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対馬についての記述を抜粋:
『看羊録』 朝鮮儒者の日本抑留記
姜・著 朴鐘鳴・訳注 平凡社・東洋文庫 440
平時にはただ我が国の関市に通ってそれで生活を維持してきた。
その女子は多くの場合、我が国の衣装を着ている。
男子はほとんどが我が国の言語を理解している。
彼らはいまだかつて日本だと自らを処した事はまずない。
平時にあっては我が国から利益を蒙ること多く、日本からは少ない。
それで将倭から卒倭に至るまで、我が国を戴く心が日本に附くよりも強い。
いつも朝鮮に渡るには海路が遥かに遠く、波涛も険悪なのだと、
本土の倭に偽りを告げてきた。
秀吉が66州を併呑するに及ぶや、
宗義智は罪を恐れ、ついに我が国を売って秀吉に媚び
その先鋒となったのである。
秀吉は筑前博多の地を割いてその功を賞し、
それで対馬の将倭は初めて粒食することが出来たのであった。
以前はただ我が国から賜う米を食べるだけであった。
しかし義智は倭京にあっても家屋敷を持てず、市楼に賃泊したのであるが
斥けられて、他の将倭らの例にもあずかれなかったという。
大方の本土の倭は我が国の事情について東西さえ知らず、
戦火を交えて8年になっても我が国の辺将の名さえ識らなかったのである。
対馬の倭は我が国のことについても知り尽くしていない者は居ない。
平時から島中の童子の怜悧な者を択んで我が国の言語を教え、
また我が国の諸文書全般についての詳細も教える。
我が国の眼識ある人でもにわかな場合はそれが倭書であることを識別できない。
我が国と間隙のない時は専ら内附して我が国につくことを意とし、
倭奴が強盛であるときは我が国を裏切って嚮導役を買って出る。
辺将の撫恤、制御がもし適切でなかったら、必ずやこの者共に騙されるであろう。