>>748 > しかしそうしなかったし、今となって
> 結婚等を通しての「日本人」というethnicityへの「同化」がますますすすんでいる。今となってはもう
> 遅すぎます。まあ自業自得というしかないでしょう。
ただ、周平さんのおっしゃるようにエスニシティが「創られる」ものであるからこそ、新た
なエスニシティの創出もまた可能なのではないかと思う部分もあるのです。「在日」とい
うエスニシティを新たに立てようと目論む人々も、また存在するでしょうし。
「差別」もまた、“隠蔽”や“創出”が可能なものなのでしょうから。
そして、言語や習慣といったことさらな文化的差異が存在しないとしたら、エスニシティ
を“創出する”核として、被害者性の神話は非常に利用しやすいものです。
最近ようやく、山村政明の『いのち燃えつきるとも』を読みました。
帰化者である彼は民団・総連を介した祖国志向からは切り離され、言語も文化も(彼の
言うところの)「同化」志向の両親のせいで、切り離されています。
彼が朝鮮人という「エスニシティ」を、自己史の物語として“創出”する際に、朝鮮人の被
害者性の歴史と一個人としての彼の個人史とが、うまく重ねあわされているのは興味深
いことです。
彼は被害者性を主張することでしか、「朝鮮人」になれなかったのですから。
わたしは同様の構図は、当時(1970年)も現在もあり、また未来にも生じ続ける問題だと
考えています。実体としての客観的な差異を欠くからこそ、むしろ被害者性の神話が要
求されるという逆説が、そこにはあるように思えます。