韓国=中国領土(笑)

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604マンセー名無しさん
河東(太原)范陽(幽州)平盧(営州)安西(亀茲)北庭(庭州)
河西(粛州)隴右(善州)朔方(霊州)剣南(成都)嶺南(広州)

★ 前漢〜隋唐の史書にみる概略図 ★

北庭_匈奴_________鮮卑___靺鞨扶餘___邑婁(沿海州)
__________烏丸_営州柳城平盧_玄菟_貊(渤海靺鞨)
朔方_雲中__上谷_薊_右北平_遼西_遼東郡(渤海靺鞨)
_____代_趙_燕_漁陽幽州范陽−↓−樂浪郡(渤海靺鞨)_蓋馬大山_東扶餘
____晋陽(太原)_渤海−−−−−↓−朝鮮縣(渤海靺鞨)
河西__魏_隋_唐_邯鄲__東莱_登州−−(帯方郡王・靺鞨扶餘氏)_単単大山_穢
__秦__安邑(河東)_斉__琅邪−↑−−−長岑縣_屯有縣
隴右_長安__洛陽_陳__沛__−−↓←寧海軍使←←新羅國(楽浪郡王・奚林州刺史・金氏)
__蜀_漢_南陽__汝南_合肥_楚州城淮南準節度使−−−−倭_和泉_大漢國(蝦夷國)
剣南成都_巴東___江夏(武昌)建業(南京・呉)−−−倭奴國(隼人・熊襲・阿蘇)
___巴___南郡_赤壁__九江__会稽(越)
__________長沙___江南_天台山−−−−洲夷(琉球・沖縄)
__________零陵____建安(福建)
________桂林_____泉州−−−琉鬼(台湾・小琉球)
__________蒼梧__南海(広州・嶺南)
(ハノイ)交趾__合浦
___九真−−−−−珠崖(海南島)
____
_____
____日南(ユエ)
____林邑(占城)
__扶南(クメール・サイゴン)
605マンセー名無しさん:2006/05/02(火) 01:21:40 ID:Gn9NMWMV
結論から言うと新羅という独立した国は無い。

唐の国土の一部であって中国の中央政界の一員だった。
いわゆる辺境10節度使の補助役で「藩」とされていた。
だから人質的に長安や楚州城に学生と称して何百人も置かされていたんだね。

>鴻臚寺奏:新羅國告哀、質子及年滿合歸國學生等共一百五人、並放還。
鴻臚寺のお願い:新羅国は哀願を告げていうには、
王子の質入年期が満ちたし、学生など105名は帰国したいので
ならびに帰還するために解放をお願いしますとのこと。

唐も末期状態になり新羅人に対する帰国命令を出した。
つまり奉公の使用人として使われていたんだね。
強制徴用に近い物があるね。帰国命令がないと踏みとどまっているから。
渤海人たちは黒龍江の方へ唐により強制移住させられていたけど
勝手に南下して地元に帰って来たでしょう。隷属状態だったんだね
何か儒教的な呪縛でもあったんでしょう思い込みの激しさとか新羅はね。
日本でもそういった類の呪縛だがで
裁判とかスキャンダルって起こるじゃん。その系統の血筋は遺伝子かもね。
相手に強く言われちゃうと従っちゃうし使われちゃうタイプなんだなぁ。きっと。

>放還藩、賜物遣之
(放ちて藩に還えらしめ[解放して田舎に帰らせ]
 物を賜らせ之に遣わしむ[王子に遣いして お土産を持たせた])
という言葉が出てしまうんだね。中国の史書の記述に。
田舎とか辺境(藩鎮)扱い。中国の一部なの。

それで一々死んだり継承したり爵位の授かり伺いを毎度立てている。
他の国は独立しているので生没年記録の報告すらしてない。
606マンセー名無しさん:2006/05/02(火) 01:22:22 ID:Gn9NMWMV
渤海靺鞨と帯方郡の靺鞨扶餘氏は基本的に外国。
帯方郡は「郡の癖に独立国として帯方郡王扶餘敬が生没年不詳(就任677〜?)」で
新羅国は「国の癖に郡以下の中国領土の一部で楽浪郡王は短命継承」になっていた。

韓国の歴史書だと扶餘氏は660年で終わっているけど
677年に帯方郡王が即位で健在なんだよね。
以後の記載が無くて不明。〜卒。〜殺之。の記述は高句麗のような最期でないから
唐の征伐や政争の謀殺などによって消されてはいないね。
自然消滅か唐王朝の中央に報告なしで地元では継承が続いていたか?だね。

安禄山の乱と渤海靺鞨の山東半島の登州襲撃がある叛乱時代(724〜733)は
楽浪郡王・奚林州刺史・金興光(聖徳王702〜737。在位35年)が
「寧海軍使」だったから、長安の外に出れて中央政争に関係なかったので
任期上は長生きだった。

唐が強要した白馬盟書で「靺鞨の扶餘氏」と「新羅の金氏」は連携とっているから
言えば手を引くでしょう。中央政界は人質とか高官同士の顔色伺いだから
謀殺など危ないでしょう。無理やり退位させられるし、相続もさせられるし。
必ず王子時代は長安に人質なんで、寿命は縮むだろうね。在任期間も短くなりやすい。

辺境の藩鎮(防衛線)で「飛び地」だから「海の節度使」として
「寧海軍使(遼寧沖の渤海湾の海軍)」を授けられていた。
607マンセー名無しさん:2006/05/02(火) 01:23:16 ID:Gn9NMWMV
陸路で都の長安に通交していない。「安禄山」が節度使の役割を果たしてなくて
渤海を後ろ盾とか背後不安を消す背後を守る協力者として使っていた。
だから遼東や河北の安禄山の土地を経由して長安行きだと
新羅人は危ないから海から中国内地に直行で楚州城へ交通していた。

>其入朝 王子金士信等 遇悪風、飄至 楚州[監]城 懸界、
>准 淮南節度使 李you[扁庸旁右都] 以聞。
>是歳 新羅飢 其衆一百七十人 衣食於浙東。

新羅王子の長安への人質の旅の途上で
准淮南節度使(淮南の準節度使)李庸が
随員だった新羅人難民が浙東(浙江東部)で餓えているのを目撃報告している。

安禄山の反乱以降に中国内地にも節度使(準節度使)を置く事になったんだね。
日本の内国での幕藩体制の江戸城への参勤交代のような人質の旅だったんだね。
608マンセー名無しさん:2006/05/02(火) 01:24:23 ID:Gn9NMWMV
     開府儀同三司、楽浪郡王。嵎夷道行軍總管、輔國大將軍、行豹韜衛大將軍、
都督林州刺史、寧海軍使、新羅王。
會昌元年七月、敕:「歸國 新羅官、新羅宜慰副使、兌州都督府司馬、緋魚袋金雲卿、輜州長史」

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眞平卒、無子、立其女善徳爲王(善徳女王)。二十一年(647年)、
善徳卒、立其妹眞徳爲王(眞徳女王)、加授柱國、封樂浪郡王。
(貞觀)二十二年(648年)、眞徳遣其弟國相、伊贊干金春秋及其子文王來朝。
  (永徽)三年(652年)、
眞徳卒、爲舉哀。詔以春嗣(龍春?文興王?)、立爲新羅王、加授開府儀同三司、封楽浪郡王。
 六年(655年)、百濟與高麗、靺鞨 率兵 侵其北界、攻陷三十餘城、
          春秋(武烈王?)遣使 上表求救。
 顯慶五年(660年)、命 左武衛大將軍 蘇定方 爲熊津道大總管、統水陸十萬。
           仍令 春秋 爲嵎夷道行軍總管、與走方 討平百濟、俘其王
 (百濟王)扶餘義慈、獻于闕下。自是 新羅漸有高麗、百濟之地、其界益大、西至于海。
 龍朔元年(661年 16年後に扶餘敬が帯方郡王)
春秋卒、詔其子太府卿法敏(文武王?)嗣位。
(★ 儀鳳二年(677年 扶餘敬 帯方郡王 衛尉卿。56年後に渤海が山東攻撃)★)
法敏以開耀元年(681年)卒、其子政明(神文王?)嗣位。(4年前に扶餘敬が帯方郡王)
政明卒、立其子理洪(孝昭王?)(天授三年(692年)15年前に扶餘敬が帯方郡王)
理洪以長安二年(702年)卒、立其弟興光(聖徳王?)(22年後?に安禄山の乱)
                          (31年後に渤海の山東半島襲来)
 隋(581−617)新羅(金真平王576〜935敬順王・弓裔901−919)
 渤海靺鞨(698〜733〜926)唐(618〜907)
玄宗
(安禄山の乱724?[3節度使: 河東(太原)范陽(幽州)平盧(営州)])
 安西(亀茲)北庭(庭州)河西(粛州)隴右(善州)朔方(霊州)剣南(成都)嶺南(広州)
609マンセー名無しさん:2006/05/02(火) 01:26:05 ID:Gn9NMWMV
開元十六年(728年)、遣使來獻万物、又上表請令人就中國學問經教、上許之。
二十一年(733年)、渤海靺鞨 越海入寇 登州。
     時興光族人金思蘭先因入朝留京師、扶餘拜爲太僕員外卿、
     至是遣歸國發兵以討靺鞨、仍加授興光爲開府儀同三司、寧海軍使。
二十五年(737年 35年前に継承の時点で、更に25年前に扶餘敬が帯方郡王に襲封される)
興光卒、立其子承慶(孝成王?)
承慶卒、立其弟憲英(景徳王?)
憲英卒、立其子乾運(恵恭王?)
乾運卒、無子、國人立其上相金良相(宣徳王?・奈勿10世孫?)
良相卒、立上相敬信(元聖王?・奈勿12世孫?)
敬信卒、立敬信嫡孫俊you[冠巛脚邑](昭聖王?)
俊you[冠巛脚邑]卒、其子東興(哀荘王?)
  [    ] 、  重興(憲徳王?)爲王。元和元年(806年)十一月、放宿衛
     王子金獻忠歸本国。(元和)五年(810年)
     王子金憲章來朝貢。(元和)七年(812年)
重興卒、立其相金彦昇(憲徳王?興徳王?)、太和五年(831)
金彦昇卒、以嗣子金景徽(興徳王?[826−836]喜康王?門哀王?神武王?文聖王?)
開成元年(836)、王子金義[王宗](文聖王?[839−857])來謝恩、兼宿衛。
二年(837)四月、放還藩、賜物遣之。
五年(840)四月、鴻臚寺奏:新羅國告哀、質子及年滿合歸國學生等共一百五人、並放還。
會昌元年(841)七月、敕:「歸國新羅官、前人新羅宜慰副使、
    前充yen[冠亠脚兌]州都督府司馬、賜緋魚袋金雲卿、可si[偏三水冠巛脚田]州長史。」

唐が滅ぶ(907)までは残り63年間。その前の841年に新羅に官を帰還させている。
文聖王の後、憲安王。景文王。憲景王。定康王。真聖女王(887〜897)。
      孝恭王(897〜912)敬順王(927〜935)で金氏新羅王朝滅亡。
  神徳王(912〜917)景明王(〜924)景哀王(〜927)で朴氏新羅王朝滅亡。
901年、弓裔の泰村王の自立(泰封国の成立)
919年、王建が下克上。高麗国(摩震国)の成立
927年、渤海国の王侯武臣の亡命と人民の移住を受け入れる。渤海国から東丹国に改名。
935年、王建に降伏し禅譲で新羅国が滅ぶ。
610マンセー名無しさん:2006/05/02(火) 01:41:34 ID:Gn9NMWMV
>開元二十一年(733年)、渤海靺鞨 越海入寇 登州。

つまり渤海国は、一般の教科書教材の歴史地図にあるような
日本海側だけでなく『山東省の登州』を海を渡って攻撃してくるので
遼東半島や江華島のような『黄海や渤海湾側にも領土』があって
軍船を作って浮かべられるほどの勢力があった。

あるいはマズ考えられないが、新羅の海沿いを襲撃しながら
『対馬沖の朝鮮海峡を一周して』山東半島を海越えで攻撃してきたか
のどっちかだね。この歴史事件は。

『安禄山の乱』の直後なので、渤海湾や黄海側まで渤海国の領土があって
安禄山が節度使の本来の任務で『外敵から守備すべき遼東半島や北京周辺』は
『渤海国の領土』になっていたか
『新羅の領土が渤海人に侵食されて』いて
旧百済の帯方郡だった地域や海岸線の地域を占領していた。という事。

または旧百済地域が半独立で『渤海国と新羅国に両属』していたが
この際に新羅国を裏切って『渤海国の一部として反乱に加わっていた』か
という事になるよね。海越えで侵略や襲撃があったわけだから。