「神奈川県史各論編1政治・行政」に収録されている梶村秀樹著「在日朝鮮人の生活史」
から転載された川崎市市民局著(1993年)「在日外国人を理解するためのハンドブック 日本人と
在日外国人が同じ市民として生きることの意味を考えます。」より抜粋。
大雑把に幸区河川敷朝鮮スラムの歴史
1.大正時代に震災復興により需要が増えた河川砂利採取業として朝鮮人が多摩川周辺で働き始める。
2.1933-34年に砂利採取禁止により朝鮮人が一旦居なくなる。
3.昭和16年に陸軍の命令により山田某氏が現在の堤防外に船着場をつくり軍事資材運搬の基地とする。
周辺に人夫や日雇い労働者を宿泊させる宿舎や飯場ができる。
これが記録に残る土手スラムの初発とみることができ、昭和18-19年には海軍の荷揚げ場としても
使用されるようになり施設拡張、労務者も増加する。ところが昭和20年の4月の川崎大空襲で施設の大半が焼失、
まもなく海軍からの資材で復旧するが終戦により、昭和23年ごろまでには完全に廃止されたのである。
4.敗戦後、住宅難、食料難など困窮生活の中で早くもこの地域にバラック小屋が立ち始めるのである。
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ここから面白いので原文で
「以上の論文から、現在の戸手四丁目の河川敷の在日韓国・朝鮮人の集住の歴史は
、戦前の砂利採取に関わった朝鮮人の歴史が一旦は途絶え、戦後になって、
住宅難から「日本人がすまない」河川敷に朝鮮人が再び集住しはじめたことがわかる。
川崎南部の工場に徴用されて来た朝鮮人がそのまま移住し続けたり、職を求めて朝鮮人が
集住しはじめた桜本や池上町とはやや趣を異にしている。職場、飯場が近いという理由ではなく、
戦後の混乱期においては「第三国人」や「不逞鮮人」という言葉が何のためらいもなく使われて
いた状況下では、当時の<むきだしの差別・偏見>から逃れるように河川敷に集まって朝鮮人部落は形成された。」
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アレレレ(笑) <むきだしの差別・偏見>が在ったのに大部分の朝鮮人は街中に住み。
彼らがわざわざ河川敷に住まなければいけない理由って?
戦後混乱期に悪事を働いて街中に住めなくなっただけでしょ。(笑)
川崎市の朝群人の人口統計
1925年-602人
1926-統計無し
1927-582
1928-648
1929-926
1930-1081
1931-1669
1932-2368
1933-3088
1934-3299
1935-1947
1936-統計無し
1937-統計無し
1938-2864
1939-5343
1940-5809
1941-統計無し
1942-10780
1943-12212
1944-統計無し
1945-8157
中略
1952年日本独立時-5559人