在日に帰れと言うのはおかしい パート31

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394スピリチュアル魂 ◆sbYp5oHZ3.
いいか?秀吉による朝鮮侵略の時に、陶工たちを中心に連行された人々など、
1872年の旧戸籍法ができる段階では、すべて日本人として戸籍に入れられたのだよ。
それこそ日本の血となり肉となるというかたちで、渡来人も日本人を形成することとなったわけ。

『日本帝国第五統計年鑑』では、1885年の朝鮮人居住者は、たったの一人。
その一人とは、官傭の学術教師を朝鮮から招いたという。
併合前の1909年には790人。これは主として留学生だった。
395スピリチュアル魂 ◆ZaiaziGVQ. :2005/06/07(火) 07:36:13 ID:O7UHDFDw
(トリップ違ってた)

留学生が多かったのは、1899年7月28日の勅令第三五二号があり、この中で
中国・朝鮮からの労働者を日本に入ることを禁止したから。
併合以前までは、中国や朝鮮、その他のアジア人が親近感をもって留学生として
日本に盛んに来ていたわけ。
日露戦争後には特にそれがいちじるしくて、欧米よりも日本への留学が盛んだった。

ところが日本に来てみると、日本人は西洋人には丁寧だけれど、アジア人には
高慢な態度であるということで、多くが反日感情をもって帰った。
396スピリチュアル魂 ◆ZaiaziGVQ. :2005/06/07(火) 07:44:33 ID:O7UHDFDw
第一次大戦の頃、日本は朝鮮半島まで出向いて労働力として朝鮮人を募集。
当時は近畿地方を中心に、西日本への流出が多くを占めた。
日本の産業革命は関西が先だったからである。
主に紡績工場とか造船所とかに朝鮮人の労働力が注入されたわけだ。

ところが1919年に三・一運動が朝鮮で起こり、渡航制限が行われた。
日本への影響、波及を防ぐためだったのだが、1922年に解除されたのである。
397スピリチュアル魂 ◆ZaiaziGVQ. :2005/06/07(火) 08:02:35 ID:O7UHDFDw
1920年代に入ると、朝鮮人が労働者階級として目覚め、労働組合などもできてきた。
が、1925年から不景気になり、またもや日本への渡航を制限した。
そして、日本は朝鮮人を北朝鮮の開拓にまわすという政策を打ち出した。
日本窒素という化学肥料会社が北朝鮮に進出して、赴戦江や長津江に
水力発電の大工事が始まった。

一方では1912年から始まった土地調査事業によって、農地が日本の国有地に編入され、
それまで小作をやっていた農民が土地所有権を剥奪され、多くが失業者となって
日本に流れ込んでいった。東洋拓殖会社の政策的な背景もあったからなのである。
398スピリチュアル魂 ◆ZaiaziGVQ. :2005/06/07(火) 08:10:21 ID:O7UHDFDw
多くの農村が解体されると過剰人口が生まれ、その過剰人口を吸収する資本は
当時の朝鮮にあるはずもなかった。日本の植民地支配がそれを育たない政策を
とっていたからなのである。
過剰人口は、日本や満州、あるいはシベリアへと流れていくのであった。
399マンセー名無しさん:2005/06/07(火) 08:13:51 ID:lqfgRHWt
ttp://members.at.infoseek.co.jp/konrot/doronpatop.htm
ドロンパさんのネットラジオ12回がUPされたよ!
早く犯罪多発する在日朝鮮人がいない素晴らしい日本にしよう!
400スピリチュアル魂 ◆ZaiaziGVQ. :2005/06/07(火) 08:19:43 ID:O7UHDFDw
1920年、日本での朝鮮人居住者は3万人。それが1930年には29万8000人、
1939年には96万1000人となる。
それだけ日本が朝鮮の農村経済を破綻させたのである。