【歴史】「教科書になくても出題できる」

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206右翼討伐人 ◆PJBNbht6to
日本が中国大陸を侵略し、戦局が見込み違いに膠着してくると、兵士の招集で
労働人口が不足してくる。朝鮮人の強制連行はこれを補う目的で段階的に進められた。

 まず第1期は1939年(昭和14年)から1941年(昭和16年)までの大量採用期。この時期には
一応は「募集」という形式をとっていたが、実態は朝鮮総督府が割り当てた地域に
日本企業の募集人が出掛けて行き、募集を行なった。

募集の方法は、同じ募集地域で10人単位の班を構成するようにし、
日本語ができて指導力のある朝鮮人を班長にし、引率させる。
逃亡者が出ると班長の責任になるので、同郷の班長を裏切りにくい仕組になっていたらしい。

 この時期から、在日朝鮮人人口は急速に増加していく。
 太平洋戦争がはじまると、戦局の拡大によりさらに労働人口は不足し、
炭鉱をはじめとする労働不足を朝鮮人によって補う必要が高まってくる。
1942年(昭和17年)になると、「朝鮮職業紹介令」が公布され、「朝鮮労務協会」が設立されて官に
よる斡旋が行われるようになる。同時に石炭統制会が募集地域割当ての事務を代行し、
「朝鮮労務協会」と連携して事業主の希望する募集地域、割当人員、供出(!)日程などを
朝鮮当局と折衝した。官主導による本格的な強制連行の開始である。

 さらに1944年(昭和19年)になると、朝鮮においても「徴用令」が適用され、
名実ともに強制連行の形態をそなえることとなる。

 徴用は強制で拒否できるものではない。村に割り当てが来るので、
行かざるをえない。長男が徴用されると農業を継げなくなるので、
次男や三男が身代わりになる例も多かったらしい。逃走すると、
地元の駐在所へ連絡が入り、配給が止められたり、兄弟たちは解雇や退学となったりしたという。
これでは逃走もできない。

 日本の敗戦時、こうして強制・半強制的に連行された人を
含めた在日朝鮮人は200万人を超えていた。