(1936)
奴隷じゃんか???????????ただの
>×丙子胡乱→○丙子虜乱 北虜南倭・南船北馬
>20万の満洲八旗兵・南漢山城での
>45日間篭城は1万4千の朝鮮人(明軍の救援を待つ)
>駅吏ほか李自成の北京攻撃と大順国
548 :
マンセー名無しさん:2006/04/20(木) 12:15:41 ID:YSpuWnrv
549 :
マンセー名無しさん:2006/04/20(木) 12:16:16 ID:iHJOrJak
>>547 仁祖はこの時、それまで
軽蔑していた胡服(北方の蛮夷の服[満州服か?])を着て、
坡洞の三田渡(さんじょんど)に設けられた
「受陣壇(受降檀)」において屈辱的な降伏を行った。
「受陣」とは、降伏を受け入れることである。
仁祖王は「受陣壇」に於いて
清の大宗(ほんたいじ)に向かって九回、地面に頭をつけて
叩頭する拝礼を行なったうえで、清からの一方的な
和約を結ばされた。1637年1月30日のことだった。
この和約の内容は次のようなものだった。
一、朝鮮は、清に対し、臣としての礼を尽くすこと(中略)
一、王の長子と次男、および大臣の子女を人質として送ること
一、清が明を征伐する時には、求められた期日までに
、遅滞なく援軍を派遣すること
一、内外(清)の諸臣と婚姻を結び、誼を固くすること
一、城郭の増築や、修繕については、清に事前に許諾を受けること
一、清に対して黄金100両、白銀1000両と20余種の物品を
歳幣(毎年納める金と品物)として上納すること
一、皇帝の誕生日である聖節、正朔である正月1日、冬至と、
慶弔の使臣は、明との旧例に従って送ること(中略)
この和約によって李氏朝鮮はその後、19世紀に至るまで、
清に毎年、全国から選ばれた美女である妓生と宦官を貢いだ
550 :
マンセー名無しさん:2006/04/20(木) 12:18:12 ID:iHJOrJak
朝鮮が清(中国[漢人緑営や挙人+満州八旗人+蒙古八旗人])に
どの程度の従属関係だったか。
朝鮮が中国からどれほど低い扱いを受けていたかを見ればわかる。
・朝鮮国王は清の皇帝によって任命される。
・朝鮮国内の事件は全て皇帝に報告しなければならない。
・朝鮮国王は清の使節をソウル城門まで出迎えなければならない。
・朝鮮国王の地位は、清国の廷臣よりも下。
・朝鮮政府には、貨幣の鋳造権すら与えられてない。
・朝鮮政府には清国への食糧、兵士提供の要求権もない。
・朝鮮は清国に細かく定められた貢品を出す以外に
毎年、牛3000頭、馬3000頭、各地の美女3000人を
選り抜いて貢がなければならない。
朝鮮国王が宗主国の清国皇帝(雍正帝?)に奉呈した貢文に
気に入らない言葉が一つあっただけで
朝鮮国王は銀1万両を罰金として払った上に
年貢への見返りを3年間停止する処罰を受けている。
現在ソウルの城門のあった場所には
「独立門」というものが建てられたが、昔その場所には
『迎恩門』という門があり、それは「朝鮮王が9回頭を地面に
叩きつけて擦りつけ、ひれ伏して清の使者を迎える」という
屈辱的な隷属の象徴の門だった。この
迎恩門で『朝鮮の国王』が土下座して出迎えたのは
中国の「王」ではなく中国の『使者(名代の宦官?)』である。
朝鮮はそれほどまでに国家として“下”にみられていたのだ。
この1000年に渡る奴隷のごとき低い扱いは、彼ら朝鮮民族の
『民族気質』に深刻な影響を与えることになる。
551 :
マンセー名無しさん:2006/04/20(木) 12:19:43 ID:BA3KRXpG
要するにアレだろ、「歴史教科書」って題名の歴史小説なんだろ
552 :
マンセー名無しさん:2006/04/20(木) 12:19:46 ID:iHJOrJak
寺院建築が鮮卑族の北魏の雲崗石窟のように石造りの建築: 新羅
庶民や有力者が土盛りに横穴の洞(ドン)の住居: 高麗
(契丹に押され渤海人が大量移住し、女真族や蒙古族に荒らされ
山間で採集し隠れて暮らす。桑や根類を食べ 攻め込んで来た侵略者に
焼き払われない雑草に見える焼畑の粟や高粱などを食べる)
セ+マウル(新しい村)運動で、洞(ドン)の住居を日本式民家に高度経済成長。
明朝(中国)軍の救援で中国式の城壁や建物を中国人が建設: 李氏朝鮮
(攻め込んで来た日本人の倭城の石垣・
駐屯で日本人大工が日本式の屋敷建築が敵産で使用)
漢城府[ソウル]の街中が、藁葺きの庶民の家・王宮は中国式建築: 李朝末期
(伐採権をロシアが取得・禿山多し・イグサが栽培できない寒冷地)
553 :
マンセー名無しさん:2006/04/20(木) 12:20:29 ID:iHJOrJak
高麗は、桑と柴と粟で、焼畑の文化。
田柴科制という腐葉土や薪に山菜採り山獣狩りをする領地を与える。
この中に山焼きの権利がある。
山の朝鮮人参や生姜、大根の採取、狼(犬)肉の狩猟、粟や桑の栽培も含む。
そこの洞(ドン)に住む奴婢(のび)の使役権も含む。
一つの行政区がドン(洞)でありイ(里)であり
その一帯をミョン(面)といい。
栽培等の土地を図るマルという度量衡と
その集落がマウル(邑であり、洞[ドン])で
マウルをまとめたナラ(国・その地方の面[ミョン])の長老や
国主をニム(任)と呼んだ。
ナウリニム・ナリニム[閣下]は
その土地の旦那であり主人であり長老である。
朴正熙(パクちょんヒ)大統領の時も
焼畑の保護策が出ていたと思ったのだが。
パク大統領はナリニム(閣下)なの。
ジュンク堂の商品棚にあったね。今はドウか判らないが。
韓国?焼畑の研究だか、軍事政権の農業政策だか?題名を
よく覚えていない。。。
554 :
マンセー名無しさん:2006/04/20(木) 12:21:19 ID:iHJOrJak
ドン(洞)の住居は、土盛りで横穴の住居であり
女真族や蒙古族の侵略に対し、どこに住んでいるか判らない
ゲリラ戦に適していた為に 腹を立てた蒙古族は
住民を引きずり出し見せしめの大虐サツを行った。
この原始的なドンを無くし セ・マウル(新しい邑)運動を
全斗煥(ちょんドふぁん)大統領の時に行った。
光州事件の全羅道の連中は ヤクザ組(契[ゲ])の
チゲ(荷背負い人夫・人足)のような暴動を起こし
徴兵制を悪用した武器庫襲撃と演習的に国内で戦争を起こした。
日本の嘲笑を無くす為の経済発展を遅らせ、政治的民主主義なるものを
優先させ カトリック教会や学校や喫茶店を、都市部でヤクザのアジト
化させた。
大阪の警察官を襲って拳銃を盗んだ、在日朝鮮人が韓国に密入国し
大統領を狙撃して問題になった時 社会党や民社党や共産党が
犯人の取り締まりを先の戦争に反省が無いといて妨害し
公明党は韓国人の出稼ぎの為の日本入国の緩和を望んだ。
セ・マウル運動を遅らせた。
555 :
マンセー名無しさん:2006/04/20(木) 12:22:26 ID:iHJOrJak
科挙試験だの儒教だの四書五経だの朱子学だのというのも胡散臭く
李氏の朝鮮国は実は血統が重んじられ 試し腹などで私生児でも
両班(ヤンバン)だと「ヤンバン庶ゲツ(親戚・血族)」といって
父やニム(任)という長老に対する付き合いと礼儀によっては
大地主など上役になれる。
その土地のヤンバンの集落の村人達が使用人たる奴婢(のび)であって
下人(はイン)として使役された。
使役の中身は、行商だと荷背負い人足で有名なチゲである。
チゲはニムに騙されて、戦前は神戸や大阪の港で船積み荷物の
卸し載せをさせられ あるいは土木現場でドカチンを遣らされていた。
チゲはニムに逆らってはならず その上下関係はヤクザの組ほどの厳しさである。
日本のヤクザの組に相当するものを契(ゲ)と言い
一種の生活扶助団体とも闇社会生活ともいえいる。契のなかでも
香徒契(ヒャンどゲ)や殺人契(さりんげ)は非常に恐れられていた
全羅道(ちょんラど)の李氏朝鮮(いシちょソン)のヤクザであった。
556 :
マンセー名無しさん:2006/04/20(木) 12:23:31 ID:iHJOrJak
【 戦前の朝鮮人は奴隷ではなく日帝(イルチェ)の仲間(トンム:同務) 】
中国・韓国の歴史歪曲 なぜ日本人は沈黙するのか 黄文雄(評論家コウブンユウ) カッパブックス 光文社 ¥800+税
p115 『洪思翔中将の処刑』(文藝春秋)のようにフィリピンで戦犯として処刑された帝国軍人もいた
p116 ・・・([陸士]二十六期)には白洪錫(ペクホンソク)少将と、満州国協和会に参加した・・・関東軍司令部所属の尹相粥(ユンサンチュク)少佐や
韓国軍創設の元老 李応俊(イウンチュン)将軍がいた
第二十師団の歩兵大隊長 金錫源(キムソクウォン)少佐(陸士二十七期)のように
日本兵を率いて中国大陸に出征し 金鵄(きんし)勲章を受け 後年の朝鮮戦争でも韓国軍の師団長として勇名を馳せた人物もいる
【 帝国軍・第20師団について 】
臨時増刊9/5 歴史と旅 連隊旗でつづる太平洋戦争史 秋田書店 平成4年281 ¥951+税
一 日支事変(日中戦争)期間に於ける師団等
師団号:20 通称号:朝 編成地・留守担任:竜山 時期:大正6年
隷下歩兵連隊:78・竜山 79・竜山 80・大邱 (77・平壌)
主なる参加作戦・編成の事情等:北京周辺・郎坊戦闘。
[山西省]娘子関(ニャンツカン)に挑み肉弾を以っての突破は鯉登の滝の名も高い。
此頃の構成員は大阪九州多い。[山西省]太原戦その後南下中部山西を席巻す。・・・終戦時長:中井増太郎 終戦地:ニューギニア
557 :
マンセー名無しさん:2006/04/20(木) 12:24:36 ID:iHJOrJak
李朝は日本の明治維新後に、朝鮮女性が日本人と性的交渉をもつことを
国禁としている。もしその禁を破れば、本人は斬首刑に処せられ、
所轄の地方官吏たちも責任を問われて罷免された。それは主として、
釜山・草梁の倭館の日本人居留民たちを対象としてのものだった。
日朝修好条規が結ばれた翌年の1877年(明治10)ころの
李朝では、うち続いた凶作のために餓死者が出る状況のなか、
貧農の女たちが夜になると、ひそかに釜山・草梁の倭館を訪れていた。
食料を乞うため、日本人居留民を相手に春をひさいだのである。
それに応じた日本人の多くは船員や商人たちだったが、その結果、
数多くの女たちが逮捕され刑に処された。当時の日本の新聞が
その様子を次のように伝えている。
『東莱、釜山、水営の三役所から各長官が出張して
刑の執行を宣言する。女たちは荒縄で縛り上げられ、小さな白羽の矢で
耳の穴が刺し貫かれている。そして木枕に頭を乗せて仰向けに寝かせられ、
喉元に鉈(なた)のような刃物が当てられる。その上から
槌を打ち下ろして首を切り落とすのである。一人の女は刑場へ引き出されると、
静かに周囲を見渡し、「もはや餓死するしかなかった命を日本人のために
四、五十日長らえることができました、今日からやっと、これまでの
飢餓の苦しみから免れることができます」と言って涙を流したという』
(郵便報知新聞明治10年10月2日より要約)
なぜ朝鮮女性が日本人と性的交渉をもつことが、斬首刑をもって酬いなくては
ならないほどの大罪となるのか。それは日本人が侮蔑すべき倭賊であり、
蛮夷だからである。そのような夷族によって我が臣民女性が汚されてはならない
558 :
マンセー名無しさん:2006/04/20(木) 12:25:18 ID:iHJOrJak
寺院建築が鮮卑族の北魏の雲崗石窟のように石造りの建築: 新羅
庶民や有力者が土盛りに横穴の洞(ドン)の住居: 高麗
(契丹に押され渤海人が大量移住し、女真族や蒙古族に荒らされ
山間で採集し隠れて暮らす。桑や根類を食べ 攻め込んで来た侵略者に
焼き払われない雑草に見える焼畑の粟や高粱などを食べる)
セ+マウル(新しい村)運動で、洞(ドン)の住居を日本式民家に高度経済成長。
明朝(中国)軍の救援で中国式の城壁や建物を中国人が建設: 李氏朝鮮
(攻め込んで来た日本人の倭城の石垣・
駐屯で日本人大工が日本式の屋敷建築が敵産で使用)
マウル−洞(どん)の集落(邑・ムラ)
桑田や焼畑の土地を測る縦横の長さの単位がマル(畷・条・間)。邑はマウル。
↓
ナラ−国(グック)と呼べるマウルが一面に広がっている一つ行政区(方面)
馬韓伯済国のような広さの地域・
現在の安楽面(あんナクみょん)から霊光郡(よクワンぐん)ほどの大きさの地域
酋長として地元有力者の長老(任[ニム])がいて
ナラニムならぬナリニム(旦那・主人)として君臨する。
ニム(長老)なりニム(閣下)
なうりニム(旦那)とーりゃんニム(お坊ちゃん)あっしニム(お嬢様)
ひょんニム(兄上)そんせんニム(先生任・先生様)
559 :
マンセー名無しさん:2006/04/20(木) 12:26:09 ID:iHJOrJak
陶磁器: 磁器は造れていない。墳墓にある磁器は中国からの輸入物である。
陶器を「沙鉢(さバル)」陶器師を「沙器匠人(さギちゃんギン)」と呼ぶ。
埴輪のように素焼きである。
ハングル: 1800年代前後から北京から西洋学と共に
カトリック教が朝鮮入りし フランス人神父(多くが仇教運動や邪獄で殉教)が
マリアの祈りを書いて広めた頃から使い始めた。
フランス人神父がハングル(大きい[ハング]字[うる])と命名したのである。
キリスト教では聖書などで使われる
古代ギリシア文字やヘブライ文字(ユダヤの文字)を書いた古写本や
古文献の文字を活字と違い字が大きく書かれていたから「大字写本」と呼んでいた。
つまりフランス人が「古い文字」を「大きい字」と呼んだのである。
1800年ごろに日本に「諺文(おんもん)」という字が
朝鮮にあると中国から日本の長崎に知られ 中国学問しか文化でないとした
朝鮮に「朝鮮の国学」があると強弁する日本の学者があらわれた。対馬藩側では
日本の国学が盛んな頃に「アビル文字」という名でハングル文字を描き込んだ
古代青銅円盤鏡を持って日本を紹介していた。古代文字とは言うが
「梵字」にそっくりで 江戸の国学の
秀真伝(ほつまづたえ)の「神代文字」なみの捏造と思われる。
→辛酉教獄1801年(天主教・天理教・白蓮教・清国嘉慶帝の暗殺未遂事件・教案事件)
→丙寅邪獄1865〜68年(東学党・弥勒教の真人・香徒契[棺担人足]・仇教運動)
→大同法と掌隷院(ちゃんれうぉん)が監督する任(ニム、という長老)の奴婢(ノビ)
郷戦の両班(ヤンバン)庶ゲツに大家(てが)や達官(たるぐぁん)の種類がある
参鶏湯(サンげタン)や補身湯(ポしんタン)のチョンゴル(鍋物)とトンチミ(漬物)文化
法酒(ポプチュ)という法国(仏国)の焼酎(ソじゅ)茶礼(タレ)は緑茶を使わない。
560 :
マンセー名無しさん:2006/04/20(木) 12:29:05 ID:iHJOrJak
___済物浦________西人(北京から流入[湾商−義州・柳商−平壌・松商−開城=松岳])
________己文_星山_東人の北人
_百済_済浦_富山浦_塩浦_東人の南人(対馬から流入[莱商−富山=釜山]3浦)
済州_巨文_巨済(学や文の無い西南方面は「済」 倭人に対し「巨」 昔から地名にまで侮日行為だな。)
百済: 百家済海→『百』の家族が渤海の向こうから渡って(『済』って来た。の意味。
百姓: 百の姓名・百の苗字・多くの人々・全人民の事。漢文的には農家の意味でない。
【李氏朝鮮】での想定される社会構成
組・契(げ)を監督する役所: 掌隷院(ちゃんれうぉん)両班(やんばん)の達官(たるぐぁん)?
組・契(げ)の長老: 大家(てが)階級??の契(げ)の任(ニム)
組・契(げ)の人足: 奴婢(のび)階級の○契(ちゲ)
均役法(きゅんヨツぽぶ)を根拠に
ナラ(国)・みょん(面)のナリニム(?任・旦那)であるヤンバン(両班)がナニン?(良人)で
マウル(邑)・どん(洞)でハイン(下人)のチゲ(?契)をノドン(労働)させるという課税で生活
チゲが行商という方法で労働した時に所得税として[鋳造権がない為に]中国銅銭で行商収入を納税
【 中国の藩鎮で中国の節度使が支配する属中国社会の中身 】
ヤンバン→換局←ヤンバン(政権争い:西人[京畿]→←東人[慶尚]分派の南人[星湖・倭館])
↓
郷戦(処遇改善要求の暴動[民乱・軍乱]・弥勒や真人[ちにん・救世主]をかたる世直し革命騒ぎ)
↑
ショゲツ・ノビ(奴婢)
倭奴(うえのむ)にはキョンポックン(景福宮)の造営で、のんびりアリラン歌う平和の国と あざむく。
実は 派閥負け組みのへの虐殺・反乱人民への拷問の阿鼻叫喚の国。
561 :
マンセー名無しさん:2006/04/20(木) 12:32:08 ID:iHJOrJak
>朝鮮人女学生は「父や兄、それに親戚のおじさんに子供の頃から犯されるてから
「試し腹」
「女は子を産む道具でしかない」朝鮮では「道具(女)が不良品(不妊症等)であってはならない。
故に、『これこの通り、妊娠できる体でございます』ということを証明するために、
「種男」という男に娘を犯させ、妊娠した状態で輿入れさせる」。これを「試し腹」と言います。
産まれてくる子供は、当然夫の血を引いていないため、妻と同じ奴隷的な身分しかなく、
結婚はおろか大人になるまで成長する者も稀だったと言われています。
自分の娘を血縁の近い男(兄や叔父)に妊娠させて、妊娠できる女と証明させて
嫁がせる儒教思想が暴走した悪しき習慣だそうです。
日帝が禁止した朝鮮時代の悪しき風習だそうです。
日韓併合の時、戸籍作成のため創氏を行った。
そのとき名字の無かった被支配者階級の人々(白丁)が
支配者階級の人々(両班)の名字をまねて金、李、朴などと名乗ったため。
このことが原因で自分は両班の子孫と自称する賎人が5割を越えたのは(ry
在日中国人はほとんど通名を使っていないことや、
ヨン様ブームとか韓流とか言われている昨今、敢えて
在日だけが通名を使い続ける意味について、
一度真剣に考えてみていただきたいのですが。もう今の
在日の人々のほとんどは、差別を口実に惰性で通名使ってるんじゃないですか?
(こういう率直な質問が できるのが2chの いいとこなんだが[日本人に対し]
人権[侵害する者を]擁護[する]法[制定を]推進する人らは そういうの認めないんだろうな)
>朝鮮人女学生は「私達は魚の人糞漬けを食べているから、人糞には慣れている」と言って
562 :
マンセー名無しさん:2006/04/20(木) 12:32:52 ID:iHJOrJak
「泣く子は餅を一つ余計もらえる。」
朝鮮のことわざ
「川に落ちた犬は、棒で叩け。」
「姑への腹立ち紛れに犬の腹をける。」
「営門で頬を打たれ、家に帰って女房を殴る。」
「女は三日殴らないと狐になる。」
「梨の腐ったのは娘にやり、栗の腐ったのは嫁にやる。」
「母親を売って友達を買う。」
「弟の死は肥やし。」
「他人の牛が逃げ回るのは見ものだ。」
「他人の家の火事見物をしない君子はいない。」
「自分の食えない飯なら灰でも入れてやる。」
「人が自分にそむくなら、むしろ自分が先にそむいてやる。 」
「あんな奴は生まずにカボチャでも生んでおけば、煮て食べられたものを。」
「らい病患者の鼻の穴に差し込まれたにんにくの種もほじくって食べる。」
「家と女房は手入れ次第。」
「野生のまくわ瓜は、最初に独り占めした物が持ち主だ。」
「一緒に井戸を掘り、一人で飲む。」
563 :
マンセー名無しさん:2006/04/20(木) 12:35:52 ID:iHJOrJak
★福沢諭吉が朝鮮を徹底的に嫌った理由!
■福沢論文「朝鮮独立党の処刑」からの引用(現代語訳)
朝鮮独立党の首謀者たちの縁者は処刑場に引きずり出された。
弱い立場の婦人たちや女児も年老いた老翁老婆もである。そして処刑人たちは
右も左もわからない子供たちにも縄をかけてこれを絞め殺した。
どのような心境でこのようなことがなせるのか。
百歩譲って、処刑するものたちにも理があるとしよう。
老人婦人たちを処刑するのは善悪の判断能力が備わっているからだ、
身内の不始末は死をもって償ってもらうぞ、というのは、
わかりたくないがそれでもわからないでもない。
しかし、三歳五歳の子供は親から手を離されただけで泣き叫ぶものだ。
それが獄卒どもの手に掛かり、雪霜の吹き
すさぶ城門外に引きずり出されて縄で首を絞められて殺されるのだ。
殺されていく子供たちはどのような恐ろしさを感じるであろう。
鬼に捕まえられた心地しかしないだろう。おそらく呼吸が止まるそのときまで、
まさか自分がこのまま死んでいくのだとは考えもしまい。
父母の名を慕って泣き叫び、兄姉に助けを求めながらそのまま死んでいったのだ。
■1885年3月16日「時事新報」社説(通称「脱亜論」現代語訳)
現実の人間世界において地獄があらわれた。
それは朝鮮の京城(現在のソウル)においてだ。私は
この朝鮮国を野蛮国というよりむしろ妖魔悪鬼の地獄国と呼ぶ。
この地獄国の当局は、独立党に過酷な処刑を与えた事大党政府の官吏たち
であり、その後見人たる支那(中国)政府である。この私・福沢は
朝鮮から何千里も離れた異郷におり、朝鮮の国がどのような政治状況なあろうが
まったく関係ないのだが、それでもこの隣国の事情を耳にすると、
やはりどうしても悲しみと哀しさに
耐えることができない。いまこうして文章を書いていても涙が止まらず、
原稿用紙がぬれて滲(にじ)んでしまうのである。
564 :
マンセー名無しさん:2006/04/20(木) 12:36:48 ID:iHJOrJak
韓国旅行には日本人は行かないほうがいいと思います。
教科書問題の以前から、やはり韓国人は日本人に対してはきついです。
もちろんお金を出す日本人に対して、また、日本のマスコミ(最近テレビ局が多い)
の方には笑顔を作っていますが、こちらで永くビジネスをしているとわかりますが、
心の中ではやはり日本人憎しです。(韓国人は長く付き合っても、平気で相手を裏切ります)
特に韓国語で苦情をいえない日本人には陰で何かされていると思ったほうが無難です。
ホテルはなるべく日本人従業員のいるホテルで、食事もそこでしたほうがいいです。
特に最近は東大門の近くのお店は日本人観光客をなめています。
繰り返しますが、今、韓国に観光に繰るのは避けたほうがいいです。
温泉だったら、間違いなく日本の方がいいですよ。
だいたい、韓国で観光する所などありませんよ。
現在の韓国の危険地帯(本来は外務省が公表すべきですが、案の定、在韓大使もアホです)
1.田舎に行けばいくほど危険。
2.東大門を含めた市場 (日本人には何倍もの値段を要求する)
3.ホテル・旅館(従業員の反日は結構すごい。食事など何を入れられてるかわからない)
4.地下鉄2号線・3号線
5.ロイヤルホテル周辺
6.日本大使館周辺
7.梨泰院周辺
8.全キムチ売り(何が入れられてるかわからない。寄生虫が入っていたことあり)
9.全焼肉屋(中に何か入れられること多。日本人の苦情が多い。便、痰などの可能性大)
10. 新村周辺(変な労働者多。治安特に悪い)
どうしても韓国にくるときは気をつけて
8年ほど前にソウルに友人6名と旅行に行きました。とある旅行会社のパックツアーだったのですが
自由時間が多く往復の飛行機などの交通手段とホテル以外では他のパックツアーの方々とはお会い
することはなかったです。
ソウルでの二日目に東大門に行きました。一通りショッピングを楽しんだ後、友人4名はそのまま
ショッピングを続け、私はもう一人の友人と梨泰院に向かう為、別行動を取ることとなりました。
私達二人は梨泰院に向かう前に休憩を取ることにしたのです。雑踏を少し外れた路地に伝統的な
佇まいの喫茶店を見つけました。
私と友人は、薄暗い喫茶店の中、韓国茶を楽しみながら今後の経過を打ち合わせていました。
店内には私達以外には7、8名の韓国人の男性グループが一組いただけでした。彼らは日本語でしゃべって
いる私達を椅子に座ったまま振り返るように眺めながら何事かを話し合っているようでした。その時は、
私と友人のスタイルに見とれているのかしら?ぐらいにしか思っていませんでした。そろそろ梨泰院に
向かおうということで席を立とうとした瞬間、あたりのただならぬ雰囲気に気がついたのです。
今考えると馬鹿なことですが、私は行く手をさえぎるように立っている若い韓国人男性を見たとき、
もしかして、これが旅の素敵な出会いになるのかしらと一瞬思ってしまったのです。
彼らは、韓国語で何かを叫びながら私達二人を力ずくで押し倒し、私はテーブルの上に、友人は床の上に
それぞれ体を押さえ込まれてしまいました。両手両足の自由を奪われ、衣服を剥ぎ取られながら、私は
日本語で助けを求めながら店内を見渡したのです。ところが、店主も店の従業員の女性達(!)も薄笑いを
浮かべながらただ私達を見ているだけでした。
彼らは、韓国語で何かを叫びながら私達二人を力ずくで押し倒し、私はテーブルの上に、
友人は床の上にそれぞれ体を押さえ込まれてしまいました。
両手両足の自由を奪われ、衣服を剥ぎ取られながら、
私は日本語で助けを求めながら店内を見渡したのです。
ところが、店主も店の従業員の女性達(!)も薄笑いを浮かべながらただ私達を見ているだけでした。
とても長い時間、韓国人達は代わる代わる私の上に体を合わせてきました。
薄笑いを浮かべ、時折韓国語で何かを話し掛けてきました。また、時には唾を顔に吐きかけられました。
もちろん、避妊などしていません。三人目が体を合わせてきてから後は良く覚えていません。
ただ、私は、早くこの時間が終わってほしいと考えていました。
床に押し倒されている友人の姿は見えませんでした。
ただ、友人はずっとすすり泣きながら「止めて」を繰り返していたのを覚えています。
私達が開放されたとき、既にあたりは真っ暗でした。
私と友人はフラフラになりながらやっとの想いでホテルにたどり着きました。
ホテルでは友人達が心配そうに私達の部屋に駆けつけてきました。「どうしたの?」
「心配してたんだよ」と口々に気遣いの言葉をかけてくれました。
でも、私達は決して何があったかを喋ることはありませんでした。
ツアーの残りの日程、私と友人は体調不良を理由に全ての日程をキャンセルし、
二人だけでホテルで過ごしました。
私は、もう二度と韓国に行く気にはなりません。
それどころか日常やテレビなどで韓国語を耳にするだけで体が震えてしまいます。
この間、ソウルに旅行に出かけた妹が、見知らぬ男たちに輪姦され、
ボロボロになって帰ってきました。妹は今でもショックで家に閉じこもったままで
す。
彼女の話によると、ソウルで買い物していると、
日本語で優しく声をかけてくる男が現れ、安い店を教えてやろうというので
ついて行ったところ、変な所に連れ込まれ、集団でレイプされて
有り金を巻き上げられ、ビデオにまで撮られたそうです。
妹は警察に駆け込みましたが、驚くほど冷たい対応で、あげくに「歴史教科書を
歪曲するおまえら倭豚が悪い!」と罵られたそうです。
そこで妹は日本大使館に救いを求めて、そこでようやく日本人女性を
狙った同様のレイプ事件が多発していることを知ったそうです。
大使館の人の話によると、韓国の警察は日本人が被害者だとまったく捜査しないそ
うです。
レイプ犯たちもそれを知っててやりたい放題で、「日本人レイプもの」と銘打った
ビデオがマーケットで堂々と出回っているそうです。
なぜこんなことがまかり通っているのに、日本では報道されないのか?
私は不思議に思ってテレビの報道局に勤めている友人に尋ねました。
すると、韓国と韓国人について少しでも否定的な報道をすると、明らかに
組織的と思われる数千人、否数万人?規模の電話やファックスによる抗議活動や
経営者宅に対する暴力団等による脅しが行われ、例えば2日間抗議が続くと
年間の売上が1%も低下するので、やむを得ず「友好を促進する」報道以外
しないという暗黙の了解がマスコミ各社に出来ているのだそうです。
(NHKとTBSの幹部や放送番組ディレクターなどは韓国ソウル豪遊が有名)
実は某TV局の方から5年くらい前に聞いた話なんですが、、、。
「ダルマ」に関してです。
日本人で拉致されて、韓国でダルマにされ、見世物小屋の「裏」みたいな所で売られているようです。
一見さんは無理。裏のルートを使わなくては入れないそうです。今で言う「風俗」みたいな感じです。
でも、そこへ来る人達は普通の人では無く、明らかに病気を持っていて普通の風俗へ入店(?)出来ない人達や、
犯罪者だったりするようです。料金も安いようで、、。料金の高いダルマは、「V.I.P用」と区別されているようです。
日本人は肌が綺麗で体臭が少なく、性器の具合もいいようで、韓国では人気があるみたいです。
だからV.I.P用になりやすいのだとか。あと、他の外国人に比べて本人の危機感が殆どないというのも捕まえやすいと。
あと、拉致した日本人のためのご飯、手足切断場所のガーゼの交換係というのは、
若干日本人がバイトでやっているというのも聞きました(V.I.P用)。2週間くらい、
付きっきりです。切断した部分のガーゼがとれるくらいの期間だそうです。
時々ガーゼの交換時に雑菌が入ってしまって、死んでしまう場合もあるとか。
バイトの日本人は絶対に情報は流せないようです。ばれると自分が手足切断になるようです。
でも、最初からすぐダルマにはならなくって、日本で言う「キャバクラ」や、
「普通の風俗」で働かせてからとのこと。逃げようとした人がダルマになりやすいようです。
実際バイトをしていた人が、もう時効だろう、、、って言って、某TV局の人に話したそうです。
某TV局の人も、今は何をしているか連絡をとっていないのでわかりません。
あと、「○○」っていう雑誌に昔載っていたのを、話を聞いた後に見たことがあります。
そちらの方が、バイト料金なども詳しく載っていたような気がします。記憶が曖昧ですみません。
その日,まさに万歳の声とともに,太極旗が波のように風になびきつつ,朝鮮人の世がやって来た。
神は,自分が受けるべき朝鮮人の愛を横取りしたと,和夫君に嫉妬したのか?
彼がわが子のように育て,東京帝国大学に留学までさせたAの主導下に,
彼の家で教育を受け,育ち,成人した青年たちが,斧と鍬,スコップを手に,和夫のもとに押しかけた。
そのとき現場にいた金ソンス君は,次のように証言している。
和夫:(穏やかな目で)なんでこんなことを,子どもたちよ。
A:チョッパリ! 日本へ失せろ,失せちまえ。
A:意味深長な目配せをBに送る
(財産をすっかり処分して帰ったら,おれたちはどうやって食っていくんだ?)
B:死ね,チョッパリ,シッパルノマ。
間髪入れず鍬が,和夫の後頭部に振り下ろされたのと同時に,
数多くのスコップと斧が彼の体をずたずたに引き裂きはじめた。
このとき,和夫の妻が我慢できずに飛び出してきた。
それまで黙っていたCは,和夫の妻を見て,彼女の長い髪をつかみ,
庭の奥まったところに引きずっていった。
そしてなんと13人がかりで,ほんの一週間前までお母さんとして恭しく仕えていた彼女を,
強姦しはじめた。(金ソンス君は,この期に及んで自分が止めに入ったら,
自分も殺されただろうと言った)。強姦に耐えられなかった彼女は,行為の途中で死亡し,
Dは,ふだんお母さんと呼んでいた彼女の全身を滅多刺しにするだけでは足りず,
内臓をひきずり出して,まき散らした。
和夫には,一人の幼い娘がいた。ふだん模範的でいい子だったヒミコさんは,放課後,
家に帰ってきて,両親の身に起こった惨状を見,気が触れてしまった。
ヒミコが何日間も慟哭する声に,近隣住民たちは眠れなかったそうだ。
その後,孤児になったヒミコは,食べ物を乞おうと,その付近をさまよったが,
朝鮮人は誰一人彼女に目もくれず,知らないふりをした。
結局,彼女は9日後,村の橋の下でやせ衰えた死体となって発見された。
当時,ヒミコは小学校6年生の幼子だった。
和夫の財産は,勇猛で愛国心に燃えたつ朝鮮の青年たちの手にそっくり渡り,
この事件は村人たちの沈黙の中,しだいに忘れられて行った。
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イブンネギ・ブクちょソン・オランケ・パルゲンイ!!! チマぱらむ・ヤンバン
(北の野郎・北朝鮮・未開の蛮人・アカ村!!! スカートをバフバフ風起こす歩きのマザコン貴族)
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇_サイゴン陥落_◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
韓国の孤児を育てた「38度線のマリア」−日本女性−
・・・望月カズ・・・ ・・・一九二七年(昭和二年)・・・四歳のとき・・・満洲・・・
終戦・・・ソウルに・・・朝鮮戦争に巻き込まれ・・・ ・・・ソウル名誉市民章・・・
異例の「光復賞」・・・ ・・・朴大統領から名誉勲章冬柏章が贈られました。・・・
孤児たちのオンマ(母ちゃん)・・・キリスト教墓地・・・
敗戦後の日本人資産の略奪を現地人の目から見た貴重な証言
→ 「朝鮮戦争の真実 元人民軍工兵将校の手記-」 朱栄福 1992年 悠思社
1945年8月8日ソ連が日ソ中立条約を破って対日宣戦を布告し満州と朝鮮に侵攻してきた。
15日の夜、羅南の日本軍当局は最後の破壊作戦に出て、全市の軍事施設に火をかけて焼いた。
その夜、ぼくは鏡城の北にあたる山の上から、炎上する羅南の赤い空を眺めていた。
(中略)
羅南の軍事施設が燃えた晩、市内は無人地帯であった。数千人の日本人は、臨時疎開して、
すぐ帰るつもりであったかもしれぬが、市が燃え尽きても、ついに一人も戻らなかった。
日本人は永遠に去ったのである。帰ってきたのは全部朝鮮人であった。
彼らは、防空壕からはい出し、あるいは郊外の避難先から、続々戻ってきた。
火災の翌日、いたるところに余燼のくすぶる市内で、物資あさりの騒乱が始まった。窓も門も
開け放しのまま去った日本人の空き住宅、商店、倉庫などにアリのように人間が群がった。
家財、衣類、食器、装飾物、楽器、娯楽品、靴、傘、書籍、自転車、あらゆるものをかっさらい
運び出すのに忙しかった。町全体が怒鳴り合い、奪い合い、誰もが目を皿のようにして走っていた。
ある人はトランクを担いで逃げる。ある人は自分の体よりも大きい布団袋を引っ張って走る。
ある人はリヤカーに山ほど積んで汗を流しながら家に急ぐ。
ある婦人は衣類をいっぱい頭に載せオーバーを抱えて土手にのぼる。
ある老人はチゲ(背中に荷物を担ぐ時に用いる木製の背負子)の上に衣類ダンスを担いで走る。
みな走る、ぶつかる、ののしる、宝物を求めて、より大きい高級住宅に入る。
先着の略奪者は血相を変えながら部屋から部屋に出入りする。
集めた品物から目を離したとたん、別の者が担いで逃げる。
家に持って帰っても、また出ていくと、その間に誰かが来て持ち去る。
こういう時には誰も安心できない。隣り近所、みな疑心暗鬼である。
避難先から帰りの遅れている肉親をののしる。だから といって呼びに行く暇もない。
――あのとんま野郎!こういう重大な時に家にいさえすれば、
いっぺんに大金持ちになれるのに・・・! 二、三千軒の日本人民間住宅と商店、
数百件の焼け残りの軍用官舎は、わずか五、六時間でスッカラカンになった。
ぼくが羅南に着いた時は、そういう"敵産の分配"が終わってから一週間もたっていた。
残るのは日本人の不動産である。日本人の家屋、商店、車庫、倉庫の壁や門に、
色とりどりのペンキで、大小さまざまに、ハングルや漢字で所有者の名前が書かれていた。
"李XXの家"と書いた反対側には、もっと大きな文字で "金XXのジップ(家)"と書いたり、
前に書いた文字を消して一尺もある大きさの漢字で "この土地は40年前のわが祖先の土地なり"
と書いてあったり、"この建物では近き将来平和食堂開業予定"
"まもなくアリラン床屋になります" "この建物の主、日本人某は一週間前、
小人(自分)に移譲せり" 等々、何とかして自分のものにする口実を書きつけていた。
(まもなく敵産家屋、土地、軍事施設は全部登録され、政府または全人民の所有になった)。
ぼくの伯父が住んでいた初瀬町のはずれの谷間の入り口に、
小玉(こだま)氏経営のよく手入れした農園があった。解放前には周辺の朝鮮人は皆、
小玉さんを尊敬していたが、世の中が逆さまになって、皆、彼を"日帝の悪質地主"とののしった。
今度の騒動で、小玉邸も無疵なはずはなくサジ一本、畳一枚残さず、すっかり群衆に没収された。
日本にいる朝鮮人も半島人と同じ朝鮮人なんだから、結局
下劣な遺伝子は持ってて当然だよね。
日本語しかわからないから、もう日本人化してるとか言うが、
朝鮮人に油断したらだめだと思う。
上の話、ちょっと怖すぎる。敗戦までたいして問題なく、
日本人とつきあってたわけだろう? 同じ人間とは思えない。
一部が暴徒化したっていうような、生易しい感じじゃないね。