韓国の捏造を根絶するため全剣連を動かそう part3

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324マンセー名無しさん
>>285
■関連サイト
(略)
 ・花郎は武士団だったのか?
   http://www.geocities.co.jp/SiliconValley-PaloAlto/3249/hwarang.html
に関係したお話なのですが↓

http://www.hi-net.zaq.ne.jp/buakf907/bun033.htm#Chosen
◇三韓と古代日本の弥勒信仰◇
 朝鮮半島に仏教が伝わるのは、三韓時代である。3世紀後半、高句麗には北シナの前秦から、百済には南シナの
東晋からである。新羅はやや遅れて5世紀始め、高句麗から伝わったようである。高句麗・新羅はその後も北シナ
の仏教界との関りで発展していった。弥勒信仰も同様に伝わったであろう。

 弥勒信仰は、社会正義を実現する救世主の登場を期待する考え方が維持されていた。この弥勒信仰と壇君神話と
が結び付き、花郎(ファラン)道と呼ばれる若者の組織がうまれる。弥勒尊が不思議な小童子の姿で出現し花郎の
徒の歌楽に応じて奇瑞を現し啓示を示すという神話を持っており、組織には忠君愛国的な精神を持つ武士道のよう
な性格があった。この弥勒のイデアが新羅のみならず百済の弥勒信仰者とも向応して、新羅の三韓統一の原動力に
なっていったのである。
325マンセー名無しさん:04/07/10 22:15 ID:cCKn2bl5
>>324に関連して:

大和岩雄『日本にあった朝鮮王国―謎の「秦王国」と古代信仰』白水社 ; ISBN: 456002233X ; (1993/03)
  本の内容全般の紹介http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/456002233X/3w-asin-books-22/250-3134060-2041828 から:
  レビュー
  出版社/著者からの内容紹介
  『隋書』倭国伝に載る「秦王国」の記事を手掛りに、古代の豊前を舞台とした新羅・加耶系渡来人(秦氏)
  とその文化の実態に迫る。特に八幡信仰・修験道の成立と源流、弥勒信仰・虚空蔵信仰に関する論及は、
  本書の圧巻である。大仏造立と宇佐八幡の関係も、秦氏を軸として明快に説かれている。

  内容(「BOOK」データベースより)
  『隋書』倭国伝の「秦王国」の記事を手がかりに、古代豊前地方を舞台とした秦氏系渡来人の実態を解明し、
  八幡信仰・修験道・弥勒信仰等の源流と展開を明らかにする。

読者が編集したWebページから

http://www.hi-net.zaq.ne.jp/buakf907/books120.htm から抜粋(1/2):

 北は豆満江〜白頭山、西は遼東半島、そこから朝鮮半島南端まで、古代朝鮮の先住民はモンゴル人と混血したツ
ングース族で、貊や歳(サンズイ付き、ワイ)と呼ばれた。後に、高句麗国や渤海国を作った民族であるが、彼ら
は山岳信仰を持っていた。白頭山(長白山)を始め、半島東の太白山脈、中南部の小白山地と、パクで始まる聖山
が至るところにあった。後に中国の呉からから半島中南部へ大量に難民が入って辰国ができた。これが分裂して三
韓ができる。更に扶余族が馬韓を滅ぼし百済を作った。山岳信仰は三韓以降にも受け継がれた。典型が檀君神話で
ある。
326マンセー名無しさん:04/07/10 22:15 ID:cCKn2bl5
http://www.hi-net.zaq.ne.jp/buakf907/books120.htm から抜粋(2/2):

 辰韓は新羅へと再編された。新羅には花郎道(ファランド)という組織があった。呪術的な試練を与えて戦士を
訓練する青年集会である。始めは美女二人を司霊者に充てていたが、娟を競っての内紛があったのを期に、新羅真
興王は美貌の男子へと司霊者を変えた。それを花郎と呼ぶが、このとき弥勒下生信仰を花郎道の団結の基礎とした。
花郎を弥勒に見たて指導者として彼に忠誠を誓わせることで、新羅国家が宗教的暴発をコントロールしようとした
のである。花郎は、太白山脈の高峰金剛山に登り遂穴(弥勒堂と言う)に入り修行したことも、山岳信仰を受け継
いでいることを想像させる。これらが対馬を経由して、秦王国に入ってきたのである。

 英彦山−救菩提山は九州の山岳信仰の聖山である。彦山伝承には天童・金銅童子が磐窟に天降り49の洞窟にこ
もったとあり花郎を思わせる。山岳信仰は花郎道と共に入ってきたようである。また、飛鳥朝廷に弥勒信仰が伝え
られる前から花郎道を介して秦王国には私的に弥勒信仰が伝えられた。これらと鬼道(道教)シャーマニズムが習
合したものが、豊国奇巫(トヨクニノクシキカンナギ)という呪医であった。中央に仏教が認知されてからは豊国
法師と呼ばれるようになるが、その中に法連がいた。彼は宇佐宮の神宮寺である弥勒禅寺の初代別当であったが、
英彦山で修行したので後に弥勒の化身と書かれた。すなわち花郎だったのだ。遠く越国(加賀)にも白山信仰があ
る。これも九州の白山信仰に由来するようである。
327マンセー名無しさん:04/07/12 19:29 ID:VwLITGe8
http://teri.2ch.net/korea/kako/972/972044366.htmlから抜粋引用
●『言泉』には、
「朝鮮新羅で、『花郎』と称せられる美貌の少年を朝とした青年団。台二十四代真興王(540−578年)
のとき設置、上層階級の青年の教育社交機関であり、宗教結社、騎士団であった。」とある。
(注)ことばのいずみ【ことばの泉】百科事彙を兼ねた国語辞書。五冊。落合直文編。一八九八〜九九年(明
治三一〜三二) 刊。ほかに補遺一冊、一九○八年刊。芳賀矢一が改修して「言泉」。
●三品彰英(『朝鮮古代研究 第1部新羅花郎の研究』『三品彰英論文集 新羅花郎の研究』)によれば、花郎
団の特徴は次のようなもの。
1.花郎集会は、歌舞遊娯を行う青年の社交クラブ風のものである。
2.この集会は、国家有事の際には国難に赴く青年戦士団であった。
3.そこはまた、青年にとって国家社会的教育を受けるところであった。
4.その上この集会は、花郎と呼ぶ特異な美少年を奉戴して集会を結成していた。
●鮎具房之進(『花郎考』)によれば、花郎と郎徒との関係は次のようなもの。
「花郎と郎徒とは互いに義兄弟の酌を為し、共に死を誓ひたるなり。故にその結束力強固にして向かふところ
敵無かりしなり。・・・是は尋常一様の義兄弟にあらざりしなり。その間に同性愛即ち男色が盛んに行はれ、
夫婦の関係の如く人倫的関係を生じ居たるものなり」
328マンセー名無しさん:04/07/12 19:30 ID:VwLITGe8
http://teri.2ch.net/korea/kako/972/972044366.htmlから抜粋引用(続き):

●韓国延世大柳東植(『朝鮮のシャーマニズム』)より、
『三国史記』によれば花郎集会は次のようにして起こりました。
「真興王三七年の春初めに源花を奉じた。最初に君臣は人才を知らないので、人々と群になって遊ぶようにし、
彼らの行動を見て登用しようとしうた。そして美しい二人の女子を選んだ。一人は南毛といい、もう一人を俊
貞といった。集めた人たち300余名ほどであったが、その中にあって二人は美しさを争い嫉妬して、俊貞が
南毛を自分の家に誘い、毒入りの酒を飲ませて酔わせ、川に投げ入れて殺害した。しかし事件は暴露され、俊
貞は死刑にされて、その群は失望し分散された。その後ふたたび美しい男子を選んできれいに丹粧し、これを
花郎といい、その群が雲のように集まった。彼らは互いに道義を錬磨して、あるいは歌楽を楽しみながら山水
を遠近にかかわらず遊覧した。これによって、人の正、不正を判断し、彼らの中で秀でた人物を選んで朝廷に
推薦した。」
「花郎組織、たんなる若者集会以上に宗教的集団であった。花郎道は、伝統的なシャーマニズムの上に成立し
た組織である。例えば、女性花郎の先行そのものがすでに宗教的伝統性を示している。古来神事は、優先的に
女性によって担当されていた。始祖祭を主祭した阿老などがそれである。おそらく、主祭者「天君」や「阿老」
の伝統につらなる存在が、女性花郎「源花」であろう。・・・神事には女性が優先していた。この伝統に従っ
て、花郎に選ばれた美男子はさらに装飾せしめられたと思われる。これは一種の女性化現象と見られるからで
ある。李朝時代にも男巫が盛んに女装する傾向があった。」