【テクマクマヤコン】飯嶋酋長研究第320弾【二重ニナアレ】
百済の里宮崎県南郷村 と 薩摩焼の郷鹿児島県東市来町美山
美山・沈壽官邸にて(No.13からの続き) 西宮市在住 李 良 載イ・ヤンジェさん
●桜島の噴煙を左に見ながら高速道路を快適に飛ばし(暴走?)、鹿児島市内より30分ぐらい
西に行くと旧苗代川(現在東市来町美山)に着いた。沈壽官邸はその一角にあった。そこで別
途訪れていた3人と合流。皆既に「故郷忘じ難く候」を読んでいて大方の由来を知っているよう
に見えたが、私は偶然ここを訪れる1月ほど前に韓国全羅北道南原市に立ち寄る機会に恵ま
れた。正しくこの南原から連れて来られた人たちの末裔が、約400年間代々陶器を作り続けて
いるのだ。南原の「万人塚」という歴史記念館にて当時の状況を見学してきたが、そこの人た
ちの顔と苗代川の人たちの顔が私の目の前を交錯する。当時の人たちはどんな思いで故郷
をあとにしたのだろうか。
●現在の当主である第14代沈壽官(第12代より後、代々の当主は沈壽官と名乗る)のご令息
に展示物の説明をしていただいた。彼によると、当時島津藩によって苗代川に連行されたのは
陶器作りだけでなく、建築・土木・医学などの高度先端技術の持ち主もいた。また、中国や西
方の国の情報なども朝鮮を通じて得ようとしたという。連行されてきた人の中には密貿易の通
訳官になったり、時には朝鮮国に派遣されていたという事実を聞いて、ここは単なる陶器の村
ではなく、島津藩にとって重要な貿易をするための出先機関であったことがわかった。なるほ
ど、外様大名として幕府より警戒され、冷遇されていたにもかかわらず、幕末には強大な力を
持つことになったのも頷ける話である。