2005/05/15 産経朝刊から
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◆【ニッポンの還暦】戦後60年 人・世相 日韓国交正常化 昭和40年
迷走…交渉14年
昭和三十六(一九六一)年十一月十一日午後四時、東京・羽田空港。つるべ
落としに日が暮れていくなか、韓国航空特別機が到着した。こげ茶のサングラ
スをかけた小柄な男性が、軍人らしい足取りでタラップを降りてきた。朴正煕
(パク・チョンヒ)・国家再建最高会議議長(のちに大統領)だった。
朴議長は、ケネディ大統領の公式招請で訪米する途上、日本へ立ち寄った。
米国の仲介なしに、日韓の問題は同じ東洋人同士で解決したいという池田勇人
首相の提案を受け入れたものだった。
日韓国交正常化交渉の予備会談が始まってからすでに十年以上の歳月が
流れていた。
交渉の突破口を開くことになる訪日の陰に、GHQ(連合国軍総司令部)の元
通訳将校だった韓国人、朴哲彦(パク・チョロン)(79)の存在があった。
◆◇◆
朴は終戦後まもなく来日。退役後も、日本で会社を設立するなど、約四十年
間、日本に滞在した。国交のなかった二十年間を、朴は「日韓関係史上、最悪の
時期だった」と振り返る。
「当時の日本人は、韓国が植民地だった事実すら忘れかけるくらい無関心で、
食べることに精いっぱいだった」
>>645 一方、韓国でも状況は同じだ。「植民地支配した日本人をみな嫌いだった。
韓国は敗戦国日本よりも貧しく、発展の遅れなど何でも日本のせいにした」
反日感情は国民だけではなかった。李承晩(イ・スンマン)大統領も大の日本
嫌いで知られ、米軍からの援助もあり、国交正常化を端(はな)からやる気はなかった。
交渉に前向きになったのは、続く張勉(チャンミョン)政権からだ。一九六〇年
代に入り、米国からの援助が減る中、「新経済開発五カ年計画」を打ち立ててお
り、日本からの支援が必要だった。
張勉政権が日本との非公式チャンネルとして目をつけたのが、日本の政界に
影響力を持つ陽明学者、安岡正篤と、日本の政財界に人脈が豊富な朴だった。
朴は張総理の密使として、日韓を行き来し、国交正常化に向けた整地作業を手伝った。
結局、朴正煕少将らによる軍事クーデターで張政権が倒れ、すべて水泡に帰
したが、朴は張政権下で田中角栄、野田卯一ら自民党議員団が訪韓したときの
こんな秘話を口にした。
「日韓の非公式接触で、韓国側が十八億ドルの請求額を提示し、日本側は
十二億ドルで対抗。訪韓団の一員だった田中角栄さんが『仲割り』という独特な
日本語を使って、十五億ドルでの妥協を示唆したというんですよ」
当時の日本の外貨保有高は十四億ドル足らず。十五億ドルは法外な額だった。
>>646 安岡・朴のラインは朴正煕政権にも受け継がれ、冒頭のシーンに続く池田・
朴会談の実現となった。日本の資金で近代化を図ろうとする朴政権は、交渉
に積極的だった。しかし、安岡・朴らの手を離れ、表舞台に協議の場が移ると、
請求額などをめぐって紛糾。さらに四年余の歳月を要することになる。
昭和四十年六月二十二日、日韓基本条約が調印された。国交正常化に至
るまで、会談は第七次に及び、諸会合は約千二百回。
最終的に対日請求額が六億ドルで合意したことを考えると、「張政権のときに
日韓基本条約が結ばれていたら、韓国にもっと有利な形になっていたかもし
れない」と朴は残念がる。
それでも朴は「万感の思いがあった」という。
「安岡先生に『国士』と呼ばれ、ある種の義務感とか使命感で、国交正常化や
日本からの支援で建設された浦項(ポハン)製鉄の設立にもかかわってきた」
朴は滞日四十年余の間に体験した日韓国交正常化交渉の舞台裏などをつづ
った自著の日本語版『日韓交流 陰で支えた男−朴哲彦の人生』(産経新聞ニ
ュースサービス発行)を来月、出版する。
日韓国交正常化から四十年。この間、「金大中拉致事件」「教科書問題」「竹島
問題」などが日韓間に立ちふさがり、必ずしも平坦(へいたん)な道のりではなかった。
>>647 そんな日韓関係に大きな変化が表れた。昨年はヨン様ブームで韓流に火がつ
いた。国交正常化から四十周年の今年は「日韓友情年」。民間の文化交流も盛んだ。
「互いに理性的に見られるようになり、あれだけあった怨念(おんねん)が、四十
年の間にヨン様という形になった。これが一時的な現象でないとよいが」
十五年前からハワイで暮らす朴は、日韓両国を遠くに見ながら、こんな感想を
漏らした。=敬称略
(水沼啓子)
◇
《日韓国交正常化》太平洋戦争後、韓国との間に外交関係はなく、国交正常化問
題や在日朝鮮人(当時)の処遇問題などを話し合うために、昭和26(1951)年10月、
予備会談が始まった。日韓会談は第7次に至るまで約14年を要し、40年6月22日に
国交正常化を規定した日韓基本条約が調印され、12月に批准された。これを機に、
日韓の往来が盛んになる。大平正芳外相、金鍾泌(キム・ジョンピル)中央情報部長
との間で行われた第6次会談では、対日請求権の金額として「無償3億ドル、有償
2億ドル、民間借款1億ドルプラスアルファ」で合意した内容が示されたいわゆる「大
平・金メモ」が交わされた。
2005/05/15 産経朝刊から
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◆【正論】ノンフィクション作家・クライン孝子 対中外交で無視できぬ法王庁の存在
中国には誤算の国際世論の反応
《前法王の路線継承鮮明に》
恐らく多くのドイツ人は「そうなればいいがなあ」と念願しつつ、半ば諦めていたのでは
なかろうか。そこへいきなりドイツ出身の法王が選出されたニュースが飛び込んできた
のだから、逆に戸惑ってしまった。かくいう私もそうだった。当日、ある親睦会に出席した
ところ顔見知りの数人が「ラッツィンガー、ラッツィンガー」と口々に言い興奮している。
何だろうと尋ねたところ、彼が法王に選出されたという。「え、ホント? まさか? 誤報
じゃないわよね」「いや、今、確かめたから、間違いない」
前法王ヨハネ・パウロ二世の盛大な葬儀が行われたのは四月八日だった。その十日後
の十八日から、百十五人の枢機卿による法王選出選挙が始まり、二日目の夕方、新法王
ベネディクト十六世は誕生した。早速新法王は初のミサで、「尊敬すべき歴代の法王と同
様、他の文明との対話を継続するため、あらゆる努力を惜しまない」と述べ、宗教、政治を
超えて世界と積極的にかかわった前法王の路線継承を鮮明にした。
実は私はこの時、中国政府はあの官製のヤラセとしか思えない「反日デモ」にブレーキ
をかけるだろうと思ったのである。理由は後述するが、果たして翌日から「反日デモを引き
起こした責任は日本側にある」と理由にならない言い訳をしながらも、事実上のデモ禁止
令を出し、各地に厳戒態勢を敷き始めた。
《葬儀欠席も北京には裏目》
中国政府にすれば今回は政府承認の反日デモとはいえ、天安門事件と同様、
いつ反政府暴動に転じるか気掛かりで仕方がなかったのだろう。だが、それだけ
ではない。当地ドイツでは、今回の中国政府の措置は、国際社会、とりわけ宗教
界の動向に配慮したものと観測している。
しかし、それにしてもなぜ今、反日デモなのか。答えは小泉首相の靖国参拝や
扶桑社の新しい歴史教科書をやり玉に、日本をマイナスイメージで世界に喧伝
(けんでん)しようと画策したため、との見方が正しいように思う。理由の
一つは、「反国家分裂法」に対する国際的な対中非難を巧みにかわそうとしたこと。
二つ目としては、日本の国連安全保障理事会常任理事国入りを阻止する狙いがあった。
時期的にもタイムリーだった。ドイツ各地では、頻繁に第二次大戦のナチスからの
解放六十周年犠牲者追悼記念式典が開催されていた。これに乗じて、「ドイツは
素直に謝っているのに日本は謝らない」というプロパガンダを世界に流布すれば、
日本は必ずや非難の矢面に立たされ孤立するはずで、そうなれば当初のもくろみ
は達成されると中国側は考えたのであろう。
だが事はそう簡単に運ばなかった。ちょうどこの頃、バチカンでは前法王の葬儀と
新法王の就任という世紀の式典が行われたのだが、中国は「反国家分裂法」の
標的となった台湾の陳水扁総統の葬儀参列を理由に自らの参列は拒否した。
しかも葬儀当日、偶然とはいえチベットのダライ・ラマが来日し、これに中国は
猛烈な反発を繰り返したことも世界に報じられた。
皮肉なことに、このことが世界の宗教関係者、とりわけカトリック教信者に、中国に
おける熾烈(しれつ)な宗教弾圧と悲惨な人権侵害の実態を、あらためて想起させて
しまったのである。中国政府にしてみれば、せっかく日本の歴史認識を理由に反日
デモを仕掛け、国際世論を自らの側に取り込もうとしたのに、裏目に出る結果となった。
>>646 《信教自由化も優先課題に》
何よりも新法王は前法王との二人三脚で、全体主義イデオロギーと一線を画し、
ソ連の隷属下にあった前法王の故国ポーランドをはじめとする東欧諸国の解放に
渾身(こんしん)の力を注いできた人物である。そういえば、前法王の唯一の心残
りは、クリスチャンにとどまらず中国における宗教者の救済にあった。前法王は、
生前、何度も訪中を試みながら、中国政府の拒絶にあい断念したことを後悔して
いた。新法王は、その前法王の遺志をしっかり引き継いでいる。新法王の優先課
題の一つに、中国における信教の完全自由化があるのは間違いない。
だとすれば、日中関係を考えるうえでも、今後好むと好まざるとにかかわらず、
バチカンの中国政策は重要な意味をもつ。その日本の対中外交がバチカン外交と
足並みがそろわないのでは、近い将来、必ず取り返しのつかないことになろう。
はるか彼方のミニ国家バチカンの政策だからと軽んじてはならない。むしろ日本は
この機会にバチカンと密接な外交関係を築き、そのノウハウを率先して取り入れる
べきではなかろうか。(ドイツ在住)